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資料詳細
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
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- タイトル
- 中国暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
序
歴代宝案は天妃宮に蔵し、其の来れるや久し。然れども世を歴ること已に久しくして、廃夷の患無き能わず。今、国相尚弘才、法司向世俊・毛克盛・毛見竜、心に甚だ之を憂い、随いで紫金大夫蔡鐸、長史蔡応祥・鄭士綸をして旧案を重修し、抄して二部と成さしむ。一部は四十九本なり。一部は王城に上り、一部は天妃宮に蔵す。康煕三十六年丁丑(一六九七)四月四日より起こし、十一月三十日に至り告竣す。
督抄官
正議大夫鄭宗徳 宮城親雲上
中議大夫鄭明良 湊川親雲上
梁邦基 内間親雲上
蔡肇功 古謝親雲上
考訂官
都通事 蔡灼 喜友名通事親雲上
通事 毛文哲 奥間通事親雲上
阮維徳 天久通事親雲上
金溥 手登根親雲上
程順性 古波蔵通事親雲上
筆帖式
通事 蔡淵 志多伯里之子
鄭士経 宮城通事
毛士豊 伊地通事
鄭士絢 宮城通事
陳其湘 幸喜通事
蔡文漢 高良通事
梁烱 国吉通事
毛士弘 伊地通事
秀才 楊宗詩 山口秀才
毛日新 奥間秀才
金簡 多嘉良秀才
鄭士綬 宮城秀才
林天材 金城秀才
阮瓚 真玉橋秀才
蔡績 大田秀才
梁得宗 外間秀才
蔡壎 喜友名秀才
程摶九 古波蔵秀才
鄭国棟 港川秀才
蔡温 志多伯秀才
注*以下の注にある人名で『家譜』にみられるものは、その頁を記したが、全体に富島壮英「『歴代宝案』第一集の編集者達」(『歴代宝案研究』第二号、一九九一年。以下、引用は富島と略称)を参照されたい。また『家譜』にない人名や、名前のみの記載の者については『歴代宝案』にある記録によって簡単に補った。久米村の位階等については主に『大百科』によったが、池宮正治・小渡清孝・田名真之編『久米村-歴史と人物』(ひるぎ社、一九九三年。以下『久米村』と略称する)を参照のこと。
(1)天妃宮 航海の守護神の媽祖(天妃)を祀る廟。上・下の天妃宮の創建はともに十五世紀中葉以前にさかのぼるといわれる(『大百科』天妃廟)。那覇の下天妃宮は天使館の東にあり、「国中案牘、多儲於此」と『中山伝信録』にある。『歴代宝案』第一集の編集もここで行われた。注(21)(28)参照。
(2)廃夷 すたれてたえること。
(3)国相 摂政・諸司代ともいわれ王子・按司の中から任ぜられ、三法司と共に評定所で王府の政務を行ったが、三法司に実権があって国相は形式的である(『大百科』国相、摂政、首里王府官職制)。なお〔一二-一二〕注(2)を参照。
(4)尚弘才 北谷朝愛。一六五〇-一七一九年。尚質王の第四子で北谷王子と称した。一六八九年から一七〇五年まで摂政をつとめる(『大百科』)。
(5)法司 法司官。三司官(三法司)といわれる三人の宰相で、首里王府の重職。事務を分掌しつつ重要な政務を合議し、政治の実権を有した(『大百科』三司官、首里王府官職制)。
(6)向世俊 仲田親方朝重。?-一七〇二年。向氏小禄御殿の六世、仲田家初代。一六九六-一七〇二年、三司官に就任(『大百科』)。
(7)毛克盛 伊野波親方盛平。一六四八-一七〇〇年。中城按司護佐丸盛春を祖とする毛氏(伊野波家)の八世。一六九四-九九年、三司官に就任(『家譜(三)』七四一頁、『大百科』)。
(8)毛見竜 嵩原親方安依。一六五一-一六九七年。毛竜𠱴新城安基を祖とする毛氏(美里家)の六世。一六九〇-九七年、三司官に就任(『家譜(三)』八〇一頁、『大百科』)。
(9)紫金大夫 久米村の最高の位階名で、称号は親方。紫の帕をかぶるところに由来する。品秩は従二品、三司官座敷に陞ると正二品になる(『久米村』二三-四頁)。『歴代宝案』第一集では、崇禎十一年に紫金正議大夫(蔡堅〔二〇-〇七〕〔二〇-一二〕〔二六-二九〕〔三三-一八〕〔三三-一九〕)、康煕二年に紫金大夫(金正春〔一四-〇六〕〔二一-〇七〕〔二七-〇二〕〔三四-〇六〕〔三四-〇八〕)が進貢使として初出する。
(10)蔡鐸 一六四四-一七二四年。もと梁氏の出であるが久米村蔡氏(志多伯家)の十世を継ぐ。久米村総役をつとめ、紫金大夫となる。『歴代宝案』『中山世譜』などを編纂した(『家譜(二)』九三三頁、『久米村』一八一-三頁、『大百科』)。
(11)長史 十七世紀前半まで進貢の役職名であるが、のち久米村の行政に専任するようになった(『久米村』二五頁)。久米村総役を補佐して進貢・冊封に関する事務、久米村に関する一切の公務を監督する。二名。なお、明代の長史については〔〇一-一七〕注(1)を参照。
(12)蔡応祥 一六五二-一七一二年。久米村蔡氏(具志家)十世。大田親雲上。正議大夫、申口座に陞る(『家譜(二)』二九八頁、富島、一〇三頁)。
(13)鄭士綸 一六六一-一七〇二年。久米村鄭氏(与座家)五世。宮城通事親雲上(『家譜(二)』六七〇頁)。
(14)告竣 完成する。
(15)督抄官 筆写から文書の分類・巻別編成にいたるまで、全般的な編集の推進・監督に従事した者であろう。中議大夫・正議大夫の位階で、四十三才から五十七才の者が充てられている(富島、九一頁)。
(16)正議大夫 久米村の官位で、進貢のさい進貢副使になる役職(『大百科』正議大夫)。『久米村』二三-五頁、『大百科』久米村の位階・役職、など参照。なお〔〇一-二一〕注(9)を参照。
(17)鄭宗徳 一六四一-一七一二年。久米村鄭氏(与座家)四世。与儀親雲上。正議大夫、申口座に陞る。家譜に『歴代宝案』の序と同文の記事が考訂官の氏名まで収められている(『家譜(二)』六六八頁)。
(18)親雲上 敬称や職名、役職などに由来する王府における称号の一つで、親方、親雲上、里之子、筑登之、という序列。親雲上の品位は正三品-従七品で、親雲上、里之子親雲上、筑登之親雲上、の三つのランクがある。
(19)中議大夫 久米村の位階で正議大夫と都通事の間に位する。一六八〇年に始まる(『大百科』)。
(20)鄭明良 一六四八-一七一七年。久米村鄭氏(登川家)十二世。仲井真親雲上。正議大夫、申口座に陞る(『家譜(二)』六〇四頁)。
(21)梁邦基 一六五〇-一七〇三年。久米村梁氏(饒波家)九世。内間親雲上。のちに正議大夫、申口座。家譜には『歴代宝案』に関して「康煕三十六年丁丑四月初四日、因歴代入貢宝案残欠、奉法司令、同鄭宗徳宮城親雲上・鄭明良港川親雲上、為督抄、日上天妃宮、至于十一月三十日抄成二部。一部四十九本、一部上於王城、一部蔵於天妃宮。」とある(『家譜(二)』七八〇頁)。
(22)蔡肇功 一六五六-一七三七年。久米村蔡氏(具志家)四世。新垣親雲上。紫金大夫(富島、九三頁)。
(23)都通事 久米村の官位。中議大夫の下に位し、進貢のさいは進貢都通事の役を務める(『大百科』)。『歴代宝案』第一集では、正議大夫・長史に次ぐ進貢役職名で、その後に長史、正議大夫と昇進する者が多い。後注(25)参照。
(24)蔡灼 一六六二-一七一三年。久米村蔡氏(儀間家)十一世。福地親雲上。正議大夫、申口座に陞る(『家譜(二)』二七七頁)。
(25)通事 久米村の官位。久米村人は二十歳になると初めて通事の位をえて、その後は進貢・接貢・慶賀・謝恩などに通事(通詞)を勤める旅役や、相応の功績を経て、在船通事・存留通事・都通事などと昇進する(『大百科』)。『歴代宝案』第一集では、火長から昇進する者もあり、進貢や東南アジア貿易での通詞を務めた。
(26)毛文哲 生没年不詳。万暦三十五年に漳州から久米村に入籍した毛国鼎(毛氏与世山家)の三世(『家譜(二)』七〇六頁)。康煕三十一年に在船通事(〔一-三五-一八〕ほか)となり、存留通事(〔一-二七-一八〕)、在船都通事(〔二-〇一-二一〕)をへて康煕四十七年に正議大夫として進貢している(〔二-〇四-一七〕ほか)。
(27)阮維徳 生没年不詳。万暦三十五年に漳州から久米村に入籍した阮国(阮氏𤘩宮城家)の四世(富島、九二頁)。康煕三十五年に在船通事(〔一-三五-二四〕)、三十九年および四十三年に在船都通事(〔二-〇一-二一〕、〔二-〇三-〇七〕ほか)として渡閩している。
(28)金溥 一六六八-一七〇八年。久米村金氏(阿波連家)十世。手登根通事。家譜には『歴代宝案』に関して「…予等、毎日于天妃宮選抄、至九月二十六日、因為存留通事告辞」とある(『家譜(二)』七七頁)。
(29)程順性 一六七〇-一七〇二年。久米村程氏(名護家)七世。古波蔵通事親雲上。家譜には『歴代宝案』に関して「康煕三十六年丁丑三月、奉憲令為考訂歴代宝案、自四月初四日起、至十一月三十日告竣、附録歴代宝案者琉球自通中国以来往復文書、則詔勅表奏咨及熱照符文之類也、蔵之于天妃宮、其由来久矣、今歴年殆三百、而不能無廃欠之患、(略)纂修旧案抄成二部、毎部釘四十九冊、一部上貯于王府、一部仍蔵之天妃宮、真我中山之宝案也」とある(『家譜(二)』五五九頁)。
(30)筆帖式 書記。もと満州語で字を写す人の意味。清制では満漢章奏の文籍を翻訳することを掌り各官庁に属していたが、この職名を琉球で用いたもの。久米村の官職としての筆帖式については『久米村』二五-六頁を参照。
(31)蔡淵 生没年不詳。久米村蔡氏(志多伯家)十一世。志多伯親方。紫金大夫に陞る(『家譜(二)』九三五頁)。
(32)里之子 王府における称号の一つ。品位は正八品・従八品。注(18)参照。
(33)鄭士経 生没年不詳。久米村鄭氏(与座家)五世(『家譜(二)』六六八頁)。康煕三十九年に在船通事(〔二-〇一-二一〕)、四十五年に在船都通事(〔二-〇四-〇七〕ほか)を務めている。
(34)毛士豊 一六七三-一七一〇年。久米村毛氏(与世山家)四世。和宇慶里之子親雲上。都通事(『家譜(二)』七一〇頁)。
(35)鄭士絢 生没年不詳。久米村鄭氏(与座家)五世(『家譜(二)』六六八頁)。康煕四十三年に在船通事(〔二-〇三-〇七〕)、のち在船都通事(〔二-〇五-一三〕)、都通事(〔二-〇七-一六〕)をへて雍正三年には正議大夫として渡唐している(〔二-一四-二八〕ほか)。
(36)陳其湘 一六七三-一七二二年。久米村陳氏(真栄平家)三世。正議大夫、申口座に陞る(『家譜(二)』四六九頁)。
(37)蔡文漢 生没年不詳。久米村蔡氏(具志家)十一世(『家譜(二)』三〇一頁)。康煕四十五年に存留通事(〔二-〇四-〇七〕ほか)、四十八年に都通事(〔二-〇五-〇三〕)を務めている。
(38)梁烱 一六七五-一七〇二年。久米村梁氏(国吉家)十世。国吉通事(『家譜(二)』八〇三頁)。
(39)毛士弘 一六七六-一七〇二年。久米村毛氏(与世山家)四世。和宇慶里之子。通事(『家譜(二)』七一一頁)。
(40)秀才 久米村の位階の一つで品外。男子は十歳前後で若秀才となり、十四-十六歳で「かたかしら」を結うと秀才になる(『大百科』)。
(41)楊宗詩 一六七五-一七〇二年。久米村楊氏三世。若秀才(富島、一一八頁)。康煕三十三年(〔一-二七-一八〕)、四十年(〔二-〇二-〇五〕)に火長をつとめた。
(42)毛日新 一六七五-一七〇九年。久米村毛氏(奥間家)四世。奥間里之子親雲上。通事(『家譜(二)』七三四頁)。
(43)金簡 一六七五-一七〇二年。久米村金氏(多嘉良家)十世。通事(『家譜(二)』一〇四頁)。
(44)鄭士綬 一六七五-一七一七年。久米村鄭氏(与座家)五世。宮城若秀才。のちに在船都通事(『家譜(二)』六七七頁)。
(45)林天材 一六七八-一七〇二年。久米村林氏(名嘉山家)十一世。秀才(『家譜(二)』九二四頁)。
(46)阮瓚 一六七八-一七四四年。久米村阮氏(𤘩宮城家)五世。中議大夫に陞る(『家譜(二)』一五九頁)。
(47)蔡績 一六七九-一七〇九年。久米村蔡氏(具志家)十一世。大田通事親雲上(富島、一二二頁)。
(48)梁得宗 生没年不詳。琉球籍から久米村に移籍した梁守徳の四世のようである(富島、九二頁)。康煕五十九年(〔二-一一-〇五〕ほか)に正議大夫として入貢している。
(49)蔡壎 一六八一-一七一四年。久米村蔡氏(儀間家)十二世。儀間親雲上。都通事(『家譜(二)』二六四頁)。
(50)程摶九 一六八一-一七〇二年。久米村程氏(名護家)八世。古波蔵子(『家譜(二)』五六〇頁)。
(51)鄭国棟 一六八二-一七〇九年。久米村鄭氏(登川家)十三世。仲井真通事親雲上(『家譜(二)』六〇六頁)。
(52)蔡温 一六八二-一七六一年。久米村蔡氏(具志頭家)十一世。具志頭親方。法司官に陞る(『家譜(二)』三六五頁)。様々な政治的功績のほか、政治・経済・哲学などにわたり多くの著書がある(沖縄歴史研究会編『蔡温選集』一九六七年参照)。
歴代宝案は天妃宮に蔵し、其の来れるや久し。然れども世を歴ること已に久しくして、廃夷の患無き能わず。今、国相尚弘才、法司向世俊・毛克盛・毛見竜、心に甚だ之を憂い、随いで紫金大夫蔡鐸、長史蔡応祥・鄭士綸をして旧案を重修し、抄して二部と成さしむ。一部は四十九本なり。一部は王城に上り、一部は天妃宮に蔵す。康煕三十六年丁丑(一六九七)四月四日より起こし、十一月三十日に至り告竣す。
督抄官
正議大夫鄭宗徳 宮城親雲上
中議大夫鄭明良 湊川親雲上
梁邦基 内間親雲上
蔡肇功 古謝親雲上
考訂官
都通事 蔡灼 喜友名通事親雲上
通事 毛文哲 奥間通事親雲上
阮維徳 天久通事親雲上
金溥 手登根親雲上
程順性 古波蔵通事親雲上
筆帖式
通事 蔡淵 志多伯里之子
鄭士経 宮城通事
毛士豊 伊地通事
鄭士絢 宮城通事
陳其湘 幸喜通事
蔡文漢 高良通事
梁烱 国吉通事
毛士弘 伊地通事
秀才 楊宗詩 山口秀才
毛日新 奥間秀才
金簡 多嘉良秀才
鄭士綬 宮城秀才
林天材 金城秀才
阮瓚 真玉橋秀才
蔡績 大田秀才
梁得宗 外間秀才
蔡壎 喜友名秀才
程摶九 古波蔵秀才
鄭国棟 港川秀才
蔡温 志多伯秀才
注*以下の注にある人名で『家譜』にみられるものは、その頁を記したが、全体に富島壮英「『歴代宝案』第一集の編集者達」(『歴代宝案研究』第二号、一九九一年。以下、引用は富島と略称)を参照されたい。また『家譜』にない人名や、名前のみの記載の者については『歴代宝案』にある記録によって簡単に補った。久米村の位階等については主に『大百科』によったが、池宮正治・小渡清孝・田名真之編『久米村-歴史と人物』(ひるぎ社、一九九三年。以下『久米村』と略称する)を参照のこと。
(1)天妃宮 航海の守護神の媽祖(天妃)を祀る廟。上・下の天妃宮の創建はともに十五世紀中葉以前にさかのぼるといわれる(『大百科』天妃廟)。那覇の下天妃宮は天使館の東にあり、「国中案牘、多儲於此」と『中山伝信録』にある。『歴代宝案』第一集の編集もここで行われた。注(21)(28)参照。
(2)廃夷 すたれてたえること。
(3)国相 摂政・諸司代ともいわれ王子・按司の中から任ぜられ、三法司と共に評定所で王府の政務を行ったが、三法司に実権があって国相は形式的である(『大百科』国相、摂政、首里王府官職制)。なお〔一二-一二〕注(2)を参照。
(4)尚弘才 北谷朝愛。一六五〇-一七一九年。尚質王の第四子で北谷王子と称した。一六八九年から一七〇五年まで摂政をつとめる(『大百科』)。
(5)法司 法司官。三司官(三法司)といわれる三人の宰相で、首里王府の重職。事務を分掌しつつ重要な政務を合議し、政治の実権を有した(『大百科』三司官、首里王府官職制)。
(6)向世俊 仲田親方朝重。?-一七〇二年。向氏小禄御殿の六世、仲田家初代。一六九六-一七〇二年、三司官に就任(『大百科』)。
(7)毛克盛 伊野波親方盛平。一六四八-一七〇〇年。中城按司護佐丸盛春を祖とする毛氏(伊野波家)の八世。一六九四-九九年、三司官に就任(『家譜(三)』七四一頁、『大百科』)。
(8)毛見竜 嵩原親方安依。一六五一-一六九七年。毛竜𠱴新城安基を祖とする毛氏(美里家)の六世。一六九〇-九七年、三司官に就任(『家譜(三)』八〇一頁、『大百科』)。
(9)紫金大夫 久米村の最高の位階名で、称号は親方。紫の帕をかぶるところに由来する。品秩は従二品、三司官座敷に陞ると正二品になる(『久米村』二三-四頁)。『歴代宝案』第一集では、崇禎十一年に紫金正議大夫(蔡堅〔二〇-〇七〕〔二〇-一二〕〔二六-二九〕〔三三-一八〕〔三三-一九〕)、康煕二年に紫金大夫(金正春〔一四-〇六〕〔二一-〇七〕〔二七-〇二〕〔三四-〇六〕〔三四-〇八〕)が進貢使として初出する。
(10)蔡鐸 一六四四-一七二四年。もと梁氏の出であるが久米村蔡氏(志多伯家)の十世を継ぐ。久米村総役をつとめ、紫金大夫となる。『歴代宝案』『中山世譜』などを編纂した(『家譜(二)』九三三頁、『久米村』一八一-三頁、『大百科』)。
(11)長史 十七世紀前半まで進貢の役職名であるが、のち久米村の行政に専任するようになった(『久米村』二五頁)。久米村総役を補佐して進貢・冊封に関する事務、久米村に関する一切の公務を監督する。二名。なお、明代の長史については〔〇一-一七〕注(1)を参照。
(12)蔡応祥 一六五二-一七一二年。久米村蔡氏(具志家)十世。大田親雲上。正議大夫、申口座に陞る(『家譜(二)』二九八頁、富島、一〇三頁)。
(13)鄭士綸 一六六一-一七〇二年。久米村鄭氏(与座家)五世。宮城通事親雲上(『家譜(二)』六七〇頁)。
(14)告竣 完成する。
(15)督抄官 筆写から文書の分類・巻別編成にいたるまで、全般的な編集の推進・監督に従事した者であろう。中議大夫・正議大夫の位階で、四十三才から五十七才の者が充てられている(富島、九一頁)。
(16)正議大夫 久米村の官位で、進貢のさい進貢副使になる役職(『大百科』正議大夫)。『久米村』二三-五頁、『大百科』久米村の位階・役職、など参照。なお〔〇一-二一〕注(9)を参照。
(17)鄭宗徳 一六四一-一七一二年。久米村鄭氏(与座家)四世。与儀親雲上。正議大夫、申口座に陞る。家譜に『歴代宝案』の序と同文の記事が考訂官の氏名まで収められている(『家譜(二)』六六八頁)。
(18)親雲上 敬称や職名、役職などに由来する王府における称号の一つで、親方、親雲上、里之子、筑登之、という序列。親雲上の品位は正三品-従七品で、親雲上、里之子親雲上、筑登之親雲上、の三つのランクがある。
(19)中議大夫 久米村の位階で正議大夫と都通事の間に位する。一六八〇年に始まる(『大百科』)。
(20)鄭明良 一六四八-一七一七年。久米村鄭氏(登川家)十二世。仲井真親雲上。正議大夫、申口座に陞る(『家譜(二)』六〇四頁)。
(21)梁邦基 一六五〇-一七〇三年。久米村梁氏(饒波家)九世。内間親雲上。のちに正議大夫、申口座。家譜には『歴代宝案』に関して「康煕三十六年丁丑四月初四日、因歴代入貢宝案残欠、奉法司令、同鄭宗徳宮城親雲上・鄭明良港川親雲上、為督抄、日上天妃宮、至于十一月三十日抄成二部。一部四十九本、一部上於王城、一部蔵於天妃宮。」とある(『家譜(二)』七八〇頁)。
(22)蔡肇功 一六五六-一七三七年。久米村蔡氏(具志家)四世。新垣親雲上。紫金大夫(富島、九三頁)。
(23)都通事 久米村の官位。中議大夫の下に位し、進貢のさいは進貢都通事の役を務める(『大百科』)。『歴代宝案』第一集では、正議大夫・長史に次ぐ進貢役職名で、その後に長史、正議大夫と昇進する者が多い。後注(25)参照。
(24)蔡灼 一六六二-一七一三年。久米村蔡氏(儀間家)十一世。福地親雲上。正議大夫、申口座に陞る(『家譜(二)』二七七頁)。
(25)通事 久米村の官位。久米村人は二十歳になると初めて通事の位をえて、その後は進貢・接貢・慶賀・謝恩などに通事(通詞)を勤める旅役や、相応の功績を経て、在船通事・存留通事・都通事などと昇進する(『大百科』)。『歴代宝案』第一集では、火長から昇進する者もあり、進貢や東南アジア貿易での通詞を務めた。
(26)毛文哲 生没年不詳。万暦三十五年に漳州から久米村に入籍した毛国鼎(毛氏与世山家)の三世(『家譜(二)』七〇六頁)。康煕三十一年に在船通事(〔一-三五-一八〕ほか)となり、存留通事(〔一-二七-一八〕)、在船都通事(〔二-〇一-二一〕)をへて康煕四十七年に正議大夫として進貢している(〔二-〇四-一七〕ほか)。
(27)阮維徳 生没年不詳。万暦三十五年に漳州から久米村に入籍した阮国(阮氏𤘩宮城家)の四世(富島、九二頁)。康煕三十五年に在船通事(〔一-三五-二四〕)、三十九年および四十三年に在船都通事(〔二-〇一-二一〕、〔二-〇三-〇七〕ほか)として渡閩している。
(28)金溥 一六六八-一七〇八年。久米村金氏(阿波連家)十世。手登根通事。家譜には『歴代宝案』に関して「…予等、毎日于天妃宮選抄、至九月二十六日、因為存留通事告辞」とある(『家譜(二)』七七頁)。
(29)程順性 一六七〇-一七〇二年。久米村程氏(名護家)七世。古波蔵通事親雲上。家譜には『歴代宝案』に関して「康煕三十六年丁丑三月、奉憲令為考訂歴代宝案、自四月初四日起、至十一月三十日告竣、附録歴代宝案者琉球自通中国以来往復文書、則詔勅表奏咨及熱照符文之類也、蔵之于天妃宮、其由来久矣、今歴年殆三百、而不能無廃欠之患、(略)纂修旧案抄成二部、毎部釘四十九冊、一部上貯于王府、一部仍蔵之天妃宮、真我中山之宝案也」とある(『家譜(二)』五五九頁)。
(30)筆帖式 書記。もと満州語で字を写す人の意味。清制では満漢章奏の文籍を翻訳することを掌り各官庁に属していたが、この職名を琉球で用いたもの。久米村の官職としての筆帖式については『久米村』二五-六頁を参照。
(31)蔡淵 生没年不詳。久米村蔡氏(志多伯家)十一世。志多伯親方。紫金大夫に陞る(『家譜(二)』九三五頁)。
(32)里之子 王府における称号の一つ。品位は正八品・従八品。注(18)参照。
(33)鄭士経 生没年不詳。久米村鄭氏(与座家)五世(『家譜(二)』六六八頁)。康煕三十九年に在船通事(〔二-〇一-二一〕)、四十五年に在船都通事(〔二-〇四-〇七〕ほか)を務めている。
(34)毛士豊 一六七三-一七一〇年。久米村毛氏(与世山家)四世。和宇慶里之子親雲上。都通事(『家譜(二)』七一〇頁)。
(35)鄭士絢 生没年不詳。久米村鄭氏(与座家)五世(『家譜(二)』六六八頁)。康煕四十三年に在船通事(〔二-〇三-〇七〕)、のち在船都通事(〔二-〇五-一三〕)、都通事(〔二-〇七-一六〕)をへて雍正三年には正議大夫として渡唐している(〔二-一四-二八〕ほか)。
(36)陳其湘 一六七三-一七二二年。久米村陳氏(真栄平家)三世。正議大夫、申口座に陞る(『家譜(二)』四六九頁)。
(37)蔡文漢 生没年不詳。久米村蔡氏(具志家)十一世(『家譜(二)』三〇一頁)。康煕四十五年に存留通事(〔二-〇四-〇七〕ほか)、四十八年に都通事(〔二-〇五-〇三〕)を務めている。
(38)梁烱 一六七五-一七〇二年。久米村梁氏(国吉家)十世。国吉通事(『家譜(二)』八〇三頁)。
(39)毛士弘 一六七六-一七〇二年。久米村毛氏(与世山家)四世。和宇慶里之子。通事(『家譜(二)』七一一頁)。
(40)秀才 久米村の位階の一つで品外。男子は十歳前後で若秀才となり、十四-十六歳で「かたかしら」を結うと秀才になる(『大百科』)。
(41)楊宗詩 一六七五-一七〇二年。久米村楊氏三世。若秀才(富島、一一八頁)。康煕三十三年(〔一-二七-一八〕)、四十年(〔二-〇二-〇五〕)に火長をつとめた。
(42)毛日新 一六七五-一七〇九年。久米村毛氏(奥間家)四世。奥間里之子親雲上。通事(『家譜(二)』七三四頁)。
(43)金簡 一六七五-一七〇二年。久米村金氏(多嘉良家)十世。通事(『家譜(二)』一〇四頁)。
(44)鄭士綬 一六七五-一七一七年。久米村鄭氏(与座家)五世。宮城若秀才。のちに在船都通事(『家譜(二)』六七七頁)。
(45)林天材 一六七八-一七〇二年。久米村林氏(名嘉山家)十一世。秀才(『家譜(二)』九二四頁)。
(46)阮瓚 一六七八-一七四四年。久米村阮氏(𤘩宮城家)五世。中議大夫に陞る(『家譜(二)』一五九頁)。
(47)蔡績 一六七九-一七〇九年。久米村蔡氏(具志家)十一世。大田通事親雲上(富島、一二二頁)。
(48)梁得宗 生没年不詳。琉球籍から久米村に移籍した梁守徳の四世のようである(富島、九二頁)。康煕五十九年(〔二-一一-〇五〕ほか)に正議大夫として入貢している。
(49)蔡壎 一六八一-一七一四年。久米村蔡氏(儀間家)十二世。儀間親雲上。都通事(『家譜(二)』二六四頁)。
(50)程摶九 一六八一-一七〇二年。久米村程氏(名護家)八世。古波蔵子(『家譜(二)』五六〇頁)。
(51)鄭国棟 一六八二-一七〇九年。久米村鄭氏(登川家)十三世。仲井真通事親雲上(『家譜(二)』六〇六頁)。
(52)蔡温 一六八二-一七六一年。久米村蔡氏(具志頭家)十一世。具志頭親方。法司官に陞る(『家譜(二)』三六五頁)。様々な政治的功績のほか、政治・経済・哲学などにわたり多くの著書がある(沖縄歴史研究会編『蔡温選集』一九六七年参照)。