琉球王国交流史・近代沖縄史料デジタルアーカイブ

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資料詳細

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1-25-17 世子尚清の、進貢のため長史蔡瀚等を遣わす符文(一五二九、八、一五)
琉球国中山王世子尚清、進貢等の事の為にす。
今、特に長史蔡瀚・使者馬吾剌等を遣わし、表文一通を齎捧せしむ。天字号小船一隻に坐駕して馬二匹・硫黄五千斤、通事林盛の船内に、馬二匹・硫黄五千斤を附送し、共に一万斤・馬四匹を装載し、京に赴き進貢し、仍お礼部に赴き告稟して進収せしむる外、茲の諭遣を承くれば、途に在りて遅滞して便ならざるを得しむる毋れ。所有の符文は須らく出給に至るべき者なり。
今開す 赴京の
長史一員 蔡瀚
使者一員 馬吾剌
都通事一員 梁椿
人伴十八名
存留在船副使一員 馬読古 従人二名
存留在船通事一員 陳賦 従人二名
国王世子附搭の番錫一千斤・倭銅一千斤
嘉靖八年(一五二九)八月十五日
右の符文は長史蔡瀚・通事梁椿等に付し、此れに准ぜしむ
進貢等の/事の為にす 符文

注*この進貢については『明実録』嘉靖九年三月甲辰の条に記事がある。なお、本文書以降の符文には福建に存留する使者・通事の名と人伴数も記されるようになる。
(1)存留在船副使 存留在船使者(〔二五-一八〕注(2))に同じか。
(2)存留在船通事 『歴代宝案』第一集では明代全般および清の康煕二年までの執照(符文は嘉靖以降、康煕二年まで)に記載がみられる。進貢船で福建に渡り、赴京せず、その船で帰国する通事を、同行の赴京する通事と区別するための呼称。接回や探問など赴京要員のない渡航では、船と共に帰る通事も単に通事と呼ぶ。久米村系の人を任じ、通常一船に一人を置く。まれに存留在船都通事をもってする。初期には人伴を持たず、嘉靖年間より多くの場合二人の人伴を持つ。存留在船通事は乗船した船の執照をあずかった。清の康煕三年以降、その名称は在船(都)通事(〔二七-〇三〕注(3)、〔二七-〇六〕注(2)参照)となる。
(3)陳賦 生没年不詳。久米村陳氏(仲本家)五世。通事・都通事・正議大夫として渡明は七回に及んだ(『家譜(二)』四八八頁)。
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