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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
- {{ryu_data.f13}}年 {{ryu_data.f14}}月 {{ryu_data.f15}}日
- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
1-17-15 国王尚徳より礼部あて、進香と即位慶賀の進貢の事、長史蔡璟の子の閩県入籍を請う事の咨(一四六四、八、九)
琉球国中山王尚徳、慶賀等の事の為にす。
今、各件の事理を将て合行に移咨すべし。照験して施行するを請う。須らく咨に至るべき者なり。
計三件
一件、喪礼の事。近ごろ王舅王察都・長史梁賓等を差わして謝恩せしむるに、回還して告称すらく、大行皇帝賓天す、と。恭聞して哀慟に勝えず。就ち属に行し、旧制に照依して已に喪礼を行わしむるの外、謹んで束香一炷、計るに重さ七十五斤を備え、使者明査度・通事馬俊等を差わして慶賀の船隻に附搭し、齎捧して前来し恭しく詣りて拝進し、及び臣子の哀痛の至誠を尽くさしむ。咨して施行を請う。
一件、慶賀の事。天順八年(一四六四)七月二十七日、王舅王察都・長史梁賓等、欽んで勅書を齎捧し、国に到るを蒙る。開読するに、皇帝天位に嗣登す、とあり。此れを欽む。欽遵するを除くの外、今、特に王弟尚武、長史蔡璟等を遣わし、表文一通を齎捧し、海船三隻を管駕し、金結束金竜紋起花靶洒金漆鞘金竜紋腰刀一把・鍍金銀竜結束起花靶洒金漆鞘金竜紋腰刀二把・銀結束光花竜紋銀靶黒漆鞘銀竜紋腰刀一把・鍍金銅包靶鞘鍍金銅竜結束腰刀二把・鍍金銅結束線匝靶螺鈿鞘腰刀一十把・貼金銅結束皮匝靶紅漆鞘腰刀一十把・鍍金銅結束紅漆螺鈿靶鞘衮刀一十把・鍍金銅結束紅漆靶鞘衮刀一十把・鍍金銅結束綵線褊絛穿束鍍金銅甲一領、事件全・鍍金銅結束綵線褊絛穿束黒漆皮甲二領、事件全・馬四十五匹・硫黄六万斤を装載して、京に赴き慶賀せしむ。咨して施行を請う。
一件、戸口の事。本国の長史蔡璟、告称すらく、伊の父実達魯は、永楽年間、身、通事に膺り屢々朝貢を承る。福建福州府閩県高恵里に在りて母梁氏を聘り、就ち当地の民人范祖生の房屋二間を買い、永楽年間に男一口と母を帯して完聚し、長楽県に入籍し、陳告す。礼部具題して、完聚し差役を優免して住坐するを欽准す。厥後、父故す。神主は房内に安慰し、兄母は奉祀して絶やさず。景泰四年(一四五三)に至り、母兄共に故す。遺下れる房屋は久しく空にして損壊するも人の修理する無く、神主は祀を失う。今、璟、慶賀に差わすを蒙る。男一口蔡光を将て、正統四年(一四三九)長史梁求保の奏准の事理に照らし、男をして閩県に入籍し、差役を優免せしめんと欲す、と。具に福州府、永楽十四年(一四一六)礼部具題して奏し、伊の父実達魯の、男を将て入籍して彼に在らしむるを欽准するを査得す。咨文にて照会して国に到る。事理是れ実なり。合行に移咨すべし。煩為わくは題奏して施行せんことを。
右、礼部に咨す
天順八年(一四六四)八月初九日
慶賀の事
恭字一号 控之羅麻魯船 王弟尚武は一号に坐す 通事蔡曦 存留梁徳
安字二号 呉羅麻魯船 長史蔡璟は二号に坐す 通事林茂 存留鄭傑
徳字三号 徳固之麻魯船 通事梁信 進香の通事馬俊順搭す
注(1)王舅王察都…謝恩せしむ 〔一二-一八〕参照。
(2)大行皇帝賓天す 英宗天順帝の死去。天順八年正月庚午。
(3)皇帝天位に嗣登す 憲宗成化帝の即位。天順八年正月乙亥。
(4)王弟尚武 『世譜』尚泰久王に「有数男、第三子曰尚徳、次曰尚武、其余不伝」とある。尚武のこの時の入朝は『明実録』成化元年(一四六五)三月丁卯の条に記事がある。
(5)蔡璟 家譜(『家譜(二)』二三五-二四八頁)によると、生没年は一四二六-八六年。久米村蔡氏(儀間家)の三世。父蔡譲、母武美度の長男で、弟に璋・璇・珦、女きょうだい亜佳度がある。子は宝・賓・実とあり、光の名はない。『明実録』に成化三(一四六七)・五・七年、長史として入朝の記事があり、成化五年三月壬辰の条に「長史蔡璟、以其祖本福建南安県人、洪武初、奉命於琉球国、導引進貢、授通事、父襲通事、伝至璟、陞長史、…」とある。また『李朝実録』に世祖七年(一四六一)琉球国の副使として朝鮮に至った記録がある。家譜は蔡氏の元祖蔡崇を福建泉州府南安県の人で、洪武二十五年(一三九二)撥与の閩人三十六姓の一とする。また、『明実録』嘉靖二十六年(一五四七)十二月辛亥の条に、蔡氏の六世蔡廷会の起こした事件に関し「其先閩人蔡璟、永楽中撥往琉球国充梢水、而産籍在閩…」の記述があり、この事件の時まで福建に籍があった可能性が強い。
(6)匝靶 刀のつかに紐などを巻きつけること。
(7)戸口の事 本件は、蔡璟が福建のいわゆる絶戸の戸籍に自分の子と称する蔡光なる者を入籍しようとした事に関わる。当時中国ではこのような戸籍の操作は珍しいことではなく、本文書の表面的な記述から実達魯を蔡璟の父と断定することには問題がある。蔡璟の申し立てからすれば、実達魯は蔡姓の中国人であり、ここに唐名をあげていないのは不可解であり、あるいは別家の絶戸の戸籍に自分の縁故者を入籍するための方便であった可能性がある。本件は、当時琉球にあった福建出身者達が、故郷と深いつながりを保っており、かつ将来にわたってそれを維持しようと努めていたことを示している。
(8)伊の父 家譜で蔡璟の父とされる蔡譲は一三九九-一四六三年で童名は記されない。本文書の記述によれば、実達魯の死亡は一四五三年以前であり、蔡譲の死亡年と相違する。一方、家譜のこの世代前後の記述に特に疑問とされる点は認められない。なお蔡譲については〔一六-二一〕参照。
(9)実達魯 『歴代宝案』の他の項に記載の実達魯は、洪煕元年(一四二五)の明への使者(〔〇四-〇一〕〔一六-〇一〕〔一六-〇二〕〔一六-〇七〕・『明実録』宣徳元年三月乙卯・四月己巳条)、宣徳三年(一四二八)の暹羅への正使〔四〇-〇四〕、旧港への正使(〔四〇-〇六〕〔四二-〇一〕〔四三-〇四〕)をつとめている。又、中国への使者や、東南アジアへの正使に任ずるのは通例は久米村系ではない。本文書の実達魯とは別人と考えられる。
(10)完聚 離れていた家族が一個所に集まること。
(11)神主 位牌。
(12)蔡曦 『明実録』成化二十二年(一四八六)四月辛巳にも入貢の記事がある。
(13)林茂 久米村林氏(名嘉山家)の二世、生没年不詳(『家譜(二)』九一八頁)。
(14)梁信 久米村梁氏。呉江梁氏家譜に名のみ記されている(『家譜(二)』七五五頁)。
琉球国中山王尚徳、慶賀等の事の為にす。
今、各件の事理を将て合行に移咨すべし。照験して施行するを請う。須らく咨に至るべき者なり。
計三件
一件、喪礼の事。近ごろ王舅王察都・長史梁賓等を差わして謝恩せしむるに、回還して告称すらく、大行皇帝賓天す、と。恭聞して哀慟に勝えず。就ち属に行し、旧制に照依して已に喪礼を行わしむるの外、謹んで束香一炷、計るに重さ七十五斤を備え、使者明査度・通事馬俊等を差わして慶賀の船隻に附搭し、齎捧して前来し恭しく詣りて拝進し、及び臣子の哀痛の至誠を尽くさしむ。咨して施行を請う。
一件、慶賀の事。天順八年(一四六四)七月二十七日、王舅王察都・長史梁賓等、欽んで勅書を齎捧し、国に到るを蒙る。開読するに、皇帝天位に嗣登す、とあり。此れを欽む。欽遵するを除くの外、今、特に王弟尚武、長史蔡璟等を遣わし、表文一通を齎捧し、海船三隻を管駕し、金結束金竜紋起花靶洒金漆鞘金竜紋腰刀一把・鍍金銀竜結束起花靶洒金漆鞘金竜紋腰刀二把・銀結束光花竜紋銀靶黒漆鞘銀竜紋腰刀一把・鍍金銅包靶鞘鍍金銅竜結束腰刀二把・鍍金銅結束線匝靶螺鈿鞘腰刀一十把・貼金銅結束皮匝靶紅漆鞘腰刀一十把・鍍金銅結束紅漆螺鈿靶鞘衮刀一十把・鍍金銅結束紅漆靶鞘衮刀一十把・鍍金銅結束綵線褊絛穿束鍍金銅甲一領、事件全・鍍金銅結束綵線褊絛穿束黒漆皮甲二領、事件全・馬四十五匹・硫黄六万斤を装載して、京に赴き慶賀せしむ。咨して施行を請う。
一件、戸口の事。本国の長史蔡璟、告称すらく、伊の父実達魯は、永楽年間、身、通事に膺り屢々朝貢を承る。福建福州府閩県高恵里に在りて母梁氏を聘り、就ち当地の民人范祖生の房屋二間を買い、永楽年間に男一口と母を帯して完聚し、長楽県に入籍し、陳告す。礼部具題して、完聚し差役を優免して住坐するを欽准す。厥後、父故す。神主は房内に安慰し、兄母は奉祀して絶やさず。景泰四年(一四五三)に至り、母兄共に故す。遺下れる房屋は久しく空にして損壊するも人の修理する無く、神主は祀を失う。今、璟、慶賀に差わすを蒙る。男一口蔡光を将て、正統四年(一四三九)長史梁求保の奏准の事理に照らし、男をして閩県に入籍し、差役を優免せしめんと欲す、と。具に福州府、永楽十四年(一四一六)礼部具題して奏し、伊の父実達魯の、男を将て入籍して彼に在らしむるを欽准するを査得す。咨文にて照会して国に到る。事理是れ実なり。合行に移咨すべし。煩為わくは題奏して施行せんことを。
右、礼部に咨す
天順八年(一四六四)八月初九日
慶賀の事
恭字一号 控之羅麻魯船 王弟尚武は一号に坐す 通事蔡曦 存留梁徳
安字二号 呉羅麻魯船 長史蔡璟は二号に坐す 通事林茂 存留鄭傑
徳字三号 徳固之麻魯船 通事梁信 進香の通事馬俊順搭す
注(1)王舅王察都…謝恩せしむ 〔一二-一八〕参照。
(2)大行皇帝賓天す 英宗天順帝の死去。天順八年正月庚午。
(3)皇帝天位に嗣登す 憲宗成化帝の即位。天順八年正月乙亥。
(4)王弟尚武 『世譜』尚泰久王に「有数男、第三子曰尚徳、次曰尚武、其余不伝」とある。尚武のこの時の入朝は『明実録』成化元年(一四六五)三月丁卯の条に記事がある。
(5)蔡璟 家譜(『家譜(二)』二三五-二四八頁)によると、生没年は一四二六-八六年。久米村蔡氏(儀間家)の三世。父蔡譲、母武美度の長男で、弟に璋・璇・珦、女きょうだい亜佳度がある。子は宝・賓・実とあり、光の名はない。『明実録』に成化三(一四六七)・五・七年、長史として入朝の記事があり、成化五年三月壬辰の条に「長史蔡璟、以其祖本福建南安県人、洪武初、奉命於琉球国、導引進貢、授通事、父襲通事、伝至璟、陞長史、…」とある。また『李朝実録』に世祖七年(一四六一)琉球国の副使として朝鮮に至った記録がある。家譜は蔡氏の元祖蔡崇を福建泉州府南安県の人で、洪武二十五年(一三九二)撥与の閩人三十六姓の一とする。また、『明実録』嘉靖二十六年(一五四七)十二月辛亥の条に、蔡氏の六世蔡廷会の起こした事件に関し「其先閩人蔡璟、永楽中撥往琉球国充梢水、而産籍在閩…」の記述があり、この事件の時まで福建に籍があった可能性が強い。
(6)匝靶 刀のつかに紐などを巻きつけること。
(7)戸口の事 本件は、蔡璟が福建のいわゆる絶戸の戸籍に自分の子と称する蔡光なる者を入籍しようとした事に関わる。当時中国ではこのような戸籍の操作は珍しいことではなく、本文書の表面的な記述から実達魯を蔡璟の父と断定することには問題がある。蔡璟の申し立てからすれば、実達魯は蔡姓の中国人であり、ここに唐名をあげていないのは不可解であり、あるいは別家の絶戸の戸籍に自分の縁故者を入籍するための方便であった可能性がある。本件は、当時琉球にあった福建出身者達が、故郷と深いつながりを保っており、かつ将来にわたってそれを維持しようと努めていたことを示している。
(8)伊の父 家譜で蔡璟の父とされる蔡譲は一三九九-一四六三年で童名は記されない。本文書の記述によれば、実達魯の死亡は一四五三年以前であり、蔡譲の死亡年と相違する。一方、家譜のこの世代前後の記述に特に疑問とされる点は認められない。なお蔡譲については〔一六-二一〕参照。
(9)実達魯 『歴代宝案』の他の項に記載の実達魯は、洪煕元年(一四二五)の明への使者(〔〇四-〇一〕〔一六-〇一〕〔一六-〇二〕〔一六-〇七〕・『明実録』宣徳元年三月乙卯・四月己巳条)、宣徳三年(一四二八)の暹羅への正使〔四〇-〇四〕、旧港への正使(〔四〇-〇六〕〔四二-〇一〕〔四三-〇四〕)をつとめている。又、中国への使者や、東南アジアへの正使に任ずるのは通例は久米村系ではない。本文書の実達魯とは別人と考えられる。
(10)完聚 離れていた家族が一個所に集まること。
(11)神主 位牌。
(12)蔡曦 『明実録』成化二十二年(一四八六)四月辛巳にも入貢の記事がある。
(13)林茂 久米村林氏(名嘉山家)の二世、生没年不詳(『家譜(二)』九一八頁)。
(14)梁信 久米村梁氏。呉江梁氏家譜に名のみ記されている(『家譜(二)』七五五頁)。