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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
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- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
1-26-12 世子尚寧の、皇帝と皇太子への慶賀謝恩のため王舅毛継祖等を遣わす符文(一六〇二、九、□)
琉球国中山王世子尚(寧)、慶賀、謝恩等の事の為にす。
今、特に王舅毛継祖を遣わし、長史蔡朝信等と同に、表箋各一通を齎捧せしむ。小船一隻に坐駕し、全光金靶鞘腰刀二把・金結束紅漆鞘金起沙魚皮靶腰刀二把・細嫩蕉布二十匹・黄土夏布二百匹・紅花二百斤を装載して京に赴き進賀す。又、全光銀靶鞘腰刀二把・銀結束紅漆鞘靶銀起沙魚皮腰刀二把・線穿鉄甲二領、盔全・細嫩練光蕉布二十匹・水墨画土扇二百把は正位東宮に進賀す。又、鍍金銅結束紅漆鞘靶腰刀二把・鍍金銅結束黒漆鞘靶腰刀二把・鍍金銅結束黒漆貼金鞘黒漆靶衮刀四把・鍍金銅結束黒漆貼金鞘黒漆靶鎗六柄・土白紙一百束・土夏布二百匹もて京に赴き謝恩す。所拠りて今齎捧する方物は、仍お礼部に赴き告申して進収せしむる外、今、洪字第二十七号半印勘合符文を給し、通事梁基等に付し、収執して前去せしむ。如し沿途の経過の各該地方の関津把隘の去処及び駅逓・巡司等の衙門の官吏は、往廻して彼に到るに遇わば、即便に放行し、留難して遅悞するを得しむる毋れ。須らく出給に至るべき者なり。
今開す 赴京の
王舅一員 毛継祖 人伴一十名
長史一員 蔡朝信 人伴一十名
使者一員 馬成竜 人伴五名
通事一員 梁基 人伴二名
存留在船通事二員 蔡崇貴 王立威 人伴四名
管船火長・直庫二名 蔡徳 嘉尼
右の符文は通事梁基等に付し、此れに准ぜしむ
万暦三十年(一六〇二)九月 日給す
符文
注*『明実録』万暦三十二年正月己未の条に関連の記事がある。なお、本文書以降の符文には、火長・直庫名が付記される。
(1)蔡崇貴 久米村蔡氏(平川家)の初代。福州西門外の人。琉球への帰化は嘉靖年間(嘉徳堂規模帳)(『市史宝案抄』二七八頁)。
(2)直庫 管船直庫ともいう。中国および東南アジアへの遣船の乗員の職名の一つ。久米村系ではない人を任じた。中国船における直庫の職掌については、万暦四十五年頃刊の張燮『東西洋考』巻九、舟師考に「其司戦具者、為直庫」とあり、徐葆光『中山伝信録』巻一、封舟に「正副値庫二人、主大帆挿花、天妃大神旗、又主装載」とある。松浦章「長崎来航唐船の経営構造について」(『史泉』四五、昭和四七年九月)は、『瓊浦偶筆』に「値庫、主装載物件」とあり、『唐船蘭船長崎入船便覧』に「直庫太鼓役」とあり、『赤嵌筆談』に「擇庫一名清理船艙」とあることを紹介している。
日本では『戊子入明記』に、応仁二年(一四六八)の遣明船三隻中の一号船に「知庫」三郎太郎の記名がある(小葉田淳『中世日支通交貿易史の研究』刀江書院、昭和四四年復刊、二一四・二二七頁)。
琉球国における直庫の職掌は未詳である。
(3) 日 執照〔三二-一一〕によれば、初四日。
琉球国中山王世子尚(寧)、慶賀、謝恩等の事の為にす。
今、特に王舅毛継祖を遣わし、長史蔡朝信等と同に、表箋各一通を齎捧せしむ。小船一隻に坐駕し、全光金靶鞘腰刀二把・金結束紅漆鞘金起沙魚皮靶腰刀二把・細嫩蕉布二十匹・黄土夏布二百匹・紅花二百斤を装載して京に赴き進賀す。又、全光銀靶鞘腰刀二把・銀結束紅漆鞘靶銀起沙魚皮腰刀二把・線穿鉄甲二領、盔全・細嫩練光蕉布二十匹・水墨画土扇二百把は正位東宮に進賀す。又、鍍金銅結束紅漆鞘靶腰刀二把・鍍金銅結束黒漆鞘靶腰刀二把・鍍金銅結束黒漆貼金鞘黒漆靶衮刀四把・鍍金銅結束黒漆貼金鞘黒漆靶鎗六柄・土白紙一百束・土夏布二百匹もて京に赴き謝恩す。所拠りて今齎捧する方物は、仍お礼部に赴き告申して進収せしむる外、今、洪字第二十七号半印勘合符文を給し、通事梁基等に付し、収執して前去せしむ。如し沿途の経過の各該地方の関津把隘の去処及び駅逓・巡司等の衙門の官吏は、往廻して彼に到るに遇わば、即便に放行し、留難して遅悞するを得しむる毋れ。須らく出給に至るべき者なり。
今開す 赴京の
王舅一員 毛継祖 人伴一十名
長史一員 蔡朝信 人伴一十名
使者一員 馬成竜 人伴五名
通事一員 梁基 人伴二名
存留在船通事二員 蔡崇貴 王立威 人伴四名
管船火長・直庫二名 蔡徳 嘉尼
右の符文は通事梁基等に付し、此れに准ぜしむ
万暦三十年(一六〇二)九月 日給す
符文
注*『明実録』万暦三十二年正月己未の条に関連の記事がある。なお、本文書以降の符文には、火長・直庫名が付記される。
(1)蔡崇貴 久米村蔡氏(平川家)の初代。福州西門外の人。琉球への帰化は嘉靖年間(嘉徳堂規模帳)(『市史宝案抄』二七八頁)。
(2)直庫 管船直庫ともいう。中国および東南アジアへの遣船の乗員の職名の一つ。久米村系ではない人を任じた。中国船における直庫の職掌については、万暦四十五年頃刊の張燮『東西洋考』巻九、舟師考に「其司戦具者、為直庫」とあり、徐葆光『中山伝信録』巻一、封舟に「正副値庫二人、主大帆挿花、天妃大神旗、又主装載」とある。松浦章「長崎来航唐船の経営構造について」(『史泉』四五、昭和四七年九月)は、『瓊浦偶筆』に「値庫、主装載物件」とあり、『唐船蘭船長崎入船便覧』に「直庫太鼓役」とあり、『赤嵌筆談』に「擇庫一名清理船艙」とあることを紹介している。
日本では『戊子入明記』に、応仁二年(一四六八)の遣明船三隻中の一号船に「知庫」三郎太郎の記名がある(小葉田淳『中世日支通交貿易史の研究』刀江書院、昭和四四年復刊、二一四・二二七頁)。
琉球国における直庫の職掌は未詳である。
(3) 日 執照〔三二-一一〕によれば、初四日。