琉球王国交流史・近代沖縄史料デジタルアーカイブ

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琉球王国交流史

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資料詳細

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資料種別
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資料名
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歴代宝案巻号
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タイトル
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書誌情報
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備考
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〔史料紹介〕   「書簡和解」について        漢那敬子  本資料は東京大学法学部法制史資料室所蔵の資料で、評定所文書の一つである。標題は「琉球評定所記録 千九百三十八号」とある。さらに一枚目には東大側で整理した際の書き込みが記されていて、「一〇七枚」、「東京帝国大学図書館」の印、その下に整理番号とは別に「昭和二四、一〇、二二」とある。あらたに綴じなおしたらしく、表紙はその時に付されたものであろう。法量は縱二六、八センチメートル×横一八センチメートル、表紙等をのぞく枚数は一〇五枚である。本資料は写本で、虫喰いのあとまで写してある。  ところで「評定所文書」は、東大法学部法制史資料室に残された一九六件の古文書、さらに警察庁の資料室から発見され国立公文書館に移された二一件の古文書、計二一七件が現存するだけであるが、すでに浦添市教育委員会が『琉球王国評定所文書』として一三巻まで刊行している(全一八巻の予定)。また別冊として、東京大学史料編纂所に残されていた「旧琉球藩評定所書類目録」(明治三六年筆写)も翻刻されている。「目録」によれば、確かに「第千九百三十八号 一 中山ヨリ上表・康煕皇帝ヨリ勅諭書簡和解(五冊)」とあり、本資料と合致する。  本資料には、漢文とそれに対応する候文からなる一〇件の文書が収められており、うち八件が『歴代宝案』所収の文書と同じである。「和解」(わげ)とは日本語で解釈すること、むずかしい文章などをわかりやすく解き明かすことであるから、「書簡和解」とは、外交文書であり漢文である「歴代宝案」、つまり中国への書簡を、わかりやすく日本語に翻訳したものといえる。本資料の性格については、漢文が公的文書の世界であり、一般的には和文が用いられていたこと、また原則として中国への進貢等については薩摩へ報告していたことなどを考え合わせてみる必要があるだろう。「目録」をみる限り、「評定所文書」には、渡唐船仕出日記や進貢船・接貢船日記などの中国関係文書はあるがいずれも和文であり、また漢文資料としては「諸外国卜琉球卜条約幷往復書類(漢文)」があるものの訓点が施されていて、本資料の他に漢文に和訳のついた「和解」の文書はない。  本資料は「日録」では五冊とあり、一枚目は欠くものの、それぞれ表紙があって、「書簡和解 二 評定所 酉日番」などとあるほか、内容を示すタイトルがそれぞれ記されている。いわば目次のような形である。本文にも見出しが付されており、それとは多少異なるのだが、以下、見出しに一連番号を付して表紙のみを掲げてみたい。 (表紙欠) (本文見出し) 1  琉球国中山王尚貞よ里大清国康煕皇帝江進貢のために奉りし表文之扣 2  大清国の康煕皇帝よ里中山王江下さる勅書之扣  一、中山王より北京礼部江奉ル咨文  一、北京礼部より返咨文           評定所 書簡和解  二     酉日番 3  中山王進貢の為に大清国の礼部江咨文を捧ける扣 4  大清の礼部より中山国王江咨文の返事  一、中山王よ里福建布政司江奉る咨文の扣           評定所 書簡和解  三     酉日番 5  琉球国中山王よ里福建の布政司もおくりし咨文の扣  一、中山王より大唐布政司へ為接貢捧ル咨文扣  一、布政司よ里中山王へ返咨文扣  一、北京礼部よ里位蔭哆漂者之咨文扣 書簡和解  四 6  接貢とハ去年ノ進貢使を迎の為に琉球より今年唐へ遣しけるを接貢船と申、中山王世孫尚益福建の布政司おくりし咨文の扣 7  布政司よ里返咨の扣 8  位薩哆大清江飄着之由礼部より咨文の扣  一 中山王尚貞薨逝の訃音布政司へ報明の咨文扣  一 福建布政司より返咨文扣           評定所 書簡和解  五     酉日番 9  中山王逝去の訃を申上ルによつて世孫尚益より福建布政司へ続目願之咨文扣 10  福建の布政司より中山王続目願の咨文に返咨の扣  これから見ても、欠けている部分はおそらく表紙のみであろうことがわかる。  さて、『歴代宝案』との関連であるが、各文書の日付と『宝案』の文書番号を並べると以下の通りである(下段は『宝案』の文書番号。たとえば第二集四巻の一六号文書)。 1(康煕四七年〔一七〇八〕一〇月 )二-○四-一六 2(康煕四八年〔一七〇九〕一一月一五日)二-○五-○四 3(康煕四七年〔一七〇八〕一〇月 )二-○四-一七 4(康煕四八年〔一七〇九〕一一月一七日)二-○五-○五 5(康煕四七年〔一七〇八〕一〇月 )二-○四-一八 6(康煕四八年〔一七〇九〕一一月 ) 7(康煕四九年〔一七一〇〕六月八日)二-○五-〇七 8(康煕四八年〔一七〇九〕一一月一七日)二-○五-○六 9(康煕四八年〔一七〇九〕一一月 ) 10(康煕四九年〔一七一〇〕六月八日)二-○五-○九  年代が康煕四七年~四九年、『宝案』では第二集巻四と五に集中している。1が康煕四七年の表文、2が康煕四八年の勅書、3が康煕四七年の礼部への咨文、4がその返事の咨文というように、1・2、3・4、6・7、9・10はセットと考えられる。『宝案』には6、9に該当する文書はないのだが、同内容の文書はある。セットをなさない5は、候文の後に、この咨文は別の咨文に内容をこめたので出さなかった旨の注記があり、8は琉球国の漂着民が北京についたことを知らせる礼部からの咨文である。どのような意図で筆写されたのかは不明であるが、セットでとったことには意味があるのだろうか。  漢文と候文の表現の相違がうかがえるのも本資料の特徴である。宝案文書によく出てくる語が「和解」(候文)でどのようになっているのか、いくつか例をあげてみよう。( )は本資料の一連番号である。   切照 しきりにてらしみる(3)      切にあきらかにする(6)      切にてらす(7)など。   此為理合移咨○○ 此旨、咨文を以○○へ申上候(5)            此理の為に咨を○○へ移し奉る(6)            此等の為に咨を○○へ差上候(9)   煩為査照施行 六ヶ敷なからこまかにこれを明らめ宜敷とり行ひ給へは(5)          御苦労なからこまかにてらし行なへは(8)   煩為察照施行  御苦労なから委細しろしめし施し行ない給て(6)           御苦労なから此旨を察し照しておこないほとこし給へは(3) 「煩為」は「ご苦労ながら」と解釈しているのである。宝案文書の決まり文句ともいえる「須至咨者」はほとんど「咨の心にかなふものなり」(5、6、7、9)と和訳されている。  このように、本資料は、現存する『宝案』の不明字の照合ばかりでなく、漢文と併記して候文までついていることで、当時の読み方、解釈などがうかがえる貴重な資料といえよう。  最後に本資料の閲覧と翻刻を快諾して下さった東京大学法制史資料室に感謝の意を表したい。また県史料編集室での古文書の読み会に参加させていただいたおかげで翻刻ができた。その時のメンバー(津波清・上原善哲・小野まさ子・野村直美・久手堅愛子・中村尚子の各氏)および浦添市立図書館沖縄学研究室の皆様にも記して感謝の意を申し上げる。  翻刻するにあたっては以下の処理を行った。 一、漢文は一行の字数、欠字・抬頭を含めて資料の体裁にしたがった。『宝案』は一行一八字であるが、本資料は一五字で統一されている。また不明字は空白になっている場合もあり欠字とまぎらわしいが、そのままとした。 一、漢文の使用漢字はほぽ正字体であるが、資料にしたがい統一しなかった漢字もある。 一、候文の使用文字については、常用漢字に統一した。変体仮名の一部についてはそのまま使用した。 一、候文は読みやすくするため、適宜、読点を施した。 一、虫損字、不明字などは□で示した。 一、誤字あるいは脱字と思われる場合には、右傍に(ママ)(―カ)、(―脱カ)と注記した。 一、漢文のあとに『歴代宝案』校訂本との相違点を注の形で掲げた。   (表紙欠) 1  琉球国中山王尚貞よ里大清国康煕皇帝江進貢のために奉りし表文之扣   琉球國中山王臣尚貞誠惶誠恐稽首頓首  上言伏以 大一統之規模誕敷聲教 綿(①)萬年之暦数 (②)著光華  航海梯山極来亨(③)来王之盛  開天闢地昭同文同軌之休朝野傾心臣民頌徳欽惟 皇帝陛下  惟精惟一  乃聖乃神  奠(④)社稷於無疆卜年卜世  光謨烈於有永丕顯丕承臣貞蛟島外藩蟻封 (⑤)服雖不毛之地徒切芹私而愛 君之誠敢忘葵向敬遣陪臣向英毛文哲等遠渉波涛之險車用指南虔 (⑥)筐篚之微斗瞻極北少伸嵩呼之悃聊依 日照之光伏願  江漢朝宗  星辰拱極  奏(⑦)虞廷雅樂群瞻鳳儀獸舞之祥  毓周室賢才代著豹變鷹揚之績将 (⑧)五風十雨長存玉燭以(⑨)常調四瀆九州大 (⑩)金甌於孔固矣臣貞無任瞻 天仰 聖激切屛營之至謹奉  表恭  進以 聞  康煕肆拾漆年十月  日 琉球國  中山王臣尚貞謹上表  注①校訂本では「慶カ」とあるが、古義堂文庫所蔵の「琉球表文」(本誌5号所載)では「綿」とある。②校訂本は丕。 ③享 ④校訂本は不明字。頭注で「綿カ」とするが古義堂文庫所蔵「琉球表文」では「奠」。 ⑤荒 ⑥齎 ⑦校訂本は不明字。頭注で「追カ」とするが古義堂文庫所蔵「琉球表文」では「奏」。⑧見 ⑨校訂本は不明字。頭注で「於カ」とするが古義堂文庫所蔵「琉球表文」では「以」。⑩鞏  右通俗 琉球国中山王大清皇帝の臣、名ハ尚貞、誠惶誠恐稽首頓首して敢て皇帝に言を奉りていわく、伏しておもんみるに皇帝天下一統の規模を定め誕に教をしきひろめ、万世まてひかりをあらわし給ふ、かるかゆへに四方その仁徳にかんし懐て海に航し山に梯して貢物をそなへて諸王□(くカ)に/\よ里来朝せり、天をひらき地をひらき、外国のはてまて文を同し軌を同して休微をあきらかにし給ふ、さあるによつて朝野の臣民心をかたふけ其徳を頌奉しさらんハなし、こゝをもって欽惟に、皇帝陛下ハこれ精これ一にしてすなわち聖人なり、即神人なり、社稷を無疆にまつりて年を占ひ世を占ひ、謨列(烈カ)を有永ニ照して大に徳を明らかにし丕に位を承つき給へり、臣尚貞ハ鄙しき蛟島の外藩、蟻のことくに荒服に封せらる、抑わか国不毛の地なりといゑとも、徒芹私の心切なり、君を愛し奉り誠、敢て葵の日に向ふ事を忘れんや、今茲に敢て陪臣向英と毛文哲等両人をつかいとして、遠キ波濤の険を渉に車を用て南をさし、虔て進貢の微なる筐篚を持に、斗をみて北にいたり少く万歳を祝、悃を伸て、聊か日のことく照し給ふ、仁徳の光に仰きよる、伏して願ハ、江漢の水、東に朝することく、星辰のほし、北に拱くするに同しくして、虞廷に奏せり楽の音にハ鳳凰麒麟の来舞を見、周室にやしなへる賢才ハ豹変鷹揚の績しを著し、又見ん、五日の風枝をならさす、十日の雨塊を動かさす、長く太平を存して常に四時を調へ、四瀆九州の固きこと金甌よりもかたからん事を冀ふものなり、臣尚貞天の遠きを望見て、聖人のことき皇帝を仰奉るり、任かたく感激恐懼のいたり、謹て表文を奉り恭く進めて以奏聞す  康煕四十七年十月 日 琉球国中山王臣尚貞謹上表 2  大清国の康煕皇帝よ里中山王江下さる勅書之扣 皇帝勅諭琉球國中山王尚貞   朕惟昭徳懐遠盛世之良規修職献琛藩臣之大節輸誠匪懈寵賚宜頒爾琉球國中山王尚貞屬在遐方克抒丹悃遣使齎表納貢忠藎之忱良可嘉尚是用降勅奨諭併賜王文綺等物王其祗承益勵忠貞以副朕眷欽哉故勅    計開     蠎緞四疋   青藍綵緞六疋     藍素緞六疋  衣素六疋     閃緞六疋   錦四疋     紬六疋    羅六疋     紗六疋  康煕四十八年十一月十五日  右通俗 朕おもんみるに、徳を昭かにして遠きを懐るハ盛る世の良規、己か職務を修めて琛を献るハ藩臣の大なる節義なり、其方誠をいたしておこたらすんハ、此方も寵として賚を下さるへし、袮ハ琉球国に封せし中山王尚貞、居処遠方なるに克丹悃の志を伸んとして、万里の滄海を遠しとせす、使両人をつかわし表文を持て貢物を備納、忠節のかた(きカ)り、誠によみし尚ふへきものなり、是によつて皇帝勅宣を下して奨おくり給ふ、ならびに中山王に文綺等の物を拝領させ給ほとに、中山王其をよく有かたく存奉り、祗てこれを承てます/\忠貞を励して朕かあわれみを副へし、此旨能々欽や、かるかゆへに勅す     計開とハ数を立ると申事   蠎緞四疋〈金文緞子のこと〉  青藍綵緞六疋〈花色金文緞子のこと〉   藍素緞六疋〈花色地に同し花の緞子のこと〉  衣素六疋〈黒繻子のこと〉   閃緞六疋〈ふめ緞子のこと〉  錦四疋   紬六疋〈小池抔の様成物〉  羅六疋   紗六疋  康煕四十八年十(ママ)月十五日 一、中山王より北京礼部江奉ル咨文 一、北京礼部より返咨文           評定所 書簡和解  二     酉日番 3  中山王進貢の為に大清国の礼部江咨文を捧ける扣   琉球國中山王尚 為進  貢事切照敝國□(①)居海壌世沐 天朝隆恩遵依  貢典貳年壹貢不敢愆期茲届遇   康煕肆拾漆年分乃進貢之期特遣耳目官向英正議大夫毛文哲都通事陳其湘等坐駕海船貳隻統領水梢毎船均幇上下員役共不過貳百員名解運煎熟硫磺壹萬貳千陸百觔紅銅参千觔煉熟白剛錫壹千觔前至   福建等處承宣布政使司衙門投逓差員護送赴  京伸祝 聖禧為此理合備咨前詣   貴部煩為察昭(照)施行須至咨者   右             咨   禮             部  康煕肆拾漆年十月  日  注①校訂本は僻  右咨文の通俗 琉球国中山王尚、進貢のことのために咨文を北京の礼部にさゝけケる、しきりにてらし見るに、抑わか国海外ニ僻居して世々天朝のかたしけなき厚恩に沐し、進貢の典例にしたかい、よつて二年壱度も進貢いたすこと、あゑてすこしも時分をあやまり大かたをいたしたることなし、ことしも康煕四十(ママ)年の進貢の期にあたれり、時に耳目官向英・正議大夫毛文哲・都通事陳其湘等をつかわすにより、海船二艘、水梢並に上下の員役、共ニ弐百員名、運送の貢物にハ煎熟の硫黄壱万二千六百斤・紅銅三千斤・煉熟白剛錫千斤、福建の布政使司衙門にすゝめ投納し、遠に員役をつかわし護送して京におもむき万歳を祝し奉る、これらのために理合して咨文を備え貴部にすゝめいたる、御苦労なから此旨を察し照しておこないほとこし給へは咨にかなふものなり    右          咨    礼          部  康煕四十七年十月  日 4  大清の礼部より中山国王江咨文の返事  咨(①)   禮部為知會事照得琉球國中山王差耳目官向英等具  表進  貢方物本部照例具題交送総管内務府査収訖所有  欽賞禮物特頒 勅書一道相應知會琉球國王可也為此合咨前大(②)須至咨者   右      咨   琉 球 國  王  康煕四拾八年十一月十七日  注①この位置に「咨」がくるのはおかしい。また日付のあとに本来あるはずの「咨」がないので、誤写か。②去  右咨文之通俗 咨 礼部知会の為の事と、明らかに考みるに、琉球国中山王耳目の官向英等をつかわし表をそなへ貢を進る、土産物本部の役人よ里先例を明らかに書しるしそなへたる通、総管内務府こまかにうけ取納おわん、これによって欽賞あるところの皇帝の御礼物、殊に勅書を頒下されけり、此至て琉球国王能相心得てしかるへきなり、そのため礼部よりも咨文を合すゝめたること也   右、礼部より中山王へ返咨  康煕四十八年十一月十七日 一、中山王よ里福建布政司江奉る咨文の扣           評定所 書簡和解  三     酉日番 5  琉球国中山王よ里福建の布政司も(へカ)おくりし咨文の扣   琉球國中山王尚 為進  貢事切照敝国僻居海壌世沐 天朝隆恩遵依  貢典貳年壹貢欽遵在案査康煕四拾漆年當貢之期特遣耳目官向英正議大夫毛文哲都通事陳其湘等坐駕海船貳隻分載煎熟硫磺壹萬貳千陸百觔紅銅参千觔煉熟白剛錫壹千觔前至   福建等處承宣布政使司投納乞為轉詳   〈督/撫〉両院  題明令陪臣向英等齎捧  表文方物赴  京叩祝 聖禧外所有原船貳隻仍乞   貴司査明歴貢事例将其餘員役准於来歳夏至早汛速賜摘回本國不至末員海上驚濤皆出   貴司再生之徳者也貞僻広海陬夙仰   貴司清廉恵愛遐邇沾恩奈何萬里波濤無由趨承  教誨徒深引領恐(①)私茲者入貢末員 (②)恐弗堪任事統祈   貴司始終照拂感佩何極為此理合移咨   貴司煩為査照施行須至咨者   右         咨   福建等處承宣布政使司  康煕肆拾漆年十月  日 注①鞏 ②駑鈍誠ヲ脱カ  右咨文之通俗 琉球国中山王尚、進貢のことの為に明らかに布政司江申上ル、抑わか国海壌に僻居して世々天朝の厚恩を深く受たり、これによつて進貢の典礼に遵依て二年に壱度つゝ進貢物を捧奉る先例、あゑて忘却いたさ(ざ脱カ)るところなりて、茲に康煕四十七年進貢の期に当れり、さるによつて耳目官向英・正議大夫毛文哲・都通事陳其湘等を使ハして北京へ遣すによりて、海船弐艘に分け、載する品、硫黄壱万弐千陸百觔・紅銅参千觔・錫千觔なり、福建等処承宣布政司へいたりてすゝめおさむ、願くハ督撫の両院江詳に達し給ひ、題明を乞給ひて、陪臣向英等をして表文・方物を持せ京か(へカ)おもむかせ、聖禧を祝し奉りたきとなり、扨又外に右使の者のりたるところの原船弐艘なを貴司江願を上ケ、先年進貢之例を明らかにして京江上り候人数の外ハ、翌年の夏至の比早速帰帆仰付られ下され、本国江かへし給へ、さあれハ末々の役人以下海上のおそれなく、時分よく琉球江かへるへきなり、しかれハ貴司の御慈悲にて人を生し給ふものなり、中山王貞、海のはてにへたゝりいて、つとより貴司の清廉恵愛にて遠きも近さ(きカ)も御恩に沾へる事と仰きけれとも、いかんせん万里の波涛へたてりぬれは、今以終にまかりこし教をうけ申へきよしもなく、徒に領をのへて貴方のことをおもひ望むはかりなり、ここに進貢参入の末の役人ハものことになれさる物はかりにて、中山王心遣に候さるによつて、始終共に貴司より御了簡をくわへられ下されハ、御恩を感し奉る事かきりなく万事御たのみ奉候、此旨咨文を以貴司へ申上候、六ケ敷なからこまかにこれを明らめ宜敷とり行ひ給ヘハ咨の心付□□(にかなカ)ふものなり  康煕四拾七年十月    右之返咨可在候処、国司様薨逝之由世孫尚益公よ里訃音の咨文御持上候ニ付、右返咨者訃音ノ返咨ニ文章相籠候故、別立而返咨無御座候也 一、中山王よ里大唐布政司へ為接貢捧ル告文相 一、布政司よ里中山王へ返告文相 一、北京礼部よ里位蔭(薩カ)哆漂者(着カ)之咨文扣 書簡和解  四 6  接貢とハ去年ノ進貢使を迎の為に琉球より今年唐へ遣しけるを接貢船と申、中山王世孫尚益福建の布政司おくりし咨文の扣   琉球國中山王世孫尚 為接回進  貢官員事切照敝國僻居海壌世沐 天朝洪恩業於康煕肆拾漆年特遣耳目官向英正議大夫毛文哲等率領梢役坐駕海船貳隻齎捧  表文方物已経移咨   貴司煩為起送赴  京恭祝 聖禧外査向例入  覲官伴今應回閩本國該發船接回不至淹留閩地以糜 天朝廩餼為此特遣都通事蔡文漢使者向和聲等帯領水梢坐駕海船壹隻前往福省迎接 皇上勅書併 欽賞物件仝京回貢使及存留官伴一   齊歸國伏乞   貴司具詳   〈督/撫〉両院于来夏蚤汎賜歸更瀆者康煕肆拾壹年京回貢使鄭職良等夏至風汛過期于陸月在閩開船至中洋颶風暴發覆舟預命船上所有 勅書併欽賞緞疋等物盡没於海彼時   蒙 皇上矜憐有 勅令査修船隻堅牢之 上諭感戴無盡但船固須堅緻風汛過期亦難免沈溺至肆拾肆年摘回両船夏至亦已過期陸月在福省開洋到半途遭風将及落潜幸漸風息小船轉収北山其大船飄往東北窮荒海島迄冬方歸又客夏摘回両船亦過夏至于陸月初肆日出閩安鎮拾参日五虎門開船将至半洋拾捌日倶過颶風陡作両船分走都通事曾暦等所乘小船損篷折桅泛流海上貳拾参日又遭颶風巨浪打裂船尾貳拾捌日又過風起危亡甚急幸見七島轉針本國至捌月初肆日纔到北山又過暴風擱破本船其都通事紅永祚等所坐大船全没於海中不見人屍至今國中彼官伴水梢之父母妻子哭聲未休使人痛心誠恐此番敝国末員弗堪任事仍蹈前轍悞期惟是海外季夏孟秋之間必有颱颶数起所以舟人不敢行船或有冒行者多致覆舟悞事統祈   貴司留心始終照拂所有應行事   宜詳   両院具  題乞于向後毎年伍月初旬賜歸為例不特航海蟻員得免風涛之虞舉國感戴而将来  貢典亦無愆期矣為此理合移咨   貴司請煩察照施行須至咨者   右        咨   福建等處承宣布政司使  康煕肆拾捌年十一月  右咨文通俗 琉球国中山王世孫尚益、去年進貢ニ参りし官員をむかへ回ス事の為に咨を用ふ、切に明らかにするノ、わか敝國海壌に僻居して世々天朝の洪恩ニ沐す、業に康煕四拾七年におゐて特ニ耳目官向英・正議大夫毛文哲等、梢役を率領し海船弐隻ニ坐駕し表文・方物を持せ捧、已に咨文をつかわしける、定而貴司煩しく□送をなして京都□(ニカ)おもむかせ、うや/\敷聖禧を祝し下されけん、扨其外先例を以考に、去年入覲の官伴、今ハまさに閩にかへるへきに、本国出帆の接貢船ハいまた参つかす、入覲の官伴等閩地ニ久々滞留いたし罷居、天朝の御やしないを費し申へし与致推察候、これによつて都通事蔡文漢・使者向和声等、水梢を帯領させ、海船壱艘にのせて福省へすゝめ往て皇帝の勅書をむかへ、並ニ欽賞の下され物を請取せ、京より帰り進貢の使者又ハ存留官伴、同一所ニ本国琉球か(へカ)帰らしめんと願申、貴司督撫の両院ニ委細御申上、来年の夏はやく本国へ御返し下されへく候、扨先例ニ而ハ候得共、海上風波難によ里先例を改申たく願申事御座候、其願ハ康煕四十壱年京より帰る進貢の使者鄭職良等、夏至の風汛にのりおくれ六月閩より出船いたし候処ニ、洋中にて颶風暴発、舟をくつかへし命を失ひ候、船中ニのせたる勅書併に欽賞の緞疋等の物、こと/\と(くカ)海にしつむ、かの時皇帝御矜憐ましく勅宣を下されけるに、舟共之こしらへ堅固ニ無く故にて海中ニて舟われたるとおほしめし候間、向後ハ船こしらへ入念候様ニ御役人中ニ仰付られ、難有仕合難申謝候、雖然船堅固ニしても風の時節をのりおくれ候ヘハ沈溺をのかれかたき事シ、康煕四十四年帰帆の両船、夏至の風にのりおくれ是も六月福省より出船いたしけるに、洋中半途ニ而難風にあい、す(まカ)さに水に落いるに及ふ、幸にかせ漸やみ小船ハ漸北山に収、其大船ハ飄往東北荒海の島を乞われ、冬にいたりてやう/\方ニ帰、又去年の夏帰帆の両船、また夏至を過し六月四日閩安鎮より出、拾三日五虎門より出船、まさに洋中ニいたらんとする処ニ、拾八日両艘共ニ颶風頓ニおこるにあい、両船別々に走分れ、都通事曾暦等かのりたりし小船ハ帆を損し梶を折らし海に泛流はかりなり、廿二(三カ)日又颶風に逢大浪に船の尾を折さかれ、廿八日又風の起るに逢て危亡甚急なり、幸ニ七島をみかけて針を本国ニあて、八月四日に纔北山にいたる、又暴風に逢ひて本船を打破、其都通事紅永祚等のる所の大船、全ク海中ニ沈み人の死骸も見得す、今にいたるまて国中彼官伴水梢の父母妻子共なきさけふ声やます、きく人をして心をいたましむる事切なり、誠恐なから御改ニ奉存候、此節わか敝国の末員、船にのる彼国の者、右之通ニ再三難風ニ逢ける故、六月より七月迄の間ハ颶風の時節与心得、舟人船を何く江茂やらす、もしおかしてやる者あれハ多くふねをくつかえし事を悞る、かくのことくなる仕合故、貴司へ奉願候、御心を付られ申上へき事ハ御とり合、両院に御申あつて、向後ハ毎年伍月上旬に帰帆仕候様ニ例を御立下されハ、海に航する蟻のことき者、如風波ニのるゝよろこひまてにてもなし、わか琉国惣様のかの恩ヲ戴(イタヽイ)て、猶更向後の進貢もあやまりなき様ニ与存上候なり、此理の為に咨を貴司へ移し奉る、御苦労なから委細しろしめし施し行ない給て咨のこころにかなふものなり   右      咨   福建等処布政司   康煕四十八年十一月 日 7  布政司よ里返咨の扣   福建等處承宣布政使司為接回進  貢官員事康煕四十九年正月初八日准   琉球國中山王世孫尚 咨開切照敝國於康煕四十七年業遣耳   目官向英正議大夫毛文哲等齎捧  表文方物坐駕海船二隻前来幷移咨貴司煩為轉請〈督/撫〉両院起送赴 京叩祝 聖禧外向例進京 貢使向英等将自回閩竊恐淹留日久糜費 天朝廩餼遵例特遣都通事蔡文漢等坐駕海船一隻恭接 皇上勅書併 欽賞物件仝京回 貢使向英等併存留員伴坐駕原船歸國此番摘回都通事紅永祚曾暦等坐駕原船二隻奈夏至愆期其大舡紅永祚等途遇颶風飄溺無踪小船曾暦等将至本國地方亦被颶風打破幸曾暦等一船員伴僅保性命其餘悉葬魚腹伊等父母妻子哀呼之聲慘動天地深為可憫伏乞貴司具詳   〈督/撫〉両院来年夏至蚤汛賜歸以免風濤不測之虞擧國臣民感載(戴)鴻恩不朽矣等縁由到司准此又為稟報事康煕四十九年三月初八日奉   鎮守福州将軍加二級署理閩浙総督事務祖 批本司呈詳査得琉球國遣使蔡文漢等坐駕海船□(①)隻来閩恭迎 皇上勅書接回康煕四十七年朝京貢使向英等一仝回國幷附搭報喪使正議大夫蔡灼等於上年十一月二十二日在本國開洋到馬齒山候風至十二月十一日開駕十七日到閩安鎮怡山院地方灣泊官伴水梢共九十一員名先准閩安張副将移報到司隨経詳報奉護理撫憲批吊入内港安挿査明官伴人数造冊詳請具  題仍将報喪事例另詳核奪等因遵経行據福州府海防同知沈宗叙詳稱于康煕四十八年十二月二十五日吊進内港二十九日會同福州城守張副将査験安挿入驛備造数冊幷抄符文執照呈報到司復准該國王世孫告稱乞于来年夏至蚤汛賜歸等情前来除将報喪事例俯俟福防廳査議到日另文詳請  題報外今将該廳營査験縁由及准該國咨文備叙轉詳俟貢使向英等自京回閩日應同接貢人員於康煕四十九年夏至風汛届期聴坐所未(②)原船及上(③)次存留官伴一齊遣發歸國所有官伴水梢員名防船軍器幷隨帯土産食物逐一開造分別摘回存留附搭官伴名数備造清冊呈送伏候   憲臺祭(察)照會  題可也等縁由奉批仰候   撫都院會 題繳冊照存奉此案照先於本年二月初一日奉   護理福建巡撫印務布政使加三級金 批本司詳仝前由奉批候會  題仍将報喪事例速行査議詳報 (④)候 督部院批示繳奉此先為報明事康煕四十八年十二月初四日奉前署総督福建浙江事務巡撫都察院張憲牌康煕四十八年十二月 (⑤)禮部咨開主客清吏司案呈奉本部送禮科抄出該本部題前事内開浙江巡撫黄  疏稱琉球國位薩哆等六人所坐船隻被風飄流於本年四月初三日到浙省境界石浦地方登岸将伊等令該縣日給口粮加意軫恤外査琉球國於浙省素無往来即有進貢船隻倶係停泊閩省将位薩哆等應送閩省附搭該國便船帯回等語査現今琉球國差耳目官向英等進貢前来伊等回國路由閩省應将位薩哆等六人送至閩省與向英等留邊人役合併一處給與口糧俟向英等回時附搭伊船帯回可也等因康煕四十八年十月二十六日題本月二十八日奉 旨依議欽此欽遵抄部送司奉此相應移咨浙閩総督可也合咨査照施行等因到院准此合就飭知備牌行司照依   部文内奉 旨事理即便轉飭遵照俟浙省将位薩哆等六人逓送到閩之日即與現今進  貢琉球國耳目官向英等留邊人役一併給與口糧仍俟向英等回國之時一同附搭帯回併即取具到閩日期先行詳報以憑察奪咨部毋違奉此又奉   前巡撫都察院張 憲牌准   禮部咨仝前因到院行司奉此遵行在案今風汛届期除経照例遣發一併附搭歸國外合就咨覆為此移咨   貴世孫請依来文事理煩為知照施行須至咨者   右        咨   ⑥  康煕肆拾玖年陸月 初八日   〈接回進〉 〈貢官員事〉   咨  注①一 ②来 ③二 ④並ガ入ル ⑤初二日准ガ入ル ⑥琉球國中山王世孫尚が入ル  右咨文之通俗 福建等処承宣布政使司、中山王へ返咨のこと、進貢官員接回の為に、康煕四拾九年正月初八日琉球国中山王世孫尚益か咨をひらきみるに、切にてらす、わか敝国康煕四拾七年すてに耳目官向英・正議大夫毛文哲等をして表文・方物をもたせさゝけ海船弐艘すゝみ来す、並に咨を貴司ニ移し、煩ハしく督撫の両院にめくり請ふて、起し送りて京ニおもむかせ恭しく聖禧を祝し給へ、扨其外先例通進貢の使者京へ参、向英等頃日ハ閩へかゑり着、恐くハ久敷滞留いたし天朝の御やしないを費し申へし、依之又々例にしたかい都通事蔡文漢等海船壱艘にのせ、恭皇上の勅書をむかへ、ならひに欽賞の物件うけ取らせ、京回の進貢使者と向英等と同存留員伴一所に原船にのせ付て国に帰し給へ、扨今度接回の都通事紅永祚・曾暦等のる所の船二艘、夏至の期を愆り、其大船紅永祚等道(途カ)にして颶風にあい飄溺して跡なし、小船曾暦等ハまさに本国の地方まていたらんとするに、また颶風に打わられける、幸に曾暦等ハ一船の員伴、僅に性命を保ち、其余ハ悉く魚腹の中に葬られける、此等の父母妻子かなしみさけふ声、慘として天地を動すはかり、実にふかくあわれむへきなり、伏て乞ふ、貴司、具に督撫の両院に詳にして来年夏至はやく帰事を給ひ、風濤の難をのかれハ国こそつて臣民鴻恩をかんしいたゝいてくちす等のよし、司にいたる、此旨を以てまた明白に申上ル、為に康煕四拾九年二月初八日、鎮守福州将軍加二級署理閩浙総督事務祖の示を奉て本司ニ呈し詳して委細得其意、琉球国使蔡文漢等をして海船壱艘閩にのり来り、恭しく皇上の勅書を迎へ接回す、康煕四拾七年、京へ参候進貢使向英と一同に国に帰す、ならひに中山王逝去の使正議大夫蔡灼等、去年十一月二十二日本国出船、馬歯山に風をまち、十二月十一日又出船して十七日に閩安鎮怡山院の地方湾泊にいたる、員伴・水梢共九十一員名、先つ閩安張副将移報して、司にいたるを準て例にしたかい詳に報して護理撫憲の示を奉て内港にひき入安挿す、こまかに官伴人数をしらへ帳冊にしるし、詳に具題を請ふ、なを逝去のことを申上て、例を以別ニ奪を詳にするのよし、常のことく行ふ、仍福州府海防同知沈宗叙詳していわく、康煕四十八年十二月二十五日内港にひき入、二十九日福州城守張副将に会同してこまかに申談して安挿す、備に数冊を造り、並に送り状付状をいたし報して司にいたる、また国王世孫咨をはかるにいわく、来年夏至はやく帰ことを給へ等のよし、すゝみ来る、逝去の事例を報することを除て、福防庁の評議いたる日を待て別に文を詳にして題報を請ふ、外に今庁営の改を以琉球国の咨文をはかり、委細其旨を以進貢使向英等京より閩に帰る日を待而接貢の人員とおなしくすへし、康煕四拾九年夏至風汛期にあたれり、のり来ル原船及ひ上次の存留官伴一同に国に帰す也、あらゆる所の官伴・水梢員名、防船軍器ならひに随帯の土産・食物、一々次第に数を立、滞留人・帰帆人・付のせの官伴員数委細相記し、一冊をこしらへ、呈し送りて憲台察照をうかゝひ合せ、題して可なり等のよし、示を奉て撫都院の会題を照存し、此旨を奉て今年十二月初一日護理福建巡撫印務布政使司加三級金の示をうけ、本司に詳にすること同前のよし、又示を請けて会題を候ふ、仍逝去のことを申上るに例を以すゝみ到るに、御詮議なされ具に御申上、幷に督部院のしめしをうかゝい明白に申上候事、康煕四十八年十二月初四日、前署総督福建浙江事務巡撫都察院張憲牌をうけ、康煕四十八年十二月、礼部の咨来る、いわく、主客清吏司案呈、本部にうけ礼科におくり、うつし出す、本部しるしすゝむることの内をみれは、浙江巡撫黄建中か疏ニいわく、琉球国位薩哆等六人のる所の船、風にはなたれ今年四月初三日浙江の境界石浦与いふ所に着岸、此等を以石浦県より毎日食粮を給り、御あわれみをなされ候、其上御吟味被成候ハ、琉球国浙江よりハ本より往来もなし、進貢船□□(来れカ)ハ閩の国なり、位薩哆等事、閩のようにおくり到、琉国の使者帰の時分其船に便船して帰すへきよし仰出されたり、これによつて現在今琉国耳目官向英等進貢すゝみ来、此等回国の節、閩により右の位薩哆等六人を以て向英等留辺人役一処に取合せ、食粮をあたへ、彼の国ニかへしてしかるへきよし、康煕四十八年十月二十六日の題書、今月二十八日其旨をうけるに依て、此をつゝしみしたかつて部にうつし司に送る、此旨を奉て相応に咨を浙閩の総督に移して可なり、また咨を合こまかにてらし行へき等のよし、院にいたる、これをはかりあわせなして牌をそなへ行ふ、司、部文の内をてらしみて旨を奉け、便ち遵ひてらし、浙省より位薩哆等六人送来り、閩にいたる日を待て即理(現カ)ニ今進貢琉球人耳目官向英等、留辺人役一同ニ口粮をあたへ向英等回国の時を待、一所に付のせ帰すへし、ならひに即閩にいたる日期をとり、まつ詳に報して巡撫察により部に咨して違ふことなかれ、此旨を以又前の巡撫都察院張、憲牌を奉て礼部の咨にくらふれハ同前のよし、院にいたりて行ふ、司、此旨を奉て遵行、案の通り、今風のそゝきの時節にいたる、例の通一併に付のせ国に帰す、其外取合返事いたさん為を(ママ)咨を貴世孫ニ移し候、請ふ、来文の事理、御苦労なからよく知り行ひなさるへし、しれハ咨の心にかなふ者也   右、琉球国中山王世孫尚ニ   咨す  康煕四十九年六月初八日   咨 8  位薩眸大清江飄着之由礼部より告文の扣   咨(①)   禮部為報明事主客清吏司案呈奉本部送禮科抄出該本部題前事内閩浙江巡撫黄秉中疏稱琉球國位薩哆等六人所坐船隻被風飄流於本年四月初三日到浙省境界石浦地方登岸将伊等令該縣日給口糧加意軫恤外査琉球國於浙省素無往来即有進貢船隻倶係停泊閩省将位薩哆等應送閩省附搭該國便船帯回等語査現今琉球國差耳目官向英等進  貢前来伊等回國路由閩省應将位薩哆等六人送至閩省與向英等留辺人役合併一處給與口糧俟向英等回時附搭伊船帯回可也等因康煕四十八年十月二十六日題本月二十八日奉 旨依議欽此欽遵抄部送司奉此相應移咨琉球國王可也等因呈   堂奉批照行為此合咨前去煩為査照施行須至咨者   右  咨   琉球國王  康煕四十八年十一月十七日  注①文書4と同様「咨」の位置はここではなく日付のあとであろう。      右咨文の通俗 礼部報け明らむる事のために主客清吏司案呈す、これを本部に奉け礼科に差し出し、該本部題し、前ることの内をみるに、浙江巡撫黄秉中疏ニいわく、琉球国位薩哆等六人のる所のふね壱艘、風にはなされ、今年四月初三日浙省の境界石浦の地方にいたりて岸にのほる、此等を以該県より毎日口粮を給せしめ意を加へめくみ置候よし、此外巨細に考るに、琉球国浙省におゐてハ本より往来なし、即進貢船来れともそれハ閩省ニ参候間、位薩哆等を以閩省におくり、彼国の便船に付のせかへすへき、等の談なり、これに依て委細考れハ、現に今琉球国使耳目官向英等進貢して前み来る、此等回国の路に、閩省により位薩哆等六人を以閩省におくりいたるゝ向英等留辺の人役と一所によせあわせ、口粮を給しあたゑ、向英等の帰る時節を待、彼船に付のせてかへし、しかるへき、等のよし、康煕四十八年十月廿六日の題、今月二十八日宣旨を奉て評議により、此をつゝしみ猶欽しみしたかつて部に抄し司におくる、此旨を奉け相応に咨を琉球国王ニ移して可なり、等のよし、堂に呈し示を奉けててらし行ふ、此等のために咨を調へ前めさる、御苦労なからこまかにてらし行なヘハ咨の心にいたる者なん  右、礼部より琉球国王ニ被遣咨文なり  康煕四十八年十一月十七日     一 中山王尚貞薨逝の訃音布政司へ報明の咨文扣 一 福建布政司より返咨文扣            評定所 書簡和解  五      酉日番 9  中山王逝去の訃を申上ルによつて世孫尚益より福建布政司へ続目願之咨文扣   琉球國中山王世孫尚益為報祖父薨逝權攝國政事竊照敝國雖越在海外能治生民世修藩職皆荷 天朝福澤遠庇及益祖父尚貞襲封叨 恩尤渥方期長為海表藩鎮傳子及孫不料益父世子尚純蹇不永年於康煕肆拾伍年拾貳月参拾日以疾先卒益雖代父問視不敢少懈而祖父終以益父事親能孝痛悼不己過於悲傷漸成虚怯一旦臥痾遂至於本年漆月拾参日薨逝臨終呼益至榻前命之曰吾請封嗣業経今三十載歴蒙 聖朝眷顧有加無己天高地厚浩蕩難名今病勢沈篤料此生無能報答汝小心恭順以継吾志惟痛汝父早亡未膺 封典不得入廟恐以祖為禰如物議何汝宜思之言訖而歿無一語及私益既傷父之云亡復痛祖父之棄世五内分裂敢言継業惟是國事無統衆心靡定益若以私廢公恐負 朝廷封藩之重除於喪次権聴國政不敢稱王外特遣正議大夫蔡灼訃報於   貴司所有祖父遺言亦不敢壅滞伏乞   貴司轉詳   〈督/撫〉両院具  題為此理合移咨   貴司請為査照施行須至咨者   右        咨   福建等處承宣布政使司   康煕肆拾捌年十一月  日   (咨 脱カ)  右咨文通俗 琉球国中山王世孫尚益祖父薨逝、国政権摂を申上る事の為に窃に明らむるに、敝国海外にありといへとも、よく生民をおさめ世々藩職を修す、是皆以天朝の福沢をにのふて、遠くおほふて益か祖父尚貞におよひ襲封厚恩尤あつし、正おもふ、なかく海表の藩鎮、子につたへ孫に及したき処ニ格護の外、益か父世子尚純永年ならす、康煕四十五年十二月参拾日以疾先に卒す、益父にかわりて問視しはらくおこたらすといゑとも、祖父尚貞益か父の親につかへて能孝ありしをいたみ悲てやます、其悲傷のへける故に、終に虚悞(ママ)をなして一旦病にふし、今年漆月十三日遂ニ薨逝す、臨終之節益を榻前に呼寄ていわく、吾封を請、先人の業を嗣事、今にいたりて三十年、聖朝の御めくみ加わる事ありてやむことなし、天の高きことく地の厚ことく、其御恩名つけかたし、今病勢沈篤、はかるに此生にてよく御恩を報し答ることハならし、汝等心をすこしきにして恭順て以吾か志を継よ、たゝ痛わしきハ汝か父いまた封典も膺す、早く亡ひぬる故に廟所に祭る事もなし、恐ハ祖を以禰とせ、物議をいかん、汝宜これをおもへ、言おわつて歿しけるか、一語茂自分の事に及へることなし、益すてに父世子のなき事を傷ぬるに、又此に祖父中山王も世を棄けるをいたみ、五臓さくるかことし、あへて業を継くことをいわんや、しかれともたゝ是国のことすへ治る人なき時は衆のこゝろ定りなし、益私を以公も(ママ)をすてぬれん、おそらくハ朝廷藩職に封し給ふ重御恩にそむくなり、仍報喪をのそき国政をはかりきく、あゑて王とハせうせす、これによつてこの度正議大夫蔡灼を遣し訃を貴司に報し、且又督撫両院へ委細御申上下されたく願申、此等の為に咨を貴司に差上候、万事宜取行給ヘハ咨の心にかなふ物なり   右        咨   福建等処承宣布政使司  康煕四十八年十一月  日 10  福建の布政司より中山王続目願の咨文に返咨の扣   福建等處承宣布政使司為報明祖喪泣攄遺嘱籲賜具  題以表幽忠事康煕四十九年正月初八日准   琉球國中山王世孫尚 咨開竊照敝國海外彈丸荷蒙 天朝不棄俾蛟島波臣得以時脩歳事 褒封 寵賚迥(①)異尋常固期祖父共臻耄耋圖報涓埃奈因命蹇尚益父世子尚純業於康煕四十五年十二月三十日冒染風疾病故嚴親已歿益係嫡長孫承父之重不敢毀形滅性以傷王父心詎料鞠凶疊見益祖中山王尚貞復於本年七月十 三日因老病虚怯寝疾而薨彌留之餘特呼益至榻前泣囑吾世受 聖恩真如高天厚地頂踵難酬今不幸以怯疾身故無復能望風頂祝但犬馬戀主之念雖死弗諼爾其善體吾心恪脩臣職盡忠即以盡孝當敬佩無忘益聞言五内如割幾不欲視息人間煢煢在疚安敢輙萌嗣位之思第茅土錫之 天家屏藩責重諸凡庶務機宜不得不從權暫攝茲當循例接貢理合将祖父薨逝日期併臨終遺囑特遣正議大大(ママ)蔡灼前来報明伏乞貴司察核轉詳   〈督/撫〉両院懇賜具   題上達 宸鑒不特益終身感佩即祖父九泉之下雖死猶生矣等縁由到司准此又為稟報事康煕四十九年三月十一日奉   鎮守福州将軍署理閩浙総督事務祖 批本司呈詳査得琉球國中山王尚貞於康煕四十八年七月十三日身逝世子尚純先於四十五年身故嫡長孫尚益備咨遣使附搭接貢船隻来閩報喪業経詳奉護理撫憲批另詳核奪等因隨即行據福防廳査覆前来遵査該國王既已身逝世子又経物故茲據伊國嫡長孫循例咨報到司相應備録咨文轉請   憲臺察賜  題報可也至于来使正議大夫一員蔡灼跟伴柴思仁等九名既係附搭接貢船隻而来應與接貢幷京回人員一同歸國合併聲明等縁由奉批仰候   撫都院批示繳奉此案照先於本年二月初七日奉   護理福建巡撫印務布政使加 (②)級金 批本司詳仝前由奉批候核(③)  題餘如詳行仍候   督部院批示繳奉此遵行在案又   為前事康煕四十九年五月十五日奉         巡撫都察院許(④) 憲牌康煕四十九年五月十二日准   禮部咨主客清吏司案呈奉本部 送禮科抄出該本部題前事内開據護理福建巡撫印務布政使金 (⑤)疏稱琉球國中山王尚貞於康煕四十八年七月十三日病故世子尚純於康煕四十五年身故該王嫡長孫尚益備咨遣使附搭接  貢船隻来閩報喪應請題報其来(⑥)使正議大大(ママ)蔡灼跟伴柴思仁等九名附搭進  貢人員一同歸國等因具題前来査康煕八年據福建巡撫劉 疏稱琉球國王尚質病故世子尚貞遺使齎咨等因臣部議覆琉球國世子尚 (⑦)請  封具題之日 封王併故王 賜恤一併再議具題等因具題准行在案應将封琉球國王及  賜恤故王尚貞之處俟該王嫡長孫尚益請  封到日再議具題其稟報琉球國王尚貞病故来使蔡灼等應照該撫所請(⑧)附搭進  貢人員船隻一同遣回可也等因康煕四十九年四月初六日題本月初九日奉 旨依議欽此欽遵抄出到部送司奉此相應移咨福建巡撫可也為此合咨前去査照施行等因到都院准此擬合就行備牌行司備照咨文内奉 旨事理即便移行欽遵査照毋違等因奉此今風汛届期相應附搭進  貢人員船隻一同遣回合就移(⑨)覆為此備由移咨貴世孫請依来文事理煩為欽遵査照施行須至咨者   右       咨   琉球國中山王世孫尚  康煕肆拾玖年陸月初八日    〈報明祖喪等事〉   咨  注①校訂本は不明字。「迨カ」とする。②三ガ入学ル。③不明字。「具カ」とする。④校訂本は「詳」だが、許の誤りであろう。許嗣興。⑤校訂本は一字あき。⑥校訂本は不明字。「死カ」とする。⑦貞ガ入ル。⑧校訂木は不明字。「撫カ」とする。⑨不明字。「咨カ」とする。  右咨文通俗 福建等処承宣布政使司、琉球国中山王薨逝して其世孫尚益祖父の喪報に泣/\遺言等を舒へ、其続目を御ゆるし下されたき旨申上らる事のため□(にカ)、康煕四拾九年正月初八日中山王世孫尚益の咨文をひらきみるに、窃にてらす、わか小国ハ海外の弾丸、天朝の棄給わさる厚恩を蒙り、蛟島の波に住ひする臣等をして、時を以歳事を脩むる事を得をせしむ、其上褒封寵賚はるかによのところにかわり、かたしけなくなし下されけるにより。益か祖父とも(上下カ)よりとしよりたりといゑ共、一たひハ参内仕り露ちり程も御恩を報したくしつけるに、何ともいたしかたき命なり、益か父尚純ハ世子にていまた年もふけさるに、すてに康煕四十五年十二月三十日、風痰の病におかされ歿しける、益ハ嫡長孫にて父の重きをうけ、敢て形をそこない性をほろほして老たる中山王父の心を傷ましめさるやうにと心をつくしける、なんそはからぬ凶事かさねあらわれ、益か祖父中山王尚貞も亦、今年七月十三日老病のつかれにて疾ニ寝て薨しける、臨終の時にいたり益を榻前に呼よせ泣/\遺言していわく、尚貞世々大清皇帝の御恩を受しこと、真に天の高く地の厚きかことく、何たる事をしても其聖恩をむくひかたし、今われ不幸にして病を以身をうしなふ、ねておもひしこともむなしくなりぬ、たゝ犬馬主をしたふのおもひハ、死すといへともわすれす、なんち益それ能わか心をむねとして臣たるの職をつゝしみ、おさめて忠をつくさハ即ちわれに孝をつくすなり、まさに敬て心に銘してこの言を忘るゝことなかれ、いゑり、益其言を聞て五臓の内も割ることし、ほとんと人間を視ることをやめて、久敷病にあるをかなしむのみ、なんそあゑて即ち位を嗣のおもひをきさゝんや、たゝ茅土これをたまふハ天家の屏藩なれハ、せめもろ/\のゑひすよりおもし、しかれはつとめて機の宜に随而権をとり、暫位をおさめすんハあるへからす、茲に例にしたかふ、接貢の時にあたれり、まさに祖父尚貞薨逝の日期をしるし、ならひに臨終の遺言を理し合て特に正議大夫蔡灼をしてすゝめ来り、明白に言上す、こひ願ハ貴司の御察しを以督撫の両院ニよく詳にして熟に御書付を以上聞に達し下されハ、たゝ益か身を終るまてかんし奉るまてにてもなし、即祖父中山王尚貞九泉の下ニ而死すといへとも、なを生けることけんとのよし、委細の咨文布政司いたる、これをはかつて又稟報することの為に、康煕四拾九年三月十一日、鎮守福州将軍署理閩浙総督事務祖の示を受て本の司に呈し、詳に琉球国中山王尚貞、康煕四十八年七月十三日の薨去、其世子尚純先たつて四十五年に歿し、其嫡尚益咨を備し使を遣し、接貢船壱艘に付のせて閩にきたり、喪のことを告てすてに詳にいたゝへて護理撫憲の示を奉て其事を詳にしたるよし候、したかつて即福防庁委細の返事すゝみ来るによつてこまかに考みれハ、中山王薨し世子も又世を去りぬ、因茲嫡長孫例にしたかい咨文を報し布政司いたるの間、よろしく相応に咨文を備へしるし憲台の察をかふて、其通の御ゆるしを下されて可也、となり、来使正議大夫一員蔡灼、跟伴柴思仁等九人、すてに接貢船に付のせて来る、また接貢船にのせ京より回る人数一同に国に帰すへき示を受て仰て撫都院の示をうかゝい、此旨を考てらし、先つて今年二月七日、護理福建巡撫印務布政使加三級金の示を奉け、本の司に詳にすること同前のよし、示を奉者実のゆるしを伺ふ、余ハ詳に行ふかことし、なを督部院の批示を伺ひ是をうけ遵行して案にあり、又前事の為に康煕四拾九年五月十五日巡撫都察院許 憲牌を申請ケ、康煕四拾九年五月十二日礼部の咨いたる、主客清吏司案呈、本部に奉り礼科におくりて抄出す、該本部前事を題する内をひらきみれに、護理福建巡撫印務布政使金、疏にいわく、琉球国中山王尚貞、康煕四十八年七月十三日に病故す、世子尚純は四十五年身故す、該王嫡長孫尚益、咨を備、使を遣し、接貢船に付のせて閩に来り喪のことを報しける、題報を請に応して其来使正議大夫蔡灼、跟伴柴思仁等九名、進貢の人数に付合、一同に国に帰すへきのよし、具題前ミ来る、こまかに考るに、康煕八年福建巡撫劉か疏にいわく、古琉球国王尚質病故のの(衍字)節、世子尚貞使を遣し咨を持てらるゝよし、臣部議して覆す、琉球国世子尚、封を請ふ、具題の日、直に封し、ならひに故王にも恤を賜ひ、一同に再ひ評議して具題すへき等のよし、具題準行して案にあり、まさに琉球国王を封し、及ひ故王尚貞の処へもめくみを給ふへきなり、該王嫡長孫尚益、封を請ていたる日を待て再ひ評議して備へしるすへし、其時冠船をわたし中山王に封すへきなり、又中山王尚貞病故のことを告来る使蔡灼等、該撫請ふ所に応して進貢人数のかゑり船に付のせて一所に琉球かゑしてしかるへし等のよし、康煕四拾九年四月初六日の具題、今月初九日に宣旨をうけ、評議によつて此をつゝしみ、したかつて出さし部にいたり布政司におくり、此等の旨をうけて相応に咨を福建の巡撫に移して可なり、これによつて咨を合せすゝめ考る、こまかにてらしとり行ふへきよし、都院にいたる、これをはかり取合なし行ひ牌をそなへ司に行ふ、咨文の内を具にてらし其旨をよく心得、すなわちつゝしみしたかい、こまかに合照してすこしも其へ理にちかふことなかれのよし、此旨をうけて今風の好時節にあふ、進貢船の人数に右蔡灼を付のせ一所にかゑすにより、取合せ御返事申し、これか為に咨文を貴世孫に移しおくる、請ふ、来文の事理によつて御苦労なから欽遵ひ、こまかにてらしてはとこし行なヘハ咨の心にいたるへきものなり   右、琉球国中山王世孫尚ニ咨するなり  康煕四十九年六月八日     〈報明祖喪等事〉
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