琉球王国交流史・近代沖縄史料デジタルアーカイブ

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資料詳細

資料ID.
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資料名
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1-16-01 国王尚巴志より礼部あて、永楽帝への進香の事、冊封と先王への賜祭に対する謝恩の進貢の事の咨と目録(一四二五、閏七、一七)
琉球国中山王、謝恩等の事の為にす。
今、各件の合に行うべき事理を将て開坐し移咨す。施行せよ。須らく咨に至るべき者なり。
計
一件、喪礼の事。洪煕元年(一四二五)六月十七日、欽差の行人司行人陳資茂、勅諭を齎捧して国に到る。開読するに、大行皇帝、賓天す、とあり。此れを欽む。欽遵して山南王の処に転行し、一体に開読するを除くの外、今、長史鄭義才等を遣わし、香五十斤を齎捧し、来船に就附して、京に赴き進香せしむ。咨して施行を請う。須らく咨に至るべき者なり。
一件、謝恩の事。洪煕元年六月二十七日、欽差の内官柴山・行人司行人周彝、勅諭を齎捧して王爵を襲封し、紗帽・束帯・衣服・礼物を頒賜し、并びに先父王思紹を諭祭す。此れを欽む。欽遵して受領するを除くの外、理として合に通行すべし。今、使者実達魯等を遣わし、表箋文各一通を齎捧し、金結束等様の、長短斉しからざる刀・各色の紙扇・屛風・硫黄・螺殻を管送し、随いで京に赴き謝恩せしむ。咨して施行を請う。須らく咨に至るべき者なり。
今開す
金包鞘刀二把
一把は帯鞘の長さ二尺一寸五分
一把は帯鞘の長さ二尺、刀靶の露木一寸
金結束鞘刀二把
一把は帯鞘の長さ一尺九寸五分
一把は帯鞘の長さ一尺七寸五分
金結束長刀二把
一把は帯鞘の長さ四尺七寸五分
一把は黒漆鞘連の長さ三尺七寸五分
金帯銅結束鞘刀二把
一把は帯鞘の長さ三尺一寸
一把は帯鞘の長さ二尺九寸五分
漆鞘衮刀四把、内、長短斉しからず
長刀三把、内、長短斉しからず
黒漆鞘腰刀六十把、各々長短等しからず
通計、金結束等様の長短等しからず
五等各色摺紙扇四百把
屛風二対、内
金箔紙屛風一対
銀箔紙屛風一対
硫黄四万斤少、今報ず二万斤正
螺殻八千五百三十三個、今報ず八千個
右、礼部に咨す
洪煕元年(一四二五)閏七月十七日
謝恩等の事
咨

注(1)計 数えあげる。また合計、あるいは計開、計件と同意で用いることがある。
(2)勅諭〔〇一-〇二〕。
(3)大行皇帝、賓天す 永楽二十二年七月辛卯、永楽帝が逝去した。
(4)山南王の処 当時の山南王は他魯毎。山南王の居城については、南山城跡(糸満市)説、大里城跡(大里村)説、その他があり特定しないが、その勢力圏は沖縄本島南部である。安里進『考古学からみた琉球史・上』(ひるぎ社、一九九〇年)は、出土土器の胎土の分類から山南王国の領域を論じている。
(5)山南王の処に転行し、一体に開読 琉球国の三山の事実上の統一の時期を永楽二十年(一四二二)とする和田久徳「琉球国の三山統一についての新考察」(『お茶の水女子大学人文科学紀要』二八、昭和五十年)は、山南は永楽元年頃から中山に従属的な形で存続したとするが、その傍証の一つが、この中山王から山南王への詔書の転行である。
(6)鄭義才 久米村鄭氏家譜の序に、福建省長楽県の出身で、洪武二十五年(一三九二)に三十六姓の一人として中山に至ったと記され(『家譜(二)』五七一頁)、『明実録』に永楽十四・二十二・宣徳元・三年の四回、入貢した記録がある。宣徳元年四月甲戌の条には、長陵(永楽帝陵)に進香した記事がある。
(7)京 洪煕元年三月から正統六年十月末までは南京が京師(首都)であった。
(8)勅諭 冊封の勅諭〔〇一-〇五〕、頒賜の目録〔〇一-〇六〕、諭祭文〔〇一-〇四〕。
(9)実達魯 この時の入貢について『明実録』宣徳元年三月乙卯・四月己巳の条に記事がある。この後、宣徳三年(一四二八)に旧港へ正使として赴いた時の書〔四三-〇四〕と執照〔四二-〇一〕には「本国頭目」とある。実達魯については〔一七-一五〕参照。
(10)表箋文 謝恩の箋文は〔一二-〇五〕。
(11)帯鞘の長さ 鞘と共の長さ。
(12)通計 以下に通計の数を脱か。
(13)少 小と記す場合もある。…弱、…ばかり、の意で、数量の概数を示す語。
(14)今報ず、二万斤正 硫黄は明の崇禎末まで琉球は生硫黄を持参し、中国側が煎熟した(〔二〇-〇六〕参照)。今報ず、は官報(〔一六-二〇〕注(5)参照)に同じで、正式に報告する数量としては、煎熟すれば二万斤ちょうどになる、の意であろう。
(15)正 整の略字で、数字のあとにつけてその額に過不足のないことを示す。大、正大、大正などと記す場合もある。額に十分である、の意味か。
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