{{ryu_data.f5}}
資料詳細
- 資料ID.
- {{ryu_data.f32}}
- 資料種別
- {{ryu_data.f5}}
- 資料名
- {{ryu_data.f7}}
- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
- {{ryu_data.f30}}
- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
- {{ryu_data.f13}}年 {{ryu_data.f14}}月 {{ryu_data.f15}}日
- 曜日
- {{ryu_data.f16}}
- 差出
- {{ryu_data.f21}}
- 宛先
- {{ryu_data.f22}}
- 文書形式
- {{ryu_data.f26}}
- 書誌情報
- {{ryu_data.f27}}
- 関連サイト情報
- {{item.site}}
- 訂正履歴
- {{ryu_data.f24}}
- 備考
- {{ryu_data.f33}}
テキスト
古義堂文庫の琉球関係漢文史料について
外間みどり
はしがき
本史料は天理大学附属天理図書館蔵 古義堂文庫の史料(抄本)である。古義堂は江戸時代の京都の儒学者伊藤仁斎(一六七〇~一七〇五)が京都近衛堀川に開いた私塾の名称である。そして古義堂文庫は仁斎と彼の思想・学問・文章の忠実かつ適確な継承者とされる長子・東涯(一六七〇~一七三六)親子を中心として、さらに加えて東涯以後の伊藤家の子孫等の自筆稿本及び蒐書のすべてを連綿と三百年にわたって殆ど完全に保存してきた文庫である。天理図書館へは昭和十六年に移譲されている。
現時点(一九九三年九月、一九九四年二月調査)までに確認できた古義堂文庫の琉球関係漢文史料は、以下の六件である。
一、康煕封琉球国王勅(満漢合璧)
日付 漢文 康煕二十八年(一六八九)十月初十日
満文 康煕三十六年(一六九七)九月二十一日
縦五七・四㎝ × 横一九三・五㎝
外枠四八・三㎝ × 一六一・三㎝
内枠三七・二㎝ × 一五〇・〇㎝
(漢文部分『歴代宝案』第一集巻三-二三号文書)
二、琉球表文
日付 康煕四十七年(一七〇八)十月 日
縦三七・〇㎝ × 横一三一・三㎝
(『歴代宝案』第二集巻四-一六号文書)
三、琉球国王咨
日付 康煕四十八年(一七〇九)十一月 日
縦五七・六㎝ × 横一三八・二㎝
四、福建布政司咨
日付 康煕四十九年(一七一〇)六月初八日
縦五七・六㎝ × 横一三八・〇㎝
(『歴代宝案』第二集巻五-〇九号文書)
五、琉球国尚泰久封国勅冩
日付 景泰六年(一四五五)七月二十一日
縦四七・六㎝ × 横九八・七㎝
六、琉球王宛朝鮮国王書冩
日付 万暦三十八年(一六一〇)七月二十七日
縦六一・二㎝ × 横九八・七㎝
〔( )内は『歴代宝案』所収の文書との対応を示す。〕
ただし、今回は紙幅の都合により、一・二・三・四の四件を取り上げて紹介する。
この四件の文書は、各々が封函を持ち、さらに四件がまとめられて筒状の袋に納められている。いずれも康煕時代、琉球では尚貞・尚益・尚敬に係る時代である。袋には右記の文書四件の表題が明記されるほか、「正徳五年乙末九月冩完東胤家蔵」と伊藤東涯の筆が入り、正徳五年(一七一五)の書写であることがわかる。非常に丁寧な書写であり、一・二文書の書き入れ(後示)によると、本抄本は原姿を留めて書写したものと思われる。また一・二・四には朱書または墨書で東涯の注記や訂正が入っている。さらにこの三通は『歴代宝案』にも同じ文書が所収されており、東涯が『歴代宝案』の原本あるいは抄本をみていた可能性が窺え、これらによって『歴代宝案』のもとになった原文書の姿を復元することができる。また現在進行中の『歴代宝案』の編集校訂作業にも参考となる史料である。
さて、それではなぜ古義堂文庫の東涯の自筆注記の入る史料の中に琉球関係の漢文史料があるのだろうか。東涯が書写した原文書をどのような経路で手に入れたのか、琉球使節との接触はあったのか、今のところ不明である。ただ当時のいろいろな状況から次のようなことが考えられるのではないだろうか。
まず東涯が書写したとされる正徳五年前後の時期について。この時期をみると、宝永七年(一七一〇)、正徳四年(一七一四)には琉球国使節のいわゆる江戸上りが行なわれている。また正徳元年(一七一一)には朝鮮通信使の渡来があった。後述するように宝永七年、正徳四年の使節の渡来は、使節の種々の形式が整えられた時期で、琉球に関する書物も多く刊行され、いわゆる琉球ブームがおこった時期である。『古義堂文庫目録』の東涯関係の部分にも右の漢文史料のほかに、宝永七年の使節渡来に関する次のような史料がある。
・琉球国尚益書簡二通之寫(寶永七年中ノモノ、東涯外題)
・南泉院東照宮参詣行列次第(南泉院ハ琉球人ニシテ、寛永七年十一月晦日ノコト)
・寛永七年琉球人濱松病死一件
ここから、当時、東涯が琉球に相当な興味を示していたことが窺われる。
次に当時の漢学者の間にみられる琉球に対する認識について。吉川幸次郎氏によれば、伊藤仁斎は、中国の歴史とあらゆる事物に対して広く正確な知識をもち、その上、中国語の読解と表現に卓越した能力を示しており、この点では当時日本の第一人者であっただろうとし、それに代わったのがその子東涯と荻生徂徠であったという。また京都の伏見は琉球国使節の江戸までの通過地にあたっており、いやがおうでも京都に私塾を開く東涯の耳には使節渡来のこまごまとした情報が入ってきたはずである。さらにこうした東涯の関心は単に一人東涯だけにとどまらず、当時の漢学者の間に広く見い出すことができる。特に宝永・正徳の頃は、荻生徂徠や新井白石が使節と接触して琉球への認識を深め、琉球研究の始まりとも言える時期である。荻生徂徠には宝永七年の琉球使節を見聞したことを記した著書『琉球国聘使記』がある。新井白石は宝永八年に京都で帰国途中の使節と接触、正徳四年には、江戸の島津吉貴の屋敷で接触があり、『白石先生琉人問対』『南島志』『琉球国事略』などの琉球関係の著書がある。白石は正徳四年の時には、宮里親雲上の名で使節に加わっていた程順則とも会見している。周知のように程順則は琉球の学者として名声が高く、留学及び進貢使節として数度の中国渡航の経験をもつ。
ただし、これら漢学者たちの関心が琉球そのものへの関心なのか、あるいは琉球の背後にある中国への関心なのか、琉球人が持っている中国の知識への関心なのか、諸説があり、検討は今後にゆだねたい。
三つめに、それでは東涯がどういう形で琉球使節と接触したかである。現在のところ、両者の間に直接の接触があったかどうかはよくわからない。しかし仁斎・東涯を通じて、古義堂には身分を問わず、いろいろな人が集まって来ていることは非常に興味深い。東涯が古義堂に出入りする者を介して間接的に接触する可能性は考えられないか。たとえば薩摩人を介してはどうであろう。実際、東涯の『初見帳』には琉球人の名はみえないものの、薩摩人の名はみえる。さらに興味をひくことに『古義堂文庫目録』に所収された仁斎の次男つまり東涯の弟梅宇(一六八三~一七四五)関係資料に
・琉球官職位階之太抵 寫横大一冊
がある。これの末尾に「右はお江戸従薩侯之邸出候由にて當地へ参候而有之寫取掛御目候定而先ニ御覧可被成奉存候薩邸にてハ秘シ申候様ニ承候き 英」(これは江戸の薩摩藩邸から出たものだそうで、当地(京都?)へ来たものです。(梅宇が)写し取って(東涯に?)お目にかけるものです。きっと先にご覧になりたいだろうと思います。薩摩では秘密にするようにと受けたまわっております。)とあって、具体的にいつ頃書かれたものかはわからないが、古義堂と薩摩の関係を匂わせてくれる資料である。
また、正徳四年の江戸上りからの帰途、草津にて程順則は、京都の公家近衛家煕のために鴨川の物外楼の詩文を作っている。近衛家煕は、後水尾天皇皇女常子内親王を母に持ち、摂政、太政大臣にまで達した人物である。当時文化人のパトロン的存在であり、東涯とも交流があったようである。なお、近衛家は日向・大隅・薩摩にまたがる嶋津荘の本所として島津氏と関係がある。こうした京都の公家を媒介として、琉球使節との接触は考えられないであろうか。
以上、はなはだ不十分であるが、若干考えてみた。この東涯また古義堂と琉球国使節との接触の可能性については詳細は、今後の課題として考えていきたいと思う。
史料の概容
一の「康煕封琉球国王勅」は、四件の中で唯一の満漢合璧の文書である。すなわち右より始まる右半分が漢文、左より始まる左半分が満文の勅諭である。この抄本自体は漢文部分と満文部分が貼り合わせてある。東涯の注記(後示史料)によると、東涯の見た文書は上下四方に龍と瑞雲の透かし模様の入った紙に書かれたもののようである。この種の皇帝勅諭は李光濤編『明清襠案存真選輯 初集』にもみえている。ただし、この書写には若干問題がある。漢文と満文は同じ内容であるのだが、漢文の日付(康煕二十八年十月初十日)と満文の日付(康煕三十六年九月二十一日)が異なるのである。この満文の書写を、神田信夫先生に見て頂いたところ、満州文字を解さない人の筆のため、字形がかなり崩れてはいるか、若干の文字を除き大体解読することができるということなので、満文も漢文部分とともに丁寧に書写されていたと考えてよいであろう。そうすると、書写の時点で、すでに日付が異なっていた可能性が高い。
この文書が日付の異なった原文書から直接写したものか、あるいは抄本からの重写なのか、判断はできないが、満漢合璧という側面から考えると次の事が言える。
まず漢文部分と満文部分が一紙に書かれている場合である。これは、原文書で日付が異なることは絶対にあり得ないので、書写された文書自体に問題がある。
次に、漢文部分と満文部分がそれぞれ別紙に書かれたものをつなぎあわせて一文書になっている場合である。この場合もとの文書の漢文・満文が何らかの拍子で分離、またそのような文書が何件か生じてしまった時に問題となる。つまり文書の整理を行う際、満文に精通していない者、たとえば琉球の役人等が担当したために、満文への対応が十分にできず、日付の異なる漢文と満文をつなぎ合わせてしまったとは考えられないだろうか。すなわち二件の文書の漢文と満文がそれぞれ入れ替わったのではないか。『歴代宝案』には、この抄本の漢文の日付と同じ康煕二十八年十月初十日と満文の日付と同じ康煕三十六年九月二十一日の皇帝勅諭があり、日付は異なるが、内容・擡頭・行数・字数ともに一致する。もし、この二件が満漢合璧文書で漢文と満文部分か離ればなれになってしまった場合、前述したような日付の異なる漢文と満文を入れ替えてしまう可能性は十分にあり得る。
ちなみに『歴代宝案』所収の文書はすべて漢文のみで、清代の皇帝勅諭にも満漢合璧の文書はない。『歴代宝案』の編集の際に収集されていた文書の中に満漢合璧文書があったかどうか不明だが、編集の段階で何らかの方針があって、満文が除外された可能性があるかもしれない。いずれにせよ、この勅諭は、琉球に係わる外交文書のなかに満漢合璧の皇帝勅諭があったことをほのめかしてくれる。
次に各文書が入っている封函について紹介したい。以下、それぞれの形状を示す。
① 康煕封琉球国王勅
(イ)
※この封函にはさらに包み(ロ)(縦四七・〇㎝ × 横一二・八㎝)がある。
② 琉球表文
③琉球国王咨
(a)
(b)
④ 福建布政司咨
(a)
(b)
①について
(イ)にはさらに包み(ロ)が入っており、文書はその中に納められている。この(ロ)には「此一翰ハ康煕帝より中山王への諭書之冩ニ而御座候此諭書を黄色之薄キ絹ニ包みくりぬきの木筒に入其上を黄色の木綿を以包申候右筒仕立様ハ惣様金箔にてみかき龍を黒繪具ニ而かき其上を漆を以テ薄ク塗申候」と、諭書の納められている木筒について東涯の書き入れがある。
ところで(イ)の封函には、「琉球国中山王尚益謹封」(琉球国中山王尚益謹ンデ封ズル)とあり、尚益が差出人となっている。この封函がはたして東涯のいうように、康煕帝から琉球国王を封ずる勅諭が納められていた本来の形式かどうかについては疑問が生じる。というのは、県立図書館所蔵 東恩納文庫の『琉球貢雪新話』にも(イ)と全く同じ図が記載されているからである。この『琉球貢雪新話』は編者不詳、内容は、薩摩との往復書簡、江戸上り使節名簿及び琉使行列などを記載している。さて、『琉球貢雪新話』の図の右側には「琉球国御改革已前漢文呈上書格式 曲尺二寸一分 黄色帋ニテ作ル」とあり、さらに盖つきの呈書套図の側には「上箱桐ノ箱上、黄色絹ヲキセ」とある。この桐箱は前述(ロ)の東涯の書き込みにあったくりぬきの木箱に相当するものと思われる。そうなると、(イ)の封函といい、(ロ)の書き入れといい、どうやら琉球と日本の間で用いたとされる呈書式によく似ている。しかし、現在のところ中国皇帝の勅諭が封函に入って来たのかどうか。またどのような形式の封函であったのか等わからないので依然として問題は残るが、(イ)の封函は、康煕帝の勅諭が納められる本来の形式ではなく、どこかで、琉球が日本本土の交流上で使用した呈書式とすりかわったのかもしれない。
なお、この時期には書簡問題が起こっている。横山學氏によると、宝永七年(一七一〇)と正徳四年(一七一四)の両使節は使節一行の規模において最大であったばかりでなく、特に、宝永七年度は現存する来朝記録が最も多く、具体的な事実が記録として良く残されている。書式の面をみると、この時期から従来の書式が改められ、使節団の構成、城中における諸礼式、献上物の内容等が定型化したことがわかる。正徳四年琉球王尚敬から幕府に宛てた書簡書式が問題化するのも、宝永七年の幕府への礼状に端を発しているとある。この康煕帝の勅諭は、書写が正徳五年(一七一五)であり、琉球では尚貞から尚益・尚敬の時期すなわち、ちようど書簡問題の起こった時期に係っているので、(イ)の封函はこの書簡問題と幾分関わりがあるのかも知れない。
③④について
③は(a)に康煕四十八年十一月 日の発送日付が記され、(b)には右側から、琉球国中山王世孫尚 は咨文を齎捧し至る。左側に福建等處承宣布政使司はその場にて開封せり、とある。
④には、(a)に中央に文書発送の日付、その両側に内には文書一件、及び布字一号と布政使司での文書編号が記される。(b)には福建等處承宣布政使司が公文を発送し至す。琉球国中山王はその場で開封せり、とある。
また③④それぞれに□が封口及び年月日の箇所を含め三箇所にみえる。おそらく公印の位置で、③の場合は「琉球国王之印」、④には「福建等處承宣布政使司之印」が使用されていただろう。
封函については、『樞垣紀略』巻十三に、臣下からの上奏が皇帝の批准の後、軍機処を経て、再び上奏者に伝えられるときに用いる封函の書写様式の規定が記載されている。それによると、
其封函之式、字寄者、右書辦理軍機處封寄、左書某處某官開拆。傳諭者、居中大書辦理軍機處封、左邉下半書傳諭某處某官開拆。皆於封口及年月日處鈐用辦理軍機處印。(封函の様式、寄信という形式の文書の場合は、右側に辦理軍機処封寄、左側に某処某官開拆と書く。伝諭という形式の文書の場合は、中央に大きく辦理軍機処封、左端下寄りに中央の文字の二分の一の大きさで傳諭某処某官開拆と書く。それぞれ封口と年月日の所には辦理軍機処の押印がされる。)
とある。『樞垣紀略』の記載は、軍機処から発送される文書封函の書写様式の規定であるが、③④の封函の様式と比較した場合、差出人・受取人、公印の位置など共通する部分が見いだせる。そうすると、従来、琉球・中国間の往復文書に関しては、封函の有無はわからなかったが、③④を見る限りにおいては、中国国内と同様、文書は封函を持していたのではないかと思わせてくれる史料である。
以上、気がついた点を述べた。
末筆ながら、本史料の閲覧と写真掲載に快く承諾していただいた天理大学附属天理図書館に感謝の意を表わしたい。また神田信夫先生、秦国経第一歴史档案館副館長をはじめ、多くの先生方に御助言をいただいた。あわせて謝意を表わしたい。
注(1)古義堂文庫には、天理図書館編 天理図書館叢書第二十一輯『古義堂文庫目録』がある。
(2)反町茂雄『定本 天理図書館善本稀書』(八木書店 一九八七年)を参照。また天理図書館報『ビブリア』№4(一九五五年)は、古義堂文庫に関する特集号で、吉川幸次郎「仁斎と徂徠」、反町茂雄「古義堂文庫と私」、中村幸彦「古義堂略史」「孟子古義の成立」を所収。仁斎・東涯については、吉川幸次郎・清水茂 日本思想大系33『伊藤仁斎・伊藤東涯』(一九七一年 岩波書店)、伊藤東涯著『制度通』(岩波文庫吉川幸次郎解題)を参照。
(3)古義堂文庫移譲については、富永牧太「古義堂顛末の記」前掲『古義堂文庫目録』及び前掲『定本 天理図書館善本稀書』に詳しい。
(4)『古義堂文庫目録』では、康煕封琉球国王勅・琉球表文・福建布政司咨・琉球国王咨の順序であるが、本稿では説明の都合上、年代順に並べた。
(5)伊藤東涯、名は長胤、字は源蔵、東涯はその号、別に慥慥斎と号す。私に諡して紹述先生という。
(6)横山學『琉球国使節渡来の研究』 一九八七年 吉川弘文館
(7)前掲『古義堂文庫目録』三六四頁
(8)前掲日本思想大系33『伊藤仁斎・伊藤東涯』解説
(9)横山前掲書61頁
(10)植谷元「伊藤仁斎の門人帳(上)(中)(下)」天理図書館報『ビブリア』69~71号。山根陸宏・岸本眞美「古義堂文庫伊藤東涯『初見帳』(一)~(六)」天理図書館報『ビブリア』91~96号
(11)山根・岸本前掲論文によれば、東涯の『初見帳』は仁斎没の翌年宝永三年(一七〇六)正月~元文元年(一七三六)六月まで、東涯三十七歳より古義堂の主であった三十年余の門人・知人を著録する。『初見帳』に薩摩人と明記された人には、野村善左衛門、大迫伯栄がみえ、ともに紹介者は重久宗仙である。また、小沢伊右衛門 薩摩屋有兵衛手代之由 もみえる。
(12)『古義堂文庫目録』二一三頁。伊藤梅宇、名は長英、初名長敬、字は重蔵(十蔵)、梅宇はその号。
(13)『程氏家譜』(『那覇市史 資料篇第一巻六』一九八〇年)、『真境名安興全集』第四 「琉球の大偉人」教育界の偉人 程順則、池宮正治・小渡清孝・田名真之編『久米村―歴史と人物―』、島尻勝太郎選 上里賢一注釈『琉球漢詩選』(おきなわ文庫 ひるぎ社 一九九〇年)参照。
(14)『国史大辞典』吉川弘文堂
(15)中央研究院歴史語言研究所専刊之三十八 李光濤編『明清檔案存真選輯 初集』中華民国四十八年(一九五九)
(16)中国第一歴史档案館の秦国経副館長によると、一般に満漢合璧文書は、文章が短いものは漢文と満文が一紙に、長いものになると別々に書かれ合貼されている。ただ合貼される場合、文書裏の合貼部分に盖印がされ、これでもって文書の離合、他文書との結合の不安を除いているという。
(17)再び中国第一歴史档案館の秦国経副館長によると、清は異民族満州族の王朝である。清朝では、皇帝が政を詔等の公式文書で全国に発布する場合、満州族の権威を示し満満合璧の文書になっている。よって中国と琉球、いわゆる宗主国と藩属国の場合でも、国と国の関係にあたるので、その権威を示すため、理屈上では満漢合璧の文書になっているはずだという話であった。
(18)『歴代宝案』の編集については、小葉田淳「歴代宝案について」(『歴代宝案研究』創刊号 一九九〇年(『史林』四六巻四号 一九六三年より転載)及び富島壯英「『歴代宝案』第一集の編集者達」(『歴代宝案研究』第二号 一九九一年)、和田久徳「『歴代宝案』第一集解説」(『歴代宝案』校訂本第二冊 一九九二年)、神田信夫「校訂本 第三冊・第四冊解説」『歴代宝案』校訂本第四冊一九九三年)を参照。なお、宮田俊彦・和田久徳「明孝宗より琉球国中山王尚眞への勅書」(『南島史学』第3号 一九七三年)八頁では、『歴代宝案』の原本と重修本の編集に触れている。
(19)『古義堂文庫目録』 一〇八・二六二頁。
(20)沖縄県立図書館蔵 東恩納文庫(K二〇〇、八/R九八/一~三)。『沖縄県郷土資料総合目録』(昭和四七年三月一日現在)では、『琉球貢雪新話』上・中・下編者不詳 3冊 23㎝ 筆写本 和装とある。
(21)横山前掲書三四〇頁では、『琉球貢雪新話』を天保三年、使節渡来記録と分類している。
(22)書簡問題に関しては、横山前掲書「第三章 琉球国使節の展開」六一~一二五頁を参照。新井白石『折たく柴の記』の巻下に「其王尚益が代より漢語を用ひ、書函の式等も改れり…」、また真境名安興『沖縄一千年史』には「琉球先王尚貞王の書は皆和文式に従い御字、候字、誠恐謹言等の語を用いしに、尚益王に至って専ら漢文式を用い…」とあり、書式は尚益から改まっている。
(23)(清)梁章鉅 朱智選『樞垣記略』
〔史料紹介〕
凡例
①原文は欠字・擡頭を含め、抄本の体裁に随った。ただし、本稿では一行の字数の関係上、抄本の一行が二行にわたる場合がある。その場合には抄本の一行の終わりを/で示した。
②原文の使用文字については、正字体に統一した。
③書き下し文の使用文字については、常用漢字に統一した。
④抄本に書き込みのある場合は、書き込みの位置と内容を示した。
⑤虫損字・不明字などは□で示した。
⑥一、康煕封琉球国王勅と二、琉球表文には句読点がほどこさ
れている。
一、康煕封琉球國王勅(満漢合璧)
(漢文:康煕二十八年十月初十日
満文:康煕三十六年九月二十一日)
〔原文〕(後半の満文は省略)
皇帝勅諭琉球國中山王尚貞
朕惟昭徳懐遠盛世之良規修職獻琛藩臣之大節輸誠匪懈寵賚宜頒爾琉球國中山王尚貞屬在遐方克抒丹悃遣使齎表納貢忠藎之忱良可嘉尚是用降勅奨諭併賜王文綺等物王其祗承益勵忠貞以副朕眷欽哉故勅
計開
蟒緞肆疋 青藍綵緞陸疋
藍素緞陸疋 衣素陸疋
閃緞陸疋 錦肆疋
紬陸疋 羅陸疋
紗陸疋
康熙二十八年十月初拾日
〔敕命之寶〕
〔書き込み〕 本文書右端下 本紙此通龍上下四方ニ六アリ上ニ二下ニ二向ヒ合セテ写シ前ニハ昇龍奥ノタテニハ降龍也外ニ雲気多シ
〔書き下し〕
皇帝、琉球国中山王尚貞に勅諭す。
朕、惟うに徳を昭かにし遠を懐くるは、盛世の良規なり。職を修め琛を献ずるは、藩臣の大節にして、誠を輸し懈らざれば、寵賚宜しく頒つべし。爾、琉球国中山王尚貞、属して遐方に在り、克く丹悃を抒べ、使いを遣わし表を齎らし貢を納む。忠藎の忱は良に嘉尚すべし。是を用って勅を降し奨諭し、併せて王に文綺等の物を賜う。王、其れ祗んで承け、益すます忠貞に励み、以って朕が眷に副え。欽しめよかな。故に勅す。
計に開す
蟒緞四疋 青藍綵緞六疋
藍素緞六疋 衣素六疋
閃緞六疋 錦四疋
紬六疋 羅六疋
紗六疋
康煕二十八年十月初十日
二、琉球表文
(康煕四十七年十月 日)
〔原文〕
琉球國中山王臣尚貞誠惶誠恐稽首頓首
上言伏以
大一統之規模誕敷聲教
綿萬年之暦敷丕著光華
航海梯山極來享來王之盛
開天闢地昭同文同軌之休朝野傾心臣民頌徳欽惟
皇帝陛下
惟精惟一
乃聖乃神
奠社稷於無礙卜年卜世
光謨烈於有永丕顯丕承臣貞蛟島外藩蟻封荒服雖不毛之地徒切芹私而愛
君之誠敢忘葵向敬遣陪臣向英毛文哲等遠渉波濤之險車用指南虔齎筐篚之微斗瞻極北少伸蒿呼之悃聊依
日照之光伏願
江漢朝宗
星辰拱極
奏虞廷雅楽群瞻鳳儀獸舞之祥
毓周室賢才代著豹變鷹揚之績將見五風十雨長存玉燭以常調四瀆九州大鞏金甌於孔固矣臣貞無任瞻
天仰
聖激切屏營之至謹奉
表恭
進以
聞
康煕肆拾柒年十月 日琉球國中山王臣尚貞謹上表
〔書き込み〕 本文書の後につづけて
朱字:本紙句豆ナシ此紙本紙ノ通ナリ
墨字:本紙総体ノ大さ此通首の餘紙文字之高下此通行之間□まり□□本紙とちかい申候本紙本文の終と年号との間年号より終迄之間始の余紙と三所之余紙同じ寸法也
〔書き下し〕
琉球国中山王臣尚貞、誠惶誠恐、稽首頓首して、言を上る。
伏して以うに、一統の規模を大いにし、誕いに声教を敷き、万年の暦数を綿らね、丕いに光華を著わせり。海を航り山に梯し、来享来王の盛んなるを極め、天を開き地を闢き、同文同軌の休を昭かにす。朝野心を傾け、臣民徳を頌う。欽しんで惟うに、皇帝陛下は、惟れ精にして惟れ一、乃ち聖にして乃ち神、社稷を無疆に奠め、年を卜い世を卜い、謨烈を有永に光かし、丕いに顕し丕いに承く。臣貞は、蛟島の外藩にして、蟻封の荒服たり。不毛の地にして、徒だ芹私を切にすると雖ども、而れども君を愛するの誠は、敢えて葵向するを忘れんや。敬しんで陪臣向英・毛文哲等を遣わし、遠く波涛の険を渉るに、車に指南を用い、虔しんで筐篚の微を齎らすに、斗に極北を瞻て、少や嵩呼の悃を伸べ、聊か日照の光に依らんとす。
伏して願わくば、江漢は宗に朝し、星辰は極を拱く。虞廷の雅楽を奏し、群鳳儀獣舞の祥なるを瞻、周室の賢才を毓み、代豹変鷹揚の績を著わす。将に五風十雨、長く玉燭を存して、以って常に、四瀆九州を調え、大いに金甌を孔固に鞏むるを見んとす。臣貞、天を瞻、聖を仰ぎ、激切屏営の至りに任うる無し。謹んで表を奉じ、恭しく進んで以聞す。
康煕四十七年十月 日 琉球国中山王臣尚貞謹んで表を上る
三、琉球國王咨
(康煕四十八年十一月 日)
〔原文〕
琉球国中山王世孫尚益爲報祖父薨逝権摂國政事竊照敝國雖越在/海外能治生民世修藩職皆荷
天朝福澤遠庇及益祖父尚貞襲封叨
恩尤渥方期長爲海表藩鎮傳子及孫不料益父世子尚純蹇不永年於康煕/肆拾伍年拾貳月參拾日以疾先卒益雖代父問視不敢少懈而祖父終/以益父事親能孝痛悼不已過於悲傷漸成虚怯一旦臥痾遂至於本年/柒月拾參日薨逝臨終呼益至楊前命之曰吾請封嗣業經今三十載歴蒙
聖朝眷顧有加無已天高地厚浩蕩難名今病勢沈篤料此生無報答汝小心恭順以繼吾志惟痛汝父早亡未膺
封典不得入廟恐以柤爲禰如物議何汝宜思之言訖而殂無一語及私益既傷父之云亡復痛祖父之棄世五内分裂敢言繼業惟是國事統衆心無定益以私廢公恐負
朝廷封藩之重除於喪次権聴國政不敢稱王外特遣正議大夫蔡灼/訃報於
貴司所有祖父遺言亦不敢壅滞伏乞
貴司轉詳
〈督/撫〉両院
※脱行カ
爲此理合移咨
貴司請爲査照施行須至咨者
右 咨
福建等處承宣布政使司
康熙肆拾捌年拾壹月 日
咨
〔書き下し〕
琉球国中山王世孫尚益、祖父の薨逝を報じ、権に国政を摂めんが事の為にす。
窃かに照らすに、敝国海外に越在すると雖も、能く生民を治め、世藩職を修むるは、皆、天朝の福沢遠庇を荷けばなり。益が祖父尚貞襲封するに及んで、恩を叨けなくすること尤も渥ければ、方に長く海表の藩鎮となり、子及び孫に伝えんことを期す。料らずも益が父世子尚純、蹇みて永年ならず、康煕四十五年十二月三十日に於いて、疾を以って先に卒す。益、父に代りて問視し、敢えて少しも懈らざると雖も、而れども祖父終に益が父の親に事え能く孝なるを以って、痛悼已まざること、悲傷より過ぎ漸く虚怯と成り、一旦臥痾し、遂に本年七月十三日に至って薨逝す。臨終に、益を呼び榻前に至らしめ、之に命じて曰く、吾、封嗣を請い業経に三十載、歴しば聖朝眷顧を蒙むること加わる有りて已む無し、天高く地厚く浩蕩として名づくる難し。今、病勢沈篤にして、料るに此の生は報答無し。汝、小心に恭順して以って吾が志を継げ。惟だ痛ましくも汝が父早に亡くなり、未だ封典を膺けざれば、廟に入るるを得ず。恐らくは祖を以って禰となさば、物議するを如何んせん。汝、宜しく之を思うべし。とあり。言訖りて殂して一語も無し。私益に及んでは、既に父の亡なりしを云うを傷み、復た祖父の世を棄つるを痛み、五内分裂するも敢えて業を継ぐと言わんや。惟だ国事、衆心を統るに定め無く、益、私を以って公を廃せば、恐らくは朝廷の藩を封ずるの重きに負かん。喪次に於いて権に国政を聴め、敢えて王を称せざるを除くの外、特に正議大夫蔡灼を遣わして、貴司に訃報す。所有の祖父の遺言も亦だ敢えて壅滞せず。伏して乞うらくは、貴司より督撫両院に転詳せられ、具(奏せしめられんことを乞う。)此れが為に理として合に貴司に移咨す。請為ば査照して施行せられよ。須らく咨に至るべきものなり。右、福建等処承宣布政司に咨す。
康煕四十八年十一月 日
四、福建布政司咨
(康煕四十九年六月初八日)
〔原文〕
福建等處承宣布政使司爲報明祖喪泣攎遺囑籲賜具
題以表幽忠事康煕四十九年正月初八日准琉球國中山王世孫尚 咨開竊照敝國海外弾丸荷蒙
天朝不棄俾蛟島波臣得以時修歳事
褒封
寵賚迥異尋常固期祖父共臻耄耋圖報涓埃奈因命蹇尚益父世子尚純業於康煕四十五年十二月三十日冒染風/痰病故嚴親已歿益係嫡長孫承父之重不敢毀形滅性以傷王父心詎料鞠凶疊見益祖中山王尚貞復於本/年七月十三日因老病虚怯寝疾而薨彌留之餘特呼益至楊前泣囑吾世受/
聖恩真如高天厚地頂踵難酬今不幸以怯疾身故無復能望風頂祝但犬馬戀主之念雖死弗諼爾其善體吾心/恪修臣職盡忠即以盡孝當敬佩無忘益聞言五内如割幾不欲視息人間㷀㷀在疚安敢輙萌嗣位之思第/茅土錫之
天家屏藩責重諸凡庶務機宜不得不従権暫攝茲當循例接貢理合将祖父薨逝日期併臨終遺囑特遣正議大夫/蔡灼前來報明伏乞貴司察核轉詳
〈督/撫〉両院懇賜具
題上達
宸鑑不特益終身感佩即祖父九泉之下雖死猶生矣等縁由到司准此又爲稟報事康煕四十九年三月十一日奉/鎮守福州將軍署理閩浙總督事務祖 批本司呈詳査得琉球國中山王尚貞於康煕四十八年七月十三日身/逝世子尚純先於四十五年身故嫡長孫尚益備咨遣使附搭接貢船隻來閩報喪業經詳奉/護理撫憲批另詳核奪等因隨即行據福防廰査覆前來遵査該國王既已身逝世子又經物故茲據伊國嫡長/孫循例咨報到司相應備録咨文轉請
憲臺察賜
題報可也至于來使正議大夫一員蔡灼跟伴柴思仁等九名既係附搭接貢船隻而來意與接貢并京回人員一同/歸國合併聲明等縁由奉批仰候
撫都院批示繳奉此案照先於本年二月初七日奉
護理福建巡撫印務布政使加三級金 批本司詳仝前由奉批候核/
題餘如詳行仍候
督部院批示繳奉此遵行在案又爲前事康煕四十九年五月十五日奉/巡撫都察院詳 憲牌康煕四十九年五月十二日准
禮部咨主客清吏司案呈奉本部送禮科抄出該本部題前事内開據護理福建巡撫印務布政使金 /疏稱琉球國中山王尚貞於康煕四十八年七月十三日病故世子尚純於康煕四十五年身故該王嫡長孫尚/益備咨遣使附搭接
貢船隻來閩報喪應請題報其來使正議大夫蔡灼跟伴柴思仁等九名附搭進/貢人員一同歸國等因具題前來査康煕八年據福建巡撫劉疏稱琉球國王尚質病故世子尚貞遣使齎咨/等由臣部議覆琉球國世子尚貞請封具題之日 封王併故王 賜恤一併再議具題等因具題准行在案席將封琉球國王及/賜恤故王尚貞之處俟該王嫡長孫尚益請 封到日再議具題其稟報琉球國王尚貞病故來使蔡灼等/應照該撫所請附搭進 貢人員船隻一同遣回可也等因康煕四十九年四月初六日題本月初九日奉/ 旨依議欽此欽遵抄出到部送司奉此相應移咨福建巡撫可也爲此合咨前去査照施行等因到都院准此擬/合就行備牌行司備照咨文内奉
旨事理即便移行欽遵査照毋違等因奉此今風汛届期相應附搭進貢人員船隻一同遣回合就移覆爲此備由移咨/貴世孫請依來文事理煩爲欽遵査照施行須至咨者
右 咨
琉球国中山世孫尚
康煕肆拾玖年陸月 初八
報明祖喪等事
咨
〔書き下し〕
福建等処承宣布政使司、祖喪を報明し、泣いて遺嘱を攎べ、具題を賜わるを籲め、以って幽忠を表わさんが事の為にす。
康煕四十九年正月初八日、琉球国中山王世孫尚 の咨を准けたるに開すらく、窃かに照らすに、敝国海外の弾丸なるも、荷けなくも天朝棄てずして蛟島の波臣をして時を以って歳事を修めるを得さしめ、褒封寵賚すること迥かに尋常と異なるを蒙むる。固より祖父共に耄耋に臻り、涓埃を報いんと図るを期するも、奈せん命蹇まるに因り、尚益の父世子尚純、業に康煕四十五年十二月三十日に於いて風痰に冒染して病故す。厳親已に歿し、益は嫡長孫に係れば、父の重きを承け、敢えて毀形滅性し、以って王父の心を傷わず。詎料らん、鞠凶畳見し、益が祖中山王尚貞も復た本年七月十三日に於いて老病、虚怯寝疾に囚り薨る。弥留の余、特に益を呼びて榻前に至らしめて泣いて嘱む。吾世、聖恩を受けること真に高天厚地の如く、頂踵するも酬い難し。今、不幸にして怯疾を以って身故せんとするに、復た望風頂祝する能う無し。但、犬馬の主を恋うの念は死すと雖も諼れず。爾、其れ善く吾が心を体し、恪しんで臣職を修め忠を盡くせよ。即ち孝を尽くするを以って当に敬しんで佩して忘れること無かるべし。益、言を聞きて五内割れるが如し。幾ど人間に視息するを欲せず、煢煢として疚に在るに、安んぞ敢えて輙く位を嗣ぐの思を萌さんや。第だ茅土は之を天家に錫わりたれば、屏藩の責重、諸凡庶務の機宜は、権に従りて暫く摂めざるを得ず。茲に例に循いて接貢するに当れば、理として合に祖父薨逝の日期、併びに臨終の遺嘱を将って、特に正議大夫蔡灼を遣わし前来せしめて報明す。伏して乞うらくは、貴司察核して督撫両院に転詳し、具題して宸鑑に上達せんことを賜らんことを懇う。特だに益終身感佩するのみならず、即ち祖父も九泉の下で死すと雖も猶お生きるがごとからん等の縁由、司に到る。此を准けたり。
又、禀報の事の為にす。康煕四十九年三月十一日、鎮守福州将軍署理閩浙総督事務祖 の批を奉じたる本司の呈詳に、査し得たるに、琉球国中山王尚貞、康煕四十八年七月十三日に於いて身逝す。世子尚純は先に四十五年に於いて身故す。嫡長孫尚益、咨を備えて使いを遣わし、接貢船隻に附搭せしめ、閩に来りて喪を報ぜしむに、業経に護理撫憲の批を詳奉し、另に詳もて核奪せしむ等の因あり。随即に行じて、福防庁の査覆して前来するに拠り遵査するに、該国王既已に身逝し、世子も又、経に物故せり。茲に伊の国の嫡長孫、例に循い咨報し司に到るに據り、相い応に備さに咨文を録して憲台に転請し、察して題報を賜われば可なり。来使正議大夫一員蔡灼・跟伴柴思仁等九名に至っては、既に接貢船隻に附搭して来るに係れば、応に接貢并びに京回の人員と一同に帰国せしむべし。合併して声明す等の縁由あり。批を奉じたるに仰ぎて撫都院の批示を候て。繳むべし、とあり。此を奉けたり。
案照するに先に本年二月初七日に於いて護理福建巡撫印務布政使加三級金 の批を奉じたる本司の詳に前由に仝じとある批を奉じたるに、核題するを候て。余は詳の如く行え。仍お督撫院の批示を候て。繳むべし、とあり。此れを奉けたり。遵行して案に在り。
又、前事の為にす。康煕四十九年五月十五日、巡撫都察院詳 の憲牌を奉じたるに、康煕四十九年五月十二日、礼部の咨を准けたるに、主客清吏司の案呈に、本部の送りたる礼科の抄出を奉じたるに、該本部の題する前事内に開すらく、護理福建巡撫印務布政使金 の疏に拠るに称すらく、琉球国中山王尚貞、康煕四十八年七月十三日に於いて病故し、世子尚純、康煕四十五年に於いて身故す。該王嫡長孫尚益、咨を備えて使いを遣わし、接貢船隻に附搭し閩に来らしめ喪を報じたれば応に題報を請うべし。其の来使正議大夫蔡灼・跟伴柴思仁等九名・附搭の進貢人員は、一同に帰国せしめよ等の因あり。具題して前来す。査するに、康煕八年、福建巡撫劉 の疏に拠りて称すらく、琉球国王尚質、病故し、世子尚貞、使いを遣わし咨を齎らす等の由あり。臣が部、議覆すらく、琉球国世子尚貞、封を請い具題するの日、封王併びに故王の賜恤は一併に再議して具題せよ等の因あり。具題して准行すること案に在り。応に琉球国王を封じ及び故王の尚貞を賜恤するところを将って、該王の嫡長孫尚益の請封到るの日を俟って再議具題すべし。其の琉球国王尚貞の病故を稟報せる来使蔡灼等は、応に該撫の請う所に照らして進貢人員の船隻に附搭し、一同に遣回せしむれば可なるべし等の因あり。康煕四十九年四月初六日題し、本月初九日、旨を奉けたるに、議に依れ。とあり。此れを欽しむ。欽遵せり。抄出して部に到れば司に送る。此れを奉じたり。相い応に福建巡撫に移咨すれば可なるべしとあり。此れが為に合に咨もて前去せしめ査照施行せしむ等の因、都院に到る。此れを准けたり。擬して合に就ちに行し、牌を備えて司に行し、備さに咨文内の旨を奉じたるに、事理に照らし、即便に移行せよ、とあり。欽遵せり。査照して違う毋かれ等の因あり。此れを奉けたり。今、風汛期に届れば、相い応に進貢人員の船隻に附搭して、一同に遣回せしめ、合に就ちに移覆すべし。此れが為に、由を備えて貴世孫に移咨す。来文の事理に依らんことを請う。煩為くば、欽遵して査照して施行せられんことを。須らく咨に至るべき者なり。
右、琉球国中山王世孫尚 に咨す。
康煕四十九年六月初八日
祖喪等を報明する事
外間みどり
はしがき
本史料は天理大学附属天理図書館蔵 古義堂文庫の史料(抄本)である。古義堂は江戸時代の京都の儒学者伊藤仁斎(一六七〇~一七〇五)が京都近衛堀川に開いた私塾の名称である。そして古義堂文庫は仁斎と彼の思想・学問・文章の忠実かつ適確な継承者とされる長子・東涯(一六七〇~一七三六)親子を中心として、さらに加えて東涯以後の伊藤家の子孫等の自筆稿本及び蒐書のすべてを連綿と三百年にわたって殆ど完全に保存してきた文庫である。天理図書館へは昭和十六年に移譲されている。
現時点(一九九三年九月、一九九四年二月調査)までに確認できた古義堂文庫の琉球関係漢文史料は、以下の六件である。
一、康煕封琉球国王勅(満漢合璧)
日付 漢文 康煕二十八年(一六八九)十月初十日
満文 康煕三十六年(一六九七)九月二十一日
縦五七・四㎝ × 横一九三・五㎝
外枠四八・三㎝ × 一六一・三㎝
内枠三七・二㎝ × 一五〇・〇㎝
(漢文部分『歴代宝案』第一集巻三-二三号文書)
二、琉球表文
日付 康煕四十七年(一七〇八)十月 日
縦三七・〇㎝ × 横一三一・三㎝
(『歴代宝案』第二集巻四-一六号文書)
三、琉球国王咨
日付 康煕四十八年(一七〇九)十一月 日
縦五七・六㎝ × 横一三八・二㎝
四、福建布政司咨
日付 康煕四十九年(一七一〇)六月初八日
縦五七・六㎝ × 横一三八・〇㎝
(『歴代宝案』第二集巻五-〇九号文書)
五、琉球国尚泰久封国勅冩
日付 景泰六年(一四五五)七月二十一日
縦四七・六㎝ × 横九八・七㎝
六、琉球王宛朝鮮国王書冩
日付 万暦三十八年(一六一〇)七月二十七日
縦六一・二㎝ × 横九八・七㎝
〔( )内は『歴代宝案』所収の文書との対応を示す。〕
ただし、今回は紙幅の都合により、一・二・三・四の四件を取り上げて紹介する。
この四件の文書は、各々が封函を持ち、さらに四件がまとめられて筒状の袋に納められている。いずれも康煕時代、琉球では尚貞・尚益・尚敬に係る時代である。袋には右記の文書四件の表題が明記されるほか、「正徳五年乙末九月冩完東胤家蔵」と伊藤東涯の筆が入り、正徳五年(一七一五)の書写であることがわかる。非常に丁寧な書写であり、一・二文書の書き入れ(後示)によると、本抄本は原姿を留めて書写したものと思われる。また一・二・四には朱書または墨書で東涯の注記や訂正が入っている。さらにこの三通は『歴代宝案』にも同じ文書が所収されており、東涯が『歴代宝案』の原本あるいは抄本をみていた可能性が窺え、これらによって『歴代宝案』のもとになった原文書の姿を復元することができる。また現在進行中の『歴代宝案』の編集校訂作業にも参考となる史料である。
さて、それではなぜ古義堂文庫の東涯の自筆注記の入る史料の中に琉球関係の漢文史料があるのだろうか。東涯が書写した原文書をどのような経路で手に入れたのか、琉球使節との接触はあったのか、今のところ不明である。ただ当時のいろいろな状況から次のようなことが考えられるのではないだろうか。
まず東涯が書写したとされる正徳五年前後の時期について。この時期をみると、宝永七年(一七一〇)、正徳四年(一七一四)には琉球国使節のいわゆる江戸上りが行なわれている。また正徳元年(一七一一)には朝鮮通信使の渡来があった。後述するように宝永七年、正徳四年の使節の渡来は、使節の種々の形式が整えられた時期で、琉球に関する書物も多く刊行され、いわゆる琉球ブームがおこった時期である。『古義堂文庫目録』の東涯関係の部分にも右の漢文史料のほかに、宝永七年の使節渡来に関する次のような史料がある。
・琉球国尚益書簡二通之寫(寶永七年中ノモノ、東涯外題)
・南泉院東照宮参詣行列次第(南泉院ハ琉球人ニシテ、寛永七年十一月晦日ノコト)
・寛永七年琉球人濱松病死一件
ここから、当時、東涯が琉球に相当な興味を示していたことが窺われる。
次に当時の漢学者の間にみられる琉球に対する認識について。吉川幸次郎氏によれば、伊藤仁斎は、中国の歴史とあらゆる事物に対して広く正確な知識をもち、その上、中国語の読解と表現に卓越した能力を示しており、この点では当時日本の第一人者であっただろうとし、それに代わったのがその子東涯と荻生徂徠であったという。また京都の伏見は琉球国使節の江戸までの通過地にあたっており、いやがおうでも京都に私塾を開く東涯の耳には使節渡来のこまごまとした情報が入ってきたはずである。さらにこうした東涯の関心は単に一人東涯だけにとどまらず、当時の漢学者の間に広く見い出すことができる。特に宝永・正徳の頃は、荻生徂徠や新井白石が使節と接触して琉球への認識を深め、琉球研究の始まりとも言える時期である。荻生徂徠には宝永七年の琉球使節を見聞したことを記した著書『琉球国聘使記』がある。新井白石は宝永八年に京都で帰国途中の使節と接触、正徳四年には、江戸の島津吉貴の屋敷で接触があり、『白石先生琉人問対』『南島志』『琉球国事略』などの琉球関係の著書がある。白石は正徳四年の時には、宮里親雲上の名で使節に加わっていた程順則とも会見している。周知のように程順則は琉球の学者として名声が高く、留学及び進貢使節として数度の中国渡航の経験をもつ。
ただし、これら漢学者たちの関心が琉球そのものへの関心なのか、あるいは琉球の背後にある中国への関心なのか、琉球人が持っている中国の知識への関心なのか、諸説があり、検討は今後にゆだねたい。
三つめに、それでは東涯がどういう形で琉球使節と接触したかである。現在のところ、両者の間に直接の接触があったかどうかはよくわからない。しかし仁斎・東涯を通じて、古義堂には身分を問わず、いろいろな人が集まって来ていることは非常に興味深い。東涯が古義堂に出入りする者を介して間接的に接触する可能性は考えられないか。たとえば薩摩人を介してはどうであろう。実際、東涯の『初見帳』には琉球人の名はみえないものの、薩摩人の名はみえる。さらに興味をひくことに『古義堂文庫目録』に所収された仁斎の次男つまり東涯の弟梅宇(一六八三~一七四五)関係資料に
・琉球官職位階之太抵 寫横大一冊
がある。これの末尾に「右はお江戸従薩侯之邸出候由にて當地へ参候而有之寫取掛御目候定而先ニ御覧可被成奉存候薩邸にてハ秘シ申候様ニ承候き 英」(これは江戸の薩摩藩邸から出たものだそうで、当地(京都?)へ来たものです。(梅宇が)写し取って(東涯に?)お目にかけるものです。きっと先にご覧になりたいだろうと思います。薩摩では秘密にするようにと受けたまわっております。)とあって、具体的にいつ頃書かれたものかはわからないが、古義堂と薩摩の関係を匂わせてくれる資料である。
また、正徳四年の江戸上りからの帰途、草津にて程順則は、京都の公家近衛家煕のために鴨川の物外楼の詩文を作っている。近衛家煕は、後水尾天皇皇女常子内親王を母に持ち、摂政、太政大臣にまで達した人物である。当時文化人のパトロン的存在であり、東涯とも交流があったようである。なお、近衛家は日向・大隅・薩摩にまたがる嶋津荘の本所として島津氏と関係がある。こうした京都の公家を媒介として、琉球使節との接触は考えられないであろうか。
以上、はなはだ不十分であるが、若干考えてみた。この東涯また古義堂と琉球国使節との接触の可能性については詳細は、今後の課題として考えていきたいと思う。
史料の概容
一の「康煕封琉球国王勅」は、四件の中で唯一の満漢合璧の文書である。すなわち右より始まる右半分が漢文、左より始まる左半分が満文の勅諭である。この抄本自体は漢文部分と満文部分が貼り合わせてある。東涯の注記(後示史料)によると、東涯の見た文書は上下四方に龍と瑞雲の透かし模様の入った紙に書かれたもののようである。この種の皇帝勅諭は李光濤編『明清襠案存真選輯 初集』にもみえている。ただし、この書写には若干問題がある。漢文と満文は同じ内容であるのだが、漢文の日付(康煕二十八年十月初十日)と満文の日付(康煕三十六年九月二十一日)が異なるのである。この満文の書写を、神田信夫先生に見て頂いたところ、満州文字を解さない人の筆のため、字形がかなり崩れてはいるか、若干の文字を除き大体解読することができるということなので、満文も漢文部分とともに丁寧に書写されていたと考えてよいであろう。そうすると、書写の時点で、すでに日付が異なっていた可能性が高い。
この文書が日付の異なった原文書から直接写したものか、あるいは抄本からの重写なのか、判断はできないが、満漢合璧という側面から考えると次の事が言える。
まず漢文部分と満文部分が一紙に書かれている場合である。これは、原文書で日付が異なることは絶対にあり得ないので、書写された文書自体に問題がある。
次に、漢文部分と満文部分がそれぞれ別紙に書かれたものをつなぎあわせて一文書になっている場合である。この場合もとの文書の漢文・満文が何らかの拍子で分離、またそのような文書が何件か生じてしまった時に問題となる。つまり文書の整理を行う際、満文に精通していない者、たとえば琉球の役人等が担当したために、満文への対応が十分にできず、日付の異なる漢文と満文をつなぎ合わせてしまったとは考えられないだろうか。すなわち二件の文書の漢文と満文がそれぞれ入れ替わったのではないか。『歴代宝案』には、この抄本の漢文の日付と同じ康煕二十八年十月初十日と満文の日付と同じ康煕三十六年九月二十一日の皇帝勅諭があり、日付は異なるが、内容・擡頭・行数・字数ともに一致する。もし、この二件が満漢合璧文書で漢文と満文部分か離ればなれになってしまった場合、前述したような日付の異なる漢文と満文を入れ替えてしまう可能性は十分にあり得る。
ちなみに『歴代宝案』所収の文書はすべて漢文のみで、清代の皇帝勅諭にも満漢合璧の文書はない。『歴代宝案』の編集の際に収集されていた文書の中に満漢合璧文書があったかどうか不明だが、編集の段階で何らかの方針があって、満文が除外された可能性があるかもしれない。いずれにせよ、この勅諭は、琉球に係わる外交文書のなかに満漢合璧の皇帝勅諭があったことをほのめかしてくれる。
次に各文書が入っている封函について紹介したい。以下、それぞれの形状を示す。
① 康煕封琉球国王勅
(イ)
※この封函にはさらに包み(ロ)(縦四七・〇㎝ × 横一二・八㎝)がある。
② 琉球表文
③琉球国王咨
(a)
(b)
④ 福建布政司咨
(a)
(b)
①について
(イ)にはさらに包み(ロ)が入っており、文書はその中に納められている。この(ロ)には「此一翰ハ康煕帝より中山王への諭書之冩ニ而御座候此諭書を黄色之薄キ絹ニ包みくりぬきの木筒に入其上を黄色の木綿を以包申候右筒仕立様ハ惣様金箔にてみかき龍を黒繪具ニ而かき其上を漆を以テ薄ク塗申候」と、諭書の納められている木筒について東涯の書き入れがある。
ところで(イ)の封函には、「琉球国中山王尚益謹封」(琉球国中山王尚益謹ンデ封ズル)とあり、尚益が差出人となっている。この封函がはたして東涯のいうように、康煕帝から琉球国王を封ずる勅諭が納められていた本来の形式かどうかについては疑問が生じる。というのは、県立図書館所蔵 東恩納文庫の『琉球貢雪新話』にも(イ)と全く同じ図が記載されているからである。この『琉球貢雪新話』は編者不詳、内容は、薩摩との往復書簡、江戸上り使節名簿及び琉使行列などを記載している。さて、『琉球貢雪新話』の図の右側には「琉球国御改革已前漢文呈上書格式 曲尺二寸一分 黄色帋ニテ作ル」とあり、さらに盖つきの呈書套図の側には「上箱桐ノ箱上、黄色絹ヲキセ」とある。この桐箱は前述(ロ)の東涯の書き込みにあったくりぬきの木箱に相当するものと思われる。そうなると、(イ)の封函といい、(ロ)の書き入れといい、どうやら琉球と日本の間で用いたとされる呈書式によく似ている。しかし、現在のところ中国皇帝の勅諭が封函に入って来たのかどうか。またどのような形式の封函であったのか等わからないので依然として問題は残るが、(イ)の封函は、康煕帝の勅諭が納められる本来の形式ではなく、どこかで、琉球が日本本土の交流上で使用した呈書式とすりかわったのかもしれない。
なお、この時期には書簡問題が起こっている。横山學氏によると、宝永七年(一七一〇)と正徳四年(一七一四)の両使節は使節一行の規模において最大であったばかりでなく、特に、宝永七年度は現存する来朝記録が最も多く、具体的な事実が記録として良く残されている。書式の面をみると、この時期から従来の書式が改められ、使節団の構成、城中における諸礼式、献上物の内容等が定型化したことがわかる。正徳四年琉球王尚敬から幕府に宛てた書簡書式が問題化するのも、宝永七年の幕府への礼状に端を発しているとある。この康煕帝の勅諭は、書写が正徳五年(一七一五)であり、琉球では尚貞から尚益・尚敬の時期すなわち、ちようど書簡問題の起こった時期に係っているので、(イ)の封函はこの書簡問題と幾分関わりがあるのかも知れない。
③④について
③は(a)に康煕四十八年十一月 日の発送日付が記され、(b)には右側から、琉球国中山王世孫尚 は咨文を齎捧し至る。左側に福建等處承宣布政使司はその場にて開封せり、とある。
④には、(a)に中央に文書発送の日付、その両側に内には文書一件、及び布字一号と布政使司での文書編号が記される。(b)には福建等處承宣布政使司が公文を発送し至す。琉球国中山王はその場で開封せり、とある。
また③④それぞれに□が封口及び年月日の箇所を含め三箇所にみえる。おそらく公印の位置で、③の場合は「琉球国王之印」、④には「福建等處承宣布政使司之印」が使用されていただろう。
封函については、『樞垣紀略』巻十三に、臣下からの上奏が皇帝の批准の後、軍機処を経て、再び上奏者に伝えられるときに用いる封函の書写様式の規定が記載されている。それによると、
其封函之式、字寄者、右書辦理軍機處封寄、左書某處某官開拆。傳諭者、居中大書辦理軍機處封、左邉下半書傳諭某處某官開拆。皆於封口及年月日處鈐用辦理軍機處印。(封函の様式、寄信という形式の文書の場合は、右側に辦理軍機処封寄、左側に某処某官開拆と書く。伝諭という形式の文書の場合は、中央に大きく辦理軍機処封、左端下寄りに中央の文字の二分の一の大きさで傳諭某処某官開拆と書く。それぞれ封口と年月日の所には辦理軍機処の押印がされる。)
とある。『樞垣紀略』の記載は、軍機処から発送される文書封函の書写様式の規定であるが、③④の封函の様式と比較した場合、差出人・受取人、公印の位置など共通する部分が見いだせる。そうすると、従来、琉球・中国間の往復文書に関しては、封函の有無はわからなかったが、③④を見る限りにおいては、中国国内と同様、文書は封函を持していたのではないかと思わせてくれる史料である。
以上、気がついた点を述べた。
末筆ながら、本史料の閲覧と写真掲載に快く承諾していただいた天理大学附属天理図書館に感謝の意を表わしたい。また神田信夫先生、秦国経第一歴史档案館副館長をはじめ、多くの先生方に御助言をいただいた。あわせて謝意を表わしたい。
注(1)古義堂文庫には、天理図書館編 天理図書館叢書第二十一輯『古義堂文庫目録』がある。
(2)反町茂雄『定本 天理図書館善本稀書』(八木書店 一九八七年)を参照。また天理図書館報『ビブリア』№4(一九五五年)は、古義堂文庫に関する特集号で、吉川幸次郎「仁斎と徂徠」、反町茂雄「古義堂文庫と私」、中村幸彦「古義堂略史」「孟子古義の成立」を所収。仁斎・東涯については、吉川幸次郎・清水茂 日本思想大系33『伊藤仁斎・伊藤東涯』(一九七一年 岩波書店)、伊藤東涯著『制度通』(岩波文庫吉川幸次郎解題)を参照。
(3)古義堂文庫移譲については、富永牧太「古義堂顛末の記」前掲『古義堂文庫目録』及び前掲『定本 天理図書館善本稀書』に詳しい。
(4)『古義堂文庫目録』では、康煕封琉球国王勅・琉球表文・福建布政司咨・琉球国王咨の順序であるが、本稿では説明の都合上、年代順に並べた。
(5)伊藤東涯、名は長胤、字は源蔵、東涯はその号、別に慥慥斎と号す。私に諡して紹述先生という。
(6)横山學『琉球国使節渡来の研究』 一九八七年 吉川弘文館
(7)前掲『古義堂文庫目録』三六四頁
(8)前掲日本思想大系33『伊藤仁斎・伊藤東涯』解説
(9)横山前掲書61頁
(10)植谷元「伊藤仁斎の門人帳(上)(中)(下)」天理図書館報『ビブリア』69~71号。山根陸宏・岸本眞美「古義堂文庫伊藤東涯『初見帳』(一)~(六)」天理図書館報『ビブリア』91~96号
(11)山根・岸本前掲論文によれば、東涯の『初見帳』は仁斎没の翌年宝永三年(一七〇六)正月~元文元年(一七三六)六月まで、東涯三十七歳より古義堂の主であった三十年余の門人・知人を著録する。『初見帳』に薩摩人と明記された人には、野村善左衛門、大迫伯栄がみえ、ともに紹介者は重久宗仙である。また、小沢伊右衛門 薩摩屋有兵衛手代之由 もみえる。
(12)『古義堂文庫目録』二一三頁。伊藤梅宇、名は長英、初名長敬、字は重蔵(十蔵)、梅宇はその号。
(13)『程氏家譜』(『那覇市史 資料篇第一巻六』一九八〇年)、『真境名安興全集』第四 「琉球の大偉人」教育界の偉人 程順則、池宮正治・小渡清孝・田名真之編『久米村―歴史と人物―』、島尻勝太郎選 上里賢一注釈『琉球漢詩選』(おきなわ文庫 ひるぎ社 一九九〇年)参照。
(14)『国史大辞典』吉川弘文堂
(15)中央研究院歴史語言研究所専刊之三十八 李光濤編『明清檔案存真選輯 初集』中華民国四十八年(一九五九)
(16)中国第一歴史档案館の秦国経副館長によると、一般に満漢合璧文書は、文章が短いものは漢文と満文が一紙に、長いものになると別々に書かれ合貼されている。ただ合貼される場合、文書裏の合貼部分に盖印がされ、これでもって文書の離合、他文書との結合の不安を除いているという。
(17)再び中国第一歴史档案館の秦国経副館長によると、清は異民族満州族の王朝である。清朝では、皇帝が政を詔等の公式文書で全国に発布する場合、満州族の権威を示し満満合璧の文書になっている。よって中国と琉球、いわゆる宗主国と藩属国の場合でも、国と国の関係にあたるので、その権威を示すため、理屈上では満漢合璧の文書になっているはずだという話であった。
(18)『歴代宝案』の編集については、小葉田淳「歴代宝案について」(『歴代宝案研究』創刊号 一九九〇年(『史林』四六巻四号 一九六三年より転載)及び富島壯英「『歴代宝案』第一集の編集者達」(『歴代宝案研究』第二号 一九九一年)、和田久徳「『歴代宝案』第一集解説」(『歴代宝案』校訂本第二冊 一九九二年)、神田信夫「校訂本 第三冊・第四冊解説」『歴代宝案』校訂本第四冊一九九三年)を参照。なお、宮田俊彦・和田久徳「明孝宗より琉球国中山王尚眞への勅書」(『南島史学』第3号 一九七三年)八頁では、『歴代宝案』の原本と重修本の編集に触れている。
(19)『古義堂文庫目録』 一〇八・二六二頁。
(20)沖縄県立図書館蔵 東恩納文庫(K二〇〇、八/R九八/一~三)。『沖縄県郷土資料総合目録』(昭和四七年三月一日現在)では、『琉球貢雪新話』上・中・下編者不詳 3冊 23㎝ 筆写本 和装とある。
(21)横山前掲書三四〇頁では、『琉球貢雪新話』を天保三年、使節渡来記録と分類している。
(22)書簡問題に関しては、横山前掲書「第三章 琉球国使節の展開」六一~一二五頁を参照。新井白石『折たく柴の記』の巻下に「其王尚益が代より漢語を用ひ、書函の式等も改れり…」、また真境名安興『沖縄一千年史』には「琉球先王尚貞王の書は皆和文式に従い御字、候字、誠恐謹言等の語を用いしに、尚益王に至って専ら漢文式を用い…」とあり、書式は尚益から改まっている。
(23)(清)梁章鉅 朱智選『樞垣記略』
〔史料紹介〕
凡例
①原文は欠字・擡頭を含め、抄本の体裁に随った。ただし、本稿では一行の字数の関係上、抄本の一行が二行にわたる場合がある。その場合には抄本の一行の終わりを/で示した。
②原文の使用文字については、正字体に統一した。
③書き下し文の使用文字については、常用漢字に統一した。
④抄本に書き込みのある場合は、書き込みの位置と内容を示した。
⑤虫損字・不明字などは□で示した。
⑥一、康煕封琉球国王勅と二、琉球表文には句読点がほどこさ
れている。
一、康煕封琉球國王勅(満漢合璧)
(漢文:康煕二十八年十月初十日
満文:康煕三十六年九月二十一日)
〔原文〕(後半の満文は省略)
皇帝勅諭琉球國中山王尚貞
朕惟昭徳懐遠盛世之良規修職獻琛藩臣之大節輸誠匪懈寵賚宜頒爾琉球國中山王尚貞屬在遐方克抒丹悃遣使齎表納貢忠藎之忱良可嘉尚是用降勅奨諭併賜王文綺等物王其祗承益勵忠貞以副朕眷欽哉故勅
計開
蟒緞肆疋 青藍綵緞陸疋
藍素緞陸疋 衣素陸疋
閃緞陸疋 錦肆疋
紬陸疋 羅陸疋
紗陸疋
康熙二十八年十月初拾日
〔敕命之寶〕
〔書き込み〕 本文書右端下 本紙此通龍上下四方ニ六アリ上ニ二下ニ二向ヒ合セテ写シ前ニハ昇龍奥ノタテニハ降龍也外ニ雲気多シ
〔書き下し〕
皇帝、琉球国中山王尚貞に勅諭す。
朕、惟うに徳を昭かにし遠を懐くるは、盛世の良規なり。職を修め琛を献ずるは、藩臣の大節にして、誠を輸し懈らざれば、寵賚宜しく頒つべし。爾、琉球国中山王尚貞、属して遐方に在り、克く丹悃を抒べ、使いを遣わし表を齎らし貢を納む。忠藎の忱は良に嘉尚すべし。是を用って勅を降し奨諭し、併せて王に文綺等の物を賜う。王、其れ祗んで承け、益すます忠貞に励み、以って朕が眷に副え。欽しめよかな。故に勅す。
計に開す
蟒緞四疋 青藍綵緞六疋
藍素緞六疋 衣素六疋
閃緞六疋 錦四疋
紬六疋 羅六疋
紗六疋
康煕二十八年十月初十日
二、琉球表文
(康煕四十七年十月 日)
〔原文〕
琉球國中山王臣尚貞誠惶誠恐稽首頓首
上言伏以
大一統之規模誕敷聲教
綿萬年之暦敷丕著光華
航海梯山極來享來王之盛
開天闢地昭同文同軌之休朝野傾心臣民頌徳欽惟
皇帝陛下
惟精惟一
乃聖乃神
奠社稷於無礙卜年卜世
光謨烈於有永丕顯丕承臣貞蛟島外藩蟻封荒服雖不毛之地徒切芹私而愛
君之誠敢忘葵向敬遣陪臣向英毛文哲等遠渉波濤之險車用指南虔齎筐篚之微斗瞻極北少伸蒿呼之悃聊依
日照之光伏願
江漢朝宗
星辰拱極
奏虞廷雅楽群瞻鳳儀獸舞之祥
毓周室賢才代著豹變鷹揚之績將見五風十雨長存玉燭以常調四瀆九州大鞏金甌於孔固矣臣貞無任瞻
天仰
聖激切屏營之至謹奉
表恭
進以
聞
康煕肆拾柒年十月 日琉球國中山王臣尚貞謹上表
〔書き込み〕 本文書の後につづけて
朱字:本紙句豆ナシ此紙本紙ノ通ナリ
墨字:本紙総体ノ大さ此通首の餘紙文字之高下此通行之間□まり□□本紙とちかい申候本紙本文の終と年号との間年号より終迄之間始の余紙と三所之余紙同じ寸法也
〔書き下し〕
琉球国中山王臣尚貞、誠惶誠恐、稽首頓首して、言を上る。
伏して以うに、一統の規模を大いにし、誕いに声教を敷き、万年の暦数を綿らね、丕いに光華を著わせり。海を航り山に梯し、来享来王の盛んなるを極め、天を開き地を闢き、同文同軌の休を昭かにす。朝野心を傾け、臣民徳を頌う。欽しんで惟うに、皇帝陛下は、惟れ精にして惟れ一、乃ち聖にして乃ち神、社稷を無疆に奠め、年を卜い世を卜い、謨烈を有永に光かし、丕いに顕し丕いに承く。臣貞は、蛟島の外藩にして、蟻封の荒服たり。不毛の地にして、徒だ芹私を切にすると雖ども、而れども君を愛するの誠は、敢えて葵向するを忘れんや。敬しんで陪臣向英・毛文哲等を遣わし、遠く波涛の険を渉るに、車に指南を用い、虔しんで筐篚の微を齎らすに、斗に極北を瞻て、少や嵩呼の悃を伸べ、聊か日照の光に依らんとす。
伏して願わくば、江漢は宗に朝し、星辰は極を拱く。虞廷の雅楽を奏し、群鳳儀獣舞の祥なるを瞻、周室の賢才を毓み、代豹変鷹揚の績を著わす。将に五風十雨、長く玉燭を存して、以って常に、四瀆九州を調え、大いに金甌を孔固に鞏むるを見んとす。臣貞、天を瞻、聖を仰ぎ、激切屏営の至りに任うる無し。謹んで表を奉じ、恭しく進んで以聞す。
康煕四十七年十月 日 琉球国中山王臣尚貞謹んで表を上る
三、琉球國王咨
(康煕四十八年十一月 日)
〔原文〕
琉球国中山王世孫尚益爲報祖父薨逝権摂國政事竊照敝國雖越在/海外能治生民世修藩職皆荷
天朝福澤遠庇及益祖父尚貞襲封叨
恩尤渥方期長爲海表藩鎮傳子及孫不料益父世子尚純蹇不永年於康煕/肆拾伍年拾貳月參拾日以疾先卒益雖代父問視不敢少懈而祖父終/以益父事親能孝痛悼不已過於悲傷漸成虚怯一旦臥痾遂至於本年/柒月拾參日薨逝臨終呼益至楊前命之曰吾請封嗣業經今三十載歴蒙
聖朝眷顧有加無已天高地厚浩蕩難名今病勢沈篤料此生無報答汝小心恭順以繼吾志惟痛汝父早亡未膺
封典不得入廟恐以柤爲禰如物議何汝宜思之言訖而殂無一語及私益既傷父之云亡復痛祖父之棄世五内分裂敢言繼業惟是國事統衆心無定益以私廢公恐負
朝廷封藩之重除於喪次権聴國政不敢稱王外特遣正議大夫蔡灼/訃報於
貴司所有祖父遺言亦不敢壅滞伏乞
貴司轉詳
〈督/撫〉両院
※脱行カ
爲此理合移咨
貴司請爲査照施行須至咨者
右 咨
福建等處承宣布政使司
康熙肆拾捌年拾壹月 日
咨
〔書き下し〕
琉球国中山王世孫尚益、祖父の薨逝を報じ、権に国政を摂めんが事の為にす。
窃かに照らすに、敝国海外に越在すると雖も、能く生民を治め、世藩職を修むるは、皆、天朝の福沢遠庇を荷けばなり。益が祖父尚貞襲封するに及んで、恩を叨けなくすること尤も渥ければ、方に長く海表の藩鎮となり、子及び孫に伝えんことを期す。料らずも益が父世子尚純、蹇みて永年ならず、康煕四十五年十二月三十日に於いて、疾を以って先に卒す。益、父に代りて問視し、敢えて少しも懈らざると雖も、而れども祖父終に益が父の親に事え能く孝なるを以って、痛悼已まざること、悲傷より過ぎ漸く虚怯と成り、一旦臥痾し、遂に本年七月十三日に至って薨逝す。臨終に、益を呼び榻前に至らしめ、之に命じて曰く、吾、封嗣を請い業経に三十載、歴しば聖朝眷顧を蒙むること加わる有りて已む無し、天高く地厚く浩蕩として名づくる難し。今、病勢沈篤にして、料るに此の生は報答無し。汝、小心に恭順して以って吾が志を継げ。惟だ痛ましくも汝が父早に亡くなり、未だ封典を膺けざれば、廟に入るるを得ず。恐らくは祖を以って禰となさば、物議するを如何んせん。汝、宜しく之を思うべし。とあり。言訖りて殂して一語も無し。私益に及んでは、既に父の亡なりしを云うを傷み、復た祖父の世を棄つるを痛み、五内分裂するも敢えて業を継ぐと言わんや。惟だ国事、衆心を統るに定め無く、益、私を以って公を廃せば、恐らくは朝廷の藩を封ずるの重きに負かん。喪次に於いて権に国政を聴め、敢えて王を称せざるを除くの外、特に正議大夫蔡灼を遣わして、貴司に訃報す。所有の祖父の遺言も亦だ敢えて壅滞せず。伏して乞うらくは、貴司より督撫両院に転詳せられ、具(奏せしめられんことを乞う。)此れが為に理として合に貴司に移咨す。請為ば査照して施行せられよ。須らく咨に至るべきものなり。右、福建等処承宣布政司に咨す。
康煕四十八年十一月 日
四、福建布政司咨
(康煕四十九年六月初八日)
〔原文〕
福建等處承宣布政使司爲報明祖喪泣攎遺囑籲賜具
題以表幽忠事康煕四十九年正月初八日准琉球國中山王世孫尚 咨開竊照敝國海外弾丸荷蒙
天朝不棄俾蛟島波臣得以時修歳事
褒封
寵賚迥異尋常固期祖父共臻耄耋圖報涓埃奈因命蹇尚益父世子尚純業於康煕四十五年十二月三十日冒染風/痰病故嚴親已歿益係嫡長孫承父之重不敢毀形滅性以傷王父心詎料鞠凶疊見益祖中山王尚貞復於本/年七月十三日因老病虚怯寝疾而薨彌留之餘特呼益至楊前泣囑吾世受/
聖恩真如高天厚地頂踵難酬今不幸以怯疾身故無復能望風頂祝但犬馬戀主之念雖死弗諼爾其善體吾心/恪修臣職盡忠即以盡孝當敬佩無忘益聞言五内如割幾不欲視息人間㷀㷀在疚安敢輙萌嗣位之思第/茅土錫之
天家屏藩責重諸凡庶務機宜不得不従権暫攝茲當循例接貢理合将祖父薨逝日期併臨終遺囑特遣正議大夫/蔡灼前來報明伏乞貴司察核轉詳
〈督/撫〉両院懇賜具
題上達
宸鑑不特益終身感佩即祖父九泉之下雖死猶生矣等縁由到司准此又爲稟報事康煕四十九年三月十一日奉/鎮守福州將軍署理閩浙總督事務祖 批本司呈詳査得琉球國中山王尚貞於康煕四十八年七月十三日身/逝世子尚純先於四十五年身故嫡長孫尚益備咨遣使附搭接貢船隻來閩報喪業經詳奉/護理撫憲批另詳核奪等因隨即行據福防廰査覆前來遵査該國王既已身逝世子又經物故茲據伊國嫡長/孫循例咨報到司相應備録咨文轉請
憲臺察賜
題報可也至于來使正議大夫一員蔡灼跟伴柴思仁等九名既係附搭接貢船隻而來意與接貢并京回人員一同/歸國合併聲明等縁由奉批仰候
撫都院批示繳奉此案照先於本年二月初七日奉
護理福建巡撫印務布政使加三級金 批本司詳仝前由奉批候核/
題餘如詳行仍候
督部院批示繳奉此遵行在案又爲前事康煕四十九年五月十五日奉/巡撫都察院詳 憲牌康煕四十九年五月十二日准
禮部咨主客清吏司案呈奉本部送禮科抄出該本部題前事内開據護理福建巡撫印務布政使金 /疏稱琉球國中山王尚貞於康煕四十八年七月十三日病故世子尚純於康煕四十五年身故該王嫡長孫尚/益備咨遣使附搭接
貢船隻來閩報喪應請題報其來使正議大夫蔡灼跟伴柴思仁等九名附搭進/貢人員一同歸國等因具題前來査康煕八年據福建巡撫劉疏稱琉球國王尚質病故世子尚貞遣使齎咨/等由臣部議覆琉球國世子尚貞請封具題之日 封王併故王 賜恤一併再議具題等因具題准行在案席將封琉球國王及/賜恤故王尚貞之處俟該王嫡長孫尚益請 封到日再議具題其稟報琉球國王尚貞病故來使蔡灼等/應照該撫所請附搭進 貢人員船隻一同遣回可也等因康煕四十九年四月初六日題本月初九日奉/ 旨依議欽此欽遵抄出到部送司奉此相應移咨福建巡撫可也爲此合咨前去査照施行等因到都院准此擬/合就行備牌行司備照咨文内奉
旨事理即便移行欽遵査照毋違等因奉此今風汛届期相應附搭進貢人員船隻一同遣回合就移覆爲此備由移咨/貴世孫請依來文事理煩爲欽遵査照施行須至咨者
右 咨
琉球国中山世孫尚
康煕肆拾玖年陸月 初八
報明祖喪等事
咨
〔書き下し〕
福建等処承宣布政使司、祖喪を報明し、泣いて遺嘱を攎べ、具題を賜わるを籲め、以って幽忠を表わさんが事の為にす。
康煕四十九年正月初八日、琉球国中山王世孫尚 の咨を准けたるに開すらく、窃かに照らすに、敝国海外の弾丸なるも、荷けなくも天朝棄てずして蛟島の波臣をして時を以って歳事を修めるを得さしめ、褒封寵賚すること迥かに尋常と異なるを蒙むる。固より祖父共に耄耋に臻り、涓埃を報いんと図るを期するも、奈せん命蹇まるに因り、尚益の父世子尚純、業に康煕四十五年十二月三十日に於いて風痰に冒染して病故す。厳親已に歿し、益は嫡長孫に係れば、父の重きを承け、敢えて毀形滅性し、以って王父の心を傷わず。詎料らん、鞠凶畳見し、益が祖中山王尚貞も復た本年七月十三日に於いて老病、虚怯寝疾に囚り薨る。弥留の余、特に益を呼びて榻前に至らしめて泣いて嘱む。吾世、聖恩を受けること真に高天厚地の如く、頂踵するも酬い難し。今、不幸にして怯疾を以って身故せんとするに、復た望風頂祝する能う無し。但、犬馬の主を恋うの念は死すと雖も諼れず。爾、其れ善く吾が心を体し、恪しんで臣職を修め忠を盡くせよ。即ち孝を尽くするを以って当に敬しんで佩して忘れること無かるべし。益、言を聞きて五内割れるが如し。幾ど人間に視息するを欲せず、煢煢として疚に在るに、安んぞ敢えて輙く位を嗣ぐの思を萌さんや。第だ茅土は之を天家に錫わりたれば、屏藩の責重、諸凡庶務の機宜は、権に従りて暫く摂めざるを得ず。茲に例に循いて接貢するに当れば、理として合に祖父薨逝の日期、併びに臨終の遺嘱を将って、特に正議大夫蔡灼を遣わし前来せしめて報明す。伏して乞うらくは、貴司察核して督撫両院に転詳し、具題して宸鑑に上達せんことを賜らんことを懇う。特だに益終身感佩するのみならず、即ち祖父も九泉の下で死すと雖も猶お生きるがごとからん等の縁由、司に到る。此を准けたり。
又、禀報の事の為にす。康煕四十九年三月十一日、鎮守福州将軍署理閩浙総督事務祖 の批を奉じたる本司の呈詳に、査し得たるに、琉球国中山王尚貞、康煕四十八年七月十三日に於いて身逝す。世子尚純は先に四十五年に於いて身故す。嫡長孫尚益、咨を備えて使いを遣わし、接貢船隻に附搭せしめ、閩に来りて喪を報ぜしむに、業経に護理撫憲の批を詳奉し、另に詳もて核奪せしむ等の因あり。随即に行じて、福防庁の査覆して前来するに拠り遵査するに、該国王既已に身逝し、世子も又、経に物故せり。茲に伊の国の嫡長孫、例に循い咨報し司に到るに據り、相い応に備さに咨文を録して憲台に転請し、察して題報を賜われば可なり。来使正議大夫一員蔡灼・跟伴柴思仁等九名に至っては、既に接貢船隻に附搭して来るに係れば、応に接貢并びに京回の人員と一同に帰国せしむべし。合併して声明す等の縁由あり。批を奉じたるに仰ぎて撫都院の批示を候て。繳むべし、とあり。此を奉けたり。
案照するに先に本年二月初七日に於いて護理福建巡撫印務布政使加三級金 の批を奉じたる本司の詳に前由に仝じとある批を奉じたるに、核題するを候て。余は詳の如く行え。仍お督撫院の批示を候て。繳むべし、とあり。此れを奉けたり。遵行して案に在り。
又、前事の為にす。康煕四十九年五月十五日、巡撫都察院詳 の憲牌を奉じたるに、康煕四十九年五月十二日、礼部の咨を准けたるに、主客清吏司の案呈に、本部の送りたる礼科の抄出を奉じたるに、該本部の題する前事内に開すらく、護理福建巡撫印務布政使金 の疏に拠るに称すらく、琉球国中山王尚貞、康煕四十八年七月十三日に於いて病故し、世子尚純、康煕四十五年に於いて身故す。該王嫡長孫尚益、咨を備えて使いを遣わし、接貢船隻に附搭し閩に来らしめ喪を報じたれば応に題報を請うべし。其の来使正議大夫蔡灼・跟伴柴思仁等九名・附搭の進貢人員は、一同に帰国せしめよ等の因あり。具題して前来す。査するに、康煕八年、福建巡撫劉 の疏に拠りて称すらく、琉球国王尚質、病故し、世子尚貞、使いを遣わし咨を齎らす等の由あり。臣が部、議覆すらく、琉球国世子尚貞、封を請い具題するの日、封王併びに故王の賜恤は一併に再議して具題せよ等の因あり。具題して准行すること案に在り。応に琉球国王を封じ及び故王の尚貞を賜恤するところを将って、該王の嫡長孫尚益の請封到るの日を俟って再議具題すべし。其の琉球国王尚貞の病故を稟報せる来使蔡灼等は、応に該撫の請う所に照らして進貢人員の船隻に附搭し、一同に遣回せしむれば可なるべし等の因あり。康煕四十九年四月初六日題し、本月初九日、旨を奉けたるに、議に依れ。とあり。此れを欽しむ。欽遵せり。抄出して部に到れば司に送る。此れを奉じたり。相い応に福建巡撫に移咨すれば可なるべしとあり。此れが為に合に咨もて前去せしめ査照施行せしむ等の因、都院に到る。此れを准けたり。擬して合に就ちに行し、牌を備えて司に行し、備さに咨文内の旨を奉じたるに、事理に照らし、即便に移行せよ、とあり。欽遵せり。査照して違う毋かれ等の因あり。此れを奉けたり。今、風汛期に届れば、相い応に進貢人員の船隻に附搭して、一同に遣回せしめ、合に就ちに移覆すべし。此れが為に、由を備えて貴世孫に移咨す。来文の事理に依らんことを請う。煩為くば、欽遵して査照して施行せられんことを。須らく咨に至るべき者なり。
右、琉球国中山王世孫尚 に咨す。
康煕四十九年六月初八日
祖喪等を報明する事