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資料詳細
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
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- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
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- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
1-04-05 礼部より国王尚寧あて、福建人阮国・毛国鼎の琉球移籍の許可を知らせる咨(一六〇七、一二、一三)
礼部、旧典を査循して藩封を培うを懇う事の為にす。
該本部題す。主客清吏司の案呈は、本部の送れる礼科の抄出を奉ずるものなり。琉球国中山王尚寧の奏称するに、縄の断れたるは当に続ぐべく、国の虚なるは当に培うべし。琉球は旧、朔を奉ずるの初めより、洪武・永楽の間、両つながら聖祖の隆恩を蒙り、共に閩人三十六姓の入国するを賜わる。書を知る者は名を列して大夫・長史とし以て貢謝の司と為し、海に慣れたる者は任ずるに通事・総管を以てし、以て指南の備えと為す。蓋し才に因りて職を効して累世承休す。謂わざるも世久しくして代更り人湮び裔尽きて、僅かに六姓を余すも仍お侏𠌯椎髻の習に染まる。天朝の文字・音語は尽く盲昧を行い、外島海洋の針路は常に舛迷するに至る。文移は多く駁問せらるるに至り舟楫は多く漂没するを致す。甚だしきは貢期欠誤し儀物差訛するに至りて万里の螻誠少しく君父に達するを得ざるなり。是れより先、万暦二十二年(一五九四)、臣、菊寿等を差わして進貢せしむるに、途に迷いて浙に入り官兵の擒獲し屈斃するを被る。邀功せるの余に審せば卑国の貢使に係わる。解るに福建撫臣金学曾、漳人阮国を選差し護送し回国せしむるを蒙る。二十八年(一六〇〇)臣復た長史蔡奎を差わし表を齎して請封せしむるに、奎、帰路を失いて呈して福建衙門に請うに、仍お阮国并びに漳人毛国鼎を遣わして卑国に送回せしむ。臣、天恩を感戴して言の喩う可き無し。続いて人の天使を導接するを乏しくするに因り、阮国を随差せしめ給するに都通事の色目を以てす。渡海、迎護に屢々勤労著らかにして、事竣るを以て彼をして本国の大夫に列銜せしめ、天使を差送して閩に還らしむ。毛国鼎は給するに都通事を以てし、差わして王舅毛鳳儀・正議大夫鄭道と同に奏謝を齎捧せしむ。窃かに惟うに、卑国は海邦に僻処すれば、入貢・受封の後より一切の輔導・礼儀は悉く原賜わる三十六姓の裔に頼る。今、世更り代謝して遂に孤国支えざるに至る。一撮の琉球重きを為すに足る無しと雖も、而れども聖祖の隆恩・茂典の当に続くべきを猶お冀う。理として合に懇請すべし。伏して乞う、勅して礼部に下して洪・永年間の恩例を査照し、再び三十六姓を撥して球に入るるを賜わり、仍お効労の差役院国・毛国鼎を将て各々色目に照見し、給するに照身を以てし、其れをして跟随し帰舟を導引せしめんことを。積労有るを俟ちて琉球の藩佐に准照し、一体に陞叙せしむれば、国に在りては佐理の需め有り、入貢しては愆危の患い無きに庶からん。皇仁永く戴き祖沢疆り無く、臣の子孫世々東藩を守り余幸有らん、等の因あり。部に到れば司に送る。
査得するに、洪武二十五年(一三九二)中山王、子を遣わして国学に入らしめ、其の国往来朝貢するを以て、閩人三十六姓の善く舟を操る者を賜う。其の後、表を奉る大夫・長史・通事の官司は皆三十六姓及び国学に学ぶ者、之を為す。但だ、事は開国に在り、経に久しく未だ挙行するを見ず。人は世々相伝するに諸姓何ぞ皆代謝せるや。良民は必ずや行くを楽しまざれば、奸徒或いは攛入するに至らん。俯従し難きに似たり。相応に題覆すべし。案呈して部に到る。
看得するに、琉球国王は中華を嚮慕して職貢を勤修し、華族を陳請して以て指南と作さんとす。旧典は査す可く、応に俯順すべきに似たり。但だ善良の族は其の郷を去るを重しとし、中国に強いて以て外夷に就かしめんと欲するは、必ずや民情の楽しみて従う所の者に非ず。若し沿海の奸民、投入するを営謀らば、始めは貨売の利を貪り漸く交搆の端を啓かん。事情は測り叵きも亦た或いは之有らん。況んや開国の特恩にして原子を遣わして入学を為さしむるも、此の典、久しく曠しくして安くんぞ此の例の続行するを得んや。且つ天朝乍かに遣わすも未だ必ずしも俛して約束を受けず、反って此れを以て該国の処分を累わすも未だ知る可からざるなり。宜しく相い安んじて無事とすべく、必ずしも其の請に曲徇せざるに似たり。其れ効労の差役阮国・毛国鼎は、原本差を奉ずるに、何ぞ乃ち他国に逗遛せるや。既に夷目に充つれば中国の照身を給し難し。姑く国王の奏を念いて討するも相応に便に従い酌処すべし。恭しく命の下るを候ちて合無に該巡撫衙門并びに琉球国王に移咨すべし。阮国・毛国鼎を将て即ち賜姓に充て、其れをして貢謝に跟随し帰舟を導引せしむる以外、必ずしも再び遣発を行いて以て煩擾を滋くせず、等の因あり。
万暦三十五年(一六〇七)九月十五日、本部署部事左侍郎兼翰林院侍読学士楊(道賓)等具題し、二十八日、聖旨を奉ずるに、是なり、とあり。此れを欽む。欽遵して為照するに、三十六姓の請は相応に、題奉せる欽依内の事理に照依して、必ずしも続行せざるべし。其れ阮国・毛国鼎は該国に発著して朝貢を導引するの助に充て、其の原籍の差徭は已経に福建巡撫衙門に移咨して豁免して去後る。擬するに合に行文して知会すべし。此の為に合に貴国に咨すべし。煩為わくは本部の題奉せる欽依の咨文内の事理を査照し、欽遵して施行せんことを。須らく咨に至るべき者なり。
右 琉球国王に咨す
万暦三十五年(一六〇七)十二月十三日 再対して之を正す
咨
注*『明実録』万暦三十五年九月己亥の条に、本文書に関連する記事がある。
(1)査循 調べてその結果に従う。
(2)該本部題す 礼部の題は、「主客清吏司の」より注(40)まで。
(3)奏称するに 琉球国王の奏は「縄の」から注(30)まで。
(4)閩人三十六姓 十四~十五世紀、進貢の初期、沖縄に移住した中国人の総称。その渡来については『東恩納寛惇全集』巻二「三十六姓移民の渡来」をはじめとし多くの研究があるが、史料と研究史を整理してある最近の論文として、田名真之「古琉球の久米村」(『新琉球史-古琉球編-』一九九一年)を参照。
(5)総管 進貢船の船員役名。貢船に奉安されている天妃をまつり、あわせて船員の仕事、水梢を総理する役。
(6)承休 喜び、吉事を承ける。
(7)六姓 夏子陽・王士楨撰『使琉球録』下に「今諸姓凋謝、僅存蔡・鄭・林・程・梁・金六家」とある。
(8)侏𠌯 侏離に同じ。西戎の音楽。転じて夷の言語をいう。
(9)椎髻 髷の一種。南越の俗であることから、異国風の習俗の意。
(10)舛迷 まちがって迷う。
(11)文移 公文書。
(12)駁問 反駁され問われる。
(13)差訛 あやまり。
(14)螻誠 螻は、けら(虫の名)。小さな誠の意。
(15)邀功 勲功をもとめる。
(16)金学曾 万暦二十三年から二十八年まで福建巡撫。
(17)阮国 一五六六-一六四〇年。もと漳州府竜溪県の人。久米村阮氏の始祖(『家譜(二)』一五二-三及び一五五頁)。
(18)帰路を失いて… この事件は『明実録』万暦二十九年十一月己酉の記事のことであろう。
(19)毛国鼎 一五七一-一六四三年。もと漳州府竜溪県の人。久米村毛氏の始祖。のち正議大夫となる(『家譜(二)』七〇八頁、『大百科』)。
(20)色目 ここでは職目の意。
(21)列銜 銜は待遇。位につらねるの意。
(22)一撮 ひとつまみ。
(23)洪・永年間の恩例 いわゆる三十六姓の下賜について、沖縄側の史料は『世鑑』の記述を受けて洪武二十五年(一三九二)とするが、根拠は明らかでなく、一方中国側の史料の記述もさまざまである。洪・永(年間)という表現は、謝杰、また夏子陽の使録にみえる。注(4)、田名論文参照。
(24)効労 労を効す、すなわち苦労をかける。
(25)照身 身分の証明書か。
(26)藩佐 琉球の佐臣の叙階のことか。
(27)一体 同様に。
(28)佐理 助けおさめる、補佐する。
(29)愆危 あやまって危うくする。
(30)等の因あり 注(3)の国王の奏の終り。
(31)国学 国子監のこと。文化教育のことを掌る最高学府で、挙人・貢生・官生・外国生等に、経書・史書などを教えた(『明史』巻七三、『万暦会典』巻二二〇)。はじめ琉球からの官生は国王及び陪臣の子弟であったが、尚真のころからは久米村の子弟のみが派遣された。詳しくは潘相撰『琉球入学見聞録』(乾隆二十九年刊)を参照。
(32)攛入 たぶらかして入る。
(33)華族 中華の民。
(34)重し 困難と感ずる。
(35)交搆 互いにひきあう。
(36)且つ… 以下は「中国が思いきって(中華の民を)遣わすことにしても、彼らは統制に服すとはかぎらない。かえって琉球をわずらわすことになるかもしれない。互いの間にいざこざがなく、問題がないのがよく、琉球の請に情実によってとらわれないのがよい」というほどの意味。
(37)本差 本は上級の自称で、中国側の使い、の意。
(38)姑く…念いて 姑念は、…に免じて、の意。
(39)討 検討する。
(40)等の因あり 注(2)の礼部の題の終り。
(41)本部署部事左侍郎兼翰林院侍読学士 本部は礼部。侍郎は六部の次官で、左右各一員を置く。署部事(署事、署理)とは、本来は本任の官が死亡・免官・出張等の事由で職についていないとき、他の者に代理させることであるが、『明史』七卿表、によれば、尚書を任ぜず、署部事侍郎をもって代行することがしばしばある。
(42)楊(道賓) 万暦三十五年六月から三十七年二月まで、署部事侍郎に在任。
礼部、旧典を査循して藩封を培うを懇う事の為にす。
該本部題す。主客清吏司の案呈は、本部の送れる礼科の抄出を奉ずるものなり。琉球国中山王尚寧の奏称するに、縄の断れたるは当に続ぐべく、国の虚なるは当に培うべし。琉球は旧、朔を奉ずるの初めより、洪武・永楽の間、両つながら聖祖の隆恩を蒙り、共に閩人三十六姓の入国するを賜わる。書を知る者は名を列して大夫・長史とし以て貢謝の司と為し、海に慣れたる者は任ずるに通事・総管を以てし、以て指南の備えと為す。蓋し才に因りて職を効して累世承休す。謂わざるも世久しくして代更り人湮び裔尽きて、僅かに六姓を余すも仍お侏𠌯椎髻の習に染まる。天朝の文字・音語は尽く盲昧を行い、外島海洋の針路は常に舛迷するに至る。文移は多く駁問せらるるに至り舟楫は多く漂没するを致す。甚だしきは貢期欠誤し儀物差訛するに至りて万里の螻誠少しく君父に達するを得ざるなり。是れより先、万暦二十二年(一五九四)、臣、菊寿等を差わして進貢せしむるに、途に迷いて浙に入り官兵の擒獲し屈斃するを被る。邀功せるの余に審せば卑国の貢使に係わる。解るに福建撫臣金学曾、漳人阮国を選差し護送し回国せしむるを蒙る。二十八年(一六〇〇)臣復た長史蔡奎を差わし表を齎して請封せしむるに、奎、帰路を失いて呈して福建衙門に請うに、仍お阮国并びに漳人毛国鼎を遣わして卑国に送回せしむ。臣、天恩を感戴して言の喩う可き無し。続いて人の天使を導接するを乏しくするに因り、阮国を随差せしめ給するに都通事の色目を以てす。渡海、迎護に屢々勤労著らかにして、事竣るを以て彼をして本国の大夫に列銜せしめ、天使を差送して閩に還らしむ。毛国鼎は給するに都通事を以てし、差わして王舅毛鳳儀・正議大夫鄭道と同に奏謝を齎捧せしむ。窃かに惟うに、卑国は海邦に僻処すれば、入貢・受封の後より一切の輔導・礼儀は悉く原賜わる三十六姓の裔に頼る。今、世更り代謝して遂に孤国支えざるに至る。一撮の琉球重きを為すに足る無しと雖も、而れども聖祖の隆恩・茂典の当に続くべきを猶お冀う。理として合に懇請すべし。伏して乞う、勅して礼部に下して洪・永年間の恩例を査照し、再び三十六姓を撥して球に入るるを賜わり、仍お効労の差役院国・毛国鼎を将て各々色目に照見し、給するに照身を以てし、其れをして跟随し帰舟を導引せしめんことを。積労有るを俟ちて琉球の藩佐に准照し、一体に陞叙せしむれば、国に在りては佐理の需め有り、入貢しては愆危の患い無きに庶からん。皇仁永く戴き祖沢疆り無く、臣の子孫世々東藩を守り余幸有らん、等の因あり。部に到れば司に送る。
査得するに、洪武二十五年(一三九二)中山王、子を遣わして国学に入らしめ、其の国往来朝貢するを以て、閩人三十六姓の善く舟を操る者を賜う。其の後、表を奉る大夫・長史・通事の官司は皆三十六姓及び国学に学ぶ者、之を為す。但だ、事は開国に在り、経に久しく未だ挙行するを見ず。人は世々相伝するに諸姓何ぞ皆代謝せるや。良民は必ずや行くを楽しまざれば、奸徒或いは攛入するに至らん。俯従し難きに似たり。相応に題覆すべし。案呈して部に到る。
看得するに、琉球国王は中華を嚮慕して職貢を勤修し、華族を陳請して以て指南と作さんとす。旧典は査す可く、応に俯順すべきに似たり。但だ善良の族は其の郷を去るを重しとし、中国に強いて以て外夷に就かしめんと欲するは、必ずや民情の楽しみて従う所の者に非ず。若し沿海の奸民、投入するを営謀らば、始めは貨売の利を貪り漸く交搆の端を啓かん。事情は測り叵きも亦た或いは之有らん。況んや開国の特恩にして原子を遣わして入学を為さしむるも、此の典、久しく曠しくして安くんぞ此の例の続行するを得んや。且つ天朝乍かに遣わすも未だ必ずしも俛して約束を受けず、反って此れを以て該国の処分を累わすも未だ知る可からざるなり。宜しく相い安んじて無事とすべく、必ずしも其の請に曲徇せざるに似たり。其れ効労の差役阮国・毛国鼎は、原本差を奉ずるに、何ぞ乃ち他国に逗遛せるや。既に夷目に充つれば中国の照身を給し難し。姑く国王の奏を念いて討するも相応に便に従い酌処すべし。恭しく命の下るを候ちて合無に該巡撫衙門并びに琉球国王に移咨すべし。阮国・毛国鼎を将て即ち賜姓に充て、其れをして貢謝に跟随し帰舟を導引せしむる以外、必ずしも再び遣発を行いて以て煩擾を滋くせず、等の因あり。
万暦三十五年(一六〇七)九月十五日、本部署部事左侍郎兼翰林院侍読学士楊(道賓)等具題し、二十八日、聖旨を奉ずるに、是なり、とあり。此れを欽む。欽遵して為照するに、三十六姓の請は相応に、題奉せる欽依内の事理に照依して、必ずしも続行せざるべし。其れ阮国・毛国鼎は該国に発著して朝貢を導引するの助に充て、其の原籍の差徭は已経に福建巡撫衙門に移咨して豁免して去後る。擬するに合に行文して知会すべし。此の為に合に貴国に咨すべし。煩為わくは本部の題奉せる欽依の咨文内の事理を査照し、欽遵して施行せんことを。須らく咨に至るべき者なり。
右 琉球国王に咨す
万暦三十五年(一六〇七)十二月十三日 再対して之を正す
咨
注*『明実録』万暦三十五年九月己亥の条に、本文書に関連する記事がある。
(1)査循 調べてその結果に従う。
(2)該本部題す 礼部の題は、「主客清吏司の」より注(40)まで。
(3)奏称するに 琉球国王の奏は「縄の」から注(30)まで。
(4)閩人三十六姓 十四~十五世紀、進貢の初期、沖縄に移住した中国人の総称。その渡来については『東恩納寛惇全集』巻二「三十六姓移民の渡来」をはじめとし多くの研究があるが、史料と研究史を整理してある最近の論文として、田名真之「古琉球の久米村」(『新琉球史-古琉球編-』一九九一年)を参照。
(5)総管 進貢船の船員役名。貢船に奉安されている天妃をまつり、あわせて船員の仕事、水梢を総理する役。
(6)承休 喜び、吉事を承ける。
(7)六姓 夏子陽・王士楨撰『使琉球録』下に「今諸姓凋謝、僅存蔡・鄭・林・程・梁・金六家」とある。
(8)侏𠌯 侏離に同じ。西戎の音楽。転じて夷の言語をいう。
(9)椎髻 髷の一種。南越の俗であることから、異国風の習俗の意。
(10)舛迷 まちがって迷う。
(11)文移 公文書。
(12)駁問 反駁され問われる。
(13)差訛 あやまり。
(14)螻誠 螻は、けら(虫の名)。小さな誠の意。
(15)邀功 勲功をもとめる。
(16)金学曾 万暦二十三年から二十八年まで福建巡撫。
(17)阮国 一五六六-一六四〇年。もと漳州府竜溪県の人。久米村阮氏の始祖(『家譜(二)』一五二-三及び一五五頁)。
(18)帰路を失いて… この事件は『明実録』万暦二十九年十一月己酉の記事のことであろう。
(19)毛国鼎 一五七一-一六四三年。もと漳州府竜溪県の人。久米村毛氏の始祖。のち正議大夫となる(『家譜(二)』七〇八頁、『大百科』)。
(20)色目 ここでは職目の意。
(21)列銜 銜は待遇。位につらねるの意。
(22)一撮 ひとつまみ。
(23)洪・永年間の恩例 いわゆる三十六姓の下賜について、沖縄側の史料は『世鑑』の記述を受けて洪武二十五年(一三九二)とするが、根拠は明らかでなく、一方中国側の史料の記述もさまざまである。洪・永(年間)という表現は、謝杰、また夏子陽の使録にみえる。注(4)、田名論文参照。
(24)効労 労を効す、すなわち苦労をかける。
(25)照身 身分の証明書か。
(26)藩佐 琉球の佐臣の叙階のことか。
(27)一体 同様に。
(28)佐理 助けおさめる、補佐する。
(29)愆危 あやまって危うくする。
(30)等の因あり 注(3)の国王の奏の終り。
(31)国学 国子監のこと。文化教育のことを掌る最高学府で、挙人・貢生・官生・外国生等に、経書・史書などを教えた(『明史』巻七三、『万暦会典』巻二二〇)。はじめ琉球からの官生は国王及び陪臣の子弟であったが、尚真のころからは久米村の子弟のみが派遣された。詳しくは潘相撰『琉球入学見聞録』(乾隆二十九年刊)を参照。
(32)攛入 たぶらかして入る。
(33)華族 中華の民。
(34)重し 困難と感ずる。
(35)交搆 互いにひきあう。
(36)且つ… 以下は「中国が思いきって(中華の民を)遣わすことにしても、彼らは統制に服すとはかぎらない。かえって琉球をわずらわすことになるかもしれない。互いの間にいざこざがなく、問題がないのがよく、琉球の請に情実によってとらわれないのがよい」というほどの意味。
(37)本差 本は上級の自称で、中国側の使い、の意。
(38)姑く…念いて 姑念は、…に免じて、の意。
(39)討 検討する。
(40)等の因あり 注(2)の礼部の題の終り。
(41)本部署部事左侍郎兼翰林院侍読学士 本部は礼部。侍郎は六部の次官で、左右各一員を置く。署部事(署事、署理)とは、本来は本任の官が死亡・免官・出張等の事由で職についていないとき、他の者に代理させることであるが、『明史』七卿表、によれば、尚書を任ぜず、署部事侍郎をもって代行することがしばしばある。
(42)楊(道賓) 万暦三十五年六月から三十七年二月まで、署部事侍郎に在任。