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資料詳細
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- 備考
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テキスト
伊江文書 牧志・恩河事件の記録について
金城正篤
一 史料について
牧志・恩河事件は、王国末期に起こった一大疑獄(=証拠なき裁判)である。この事件が当時の士族社会に与えた衝撃は巨大なものがあったとされる。そのわりには、事件の経緯・真相については、必ずしも納得のゆく解明がなされていない。
この事件は、幕末薩藩主島津斉彬のいわゆる積極外交政策の推進と、斉彬の急死に伴うその政策の頓挫によってもたらされた薩摩藩における政策と人事の変動が、直接の引金となっている。すなわち、琉球を拠点として、欧米諸国との貿易拡大のもくろみ、留学生の派遣、軍艦購入等々、当時としてはまさしく「振り切りたる」政策を打出した斉彬路線は、その実現のために王府に対し無理押しともいえる圧力を加え、王府内の人脈に微妙な亀裂を走らせた。つまり、斉彬路線を推進する上で都合のよい人物を異例に抜擢し(通事牧志親雲上の場合)、逆に邪魔と思える人物を強引に排除する(三司官座喜味親方の場合)など、王府人事に対する露骨な干渉をおこなったのである。
その斉彬が一八五八年(安政五、咸豊八)七月急死するや、先記のようにその政策が一挙に破綻する。その余波をもろに受けて牧志・恩河事件は起こる。事件は、斉彬路線の推進に加担したと見られる恩河親方(朝恒、向汝霖、物奉行) ・小禄親方(良忠、馬克承、三司官) ・牧志親雲上(朝忠、向永功、通事・日帳主取)の三人があいついで免職、ついで逮捕・投獄されることからはじまる。
ここに紹介した史料は、この事件の審理の過程を記録したものである。いずれも伊江家に保蔵されたもので、この事件では伊江王子(朝直、尚健)が糺明奉行(審理の最高責任者)を勤めた関係で、伊江家に伝わったのであろう。現在は沖縄県立図書館(東恩納文庫)の所蔵に係る。これらの記録は大きく二つに分類される。一つは「牧志恩河一件調書」と表記され、袋綴じで二冊に製本されている(史料一)。他の一つは「牧志恩河一件口問書」と表記されている文書群で、これはいくつかの巻物として保存されている(史料二)。いま、これらの史料について、順を追って若干コメントを加えたい。なお、A、Bなどの小見出し(文書名)は、便宜上紹介者が付したものである。
史料一のA 恩河親方調書 物奉行恩河親方は鹿児島において、三司官座喜味親方(盛普、毛達徳、のち毛恒徳)を誹謗したという嫌疑で、一八五九年(安政六、咸豊九)二月二十三日免職、同*二十八日投獄される。その嫌疑の内容を細かく見ると、第一に、座喜味は大和(鹿児島)から焼酎(泡盛)の原料となる穀物(米)を輸入すると、醸造禁止を命じて米の販路をふさぎ、第二に、甘蔗の作付面積を狭めて農民を困らせ、第三に、士族の給料を減じて生活難を招かせた、という三点である。事件の起こる二年前にあたる一八五七年、公務を帯びて上国(鹿児島)した恩河親方に向って、琉球館聞役新納太郎左衛門が質問し、それに答える形で恩河が座喜味に関する先の三点を認めたことになっている。ところが糺明する側は、座喜味誹謗のことは上国した恩河の口からそもそも出たものであり、以前那覇の在番奉行所に座喜味誹謗の落書を投じたのも、恩河およびその一味であるにちがいない、と責め立てた。一六回の拷問・拶指に耐えて、恩河は、聞役の質問に応答したにすぎず、また、落書で座喜味を誹謗した事実はない、と否認し続けた。繰り返される拷問の責苦に、恩河はついに心身ともに疲労困憊の末、一八六〇年(万延元、咸豊一〇)閏三月十二日、獄死している。
「附」では、前半で右の件に関する牧志親雲上の証言が引かれている。牧志はその証言のなかで、恩河がみずから上国の使者に任ぜられるよう在番奉行市来正右衛門から摂政三司官へ頼み込んで欲しいと依頼した、などとしているが、恩河はその事実も否定している。後半では恩河に係るもう一つの嫌疑である先島への拝借銭の横領、について、御物奉行関係者を取調べたが、その事実を立証する証拠はない、としている。
*喜舎場朝賢著『琉球三冤録』(活字本)では三月とするが、東恩納文庫蔵の筆写本では「仝月廿八日」とある。いま後者に従っておく。
〔語釈〕「拶指」=刑具の一つ。指にはさみ責める棒。「前廉」=前もって。「釣合」=相談する、示し合わせる。「わくミ」=つじつまがあうこと。整合する。
史料一のB・Cは、恩河親方関係者の証言であるが、いずれも恩河に係る罪状の嫌疑を否認している。とくに、事件より三年前の一八五六年(安政三、咸豊六)頃、恩河宅に「大名方」が多数集まって何やら密議をおこなったふしがあるがどうか、とただしていることなど、他の手掛かりをつかんで、恩河を罪に陥れようとする意図が見える。
史料一のD 小禄親方・恩河親方・牧志親雲上調書 前文のところで、たとえ「風聞」でもかまわないから、三人に係る嫌疑を立証する「手掛り」となるものは調査せよ、とある。それを受けて三人に係る嫌疑および取調べの状況を、箇条書きでかつ総括的に記録したものである。
その第一、蒸気船購入の件。御国元(薩摩)からの蒸気船注文は、実は小禄・恩河・牧志の三人が進言して図ったものであるにちがいない、と。むろんこのことは、薩摩の以前からの意向であり、今回はその強い圧力にやむをえず従ったまでだ、と三人とも同じ証言をしている。
第二、仮三司官設置の件。異国関係の事務処理のため、仮三司官の設置が取沙汰されたらしい。市来正右衛門(斉彬の密使、のち在番奉行)あたりから出たものらしいが、仮三司官には恩河親方が就任するという風聞があり、その事実を三人および他の関係者にも問いただしたが、「風聞の口先、穿鑿成り難く」、恩河みずからそのような働きに出たにちがいない、と問い詰めたが、そのような事実なし、と恩河は否認した。
第三、恩河親方が上国の折、鹿児島において座喜味親方を誹謗し、また、以前に座喜味誹謗の「落書」を投じたのも、恩河等のなせるわざにちがいない、と。恩河はそれらのことを否認し、「落書」については、証拠がなく、穿鑿のしようがない、としている。
第四、太守様(薩藩主島津斉彬)の死去の報が琉球に伝えられて以後、在番奉行所から、座喜味一派が勢いをつけ、「ひじを張る」ようなことになってはならぬ、という通達が摂政・三司官にもたらされたが、このことは、前もって小禄・恩河・牧志三人が、在番奉行所へ働きかけたからであろう、と。三人ともそれを否認した。
第五、一八五七年(安政四、咸豊七)三月頃、琉球逗留仏人から牧志に鉄鉋一丁(代銀三〇〇〇貫文相当)が贈られ、そのお返しとして王府からは二〇〇貫文程相当の品物が計上され、その額があまりにも少ないと考えた牧志が、勝手に反物など自物を加えて贈ったことで処罰されることになった。そのことを知った在番奉行所からは、牧志が行なった行為はいいことであり、処罰されるとあれば、薩藩主に伺いを立てなくてはならぬ、という横やりが入った。恩河と牧志両人が、在番奉行所に何らかの働きかけをした結果であろう、というのである。両人とも否認した。
〔語釈〕「向羽」=顔向け。「代合」=交代。
第六、薩摩の「御新政」(斉彬の一連の積極政策のことであろう)について、恩河は上国の折に示され、かねてから熟知しており、そのことが薩摩と通じ合っている動かぬ証拠だ、というのであるが、恩河は「異国一件」についてはたしかに説明を受けたが、新政のすべてを委細承知しているわけではない、と証言している。
第七、一八五八年(安政五、咸豊八)二月頃、豊見城王子宅へ市来正右衛門・牧志・恩河等が集まって、何やら密談をしたという風聞があるがどうか、という尋問に対し、牧志の証言によれば、たしかに集まって酒を呑みながら和歌を詠み、詩作をするなどしたが、別に子細のあるようなことはしていない、という。
第八、恩河親方免職(一八五九年二月二十三日)後、玉川王子・安村親方・与世山親方・小禄親方の四人が、玉川御殿別荘(多和田にあり)に集まった、という風聞についてである。小禄の証言では、酒を給わり、王子から恩河の成りゆきを聞かれたので、「人をだまし、借銭をしている」と答えたことは覚えているが、呑みすぎてそのほかの子細は記憶していない、という。「附」では糺明役人の一人与世山親方の話として、玉川王子宅で王子が小禄に向って、しきりに恩河のことを尋ねるので、小禄は酒を呑みながら王子に向って「そろそろ私も倒れるはずだから、その時はあなたもご一緒だ」と答えたという。ただし、本文の集まりの風聞とは符合しない、と注している。
〔語釈〕「椰子」=酒を入れる容器。転じて酒の意。「ぶうさあ」=沖縄風のジャンケンで、親指は人差し指に勝ち、人差し指は小指に勝ち、小指は親指に勝つ。ここでは、おそらく「ぶうさあ」をして負けた方が酒杯を空ける、一種のゲームのようなことが、当時あったのだろう。
第九、一八五八年(安政五、咸豊八)に在番奉行所から王府に対し、表十五人衆の内、座喜味一派と目される与那原親方・摩文仁親方・喜舎場親方・阿波根親方・浦添親雲上の五人を退役申付けるようにとの沙汰があったが、このことは小禄・牧志の何らかの差し金にちがいない、と。小禄を訊問したが、全く身に覚えのないことだ、という証言である。「附」に牧志の証言がある。それによれば、牧志は「喜舎場と阿波根は掃除して見せる」と鳥小堀の神谷里之子親雲上に話したことがあったという。そのことが神谷から奥平親方に話され、奥平から喜舎場へ伝わったという。その件について牧志を訊問したところ、そんなことを言った覚えはない、と否定した。そこで奥平に確かめたら、神谷から右のことを聞き、喜舎場へ話したことはない、という返答である。神谷にも問いただすべく呼び出そうとしたが、中風を煩い言語不通の状態、そうこうするうち死去してしまい、外に手掛かりなし、としている。
第十、オランダ船が来航し、国王に面会を求めてくることが予想され、その際、いかなる理由を設けて面会要求を断るか、前もって準備しておく必要がある旨、在番奉行所から通達があった。そのことで摂政・三司官・十五人衆、そのほか諸官の吟味の結果、国王はペリー一行の入城以来、恐怖のあまり「御気損」のため、面会できない、ということで衆議一決し、その旨を在番奉行所へ書面で伝えた。ところが、奉行以下薩摩役人の意向では、「気損」というのは大和では「気違者」の意味であり、そのような気違い者に政事を授けておくことは、西洋諸国に対し薩藩主の面目が立たないこととなるので、場合によっては「御改革」を命ずることになるかも知れぬ。「御改革」とは「御相続替え」、つまり国王の廃立を意味するという。このことが、いわゆる国王廃立という陰謀がらみの風聞を生み、これも牧志等が、在番奉行所と示し合わせた企てにちがいない、とされたのである。
第十一、異国関係の事務多端の折、「摂政心添」という職を新設し、そのポストには豊見城按司がふさわしい旨の市来正右衛門の意向が王府に伝えられたらしい。そのことも牧志が一枚噛んでいるはずだ、というのである。
〔語釈〕「下涯」=くだりぎわ。(琉球に)来たばかり、の意。
第十二、小禄親方が三司官選挙に際し、密願したとされる一件について、ある人が薩摩に誣告したにちがいない、と玉川王子に話したそうであるが、という訊問に対し、小禄は、誣告されたらしいと話したことはあるが、ある人と特定した覚えはない、と主張している。*
*この一件については、史料一のH・I参照。
最後に、右の「風聞または聞取」の諸事は、小禄・恩河・牧志三人の審理の際、拷問などをもって穿鑿したけれども、以上の通り手がかりになるべき証拠がない以上、その線に沿って判決を仰せつけられたい、と結んでいる。咸豊十年五月といえば、拷問をまじえながらの糺明がほぼ最終段階に近づいた時期であり、そのふた月前の閏三月十二日に、恩河親方は獄死している。*
*喜舎場朝賢『琉球三冤録』によれば、恩河に対する刑の宣告は、その前年の十二月三十日であり、久米島への六年の流刑が執行されぬうち、獄中で死去したとされる。
〔語釈〕「儘差通」=沙汰なしにする。
史料一のE 名嘉地里之子親雲上・桃原里之子調書 名嘉地・桃原両人が小禄親方免職後、その一門への取締り向きのことを伝達する役目(一門衆使)を帯びて小禄宅を訪れた際、小禄の仮与力潮平等三人が、小禄の処分を穏便に取計ってもらうため、在番奉行所に「例外進物」を贈った、という話を聞いた、とすることの真偽を確かめるための調書であるが、はじめ三人の内輪話を側聞したという証言から、あとになって潮平から名嘉地が直接聞いた、と証言をかえている。
〔語釈〕「くひなの事」=このような大事。「晴目」=証言、供述。
史料一のF 小禄親方仮与力潮平筑登之親雲上等調書 小禄親方に係る最大の嫌疑が、三司官選挙の際、在番奉行所に一方の人物の選任を密願(内意)した、ということであった。その際、小禄の使者(中使)の役を勤めたのが牧志であり、かつ、進物(贈賄)がなされた、とされた。しかも、その嫌疑の出所は、実は鹿児島にある琉球館関係者からの情報に由来していた。そのことと、小禄免職後、小禄の処分を穏便に取計らってもらうため、在番奉行所に「例外進物」を贈ったかどうか、が取調のポイントとなっている。後者の点については三人ともそういう事実はないし、また、それに似た話をしたこともない、と証言し、さきの名嘉地・桃原両人と「対決」させたが、その主張は真向うから対立(張合)する形となった。小禄の関係する庫理方取払帳・進物帳を取寄せ調べてみたが、疑わしい形跡なし、としている。
〔語釈〕「たんかあ咄」=向いあって話す。対話。
史料一のG 桑江里之子親雲上調書 本文中に「自身よりも小禄は檀那分にて」とあるから、桑江は小禄親方とは公務上親密な関係にあった人物とみられる*。逮捕・投獄の理由は、小禄親方免職後、小禄の与力潮平の宅を訪れ、薩摩の異国方岩下新之丞へ、進物を添えて小禄が「責め扱い」(拷問など)を受けることのないように取計ってもらうようすすめた、という嫌疑。しかし実際にはそのことは実行されなかったが、潮平に勧めたことは事実として認めた。「附」の中で、牧志の証言として、小禄が、自分ゆえに野村(親方、三司官候補の一人)および牧志にまで迷惑をかけて残念だ、と潮平に語り、潮平は桑江に語り、桑江から牧志が聞いた、とされる点について、桑江を問いただしたところ、小禄が語ったという話を潮平から聞いて牧志に話したことはなく、また、潮平を訊問したら、そのような話を小禄から聞いて桑江に話したこともない、という返事であった。
*『琉球三冤録』(一五九頁)によれば、桑江の役職は「御物座当」(国庫帳簿勘定の総調を掌る吏)であった。
史料一のH 牧志親雲上調書 これは次のI小禄親方調書と一連のものであるが、便宜的に二つに分けた。まず前文にあたる部分で、小禄・牧志に係る嫌疑の内容が示されている。すなわち、小禄は三司官座喜味親方の後任選挙に際し、在番奉行所の園田仁右衛門を通じて野村親方の選任を依頼したとされ、その使者役(中使)を牧志が勤めたこと、進物(贈賄)を添えて密願していること、が取調べのポイントである。以下、牧志親雲上・小禄親方の順に調書が記載され、最後に平等所役人の意見と、科律および先例の抜粋が付されている。
まず牧志の調書であるが取調べのポイントは先記のように後任三司官の選任をめぐって小禄が次票者の野村親方を推し、そのことで牧志を「中使」に立て、かつ「進物」を添えて在番奉行所の役人に働きかけ、薩藩当局へ根回しをした嫌疑を立証することにあった。実際にはその件があかるみに出たのは、鹿児島の琉球館聞役新納太郎左衛門から王府宛ての書翰(問合)に、小禄から市来正右衛門に後任三司官の件で密書(内状)を送り、それが市来から新納に伝達され、新納からの書翰となって王府に伝えられたのである。
結論的に言えば、牧志は小禄の意を受け、折を見て話の形で市来正右衛門らに野村を後押ししてくれるよう頼まれたこと、その際「進物」を持参したことはない、と証言している。
〔語釈〕「世話」=心配。
史料一のI 小禄親方調書 後任三司官の推挙をめぐって小禄に係る嫌疑のもう一つの情報ルートは、やはり鹿児島在番摩文仁親方から出ていた。摩文仁の話として、先記の新納から王府への書翰の内容と同じ情報が、鹿児島で摩文仁から直接聞いたとする飛脚使与儀筑登之親雲上が帰国してもたらしたのである。しかし小禄は、三司官推挙の件で書状を差出したことも、牧志を「中使」にして市来らに働きかけたことも、全くない、と否認し続けた。「中使」の件については、あるいは牧志自身で自分(小禄)の名を借りて密願したこともありうる、としている。ただ、自分(小禄)にかけられた嫌疑を晴らすために、しかるべき手を打たなかったのは自分の注意不足であった、としている。
以上の牧志・小禄の審理経過を踏まえて、平等所役人らの意見(罪状擬定)が提出されている。すなわち、牧志については、たとえばその証言には根拠薄弱であったり、前後矛盾(不束)があったりで信頼できず、また、小禄については、昨年(一八五九)七月以来十二座の「拷問拶指」で責め立てても嫌疑を否認し続けており、これ以上責め立てると失命させるおそれがあり、そのような事態に至ると法の執行者の落度はもちろん、恐れながら国王にもその責任がかかってくる。かりに白状するようなことがあったとしても、「八議」の人をそれだけで重罪に処することはできない。結論として、「疑いの情犯」の罰則を適用し、等を減じて罪科を擬し、落着の運びにしたらどうか、という。
そして最後に「科律」および「先例」の抜粋を提示している。
〔語釈〕「明間」=あきま。隙間、弱点。「座切咄」=その場限りの話。「張合」=対立。「八議」=はちぎ。罪の減免が許される八つの条件があり、それを有する身分や功績のある人物のこと。
史料一のJ 糺明官のメモ〔断片〕 これはその文意からみて史料Iの後半にある平等所役人の罪状擬定に対し不服を唱えた、いわば下げ札のようなものと考えられ、紙片一枚に記され、挟み込まれている。小禄親方の調書に関連するものなので、ひとまずここに置いておく。内容は、三司官選挙の投票結果は国王の前で摂政・三司官によって開票され、票数を記載して国王に示した上、薩摩に伺いを立てる慣例であるのに、恐れ憚りもなく次点者を任命するよう密願するとは、この罪状は(あまりにも重大で) 適用する法律が見つからぬくらいだ、という。証拠をつかむまで拷問を続行すベし、とする徹底糺明派とも称すべき糺明官の一方の意見を代表しているものと見られる。
史料一のK 『科律』等の抜粋
史料一のL 糺明官の意見 この文書はさきの徹底糺明派の意見に対する批判として出されたもの。末尾には仲里按司(朝紀、向允譲、糺明奉行、のち摂政に任じ与那城王子と改称)・与世山親方(糺明奉行) ・森山親雲上(平等之側)・小波津親雲上(同吟味役)の四人の連署である。内容は先記史料Iの後半に付された平等所役人の意見と同巧であり、史料Iで示された見立ての延長線上にある。とりわけ小禄の取調べについて(恩河はすでに死去)、白状しないのは責め方が足りないからとし、「水問」などの「非法の刑具」を用いてでも白状させ、証拠をつかむまで拷問を加重せよ、という意見に、「なんとも納得ゆかぬ事」(何共心得難き儀)と強い不満を述べている。
この文書中で引かれている「与名城書面」および「摩文仁親方・字地原親方書面」は、いま伊江文書の中には見当たらない。ちなみに喜舎場朝賢の『琉球三冤録』によれば、伊江王子(朝直、尚健)は牧志入獄後に加増糺奉行に任じ、摩文仁親方(賢由、夏超群)は小禄入獄後に糺奉行となる。字地原親方も糺奉行。加勢主取世名城里之子親雲上を含めて、伊江王子以下はいわば徹底糺明派を構成する主要メンバーである。糺明する側でも、意見が二つに分かれていたことがわかる。
〔語釈〕「水問」=犯人を梯子に逆吊し水を注ぐ、拷問の一種。「棒〓(金+渡)」=刑具のひとつとみられる。「索元礼・周興・来俊臣」=いずれも唐代の刑官で残忍な性質を備え「酷吏」列伝に名をつらねている(『旧唐書』一八六上、『新唐書』二〇九)。
史料二は大きく二つの文書群から成る。一つは「口問書」(A~D)もう一つは「糺明官意見書」(E~N)である。「口問書」として現在伊江文書に残っているのは、小禄親方(A)、伊志嶺里之子親雲上(B)、牧志親雲上(CおよびD、ただしCには一部分小禄親方の口問が含まれている)の三人についてである。これらの「口問書」はいずれも、おそらく拷問の責め苦にうめきながら供述されたものを記録したものであろう。したがって系統だったものでなく、また、重複部分も多い。記録の内容はほとんど史料一に紹介した「調書」の中に整理され、収録されているので、あらためて全体にわたっての内容紹介は必要ないと思われるので語釈を少しばかり施しておきたい。
史料二のA 小禄親方口問書 *
〔語釈〕「たまかいたる」=びっくりする、驚く。「相中」=えーじゅう。相棒。
*「小禄親方口問書」は後半が欠落している。
史料二のB 伊志嶺里之子親雲上口問書
〔語釈〕「御ましよん之事」=いらっしゃった。一緒におられた。
史料二のC 小禄親方・牧志親雲上口問書 *
*巻物表紙には朱で「糺官意見書」と題されているが、内容に即してここでは見出しのようにしておく。
史料二のD 牧志親雲上口問書
〔語釈〕「ゆるひ之前」=意味不明。
牧志の「口問書」にはいくつかの注目される点があるので、そのことに若干ふれておきたい。
その第一は、この「口問書」の随所に何度も出てくる供述であるが、諏訪数馬(在番奉行)宅における酒席で、次期三司官(座喜味三司官の後任)の選任に関して話題となっていることである。その酒席には、琉球側からは玉川王子・池城親方(三司官)・小禄親方(三司官)・伊是名親方・恩河親方(物奉行)・宮平親方が顔をつらね、薩摩側からは諏訪数馬の外、岩元〔下〕清蔵・園田仁右衛門・柳田正太郎・大窪八太郎、といったおそらく在番奉行配下の面々が列席している。その席で池城親方が諏訪に向って、「野村は札数は劣っているが人柄がよいので、今度の三司官はぜひ野村を推挙せられたい」というと、そばから小禄が「票数次第でなくてはまずい」、とちょっかいを出すと、すかさず池城は「山芋掘て」とたしなめているくだりである。「山芋を掘る」とは、「酒席でクダを巻く」という意味の薩摩語だという。*
*「山芋を掘る」という意味がどうしてもわからず、あるいは首里か那覇あたりの古語かと思い、古老をはじめ、いろいろの方々に尋ねてまわったが、まったく見当がつかないという返事がかえってきた。のち照屋善彦教授から、佐藤雅美著『薩摩藩経済官僚』(講談社文庫、一九八九年六月)に次のような記述のあることをご教示いただいた。「山芋を掘るという。酒席などで管を巻くという意味の薩摩言葉だ。調所は朝から晩まで口やかましく部下を叱りつけた。まるで山芋を掘っているようだと、部下は陰口をきいた。陰口を耳にしながら、調所は毎日『山芋を掘り』つづけた。」(同書、二二五頁)
牧志がその「口問書」の随所で、つまり何回もの訊問を受けるたびに、同じことを供述しているのであるが、これが事実であるとすれば、たとえ酒席とはいえ、次期三司官に次点者の野村親方を在番奉行に向って推挙したのは小禄でなく、池城であったということになる。しかし小禄がそのこととの関連で、獄門に繋がれたのに、池城はまるで無傷である。
もう一つ、この酒席に列席している伊是名親方のことである。たとえば牧志の「口問書」の同じ日付(未十二月二十四日、同日)に、すでに紹介したことだが、「小禄より潮平へ、私ゆえに伊是名・牧志等へも相かかわらせ、気の毒」、とあって、野村と伊是名が入れかわっている。というより野村と伊是名は同一人物である可能性がある。領地の変更で改姓したのかもしれない。後考を待つ。
また、申五月八日(同日)の供述で牧志は、自分が小禄の名を借りて密願(内意) した事実はまったくない、と否定している。
史料二のE~Nは断片も含めてかりに「糺明官意見書」としておく。
史料二のE 糺明官意見書(一) これは後任三司官選任をめぐって在番奉行諏訪数馬宅での野村を推挙した話を中心に、糺明役人の審理経過を記録したものであるが、とくに末尾のところで、牧志の供述(晴目)には辻褄の合わない所があり、それを補強しうる別の確かな証拠固めができないうちは、「池城へ手をつけ候儀まかり成るまじく」とあって、池城親方へも捜査の手が伸びようとしていることをうかがわせる。
〔語釈〕「まじゆうん」=一緒に。「かつミらる」=つかまえられる、逮捕される。「現当」=ジントウと読んで本当に、まことに、という意味であろう。「いやゑまづ」=何はさておき、なんとまあ、くらいの意。「あんたへ」=彼らに。あの連中に。「肝と肝のちやあひ」=心と心が通い合う、以心伝心。
史料二のF 糺明官意見書(二) これは「六月」とあるだけだが、おそらく一八六〇年(万延元、咸豊一〇)の六月であろう。署名人は徹底糺明派の伊江王子・摩文仁親方・字地原親方、それに本文中に出る与名城里之子親雲上である。刑罰は所犯相当に課すのが本筋であるから、「役人共」が主張しているように「疑の情犯」をもってあいまいに処理するのでなく、犯罪を立証する白状または証拠を得るまで、とことんしめあげる必要がある、というのである。この文書は、前後することになるが、前出史料一のL「糺明官の意見」の中で批判の槍玉にあがった文書と連動するものであろう。
史料二のG 糺明官意見書(三) これもFと同様「疑の情犯」で処理することに反対し、伊志嶺里之子親雲上の「口問書」に沿って治罪すベきだ、とする。
〔語釈〕「一方」=小禄のこと。「張通し」=くいちがい。
史料二のH 糺明官意見書(四) この文書はここに紹介した一連の記録の中で、年月が明記された最下限のもので、一八六〇年(万延元、咸豊一〇)九月、とある。内容は、糺明する側の見解が二つに分かれ、収拾困難な事態に至っているのを憂慮し、「双方」が協力して、早々に決着をつけよ、という国王の意向を伝える文書である。
〔語釈〕「打組」=一緒になる、合同。
史料二のI~Nは糺明官意見書の断片を一応独立させて掲げた。
二 「事件」の真相について
(一)「事件」の構図
この「事件」には謎が多すぎる。
第一、三司官選挙をめぐる問題。選挙結果は、最多得票者が与那原親方良恭(馬朝棟)、次点が野村親方(『琉球三冤録』では伊是名親方朝宣とある)、一票の得票しかなく最下位だったのが翁長親方朝長(のちの譜久山親方朝典、向汝礪)、の順であった。ところが、最多得票者の与那原は退けられ、小禄や牧志が選任運動をしたとして嫌疑を受けることになった当の人物は野村親方であり、最終的に薩摩が次期三司官として白羽の矢を立てたのが、最下位者の翁長親方である。一体どういうからくりになっているのか、理解に苦しむ。『琉球三冤録』の著者が、薩摩による座喜味三司官の追放、その後任選挙における多数票者たる与那原の排除、について「古来未曾有にして、朝野恟々怪訝(けげん)驚愕せざるはなし」、と評したのもうなずける。
第二、同じく三司官選任に関連して、牧志の証言によれば、三司官選挙がすんで二、三日後、諏訪数馬宅で酒宴が聞かれ、その席で諏訪に向って野村を推挙したのは池城親方(三司官)であり、それを側から小禄がたしなめたことになっている。野村を次期三司官に推挙したことに関連して、小禄が嫌疑をかけられ、逮捕・投獄されて、拷問を受けていたのに、なぜか池城に及んでいない(もっとも池城にまで捜査の手が伸びようとしていたことは前述)。
第三、この「事件」では、とりわけ小禄親方の取調べにあたっては、牧志の証言がしばしば引合いに出された。この「事件」では牧志がそのつど「自白」しているが、時に首尾に一貫性を欠くところがある。取調べをする側も、ある部分で前後矛盾する牧志の供述に不信の念を表明している。牧志じしんが自分の証言について、月日が経過しているうちに、思い違いや過不足があったことを認めている。それはともかく、牧志はなぜ次々「自白」したのか。『琉球三冤録』の著者は獄中での牧志について、「此時牧志は糺問を受くる毎に歴々白状を為し、幾多の拷問を免れたり」と述べている。拷問の苦痛を恐れて白状した、と。その証言にどれほどの真実が含まれていたのか、いなかったのか、それこそ不明であるが、かれの証言によって小禄が窮地に追い込まれ、さんざんしぼり上げられたことはたしかだ。牧志は脱獄を決行して帰家したことがあったらしい。最後は薩摩の手によって結果的には出獄を許され、鹿児島へ連行されるのだが、伊平屋島の沖合を航行中、海中に身を投じて死んだ、とされる。牧志はなぜ「自殺」したのか。「自殺」しなければならない理由があったとすれば、それは何か。それは歴史の暗い海の中に閉ざされたままである。
第四、すでに東恩納寛惇が『尚泰侯実録』の中で指摘していることであるが、この「事件」では本来証人に立つべき摩文仁親方(賢由、夏超群)および宜野湾親方(朝保、向有恒)が、審理の途中から糺明奉行に加わり、裁く側にまわっていることである。在番として鹿児島にいた摩文仁は、小禄が琉球館聞役新納太郎左衛門に「三司官内意の書状」を送った、という情報を王府へもたらし、また、宜野湾も鹿児島にいて、恩河が三司官座喜味を誹謗・讒訴したという情報をもたらした人物であり、いずれもいうならば「事件」の火つけ役でもある。この二人が「糺奉行」に加えられた理由を東恩納は、「恩河等百方苦楚を加へ糺明するも、罪に服せざるを以、此の二人を加へて弾正の任に当らしめたるなり」としている(同書、二三九頁)。要するに、あくまで恩河らに罪状を認めさせるために、二人を糺明奉行に加えたというのであるが、証人に立つべき人物を裁く側にまわしてまで、「糺明」を続行しようとしているのは、明らかに常識的なルールを逸脱した政治裁判である。そうしてまで「糺明」しなければならなかった理由は奈辺にあったか。
第五、この「事件」では、嫌疑を立証する証拠が何一つあがっていない。恩河親方に係る座喜味誹謗の「落書」にしろ、鹿児島における讒訴にしろ、また、小禄親方に係る「三司官内意の書状」にしろ、その他、うらづける証拠証跡は何もない。あるのはただ牧志の供述と、聞役新納太郎左衛門からの照会(問合)、および摩文仁や宜野湾がもたらした情報だけであり、これとても所詮「風聞」にしか過ぎない。証拠がなければ罪の確定はできない。これは裁判の鉄則であろう。「自白」に追い込んで「証拠」を引き出すために拷問がくり返されたのだが、恩河も小禄も、その責め苦に耐えて罪状を否認し続けている。糺明する側でも「事件」をいかに終結させるかで意見が二つに割れた。徹底糺明を主張するグループと、「疑の情犯」(「罪の疑わしきは軽きに従う」)の原則を適用して、穏便に落着させようとするグループと。この両者の間には大きな隔たりがあり、妥協の余地は見出せない状況にあったと推測される。裁く側のこの分裂の背後には何があるのか。
第六、この「事件」は屢述のごとく、恩河・小禄・牧志の三人が、いずれも現職を解かれ、ついで逮捕・投獄され、拷問のもとで取調べが続けられている。かれらは、なぜ裁かれなければならなかったのか。三人に係る嫌疑の背後には、共通に薩摩の権力(その出張機関が在番奉行所)が控えている。そのいわばエイジェントの役回りを演じたのが牧志であり、恩河であり、小禄もまたそう目された。つまり、蒸気船購入などの対外問題から、座喜味三司官の追い落とし、はては国王廃立の陰謀などの国内問題まで、かれら三人があらかじめ薩摩と示し合わせて計画したものであると見られたのである。ただし、この「事件」の糺明の過程では、表向き薩摩の諸施策の是非を正面に据えた議論は展開されず、もっぱらその代行者たる牧志らを叩くかたちで事態は進行している。
牧志・恩河事件後の王府内には、おそらく薩摩との関係維持に、ある種の気まずさ、不信感、警戒心がつきまとったものと想像される。島津斉彬の進取的政策を継承したと想定しうる明治政府のもとで、初めての慶賀使としてその正・副使に選ばれ、国王尚泰に代り「藩王」宣下の詔勅を拝領することになったのが、牧志・恩河事件での糺明奉行で、しかも徹底糺明を主張した伊江王子朝直(尚健)と宜野湾親方朝保(向有恒)であったこと、そして頑固派から「売国奴」と罵られることになったのも、歴史の皮肉というべきか。
最後に第七、薩摩の動向も大いに気になるところである。もともとこの「事件」の震源地は鹿児島である。斉彬は市来を渡琉させるにあたって直筆の書翰(安政五年正月廿日付)を与え、その中で「三司官どもの善悪を船ごとに申遣わすべく候こと」といい、また、座喜味三司官の追放を命じたのだった(「石室秘稿抄書」『史料稿本』。いま『那覇市史』資料篇第二巻中の四所収 七九頁)。
それにしても、鹿児島において座喜味を誹謗した廉で恩河を陥れる口実をつくったのが、琉球館聞役・新納太郎左衛門の王府あての書翰(問合)であった。その新納は、かつて摩文仁親方・恩河親方を「磯御茶屋」に案内し、藩主斉彬と面談させたことがあった。おそらく斉彬路線を支持する立場にいたものと見られる。その新納が、なぜ恩河や、また小禄・牧志を陥れる策謀に荷担する行動をとったのか。しかもその新納は、「事件」後も(つまり斉彬死後も)依然としてもとの琉球館聞役の地位にいる。
牧志・恩河にしても、また小禄にしても、もとはといえば職務上、薩摩の政策に協力し、推進する立場にあり、そのことが裏目に出て今回の「事件」の最大の犠牲者に祭り上げられたのであるが、三人が投獄され、拷問のもとで悶絶しようとしているとき、薩摩はかれらのために何一つ手を打とうとしていない。
なによりも奇怪なことは、禁獄中の牧志を、獄吏や他の王府役人をだます形で、公然と連れ出し、駕籠で在番奉行所へ運んでいることである。表向き、牧志を通事として薩摩で使いたい、というのがその理由である。王府はあわてて、異国通事としてならば、牧志ではく長堂里之子親雲上に代えたい、と長堂を伴って宜野湾親方が鹿児島まで出かけて歎願に及んだのであるが、先述のように牧志は鹿児島へ向けて航行中の船から海中に身を投じたため、その問題はこれで沙汰止みとなる。
牧志「救出」作戦ともいうべきこの薩摩の謀略の真のねらいは何だったのか。牧志はいわば斉彬路線からはみ出して、必要以上に外国人と私交しているフシがある、とみられた(同上書、九三頁)。つまり、薩摩はそのことを直接確かめるためにも牧志を鹿児島へ呼びつけるとしているのだが、あるいは牧志が存命していることで、薩摩の側に、たとえば市来や新納などに累が及ぶのを恐れて、殺害されたという推測も成り立つ。
それにしても、この「事件」は琉球王国が薩摩に対してどのような存在であったか、その地位のはかなさを否応なく見せつけた数々の出来事で満たされている。
(二)喜舎場朝賢著『琉球三冤録』にふれて
喜舎場朝賢の『琉球三冤録』(以下、『三冤録』と略称)は、書名が示す
ように、恩河・小禄・牧志三人の冤罪(無実の罪)を晴らすべく書かれたものであろう。ただ、明確な執筆意図および執筆年代は不明であるが、一九〇〇年(明治三三)十月に牧志親雲上朝忠の次男朝昭の依頼で、「亡父牧志朝忠復禄の儀に付請願」書を起草し、関係書類等を添えて沖縄県庁に提出の段取りをしていることに鑑みると*、同じ頃か、あるいはその前後のある時期に書かれたものであるのかもしれない。
*「請願」書と関係書類は、いま喜舎場朝賢の『東汀随筆 続編』第一回に収録されている。
牧志・恩河事件を真正面から取り上げた著述としては、本書に勝るものを私は知らない。分量にすれば四〇〇字詰原稿用紙の三五枚位だが、「事件」の発端から審理の経緯、判決に至るディテールが看取できる。本書を書くに当って喜舎場はここに紹介した「牧志恩河一件調書」および同じく「口問書」を十分利用したものと思われる。また、この「調書」や「口問書」の記述には出ていない事実関係も織り込まれており、何よりも三人の冤罪を確信し、その無念を哀惜する脈動さえ伝わってくる著述である。いまその中から、ここで紹介した史料からはおぼろげにしか見えてこないいくつかの点を取り出し、「事件」の経緯を理解する手がかりにしたい。
何よりも「事件」の発端についてである。これまで述べてきたことと多少重複する所もあるが、この点に関する『三冤録』の記述を引いてみよう。
当時、摩文仁親方賢由なるもの、在番官と為りて鹿児島に駐在す(在番は今の外国領事官の如し)。新納氏即ち座喜味の非行を恩河に探問せし顛末、及び座喜味の後任上申の際、小禄三司官が陰に薩官へ賄賂を贈り、次票者なる伊是名に命ぜられんことを密願したことあり、と語る。摩文仁之を聞き大に憤懣したり。適々幕府将軍継統を奉賀するの正使伊江王子尚健、副使与那原親方良恭、鹿児島に渡来するに遇ふ。伊江・与那原の旅館に来るや否や、摩文仁迎えて伊江の手を執り、啼泣して以て新納氏が語りし小禄・恩河の事を逐一吹聴したり。伊江等は事の意外に出でたるを驚き、此事重大に関するなれば、我等帰国の後、新納氏一己の署名の封書を以て球庁に報知せしむるを約したり。凡そ球庁へ報知の文書は、聞役と在番と両人連署する規定なるも、此事隠秘に属するを以て、聞役一己の署名を要するなり。(『琉球見聞録』と合本、一五七-五八頁)
要するに、恩河の座喜味誹謗、および小禄の三司官選挙にからむ贈賄・密願、この二つの情報が聞役の新納から摩文仁に伝えられ、摩文仁はそのことを当時鹿児島に来ていた伊江王子と与那原親方に話し、さらにそのことを新納の署名入りの書状で琉球王府へ知らせる、という手はずが整ったのである。新納の書状(問合)は、一八五九年(安政六、咸豊九)三月下旬、「唐の首尾使者」として鹿児島に派遣されていた宜野湾親方朝保によってもたらされ、王府へ提出された。同じ頃、飛脚使としての任務を終えて鹿児島から帰国したばかりの与儀筑登之親雲上からも、摩文仁が鹿児島で小禄を誹謗したという情報が直接小禄に伝えられたが、小禄は意に介しなかったようだ。こうして「事件」の導火線に点火された。
恩河と摩文仁は仲が悪かったらしい。
その辺の事情について、『三冤録』は次のようなエピソードを伝えている。
摩文仁・恩河曾て薩公の席上に在り、公、床上の支那地図に対し、摩文仁に問ふ。「シンコウ」の路は何よりすと。摩文仁答ふること能はず。「シンコウ」は進貢なり。球人支那音を通用し「チンクン」と言ふ。故に摩文仁之を暁らず。恩河傍より、福州より入りて浙江・蘇州・山東を過ぐ、と図を指して答ふ。摩文仁靦然慙を抱く。他日、公、子を生む。両人を招宴す。恩河祝詩を呈す、吐囑最も雅潔、公の欣賞を受く。摩文仁学なし、亦深く慙づ。故に深隙を為す。(同書、一六九頁)
二人が新納に伴われて「磯御茶屋」を訪れ、太守(薩藩主島津斉彬)と面談していることは『異国日記』にも見える(『史料稿本』安政四年八月廿九日 いま『那覇市史』資料篇第二巻中の4、七三頁)。斉彬の前で「学がない」ゆえに摩文仁は二度も恥をかかされた形となって、内心恩河を妬んだにちがいない。上の記事にすく続けて『三冤録』の著者は、「新納氏が告発も、焉(な)んぞ知らん、之を嚼(かま)すに重貨を以てするの教唆に非らざることを(世人之を疑ふもの実に尠らず)」、とコメントを付している。つまり、摩文仁が新納に対し賄賂を使ってそそのかし、恩河・小禄を陥れる書状を書かせたにちがいない、世間ではそう取り沙汰しているものは実に多い、というのである。
摩文仁にはさらに疑わしい事跡があった、と『三冤録』の著者は別のエピソードを伝えている。すなわち、摩文仁は恩河が獄で取調べを受けているさなかに、首里士族花城某なる「無頼漢」を使って、恩河による座喜味讒訴を言いふらせた形跡がある、というものである。平等所大屋子(取調役人)が花城を呼出し糺問したところ、自分が捏造した誣言であることを自白するに至った。『三冤録』の著者は、花城は「常に摩文仁に親近」していたとして、その行為を大屋子らの感想を引きながら次のように述べている。「大屋子等謂ふ、是れ真の狂漢なりと。是れ幾乎(ほと)んど摩文仁が教唆したるに非ずやと疑ふのみならず、頗る認むべき事迹もありと雖も、上席の人を繋連せしむるを憚り、之を置きて問はず其まゝ之を放免したり」と(同書、一六四頁)。
もう一つ、本書は三人の冤罪をそそぐために書かれた。先記のように著者にはこれとは別に、遺族の依頼で牧志朝忠の名誉回復のための請願書を起草している。本書でも、牧志が一時脱獄して家に逃げ帰った際、家人に与えた遺書に、「我れ未だ曾て小禄の囑を受けて三司官選挙干渉せしことなし。今之を承認したるは一時の権を用ひたり」とあるのを紹介し、「栲問の残酷に耐へず」、「一時の苦楚を免るゝ」ために、「自白」したのであろう、としている。さらに牧志の獄中での心境を詠んだ詩に、「奸計流言世を惑わすこと頻り、端無くして乱を唱え良人を陥らす。是非黒白誰かよく弁ぜん、只だ蒼天を呼びて涙巾を湿す」とあるのを紹介し、「牧志の心事、察するに余りあり」としている。そして「牧志は固より罪なし。其遺書遺吟、及び小禄の自首せざるに徴して明亮なり」と判定している。
その小禄について最後に触れなければならない。小禄の人柄について『三冤録』の著者は、「豪爽濶達、酒を嗜み放誕にして、胸中城府を設けず」と評している。胸中城府を設けず、とは、誰とでも胸襟を聞いてつきあう、という意味であろう。その小禄が免職、ついで投獄された年月日のところに、こう記されている。
同年(一八五九)五月九日、小禄三司官を免職す。此日天曇り地震三回す。
同年七月十八日、小禄三司官を獄に下す。此日地震数回、大雨盆を傾くるが如し。
また、「伊江島照太寺へ五百日の寺預」の判決の記事にすぐ続けて、小禄は満腔の悲憤に堪ゆべからずと雖も、訟訴上告を為すべき所なく、冤を含み屈を呑んで伊江島へ渡航して処分を受たり。
それらの記述には、『三冤録』の著者の小禄に対する痛惜の念というか、哀感がにじみ出ているように思う。天も怒り、地も哭す、小禄の無実は天地がお見通しだ、と言わんばかりである。
ついでに付言すれば、この「事件」の中心人物は牧志親雲上朝忠・恩河親方朝恒・小禄親方良忠の三人である。したがって「事件」名も「牧志・恩河・小禄事件」とでも呼びそうであるが、後世には「牧志・恩河事件」と通称されている。「牧志・恩河・小禄事件」でなく、「牧志・恩河事件」と呼びならわしてきたのには、それなりの理由がありそうである。結論的に私見を言わせていただくと、小禄はまったくの無実であり、その冤罪を痛惜する当時の人士の同情が、「事件」にかれの名を冠することを意識的に避けさせたのではないか、ということである。
むろん、他の二人についても、冤罪の色が濃厚であり、喜舎場朝賢があえて『三冤録』を著わしたのも、三人に着せられた冤罪を嗅ぎつけ、それを雪ぎたかったからにほかならない。『三冤録』の著者の小禄に寄せる感懐は、なかでも格別であり、それはまた当時の大方のそれでもあったのではないか。せめて「事件」の呼び名から小禄を外すことによって、裁いた側に痛棒を加えた、と見られないだろうか。*
*拙稿「牧志・恩河事件」(『那覇市史』通史篇・前近代、所収)参照。
以上、伊江文書として残る牧志・恩河事件関係の記録を紹介し、あわせてこの「事件」について若干私見を交えて「解説」を試みた。ここに紹介した諸文書は、この「事件」に関する根本史料であるが、残念ながらおそらくその一部分にしか過ぎない。
たとえば、「小禄親方口問書」(史料二のA) は中途で切れていて、明らかに後半が欠落していることがわかる。「小禄親方調書」(史料一のI)によれば、小禄に対して「拷問拶指都合十二座責扱」とあって、かりに「座」が「回」という意味であれば、小禄は十二回の拷問を受けたことになる。拷問のもとで「口問」(供述)が筆記されたと想定すれば、先の小禄の口問書には八月四日から十一月五日までの間の六回の記録が残っているから、あと六回分の記録が欠落していることになろう。
同じように言えば、恩河に対しては「拷問拶指かわるがわるこれまですべての尋問に十六座責扱」とあり(史料一のA)、そのつど「口問」(供述)が筆記されたと考えられるが、恩河に関しては「口問書」が見つかっていない。
また、すでに指摘しておいたことであるが、「糺明官の意見」(史料一のL) で批判の対象に据えられている徹底糺明派の意見である「与名城書面」および「摩文仁親方・字地原親方書面」を今見ることはできない。さらにいえば、この「事件」に対する判決文が残っていない。*
*判決の内容を伝える文書として、たとえば次のようなものがある。
「小禄親方、恩河親方、牧志親雲上等一件糺明相懸、去年(万延元=一八六〇)十二月罪分御議定相成、牧志は三司官致内意候不届付、八重山嶋江十年流刑、小禄親方にも三司官為致内意段牧志申出候得共、小禄には右様の儀曾て無之、兎角牧志より小禄名を仮り為致内意積と申出、夫々張合相成、外ニ引当可相成証拠証跡無之付、疑の情犯を以照泰寺江五百日寺入被仰付、恩河は座喜味親方一件何方の尋にても、不有之事は屹と可弁取の処、其儀無之ニ付、久米島江六年流刑の筈候得共、死後故御沙汰無にて、位取揚被仰付、且又下儀保村次男花城里之子親雲上には、自分の名目宜敷相成と、大臣等江相懸大事の虚説申触候不届付、渡名喜嶋江三年流刑被仰付置候、為心得申越候間、若御役人衆より御尋共候はゝ、右の跡を以可被申上候、此段致問合候、以上」(文久元年正月十日 三司官与那原親方・池城親方・譜久山親方より鹿児島在番安村親方宛て照会。『史料稿本』、いま『那覇市史』資料篇第二巻中の4 九一頁)。
ちなみに『琉球三冤録』によって、「判決」の内容を若干補足すると次のようになる。
①恩河親方=久米島へ六年間の流刑(ただし、恩河は一八六〇年閏三月十二日獄中で死去。『三冤録』では恩河に対する刑の宣告はその前年の十二月三十日とする。久米島への船便がないため獄中に留置されているうちに、疲労困憊がもとで重病となり死去したとする)。
②小禄親方=伊江島照泰寺へ五〇〇日の寺預け(寺入ともいう。小禄に対する宣告は一八六〇年十二月)。
③牧志親雲上=久米島へ十年間の流刑。ただし薩摩へ逃走のおそれありとして、終身禁獄とする。(のち一八六二年薩藩の命で保釈の上、鹿児島へ連れ去られる途中、七月十九日、伊平屋島沖で海中に投身自殺と伝う)。
このように、ここに紹介した史料は「事件」の全容を解明するには、不備なものであるが、「事件」の輪郭はこれによってほぼ明らかにしうるのではないかと思う。今後さらに琉球側の関連史料の発掘はもちろんのこと、薩摩側の記録の中からも関係記事を見つける努力が必要であろう。たとえば、『鹿児島県史』第三巻(一八二頁)に、安政五年(一八五八)二月廿九日付の島津斉彬から島津久宝宛の書翰が写真版で収録されており、文字が小さくて判読しにくいが、それでも「座喜味事も病気ニ而退役願出シ申候、代り野村と翁長両人之内ニ可申付、しかし此節者人柄第一ニ候間、当時取調中ニ御座候」と読める*。三司官座喜味の退役、その後任者の選定のことが、薩摩の内部で、しかもそのトップのところでの関心事として浮上していた事実をこの記録は伝えている。
*もっともこの記事は、鹿児島県維新史料編さん所編『鹿児島県史料』斉彬公史料 第三巻(昭和五八年一月刊、五二頁)にも収録されている。
この史料を紹介させていただくにあたっては、沖縄県立図書館の宮城保氏には種々便宜をはかっていただいた。また、金城功副館長および安仁屋以都子氏には史料解読の上で貴重なご教示をいただいた。この場をかりて御礼を申し上げたい。また、かなりのページ数を割いて本史料を紹介する場を与えていただいた『歴代宝案研究』編集子に感謝したい。
【史料紹介】 伊江文書 牧志・恩河事件の記録
史料一 牧志恩河一件調書
A 恩河親方調書
恩河親方事去巳年上国之節聞役新納太郎左衛門殿江申候者三司官座喜味親方事当時
国王様御幼年王子衆ニ茂御若輩余之三司官茂新役勝故座喜味一分権威を振ひ一統歯をかミ居候就而者御国元よ里御沙汰共御座候ハヽ別而仕合之御事候間太郎左衛門殿ニ而御役人衆江通し上候様取計度段申ニ付座喜味夫程之人躰与者見及無之候処其通候哉得与相考何分可仕段致返答至極不審ニ存摩文仁親方江恩河人躰之様子相尋候処都而之嗜者宜相見得候得共何歟実意立兼候儀共有之哉ニ見受居候段承其後恩河相逢先達而承候座喜味親方一件者太郎左衛門殿職分ニ而無之御役人衆江通し上候儀断之段申入候処夫よ里山田壮右衛門殿御宅度々致出入模様相見得兎角右一件讒言為致積其外恩河仕向不宜儀共太郎左衛門殿問合并冝野湾親方委曲申含越且右一件嘉味田親方よ里茂問合有之諸官御吟味之上及
言上糺方被仰付問届候次第左之通
恩河親方
右問届候処申披候者去巳年六月帰唐船逢災殃返上物打捨候御断并竿銅申請等之御使者被仰付八月七日那覇川出帆同廿九日前之濱上着早速よ里御用筋取付聞役同伴豊後殿御宅参上御玄喚江扣居候時聞役よ里座喜味親方事大和よ里売物積下候得者態々焼酎垂方禁止申付積帰させ且砂糖萩(ママ)敷取細メ百姓為及迷惑且諸士せり詰為及難儀候段御聞通相成候間実成申聞候様尋有之飢饉ニ付而者無是非焼酎垂方禁止申付候節茂有之萩(ママ)敷手広相成候而者杣山之不為相成蔵方難渋ニ付而者余計之費取細候向ニ而態々諸士為及迷惑候儀ニ而者無之段致返答追而豊後殿逢上罷帰其後聞役自身詰宿江参座之印与相認候書付手前ニ持ち一方ニ而見候而申候者先日相尋候座喜味一件兼而上国之異国方役々よ里茂委曲御聞通相成館内江茂御聞合相成居候間無遠慮申聞候様尋有之候処大臣之事御尋者御免可被下抔与申先日同様之返答形ニ而申迦其後聞役宿江参居候時先達而相尋候座喜味一件者一朝一夕之故ニ而も無之兼而よ里細々御聞通相成居候付恩河致上国讒言為致筋ニ而者曽而無之候間何れ有筋申述候様ニ与申返す/\右之三事尋ニ付座喜味与者兼々中茂悪敷有之終ニ尋ニ応し大和よ里売物積下候得者焼酎垂方禁止申付積帰させ且萩(ママ)敷取細メ百姓為及迷惑且諸士せり詰及難儀居候次第弥尋之通不相替段致返答其以来何分沙汰無之且聞役同伴ニ而摩文仁親方一同山田壮右衛門殿御宅江参竿銅申請之御訴訟相済候御礼申上恩河ニ者園田仁右衛門殿よ里之伝言申上度申上候付摩文仁聞役者先達而罷帰右伝言之趣者仁右衛門殿事琉人多人数致取合候付而者逢讒候儀茂難計是者段々被頼懸屹与断茂不罷成致付合事候得共御故障筋可相成儀者曾而仕出不申候間御懸念被成間敷尤長々之滞在暮兼居候間早々帰帆之方御取計被下度趣申上候付弥讒茂為有之事候仁右衛門殿ニ者産物係抔江勤通之思召候処帰帆を願居候哉与被申候付兎角願望之筈ニ者候得共長々之滞在故中渡之上重而罷下候儀を奉願筈与申上候付被聞召置候段被仰聞済而座喜味一件最初聞役江為致返答事々者先達而聞役よ里為通半何分御尋無之異国一件固滞いたし候段御聞及之由御尋付成程かたまり候段為相答由申出候付座喜味親方讒害之儀上国之上恩河よ里起して聞役江為申聞積且恩河家内よ里取揚置候書付之内壮右衛門殿返札ニ人々不取寄様ニ与之趣致承知候段相見得候上者異国一件茂自分よ里取起し右外ニ茂段々為申立積且座喜味を讒し候儀恩河一身之所行ニ而者無之前廉御当地ニ而人数組合仮屋方江貫キ御側向江讒状差遣させ上国之上聞役よ里之尋者右讒状を以糺合形ニ而可有之実成申出候様段々問詰拷問拶指引替是迄都而之尋ニ十六座責扱致穿鑿候得共聞役よ里尋之砌茂最初者申迦り終尋ニ応し致返答且壮右衛門殿江茂仁右衛門殿伝言又者逢尋為申上事茂前文通不相替兼而よ里人数組合仮屋方江貫キ座喜味讒害為致儀曽而無之旨申出居候処恩河事当三月末比よ里根気不足相成段々致養生候得共其詮無之漸々気分相癈当閏三月十二日相果申候
附
一牧志申出候者欝金一件之御訴訟書面迄ニ而者相済申間敷恩河御訴訟御使者ニ而上国之方ニ摂政三司官衆江申上呉候様恩河よ里正右衛門殿江頼有之且座喜味親方一件正右衛門殿太郎左衛門殿江色々讒し及
御聞被蒙
御不恭候処右一件正右衛門殿江恩河ニ者大臣之事御尋者御免被下度聞役等江申迦り此段御聞通ニ而
御感心為有之段於琉球相咄呉り候様頼有之最初者牧志等江茂其通咄承居候処実ニ讒害為仕筋後以正右衛門殿よ里承り尤右御訴訟御使者摂政三司官衆江申上呉候様ニ与之段者牧志居合之上ニ茂正右衛門殿江頼入候を承右式大臣之事御尋者御免被下度為申迦段者咄承此段者序次第御座江茂申上呉候様恩河よ里為申由牧志申出候付恩河問届候処去々年御物奉行被仰付欝金一件御訴訟之書付譜久山殿内那覇宿ニ而正右衛門殿入内見候折正右衛門殿よ里右御訴訟御使者恩河差登候様譜久山殿内江申上候者恩河ニ茂居合之上為承事候得共恩河よ里右御使者正右衛門殿ニ而摂政三司官衆江申上呉候様為頼入儀者無之且座喜味殿内一件実者致讒害於琉球ニ者大臣之事御尋者御免被下度為申迦形ニ相咄呉候様正右衛門殿江為頼入儀も無之正右衛門殿事磯御呼之時初而相逢聞役江茂釣合之上一度砂糖焼酎持参ニ而見廻ニ参り候処不相逢一度者聞役一同詰仮屋江相催夫よ里同船ニ而罷下船中ニ而者何之沙汰茂無之候処去巳十一月ニ而茂為有之候哉恩河結願之為山原江差越罷登候後正右衛門殿相逢候折咄之趣者壮右衛門殿太郎左衛門殿よ里座喜味殿内一件尋之趣すりぬけ/\ニ而不申上段者
御聞通相成
御感心為被為在次第兼城親雲上居合之上承帰りすら松堂親方宿江参後之証拠ニ茂可相成与咄聞猶又御座御三人江茂申上置候次第ニ而正右衛門殿欝金一件之御使者摂政三司官衆江申上呉候様且座喜味殿内讒害不致方ニ為頼入次第茂無之正右衛門殿事仲里筑登之上国一件よ里不中相成兎角其鬱憤を以右通為申積与申出候付牧志対決さセ候得共右通正右衛門殿江一生之大事頼入置候ハヽ正右衛門殿申立者いつれニ茂応し可申之処無其儀御用筋ニ付而者度々致言張正右衛門殿気受相損たる事茂段々有之是以右事々正右衛門殿頼入不申証拠之段申出最初者座喜味為致讒害次第白状無之候処終ニ壮右衛門殿太郎左衛門殿尋ニ応し本文通為相答次第申出居候
一恩河親方上国之節故座喜味親方讒害一件太郎左衛門殿問合ニ者本文口書之通太郎左衛門殿江差向讒したる趣意相見得恩河相糺候得者太郎左衛門殿よ里及三度逢尋問終ニ彼尋之事々弥其通与為致返答由ニ而太郎左衛門殿問合与者相わくミ候処恩河上国前座喜味親方一件館内江茂御尋為有之事候得共弁取何之御沙汰茂無之候を恩河上国仕候付又々為取起次第ニ而前廉恩河等よ里人数組合仮屋方江貫キ御側方江讒状差遣さセ恩河上国之上者糺合形ニ而可有之与摩文仁親方被申候付此所段々責扱致穿鑿候得共右様之儀毛頭無之段達而申出候恩河上国仕起して致讒害候与太郎左衛門殿依尋致返答候与者張本従者之差分相出来且嘉味田親方茂太郎左衛門殿よ里聞取之事々問合仕置候処彼問合ニ先嶋江拝借銭之内為分取段相見得候処御物奉行方相尋候得者先嶋江拝借銭恩河為分取儀無之段承太郎左衛門殿問合并同人よ里嘉味田江通達之内ニ茂都合不致儀差見得申候
B 恩河親方奉公人等調書
故恩河親方奉公大中村次男当歳二十八 仲村渠筑登之
同人供金城村嫡子当歳二十一 賀数子
同人供渡地村次男当歳二十二 我如古仁屋
恩河里之子乳母当歳四十六 つら
下儀保村嫡子豊平子母当歳三十五百姓素立 なへ
故恩河親方娘乳母当歳四十一 まか
右者去辰年末比恩河親方宅江人々相揃何歟密事を為談哉宮仕茂女共為仕由且恩河御役御免之後彼宅江大名方為致出入由且去年三月冝野湾親方大和よ里帰帆陸通之砌大名方之様成者三人晩方酔狂躰ニ而恩河経塚之屋取よ里出為申由右旁之風聞為穿鑿右面々牢込を以人別問届仲村渠ニ者恩河大和ニ而之挙動をも問届候処仲村渠事去辰年八月よ里恩河親方奉公仕一ヶ月ニ六升飯米被相与昼夜詰込嫡子恩河里之子読書相教去巳年恩河御使者勤之時日帳方ニ而一同上国仕親方ニ者山田壮右衛門殿なと御取合三四度彼御宅参上其内一度者園田仁右衛門殿伝言申上候間他人抔御取寄不被成様ニ与之趣意等書付手紙仲村渠相認差遣候処弥其心得之段返札為有之儀者存候得共座喜味親方一件恩河よ里為承儀一切無之且恩河御奉公留被仰付候以後恩河宅江大名方被罷出候儀茂無之段申出且つら申披候者恩河親方御客来之節者供之者共よ里宮仕相勤いつにても女共為致宮仕儀者無之且恩河御奉公留以後由緒方并奉公人共者彼宅被罷出右外者伊志嶺里之子親雲上糸嶺親雲上親方従妹之夫仲村渠親雲上各一度者見廻ニ被罷出候処大名方恩河宅為致出入儀無之御奉公留以後屋取江恩河為参儀茂無之段申出余之面々ニ茂問届口柄不相替申出候処偽を搆候儀茂可有之与仲村渠井なへニ者拷問等申付候得共右申出通不相替旨達而申出右面々越度之稜無之候間御沙汰なしニ可被仰付候
C 恩河親方与力伊志嶺里之子親雲上調書
赤平村嫡子当歳四十七 伊志嶺里之子親雲上
右者恩河親方与力ニ而上国之時大和ニ而恩河よ里座喜味親方讒害一件為存知積且恩河御奉公留以後ニ茂彼宅為参由子細為有之積与牢込を以問届候処去巳年恩河御訴訟御使者之時与力勤ニ而上国為仕事候得共座喜味親方一件為承儀者無之且恩河御奉公留被仰付候段承一同上国等為仕事ニ而一度者見廻ニ参成行相尋候処猥ニ借銭ケ間敷有之由ニ而御奉公留被仰付段為承由申出候付大和ニ而座喜味親方讒害一件能存居且恩河御奉公留以後恩河宅立寄候儀いつれ子細可有之実成申出候様堅問詰終ニ拷問を以も致穿鑿候得共右申出通不相替旨達而申出是又越度之稜無之候間御沙汰なしニ可被仰付候
以上
咸豊十年〈庚申〉五月
D 小禄親方・恩河親方・牧志親雲上調書
小禄親方恩河親方牧志親雲上糺方之儀定法不拘風聞たりといへとも手掛り可相成儀共者屹与相糺候様被仰渡致穿鑿候次第左之通
一御国許よ里蒸気船御誂之儀御注文被仰付候ハヽ可相調段兼而小禄恩河牧志三人よ里進ミ上置候積与人別問届牧志申出候者蒸気船御誂之儀去々年七月御在番所よ里摂政三司官恩河牧志御用有之折節牧志者熱病相煩居候付摂政三司官恩河御参上被成候処御奉行并市来正右衛門殿御出張蒸気船御誂一件被仰渡左候而右御用者摂政三司官玉川王子恩河牧志七人ニ而取扱事広不相成様可取計旨御達有之候処小禄存寄を以右人数迄ニ而御請申上諸官落着不致儀茂候ハヽ不都合可相成可成程諸官江茂御達相成候様自然諸官江召広候儀不罷成候ハヽ異国係之按司親方并十五人迄者承候方ニ不取計候而不叶儀与御相談相成先以牧志よ里正右衛門殿内談させ都合次第書面を以御相談被申上筋ニ而書面等取仕立牧志よ里正右衛門殿内談いたし候得共落着無之ニ付御取止相成候処其後豊見城王子伊是名親方松堂親方川平親方冝野湾親方豊城(ママ)親雲上崎濱親雲上嵩原親雲上者右御用取扱被仰付度御国元江伺之考其内豊城崎濱嵩原江者御奉行迄御聞届右御用取扱させ余之面々者伺済之上何分被仰付候段承冨里親雲上者御取次一件ニ付御座よ里取扱被仰付候去卯年玉川王子御上国之時ニ茂蒸気船御誂被仰渡候付玉川王子ニ茂右一件取扱被仰付候段承知仕候其後正右衛門殿池城殿内江罷出摂政三司官玉川王子恩河牧志相揃蒸気船御誂之手筋等御吟味為被成由申出候付兎角右三人よ里蒸気船御誂一件兼々相進屹与御誂為相成積実成申出候様段々問詰候得共去卯年ニ茂御誂被仰渡置候を御断相成候処此節者
御意与申為被押付次第ニ而我々よ里為相進儀曽而無之旨申出恩河等ニ茂問届口柄致符合候
一恩河親方事仮三司官被仰付筈之段風聞有之恩河上国之時御内意相働置候積与恩河問届候処小禄親方宅江松堂親方自身寄合咄之時松堂よ里異国一件ニ付仮三司官相立筈之取沙汰有之候与申ニ付小禄者我等不行足事共有之候所よ里世上件之取沙汰茂可有之好キ次第与被申猶又仮三司官者恩河与取沙汰有之由松堂申ニ付左様之儀ニ而者有之間敷与致返答尤右次第者正右衛門殿口よ里為出由候得共直ニ者不承由松堂咄為承段申出小禄問届候得者自宅江恩河等寄合之時仮三司官一件咄為承覚無之恩河松堂仮三司官被仰付筈之風聞有之候段者真栄里親雲上よ里為承由申出牧志ニ者兼而正右衛門殿よ里為承儀茂可有之哉是又問届候得共右之咄為承儀無之旨申出且右一件恩河本宗之従嫡子豊平里之子親雲上問届候処親方仮三司官被仰付筈之段者恩河肝煎人佐久本筑登之親雲上咄承弥其通ニ而候ハヽ自身等ニ者与力相勤申筈与為心得居段申出佐久本問届候得者仮三司官之咄者右豊平よ里承此段者西原間切平良村境内居住嫡子神谷筑登之親雲上証拠之段申出神谷ニ茂問届佐久本申出通無相違与申出風聞之口先穿鑿難成兎角恩河よ里内意相働右之風聞有之積与段々問詰候得共右様之儀曽而無之旨申出候
一恩河事上国之砌山田壮右衛門殿聞役新納太郎左衛門殿江座喜味親方讒し置候上者座喜味親方を誹り落書仕置候茂恩河等所為ニ而可有之与問届候得共右様之儀曽而無之旨申出何之証拠茂無之上落書之儀落書人落書共ニ不捕出候ハヽ不取揚律法之段者恩河ニ茂能存知之事ニ而屹与穿鑿茂難成事御座候
一
太守様御逝去之段御到来之後座喜味之党ひじを張候而者不相済旨御仮屋よ里被仰渡候儀小禄恩河牧志よ里貫き候而右通被仰渡積与右三人問届候処蒸気船御買入御取返し為被仰付日ニ而茂為有之哉摂政三司官浦添親雲上豊城(ママ)親雲上嵩原親雲上恩河牧志等御用ニ付参上之砌
太守様逝去ニ付座喜味之余党勢を附候而者不相済候間無左様可取計旨被仰渡里主所江被帰事書為致覚之段申出候付前廉右者共よ里仮屋江致何角置候所よ里右通被仰渡積与段々問詰候得共左様之儀毛頭無之段申出候
一牧志親雲上よ里逗留仏人江御座御案内なしニ自物を以進物品相重ミ差進置候儀ニ付御吟味央(なかば)異国方よ里右通進物品重遣令都合候儀好キ取計与被思召候処却而刑罰ニ当候由不成合段御沙汰有之兎角牧志よ里段々相働右通御沙汰有之積与牧志問届候処去巳三月比仏人よ里鉄砲壱丁代銭三千貫文位之等(ママ)被相与右之返物那覇詰役々よ里者千貫文程之品相賦表御方江御問合相成候処弐百貫文程之品々ニ被相減余り少ク向羽難成多葉粉三斤煙草入一組真岡布一反自物を以相重候筋其時御鎖之側兼城親雲上江相談之上罷下其時之那覇詰小禄親方奥平親雲上江茂申談仏人江差進左候而表御方并御仮屋方江之御届者表御方よ里之御賦付通那覇詰役々よ里申上置候処奥平兼城江代合罷登右次第為相咄由ニ而表御方よ里那覇詰役々江形行御尋相成兼城ニ者不存之段為申上由ニ而其時之日帳主取阿波根親雲上喜舎場親雲上よ里書面差出候様被申付不及是非書面差出右次第存外之儀ニ而恩河逢取致談合不事立様取計度存彼宅参候処屋取江差越居候段承直ニ屋取江差越右之形行申聞小禄兼城致相談呉候様頼入同伴ニ而那覇江罷下右両人逢取先以牧志よ里差出置候書面者取返兼城首里江罷登御断ケ申上候筋ニ致吟味兼城よ里御断ケ被申上候得共不相済尤仮屋江相洩候儀者最初之御届書御取替相成候付夫よ里為相洩哉宮平親方園田仁右衛門殿宿江参居候時仁右衛門殿申候者牧志よ里仏人江進物一件之儀小禄ニ者三司官名代兼城ニ茂鎖之側右両人差図之上品重置候付而者牧志ニ者不足無之且仮屋江之届者小禄兼城那覇詰ニ付而者両人当前与申ニ付牧志事右進物重又者御当蔵倒り候一件ニ付相当之御咎目有之筈之段為相咄由候処其後諏訪数馬殿よ里與那原親方喜舎場御用ニ付致参上候処牧志仏人江進物品重遣令都合置候儀者好キ取計与被思召候処却而刑罰ニ当候由何様之吟味ニ而候哉与御尋有之最初吟味者為有之事候得共央よ里不及咎目筋片付置候段御返答申上候処牧志罪科召行筋ニ而候ハヽ
太守様御伺ニ不相成候而不叶候間御相談之上何分ニ茂取計候様摂政三司官江可相達旨被仰下候付御沙汰なし為被仰付段申出恩河ニ茂問届候得者那覇江罷下小禄兼城為致相談形行牧志申出通不相替段申出候得共兼而恩河牧志よ里何角申込置候所よ里仮屋よ里右通沙汰為有之積与堅問詰候得共右様之儀一切無之旨両人共達而申出候
一御新政之内委祥恩河為致承知与相見得候付成行恩河問届候処右書付者正右衛門殿よ里兼城親雲上牧志自身三人江渡方相成候処右之内委祥与申者異国一件致固滞候而者不相済時勢之弁別能々不入念候而不叶趣磯御茶屋江御呼之砌
御意被成下候付是を委祥恩河承知与書記置候半右通書付者為被相渡事候得共御新政之事々委細致承知居候儀ニ而者無之旨申出候
附本文御新政之書付見届候得者恩河申出通時勢之弁別一件一点ニ委祥与相見得候
一去々年二月之比豊見城王子宅江正右衛門殿牧志恩河等相揃座之一方江寄合筆紙墨抔取寄其時宮仕茂牧志よ里相勤何歟密談之躰為相見得段風聞有之牧志問届候処去々年二月比正右衛門殿豊見城王子宅江罷出豊見城王子平良按司兼城親雲上恩河自身相揃酒肴等出相咄豊見城王子正右衛門殿者和哥を読恩河自身者詩作抔いたし尤正右衛門殿よろひ仕立持下居候処人江着シ候而見得不申由ニ而持登平良按司こまた髭茂立不申能可移与平良按司江着させいつれ茂江見せ是者合戦之時着用ニ而者無之諏訪ひたゝり与申官服晒布ニしふ形付置何歟急事之時者袖をしふり戦候抔与咄共為有之段牧志申出恩河ニ者遅参ニ而右よろひ致着候儀者見得不申格護之央(なかば)見候処皮ニ而作置たる覚之段申出候付右揃之儀何歟子細可有之実成申出候様堅問詰候得共牧志ニ者那覇詰之時正右衛門殿依沙汰ニ一同罷登右人数寄合詩哥等ニ而相咄為申迄ニ而外ニ子細無之段申出恩河ニ茂問届口柄不相替申出候
附本文揃之時火とり湯抔次候茂牧志相勤密談之躰勝連按司宅二階ニ而奥平親方見得為申由候処奥平致口合候得者座之一方ニ寄合筆紙墨抔出候形者見得為申事候得共牧志よ里致宮仕候儀者見得不申段申出候
一恩河親方役儀御免之後玉川御殿江一門御揃之筈候処是者御取止相成玉川王子安村親方與世山親方小禄親方四人玉川御殿別荘江為相揃段風聞有之小禄問届候処恩河役儀御免之後奉公人召列末吉よ里安謝多和田馬場之様致歩行候処玉川王子安村與世山御同伴先達而別荘江御出合被召呼候付差寄相咄追々椰子御取寄いつれ茂相給王子よ里恩河成行御尋ニ付人を騙借銭抔仕置候段者御返答為申上覚有之候得共焼酎給過右外子細有之御咄為仕儀抑覚ひ不申段申出候
附去年四月御用談ニ付仲里按司宅江糺明奉行を始主取役人共揃之時與世山咄之趣者先日安村一同致歩行候約束ニ而候処玉川王子茂御一同御歩行之御咄為有之由ニ而追而玉川王子安村并王子奉公人山城里之子親雲上等御召列與世山宅江御立寄御同伴ニ而玉川御殿多和田之別荘江参り居候処其辺よ里小禄被罷通候付被召呼椰子等出御咄之折玉川王子よ里恩河一件小禄江御尋被成ふうさあ等被成かてらに度々被申候付終ニ小禄よ里追々私茂倒り可申其時者みうんぢゆも抔与申焼酎給過不覚之躰為相見得由尤夜入安村與世山ニ者先達而為罷帰段與世山咄有之本文御揃与申風聞者都合不致候
一去々年十五人之内退役させ候様御仮屋よ里御沙汰有之候儀小禄牧志よ里何角仕置候積与小禄問届候処去々年三月比ニ而茂為有之哉正右衛門殿よ里極御内用申談度候間彼宿江罷出候様手紙到来参候処
太守様御意与申座喜味組合者共早々退役させ候様被仰聞候付只今退役させ候而者一世奉公留之形ち追々
上様御婚礼且十二月ニ茂御位頂戴可致右両度之内ニ者順々退役可罷成候間其通取計呉候様頼入且座喜味組合者与申者何かし/\ニ而候哉与相尋候処與那原親方摩文仁親方喜舎場親方阿波根親方浦添親雲上与申ニ付與那原御用致取扱候を見候得者組合者与者不相見得余之面々ニ茂自身目前ニ而者左様之躰見及無之段申候得共合点不仕十五人之名前書付其次ニ與那原摩文仁茂相立喜舎場阿波根浦添三人之名前ニ是々与申星を廻し候付罷登其段者大里王子池城親方譜久山親方江茂申上候段申出候付兎角小禄等よ里前廉右五人致何角置候積与堅問詰侯得共右様之仕形曽而無之旨申出候
附
一牧志よ里喜舎場阿波根者致掃除見せ可申与鳥小堀村嫡子神谷里之子親雲上承神谷よ里奥平親方江相咄右次第奥平よ里喜舎場江為相咄由ニ而牧志問届候処十五人之内退役させ候様正右衛門殿よ里小禄江御達有之喜舎場浦添阿波根名前ニ星等為廻段小禄よ里為承事候得共喜舎場阿波根致掃除見せ可申与神谷江申聞たる儀曽而無之至極存外之儀与申出候付奥平相尋候処神谷よ里右之咄承喜舎場江為相咄儀無之候を喜舎場ニ者右通被申候哉喜舎場江申聞事候ハヽ阿波根ニ者別而同郷之同志ニ而弥相咄可申之処阿波根江可相咄儀茂無之喜舎場対面いたし候而茂不相替段申出神谷ニ茂可問届与御用差遣候処中症相煩言語不通躰之由ニ而差扣居候処追而為相果段承外ニ手懸り無之候
一小禄等よ里御仮屋方江義党賊党之分有之候段為申上由ニ而小禄問届候得共右様之儀御仮屋方江為申上儀一切無之旨申出候
一荷蘭船致来着候ハヽ
国王様御対顔之願申立候儀茂可有之兼而吟味を以可申上旨御仮屋方よ里被仰渡候儀牧志等よ里色々貫き居候積与牧志問届候処去々年三四月比御仮屋方よ里追々荷蘭船来着可有之於江戸表茂最早御目見等被仰付置事候得者
国王様御対顔之願申出候儀茂可有之差当致吟味候而者事煩敷相成候間前廉吟味仕置候様御仮屋方よ里御座并牧志江御沙汰之趣有之摂政三司官十五人其外諸官江茂吟味之趣者御対顔願申出候ハヽ国法之筋を以茂難相断御当病形ニ而者異国人共御快気之間可相待又者後月参り拝可申抔与申立候儀茂難計候付先以断之趣意者亜米利幹人入 城以来驚怖被致御気損ニ而御対面難成訳を以御断被仰達候方書面取仕立乍残念右之外断之趣意難相立段御断ケを以及
言上左候而小禄親方右書付持下御奉行并諏訪数馬殿島津帯刀殿御相談被成候処御気損与申者於大和ニ者気違者之事琉球者大和之御幕下此段者西洋諸国江茂存知之事ニ而気違者江政事を授候筋ニ而者
太守様御面目茂不相立依躰ニ者御改革茂被仰付
国王様御迷惑可被及御改革与者御相続替之事健成国王臣下として右式御気損之訳を以御断被仰入候而者不本意候間御当病之形を以被仰入候方可宜段有之候付御当病之形ニ而者段々可差障訳被申上候得共御落着無之屹与吟味いたし候様致承知重而諸官江茂及吟味候得共右之外訳筋難考付御気損与書置候場者時々御病気与言葉を替し最初之書面ニ提札を以重而及御相談候筋相片付置候中御仮屋方よ里御用ニ付右書面小禄持下其時御座立ニ付差出候処御落着無之岩下清蔵殿よ里右書付立消ニ而暑邪之形ニ相直し被相渡候付重而御相談不罷成其通御請申上去々夏伊江王子摩文仁親方於御国元被御働候筋相成候処同七月蒸気船御誂一件御達相成右御用者最初摂政三司官玉川王子恩河牧志等江隠密被仰渡置候処
太守様御逝去之左右御到来之後御相続替之企為有之段風聞有之御対面一件ニ付右通御仮屋方よ里威(おどし)有之引次蒸気船一件隠密被仰渡候付このひづけよ里御相続替之邪説為相時行(はやり)積此段者去々年十一月比浦添親雲上よ里崎濱親雲上江咄為有之段茂崎濱よ里為承段申出候
一正右衛門殿書状之内摂政一件之形行牧志ニ者存知茂可有之哉与問届候処去々年八九月比正右衛門殿咄之趣者総理官布政官漸々与者現勤之方
太守様思召之段御到来候得共当時異国一件事多現勤難成豊見城按司者総理官相応可致与被見受候代合為致候方ニ御座江茂申上都合次第可取計旨有之候付何楚之訳合茂無之直ニ代合為致候方ニ者不罷成本部按司何歟御使者勤ニ而上国等之節何分取計可宜哉与致返答此段者御座江茂申上且琉球者摂政心添与申役目者不相立候哉与尋有之右之役目不相立心添与申者何之事候哉与尋候処於御国元ニ者何歟御用多相成候砌御家老衆之内御城代之下ニ心添与申助役被召立致補益候豊見城按司者右心添抔被相勤相応之人柄与被見受居候段咄承此段者豊見城王子江茂為申上由申出候付兎角牧志等よ里致何角置積与問詰候処豊見城王子ニ者八田喜左衛門殿よ里和哥被致稽古御人躰之次第喜左衛門殿よ里為承由ニ而正右衛門殿ニ者下涯よ里時々王子譽上為申事ニ而正右衛門殿ニ者王子江心を寄居為申筈候得共為致何角儀は毛頭無之段達而申出候
一小禄親方一件或方よ里大和江讒状為差遣由玉川王子江小禄よ里御咄為申上由ニ而小禄問届候処與儀よ里承候三司官内意一件者逢讒たる筈与御咄為仕事候得共或方よ里逢讒候与為申上儀毛頭無之旨申出候
右条々風聞又者聞取之事々別冊小禄恩河牧志糺明之砌一同相糺責扱等を以致穿鑿候得共ケ条之通申出手懸り可相成証拠無之儘差通候様可被仰付候
以上
咸豊十年〈庚申〉五月
E 名嘉地里之子親雲上・桃原里之子調書〔小禄親方関係〕
下儀保村嫡子当歳三十五 名嘉地里之子親雲上
上儀保村八男当歳二十六 桃原里之子
右者小禄親方御役御断以後一門使ニ小禄宅参居候砌仮与力潮平筑登之親雲上与力玉那覇筑登之親雲上与力足佐久川筑登之親雲上三人居合例外進物出為申段自分噺いたし候を為致側聞由ニ而召寄問届両人申披候者去年四月七八日比ニ而茂為有之哉小禄親方宅江仮屋方為致出入風聞有之表御方よ里一門江御取締被仰渡候付締向申達候為一門衆使ニ両人小禄宅江罷出親雲上等相逢度案内させ与力詰座江扣居候砌潮平玉那覇佐久川三人居合折節書物読候声相聞へ候付当時柄左様之儀茂相慎させ候様申達且潮平よ里名嘉地江向ひくひなの事存外之次第壱ツ者不審之儀有之例外ニ進物差出置候与申ニ付左様ニ而候哉与申候折宇江城親雲上よ里三番座江可参旨有之早速立寄宇江城相逢一門衆使之趣意申達猶又与力詰座江帰り一礼ニ而立出道すから名嘉地よ里桃原江かわつたもの為承与相噺為罷帰由申出候付去年九月摩文仁親方宅ニ而摩文仁并平等方役人よ里桃原尋之砌者右之咄側聞為致形ニ申出翌十月名嘉地大和よ里帰帆之日通堂ニ而平等方役人よ里相尋候節茂同断側聞いたしたる段申出両人口柄致符合居候処何様之儀ニ而御糺明之上者潮平よ里名嘉地江向右之咄為仕形ニ晴目筋相替り候哉与相尋候処以前者側聞之形ニ申出候処得与相考候得者潮平右之申分名嘉地江向ひ為申段者無相違ニ付前文晴目筋間違相成候段者去年十一月十三四日比名嘉地摩文仁親方宅江参為申上段申出候
F 小禄親方仮与力潮平筑登之親雲上等調書
小禄親方仮与力汀志良次村嫡子当歳三十三
潮平筑登之親雲上
同人与力同村嫡子当歳三十七
玉那覇筑登之親雲上
同人与力足同村嫡子当歳三十七
佐久川筑登之親雲上
右面々牢込を以人別問届潮平申披候者去年四月七八日比ニ而茂為有之哉自身等小禄方与力詰座江罷在候砌前条名嘉地里之子親雲上桃原里之子両人一門衆使之由ニ而罷出親雲上等相逢度案内させ其砌供之者書物を読候付名嘉地よ里当時柄書之声相響キ候而者相応不仕留置候方可然与相談有之尤之儀ニ而早速玉那覇よ里差留追而名嘉地桃原ニ者於三番座宇江城親雲上逢取為罷帰由且去年三月廿七日朝汀志良次村嫡子桑江里之子親雲上自家江参檀那者三司官内意為被致段大和よ里申来昨日摂政三司官御揃ニ而候処檀那者出勤不被致事ニ被係此儀隠密取計候様ニ与之段茂申来由候間早々小禄江罷出御隠居之方取計候様承り自身ニ者其前日迄忌引入ニ而小禄方出勤不致存外至極実事ニ候哉何方よ里為承哉与相尋候処牧志よ里為承段有之驚入其日隔日ニ付先以相役玉那覇召寄御出勤之様子承度桑江ニ茂申達追而玉那覇呼来候付今日檀那御出勤為被成哉与相尋候処玉那覇ニ者進物方詰所小禄別荘江直ニ罷出御出勤之様子不相分段申ニ付桑江よ里為承形行荒増申聞早々殿内江参御出勤之様子何分申遣候様申達玉那覇桑江罷帰追而御出勤不被成段玉那覇よ里知達有之自身茂出勤いたし檀那逢上三司官御内意為被成段大和よ里申来候由実ニ其通候哉与尋上候処何かしよ里為承哉与被申候付桑江よ里承桑江ニ者牧志よ里為承段茂申上候処三司官内意為致儀曽而無之牧志事昨晩者此方江参候様申達置候処桑江江参候而此方江者為不立寄哉与致承知嫡子小禄里之子親雲上江茂桑江咄之趣申聞置候処追々濱比嘉親方牧志親雲上被参且池城親方茂御出檀那御逢御帰り被成候付子細承度晩方裏御座江参り追々次男小禄里之子親雲上玉那覇筑登之親雲上茂参り御座奉行衆御出之形行尋上候処実ニ為致内意哉之御尋池城殿内ニ者大和よ里之御問合茂御持参右御問合ニ者進物取添為致内意筋相見得尤内意之中使者牧志為相勤段池城殿内よ里承り候得共右様之儀曽而無之進物差遣置候ハヽいつれ其方等ニ茂存ニ而可有之牧志相糺候得者おのつから可相分段致承知左候而一同焼酎給致帰家翌廿八日出勤其夜者殿内江寝泊翌廿九日未明濱比嘉親方浦添親雲上御出檀那御逢御帰り追而檀那よ里御役御断被仰付候間早々隠居願之書付相認差出候様被申付致下書檀那調部ニ入清書させ則日差出申候且四月四五日比ニ而茂為有之哉桑江自身宅江罷出檀那者隠居迄ニ而無之後以御責扱を茂被仰付御吟味之由且此間岩下新之丞殿牧志宅江罷出檀那惜ミ咄為有之由牧志よ里承候此涯牧志ニ付而進物差遣新之丞殿江致内意御責扱不及様ニ与之取計者相成間敷哉座喜味殿内御隠居之時茂御内意等為被成由牧志ニ茂桑江よ里談合いたし候ハヽ請合可申こおり方江格護之品無之候ハヽ内原江者手嶋布抔可有之懐中ニ而成共可致持参旨相談有之こおり方ニ者格護之品無之内原江茂手嶋布抔者在合申間敷其上檀那ニ者座喜味殿内与者相替諸官御吟味之上及
言上御役御断被仰付置候付而者今更仮屋方江内意等申込候而者不相済致露顕候ハヽ自身桑江牧志ニ茂可及大事候間取止候方可宜旨申入候付桑江ニ茂尤之儀与申互ニ内談迄之事候間致他言間敷与口詰ニ而罷帰且同月七八日比ニ而茂為有之哉石原十郎兵衛殿坂元権之丞殿両人使与申十郎兵衛殿用頼與座筑登之小禄こおり方江参り庫理役人宮平里之子親雲上相逢檀那一件承来候様ニ与之使候間小禄里之子親雲上許田里主親雲上之間相逢度申ニ付両人共不快之形ニ而相断候処十郎兵衛殿権之丞殿末吉辺江被参候ハヽ檀那面会可相叶哉与申ニ付右様之儀曽而不相成段致返答為差帰由宮平よ里承居候処同十日比南風之御殿江一門并与力御用有之桃原里之子自身致登 城候処殿内江仮屋方為致出入風聞有之由ニ而奉行衆よ里御尋有之仮屋方為致出入儀無之前文與座筑登之参為申次第申上候処取締向入念夜詰之儀茂自身等相勤候様被仰渡候付右通御用為有之段檀那江首尾申上候処用頼為参居段者早速御首尾相成宜敷為有之与被仰聞尤節句等ニ付仮屋方よ里名札品物等到来之節々者則々表御方江首尾申上且牧志御用係相成候後桑江自身宅江参新之丞殿よ里檀那一件牧志江惜ミ噺為有之段且進物差遣致内意事能隠居之方取計候而者何様可有之哉与為申勧事候得共為相断段檀那江相咄候処牧志ニ茂談合之上与桑江為申哉与御尋有之此儀者不承桑江よ里牧志致相談候ハヽ請合候賦り与為申段申上候処桑江相談通進物差遣致内意候ハヽ実ニ為致内意形ニ相成候処断置候儀相応之取計与被申候付右之次第者公所江可申出哉与尋上候処是者考次第御尋之節申上候而茂可相済哉与返答承尤大和よ里者進物抔取添三司官御内意為被成由ニ而至極存外之次第こおり方よ里者進物品為出儀無之進物方よ里者如何可有之哉与玉那覇両人致穿鑿候得共双方よ里例外進物為出儀無之候処去年九月廿日比ニ者佐久川筑登之親雲上與那原殿内本門前之道六男桃原里之子親雲上行逢互ニ挨拶いたし行過候処被呼帰摩文仁親方よ里何歟御尋者無之候哉与申ニ付其儀無之何迚右通申候哉与相尋候得者名嘉地里之子親雲上弟桃原里之子両人一門衆使小禄親方宅江参居候折玉那覇佐久川自身三人居合自身よ里例外進物為出咄仕候を名嘉地等為聞付由平等方江茂御聞通相成此間弟桃原摩文仁親方宅江被召寄親方并役人居合御尋有之実成為申上由申ニ付右様之咄一切無之段為致返答由佐久川自身宅江参咄有之抑存外之申分名嘉地桃原両人小禄江参居候砌者供之者書を読候を名嘉地依相談留為申外何之咄茂不致候を右次第屹与差分不致者不叶玉那覇を茂呼寄右之趣申聞如何様佐久川間違ニ而可有之今一往桃原致口合候方ニ申談重而佐久川差遣桃原相尋させ不相替由候付弟桃原逢取屹与可致相談与自身佐久川度々参候得共留主之由ニ而逢取不申此上者御一門衆江披露申上候共何分取計可致与相考居候内御用係為相成由申出候付名嘉地桃原事其方等よ里例外進物為出段不相咄候を作立候筋無之屹与実成申出候様段々問詰候得共右申出通不相替進物一件似合之咄迚茂無之旨達而申出玉那覇佐久川ニ茂問届口柄不相替名嘉地桃原対決為致候得共互ニ張合を以申出候
附本文潮平玉那覇佐久川ニ者一門使名嘉地桃原参合之時例外進物為出咄曽而不仕似合之咄迚茂無之旨達而申出名嘉地桃原よ里者潮平よ里名嘉地江向例外進物為出咄為有之段申出張合相成小禄庫理方取払帳進物帳を茂取寄見届候得共疑敷払出無之其上名嘉地桃原晴目筋最初者潮平玉那覇等たんかあ咄側聞為致形申出後ニ者潮平よ里名嘉地江向ひ為申与反復ニ而申出旁以潮平玉那覇可問詰手懸無之儘差通置申候
G 桑江里之子親雲上調書 〔小禄親方関係〕
汀志良次村嫡子当歳五十一 桑江里之子親雲上
右者小禄親方御役御断之後仮与力潮平筑登之親雲上宅江参内意申勧置候次第為有之段潮平よ里為承由小禄申出候付召寄牢込を以問居申披候者去年三月廿六日之晩牧志親雲上自家江参噺之趣者小禄事三司官内意為被致段大和よ里申来今日摂政三司官御揃ニ而候処小禄者御出勤不被致事ニ被係此儀隠密ニ取計候様ニ与之段茂申来候由承翌廿七日朝右潮平宅江参り牧志咄之趣潮平江相達早々小禄江参り御隠居之方取計候様申達候処潮平ニ者其前日迄忌引入ニ而小禄方出勤茂不致抑存外此儀実事ニ候哉今日者隔日ニ而候間先以相役玉那覇召寄御出勤之様子承度由ニ而追而玉那覇呼来御出勤之様子相尋候得者玉那覇ニ者進物方詰所小禄別荘江罷出御出勤之様子不相分候付自身為申聞成行潮平よ里玉那覇江荒々相達早々小禄江参御出勤之様子何分申遣候様相達両人共潮平宅立出玉那覇者小禄之様参自身者致帰宅候然処廿八日諸官御吟味之上廿九日ニ者小禄御役御断被仰付御吟味之趣牧志江相尋候得者御役御免迄ニ而無之御断御願済之上者平等方江御引渡御責扱等を以御糺ニ茂可相及之由且小禄御役御断二三日後異国方岩下進(ママ)之丞殿牧志宅江参小禄者御役場よ里之御懸合ニ而候ハヽ不及是非事候得共脇方内状を以今成御役御断等被仰付不便之至与惜ミ噺為有之次第承自身よ里茂小禄者檀那分ニ而難黙止四月四五日比ニ而茂為有之哉潮平宅江参小禄者隠居迄ニ而無之後以御責扱を茂被仰付御吟味之由此間岩下進(ママ)之丞殿牧志宅江罷出小禄惜ミ噺為有之由此涯牧志ニ付而進物差遣進(ママ)之丞殿江致内意御責扱ニ不及様に与之取計者相成間敷哉座喜味殿内御隠居之時茂御内意等為被成由牧志ニ茂自身よ里致談合候ハヽ請合可申庫理方江格護之品無之候ハヽ内原江茂手嶋布抔可有之懐中ニ而成共可致持参旨申達候処庫理方ニ者格護之品無之内原江茂手嶋布抔者有合申間敷其上檀那ニ者座喜味殿内与者相替諸官御吟味之上及
言上御役御断被仰付置候付而者今更仮屋方江内意等申込候而者不相済致露顕候ハヽ自身潮平牧志ニ茂及大事候間取止候方可宜与申ニ付自身ニ茂尤ニ存互ニ内談迄之事候間致他言間敷与口詰ニ而罷帰候尤牧志事最初小禄事係被致候段承候日ニ茂其方者係合無之候哉与相尋候得者不相拘段返答為有之事候得共世評悪敷有之候付念遣ニ存其後ニ茂弥不相拘候哉与相尋侯処不相拘所よ里出勤茂被仰付候間致世話間敷旨承居候処存外四月十一日御役御断被仰付自身等江取締向等被仰渡候付牧志相逢候得者中使為相勤段者太郎左衛門殿問合ニ茂不相見得冝野湾親方口柄迄ニ而不相拘筈与存居候を右次第存外之由承居候処翌十二日御用係相成自身等ニ茂込入居為申段申出候付潮平江内意為申勧儀牧志相談之上ニ而為有之哉与相尋候得者右一件牧志江為致相談筋ニ而者無之自分存寄迄を以為申勧段申出候付右式進物等差遣内意申勧置候上者牧志江茂相談之上ニ而可有之且牧志よ里外ニ承居候事茂有之積与段々問詰終ニ拷問を以茂致穿鑿候得共牧志相談之上潮平江内意為申勧儀ニ而者無之外ニ牧志よ里承居候事茂無之旨達而申出候然者小禄者諸官御吟味之上及
言上御役御断被仰付置候を其弁無之小禄之為大和人衆相懸致内意候様潮平申進甚不届之旨叱付候処件之次第無調法之至恐入候段申出候
附去年三月廿六日之晩牧志桑江宅江罷出小禄事係一件申聞候節小禄江茂実成可告知哉与申談候処弥告知可宜与返答為有之由且小禄御役御免之後四月七八日比ニ而茂為有之哉桑江牧志宅江参り小禄よ里彼故を以野村牧志迄令迷惑残念之儀与潮平江咄為有之次第潮平相噺候を承り候与桑江為相咄段牧志申出候付桑江問届候処去年三月廿六日之晩牧志私宅江罷出小禄事係被致候次第相咄候時牧志よ里実成小禄江茂可告知哉之相談者曽而承不申且小禄よ里私故を以野村牧志迄令迷惑残念之儀与為申段潮平咄承り牧志江為相咄儀茂無之旨達而申出潮平ニ茂問届左様之咄小禄よ里承桑江江為相咄儀無之段申出候
以上
咸豊十年〈庚申〉五月
H 牧志親雲上調書
三司官故座喜味親方跡御役之儀御国法通人柄入札之処小禄親方よ里園田仁右衛門殿江上国之上者高札者被差置是非共野村親方江被仰付候様被相働度極内意申込置候趣市来正右衛門殿よ里聞役新納太郎左衛門殿江内状有之右内意之中使者牧志親雲上為相勤由冝野湾親方江伝言取添太郎左衛門殿よ里問合有之且右一件嘉味田親方よ里之問合ニ者進物等為差遣段茂相見得諸官御吟味之上及
言上糺方被仰付牧志小禄此程致穿鑿候得共左之通張合を以申出候付吟味之趣申上候
牧志親雲上
右問届候処申披候者去ル巳年十一月三司官故座喜味親方跡御役入札後御用案内ニ小禄親方宅参り候時小禄より野村者人柄ニて候得共度々人ニ被越不便ニ存候数馬殿仁右衛門殿ニ者野村被伺筈正右衛門殿ニ者下涯何分様子不相分候間折見合野村人躰之次第相咄江夏十郎殿江通し上させ候様且仁右衛門殿江茂折次第致沙汰山田壮右衛門殿江通し上させ候様被申付其後正右衛門殿宿夜咄参居候折正右衛門殿よ里今度之三司官者誰々致評判候哉三司官方茂被致入札候哉且三司官方者誰を被見付候哉与尋ニ付多分野村之方致評判候三司官者入札不致小禄抔者野村人柄与被見付候江夏殿江通し上野村被伺度申達候処正右衛門殿ニ者翁長親方人柄与見付居候其訳者翁長在番勤之時御訴訟事等之節物籠抔ニ而奉公肝厚且両先嶋之俗式毒蛇を殺候者者同船相嫌多年滞在之者罷在候処是又一同故郷させ候段
太守様被 聞召上旁被遊
御感心小禄親方三司官伺之時茂翁長与御沙汰為被為在御事候得共御家老衆よ里段々被申上伺通相済此後三司官明合之節者翁長江被仰付候筋御内定被為在候付正右衛門殿ニ者翁長与見付候由承且仁右衛門殿相逢噺之折今度之三司官者何某等致評判候哉与申候付小禄ニ者野村可宜与被存居候右之趣山田壮右衛門殿江被通上度申達候処野村人柄之次第者兼而聞合之上方々よ里茂承候付弥其心得之段申候処右方々与申名前者不承尤右両人返答之趣者小禄於別荘申聞候処正右衛門殿申分不落着之躰相見得兎角仁右衛門殿等江者前以小禄よ里茂為通置半与察入候且三司官伺之飛舟帰帆不致内寄船下着正右衛門殿申候者三司官伺之儀仁右衛門上国之上野村江被仰付度御内意相働暫御猶予之躰相見得為申由候処最早相片付居候段江夏殿よ里申来候由承此段茂小禄江為申聞由且去年三月冝野湾親方帰帆同月廿六日御用案内ニ小禄江参夫よ里大里御殿譜久山殿内致参上候処池城殿内江御揃之段承り池城殿内江参上之途中大里王子譜久山親方拝候而御用之荒増申上池城殿内参上御用御案内仕右御用委細申上候為直ニ譜久山殿内大里御殿致参上候処御書院江御参上之段承猶又別御用案内ニ小禄江参り大里王子譜久山親方者池城殿内江御揃夫よ里御書院御参上ニ而候処小禄ニ者御様子無之候哉与相尋候処小禄被申候者私者月番ニ而何之御用茂先可承之処右御揃之次第何分様子無之上者自身一件抔ニ而者有之間敷哉太郎左衛門殿江自身よ里書状差遣三司官為致内意段摩文仁親方よ里飛脚使與儀筑登之親雲上江咄之趣與儀帰帆之上兼城親雲上ニ付而知達為有之一件為致到来哉与驚躰ニ而被申候付此間正右衛門殿仁右衛門殿江自身被差遣咄形之一件ニ而者有之間敷哉与申候処夫ニ而茂可有之哉形行承合申聞呉候様頼有之御用御案内がてらに譜久山殿内参上先刻御揃之次第尋上候処小禄よ里正右衛門殿江三司官為致内意段聞役よ里問合申来候由致承知晩方桑江里之子親雲上宅江参り桑江相逢右次第相咄小禄江実成告知可申哉与相尋候処知し候方可宜与申ニ付翌日登
城国学所月之調部ニ参り帰すら小禄立寄昨日之御揃者御方よ里正右衛門殿江三司官内意為被致段問合申来候次第為承段申聞直登
城則日右一件尋之為濱比嘉親方自身両人御使ニ参り御方よ里正右衛門殿江三司官内意為致段聞役よ里問合有之候其通ニ而候哉与小禄相尋候処右様之儀無之旨返答有之猶又聞役よ里之問合等池城親方御持参御尋被成候得共同篇之御返答為有之由尤桑江江右内意之次第相咄候時并其後ニ茂世評悪敷有之候処自身等者不相拘候哉与度々尋ニ逢何茂懸合無之所よ里出勤茂被仰付事候間致世話間敷旨申達置候処追々御用係相成病気ニ付御預ケ之時右内意之中使為相勤段桑江等江為申聞由且小禄御役御免之後四月七八日比ニ而茂為有之哉桑江自家江参小禄より与力潮平筑登之親雲上江咄之趣者私故を以野村牧志迄茂令迷惑残念之儀与為申由潮平よ里為承段咄茂為有之由申出右ニ付進物抔差遣且右内意一件兼而相談人并中使為相勤儀存知之者可罷在実儀申出候様堅問詰度々拷問拶指等を以致穿鑿候得共小禄申付茂折見合右次第通し候様ニ与之儀ニ而進物抔者持参不致右一件兼而相談人茂不承中使為相勤次第存知之者茂罷在不申旨申出候尤牧志晴目之内小禄一件相発日(「小禄一件相発日」の七字抹消さる――金城註)大里王子譜久山親方池城殿内江御揃御書院御参上之段小禄江申達候付與儀よ里兼城承候太郎左衛門殿江書状差遣為致内意与之一件到来為致哉与小禄申ニ付夫ニ而可有之哉与為申段申出居候処後以正右衛門殿仁右衛門殿江牧志差遣咄形之事ニ而者有之間敷哉与為申達由申出最初之晴目与相替且小禄よ里潮平江私故を以野村牧志迄茂令迷惑残念之儀与為申段潮平よ里桑江江咄之趣桑江よ里為承由潮平桑江ニ茂右様之咄一切無之旨両人共申出且牧志病気ニ付御預之節者厳重御取締被仰付役人筑佐事共詰居一門親類共対面差留置候処御預之時中使為相勤段桑江江為申聞与之申出彼是晴目筋不都合相見得且小禄よ里内意之中使申付置候ハヽ右一件到来之上者倶ニ致世話取計向小禄致内談之処其儀無之是等之旁を以者牧志より小禄名を仮り為致内意積与此所堅問詰拷問申付候処御晴目向多有之候上多月過行覚違等ニ而前後過不足茂可有之且内意一件到来小禄為参時迄者自身中使之段茂相知不申小禄ニ者御役御免被仰付自身者出勤茂被仰付候付而者小禄宅出入憚ニ存何之釣合茂不致次第中使為相勤段者前文通少茂不相替段達而申出候
I 小禄親方調書
小禄親方
右問届申披候者去巳年自身より聞役太郎左衛門殿江三司官内意之書状為差遣段飛脚使與儀筑登之親雲上上国之時摩文仁親方咄為有之由與儀帰帆兼城親雲上江咄之趣兼城よ里承自身ニ者右様之仕形無之候を右通咄有之候者定而逢讒候積与存此段者池城親方玉川王子抔江御咄申上自分よ里不致候ハヽ可相済与打過居候処去年三月冝野湾親方帰帆同月廿六日牧志御用案内ニ私宅江参罷帰後刻猶又御用案内ニ参申候者今日大里王子譜久山親方池城殿内江御揃夫よ里御書院御参上ニ而候処自身ニ者何分様子無之候哉与尋有之自身ニ者月番ニ而何之御用茂先キ可承之処何分様子無之自身一件ニ而者有之間敷哉右與儀為申三司官為致内意与之一件為致到来哉与申候処何分不相分段申ニ付御用之程牧志ニ而承合晩方参相知候様申達置候処為何様子茂無之家内江差遣候得者桑江江為参由ニ而罷出不申翌廿七日罷出昨日之御揃者自身一件之由候得共子細者不相分由尤此儀牧志よ里為相知シ段者致口外間敷与申罷帰致世話居候処追而濱比嘉親方牧志両人御使ニ参自身よ里正右衛門殿江三司官為致内意段聞役よ里問合有之候其通ニ而候哉与尋ニ付右様之儀無之段致返答候処重而池城親方問合等御持参形行御尋ニ付問合致拝見候処進物等為差遣段相見得右中使者牧志為相勤由冝野湾親方ニ付而伝言茂有之候段御達ニ付右様之儀毛頭無之候間御糺方之上何分被仰付度池城親方江申上置候処翌々廿九日未明濱比嘉親方浦添親雲上被罷出御役御断可申上旨
御意被成下候段承知仕早速御断之書付差出為申次第ニ而自身よ里為致内意儀曾而無之進物抔差遣置候証拠有之候ハヽ拝申度尤牧志ニ者自身宅江参候時よ里事之子細能存知之事ニ而自身よ里中使内意させ置候ハヽ共ニ致世話取計向幾重ニ茂内談可致之処右式存知之事茂取隠致迯廻候上者是以自身よ里中使不致証拠兎角牧志よ里自身名を仮致内意候付正右衛門殿よ里太郎左衛門殿江書状差遣太郎左衛門殿よ里右通問合仕置候積且与力潮平申候者御役御免之後桑江里之子親雲上潮平宅江罷出岩下新之丞殿牧志宅江参自身一件惜ミ咄為有之由進物抔差遣牧志ニ付而致内意事能隠居之方取計候而者何様可有之哉与相談為有之事候得共為相断段申ニ付牧志ニ茂釣合之上為申哉与相尋候処此段者不承由右相談通進物差遣致内意候ハヽ自身よ里実ニ為致内意筋相成候処為相断段者宜取計置候段為申聞由申出中使一件牧志対決させ候而茂張合相成候付太郎左衛門殿江書状差遺三司官内意仕置候段摩文仁咄之趣與儀よ里兼城江通達承候付而者内意之執行無之候ハヽ早速與儀よ里細密承届候上太郎左衛門殿江問合差遣摩文仁親方ニ茂帰帆之上者屹与取懸いつれ讒之疑相晴候様可致之処無其儀且内意之中使者牧志為相勤段承候上者屹与糺願を茂可申出之処彼是之取計無之実々内意為致積与段々問詰候処與儀口上承讒之疑相晴候様取計無之儀者気附不足相成候得共右一件与牧志中使を以内意為致与者事替成程書状差遣内意為致一件御礼ニ而候ハヽ此所者明間相成候得共今度之御糺者書状差遣内意為致筋ニ而者無之牧志中使を以内意為致与之御糺牧志ニ者右通共ニ世話可致場を致迯廻候上者牧志よ里私名を仮致内意候証拠且牧志中使之段承候を糺願不申出段者不足之様ニ茂相見得候得共池城親方よ里御尋之砌御糺之上何分被仰付度申上置侯付其篇ニ而可相済与心得候上
御意重奉存何分願立不申段申出拷問拶指都合十二座責扱為致候得共右申出之通不相替旨申出候
附本文小禄よ里聞役太郎左衛門江書状差遣三司官内意為致段飛脚使與儀筑登之親雲上摩文仁親方よ里承與儀よ里兼城親雲上江相咄小禄者兼城よ里為承段申出候処三司官伺急ニ不相済日込相成候儀者小禄よ里仮屋方江致内意内状差遣させ小禄相応不致段太郎左衛門殿よ里極内承此趣書役嵩原里之子親雲上與儀筑登之親雲上居合之上摩文仁よ里與儀江座切咄いたし候処小禄よ里太郎左衛門殿江書状差遣為致内意筋趣意違相成是者小禄よ里仮屋方江致内意内状差遣させたる由為申与之ひつけニ而可有之本文糺明之手懸りニ者相成不申候付與儀ニ茂問届不申儘差通置申候
右之通相糺申候処小禄ニ者牧志中使内意為致儀毛頭無之兎角牧志よ里私名前を仮内意為致儀ニ而可有之与申出牧志ニ者小禄申付ニ依り咄形ニ而為致内意儀無相違候得共進物等為相進儀者一切無之旨申出張合相成申候小禄よ里進物等遣置候跡茂可有之哉与彼進物方与力玉那覇筑登之親雲上こおり方与力潮平筑登之親雲上牢舎ニ而相糺候処例外進物等為差遣儀毛頭無之段申出帳冊又者書状手紙類を茂取揚相調部候得共何楚疑敷書留相見得不申候然者小禄よ里三司官為致内意与之次第者太郎左衛門殿よ里之問合にて候処右一件太郎左衛門殿者正右衛門殿よ里承正右衛門殿者牧志よ里承いと口者基牧志よ里相起中使一件小禄よ里申付候節茂側ニ承居候者不罷居後以右一件外之者江為相咄儀茂無之段申出専牧志一人之口柄相成尤牧志晴目ニ小禄故を以牧志野村迄茂令迷惑残念之段小禄よ里潮平承潮平よ里桑江江為相咄与之儀実事ニ而候ハヽ小禄問詰候証拠相成事候処右之咄無之段者潮平桑江問届口柄不相替牧志晴目筋不束ニ相成重而小禄致責扱候手懸何分ニ茂難考付事御座候惣而糺向之儀証拠証跡を以致取扱証拠弱疑敷者者不取揚且別事之穿鑿よ里懸出糺方之上張合相成外ニ引当可相成証拠無之決着難成もの者儘差通候律法凡人取扱さへ右通候を別而八議之人品証拠証跡迚茂無之其上実ニ為致内意段致白状候共夫丈重罪ニ者及申間敷与奉存候処去年七月以来段々糺方之上拷問拶指都合十二座ニ及居候を此上猶又責扱失命等ニ為及候而者甚仕過相成御法取扱候者共不足者勿論乍恐御不足奉掛候儀茂可致出来哉与至極胸痛仕居申候右付而者小禄片付方何様可被仰付哉此所相考申候処小禄事太郎左衛門殿江書状差遣為致内意段承逢讒候与存付候上者いつれ太郎左衛門殿江書状差遣候歟又者摩文仁親方帰帆之上者屹与成行承届夫々弁取其疑相晴候様不取計候而不叶事候処無其儀玉川王子池城親方抔江御咄申上自分よ里不致候ハヽ可相済与儘打過たる由此儀気附不足与申出居候処明間相成張合なから牧志中使為相勤与之晴自茂有之候間旁以為致内意形ニ糺明相決律例引比疑之情犯を以等を滅罪科相擬首尾方被仰付可然哉与吟味仕候併何分ニ茂御賢慮之上被仰付度奉存候以上
附
一科律并先例抜書差上申候
一八議之人十悪を犯者者其段達
上聞凡人同前捕出各律条之通可論決与八議之人犯罪律ニ相見得候付小禄之犯所十悪之内ニ可被入哉与科律清律等見合候処右江可比入律条不相見得候付十悪之律者用不申八議之法を以吟味仕置申候
一水問之儀科人公事帳ニ用得様者相見得候付水問相用候方ニ茂吟味仕候処水問者苦痛絶兼犯人共難受吟味ニ而科律組立被仰付置候以来重キ糺明之節々茂用得不申段跡々よ里申伝有之問附書ニ茂用置候跡不相見得且嘉慶五申年冠船之時唐人よ里拶指并夾棍用得様稽古被仰付置候処夾棍者琉人之根気ニ而者難受吟味之由ニ而是又用得不申拶指迄を当分相用得申候小禄糺方之儀本文通重而者拷問さへ難相用吟味ニ而水問相用候方ニ者吟味相付不申候
一本文内意之儀正右衛門殿内状ニ者仁右衛門殿江極内意申込候段相見得候処牧志問届候得者右内意者正右衛門殿本ニして仁右衛門殿江者折次第可申達与之趣相晴目且嘉味田親方問合之内故恩河親方一件之条ニ先嶋之者江拝借銭之内恩河よ里為分取段相見得候処御物奉行方相尋候得者先嶋江拝借銭よ里恩河為分取候儀無之段承申候
一本文通糺明相決候様被仰付候ハヽ牧志罪分者律例見合吟味可仕候
〈申〉
五月十一日
平等所大屋子見習 亀川里之子親雲上
同 兼本里之子親雲上
同加増大屋子 佐久本筑登之親雲上
同 小橋川里主親雲上
同 善平里之子親雲上
同大屋子 比屋根親雲上
同 仲吉里之子親雲上
同加勢主取 神村親雲上
同 武嶋里之子親雲上
同 志喜屋里之子親雲上
J 糺明官のメモ 〔断片 小禄親方関係〕
〇本文実為致内意段致白状候共夫丈重罪ニ者及間敷与相見得候処三司官入札者王子衆以下久米村諸太夫迄被仰付直ニ於
御前摂政三司官被相披札数書付備
上覧御意を被請候而薩州御伺相成筈候処右之恐憚も無之二番札江被仰付度為致内意情罪何れ之律を以右通擬り候哉何共難存当御座候
K 『科律』等の抜粋
科律之序
一夫国家を治るの道ハ徳教を本とすといへとも律令の制是亦定めすんハ有へからすつらつら其書の本旨を考るに万民をして習染の悪をさらし固有の善に復らし専刑なからしめん為に著ハし給ものなり然るに本邦元より定りたる刑書なふして凡罪犯擬議の時先例に準し行ハるゝといへとも彼には軽く是には重く見へて決かたき事もあれハ甚た誤る事もあらんかと
主上深く憂ひ煩ハせ給により摂政尚姓読谷山王子朝憲三司官馬姓宮平親方良廷尚姓湧川親方朝喬馬姓與那原親方良矩申合科律を編集せしめん事を請ふ于茲
主上歓ハせられ此事を允し給て乾隆四十歳己未臘月六日向姓伊江親方朝慶馬姓幸地親方良篤を科律編集奉行に命し給ふ依之面々心を尽し精を出し唐大和代々の刑書及ひ当邦の例をも考ひ合せ専経書律意を本とし時宜人情に背かさるやうにして今般既ニ編集しけれは逐一評閲を加へて
照覧に備ひ奉るに自今以後宜此書を以慎て施し行ひ専教化の助けにせよとの御諚を蒙りぬ鳴呼執法の面々克々おもん見るへし夫死するもの又生へからす断ものふたたびつくへからす故に我か
主上如此刑憲を慎ミ給ひ偏に風化を助けん為に編集致させ為(給)ふものなれハ謹て此
御心を体認し奉り平日間断なく此書を致熟読無限含たる道理を尋求め且刑罰不当ときハ民手足を措くに所なし且其情を得る時ハ哀矜して喜ふ事なかれ且生道を以民を殺すときハ死るといへとも殺すものを恨ミすと
聖賢段々仰置る趣を心肝に銘し聊も吹毛求疵惨刻厳刑のそしりなきやうに取行ひ全教化の補助にならん事を希ふものなり
八議之人犯罪律
一八議之面々ハ〈八議条内ニ相見得候通凡人とハ不同〉其御取持可有之人品ニ而縦令何楚之犯罪有之候共軽々敷〈平等所江〉召寄不問付〈可糺問哉否哉之訳〉奉伺 上意ニ依て可糺問節ハ〈有筋白状之通〉所犯之軽重又ハ八議人品之訳を茂相糺〈縦令ハ御親族ならハ御間柄之遠近且功臣ならハ功を立たる本来等〉委ク書付備
上覧罪分僉議可致由達
上聞役々僉議之上罪分取究備
上覧御裁断次第首尾方可有之
〈右同律〉
一十悪を犯者ハ其段達 上聞〈凡人同前とらへ出し〉各律条之通可論決〈是ハ本文之通可糺問哉否之訳奉伺又ハ罪科裁断等之律を不用〉
〈右同律〉
一前条本律八議之面々ハ縦令 上意ニ依て糺問するとも〈軽々敷〉牢込拷問等不申付〈老幼糺明律見合〉夫々之証拠証跡を以可議定 〇若〈口問迄ニ而不相遂〉牢込拷問等不召行候而不叶訳有之節ハ其訳奉伺首尾方可有之〈若令違犯私ニ牢込拷問等召行候役々ハ老幼糺明律見合可議罪〉
〈老幼糺明律〉
一八議ニ相見得候御間柄并官職重キ人其外格別之人品ハ〈礼法可優〉若此等之人々犯罪有之節ハ軽々敷拷問等不申付夫々之証拠証跡を以議定可致〈八議之人犯罪律并八議之人父祖犯罪律老幼廃疾犯罪律等見合〉首尾方可有之
〈右同律〉
一証拠明白ならハ有筋白状無之候共糺明相遂候も同断首尾方可相済故必白状可為致与強而責問申付間敷候
〈右同律〉
一前条之人品与乍存法義ニ違致拷問〈若苦痛堪兼空言申候を取揚〉罪ニ入候役々ハ〈罪科出入律を以〉可議罪
〈訴訟不取揚律〉
一人殺并盗賊喧𠵅打擲犯姦等之類ハ直ニひら方取揚〈夫々之律条見合〉可論
〈人命律〉
一謀殺之奸情者仇怨財色等之宿意有て謀殺類也尤其偽計陰謀を設定る者を張本とすへし若無其儀〈同謀者之内〉一言之証拠抔を以張本ニ召成且其場ニ在て見伺〈或声を懸恐り驚せ窮迫させ味方を守護ニ而〉助勢シたる者を助殴重傷之者ニ成し一同重罪ニ擬多命を傷ふへからす
〈盗賊律〉
一盗人捕付委細之書付取添差出候ハヽ〈罪人牢込律条見合〉牢舎可申付若書付持参無之候ハヽ盗物色立員数月日又は逢盗候人名居分等委ク致帳留捕出候人ハ無滞可差帰
〈療治日限律〉
一喧𠵅打擲ニ依て傷を負其段申出有之候ハヽ〈則役々差寄傷之重軽并手足木刀刃物等之分ケ慥ニ見届傷を負たる時刻等ニ至る明白書記〉殴たる犯人江限を立療治申付〈年月差引律見合〉限内平復せさる時ハ左条見合〈喧𠵅打擲律ニ依て論〉傷之軽重を以其咎申付若限内〈破傷風等之類ニ成〉其傷ニ依て死し候ハヽ〈喧𠵅殺害律内〉喧𠵅打擲ニ依て殴殺たる律を以可論
本文傷験見之儀田舎ハ検者小横目其外役々立合見届〈一紙書を以〉披露書一同差出候ハヽ前後律条之通其首尾可有之
〈犯姦律〉
一姦情は〈曖昧にして偽り易く〉実否難取究故必於姦所捕付披露申出る者ハ可取揚〇若姦所にあらすして〈別所にて〉とらへ出し候歟或〈姦を犯したる由〉名指を以訟出候共〈何楚之証拠無之追論かたきゆえ〉取揚間敷候
〈落書律〉
一落書人之儀露顕難致陰謀者を捕出候故可賞之且又必落書人落書共ニ捕出候を可褒賞儀其締無之候而不叶儀ニ候縦令ハ落書為致者者不捕出〈其人何某与人指を以申出候共〉落書計取出し候を取揚候ハヽ何楚遺恨有之候人之所為と可申偽儀も有之専其弊を為可防必落書人落書共ニ捕出候得者可賞之
〈放火律〉
一放火人其場ニ而捕付慥成証拠有之候ハヽ夫々之本律を以可治罪
何楚之証拠も無之者を仕向疑敷邪推を以とらへ出其罪ニ曲入候も無覚束尤放火之罪科至て重故其慎可有之
〈糺明法条〉
一糺明相遂科付之砌斬罪とも又者身命難保所江流刑とも分明難取究者ハ流刑ニ召成流刑之内六年とも拾年とも難取分候者者六年可召成候其余皆共件之了簡肝要候若疑敷者者重方江片付支配いたし候ハヽ不仁之道甚以不宜儀候
〈詐偽律〉
一文書を偽作候者既ニ施行いまた不施行之差別有之候言語を偽伝ふ者其分ケ無之候者文書者跡方之証拠有之候故既ニ行いまた不行之差別あるへし言語ハ跡方之証拠無之如何んして其差別可致夫故必公事を申付規避之稜有之候を其罪ニ処すへし若公事を申付規避無之候ハヽいまた偽伝ニあらす
一嘉慶元年西原間切末吉村比嘉筑登之親雲上同村前伊田親雲上両人致喧𠵅比嘉よ里者壱丈余之壇下江被蹴落疵負十死一生為及段申出伊田よ里者蹈違自分ニ而為転落由申出拷問等申付候得共双方張合相成且道光三拾年八重山嶋滞在西村無系城間筑登之親雲上よ里宿元江届用之海人草東村嫡子渡嘉敷筑登之相預り脇売之考候間帰帆之上密ニ取卸呉り候様城間頼承崎原之崎乗参り候砌釣舟江取卸候時相転し海人草為致流失由城間よ里者密ニ取卸候頼不仕段両人張合相成且咸豊三年玉城間切検者真玉橋里之子親雲上事於間切段々不宜仕向有之糺方被仰付候内上御役場又者御物奉行衆御心安御取合諸事御指図通取扱候付下知不汲受者者屹与其仕付可致旨為有之由間切役々申出真玉橋ニ者右様之儀共無之由申出右三ケ条共外ニ致見聞候者無之互ニ口柄之張合ニ而無証拠故儘差通置申候外ニ茂右様之例段々有之候
〈申〉
五月
L 糺明官の意見 〔仲里按司・與世山親方等〕
小禄親方牧志親雲上糺方一件付加勢主取世名城里之子親雲上并宇地原親方摩文仁親方伊江王子御見付落着難成所よ里見立相替筈候間右吟味書相下ケ存寄之程書付を以可申上旨被仰渡役人共江茂申談左ニ申上候
一世名城書面ニ今般三人之牢人所犯之振合薩州御側役衆江相貫キ候与相見得成程恩河牧志ニ者御側役衆江相貫キ候晴目有之小禄ニ者此程段々致穿鑿候得共三司官為致内意儀曽而無之旨申出何之証拠茂無之候を三人共御側役衆江相貫キ候与究而書付置候儀不束相見得申候
一右通御側役衆江相貫キ此御地御世話を為懸上形行甚不臣之仕形此情犯科律新集科律又者清律等ニ茂相見得申間敷与有之候処不臣之仕形与申者所犯何程之見立ニ而候哉清律者天下十八省何分非常之情犯謀反叛逆罪三族ニ及候者迄茂議罪被仰付候御規摸科律新集科律茂清律よ里御当地可被召行条々被組立置於小国ニ者縦令非常之情犯出来候共弥以右両律又者清律ニ者可準律例可有之尤法義者究り有て事情変易者無際限故清律迚茂所犯少も不相替全ク的当之律例者有少古来唐御当地茂情犯ニ応し準シ例等を以罪科被仰付御規向之事候処小禄恩河牧志三人之情犯甚不臣之仕形科律新集科律又者清律等ニ茂相見得申間敷与之見付何様共難存当事御座
一右様非常之重犯人御糺明ニ付而ハ責扱茂御法ニ相見得候道具之数々者不相行候而不相済筈候処此程拶指扱之道具不相揃且水問等ハ一切相用不申候を当分迄之晴目書を以夫々罪分御議定被相成候方ニ者存当不申段相見へ候処拶指扱之砌道具不相揃与申者嘉慶五年冠船之時大屋子当真筑登之親雲上拶指扱之仕様巡捕官よ里習受〓(金+渡)はめ上ニ犯人跪跌シ股脛之間ニ棒横ニ入致尋問白状不致候得者拶指相用候段日記ニ相見得候処是迄拶指之扱棒〓(金+渡)り不相用故兎角右通申立候半右棒〓(金+渡)不相用子細者清律条例ニ拶指者寸尺付等一々被記置候処棒〓(金+渡)之儀者不相見へ尤右様棒〓(金+渡)其外非法之刑具を用犯人責扱失命ニ及させ搆之官人所払等被仰付置右様非法之刑具相用候儀堅御禁止之段清律嘉慶十二十六年之
上諭ニ相見得候付跡々吟味之上当分通相用且水問者苦痛堪兼犯人共難受吟味ニ而科律組立被仰付置候以来相用不申段先々より申伝有之候を無証拠之上別而八議之人品右様重刑具を以屹与可致責扱与之儀何共難存当事御座候
一摩文仁親方宇地原親方書面ニ小禄疑之情犯を以罪科被召行候而者従者者張本相成不穏段相見得候処成程証拠有之候得者糺シ明白ニ可相成候得共何茂証拠無之口柄迄之事故自然牧志茂中使為致儀無之旨張通候ハヽ何分首尾難引結躰ニ茂成立候処牧志ニ者中使為致段申出小禄ニ者牧志より小禄名を仮り為致内意積与張合なから小禄晴目之内気附不足之明間有之候付小禄より為致内意形ニ糺明相決疑之情犯を以等を減牧志より罪科軽目之方ニ被仰付候而茂律法通ニ而従者者張本相成候筋ニ而者無之尤先例茂有之候処御咎目向者明白糺付所犯相当ニ不被仰付候而不叶迚無限致糺明候向ニ而者終ニ失命又者苦痛絶兼いやなから請合させ実情を不得罪科差過候方ニ可相成左候得者無証拠ニ付而疑之情犯を以等を減御咎目被仰付儀者不穏無限致糺明失命等及させ候儀者穏与申筋合ニ而抑律意取失差当御不足者勿論往々此流弊如何可成行哉往昔唐之中宗之時代索元礼周興来俊臣与申刑官共常々残忍之性質ニ而犯人一人出候得者数百人引拘らし或者倒ニ懸ケ首に石を提け或者醋を鼻に灌し其外非刑段々相用専責扱而巳ニ而相糺候故苦痛絶兼不有之事々茂請込さセ残害ニ逢候者数千人ニ為相及由当時ニ而茂証拠証跡無搆定法ニ替り重刑具を以致責扱候ハヽ不有之事茂受合又者死亡ニ不及者者罷在間敷積ニ而此所能々不相慎候而不叶儀与奉存候
一小禄糺明筋いまた不行届所よ里白状不致候間猶口問帳等委敷取調部致糺明候ハヽ埒明可申与相見得候処凡糺問者兼而之心得題目ニ而是迄糺明之砌者前以口問帳取調部節々取束尋之趣向主取役人中吟味を以出席之人数差図を得候得者存寄之程茂取添段々相糺糺明央ニ茂存寄有之節者犯人引せ候而吟味之上猶又問附さセ去年七月以来拶指拷問都合十二座ニ及責扱為致候得共三司官為致内意儀毛頭無之段申出候付奉行役人共工面を尽手懸可相成与存付候儀共者無罪者迄牢込を以段々相糺乍其上風説之事々茂致穿鑿候得共何楚手懸可相成儀出来不申尤御見付替之御銘々ニ茂兼々口問帳平等方又者御取寄ニ而御調部被成候付兎角御工面を為被尽筈候得共此程為何御存寄茂無之此上者重而穿鑿□(之カ)手筋相絶候処よ里不及是非当分之晴目書ニ而糺明居候方吟味を以申上置候処今更小禄糺明之手筋不行届猶口問帳等委敷取調部精々手を尽候ハヽ白状又者証拠可致出来与之儀何共難心得儀与奉存候
右者依御尋吟味仕申上候以上
附別紙両通返シ上申候
〈申〉
七月
小波津親雲上
森山親雲上
與世山親方
仲里按司
史料二 牧志恩河一件口問書
A 小禄親方口問書
〈未八月四日〉
一牧志よ里池城殿内江大里御殿并譜久山殿内御揃之段有之於其儀ニ者自身者御月番ニ而候を自身ニ者何分様子も無之右御面々池城殿内江被相揃候儀者兎角自身一件ニ而ハ有之間敷哉与相心得牧志ニ而承合晩方重而相知候様申達置候処為何様子も無之ニ付牧志家内差遣候処他行之由ニ而翌七(ママ)日罷出候付相尋候処弥自身一件之事ニ而為有之段申ニ付何事ニ而候哉与事之訳合相尋候処是者何分不相知尤此次第牧志より為承儀者致口外間敷旨口詰等有之よし
附自身一件ニ而者有之間敷哉与たまかいたる儀者飛舟使與儀筑登之親雲上帰帆之上入札内意一件自身より正右衛門殿江致内意たる次第與儀よ里承居候付本文通たまかいたる由
〈八月八日〉
一入札一件付自身より仮屋方江致内意たる儀毛頭無之よし
〈同日〉
一右一件付牧志中使ニ而致内意たる儀毛頭無之牧志中使為致段池城殿内より為致承知迄之事ニ而候よし
〈同日〉
一去年二三月比ニ而為有之半飛舟使帰帆之上自身より太郎左衛門殿書状差遣内意為致筋大和ニ而風聞為有之次第承兎角讒したる積右式讒し候躰ニ相成候ハヽ大事之事与驚入登 城之上摂政三司官江も形行為申上事候得共摩文仁親方江者何分問尋も無之此段者気不相附今更届不足為相成由
〈同日〉
一摩文仁親方より讒し候半与摩文仁を疑候儀者毛頭無之大和ニ而之成行摩文仁尋問不仕儀者至極不届相成恐入候よし
〈同日〉
一自身事仁右衛門殿正右衛門殿より者数馬殿者猶丁寧之事候得者自身より入札一件致内意事候ハヽおのつから数馬殿江も内意仕筈候処無其儀上者正右衛門殿等江不致内意証拠相成候よし
〈未八月十四日〉
一牧志中使いたし置候ハヽ自身御役御免前摂政三司官御揃相成候付牧志ニ者早速自身江右一件発顕之次第急ニ告知可申之処無其儀牧志ニ者右一件承来候様申達置候得共延引いたし翌日罷出候上者自身より牧志中使仕置候儀無之証拠ニも可相成よし
〈同日〉
一去年三四月比正右衛門殿より御用有之罷下候処正右衛門殿より十五人之内座喜味組合者者早々代合為致侯様
太守様御意ニ而候間早々代合為致候様有之半途ニ代合為致候而者人倒し候付急ニ者不罷成今般
御婚礼御祝儀并来十二月ニ代合可為致候間其間御待可被成旨申上候付自身引請ニ而候哉与被申候付御相役御相談之上代合為致候段申上右次第摂政三司官江も申上たるよし
附何かし/\代合為致可申哉与尋上候処人躰者何分不申聞先役よ里退役為致候様為被申よし
〈同日〉
一代合之人躰尋上候処其方ニ茂能存居候与申何分不申聞且正右衛門殿より十五人名前書付銘々座喜味組合者ニ而候哉与問届猶又喜舎場浦添阿波根與那原者別而相疑右面々者如何可有之哉与尋有之右面々座喜味参候様ニ者見得不申段折角迦し候而相晴目候得共落着無之様ニ為有之よし
〈未九月六日〉
一牧志親雲上より御晴目申上置候正右衛門殿仁右衛門殿江三司官入札内意一件之儀牧志より仮屋方ニ而之評判承来候而之咄ニ而右一件者自身豊見城御殿等江も御咄申上置自身も右次第為承事候得共自身より右内意一件牧志江為申含儀毛頭無之よし
〈同日〉
一牧志事桑江里之子親雲上江為致内談儀可有之其趣者自身御役御免為被仰付日桑江より与力潮平江旦那者事ニ被係居候間早々致出勤候様且其後桑江より猶又潮平江旦那者当分之躰ニ而者難被迦可及大事何歟進物用之品表向進物方より差出さセ候而ハ不相済潮平格護之品又者庫理方江格護之等(ママ)有之潮平迄を以取償可相成哉於其儀ニ異国方岩下新之丞殿江牧志より内意申込事能取計可相成筋内談有之候付潮平ニ者格護之品無之尤右様之取計いたし候而ハ相応不致段致返答候付左候ハヽ旦那江者隠置候様桑江為申段潮平申出有之候付宜致返答置候以後何方よりも右様之相談有之候ハヽ屹与可相断与申付置候次第有之是以も牧志よ里自身名前を仮り為致内意証拠ニ而候よし
〈同日〉
一牧志より今度之三司官者正右衛門殿者翁長与被申仁右衛門殿等者野村与被見受候段之咄者自身ニも為承事候得共自身より右両人江内意いたし候様牧志江為申付儀毛頭無之よし
〈同日〉
一廿七日之朝池城殿内より牧志江其方者小禄中使為相勤哉与御尋被成候処中使不相勤段返答為有之次第も承居候よし
〈十月廿二日〉
一太守様御逝去後摂政三司官恩河牧志等御在番所江御用付参上御奉行正右衛門殿御出席蒸気船御買入一件之御用御取戻之段致承知済而御玄官ニ而正右衛門殿より彼之申付被置候御内用も都而御取返之段為致承知由
〈同日〉
一正右衛門殿より
太守様御意与申座喜味殿内之党早々退役為致候様被仰渡候付急ニ退役申付候而ハ一世奉公留之形ニ成り来十二月又者御婚礼付而も紫冠申付候付其節退役さセ候ハヽ不目立様可相成候間右之方江被仰付候而ハ如何可有之哉与申上候処右両度ニ者退役可相成哉与尋有之候付両度ニ者吟味可相成与致返答猶又何かし/\ニ而候哉与尋上候処阿波根喜舎場浦添與那原親方摩文仁親方等之段被申候付與那原ハ自身三司官被仰付與那原御用取扱之躰見候へ者座喜味組合之方ニ者不相見得喜舎場阿波根浦添等ニも自身目前ニ而ハ何楚右組合者与者不相見得段致返答尤摩文仁者其時上国ニ而正右衛門殿尋も無之付弁も不致猶又面立を以星廻したるよし
〈未十一月五日〉
一正右衛門殿より御用付致参上候処
太守様御意与申座喜味殿内組合之者共早々退役さセ候様被仰付候付只今退役させ候ハヽ一世御奉公留之形ニ而候間追々
御婚礼又者十二月之間ハ順々退役罷成可申候間御相中江も御相談之上可取計段申上且人躰ハ與那原親方喜舎場親方阿波根親方浦添親雲上摩文仁親方等与申ニ付興那原親方は御用致 〔以下欠――金城註〕
B 伊志嶺里之子親雲上口問書
〈未八月廿六日〉
一小禄一件付諸官御揃之日宮平親方宅致参上候処濱元里之子親雲上書役翁長里之子親雲上茂参合ニ而焼酎出候付何様之儀ニ而焼酎被召上候哉与申上候処小禄一件付焼酎呑候与被申小禄事一門之腰引
御継目一件ニ而候ハヽ可切殺与怒立候而為被申よし
〈未八月廿六日〉
一入札一件付御揃之段自身申候処右一件之儀者数馬殿宿江小禄殿内池城殿内宮平其外酒宴之時之事ニ而右一件迄之事候ハヽ可相済候得共
御継目一件ニ而候ハヽ可切殺与被申たるよし
〈同日〉
一数馬殿宿ニ而之一件者小禄より今度之三司官ハ野村ニ而可有之与被申たる段為承よし
〈同日〉
一得与相考候得者小禄池城御一同右通為被申段為承覚然共池城親方よ里御内意為被申上段慥ニ為承儀者不覚之よし
〈未九月四日〉
一小禄殿内一件発顕之当日宮平親方宅江参り七ツ時分ニも為相成哉小禄按司松堂親方濱元里之子親雲上書役翁長里之子親雲上其外旅供上江洲等御揃合焼酎被召上候付何様之儀ニ而酒被召上候哉与問上候処小禄一件風聞悪敷焼酎被呑候段御返答有之且風聞ハ何々之事ニ而候哉与申上候処御継目一件三司官内意一件等取沙汰有之候得共御継目一件者邪説ニ而可有之三司官御内意一件ニ而も不相済段為被申よし
〈同日〉
一其時宮平被申候者小禄より三司官一件御内意いたし置候ハヽ大事ニ而可有之候へ共数馬殿ニ而之一件者酔事ニ而其辺迄之事候ハヽ御咎目ニ者不及筈与被申たるよし
〈申閏三月廿四日〉
一去年三月廿七八日之比諸官御揃之日七ツ時分宮平親方宅江為参よし
〈同日〉
一小禄按司松堂親方翁長里之子親雲上濱元里之子親雲上等御出焼酎出為申よし
〈同日〉
一何様之儀ニ而昼焼酎被召上候哉与尋上候処小禄殿内一件御世話到来之由被申候付如何様之儀ニ而可有之哉与尋上候付御役目御内意与申もあり又者御継目一件与申者も有之候得共夫者諸官御吟味之上仮屋江御相談相成候もの有之右之ひづけニ而可有之賦就而ハ御継目一件ニ而ハ有之間敷数馬殿宿ニ而之事者酔事之儀ニ而右一件ニ而者有之間敷実ニ三司官御内意いたし置候ハヽ不都合之儀与為被申よし
〈同日〉
一宮平被酔候而より者御内意仕置候ハヽ殺し候而も可相済与被申たるよし
附小禄按司松堂親方等御帰り後本文通宮平被申たるよし
一其翌日ニ而も為有之哉牧志宅江参り小禄殿内一件相咄数馬殿宅ニ而御内意心地之事為有之哉与相尋候処右心地之事有之其時者池城殿内其外過分之御人数ニ而為有之段牧志為申よし
附池域殿内より御内意為被成筋ニ者不承よし
(「附」以下朱書――金城註)
〈未十月六日〉
一数馬殿宿ニ而酒呑為申事有之右之移違ニ而三司官御内意与びつけたるニ而者有之間敷哉右之事ニ而候ハヽ左程ニハ及間敷与被申候付数馬殿ニ而之事者其方共之申通之様成もの夫者池城殿内等も御一同之事ニ而右一件者有之間敷与親方為被申よし
附池城殿内より御内意御一同ニ被成たる筋ニ而者無之よし
〈申四月廿七日〉
一小禄一件付諸官御揃之日八ツ時ニも為相成哉宮平親方宅江参り候処小禄按司松堂親方書役翁長里之子親雲上桃原村濱元里之子親雲上御揃合焼酎出御咄被成候付何様之事候哉与尋上候処小禄一件付世話出来候与被申候付何様之事ニ而候哉与尋上候得者御継目一件与申邪説もあり又者三司官内意一件与申者もあり御継目一件ニ而者有之間敷夫者諸官御吟味之上仮屋江被御遣たる儀有之其びづけニ而可有之実ニ内意仕置候ハヽ不届候へ共数馬殿宿ニ而之一件ニ而ハ有之間敷哉其時似た事者有之候酔事之儀ニ候其時池城殿内等も御ましよん之事ニ而為有之段宮平為被申よし
C 小禄親方・牧志親雲上口問書〔糺官意見書〕
当四月二日之比與世山親方よ里於仲里御殿申出之趣者恩河親方御奉公留被仰付候以後玉川御殿安村親方御一同御歩行被成候間與世山茂致同伴候様安村よ里承玉川御殿茂與世山江御立寄御一同多和田之御屋取江被参居候砌小禄親方茂彼辺よ里歩行御屋取江奉公人被差遣伺候付御殿よ里小禄茂被召呼椰子抔出ぶうさあ共被成御殿より恩河御奉公留之次第御尋ニ付此儀者自身共罪与被答上再三同断被仰候付終ニ小禄より自身も追々倒り可申其時者みよんぢゆ茂与被申候を承安村與世山ニ茂夜入御両人より先達而為罷帰由
未八月四日小禄親方口問
一恩河御奉公留以後玉川御殿與世山親方安村親方四人玉川御殿多和田之屋取江為参儀者有之よし
一玉川御殿よ里恩河御奉公留之成行御尋有之恩河者物欲ニ迷ひ人を騙し借銭等仕置候付御奉公留為被仰付段御返答為申上よし
未四月十八日牧志親雲上口問
一仁右衛門殿ニ茂今度之三司官者何かしニ而候哉与被申候付野村親方可宜哉与申上此段者壮右衛門殿江通上度申上候処随分奉通候段返答為有之よし
一数馬殿ニ者酒宴御数奇ニ而不断酒宴為有之よし
一池域殿内茂右一件御働為有之よし
一右一件相働候人数者宮平親方恩河親方も能存居候間御問尋有之度よし
一数馬殿江後御宿奥之座小ニ而池城殿内よ里野村被仰付方ニ御取計被下度為被申上よし
附小禄殿内茂往古者入札壱枚入候而も被仰付置候段為被申よし且上之思召次第与も為被申よし
一其時之御人数玉川王子池城親方宮平親方小禄親方恩河親方自身都合六人之覚ひニ而候由
一宮平親方者三味線弾候処取込茶呑なから右次第承不目立之躰相見得為申よし
一玉川御殿も小座江為被参時も有之候得共御口上者不承よし
一仁右衛門殿江茂池城殿内よ里入札枚数等封付御持参ニ而差上被申上置候段為承よし
附仁右衛門殿よ里右次第為承よし
一仁右衛門殿江者小禄殿内よりも被申上置候よし
一仁右衛門殿正右衛門殿江進物等為差上儀無之よし
附差向ニ者難申上候付進物差上不申よし
一池城殿内小禄殿内よ里野村親方江被仰付度被相働候儀者野村江も御約束之上ニ而被相働候形ニ者相見得不申池城小禄御両人者野村与御別懇之事ニ而右通御働為被成様与存候よし
一入札後二三度計右御三人も酒宴為有之事ニ者候得共其時入札一件之御咄茂不承よし
一其時々之人数右御三人並玉川御殿宮平恩河自身七八人程之よし
一野村江被仰付度相働候儀者仁右衛門者御脇々よ里直ニ被相働正右衛門殿ニ者下涯ニ而いまた御近付無之自身者先達而近付罷成居候付被差使たる筈之よし
一右次第池城殿内小禄殿内兼而御口合之上ニ而為有之哉此儀者不相分よし
一数馬殿御宿ニ而ハ池城殿内御手元にて小禄殿内者最初者上之思召次第与申候を池城殿内より山芋ふてと為被申よし
〈未〉十月
D 牧志親雲上口問書
〈未十一月五日口問〉
一数馬殿宿江弓之会之時玉川御殿者座之縁頬江被為在池城殿内者(ママ)自身者小座江罷在候時小禄殿内も盃被持参左候而池城殿内よ里数馬殿江今度之三司官野村者札数相劣候得共野村被伺候而者如何可有之哉与被申上候を小禄よ里左社(さこそ)申候而者不相済与被申候を池城よりかめやつきい山芋ふて与被申候付小禄も御賢慮次第札一枚ニ而も被仰付置候例も有之候与被申数馬殿者私も左様心得被居候段御返答為有之よし
〈同日〉
一宮平親方者三味線弾候所ニ而耳を傾キ承候所不合点之様ニ相見へ為申よし
〈同日〉
一其後数馬殿宿参上之時現札見セ上候様池城殿内江可申上旨被仰渡尤札数者相劣候得共札柄者相勝候段者承候段も致承知登 城之砌池城殿内江右之形行申上候砌小禄殿内茂御出勤ニ付御聞取具志川里之子親雲上御用ニ而現札見セ上候而も可相済哉与被仰下候付往古より現札見セ上置候例無之段申上候付御返答者池城殿内よ里被申上候筋為相成よし
〈未十一月七日〉
一小座江池城殿内小禄殿内被罷居候時数馬殿盃酒被持参池城江盃被遣候時池城よ里数馬殿江野村者札数者相劣候得共人柄ニ而候へ者野村被伺候而者如何可有御座哉与被申候付其通相心得罷居候段数馬殿為被申よし
〈未十一月十四日〉
一池城殿内者小座江被罷在候砌数馬殿盃酒被持寄池城江被差上追而小禄も被差寄此場池城よ里野村者札数者相劣候得共札柄者相勝チ候得者今度者野村被伺候而者如何可有之哉与被申候付数馬殿者左様心得候与被申小禄より者札通之事与被申候を池城より山芋ふてと被申たるよし
〈未十二月二十四日〉
一去々年十一月三司官入札二三日後数馬殿宿ニ而酒宴之時玉川御殿池城殿内小禄殿内伊是名親方恩河親方自身並宮平親方ニ而為有之よし
附御仮屋方より者岩元(ママ)清蔵殿八太郎殿仁右衛門殿柳田正太郎殿ニ而為有之よし
〈同日〉
一其砌池城より数馬殿江野村者札数者相劣候へ共人柄之事候間野村被伺候而者如何可有之哉与被申候を小禄より左様申候而者不相済与被申候付池城よ里山芋ふて与被申候付小禄も御意次第之事むかし者札一枚ニ而も被仰付置候段為被申よし
〈同日〉
一其後右御礼ニ為参儀ニ而も為有之哉数馬殿宿参上之時数馬殿被申候者三司官入札之御届者池城より被申上置候野村者札数者相劣候得共札柄者相勝チ候段も池城より被承候現札見セ上候ハヽ御用御見合ニも可相成候間此段池城江申上候様被仰下登 城之砌池城殿内江右之次第申上候折小禄も御出勤ニ付御一同右次第被承小禄よ里主取江も御尋之上何分可被成旨被申候付自身江主取呼候様被申付主取参上仕候付被相尋主取より現札者此迄不差上札数迄を御届被仰上置候段申上候付御取止相成御返答者池城より被申上候段為被仰下よし
〈同日〉
一其四五日後ニ而も為有之哉御用御案内ニ小禄殿内参上之時小禄より野村者人柄ニ而候得共是迄人ニ被越不便ニ候然共数馬殿仁右衛門殿江者野村被伺筈正右衛門殿者下涯様子不相分候間都合次第仁右衛門殿正右衛門殿□(江カ)通し置候様被申付たるよし
〈同日〉
一十一日十二日又者七八日比ニ而も為有之哉日柄者慥ニ覚ひ不申候得共桑江自身宅江参り小禄より潮平江私ゆへに伊是名牧志等江も相拘さセ気之毒之段為被申由自家裏座ニ而両入居合之上為承よし
〈申二月廿二日〉
一其後正右衛門殿よ里招付参候折正右衛門殿より追々三司官交代三司官方も致入札候哉三司官方者何かし与被見付候哉与尋有之三司官者入札不致且小禄親方等者野村之方人柄与被見受候野村被伺度趣申上候処返答之趣者正右衛門殿ニ者翁長与被見受候翁長者在番勤之時物込等いたし御奉公肝厚し先嶋者毒蛇を殺候者者同船ニ而不烈(ママ)渡俗式ニ而候得共是又列渡陰徳も有之小禄殿内三司官之時も太守様ニ者翁長与被思召上以後者翁長与御内定有之旁以翁長与被相心得候段も為申よし
〈同日〉
一其後仁右衛門殿宿参居候時仁右衛門殿より正右衛門同様尋懸有之野村被伺度申上候処弥心得ニ而候段返答有之たるよし
〈同日〉
一右之首尾小禄者上ノ屋敷江御出付右別荘江参り両人之有様申上候処正右衛門殿申分者落着不罷成与小禄も為被申よし
〈(申カ)三月廿二日〉
一小禄殿内池城殿内小座江被罷在候時数馬殿本座より酒瓶盃被持寄池城殿内江差上返盃済而猶又小禄江被差上左候而池城より数馬殿江野村者入札者相劣候得共人柄ニ而候へ者野村被伺度被申上候付委細致承知候其心得之段御返答為有之よし
〈同日〉
一其時宮平者一間半計間ニ罷居茶を呑候砌耳を傾ケ承不安躰ニ有之たるよし
〈同日〉
一登 城之上右次第池城殿内江申上候処相待候様被申追而小禄も御出勤付右次第被申上候付主取御尋被成候様被申候付自身主取呼候様被申付詰所より呼来候処右次第御尋相成候処先々より札数迄差上現札者差上不申入札者済次第焼収候筋ニ而差上候而ハ差障候段御返答有之候付数馬殿江之御返答者何様可仕哉与申上候処池城殿内より被申上候段為被仰下たる(ママ)よし
〈同日〉
一諸官御揃之翌日伊志嶺里之子親雲上自身宅江参り咄之趣者昨日宮平親方宅江参り候処宮平者焼酎被給世間之邪説通ニ而候ハヽ宮平よりも切殺可申候得共三司官内意一件ニ而候ハヽ池城始被相働たる事ニ而不苦与被申たる段有之候付数馬殿宿ニ而之一件者宮平ニも能聞合之上ニ而候故右通被申候旨為致返答よし
〈申四月廿七日〉
一池城殿内小禄殿内者小座江被罷在候時数馬殿本座表より湯酎瓶盃被持寄池城江御取替之砌池城より野村者札数者相劣候得共人柄ニ而候間野村被伺度被申上候付委細致承知候其心得之段数馬殿被申其折小禄より札次第之事左様申上候而ハ不相済与申付池城より山芋ふて与被申候付猶又小禄も御意次第之事昔者札一枚ニ而も被仰付置候与為被申よし
〈同日〉
一諸官御揃之後伊志嶺里之子親雲上私宅江罷出小禄ハ存外之事右御揃之日者宮平江参り居候処宮平者邪説通ニ而候ハヽ切殺可申候得共数馬殿宿ニ而之事ニ而候ハヽ池城殿内小禄殿内等も御一同之事ニ而不苦与為申段申ニ付其時者御一同ニ而為有之段為致返答よし
〈同日〉
一現札一件池城殿内江申上候付追而小禄も御出勤主取江御尋之砌も自身居合ニ而是迄之御晴目不相替候得共主取之御晴め相替候ハヽ不及是非よし
附主取小禄も御口上不相替由候へ者自身覚違之筋ニ而候よし
〈同日〉
一小禄一件発顕之日小禄より与儀大和ニ而為承一件為致発顕哉与被申候付私付而咄形之事ニ而ハ有之間敷哉与為申上段者後以御晴め申上置候得共是者以前ニ者荒々御晴め申上後ニ者委細申上置候よし且又其時迄者自身中使之段も不相知且右一件発顕ニ付而者呉々世話可致場を世話不致与被仰下候儀者呉々世話ニ者候得共小禄江参り鈞合不致儀者小禄ニ者御役御免被仰付自身に者其時迄者出勤も被仰付置適御役御免之方江出入鈞合いたし候儀者憚ニ存鈞合不致よし
附僅之嫌を以太事之釣合不致儀者不埒之様相見へ候得共自身ニ者本文通之よし
〈同日〉
一小禄より彼故を以野村私迄懸而令迷惑残念之儀与咄たる段者潮平桑江両人より者右様之儀無之段申上候由候得者兎角私覚違ニ而可有之右之咄側ニ居合為承証拠人も無之ニ付而ハ自身覚違之筋又右両人ニ者外ニ係合御晴目申上候儀憚与存候哉右之咄為承儀者無相違候へ共張合ニ者相成不申候よし
〈同日〉
一桑江江中使一件咄形之事者為有之段申達たる儀者自身病気御預之当日其時者自身者前之座より本座江入桑江も後より追来候付座江入早速之事尤其時桑江より自身病気之様子等相尋為申由且桑江より右次第不承筋申上候者兎角御取締ニ付而者実成申上候者事煩敷相成却而其身之障可相成与右通申上候半此上者桑江対面被仰付度よし
〈同日〉
一去年入札之儀硯屏之後ニ而為承与申上懸置候儀者主取より仮屋江入札御届之儀者昔ハ御口上迄ニ而枚数迚不申上候処連々与相替候段為申よし
〈同日〉
一主取詰所より呼来候段申上置候儀者詰所又者ゆるひ之前なとゝハ然々覚ひ不申候得共主取より池城殿内拝ミ御応答為被成時者自身ニも居合ニ而候よし
〈申五月八日〉
一池城殿内小禄者小座江被罷在其時数馬殿湯酎瓶盃持参池城殿内江被差上其時池城殿内より野村者札数者相劣候得共人柄候間野村被伺候而ハ如何可有之哉与被申上候付其心得之段返答有之其時小禄より左様申上候而者不相済与被申ニ付池城より山芋ふて与被申候付猶又小禄もむかし者札一枚ニ而も被仰付置候御意次第与為被申よし
〈同日〉
一主取参り候付池城よ里右次第御達相成候付主取御返答者往古より札数迄差上置候例ニ而現札差上候而ハ不相済段申ニ付私より数馬殿江御返事ハ何様可仕哉与尋上候処池城より御返事被申上候段致承知たるよし
〈同日〉
一小禄兼々遺恨迚も無之其上小禄名を借り致内意万一仁右衛門正右衛門より小禄江中使為有之段引当いたし候ハヽ私ニ者偽作之所相顕可申候へ者小禄名を借り候儀毛頭無之よし
E 糺明官意見書(一)〔糺官吟味之次第〕
一去々年十一月三司官座喜味親方跡御役入札相済候後玉川王子池城親方小禄親方宮平親方恩河親方牧志親雲上数馬殿宿ニ而酒宴之時小座ニ而池城親方よ里数馬殿江今度之三司官者野村親方江被仰付方御取計被下度被申候央小禄よ里札通之事致何角候而者不相済与被申候を池城よ里山芋ふるなと被申候得者小禄よ里むかしハ壱札入札之方江被仰付置例茂有之何分御意次第与被申候を宮平者此時三味線差置湯呑候砌承候模様不安躰ニ有之玉川王子者大窪八太郎殿一同縁頬恩河者岩元(ママ)清蔵殿一同玄喚表江被罷在園田仁右衛門殿御用達等ハ本座三味線弾候者共ニ者右小座次之間江為罷在由牧志申出候
小禄親方一件ニ付諸官御揃之翌日伊志嶺里之子親雲上牧志宅江参噺之趣者昨日伊志嶺宮平親方宅江罷出候処宮平申候者小禄事世上邪説之通ニ而候ハヽ宮平よ里茂不免置候得共数馬殿宿ニ而野村江三司官御内意一件ニ而候ハヽ池城親方始為被相働事ニ而随分可相済与申焼酎為被給段伊志嶺申ニ付数馬殿宿ニ而池城よ里御内意為被致段者宮平ニ茂同席ニ而能存居候付右通被申候与為致返答由牧志申出候
附伊志嶺申出候者小禄親方一件ニ付諸官御揃之翌日牧志宅江参り牧志逢取昨日者宮平親方宅江参候処宮平焼酎被給候付訳合相尋候処小禄一件致無興候数馬殿宿ニ而酒宴之折入札一件為被申事茂有之候得共其節者池城親方等まじゆうんニ而是ニ而者かつミらる間敷現当致御内意置候ハヽ宮平よ里茂不免置与為被申段申聞候処弥池城茂まじゆうんニ而為有之由牧志返答為承段伊志嶺申出候付まじゆうん与者小禄池城一同御内意為被致筋ニ而候哉与問詰候処宮平口上者池城親方茂まじゅうんニ而為有之与為承迄ニ而池城よ里御内意被致候形ニ者不承牧志ニ茂池城よ里御内意被致たるとハ不申聞由申出本文牧志口柄符合不致候
牧志親雲上数馬殿宿参上之時入札枚数者先達而池城親方より相届候野村江者札数相劣候得共札柄者相勝チ候由池城よ里承候現札貰受候ハヽ御用見合相成此段池城江申達候様伝言承御座元御出勤之時右之趣申上池城ニ者現札届上候而茂可相済含ニ相見得候処小禄追々御出右次第被承主取江茂被相尋候様被申候付主取御用ニ而御尋相成候処現札差上候而者不相済段御返答有之現札差上候儀者御取止相成右ニ付数馬殿江御返答者何様可仕哉与申上候処池城よ里御返答被成候段承此段者主取証拠之由
右外今度之三司官者野村江被仰付筈与御咄之序ニ小禄池城よ里為承由牧志申出候
附去々年十一月三司官座喜味親方跡御役入札相済候後池城親方御出勤具志川里之子親雲上申口御座下ニ而多葉粉呑候折縁頬よ里御座江御通之砌被召呼候付拝候処いやゑまづ仮屋よ里入札見候様可相成哉与被仰聞候付是者至極憚之御所望与申上候処あんたへ何様御返答被成可然哉与御尋有之候付入札者
国王目前ニ而披キ書取之上早速焼収之模ニ而格護無之段御返答相成可然与申上候処弥其通御返答可被成与被仰聞尤其時者池城親方御壱人為被成御座由且右之御尋済而後暫間ニ而牧志親雲上上之御座よ里相下候時硯屏之後ニ而入札者焼収候模ニ而候哉与尋有之其通之段返答為致由牧志晴目筋具志川申出与ハ符合不致候
一三司官入札相済候後別御用ニ付小禄親方宅参上之時小禄よ里野村者人柄ニ而候得共是迄人ニ被越不便存候数馬殿仁右衛門殿ニ者野村被伺筈正右衛門殿ニ者下涯様子不相分候間折次第野村被伺候方江夏殿江通し被上度申上候様被申付前条数馬殿宿ニ而池城等よ里御内意之後正右衛門殿宿江夜噺ニ参居候折正右衛門殿より今度之三司官ハ誰々致評判候哉三司官方ハ誰を被見付候哉与尋有之多分野村之方取沙汰いたし又候小禄者野村与被見付候江夏殿江野村之方被伺度申上候処正右衛門殿ニ者落着無之由牧志申出候
右ニ付野村御内意一件者小禄池城其外ニ茂組合者可罷在積実成申出候様段々問詰候処兎角肝と肝のちやあひニ而為被致内意哉寄合為致相談儀者毛頭不承由申出候付拷問拶指等を以致穿鑿候得共右通不相替由申出候
右通牧志晴目筋之上を以池城親方尋上候方致吟味候処数馬殿宿小座ニ而野村親方江三司官被仰付方ニ御取計被下度御内意為申上儀無之且野村江入札枚数ハ相劣候得共札柄ハ相勝チ候与数馬殿江為申上儀も無之牧志ニ付而現札見せ候様ニと之御沙汰者最初入札之御届ハ私より申上候付右通為被申遣半今度之三司官者野村江被仰付筈与牧志江噺為申聞儀茂無之抔与被申募候節牧志対決さセ候而茂右内意之儀ニ付池城小禄牧志等為致直談も無之張合相成候ハヽ屹与可取懸責句無之其上牧志晴目之内正右衛門殿より三司官方者誰を見付候哉与之尋者数馬殿宿ニ而池城よ里御内意為致与之日よ里後之事ニ而牧志ニ茂野村江心を寄居候上者好キ折おのつから小禄池城者野村を見付居候段可申聞場ニ小禄計之見付与為申聞儀晴目筋聞得不申殊ニ現札一件池城口上者具志川証拠数馬殿宿ニ而之事宮平申分者伊志嶺証拠之(ママ)成ニ牧志申出候処具志川申出之上を以者数馬殿より現札所望池城者存外之語気ニ而野村札数者相劣候得共札柄ハ相勝チ候与数馬殿江申聞候者如何様牧志自分之言葉を池城よ里数馬殿江為申聞形ニ申成し候茂難計且宮平口上茂池城よ里御内意為致筋ニ者不承段伊志嶺達而申出候を牧志ニ者池城始御内意為被相働与之申分伊志嶺口柄符合不致候惣而糺明筋者証拠証跡ニ基キ取扱仕候御法様ニ而縦令一同聞合之者共罷在候而茂口柄符合不致外ニ引当可相成証拠無之候得者何分ニ茂首尾難引結事候処右通牧志晴目筋聞得不申候上証拠申出候茂符合不致旁以牧志晴目筋難取持何れ外ニ手懸可相成証拠手強相成不申内者池城江手を附候儀罷成間敷与いつれ茂吟味仕候事
〈未〉
十一月
F 糺明官意見書(二)〔伊江王子・摩文仁親方・宇地原親方〕
小禄親方牧志親雲上晴目筋之儀当分張合相成就而者疑之情犯を以罪科被仰付度役人共申出世名城里之子親雲上ニ者猶糺方被仰付度申出候依之吟味仕候者御咎目向之儀明白糺付所犯相当ニ不被仰付候而不叶事候処役人共見付之通疑之情犯を以罪科被召行候而者従者ハ張本ニ相成不穏儀御座候小禄糺明筋いまた不行届所より白状不致積奉存候間猶口問等委敷取調部糺明筋精々手を尽候ハヽ白状又は証拠可相成儀共致出来所犯明白相成相当之御取扱相成可申哉与存当申候此段申上候以上
六月
宇地原親方
摩文仁親方
右吟味之通同意存申候以上
六月 伊江王子
G 糺明官意見書(三)
一方之吟味八議之人品証拠証跡迚も無之拶指拷問も十二座ニ及此上者仕過ニ可相及候付疑之情犯を以罪科相擬り首尾方被仰付度趣ニ相見得候処別冊伊志嶺里之子親雲上口問ニ相見得候通小禄一件ニ付諸官御揃之日八ツ時分ニも為相成哉宮平親方宅江参り候処小禄按司松堂親方書役翁長里之子親雲上桃原村濱元里之子親雲上揃合焼酎出御咄被成候付何様之事候哉与尋上候処小禄一件付世話出来候与被申候付何様之事候哉与尋上候得者御継目一件与申邪説もあり又者三司官内意一件与申者もあり御継目一件ニ而ハ有之間敷夫者諸官御吟味之上仮屋江被御遣たる儀有之其ひづけニ而可有之実ニ内意仕置候ハヽ不届候得共(「数馬」と書き抹消さる――金城註)何某殿宿ニ而之一件ニ而者有之間敷哉其時似た事者有之候酔事之儀ニ候其時池城殿内茂御ましよん之事ニ而為有之段宮平為被申由且牧志親雲上申披キ之内諸官御揃之翌日伊志嶺里之子親雲上自身宅江参り噺之趣者昨日宮平親方宅江参り候処宮平者焼酎被給世間之邪説通ニ而候ハヽ宮平よりも切殺可申候得共三司官内意ニ而候ハヽ池城始為被相働事ニ而不苦与為被申段有之候付(「数馬」と書き抹消さる――金城註)何某殿宿ニ而之一件者宮平ニも能聞合之上ニ而侯故右通被申候旨致返答たる由両人之口柄趣意致符合居候付而ハ此所細密取調部小禄江手懸り可相成桁々吟味可致之処無其儀証拠証跡迚も無之段申出就而者宮平帰帆之上相尋猶証拠証跡を可相求筈之処是又差押当分通小禄張通シ之形を以疑之情犯ニ而夫々罪科相擬首尾方被仰付度与之趣私共ニ者何共同意難成事御座候間小禄牧志伊志嶺等口問書御覧之上何分御治定有御座度口問書五冊取添差上申候以上
〈申〉
八月
H 糺明官意見書(四)〔平等方糺明向〕
今般平等方糺明向一件付奉行役々等見立相替候付宇地原親方召寄宮平親方帰帆之上問届候手筋致問尋弥問届候方ニ被仰付候ハヽ双方召寄可相達旨申達候処此儀一分ニ而者究而難申出伊江王子江茂御口合之上何分可申出与罷帰追而王子并摩文仁親方宇地原被罷出宮平帰帆之上問届候方ニ被仰付候ハヽ双方打組ニ而者糺方不相調自然打組糺方被仰付候ハヽ御免被仰付度被申出趣致承達宮平帰帆之上問届候儀者糺明向係合之筋相見得候付此儀者弥被申出通被仰付尤双方打組糺方被仰付候ハヽ御免被仰付度被申出候得共此節平等方御用筋之儀至而重立候付奉行役々被召附此程折角取詰手を附置候付而者猶精々熟談を遂早々首尾全引結候様無之候而不叶右之趣奉伺候処双方熟談を以宮平帰帆之上筋々明白ニ問届候様
御意被成下候間被奉拝承此涯双方熟談を以宮平帰帆之上問届候儀者勿論最初よ里之御用筋早々首尾全引結候様御取計可被成事
〈申〉
九月十七日
I 糺明官意見書(五)〔断片〕
本文吟味之上を以者牧志より誣告之形ニ相見得尤摩文仁親方江小禄不取懸所迄を以越度ニ召成牧志晴目筋も取添疑之情犯を以罪科被仰付度与之申立ニ而候得共成程摩文仁江不取懸所者不届候得共太郎左衛門江書状差遣為致内意儀ニ而者無之以後者何分相知不申与黙止居為申段申晴候ハヽ儘差通不申候而不叶儀を外ニ手懸可相成明間之所ハ差押ひ右通之吟味筋何共難存付御座候
附仁右衛門江内意為致段太郎左衛門書状ニ相見へ小禄書状不差遣段は是以相知申候
J 糺明官意見書(六)〔断片〕
本文拶指之用様当分通清律ニ茂相見得尤律外之刑具相用間敷旨嘉慶十二年十六年ニ茂
上諭被為在候付吟味之上跡々よ里召留置候趣相認置候処於御当地ニ者適申冠船之時巡捕官江相附習受被仰付及
上聞既ニ御法ニ相成居候を何分御差図茂不仕平等方吟味迄ニ而召留置候段之申出甚聞へ不申候事
K 糺明官意見書(七)〔断片〕
糺明向ニ相携候方者第一義理正道を以軽重過不足之差ひ無之様可相嗜儀本意ニ而可有之勿論恩恵ハ
上よ里出申筈之儀を本文之趣を以ハ御恩恵被召行度趣ニ相見得下として相応不致吟味与存当申候事
L 糺明官意見書(八)〔断片〕
本文之趣者李禧耿韜糺明之時致夾訊置候付向後者三品以上之大臣罪譴ニ羅り候節者
旨を奉りて職を改め拿め問ひ法司茂又にわかに気を加ふ事不得もし夾訊せすんハ不得るものあらハ亦必す
旨を請ふへし与之
上諭科律ニ茂八議之人品者右通之趣相見得候付右両段共及言上相済候上最初者仲里按司宅ニ而問届不致白状候付平等方江召込拷問拶指等相用させ候事
M 糺明官意見書(九)〔断片〕
小禄実ニ三司官内意不致事候ハヽ牧志中使為致訳池城親方よ里御達之砌不図怒を発し努々右様之儀無之此儀牧志よ里私名を借り為申積候間屹与御糺方被仰付度旨申上猶子共弟等門中之内を茂召寄右成行申聞子弟等門中ニ付而茂糺願可為致之処右様之取計茂不致池城親方よ里御尋之砌御糺之上何分被仰付度申上置候付其篇ニ而可相済与相心得候上翌々廿九日濱比嘉親方浦添親雲上御使を以御役御断可申上与之
御意被成下
御意重奉存何分願立不申段之晴目筋聞へ不申候
附牧志晴目之内ニ小禄名を借り致内意万一仁右衛門正右衛門よ里小禄江中使為有之段引当いたし候ハヽ私ニ者偽作之所相顕れ可申候得者小禄名を借り候儀者毛頭無之段達而申出候
N 糺明官意見書(十)〔断片〕
本文桑江者致寄せ尋潮平江者右之取計無之候を潮平桑江口柄不相替牧志晴目筋不束ニ相成候与之吟味落着難成事御座候
金城正篤
一 史料について
牧志・恩河事件は、王国末期に起こった一大疑獄(=証拠なき裁判)である。この事件が当時の士族社会に与えた衝撃は巨大なものがあったとされる。そのわりには、事件の経緯・真相については、必ずしも納得のゆく解明がなされていない。
この事件は、幕末薩藩主島津斉彬のいわゆる積極外交政策の推進と、斉彬の急死に伴うその政策の頓挫によってもたらされた薩摩藩における政策と人事の変動が、直接の引金となっている。すなわち、琉球を拠点として、欧米諸国との貿易拡大のもくろみ、留学生の派遣、軍艦購入等々、当時としてはまさしく「振り切りたる」政策を打出した斉彬路線は、その実現のために王府に対し無理押しともいえる圧力を加え、王府内の人脈に微妙な亀裂を走らせた。つまり、斉彬路線を推進する上で都合のよい人物を異例に抜擢し(通事牧志親雲上の場合)、逆に邪魔と思える人物を強引に排除する(三司官座喜味親方の場合)など、王府人事に対する露骨な干渉をおこなったのである。
その斉彬が一八五八年(安政五、咸豊八)七月急死するや、先記のようにその政策が一挙に破綻する。その余波をもろに受けて牧志・恩河事件は起こる。事件は、斉彬路線の推進に加担したと見られる恩河親方(朝恒、向汝霖、物奉行) ・小禄親方(良忠、馬克承、三司官) ・牧志親雲上(朝忠、向永功、通事・日帳主取)の三人があいついで免職、ついで逮捕・投獄されることからはじまる。
ここに紹介した史料は、この事件の審理の過程を記録したものである。いずれも伊江家に保蔵されたもので、この事件では伊江王子(朝直、尚健)が糺明奉行(審理の最高責任者)を勤めた関係で、伊江家に伝わったのであろう。現在は沖縄県立図書館(東恩納文庫)の所蔵に係る。これらの記録は大きく二つに分類される。一つは「牧志恩河一件調書」と表記され、袋綴じで二冊に製本されている(史料一)。他の一つは「牧志恩河一件口問書」と表記されている文書群で、これはいくつかの巻物として保存されている(史料二)。いま、これらの史料について、順を追って若干コメントを加えたい。なお、A、Bなどの小見出し(文書名)は、便宜上紹介者が付したものである。
史料一のA 恩河親方調書 物奉行恩河親方は鹿児島において、三司官座喜味親方(盛普、毛達徳、のち毛恒徳)を誹謗したという嫌疑で、一八五九年(安政六、咸豊九)二月二十三日免職、同*二十八日投獄される。その嫌疑の内容を細かく見ると、第一に、座喜味は大和(鹿児島)から焼酎(泡盛)の原料となる穀物(米)を輸入すると、醸造禁止を命じて米の販路をふさぎ、第二に、甘蔗の作付面積を狭めて農民を困らせ、第三に、士族の給料を減じて生活難を招かせた、という三点である。事件の起こる二年前にあたる一八五七年、公務を帯びて上国(鹿児島)した恩河親方に向って、琉球館聞役新納太郎左衛門が質問し、それに答える形で恩河が座喜味に関する先の三点を認めたことになっている。ところが糺明する側は、座喜味誹謗のことは上国した恩河の口からそもそも出たものであり、以前那覇の在番奉行所に座喜味誹謗の落書を投じたのも、恩河およびその一味であるにちがいない、と責め立てた。一六回の拷問・拶指に耐えて、恩河は、聞役の質問に応答したにすぎず、また、落書で座喜味を誹謗した事実はない、と否認し続けた。繰り返される拷問の責苦に、恩河はついに心身ともに疲労困憊の末、一八六〇年(万延元、咸豊一〇)閏三月十二日、獄死している。
「附」では、前半で右の件に関する牧志親雲上の証言が引かれている。牧志はその証言のなかで、恩河がみずから上国の使者に任ぜられるよう在番奉行市来正右衛門から摂政三司官へ頼み込んで欲しいと依頼した、などとしているが、恩河はその事実も否定している。後半では恩河に係るもう一つの嫌疑である先島への拝借銭の横領、について、御物奉行関係者を取調べたが、その事実を立証する証拠はない、としている。
*喜舎場朝賢著『琉球三冤録』(活字本)では三月とするが、東恩納文庫蔵の筆写本では「仝月廿八日」とある。いま後者に従っておく。
〔語釈〕「拶指」=刑具の一つ。指にはさみ責める棒。「前廉」=前もって。「釣合」=相談する、示し合わせる。「わくミ」=つじつまがあうこと。整合する。
史料一のB・Cは、恩河親方関係者の証言であるが、いずれも恩河に係る罪状の嫌疑を否認している。とくに、事件より三年前の一八五六年(安政三、咸豊六)頃、恩河宅に「大名方」が多数集まって何やら密議をおこなったふしがあるがどうか、とただしていることなど、他の手掛かりをつかんで、恩河を罪に陥れようとする意図が見える。
史料一のD 小禄親方・恩河親方・牧志親雲上調書 前文のところで、たとえ「風聞」でもかまわないから、三人に係る嫌疑を立証する「手掛り」となるものは調査せよ、とある。それを受けて三人に係る嫌疑および取調べの状況を、箇条書きでかつ総括的に記録したものである。
その第一、蒸気船購入の件。御国元(薩摩)からの蒸気船注文は、実は小禄・恩河・牧志の三人が進言して図ったものであるにちがいない、と。むろんこのことは、薩摩の以前からの意向であり、今回はその強い圧力にやむをえず従ったまでだ、と三人とも同じ証言をしている。
第二、仮三司官設置の件。異国関係の事務処理のため、仮三司官の設置が取沙汰されたらしい。市来正右衛門(斉彬の密使、のち在番奉行)あたりから出たものらしいが、仮三司官には恩河親方が就任するという風聞があり、その事実を三人および他の関係者にも問いただしたが、「風聞の口先、穿鑿成り難く」、恩河みずからそのような働きに出たにちがいない、と問い詰めたが、そのような事実なし、と恩河は否認した。
第三、恩河親方が上国の折、鹿児島において座喜味親方を誹謗し、また、以前に座喜味誹謗の「落書」を投じたのも、恩河等のなせるわざにちがいない、と。恩河はそれらのことを否認し、「落書」については、証拠がなく、穿鑿のしようがない、としている。
第四、太守様(薩藩主島津斉彬)の死去の報が琉球に伝えられて以後、在番奉行所から、座喜味一派が勢いをつけ、「ひじを張る」ようなことになってはならぬ、という通達が摂政・三司官にもたらされたが、このことは、前もって小禄・恩河・牧志三人が、在番奉行所へ働きかけたからであろう、と。三人ともそれを否認した。
第五、一八五七年(安政四、咸豊七)三月頃、琉球逗留仏人から牧志に鉄鉋一丁(代銀三〇〇〇貫文相当)が贈られ、そのお返しとして王府からは二〇〇貫文程相当の品物が計上され、その額があまりにも少ないと考えた牧志が、勝手に反物など自物を加えて贈ったことで処罰されることになった。そのことを知った在番奉行所からは、牧志が行なった行為はいいことであり、処罰されるとあれば、薩藩主に伺いを立てなくてはならぬ、という横やりが入った。恩河と牧志両人が、在番奉行所に何らかの働きかけをした結果であろう、というのである。両人とも否認した。
〔語釈〕「向羽」=顔向け。「代合」=交代。
第六、薩摩の「御新政」(斉彬の一連の積極政策のことであろう)について、恩河は上国の折に示され、かねてから熟知しており、そのことが薩摩と通じ合っている動かぬ証拠だ、というのであるが、恩河は「異国一件」についてはたしかに説明を受けたが、新政のすべてを委細承知しているわけではない、と証言している。
第七、一八五八年(安政五、咸豊八)二月頃、豊見城王子宅へ市来正右衛門・牧志・恩河等が集まって、何やら密談をしたという風聞があるがどうか、という尋問に対し、牧志の証言によれば、たしかに集まって酒を呑みながら和歌を詠み、詩作をするなどしたが、別に子細のあるようなことはしていない、という。
第八、恩河親方免職(一八五九年二月二十三日)後、玉川王子・安村親方・与世山親方・小禄親方の四人が、玉川御殿別荘(多和田にあり)に集まった、という風聞についてである。小禄の証言では、酒を給わり、王子から恩河の成りゆきを聞かれたので、「人をだまし、借銭をしている」と答えたことは覚えているが、呑みすぎてそのほかの子細は記憶していない、という。「附」では糺明役人の一人与世山親方の話として、玉川王子宅で王子が小禄に向って、しきりに恩河のことを尋ねるので、小禄は酒を呑みながら王子に向って「そろそろ私も倒れるはずだから、その時はあなたもご一緒だ」と答えたという。ただし、本文の集まりの風聞とは符合しない、と注している。
〔語釈〕「椰子」=酒を入れる容器。転じて酒の意。「ぶうさあ」=沖縄風のジャンケンで、親指は人差し指に勝ち、人差し指は小指に勝ち、小指は親指に勝つ。ここでは、おそらく「ぶうさあ」をして負けた方が酒杯を空ける、一種のゲームのようなことが、当時あったのだろう。
第九、一八五八年(安政五、咸豊八)に在番奉行所から王府に対し、表十五人衆の内、座喜味一派と目される与那原親方・摩文仁親方・喜舎場親方・阿波根親方・浦添親雲上の五人を退役申付けるようにとの沙汰があったが、このことは小禄・牧志の何らかの差し金にちがいない、と。小禄を訊問したが、全く身に覚えのないことだ、という証言である。「附」に牧志の証言がある。それによれば、牧志は「喜舎場と阿波根は掃除して見せる」と鳥小堀の神谷里之子親雲上に話したことがあったという。そのことが神谷から奥平親方に話され、奥平から喜舎場へ伝わったという。その件について牧志を訊問したところ、そんなことを言った覚えはない、と否定した。そこで奥平に確かめたら、神谷から右のことを聞き、喜舎場へ話したことはない、という返答である。神谷にも問いただすべく呼び出そうとしたが、中風を煩い言語不通の状態、そうこうするうち死去してしまい、外に手掛かりなし、としている。
第十、オランダ船が来航し、国王に面会を求めてくることが予想され、その際、いかなる理由を設けて面会要求を断るか、前もって準備しておく必要がある旨、在番奉行所から通達があった。そのことで摂政・三司官・十五人衆、そのほか諸官の吟味の結果、国王はペリー一行の入城以来、恐怖のあまり「御気損」のため、面会できない、ということで衆議一決し、その旨を在番奉行所へ書面で伝えた。ところが、奉行以下薩摩役人の意向では、「気損」というのは大和では「気違者」の意味であり、そのような気違い者に政事を授けておくことは、西洋諸国に対し薩藩主の面目が立たないこととなるので、場合によっては「御改革」を命ずることになるかも知れぬ。「御改革」とは「御相続替え」、つまり国王の廃立を意味するという。このことが、いわゆる国王廃立という陰謀がらみの風聞を生み、これも牧志等が、在番奉行所と示し合わせた企てにちがいない、とされたのである。
第十一、異国関係の事務多端の折、「摂政心添」という職を新設し、そのポストには豊見城按司がふさわしい旨の市来正右衛門の意向が王府に伝えられたらしい。そのことも牧志が一枚噛んでいるはずだ、というのである。
〔語釈〕「下涯」=くだりぎわ。(琉球に)来たばかり、の意。
第十二、小禄親方が三司官選挙に際し、密願したとされる一件について、ある人が薩摩に誣告したにちがいない、と玉川王子に話したそうであるが、という訊問に対し、小禄は、誣告されたらしいと話したことはあるが、ある人と特定した覚えはない、と主張している。*
*この一件については、史料一のH・I参照。
最後に、右の「風聞または聞取」の諸事は、小禄・恩河・牧志三人の審理の際、拷問などをもって穿鑿したけれども、以上の通り手がかりになるべき証拠がない以上、その線に沿って判決を仰せつけられたい、と結んでいる。咸豊十年五月といえば、拷問をまじえながらの糺明がほぼ最終段階に近づいた時期であり、そのふた月前の閏三月十二日に、恩河親方は獄死している。*
*喜舎場朝賢『琉球三冤録』によれば、恩河に対する刑の宣告は、その前年の十二月三十日であり、久米島への六年の流刑が執行されぬうち、獄中で死去したとされる。
〔語釈〕「儘差通」=沙汰なしにする。
史料一のE 名嘉地里之子親雲上・桃原里之子調書 名嘉地・桃原両人が小禄親方免職後、その一門への取締り向きのことを伝達する役目(一門衆使)を帯びて小禄宅を訪れた際、小禄の仮与力潮平等三人が、小禄の処分を穏便に取計ってもらうため、在番奉行所に「例外進物」を贈った、という話を聞いた、とすることの真偽を確かめるための調書であるが、はじめ三人の内輪話を側聞したという証言から、あとになって潮平から名嘉地が直接聞いた、と証言をかえている。
〔語釈〕「くひなの事」=このような大事。「晴目」=証言、供述。
史料一のF 小禄親方仮与力潮平筑登之親雲上等調書 小禄親方に係る最大の嫌疑が、三司官選挙の際、在番奉行所に一方の人物の選任を密願(内意)した、ということであった。その際、小禄の使者(中使)の役を勤めたのが牧志であり、かつ、進物(贈賄)がなされた、とされた。しかも、その嫌疑の出所は、実は鹿児島にある琉球館関係者からの情報に由来していた。そのことと、小禄免職後、小禄の処分を穏便に取計らってもらうため、在番奉行所に「例外進物」を贈ったかどうか、が取調のポイントとなっている。後者の点については三人ともそういう事実はないし、また、それに似た話をしたこともない、と証言し、さきの名嘉地・桃原両人と「対決」させたが、その主張は真向うから対立(張合)する形となった。小禄の関係する庫理方取払帳・進物帳を取寄せ調べてみたが、疑わしい形跡なし、としている。
〔語釈〕「たんかあ咄」=向いあって話す。対話。
史料一のG 桑江里之子親雲上調書 本文中に「自身よりも小禄は檀那分にて」とあるから、桑江は小禄親方とは公務上親密な関係にあった人物とみられる*。逮捕・投獄の理由は、小禄親方免職後、小禄の与力潮平の宅を訪れ、薩摩の異国方岩下新之丞へ、進物を添えて小禄が「責め扱い」(拷問など)を受けることのないように取計ってもらうようすすめた、という嫌疑。しかし実際にはそのことは実行されなかったが、潮平に勧めたことは事実として認めた。「附」の中で、牧志の証言として、小禄が、自分ゆえに野村(親方、三司官候補の一人)および牧志にまで迷惑をかけて残念だ、と潮平に語り、潮平は桑江に語り、桑江から牧志が聞いた、とされる点について、桑江を問いただしたところ、小禄が語ったという話を潮平から聞いて牧志に話したことはなく、また、潮平を訊問したら、そのような話を小禄から聞いて桑江に話したこともない、という返事であった。
*『琉球三冤録』(一五九頁)によれば、桑江の役職は「御物座当」(国庫帳簿勘定の総調を掌る吏)であった。
史料一のH 牧志親雲上調書 これは次のI小禄親方調書と一連のものであるが、便宜的に二つに分けた。まず前文にあたる部分で、小禄・牧志に係る嫌疑の内容が示されている。すなわち、小禄は三司官座喜味親方の後任選挙に際し、在番奉行所の園田仁右衛門を通じて野村親方の選任を依頼したとされ、その使者役(中使)を牧志が勤めたこと、進物(贈賄)を添えて密願していること、が取調べのポイントである。以下、牧志親雲上・小禄親方の順に調書が記載され、最後に平等所役人の意見と、科律および先例の抜粋が付されている。
まず牧志の調書であるが取調べのポイントは先記のように後任三司官の選任をめぐって小禄が次票者の野村親方を推し、そのことで牧志を「中使」に立て、かつ「進物」を添えて在番奉行所の役人に働きかけ、薩藩当局へ根回しをした嫌疑を立証することにあった。実際にはその件があかるみに出たのは、鹿児島の琉球館聞役新納太郎左衛門から王府宛ての書翰(問合)に、小禄から市来正右衛門に後任三司官の件で密書(内状)を送り、それが市来から新納に伝達され、新納からの書翰となって王府に伝えられたのである。
結論的に言えば、牧志は小禄の意を受け、折を見て話の形で市来正右衛門らに野村を後押ししてくれるよう頼まれたこと、その際「進物」を持参したことはない、と証言している。
〔語釈〕「世話」=心配。
史料一のI 小禄親方調書 後任三司官の推挙をめぐって小禄に係る嫌疑のもう一つの情報ルートは、やはり鹿児島在番摩文仁親方から出ていた。摩文仁の話として、先記の新納から王府への書翰の内容と同じ情報が、鹿児島で摩文仁から直接聞いたとする飛脚使与儀筑登之親雲上が帰国してもたらしたのである。しかし小禄は、三司官推挙の件で書状を差出したことも、牧志を「中使」にして市来らに働きかけたことも、全くない、と否認し続けた。「中使」の件については、あるいは牧志自身で自分(小禄)の名を借りて密願したこともありうる、としている。ただ、自分(小禄)にかけられた嫌疑を晴らすために、しかるべき手を打たなかったのは自分の注意不足であった、としている。
以上の牧志・小禄の審理経過を踏まえて、平等所役人らの意見(罪状擬定)が提出されている。すなわち、牧志については、たとえばその証言には根拠薄弱であったり、前後矛盾(不束)があったりで信頼できず、また、小禄については、昨年(一八五九)七月以来十二座の「拷問拶指」で責め立てても嫌疑を否認し続けており、これ以上責め立てると失命させるおそれがあり、そのような事態に至ると法の執行者の落度はもちろん、恐れながら国王にもその責任がかかってくる。かりに白状するようなことがあったとしても、「八議」の人をそれだけで重罪に処することはできない。結論として、「疑いの情犯」の罰則を適用し、等を減じて罪科を擬し、落着の運びにしたらどうか、という。
そして最後に「科律」および「先例」の抜粋を提示している。
〔語釈〕「明間」=あきま。隙間、弱点。「座切咄」=その場限りの話。「張合」=対立。「八議」=はちぎ。罪の減免が許される八つの条件があり、それを有する身分や功績のある人物のこと。
史料一のJ 糺明官のメモ〔断片〕 これはその文意からみて史料Iの後半にある平等所役人の罪状擬定に対し不服を唱えた、いわば下げ札のようなものと考えられ、紙片一枚に記され、挟み込まれている。小禄親方の調書に関連するものなので、ひとまずここに置いておく。内容は、三司官選挙の投票結果は国王の前で摂政・三司官によって開票され、票数を記載して国王に示した上、薩摩に伺いを立てる慣例であるのに、恐れ憚りもなく次点者を任命するよう密願するとは、この罪状は(あまりにも重大で) 適用する法律が見つからぬくらいだ、という。証拠をつかむまで拷問を続行すベし、とする徹底糺明派とも称すべき糺明官の一方の意見を代表しているものと見られる。
史料一のK 『科律』等の抜粋
史料一のL 糺明官の意見 この文書はさきの徹底糺明派の意見に対する批判として出されたもの。末尾には仲里按司(朝紀、向允譲、糺明奉行、のち摂政に任じ与那城王子と改称)・与世山親方(糺明奉行) ・森山親雲上(平等之側)・小波津親雲上(同吟味役)の四人の連署である。内容は先記史料Iの後半に付された平等所役人の意見と同巧であり、史料Iで示された見立ての延長線上にある。とりわけ小禄の取調べについて(恩河はすでに死去)、白状しないのは責め方が足りないからとし、「水問」などの「非法の刑具」を用いてでも白状させ、証拠をつかむまで拷問を加重せよ、という意見に、「なんとも納得ゆかぬ事」(何共心得難き儀)と強い不満を述べている。
この文書中で引かれている「与名城書面」および「摩文仁親方・字地原親方書面」は、いま伊江文書の中には見当たらない。ちなみに喜舎場朝賢の『琉球三冤録』によれば、伊江王子(朝直、尚健)は牧志入獄後に加増糺奉行に任じ、摩文仁親方(賢由、夏超群)は小禄入獄後に糺奉行となる。字地原親方も糺奉行。加勢主取世名城里之子親雲上を含めて、伊江王子以下はいわば徹底糺明派を構成する主要メンバーである。糺明する側でも、意見が二つに分かれていたことがわかる。
〔語釈〕「水問」=犯人を梯子に逆吊し水を注ぐ、拷問の一種。「棒〓(金+渡)」=刑具のひとつとみられる。「索元礼・周興・来俊臣」=いずれも唐代の刑官で残忍な性質を備え「酷吏」列伝に名をつらねている(『旧唐書』一八六上、『新唐書』二〇九)。
史料二は大きく二つの文書群から成る。一つは「口問書」(A~D)もう一つは「糺明官意見書」(E~N)である。「口問書」として現在伊江文書に残っているのは、小禄親方(A)、伊志嶺里之子親雲上(B)、牧志親雲上(CおよびD、ただしCには一部分小禄親方の口問が含まれている)の三人についてである。これらの「口問書」はいずれも、おそらく拷問の責め苦にうめきながら供述されたものを記録したものであろう。したがって系統だったものでなく、また、重複部分も多い。記録の内容はほとんど史料一に紹介した「調書」の中に整理され、収録されているので、あらためて全体にわたっての内容紹介は必要ないと思われるので語釈を少しばかり施しておきたい。
史料二のA 小禄親方口問書 *
〔語釈〕「たまかいたる」=びっくりする、驚く。「相中」=えーじゅう。相棒。
*「小禄親方口問書」は後半が欠落している。
史料二のB 伊志嶺里之子親雲上口問書
〔語釈〕「御ましよん之事」=いらっしゃった。一緒におられた。
史料二のC 小禄親方・牧志親雲上口問書 *
*巻物表紙には朱で「糺官意見書」と題されているが、内容に即してここでは見出しのようにしておく。
史料二のD 牧志親雲上口問書
〔語釈〕「ゆるひ之前」=意味不明。
牧志の「口問書」にはいくつかの注目される点があるので、そのことに若干ふれておきたい。
その第一は、この「口問書」の随所に何度も出てくる供述であるが、諏訪数馬(在番奉行)宅における酒席で、次期三司官(座喜味三司官の後任)の選任に関して話題となっていることである。その酒席には、琉球側からは玉川王子・池城親方(三司官)・小禄親方(三司官)・伊是名親方・恩河親方(物奉行)・宮平親方が顔をつらね、薩摩側からは諏訪数馬の外、岩元〔下〕清蔵・園田仁右衛門・柳田正太郎・大窪八太郎、といったおそらく在番奉行配下の面々が列席している。その席で池城親方が諏訪に向って、「野村は札数は劣っているが人柄がよいので、今度の三司官はぜひ野村を推挙せられたい」というと、そばから小禄が「票数次第でなくてはまずい」、とちょっかいを出すと、すかさず池城は「山芋掘て」とたしなめているくだりである。「山芋を掘る」とは、「酒席でクダを巻く」という意味の薩摩語だという。*
*「山芋を掘る」という意味がどうしてもわからず、あるいは首里か那覇あたりの古語かと思い、古老をはじめ、いろいろの方々に尋ねてまわったが、まったく見当がつかないという返事がかえってきた。のち照屋善彦教授から、佐藤雅美著『薩摩藩経済官僚』(講談社文庫、一九八九年六月)に次のような記述のあることをご教示いただいた。「山芋を掘るという。酒席などで管を巻くという意味の薩摩言葉だ。調所は朝から晩まで口やかましく部下を叱りつけた。まるで山芋を掘っているようだと、部下は陰口をきいた。陰口を耳にしながら、調所は毎日『山芋を掘り』つづけた。」(同書、二二五頁)
牧志がその「口問書」の随所で、つまり何回もの訊問を受けるたびに、同じことを供述しているのであるが、これが事実であるとすれば、たとえ酒席とはいえ、次期三司官に次点者の野村親方を在番奉行に向って推挙したのは小禄でなく、池城であったということになる。しかし小禄がそのこととの関連で、獄門に繋がれたのに、池城はまるで無傷である。
もう一つ、この酒席に列席している伊是名親方のことである。たとえば牧志の「口問書」の同じ日付(未十二月二十四日、同日)に、すでに紹介したことだが、「小禄より潮平へ、私ゆえに伊是名・牧志等へも相かかわらせ、気の毒」、とあって、野村と伊是名が入れかわっている。というより野村と伊是名は同一人物である可能性がある。領地の変更で改姓したのかもしれない。後考を待つ。
また、申五月八日(同日)の供述で牧志は、自分が小禄の名を借りて密願(内意) した事実はまったくない、と否定している。
史料二のE~Nは断片も含めてかりに「糺明官意見書」としておく。
史料二のE 糺明官意見書(一) これは後任三司官選任をめぐって在番奉行諏訪数馬宅での野村を推挙した話を中心に、糺明役人の審理経過を記録したものであるが、とくに末尾のところで、牧志の供述(晴目)には辻褄の合わない所があり、それを補強しうる別の確かな証拠固めができないうちは、「池城へ手をつけ候儀まかり成るまじく」とあって、池城親方へも捜査の手が伸びようとしていることをうかがわせる。
〔語釈〕「まじゆうん」=一緒に。「かつミらる」=つかまえられる、逮捕される。「現当」=ジントウと読んで本当に、まことに、という意味であろう。「いやゑまづ」=何はさておき、なんとまあ、くらいの意。「あんたへ」=彼らに。あの連中に。「肝と肝のちやあひ」=心と心が通い合う、以心伝心。
史料二のF 糺明官意見書(二) これは「六月」とあるだけだが、おそらく一八六〇年(万延元、咸豊一〇)の六月であろう。署名人は徹底糺明派の伊江王子・摩文仁親方・字地原親方、それに本文中に出る与名城里之子親雲上である。刑罰は所犯相当に課すのが本筋であるから、「役人共」が主張しているように「疑の情犯」をもってあいまいに処理するのでなく、犯罪を立証する白状または証拠を得るまで、とことんしめあげる必要がある、というのである。この文書は、前後することになるが、前出史料一のL「糺明官の意見」の中で批判の槍玉にあがった文書と連動するものであろう。
史料二のG 糺明官意見書(三) これもFと同様「疑の情犯」で処理することに反対し、伊志嶺里之子親雲上の「口問書」に沿って治罪すベきだ、とする。
〔語釈〕「一方」=小禄のこと。「張通し」=くいちがい。
史料二のH 糺明官意見書(四) この文書はここに紹介した一連の記録の中で、年月が明記された最下限のもので、一八六〇年(万延元、咸豊一〇)九月、とある。内容は、糺明する側の見解が二つに分かれ、収拾困難な事態に至っているのを憂慮し、「双方」が協力して、早々に決着をつけよ、という国王の意向を伝える文書である。
〔語釈〕「打組」=一緒になる、合同。
史料二のI~Nは糺明官意見書の断片を一応独立させて掲げた。
二 「事件」の真相について
(一)「事件」の構図
この「事件」には謎が多すぎる。
第一、三司官選挙をめぐる問題。選挙結果は、最多得票者が与那原親方良恭(馬朝棟)、次点が野村親方(『琉球三冤録』では伊是名親方朝宣とある)、一票の得票しかなく最下位だったのが翁長親方朝長(のちの譜久山親方朝典、向汝礪)、の順であった。ところが、最多得票者の与那原は退けられ、小禄や牧志が選任運動をしたとして嫌疑を受けることになった当の人物は野村親方であり、最終的に薩摩が次期三司官として白羽の矢を立てたのが、最下位者の翁長親方である。一体どういうからくりになっているのか、理解に苦しむ。『琉球三冤録』の著者が、薩摩による座喜味三司官の追放、その後任選挙における多数票者たる与那原の排除、について「古来未曾有にして、朝野恟々怪訝(けげん)驚愕せざるはなし」、と評したのもうなずける。
第二、同じく三司官選任に関連して、牧志の証言によれば、三司官選挙がすんで二、三日後、諏訪数馬宅で酒宴が聞かれ、その席で諏訪に向って野村を推挙したのは池城親方(三司官)であり、それを側から小禄がたしなめたことになっている。野村を次期三司官に推挙したことに関連して、小禄が嫌疑をかけられ、逮捕・投獄されて、拷問を受けていたのに、なぜか池城に及んでいない(もっとも池城にまで捜査の手が伸びようとしていたことは前述)。
第三、この「事件」では、とりわけ小禄親方の取調べにあたっては、牧志の証言がしばしば引合いに出された。この「事件」では牧志がそのつど「自白」しているが、時に首尾に一貫性を欠くところがある。取調べをする側も、ある部分で前後矛盾する牧志の供述に不信の念を表明している。牧志じしんが自分の証言について、月日が経過しているうちに、思い違いや過不足があったことを認めている。それはともかく、牧志はなぜ次々「自白」したのか。『琉球三冤録』の著者は獄中での牧志について、「此時牧志は糺問を受くる毎に歴々白状を為し、幾多の拷問を免れたり」と述べている。拷問の苦痛を恐れて白状した、と。その証言にどれほどの真実が含まれていたのか、いなかったのか、それこそ不明であるが、かれの証言によって小禄が窮地に追い込まれ、さんざんしぼり上げられたことはたしかだ。牧志は脱獄を決行して帰家したことがあったらしい。最後は薩摩の手によって結果的には出獄を許され、鹿児島へ連行されるのだが、伊平屋島の沖合を航行中、海中に身を投じて死んだ、とされる。牧志はなぜ「自殺」したのか。「自殺」しなければならない理由があったとすれば、それは何か。それは歴史の暗い海の中に閉ざされたままである。
第四、すでに東恩納寛惇が『尚泰侯実録』の中で指摘していることであるが、この「事件」では本来証人に立つべき摩文仁親方(賢由、夏超群)および宜野湾親方(朝保、向有恒)が、審理の途中から糺明奉行に加わり、裁く側にまわっていることである。在番として鹿児島にいた摩文仁は、小禄が琉球館聞役新納太郎左衛門に「三司官内意の書状」を送った、という情報を王府へもたらし、また、宜野湾も鹿児島にいて、恩河が三司官座喜味を誹謗・讒訴したという情報をもたらした人物であり、いずれもいうならば「事件」の火つけ役でもある。この二人が「糺奉行」に加えられた理由を東恩納は、「恩河等百方苦楚を加へ糺明するも、罪に服せざるを以、此の二人を加へて弾正の任に当らしめたるなり」としている(同書、二三九頁)。要するに、あくまで恩河らに罪状を認めさせるために、二人を糺明奉行に加えたというのであるが、証人に立つべき人物を裁く側にまわしてまで、「糺明」を続行しようとしているのは、明らかに常識的なルールを逸脱した政治裁判である。そうしてまで「糺明」しなければならなかった理由は奈辺にあったか。
第五、この「事件」では、嫌疑を立証する証拠が何一つあがっていない。恩河親方に係る座喜味誹謗の「落書」にしろ、鹿児島における讒訴にしろ、また、小禄親方に係る「三司官内意の書状」にしろ、その他、うらづける証拠証跡は何もない。あるのはただ牧志の供述と、聞役新納太郎左衛門からの照会(問合)、および摩文仁や宜野湾がもたらした情報だけであり、これとても所詮「風聞」にしか過ぎない。証拠がなければ罪の確定はできない。これは裁判の鉄則であろう。「自白」に追い込んで「証拠」を引き出すために拷問がくり返されたのだが、恩河も小禄も、その責め苦に耐えて罪状を否認し続けている。糺明する側でも「事件」をいかに終結させるかで意見が二つに割れた。徹底糺明を主張するグループと、「疑の情犯」(「罪の疑わしきは軽きに従う」)の原則を適用して、穏便に落着させようとするグループと。この両者の間には大きな隔たりがあり、妥協の余地は見出せない状況にあったと推測される。裁く側のこの分裂の背後には何があるのか。
第六、この「事件」は屢述のごとく、恩河・小禄・牧志の三人が、いずれも現職を解かれ、ついで逮捕・投獄され、拷問のもとで取調べが続けられている。かれらは、なぜ裁かれなければならなかったのか。三人に係る嫌疑の背後には、共通に薩摩の権力(その出張機関が在番奉行所)が控えている。そのいわばエイジェントの役回りを演じたのが牧志であり、恩河であり、小禄もまたそう目された。つまり、蒸気船購入などの対外問題から、座喜味三司官の追い落とし、はては国王廃立の陰謀などの国内問題まで、かれら三人があらかじめ薩摩と示し合わせて計画したものであると見られたのである。ただし、この「事件」の糺明の過程では、表向き薩摩の諸施策の是非を正面に据えた議論は展開されず、もっぱらその代行者たる牧志らを叩くかたちで事態は進行している。
牧志・恩河事件後の王府内には、おそらく薩摩との関係維持に、ある種の気まずさ、不信感、警戒心がつきまとったものと想像される。島津斉彬の進取的政策を継承したと想定しうる明治政府のもとで、初めての慶賀使としてその正・副使に選ばれ、国王尚泰に代り「藩王」宣下の詔勅を拝領することになったのが、牧志・恩河事件での糺明奉行で、しかも徹底糺明を主張した伊江王子朝直(尚健)と宜野湾親方朝保(向有恒)であったこと、そして頑固派から「売国奴」と罵られることになったのも、歴史の皮肉というべきか。
最後に第七、薩摩の動向も大いに気になるところである。もともとこの「事件」の震源地は鹿児島である。斉彬は市来を渡琉させるにあたって直筆の書翰(安政五年正月廿日付)を与え、その中で「三司官どもの善悪を船ごとに申遣わすべく候こと」といい、また、座喜味三司官の追放を命じたのだった(「石室秘稿抄書」『史料稿本』。いま『那覇市史』資料篇第二巻中の四所収 七九頁)。
それにしても、鹿児島において座喜味を誹謗した廉で恩河を陥れる口実をつくったのが、琉球館聞役・新納太郎左衛門の王府あての書翰(問合)であった。その新納は、かつて摩文仁親方・恩河親方を「磯御茶屋」に案内し、藩主斉彬と面談させたことがあった。おそらく斉彬路線を支持する立場にいたものと見られる。その新納が、なぜ恩河や、また小禄・牧志を陥れる策謀に荷担する行動をとったのか。しかもその新納は、「事件」後も(つまり斉彬死後も)依然としてもとの琉球館聞役の地位にいる。
牧志・恩河にしても、また小禄にしても、もとはといえば職務上、薩摩の政策に協力し、推進する立場にあり、そのことが裏目に出て今回の「事件」の最大の犠牲者に祭り上げられたのであるが、三人が投獄され、拷問のもとで悶絶しようとしているとき、薩摩はかれらのために何一つ手を打とうとしていない。
なによりも奇怪なことは、禁獄中の牧志を、獄吏や他の王府役人をだます形で、公然と連れ出し、駕籠で在番奉行所へ運んでいることである。表向き、牧志を通事として薩摩で使いたい、というのがその理由である。王府はあわてて、異国通事としてならば、牧志ではく長堂里之子親雲上に代えたい、と長堂を伴って宜野湾親方が鹿児島まで出かけて歎願に及んだのであるが、先述のように牧志は鹿児島へ向けて航行中の船から海中に身を投じたため、その問題はこれで沙汰止みとなる。
牧志「救出」作戦ともいうべきこの薩摩の謀略の真のねらいは何だったのか。牧志はいわば斉彬路線からはみ出して、必要以上に外国人と私交しているフシがある、とみられた(同上書、九三頁)。つまり、薩摩はそのことを直接確かめるためにも牧志を鹿児島へ呼びつけるとしているのだが、あるいは牧志が存命していることで、薩摩の側に、たとえば市来や新納などに累が及ぶのを恐れて、殺害されたという推測も成り立つ。
それにしても、この「事件」は琉球王国が薩摩に対してどのような存在であったか、その地位のはかなさを否応なく見せつけた数々の出来事で満たされている。
(二)喜舎場朝賢著『琉球三冤録』にふれて
喜舎場朝賢の『琉球三冤録』(以下、『三冤録』と略称)は、書名が示す
ように、恩河・小禄・牧志三人の冤罪(無実の罪)を晴らすべく書かれたものであろう。ただ、明確な執筆意図および執筆年代は不明であるが、一九〇〇年(明治三三)十月に牧志親雲上朝忠の次男朝昭の依頼で、「亡父牧志朝忠復禄の儀に付請願」書を起草し、関係書類等を添えて沖縄県庁に提出の段取りをしていることに鑑みると*、同じ頃か、あるいはその前後のある時期に書かれたものであるのかもしれない。
*「請願」書と関係書類は、いま喜舎場朝賢の『東汀随筆 続編』第一回に収録されている。
牧志・恩河事件を真正面から取り上げた著述としては、本書に勝るものを私は知らない。分量にすれば四〇〇字詰原稿用紙の三五枚位だが、「事件」の発端から審理の経緯、判決に至るディテールが看取できる。本書を書くに当って喜舎場はここに紹介した「牧志恩河一件調書」および同じく「口問書」を十分利用したものと思われる。また、この「調書」や「口問書」の記述には出ていない事実関係も織り込まれており、何よりも三人の冤罪を確信し、その無念を哀惜する脈動さえ伝わってくる著述である。いまその中から、ここで紹介した史料からはおぼろげにしか見えてこないいくつかの点を取り出し、「事件」の経緯を理解する手がかりにしたい。
何よりも「事件」の発端についてである。これまで述べてきたことと多少重複する所もあるが、この点に関する『三冤録』の記述を引いてみよう。
当時、摩文仁親方賢由なるもの、在番官と為りて鹿児島に駐在す(在番は今の外国領事官の如し)。新納氏即ち座喜味の非行を恩河に探問せし顛末、及び座喜味の後任上申の際、小禄三司官が陰に薩官へ賄賂を贈り、次票者なる伊是名に命ぜられんことを密願したことあり、と語る。摩文仁之を聞き大に憤懣したり。適々幕府将軍継統を奉賀するの正使伊江王子尚健、副使与那原親方良恭、鹿児島に渡来するに遇ふ。伊江・与那原の旅館に来るや否や、摩文仁迎えて伊江の手を執り、啼泣して以て新納氏が語りし小禄・恩河の事を逐一吹聴したり。伊江等は事の意外に出でたるを驚き、此事重大に関するなれば、我等帰国の後、新納氏一己の署名の封書を以て球庁に報知せしむるを約したり。凡そ球庁へ報知の文書は、聞役と在番と両人連署する規定なるも、此事隠秘に属するを以て、聞役一己の署名を要するなり。(『琉球見聞録』と合本、一五七-五八頁)
要するに、恩河の座喜味誹謗、および小禄の三司官選挙にからむ贈賄・密願、この二つの情報が聞役の新納から摩文仁に伝えられ、摩文仁はそのことを当時鹿児島に来ていた伊江王子と与那原親方に話し、さらにそのことを新納の署名入りの書状で琉球王府へ知らせる、という手はずが整ったのである。新納の書状(問合)は、一八五九年(安政六、咸豊九)三月下旬、「唐の首尾使者」として鹿児島に派遣されていた宜野湾親方朝保によってもたらされ、王府へ提出された。同じ頃、飛脚使としての任務を終えて鹿児島から帰国したばかりの与儀筑登之親雲上からも、摩文仁が鹿児島で小禄を誹謗したという情報が直接小禄に伝えられたが、小禄は意に介しなかったようだ。こうして「事件」の導火線に点火された。
恩河と摩文仁は仲が悪かったらしい。
その辺の事情について、『三冤録』は次のようなエピソードを伝えている。
摩文仁・恩河曾て薩公の席上に在り、公、床上の支那地図に対し、摩文仁に問ふ。「シンコウ」の路は何よりすと。摩文仁答ふること能はず。「シンコウ」は進貢なり。球人支那音を通用し「チンクン」と言ふ。故に摩文仁之を暁らず。恩河傍より、福州より入りて浙江・蘇州・山東を過ぐ、と図を指して答ふ。摩文仁靦然慙を抱く。他日、公、子を生む。両人を招宴す。恩河祝詩を呈す、吐囑最も雅潔、公の欣賞を受く。摩文仁学なし、亦深く慙づ。故に深隙を為す。(同書、一六九頁)
二人が新納に伴われて「磯御茶屋」を訪れ、太守(薩藩主島津斉彬)と面談していることは『異国日記』にも見える(『史料稿本』安政四年八月廿九日 いま『那覇市史』資料篇第二巻中の4、七三頁)。斉彬の前で「学がない」ゆえに摩文仁は二度も恥をかかされた形となって、内心恩河を妬んだにちがいない。上の記事にすく続けて『三冤録』の著者は、「新納氏が告発も、焉(な)んぞ知らん、之を嚼(かま)すに重貨を以てするの教唆に非らざることを(世人之を疑ふもの実に尠らず)」、とコメントを付している。つまり、摩文仁が新納に対し賄賂を使ってそそのかし、恩河・小禄を陥れる書状を書かせたにちがいない、世間ではそう取り沙汰しているものは実に多い、というのである。
摩文仁にはさらに疑わしい事跡があった、と『三冤録』の著者は別のエピソードを伝えている。すなわち、摩文仁は恩河が獄で取調べを受けているさなかに、首里士族花城某なる「無頼漢」を使って、恩河による座喜味讒訴を言いふらせた形跡がある、というものである。平等所大屋子(取調役人)が花城を呼出し糺問したところ、自分が捏造した誣言であることを自白するに至った。『三冤録』の著者は、花城は「常に摩文仁に親近」していたとして、その行為を大屋子らの感想を引きながら次のように述べている。「大屋子等謂ふ、是れ真の狂漢なりと。是れ幾乎(ほと)んど摩文仁が教唆したるに非ずやと疑ふのみならず、頗る認むべき事迹もありと雖も、上席の人を繋連せしむるを憚り、之を置きて問はず其まゝ之を放免したり」と(同書、一六四頁)。
もう一つ、本書は三人の冤罪をそそぐために書かれた。先記のように著者にはこれとは別に、遺族の依頼で牧志朝忠の名誉回復のための請願書を起草している。本書でも、牧志が一時脱獄して家に逃げ帰った際、家人に与えた遺書に、「我れ未だ曾て小禄の囑を受けて三司官選挙干渉せしことなし。今之を承認したるは一時の権を用ひたり」とあるのを紹介し、「栲問の残酷に耐へず」、「一時の苦楚を免るゝ」ために、「自白」したのであろう、としている。さらに牧志の獄中での心境を詠んだ詩に、「奸計流言世を惑わすこと頻り、端無くして乱を唱え良人を陥らす。是非黒白誰かよく弁ぜん、只だ蒼天を呼びて涙巾を湿す」とあるのを紹介し、「牧志の心事、察するに余りあり」としている。そして「牧志は固より罪なし。其遺書遺吟、及び小禄の自首せざるに徴して明亮なり」と判定している。
その小禄について最後に触れなければならない。小禄の人柄について『三冤録』の著者は、「豪爽濶達、酒を嗜み放誕にして、胸中城府を設けず」と評している。胸中城府を設けず、とは、誰とでも胸襟を聞いてつきあう、という意味であろう。その小禄が免職、ついで投獄された年月日のところに、こう記されている。
同年(一八五九)五月九日、小禄三司官を免職す。此日天曇り地震三回す。
同年七月十八日、小禄三司官を獄に下す。此日地震数回、大雨盆を傾くるが如し。
また、「伊江島照太寺へ五百日の寺預」の判決の記事にすぐ続けて、小禄は満腔の悲憤に堪ゆべからずと雖も、訟訴上告を為すべき所なく、冤を含み屈を呑んで伊江島へ渡航して処分を受たり。
それらの記述には、『三冤録』の著者の小禄に対する痛惜の念というか、哀感がにじみ出ているように思う。天も怒り、地も哭す、小禄の無実は天地がお見通しだ、と言わんばかりである。
ついでに付言すれば、この「事件」の中心人物は牧志親雲上朝忠・恩河親方朝恒・小禄親方良忠の三人である。したがって「事件」名も「牧志・恩河・小禄事件」とでも呼びそうであるが、後世には「牧志・恩河事件」と通称されている。「牧志・恩河・小禄事件」でなく、「牧志・恩河事件」と呼びならわしてきたのには、それなりの理由がありそうである。結論的に私見を言わせていただくと、小禄はまったくの無実であり、その冤罪を痛惜する当時の人士の同情が、「事件」にかれの名を冠することを意識的に避けさせたのではないか、ということである。
むろん、他の二人についても、冤罪の色が濃厚であり、喜舎場朝賢があえて『三冤録』を著わしたのも、三人に着せられた冤罪を嗅ぎつけ、それを雪ぎたかったからにほかならない。『三冤録』の著者の小禄に寄せる感懐は、なかでも格別であり、それはまた当時の大方のそれでもあったのではないか。せめて「事件」の呼び名から小禄を外すことによって、裁いた側に痛棒を加えた、と見られないだろうか。*
*拙稿「牧志・恩河事件」(『那覇市史』通史篇・前近代、所収)参照。
以上、伊江文書として残る牧志・恩河事件関係の記録を紹介し、あわせてこの「事件」について若干私見を交えて「解説」を試みた。ここに紹介した諸文書は、この「事件」に関する根本史料であるが、残念ながらおそらくその一部分にしか過ぎない。
たとえば、「小禄親方口問書」(史料二のA) は中途で切れていて、明らかに後半が欠落していることがわかる。「小禄親方調書」(史料一のI)によれば、小禄に対して「拷問拶指都合十二座責扱」とあって、かりに「座」が「回」という意味であれば、小禄は十二回の拷問を受けたことになる。拷問のもとで「口問」(供述)が筆記されたと想定すれば、先の小禄の口問書には八月四日から十一月五日までの間の六回の記録が残っているから、あと六回分の記録が欠落していることになろう。
同じように言えば、恩河に対しては「拷問拶指かわるがわるこれまですべての尋問に十六座責扱」とあり(史料一のA)、そのつど「口問」(供述)が筆記されたと考えられるが、恩河に関しては「口問書」が見つかっていない。
また、すでに指摘しておいたことであるが、「糺明官の意見」(史料一のL) で批判の対象に据えられている徹底糺明派の意見である「与名城書面」および「摩文仁親方・字地原親方書面」を今見ることはできない。さらにいえば、この「事件」に対する判決文が残っていない。*
*判決の内容を伝える文書として、たとえば次のようなものがある。
「小禄親方、恩河親方、牧志親雲上等一件糺明相懸、去年(万延元=一八六〇)十二月罪分御議定相成、牧志は三司官致内意候不届付、八重山嶋江十年流刑、小禄親方にも三司官為致内意段牧志申出候得共、小禄には右様の儀曾て無之、兎角牧志より小禄名を仮り為致内意積と申出、夫々張合相成、外ニ引当可相成証拠証跡無之付、疑の情犯を以照泰寺江五百日寺入被仰付、恩河は座喜味親方一件何方の尋にても、不有之事は屹と可弁取の処、其儀無之ニ付、久米島江六年流刑の筈候得共、死後故御沙汰無にて、位取揚被仰付、且又下儀保村次男花城里之子親雲上には、自分の名目宜敷相成と、大臣等江相懸大事の虚説申触候不届付、渡名喜嶋江三年流刑被仰付置候、為心得申越候間、若御役人衆より御尋共候はゝ、右の跡を以可被申上候、此段致問合候、以上」(文久元年正月十日 三司官与那原親方・池城親方・譜久山親方より鹿児島在番安村親方宛て照会。『史料稿本』、いま『那覇市史』資料篇第二巻中の4 九一頁)。
ちなみに『琉球三冤録』によって、「判決」の内容を若干補足すると次のようになる。
①恩河親方=久米島へ六年間の流刑(ただし、恩河は一八六〇年閏三月十二日獄中で死去。『三冤録』では恩河に対する刑の宣告はその前年の十二月三十日とする。久米島への船便がないため獄中に留置されているうちに、疲労困憊がもとで重病となり死去したとする)。
②小禄親方=伊江島照泰寺へ五〇〇日の寺預け(寺入ともいう。小禄に対する宣告は一八六〇年十二月)。
③牧志親雲上=久米島へ十年間の流刑。ただし薩摩へ逃走のおそれありとして、終身禁獄とする。(のち一八六二年薩藩の命で保釈の上、鹿児島へ連れ去られる途中、七月十九日、伊平屋島沖で海中に投身自殺と伝う)。
このように、ここに紹介した史料は「事件」の全容を解明するには、不備なものであるが、「事件」の輪郭はこれによってほぼ明らかにしうるのではないかと思う。今後さらに琉球側の関連史料の発掘はもちろんのこと、薩摩側の記録の中からも関係記事を見つける努力が必要であろう。たとえば、『鹿児島県史』第三巻(一八二頁)に、安政五年(一八五八)二月廿九日付の島津斉彬から島津久宝宛の書翰が写真版で収録されており、文字が小さくて判読しにくいが、それでも「座喜味事も病気ニ而退役願出シ申候、代り野村と翁長両人之内ニ可申付、しかし此節者人柄第一ニ候間、当時取調中ニ御座候」と読める*。三司官座喜味の退役、その後任者の選定のことが、薩摩の内部で、しかもそのトップのところでの関心事として浮上していた事実をこの記録は伝えている。
*もっともこの記事は、鹿児島県維新史料編さん所編『鹿児島県史料』斉彬公史料 第三巻(昭和五八年一月刊、五二頁)にも収録されている。
この史料を紹介させていただくにあたっては、沖縄県立図書館の宮城保氏には種々便宜をはかっていただいた。また、金城功副館長および安仁屋以都子氏には史料解読の上で貴重なご教示をいただいた。この場をかりて御礼を申し上げたい。また、かなりのページ数を割いて本史料を紹介する場を与えていただいた『歴代宝案研究』編集子に感謝したい。
【史料紹介】 伊江文書 牧志・恩河事件の記録
史料一 牧志恩河一件調書
A 恩河親方調書
恩河親方事去巳年上国之節聞役新納太郎左衛門殿江申候者三司官座喜味親方事当時
国王様御幼年王子衆ニ茂御若輩余之三司官茂新役勝故座喜味一分権威を振ひ一統歯をかミ居候就而者御国元よ里御沙汰共御座候ハヽ別而仕合之御事候間太郎左衛門殿ニ而御役人衆江通し上候様取計度段申ニ付座喜味夫程之人躰与者見及無之候処其通候哉得与相考何分可仕段致返答至極不審ニ存摩文仁親方江恩河人躰之様子相尋候処都而之嗜者宜相見得候得共何歟実意立兼候儀共有之哉ニ見受居候段承其後恩河相逢先達而承候座喜味親方一件者太郎左衛門殿職分ニ而無之御役人衆江通し上候儀断之段申入候処夫よ里山田壮右衛門殿御宅度々致出入模様相見得兎角右一件讒言為致積其外恩河仕向不宜儀共太郎左衛門殿問合并冝野湾親方委曲申含越且右一件嘉味田親方よ里茂問合有之諸官御吟味之上及
言上糺方被仰付問届候次第左之通
恩河親方
右問届候処申披候者去巳年六月帰唐船逢災殃返上物打捨候御断并竿銅申請等之御使者被仰付八月七日那覇川出帆同廿九日前之濱上着早速よ里御用筋取付聞役同伴豊後殿御宅参上御玄喚江扣居候時聞役よ里座喜味親方事大和よ里売物積下候得者態々焼酎垂方禁止申付積帰させ且砂糖萩(ママ)敷取細メ百姓為及迷惑且諸士せり詰為及難儀候段御聞通相成候間実成申聞候様尋有之飢饉ニ付而者無是非焼酎垂方禁止申付候節茂有之萩(ママ)敷手広相成候而者杣山之不為相成蔵方難渋ニ付而者余計之費取細候向ニ而態々諸士為及迷惑候儀ニ而者無之段致返答追而豊後殿逢上罷帰其後聞役自身詰宿江参座之印与相認候書付手前ニ持ち一方ニ而見候而申候者先日相尋候座喜味一件兼而上国之異国方役々よ里茂委曲御聞通相成館内江茂御聞合相成居候間無遠慮申聞候様尋有之候処大臣之事御尋者御免可被下抔与申先日同様之返答形ニ而申迦其後聞役宿江参居候時先達而相尋候座喜味一件者一朝一夕之故ニ而も無之兼而よ里細々御聞通相成居候付恩河致上国讒言為致筋ニ而者曽而無之候間何れ有筋申述候様ニ与申返す/\右之三事尋ニ付座喜味与者兼々中茂悪敷有之終ニ尋ニ応し大和よ里売物積下候得者焼酎垂方禁止申付積帰させ且萩(ママ)敷取細メ百姓為及迷惑且諸士せり詰及難儀居候次第弥尋之通不相替段致返答其以来何分沙汰無之且聞役同伴ニ而摩文仁親方一同山田壮右衛門殿御宅江参竿銅申請之御訴訟相済候御礼申上恩河ニ者園田仁右衛門殿よ里之伝言申上度申上候付摩文仁聞役者先達而罷帰右伝言之趣者仁右衛門殿事琉人多人数致取合候付而者逢讒候儀茂難計是者段々被頼懸屹与断茂不罷成致付合事候得共御故障筋可相成儀者曾而仕出不申候間御懸念被成間敷尤長々之滞在暮兼居候間早々帰帆之方御取計被下度趣申上候付弥讒茂為有之事候仁右衛門殿ニ者産物係抔江勤通之思召候処帰帆を願居候哉与被申候付兎角願望之筈ニ者候得共長々之滞在故中渡之上重而罷下候儀を奉願筈与申上候付被聞召置候段被仰聞済而座喜味一件最初聞役江為致返答事々者先達而聞役よ里為通半何分御尋無之異国一件固滞いたし候段御聞及之由御尋付成程かたまり候段為相答由申出候付座喜味親方讒害之儀上国之上恩河よ里起して聞役江為申聞積且恩河家内よ里取揚置候書付之内壮右衛門殿返札ニ人々不取寄様ニ与之趣致承知候段相見得候上者異国一件茂自分よ里取起し右外ニ茂段々為申立積且座喜味を讒し候儀恩河一身之所行ニ而者無之前廉御当地ニ而人数組合仮屋方江貫キ御側向江讒状差遣させ上国之上聞役よ里之尋者右讒状を以糺合形ニ而可有之実成申出候様段々問詰拷問拶指引替是迄都而之尋ニ十六座責扱致穿鑿候得共聞役よ里尋之砌茂最初者申迦り終尋ニ応し致返答且壮右衛門殿江茂仁右衛門殿伝言又者逢尋為申上事茂前文通不相替兼而よ里人数組合仮屋方江貫キ座喜味讒害為致儀曽而無之旨申出居候処恩河事当三月末比よ里根気不足相成段々致養生候得共其詮無之漸々気分相癈当閏三月十二日相果申候
附
一牧志申出候者欝金一件之御訴訟書面迄ニ而者相済申間敷恩河御訴訟御使者ニ而上国之方ニ摂政三司官衆江申上呉候様恩河よ里正右衛門殿江頼有之且座喜味親方一件正右衛門殿太郎左衛門殿江色々讒し及
御聞被蒙
御不恭候処右一件正右衛門殿江恩河ニ者大臣之事御尋者御免被下度聞役等江申迦り此段御聞通ニ而
御感心為有之段於琉球相咄呉り候様頼有之最初者牧志等江茂其通咄承居候処実ニ讒害為仕筋後以正右衛門殿よ里承り尤右御訴訟御使者摂政三司官衆江申上呉候様ニ与之段者牧志居合之上ニ茂正右衛門殿江頼入候を承右式大臣之事御尋者御免被下度為申迦段者咄承此段者序次第御座江茂申上呉候様恩河よ里為申由牧志申出候付恩河問届候処去々年御物奉行被仰付欝金一件御訴訟之書付譜久山殿内那覇宿ニ而正右衛門殿入内見候折正右衛門殿よ里右御訴訟御使者恩河差登候様譜久山殿内江申上候者恩河ニ茂居合之上為承事候得共恩河よ里右御使者正右衛門殿ニ而摂政三司官衆江申上呉候様為頼入儀者無之且座喜味殿内一件実者致讒害於琉球ニ者大臣之事御尋者御免被下度為申迦形ニ相咄呉候様正右衛門殿江為頼入儀も無之正右衛門殿事磯御呼之時初而相逢聞役江茂釣合之上一度砂糖焼酎持参ニ而見廻ニ参り候処不相逢一度者聞役一同詰仮屋江相催夫よ里同船ニ而罷下船中ニ而者何之沙汰茂無之候処去巳十一月ニ而茂為有之候哉恩河結願之為山原江差越罷登候後正右衛門殿相逢候折咄之趣者壮右衛門殿太郎左衛門殿よ里座喜味殿内一件尋之趣すりぬけ/\ニ而不申上段者
御聞通相成
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一恩河親方上国之節故座喜味親方讒害一件太郎左衛門殿問合ニ者本文口書之通太郎左衛門殿江差向讒したる趣意相見得恩河相糺候得者太郎左衛門殿よ里及三度逢尋問終ニ彼尋之事々弥其通与為致返答由ニ而太郎左衛門殿問合与者相わくミ候処恩河上国前座喜味親方一件館内江茂御尋為有之事候得共弁取何之御沙汰茂無之候を恩河上国仕候付又々為取起次第ニ而前廉恩河等よ里人数組合仮屋方江貫キ御側方江讒状差遣さセ恩河上国之上者糺合形ニ而可有之与摩文仁親方被申候付此所段々責扱致穿鑿候得共右様之儀毛頭無之段達而申出候恩河上国仕起して致讒害候与太郎左衛門殿依尋致返答候与者張本従者之差分相出来且嘉味田親方茂太郎左衛門殿よ里聞取之事々問合仕置候処彼問合ニ先嶋江拝借銭之内為分取段相見得候処御物奉行方相尋候得者先嶋江拝借銭恩河為分取儀無之段承太郎左衛門殿問合并同人よ里嘉味田江通達之内ニ茂都合不致儀差見得申候
B 恩河親方奉公人等調書
故恩河親方奉公大中村次男当歳二十八 仲村渠筑登之
同人供金城村嫡子当歳二十一 賀数子
同人供渡地村次男当歳二十二 我如古仁屋
恩河里之子乳母当歳四十六 つら
下儀保村嫡子豊平子母当歳三十五百姓素立 なへ
故恩河親方娘乳母当歳四十一 まか
右者去辰年末比恩河親方宅江人々相揃何歟密事を為談哉宮仕茂女共為仕由且恩河御役御免之後彼宅江大名方為致出入由且去年三月冝野湾親方大和よ里帰帆陸通之砌大名方之様成者三人晩方酔狂躰ニ而恩河経塚之屋取よ里出為申由右旁之風聞為穿鑿右面々牢込を以人別問届仲村渠ニ者恩河大和ニ而之挙動をも問届候処仲村渠事去辰年八月よ里恩河親方奉公仕一ヶ月ニ六升飯米被相与昼夜詰込嫡子恩河里之子読書相教去巳年恩河御使者勤之時日帳方ニ而一同上国仕親方ニ者山田壮右衛門殿なと御取合三四度彼御宅参上其内一度者園田仁右衛門殿伝言申上候間他人抔御取寄不被成様ニ与之趣意等書付手紙仲村渠相認差遣候処弥其心得之段返札為有之儀者存候得共座喜味親方一件恩河よ里為承儀一切無之且恩河御奉公留被仰付候以後恩河宅江大名方被罷出候儀茂無之段申出且つら申披候者恩河親方御客来之節者供之者共よ里宮仕相勤いつにても女共為致宮仕儀者無之且恩河御奉公留以後由緒方并奉公人共者彼宅被罷出右外者伊志嶺里之子親雲上糸嶺親雲上親方従妹之夫仲村渠親雲上各一度者見廻ニ被罷出候処大名方恩河宅為致出入儀無之御奉公留以後屋取江恩河為参儀茂無之段申出余之面々ニ茂問届口柄不相替申出候処偽を搆候儀茂可有之与仲村渠井なへニ者拷問等申付候得共右申出通不相替旨達而申出右面々越度之稜無之候間御沙汰なしニ可被仰付候
C 恩河親方与力伊志嶺里之子親雲上調書
赤平村嫡子当歳四十七 伊志嶺里之子親雲上
右者恩河親方与力ニ而上国之時大和ニ而恩河よ里座喜味親方讒害一件為存知積且恩河御奉公留以後ニ茂彼宅為参由子細為有之積与牢込を以問届候処去巳年恩河御訴訟御使者之時与力勤ニ而上国為仕事候得共座喜味親方一件為承儀者無之且恩河御奉公留被仰付候段承一同上国等為仕事ニ而一度者見廻ニ参成行相尋候処猥ニ借銭ケ間敷有之由ニ而御奉公留被仰付段為承由申出候付大和ニ而座喜味親方讒害一件能存居且恩河御奉公留以後恩河宅立寄候儀いつれ子細可有之実成申出候様堅問詰終ニ拷問を以も致穿鑿候得共右申出通不相替旨達而申出是又越度之稜無之候間御沙汰なしニ可被仰付候
以上
咸豊十年〈庚申〉五月
D 小禄親方・恩河親方・牧志親雲上調書
小禄親方恩河親方牧志親雲上糺方之儀定法不拘風聞たりといへとも手掛り可相成儀共者屹与相糺候様被仰渡致穿鑿候次第左之通
一御国許よ里蒸気船御誂之儀御注文被仰付候ハヽ可相調段兼而小禄恩河牧志三人よ里進ミ上置候積与人別問届牧志申出候者蒸気船御誂之儀去々年七月御在番所よ里摂政三司官恩河牧志御用有之折節牧志者熱病相煩居候付摂政三司官恩河御参上被成候処御奉行并市来正右衛門殿御出張蒸気船御誂一件被仰渡左候而右御用者摂政三司官玉川王子恩河牧志七人ニ而取扱事広不相成様可取計旨御達有之候処小禄存寄を以右人数迄ニ而御請申上諸官落着不致儀茂候ハヽ不都合可相成可成程諸官江茂御達相成候様自然諸官江召広候儀不罷成候ハヽ異国係之按司親方并十五人迄者承候方ニ不取計候而不叶儀与御相談相成先以牧志よ里正右衛門殿内談させ都合次第書面を以御相談被申上筋ニ而書面等取仕立牧志よ里正右衛門殿内談いたし候得共落着無之ニ付御取止相成候処其後豊見城王子伊是名親方松堂親方川平親方冝野湾親方豊城(ママ)親雲上崎濱親雲上嵩原親雲上者右御用取扱被仰付度御国元江伺之考其内豊城崎濱嵩原江者御奉行迄御聞届右御用取扱させ余之面々者伺済之上何分被仰付候段承冨里親雲上者御取次一件ニ付御座よ里取扱被仰付候去卯年玉川王子御上国之時ニ茂蒸気船御誂被仰渡候付玉川王子ニ茂右一件取扱被仰付候段承知仕候其後正右衛門殿池城殿内江罷出摂政三司官玉川王子恩河牧志相揃蒸気船御誂之手筋等御吟味為被成由申出候付兎角右三人よ里蒸気船御誂一件兼々相進屹与御誂為相成積実成申出候様段々問詰候得共去卯年ニ茂御誂被仰渡置候を御断相成候処此節者
御意与申為被押付次第ニ而我々よ里為相進儀曽而無之旨申出恩河等ニ茂問届口柄致符合候
一恩河親方事仮三司官被仰付筈之段風聞有之恩河上国之時御内意相働置候積与恩河問届候処小禄親方宅江松堂親方自身寄合咄之時松堂よ里異国一件ニ付仮三司官相立筈之取沙汰有之候与申ニ付小禄者我等不行足事共有之候所よ里世上件之取沙汰茂可有之好キ次第与被申猶又仮三司官者恩河与取沙汰有之由松堂申ニ付左様之儀ニ而者有之間敷与致返答尤右次第者正右衛門殿口よ里為出由候得共直ニ者不承由松堂咄為承段申出小禄問届候得者自宅江恩河等寄合之時仮三司官一件咄為承覚無之恩河松堂仮三司官被仰付筈之風聞有之候段者真栄里親雲上よ里為承由申出牧志ニ者兼而正右衛門殿よ里為承儀茂可有之哉是又問届候得共右之咄為承儀無之旨申出且右一件恩河本宗之従嫡子豊平里之子親雲上問届候処親方仮三司官被仰付筈之段者恩河肝煎人佐久本筑登之親雲上咄承弥其通ニ而候ハヽ自身等ニ者与力相勤申筈与為心得居段申出佐久本問届候得者仮三司官之咄者右豊平よ里承此段者西原間切平良村境内居住嫡子神谷筑登之親雲上証拠之段申出神谷ニ茂問届佐久本申出通無相違与申出風聞之口先穿鑿難成兎角恩河よ里内意相働右之風聞有之積与段々問詰候得共右様之儀曽而無之旨申出候
一恩河事上国之砌山田壮右衛門殿聞役新納太郎左衛門殿江座喜味親方讒し置候上者座喜味親方を誹り落書仕置候茂恩河等所為ニ而可有之与問届候得共右様之儀曽而無之旨申出何之証拠茂無之上落書之儀落書人落書共ニ不捕出候ハヽ不取揚律法之段者恩河ニ茂能存知之事ニ而屹与穿鑿茂難成事御座候
一
太守様御逝去之段御到来之後座喜味之党ひじを張候而者不相済旨御仮屋よ里被仰渡候儀小禄恩河牧志よ里貫き候而右通被仰渡積与右三人問届候処蒸気船御買入御取返し為被仰付日ニ而茂為有之哉摂政三司官浦添親雲上豊城(ママ)親雲上嵩原親雲上恩河牧志等御用ニ付参上之砌
太守様逝去ニ付座喜味之余党勢を附候而者不相済候間無左様可取計旨被仰渡里主所江被帰事書為致覚之段申出候付前廉右者共よ里仮屋江致何角置候所よ里右通被仰渡積与段々問詰候得共左様之儀毛頭無之段申出候
一牧志親雲上よ里逗留仏人江御座御案内なしニ自物を以進物品相重ミ差進置候儀ニ付御吟味央(なかば)異国方よ里右通進物品重遣令都合候儀好キ取計与被思召候処却而刑罰ニ当候由不成合段御沙汰有之兎角牧志よ里段々相働右通御沙汰有之積与牧志問届候処去巳三月比仏人よ里鉄砲壱丁代銭三千貫文位之等(ママ)被相与右之返物那覇詰役々よ里者千貫文程之品相賦表御方江御問合相成候処弐百貫文程之品々ニ被相減余り少ク向羽難成多葉粉三斤煙草入一組真岡布一反自物を以相重候筋其時御鎖之側兼城親雲上江相談之上罷下其時之那覇詰小禄親方奥平親雲上江茂申談仏人江差進左候而表御方并御仮屋方江之御届者表御方よ里之御賦付通那覇詰役々よ里申上置候処奥平兼城江代合罷登右次第為相咄由ニ而表御方よ里那覇詰役々江形行御尋相成兼城ニ者不存之段為申上由ニ而其時之日帳主取阿波根親雲上喜舎場親雲上よ里書面差出候様被申付不及是非書面差出右次第存外之儀ニ而恩河逢取致談合不事立様取計度存彼宅参候処屋取江差越居候段承直ニ屋取江差越右之形行申聞小禄兼城致相談呉候様頼入同伴ニ而那覇江罷下右両人逢取先以牧志よ里差出置候書面者取返兼城首里江罷登御断ケ申上候筋ニ致吟味兼城よ里御断ケ被申上候得共不相済尤仮屋江相洩候儀者最初之御届書御取替相成候付夫よ里為相洩哉宮平親方園田仁右衛門殿宿江参居候時仁右衛門殿申候者牧志よ里仏人江進物一件之儀小禄ニ者三司官名代兼城ニ茂鎖之側右両人差図之上品重置候付而者牧志ニ者不足無之且仮屋江之届者小禄兼城那覇詰ニ付而者両人当前与申ニ付牧志事右進物重又者御当蔵倒り候一件ニ付相当之御咎目有之筈之段為相咄由候処其後諏訪数馬殿よ里與那原親方喜舎場御用ニ付致参上候処牧志仏人江進物品重遣令都合置候儀者好キ取計与被思召候処却而刑罰ニ当候由何様之吟味ニ而候哉与御尋有之最初吟味者為有之事候得共央よ里不及咎目筋片付置候段御返答申上候処牧志罪科召行筋ニ而候ハヽ
太守様御伺ニ不相成候而不叶候間御相談之上何分ニ茂取計候様摂政三司官江可相達旨被仰下候付御沙汰なし為被仰付段申出恩河ニ茂問届候得者那覇江罷下小禄兼城為致相談形行牧志申出通不相替段申出候得共兼而恩河牧志よ里何角申込置候所よ里仮屋よ里右通沙汰為有之積与堅問詰候得共右様之儀一切無之旨両人共達而申出候
一御新政之内委祥恩河為致承知与相見得候付成行恩河問届候処右書付者正右衛門殿よ里兼城親雲上牧志自身三人江渡方相成候処右之内委祥与申者異国一件致固滞候而者不相済時勢之弁別能々不入念候而不叶趣磯御茶屋江御呼之砌
御意被成下候付是を委祥恩河承知与書記置候半右通書付者為被相渡事候得共御新政之事々委細致承知居候儀ニ而者無之旨申出候
附本文御新政之書付見届候得者恩河申出通時勢之弁別一件一点ニ委祥与相見得候
一去々年二月之比豊見城王子宅江正右衛門殿牧志恩河等相揃座之一方江寄合筆紙墨抔取寄其時宮仕茂牧志よ里相勤何歟密談之躰為相見得段風聞有之牧志問届候処去々年二月比正右衛門殿豊見城王子宅江罷出豊見城王子平良按司兼城親雲上恩河自身相揃酒肴等出相咄豊見城王子正右衛門殿者和哥を読恩河自身者詩作抔いたし尤正右衛門殿よろひ仕立持下居候処人江着シ候而見得不申由ニ而持登平良按司こまた髭茂立不申能可移与平良按司江着させいつれ茂江見せ是者合戦之時着用ニ而者無之諏訪ひたゝり与申官服晒布ニしふ形付置何歟急事之時者袖をしふり戦候抔与咄共為有之段牧志申出恩河ニ者遅参ニ而右よろひ致着候儀者見得不申格護之央(なかば)見候処皮ニ而作置たる覚之段申出候付右揃之儀何歟子細可有之実成申出候様堅問詰候得共牧志ニ者那覇詰之時正右衛門殿依沙汰ニ一同罷登右人数寄合詩哥等ニ而相咄為申迄ニ而外ニ子細無之段申出恩河ニ茂問届口柄不相替申出候
附本文揃之時火とり湯抔次候茂牧志相勤密談之躰勝連按司宅二階ニ而奥平親方見得為申由候処奥平致口合候得者座之一方ニ寄合筆紙墨抔出候形者見得為申事候得共牧志よ里致宮仕候儀者見得不申段申出候
一恩河親方役儀御免之後玉川御殿江一門御揃之筈候処是者御取止相成玉川王子安村親方與世山親方小禄親方四人玉川御殿別荘江為相揃段風聞有之小禄問届候処恩河役儀御免之後奉公人召列末吉よ里安謝多和田馬場之様致歩行候処玉川王子安村與世山御同伴先達而別荘江御出合被召呼候付差寄相咄追々椰子御取寄いつれ茂相給王子よ里恩河成行御尋ニ付人を騙借銭抔仕置候段者御返答為申上覚有之候得共焼酎給過右外子細有之御咄為仕儀抑覚ひ不申段申出候
附去年四月御用談ニ付仲里按司宅江糺明奉行を始主取役人共揃之時與世山咄之趣者先日安村一同致歩行候約束ニ而候処玉川王子茂御一同御歩行之御咄為有之由ニ而追而玉川王子安村并王子奉公人山城里之子親雲上等御召列與世山宅江御立寄御同伴ニ而玉川御殿多和田之別荘江参り居候処其辺よ里小禄被罷通候付被召呼椰子等出御咄之折玉川王子よ里恩河一件小禄江御尋被成ふうさあ等被成かてらに度々被申候付終ニ小禄よ里追々私茂倒り可申其時者みうんぢゆも抔与申焼酎給過不覚之躰為相見得由尤夜入安村與世山ニ者先達而為罷帰段與世山咄有之本文御揃与申風聞者都合不致候
一去々年十五人之内退役させ候様御仮屋よ里御沙汰有之候儀小禄牧志よ里何角仕置候積与小禄問届候処去々年三月比ニ而茂為有之哉正右衛門殿よ里極御内用申談度候間彼宿江罷出候様手紙到来参候処
太守様御意与申座喜味組合者共早々退役させ候様被仰聞候付只今退役させ候而者一世奉公留之形ち追々
上様御婚礼且十二月ニ茂御位頂戴可致右両度之内ニ者順々退役可罷成候間其通取計呉候様頼入且座喜味組合者与申者何かし/\ニ而候哉与相尋候処與那原親方摩文仁親方喜舎場親方阿波根親方浦添親雲上与申ニ付與那原御用致取扱候を見候得者組合者与者不相見得余之面々ニ茂自身目前ニ而者左様之躰見及無之段申候得共合点不仕十五人之名前書付其次ニ與那原摩文仁茂相立喜舎場阿波根浦添三人之名前ニ是々与申星を廻し候付罷登其段者大里王子池城親方譜久山親方江茂申上候段申出候付兎角小禄等よ里前廉右五人致何角置候積与堅問詰侯得共右様之仕形曽而無之旨申出候
附
一牧志よ里喜舎場阿波根者致掃除見せ可申与鳥小堀村嫡子神谷里之子親雲上承神谷よ里奥平親方江相咄右次第奥平よ里喜舎場江為相咄由ニ而牧志問届候処十五人之内退役させ候様正右衛門殿よ里小禄江御達有之喜舎場浦添阿波根名前ニ星等為廻段小禄よ里為承事候得共喜舎場阿波根致掃除見せ可申与神谷江申聞たる儀曽而無之至極存外之儀与申出候付奥平相尋候処神谷よ里右之咄承喜舎場江為相咄儀無之候を喜舎場ニ者右通被申候哉喜舎場江申聞事候ハヽ阿波根ニ者別而同郷之同志ニ而弥相咄可申之処阿波根江可相咄儀茂無之喜舎場対面いたし候而茂不相替段申出神谷ニ茂可問届与御用差遣候処中症相煩言語不通躰之由ニ而差扣居候処追而為相果段承外ニ手懸り無之候
一小禄等よ里御仮屋方江義党賊党之分有之候段為申上由ニ而小禄問届候得共右様之儀御仮屋方江為申上儀一切無之旨申出候
一荷蘭船致来着候ハヽ
国王様御対顔之願申立候儀茂可有之兼而吟味を以可申上旨御仮屋方よ里被仰渡候儀牧志等よ里色々貫き居候積与牧志問届候処去々年三四月比御仮屋方よ里追々荷蘭船来着可有之於江戸表茂最早御目見等被仰付置事候得者
国王様御対顔之願申出候儀茂可有之差当致吟味候而者事煩敷相成候間前廉吟味仕置候様御仮屋方よ里御座并牧志江御沙汰之趣有之摂政三司官十五人其外諸官江茂吟味之趣者御対顔願申出候ハヽ国法之筋を以茂難相断御当病形ニ而者異国人共御快気之間可相待又者後月参り拝可申抔与申立候儀茂難計候付先以断之趣意者亜米利幹人入 城以来驚怖被致御気損ニ而御対面難成訳を以御断被仰達候方書面取仕立乍残念右之外断之趣意難相立段御断ケを以及
言上左候而小禄親方右書付持下御奉行并諏訪数馬殿島津帯刀殿御相談被成候処御気損与申者於大和ニ者気違者之事琉球者大和之御幕下此段者西洋諸国江茂存知之事ニ而気違者江政事を授候筋ニ而者
太守様御面目茂不相立依躰ニ者御改革茂被仰付
国王様御迷惑可被及御改革与者御相続替之事健成国王臣下として右式御気損之訳を以御断被仰入候而者不本意候間御当病之形を以被仰入候方可宜段有之候付御当病之形ニ而者段々可差障訳被申上候得共御落着無之屹与吟味いたし候様致承知重而諸官江茂及吟味候得共右之外訳筋難考付御気損与書置候場者時々御病気与言葉を替し最初之書面ニ提札を以重而及御相談候筋相片付置候中御仮屋方よ里御用ニ付右書面小禄持下其時御座立ニ付差出候処御落着無之岩下清蔵殿よ里右書付立消ニ而暑邪之形ニ相直し被相渡候付重而御相談不罷成其通御請申上去々夏伊江王子摩文仁親方於御国元被御働候筋相成候処同七月蒸気船御誂一件御達相成右御用者最初摂政三司官玉川王子恩河牧志等江隠密被仰渡置候処
太守様御逝去之左右御到来之後御相続替之企為有之段風聞有之御対面一件ニ付右通御仮屋方よ里威(おどし)有之引次蒸気船一件隠密被仰渡候付このひづけよ里御相続替之邪説為相時行(はやり)積此段者去々年十一月比浦添親雲上よ里崎濱親雲上江咄為有之段茂崎濱よ里為承段申出候
一正右衛門殿書状之内摂政一件之形行牧志ニ者存知茂可有之哉与問届候処去々年八九月比正右衛門殿咄之趣者総理官布政官漸々与者現勤之方
太守様思召之段御到来候得共当時異国一件事多現勤難成豊見城按司者総理官相応可致与被見受候代合為致候方ニ御座江茂申上都合次第可取計旨有之候付何楚之訳合茂無之直ニ代合為致候方ニ者不罷成本部按司何歟御使者勤ニ而上国等之節何分取計可宜哉与致返答此段者御座江茂申上且琉球者摂政心添与申役目者不相立候哉与尋有之右之役目不相立心添与申者何之事候哉与尋候処於御国元ニ者何歟御用多相成候砌御家老衆之内御城代之下ニ心添与申助役被召立致補益候豊見城按司者右心添抔被相勤相応之人柄与被見受居候段咄承此段者豊見城王子江茂為申上由申出候付兎角牧志等よ里致何角置積与問詰候処豊見城王子ニ者八田喜左衛門殿よ里和哥被致稽古御人躰之次第喜左衛門殿よ里為承由ニ而正右衛門殿ニ者下涯よ里時々王子譽上為申事ニ而正右衛門殿ニ者王子江心を寄居為申筈候得共為致何角儀は毛頭無之段達而申出候
一小禄親方一件或方よ里大和江讒状為差遣由玉川王子江小禄よ里御咄為申上由ニ而小禄問届候処與儀よ里承候三司官内意一件者逢讒たる筈与御咄為仕事候得共或方よ里逢讒候与為申上儀毛頭無之旨申出候
右条々風聞又者聞取之事々別冊小禄恩河牧志糺明之砌一同相糺責扱等を以致穿鑿候得共ケ条之通申出手懸り可相成証拠無之儘差通候様可被仰付候
以上
咸豊十年〈庚申〉五月
E 名嘉地里之子親雲上・桃原里之子調書〔小禄親方関係〕
下儀保村嫡子当歳三十五 名嘉地里之子親雲上
上儀保村八男当歳二十六 桃原里之子
右者小禄親方御役御断以後一門使ニ小禄宅参居候砌仮与力潮平筑登之親雲上与力玉那覇筑登之親雲上与力足佐久川筑登之親雲上三人居合例外進物出為申段自分噺いたし候を為致側聞由ニ而召寄問届両人申披候者去年四月七八日比ニ而茂為有之哉小禄親方宅江仮屋方為致出入風聞有之表御方よ里一門江御取締被仰渡候付締向申達候為一門衆使ニ両人小禄宅江罷出親雲上等相逢度案内させ与力詰座江扣居候砌潮平玉那覇佐久川三人居合折節書物読候声相聞へ候付当時柄左様之儀茂相慎させ候様申達且潮平よ里名嘉地江向ひくひなの事存外之次第壱ツ者不審之儀有之例外ニ進物差出置候与申ニ付左様ニ而候哉与申候折宇江城親雲上よ里三番座江可参旨有之早速立寄宇江城相逢一門衆使之趣意申達猶又与力詰座江帰り一礼ニ而立出道すから名嘉地よ里桃原江かわつたもの為承与相噺為罷帰由申出候付去年九月摩文仁親方宅ニ而摩文仁并平等方役人よ里桃原尋之砌者右之咄側聞為致形ニ申出翌十月名嘉地大和よ里帰帆之日通堂ニ而平等方役人よ里相尋候節茂同断側聞いたしたる段申出両人口柄致符合居候処何様之儀ニ而御糺明之上者潮平よ里名嘉地江向右之咄為仕形ニ晴目筋相替り候哉与相尋候処以前者側聞之形ニ申出候処得与相考候得者潮平右之申分名嘉地江向ひ為申段者無相違ニ付前文晴目筋間違相成候段者去年十一月十三四日比名嘉地摩文仁親方宅江参為申上段申出候
F 小禄親方仮与力潮平筑登之親雲上等調書
小禄親方仮与力汀志良次村嫡子当歳三十三
潮平筑登之親雲上
同人与力同村嫡子当歳三十七
玉那覇筑登之親雲上
同人与力足同村嫡子当歳三十七
佐久川筑登之親雲上
右面々牢込を以人別問届潮平申披候者去年四月七八日比ニ而茂為有之哉自身等小禄方与力詰座江罷在候砌前条名嘉地里之子親雲上桃原里之子両人一門衆使之由ニ而罷出親雲上等相逢度案内させ其砌供之者書物を読候付名嘉地よ里当時柄書之声相響キ候而者相応不仕留置候方可然与相談有之尤之儀ニ而早速玉那覇よ里差留追而名嘉地桃原ニ者於三番座宇江城親雲上逢取為罷帰由且去年三月廿七日朝汀志良次村嫡子桑江里之子親雲上自家江参檀那者三司官内意為被致段大和よ里申来昨日摂政三司官御揃ニ而候処檀那者出勤不被致事ニ被係此儀隠密取計候様ニ与之段茂申来由候間早々小禄江罷出御隠居之方取計候様承り自身ニ者其前日迄忌引入ニ而小禄方出勤不致存外至極実事ニ候哉何方よ里為承哉与相尋候処牧志よ里為承段有之驚入其日隔日ニ付先以相役玉那覇召寄御出勤之様子承度桑江ニ茂申達追而玉那覇呼来候付今日檀那御出勤為被成哉与相尋候処玉那覇ニ者進物方詰所小禄別荘江直ニ罷出御出勤之様子不相分段申ニ付桑江よ里為承形行荒増申聞早々殿内江参御出勤之様子何分申遣候様申達玉那覇桑江罷帰追而御出勤不被成段玉那覇よ里知達有之自身茂出勤いたし檀那逢上三司官御内意為被成段大和よ里申来候由実ニ其通候哉与尋上候処何かしよ里為承哉与被申候付桑江よ里承桑江ニ者牧志よ里為承段茂申上候処三司官内意為致儀曽而無之牧志事昨晩者此方江参候様申達置候処桑江江参候而此方江者為不立寄哉与致承知嫡子小禄里之子親雲上江茂桑江咄之趣申聞置候処追々濱比嘉親方牧志親雲上被参且池城親方茂御出檀那御逢御帰り被成候付子細承度晩方裏御座江参り追々次男小禄里之子親雲上玉那覇筑登之親雲上茂参り御座奉行衆御出之形行尋上候処実ニ為致内意哉之御尋池城殿内ニ者大和よ里之御問合茂御持参右御問合ニ者進物取添為致内意筋相見得尤内意之中使者牧志為相勤段池城殿内よ里承り候得共右様之儀曽而無之進物差遣置候ハヽいつれ其方等ニ茂存ニ而可有之牧志相糺候得者おのつから可相分段致承知左候而一同焼酎給致帰家翌廿八日出勤其夜者殿内江寝泊翌廿九日未明濱比嘉親方浦添親雲上御出檀那御逢御帰り追而檀那よ里御役御断被仰付候間早々隠居願之書付相認差出候様被申付致下書檀那調部ニ入清書させ則日差出申候且四月四五日比ニ而茂為有之哉桑江自身宅江罷出檀那者隠居迄ニ而無之後以御責扱を茂被仰付御吟味之由且此間岩下新之丞殿牧志宅江罷出檀那惜ミ咄為有之由牧志よ里承候此涯牧志ニ付而進物差遣新之丞殿江致内意御責扱不及様ニ与之取計者相成間敷哉座喜味殿内御隠居之時茂御内意等為被成由牧志ニ茂桑江よ里談合いたし候ハヽ請合可申こおり方江格護之品無之候ハヽ内原江者手嶋布抔可有之懐中ニ而成共可致持参旨相談有之こおり方ニ者格護之品無之内原江茂手嶋布抔者在合申間敷其上檀那ニ者座喜味殿内与者相替諸官御吟味之上及
言上御役御断被仰付置候付而者今更仮屋方江内意等申込候而者不相済致露顕候ハヽ自身桑江牧志ニ茂可及大事候間取止候方可宜旨申入候付桑江ニ茂尤之儀与申互ニ内談迄之事候間致他言間敷与口詰ニ而罷帰且同月七八日比ニ而茂為有之哉石原十郎兵衛殿坂元権之丞殿両人使与申十郎兵衛殿用頼與座筑登之小禄こおり方江参り庫理役人宮平里之子親雲上相逢檀那一件承来候様ニ与之使候間小禄里之子親雲上許田里主親雲上之間相逢度申ニ付両人共不快之形ニ而相断候処十郎兵衛殿権之丞殿末吉辺江被参候ハヽ檀那面会可相叶哉与申ニ付右様之儀曽而不相成段致返答為差帰由宮平よ里承居候処同十日比南風之御殿江一門并与力御用有之桃原里之子自身致登 城候処殿内江仮屋方為致出入風聞有之由ニ而奉行衆よ里御尋有之仮屋方為致出入儀無之前文與座筑登之参為申次第申上候処取締向入念夜詰之儀茂自身等相勤候様被仰渡候付右通御用為有之段檀那江首尾申上候処用頼為参居段者早速御首尾相成宜敷為有之与被仰聞尤節句等ニ付仮屋方よ里名札品物等到来之節々者則々表御方江首尾申上且牧志御用係相成候後桑江自身宅江参新之丞殿よ里檀那一件牧志江惜ミ噺為有之段且進物差遣致内意事能隠居之方取計候而者何様可有之哉与為申勧事候得共為相断段檀那江相咄候処牧志ニ茂談合之上与桑江為申哉与御尋有之此儀者不承桑江よ里牧志致相談候ハヽ請合候賦り与為申段申上候処桑江相談通進物差遣致内意候ハヽ実ニ為致内意形ニ相成候処断置候儀相応之取計与被申候付右之次第者公所江可申出哉与尋上候処是者考次第御尋之節申上候而茂可相済哉与返答承尤大和よ里者進物抔取添三司官御内意為被成由ニ而至極存外之次第こおり方よ里者進物品為出儀無之進物方よ里者如何可有之哉与玉那覇両人致穿鑿候得共双方よ里例外進物為出儀無之候処去年九月廿日比ニ者佐久川筑登之親雲上與那原殿内本門前之道六男桃原里之子親雲上行逢互ニ挨拶いたし行過候処被呼帰摩文仁親方よ里何歟御尋者無之候哉与申ニ付其儀無之何迚右通申候哉与相尋候得者名嘉地里之子親雲上弟桃原里之子両人一門衆使小禄親方宅江参居候折玉那覇佐久川自身三人居合自身よ里例外進物為出咄仕候を名嘉地等為聞付由平等方江茂御聞通相成此間弟桃原摩文仁親方宅江被召寄親方并役人居合御尋有之実成為申上由申ニ付右様之咄一切無之段為致返答由佐久川自身宅江参咄有之抑存外之申分名嘉地桃原両人小禄江参居候砌者供之者書を読候を名嘉地依相談留為申外何之咄茂不致候を右次第屹与差分不致者不叶玉那覇を茂呼寄右之趣申聞如何様佐久川間違ニ而可有之今一往桃原致口合候方ニ申談重而佐久川差遣桃原相尋させ不相替由候付弟桃原逢取屹与可致相談与自身佐久川度々参候得共留主之由ニ而逢取不申此上者御一門衆江披露申上候共何分取計可致与相考居候内御用係為相成由申出候付名嘉地桃原事其方等よ里例外進物為出段不相咄候を作立候筋無之屹与実成申出候様段々問詰候得共右申出通不相替進物一件似合之咄迚茂無之旨達而申出玉那覇佐久川ニ茂問届口柄不相替名嘉地桃原対決為致候得共互ニ張合を以申出候
附本文潮平玉那覇佐久川ニ者一門使名嘉地桃原参合之時例外進物為出咄曽而不仕似合之咄迚茂無之旨達而申出名嘉地桃原よ里者潮平よ里名嘉地江向例外進物為出咄為有之段申出張合相成小禄庫理方取払帳進物帳を茂取寄見届候得共疑敷払出無之其上名嘉地桃原晴目筋最初者潮平玉那覇等たんかあ咄側聞為致形申出後ニ者潮平よ里名嘉地江向ひ為申与反復ニ而申出旁以潮平玉那覇可問詰手懸無之儘差通置申候
G 桑江里之子親雲上調書 〔小禄親方関係〕
汀志良次村嫡子当歳五十一 桑江里之子親雲上
右者小禄親方御役御断之後仮与力潮平筑登之親雲上宅江参内意申勧置候次第為有之段潮平よ里為承由小禄申出候付召寄牢込を以問居申披候者去年三月廿六日之晩牧志親雲上自家江参噺之趣者小禄事三司官内意為被致段大和よ里申来今日摂政三司官御揃ニ而候処小禄者御出勤不被致事ニ被係此儀隠密ニ取計候様ニ与之段茂申来候由承翌廿七日朝右潮平宅江参り牧志咄之趣潮平江相達早々小禄江参り御隠居之方取計候様申達候処潮平ニ者其前日迄忌引入ニ而小禄方出勤茂不致抑存外此儀実事ニ候哉今日者隔日ニ而候間先以相役玉那覇召寄御出勤之様子承度由ニ而追而玉那覇呼来御出勤之様子相尋候得者玉那覇ニ者進物方詰所小禄別荘江罷出御出勤之様子不相分候付自身為申聞成行潮平よ里玉那覇江荒々相達早々小禄江参御出勤之様子何分申遣候様相達両人共潮平宅立出玉那覇者小禄之様参自身者致帰宅候然処廿八日諸官御吟味之上廿九日ニ者小禄御役御断被仰付御吟味之趣牧志江相尋候得者御役御免迄ニ而無之御断御願済之上者平等方江御引渡御責扱等を以御糺ニ茂可相及之由且小禄御役御断二三日後異国方岩下進(ママ)之丞殿牧志宅江参小禄者御役場よ里之御懸合ニ而候ハヽ不及是非事候得共脇方内状を以今成御役御断等被仰付不便之至与惜ミ噺為有之次第承自身よ里茂小禄者檀那分ニ而難黙止四月四五日比ニ而茂為有之哉潮平宅江参小禄者隠居迄ニ而無之後以御責扱を茂被仰付御吟味之由此間岩下進(ママ)之丞殿牧志宅江罷出小禄惜ミ噺為有之由此涯牧志ニ付而進物差遣進(ママ)之丞殿江致内意御責扱ニ不及様に与之取計者相成間敷哉座喜味殿内御隠居之時茂御内意等為被成由牧志ニ茂自身よ里致談合候ハヽ請合可申庫理方江格護之品無之候ハヽ内原江茂手嶋布抔可有之懐中ニ而成共可致持参旨申達候処庫理方ニ者格護之品無之内原江茂手嶋布抔者有合申間敷其上檀那ニ者座喜味殿内与者相替諸官御吟味之上及
言上御役御断被仰付置候付而者今更仮屋方江内意等申込候而者不相済致露顕候ハヽ自身潮平牧志ニ茂及大事候間取止候方可宜与申ニ付自身ニ茂尤ニ存互ニ内談迄之事候間致他言間敷与口詰ニ而罷帰候尤牧志事最初小禄事係被致候段承候日ニ茂其方者係合無之候哉与相尋候得者不相拘段返答為有之事候得共世評悪敷有之候付念遣ニ存其後ニ茂弥不相拘候哉与相尋侯処不相拘所よ里出勤茂被仰付候間致世話間敷旨承居候処存外四月十一日御役御断被仰付自身等江取締向等被仰渡候付牧志相逢候得者中使為相勤段者太郎左衛門殿問合ニ茂不相見得冝野湾親方口柄迄ニ而不相拘筈与存居候を右次第存外之由承居候処翌十二日御用係相成自身等ニ茂込入居為申段申出候付潮平江内意為申勧儀牧志相談之上ニ而為有之哉与相尋候得者右一件牧志江為致相談筋ニ而者無之自分存寄迄を以為申勧段申出候付右式進物等差遣内意申勧置候上者牧志江茂相談之上ニ而可有之且牧志よ里外ニ承居候事茂有之積与段々問詰終ニ拷問を以茂致穿鑿候得共牧志相談之上潮平江内意為申勧儀ニ而者無之外ニ牧志よ里承居候事茂無之旨達而申出候然者小禄者諸官御吟味之上及
言上御役御断被仰付置候を其弁無之小禄之為大和人衆相懸致内意候様潮平申進甚不届之旨叱付候処件之次第無調法之至恐入候段申出候
附去年三月廿六日之晩牧志桑江宅江罷出小禄事係一件申聞候節小禄江茂実成可告知哉与申談候処弥告知可宜与返答為有之由且小禄御役御免之後四月七八日比ニ而茂為有之哉桑江牧志宅江参り小禄よ里彼故を以野村牧志迄令迷惑残念之儀与潮平江咄為有之次第潮平相噺候を承り候与桑江為相咄段牧志申出候付桑江問届候処去年三月廿六日之晩牧志私宅江罷出小禄事係被致候次第相咄候時牧志よ里実成小禄江茂可告知哉之相談者曽而承不申且小禄よ里私故を以野村牧志迄令迷惑残念之儀与為申段潮平咄承り牧志江為相咄儀茂無之旨達而申出潮平ニ茂問届左様之咄小禄よ里承桑江江為相咄儀無之段申出候
以上
咸豊十年〈庚申〉五月
H 牧志親雲上調書
三司官故座喜味親方跡御役之儀御国法通人柄入札之処小禄親方よ里園田仁右衛門殿江上国之上者高札者被差置是非共野村親方江被仰付候様被相働度極内意申込置候趣市来正右衛門殿よ里聞役新納太郎左衛門殿江内状有之右内意之中使者牧志親雲上為相勤由冝野湾親方江伝言取添太郎左衛門殿よ里問合有之且右一件嘉味田親方よ里之問合ニ者進物等為差遣段茂相見得諸官御吟味之上及
言上糺方被仰付牧志小禄此程致穿鑿候得共左之通張合を以申出候付吟味之趣申上候
牧志親雲上
右問届候処申披候者去ル巳年十一月三司官故座喜味親方跡御役入札後御用案内ニ小禄親方宅参り候時小禄より野村者人柄ニて候得共度々人ニ被越不便ニ存候数馬殿仁右衛門殿ニ者野村被伺筈正右衛門殿ニ者下涯何分様子不相分候間折見合野村人躰之次第相咄江夏十郎殿江通し上させ候様且仁右衛門殿江茂折次第致沙汰山田壮右衛門殿江通し上させ候様被申付其後正右衛門殿宿夜咄参居候折正右衛門殿よ里今度之三司官者誰々致評判候哉三司官方茂被致入札候哉且三司官方者誰を被見付候哉与尋ニ付多分野村之方致評判候三司官者入札不致小禄抔者野村人柄与被見付候江夏殿江通し上野村被伺度申達候処正右衛門殿ニ者翁長親方人柄与見付居候其訳者翁長在番勤之時御訴訟事等之節物籠抔ニ而奉公肝厚且両先嶋之俗式毒蛇を殺候者者同船相嫌多年滞在之者罷在候処是又一同故郷させ候段
太守様被 聞召上旁被遊
御感心小禄親方三司官伺之時茂翁長与御沙汰為被為在御事候得共御家老衆よ里段々被申上伺通相済此後三司官明合之節者翁長江被仰付候筋御内定被為在候付正右衛門殿ニ者翁長与見付候由承且仁右衛門殿相逢噺之折今度之三司官者何某等致評判候哉与申候付小禄ニ者野村可宜与被存居候右之趣山田壮右衛門殿江被通上度申達候処野村人柄之次第者兼而聞合之上方々よ里茂承候付弥其心得之段申候処右方々与申名前者不承尤右両人返答之趣者小禄於別荘申聞候処正右衛門殿申分不落着之躰相見得兎角仁右衛門殿等江者前以小禄よ里茂為通置半与察入候且三司官伺之飛舟帰帆不致内寄船下着正右衛門殿申候者三司官伺之儀仁右衛門上国之上野村江被仰付度御内意相働暫御猶予之躰相見得為申由候処最早相片付居候段江夏殿よ里申来候由承此段茂小禄江為申聞由且去年三月冝野湾親方帰帆同月廿六日御用案内ニ小禄江参夫よ里大里御殿譜久山殿内致参上候処池城殿内江御揃之段承り池城殿内江参上之途中大里王子譜久山親方拝候而御用之荒増申上池城殿内参上御用御案内仕右御用委細申上候為直ニ譜久山殿内大里御殿致参上候処御書院江御参上之段承猶又別御用案内ニ小禄江参り大里王子譜久山親方者池城殿内江御揃夫よ里御書院御参上ニ而候処小禄ニ者御様子無之候哉与相尋候処小禄被申候者私者月番ニ而何之御用茂先可承之処右御揃之次第何分様子無之上者自身一件抔ニ而者有之間敷哉太郎左衛門殿江自身よ里書状差遣三司官為致内意段摩文仁親方よ里飛脚使與儀筑登之親雲上江咄之趣與儀帰帆之上兼城親雲上ニ付而知達為有之一件為致到来哉与驚躰ニ而被申候付此間正右衛門殿仁右衛門殿江自身被差遣咄形之一件ニ而者有之間敷哉与申候処夫ニ而茂可有之哉形行承合申聞呉候様頼有之御用御案内がてらに譜久山殿内参上先刻御揃之次第尋上候処小禄よ里正右衛門殿江三司官為致内意段聞役よ里問合申来候由致承知晩方桑江里之子親雲上宅江参り桑江相逢右次第相咄小禄江実成告知可申哉与相尋候処知し候方可宜与申ニ付翌日登
城国学所月之調部ニ参り帰すら小禄立寄昨日之御揃者御方よ里正右衛門殿江三司官内意為被致段問合申来候次第為承段申聞直登
城則日右一件尋之為濱比嘉親方自身両人御使ニ参り御方よ里正右衛門殿江三司官内意為致段聞役よ里問合有之候其通ニ而候哉与小禄相尋候処右様之儀無之旨返答有之猶又聞役よ里之問合等池城親方御持参御尋被成候得共同篇之御返答為有之由尤桑江江右内意之次第相咄候時并其後ニ茂世評悪敷有之候処自身等者不相拘候哉与度々尋ニ逢何茂懸合無之所よ里出勤茂被仰付事候間致世話間敷旨申達置候処追々御用係相成病気ニ付御預ケ之時右内意之中使為相勤段桑江等江為申聞由且小禄御役御免之後四月七八日比ニ而茂為有之哉桑江自家江参小禄より与力潮平筑登之親雲上江咄之趣者私故を以野村牧志迄茂令迷惑残念之儀与為申由潮平よ里為承段咄茂為有之由申出右ニ付進物抔差遣且右内意一件兼而相談人并中使為相勤儀存知之者可罷在実儀申出候様堅問詰度々拷問拶指等を以致穿鑿候得共小禄申付茂折見合右次第通し候様ニ与之儀ニ而進物抔者持参不致右一件兼而相談人茂不承中使為相勤次第存知之者茂罷在不申旨申出候尤牧志晴目之内小禄一件相発日(「小禄一件相発日」の七字抹消さる――金城註)大里王子譜久山親方池城殿内江御揃御書院御参上之段小禄江申達候付與儀よ里兼城承候太郎左衛門殿江書状差遣為致内意与之一件到来為致哉与小禄申ニ付夫ニ而可有之哉与為申段申出居候処後以正右衛門殿仁右衛門殿江牧志差遣咄形之事ニ而者有之間敷哉与為申達由申出最初之晴目与相替且小禄よ里潮平江私故を以野村牧志迄茂令迷惑残念之儀与為申段潮平よ里桑江江咄之趣桑江よ里為承由潮平桑江ニ茂右様之咄一切無之旨両人共申出且牧志病気ニ付御預之節者厳重御取締被仰付役人筑佐事共詰居一門親類共対面差留置候処御預之時中使為相勤段桑江江為申聞与之申出彼是晴目筋不都合相見得且小禄よ里内意之中使申付置候ハヽ右一件到来之上者倶ニ致世話取計向小禄致内談之処其儀無之是等之旁を以者牧志より小禄名を仮り為致内意積与此所堅問詰拷問申付候処御晴目向多有之候上多月過行覚違等ニ而前後過不足茂可有之且内意一件到来小禄為参時迄者自身中使之段茂相知不申小禄ニ者御役御免被仰付自身者出勤茂被仰付候付而者小禄宅出入憚ニ存何之釣合茂不致次第中使為相勤段者前文通少茂不相替段達而申出候
I 小禄親方調書
小禄親方
右問届申披候者去巳年自身より聞役太郎左衛門殿江三司官内意之書状為差遣段飛脚使與儀筑登之親雲上上国之時摩文仁親方咄為有之由與儀帰帆兼城親雲上江咄之趣兼城よ里承自身ニ者右様之仕形無之候を右通咄有之候者定而逢讒候積与存此段者池城親方玉川王子抔江御咄申上自分よ里不致候ハヽ可相済与打過居候処去年三月冝野湾親方帰帆同月廿六日牧志御用案内ニ私宅江参罷帰後刻猶又御用案内ニ参申候者今日大里王子譜久山親方池城殿内江御揃夫よ里御書院御参上ニ而候処自身ニ者何分様子無之候哉与尋有之自身ニ者月番ニ而何之御用茂先キ可承之処何分様子無之自身一件ニ而者有之間敷哉右與儀為申三司官為致内意与之一件為致到来哉与申候処何分不相分段申ニ付御用之程牧志ニ而承合晩方参相知候様申達置候処為何様子茂無之家内江差遣候得者桑江江為参由ニ而罷出不申翌廿七日罷出昨日之御揃者自身一件之由候得共子細者不相分由尤此儀牧志よ里為相知シ段者致口外間敷与申罷帰致世話居候処追而濱比嘉親方牧志両人御使ニ参自身よ里正右衛門殿江三司官為致内意段聞役よ里問合有之候其通ニ而候哉与尋ニ付右様之儀無之段致返答候処重而池城親方問合等御持参形行御尋ニ付問合致拝見候処進物等為差遣段相見得右中使者牧志為相勤由冝野湾親方ニ付而伝言茂有之候段御達ニ付右様之儀毛頭無之候間御糺方之上何分被仰付度池城親方江申上置候処翌々廿九日未明濱比嘉親方浦添親雲上被罷出御役御断可申上旨
御意被成下候段承知仕早速御断之書付差出為申次第ニ而自身よ里為致内意儀曾而無之進物抔差遣置候証拠有之候ハヽ拝申度尤牧志ニ者自身宅江参候時よ里事之子細能存知之事ニ而自身よ里中使内意させ置候ハヽ共ニ致世話取計向幾重ニ茂内談可致之処右式存知之事茂取隠致迯廻候上者是以自身よ里中使不致証拠兎角牧志よ里自身名を仮致内意候付正右衛門殿よ里太郎左衛門殿江書状差遣太郎左衛門殿よ里右通問合仕置候積且与力潮平申候者御役御免之後桑江里之子親雲上潮平宅江罷出岩下新之丞殿牧志宅江参自身一件惜ミ咄為有之由進物抔差遣牧志ニ付而致内意事能隠居之方取計候而者何様可有之哉与相談為有之事候得共為相断段申ニ付牧志ニ茂釣合之上為申哉与相尋候処此段者不承由右相談通進物差遣致内意候ハヽ自身よ里実ニ為致内意筋相成候処為相断段者宜取計置候段為申聞由申出中使一件牧志対決させ候而茂張合相成候付太郎左衛門殿江書状差遺三司官内意仕置候段摩文仁咄之趣與儀よ里兼城江通達承候付而者内意之執行無之候ハヽ早速與儀よ里細密承届候上太郎左衛門殿江問合差遣摩文仁親方ニ茂帰帆之上者屹与取懸いつれ讒之疑相晴候様可致之処無其儀且内意之中使者牧志為相勤段承候上者屹与糺願を茂可申出之処彼是之取計無之実々内意為致積与段々問詰候処與儀口上承讒之疑相晴候様取計無之儀者気附不足相成候得共右一件与牧志中使を以内意為致与者事替成程書状差遣内意為致一件御礼ニ而候ハヽ此所者明間相成候得共今度之御糺者書状差遣内意為致筋ニ而者無之牧志中使を以内意為致与之御糺牧志ニ者右通共ニ世話可致場を致迯廻候上者牧志よ里私名を仮致内意候証拠且牧志中使之段承候を糺願不申出段者不足之様ニ茂相見得候得共池城親方よ里御尋之砌御糺之上何分被仰付度申上置侯付其篇ニ而可相済与心得候上
御意重奉存何分願立不申段申出拷問拶指都合十二座責扱為致候得共右申出之通不相替旨申出候
附本文小禄よ里聞役太郎左衛門江書状差遣三司官内意為致段飛脚使與儀筑登之親雲上摩文仁親方よ里承與儀よ里兼城親雲上江相咄小禄者兼城よ里為承段申出候処三司官伺急ニ不相済日込相成候儀者小禄よ里仮屋方江致内意内状差遣させ小禄相応不致段太郎左衛門殿よ里極内承此趣書役嵩原里之子親雲上與儀筑登之親雲上居合之上摩文仁よ里與儀江座切咄いたし候処小禄よ里太郎左衛門殿江書状差遣為致内意筋趣意違相成是者小禄よ里仮屋方江致内意内状差遣させたる由為申与之ひつけニ而可有之本文糺明之手懸りニ者相成不申候付與儀ニ茂問届不申儘差通置申候
右之通相糺申候処小禄ニ者牧志中使内意為致儀毛頭無之兎角牧志よ里私名前を仮内意為致儀ニ而可有之与申出牧志ニ者小禄申付ニ依り咄形ニ而為致内意儀無相違候得共進物等為相進儀者一切無之旨申出張合相成申候小禄よ里進物等遣置候跡茂可有之哉与彼進物方与力玉那覇筑登之親雲上こおり方与力潮平筑登之親雲上牢舎ニ而相糺候処例外進物等為差遣儀毛頭無之段申出帳冊又者書状手紙類を茂取揚相調部候得共何楚疑敷書留相見得不申候然者小禄よ里三司官為致内意与之次第者太郎左衛門殿よ里之問合にて候処右一件太郎左衛門殿者正右衛門殿よ里承正右衛門殿者牧志よ里承いと口者基牧志よ里相起中使一件小禄よ里申付候節茂側ニ承居候者不罷居後以右一件外之者江為相咄儀茂無之段申出専牧志一人之口柄相成尤牧志晴目ニ小禄故を以牧志野村迄茂令迷惑残念之段小禄よ里潮平承潮平よ里桑江江為相咄与之儀実事ニ而候ハヽ小禄問詰候証拠相成事候処右之咄無之段者潮平桑江問届口柄不相替牧志晴目筋不束ニ相成重而小禄致責扱候手懸何分ニ茂難考付事御座候惣而糺向之儀証拠証跡を以致取扱証拠弱疑敷者者不取揚且別事之穿鑿よ里懸出糺方之上張合相成外ニ引当可相成証拠無之決着難成もの者儘差通候律法凡人取扱さへ右通候を別而八議之人品証拠証跡迚茂無之其上実ニ為致内意段致白状候共夫丈重罪ニ者及申間敷与奉存候処去年七月以来段々糺方之上拷問拶指都合十二座ニ及居候を此上猶又責扱失命等ニ為及候而者甚仕過相成御法取扱候者共不足者勿論乍恐御不足奉掛候儀茂可致出来哉与至極胸痛仕居申候右付而者小禄片付方何様可被仰付哉此所相考申候処小禄事太郎左衛門殿江書状差遣為致内意段承逢讒候与存付候上者いつれ太郎左衛門殿江書状差遣候歟又者摩文仁親方帰帆之上者屹与成行承届夫々弁取其疑相晴候様不取計候而不叶事候処無其儀玉川王子池城親方抔江御咄申上自分よ里不致候ハヽ可相済与儘打過たる由此儀気附不足与申出居候処明間相成張合なから牧志中使為相勤与之晴自茂有之候間旁以為致内意形ニ糺明相決律例引比疑之情犯を以等を滅罪科相擬首尾方被仰付可然哉与吟味仕候併何分ニ茂御賢慮之上被仰付度奉存候以上
附
一科律并先例抜書差上申候
一八議之人十悪を犯者者其段達
上聞凡人同前捕出各律条之通可論決与八議之人犯罪律ニ相見得候付小禄之犯所十悪之内ニ可被入哉与科律清律等見合候処右江可比入律条不相見得候付十悪之律者用不申八議之法を以吟味仕置申候
一水問之儀科人公事帳ニ用得様者相見得候付水問相用候方ニ茂吟味仕候処水問者苦痛絶兼犯人共難受吟味ニ而科律組立被仰付置候以来重キ糺明之節々茂用得不申段跡々よ里申伝有之問附書ニ茂用置候跡不相見得且嘉慶五申年冠船之時唐人よ里拶指并夾棍用得様稽古被仰付置候処夾棍者琉人之根気ニ而者難受吟味之由ニ而是又用得不申拶指迄を当分相用得申候小禄糺方之儀本文通重而者拷問さへ難相用吟味ニ而水問相用候方ニ者吟味相付不申候
一本文内意之儀正右衛門殿内状ニ者仁右衛門殿江極内意申込候段相見得候処牧志問届候得者右内意者正右衛門殿本ニして仁右衛門殿江者折次第可申達与之趣相晴目且嘉味田親方問合之内故恩河親方一件之条ニ先嶋之者江拝借銭之内恩河よ里為分取段相見得候処御物奉行方相尋候得者先嶋江拝借銭よ里恩河為分取候儀無之段承申候
一本文通糺明相決候様被仰付候ハヽ牧志罪分者律例見合吟味可仕候
〈申〉
五月十一日
平等所大屋子見習 亀川里之子親雲上
同 兼本里之子親雲上
同加増大屋子 佐久本筑登之親雲上
同 小橋川里主親雲上
同 善平里之子親雲上
同大屋子 比屋根親雲上
同 仲吉里之子親雲上
同加勢主取 神村親雲上
同 武嶋里之子親雲上
同 志喜屋里之子親雲上
J 糺明官のメモ 〔断片 小禄親方関係〕
〇本文実為致内意段致白状候共夫丈重罪ニ者及間敷与相見得候処三司官入札者王子衆以下久米村諸太夫迄被仰付直ニ於
御前摂政三司官被相披札数書付備
上覧御意を被請候而薩州御伺相成筈候処右之恐憚も無之二番札江被仰付度為致内意情罪何れ之律を以右通擬り候哉何共難存当御座候
K 『科律』等の抜粋
科律之序
一夫国家を治るの道ハ徳教を本とすといへとも律令の制是亦定めすんハ有へからすつらつら其書の本旨を考るに万民をして習染の悪をさらし固有の善に復らし専刑なからしめん為に著ハし給ものなり然るに本邦元より定りたる刑書なふして凡罪犯擬議の時先例に準し行ハるゝといへとも彼には軽く是には重く見へて決かたき事もあれハ甚た誤る事もあらんかと
主上深く憂ひ煩ハせ給により摂政尚姓読谷山王子朝憲三司官馬姓宮平親方良廷尚姓湧川親方朝喬馬姓與那原親方良矩申合科律を編集せしめん事を請ふ于茲
主上歓ハせられ此事を允し給て乾隆四十歳己未臘月六日向姓伊江親方朝慶馬姓幸地親方良篤を科律編集奉行に命し給ふ依之面々心を尽し精を出し唐大和代々の刑書及ひ当邦の例をも考ひ合せ専経書律意を本とし時宜人情に背かさるやうにして今般既ニ編集しけれは逐一評閲を加へて
照覧に備ひ奉るに自今以後宜此書を以慎て施し行ひ専教化の助けにせよとの御諚を蒙りぬ鳴呼執法の面々克々おもん見るへし夫死するもの又生へからす断ものふたたびつくへからす故に我か
主上如此刑憲を慎ミ給ひ偏に風化を助けん為に編集致させ為(給)ふものなれハ謹て此
御心を体認し奉り平日間断なく此書を致熟読無限含たる道理を尋求め且刑罰不当ときハ民手足を措くに所なし且其情を得る時ハ哀矜して喜ふ事なかれ且生道を以民を殺すときハ死るといへとも殺すものを恨ミすと
聖賢段々仰置る趣を心肝に銘し聊も吹毛求疵惨刻厳刑のそしりなきやうに取行ひ全教化の補助にならん事を希ふものなり
八議之人犯罪律
一八議之面々ハ〈八議条内ニ相見得候通凡人とハ不同〉其御取持可有之人品ニ而縦令何楚之犯罪有之候共軽々敷〈平等所江〉召寄不問付〈可糺問哉否哉之訳〉奉伺 上意ニ依て可糺問節ハ〈有筋白状之通〉所犯之軽重又ハ八議人品之訳を茂相糺〈縦令ハ御親族ならハ御間柄之遠近且功臣ならハ功を立たる本来等〉委ク書付備
上覧罪分僉議可致由達
上聞役々僉議之上罪分取究備
上覧御裁断次第首尾方可有之
〈右同律〉
一十悪を犯者ハ其段達 上聞〈凡人同前とらへ出し〉各律条之通可論決〈是ハ本文之通可糺問哉否之訳奉伺又ハ罪科裁断等之律を不用〉
〈右同律〉
一前条本律八議之面々ハ縦令 上意ニ依て糺問するとも〈軽々敷〉牢込拷問等不申付〈老幼糺明律見合〉夫々之証拠証跡を以可議定 〇若〈口問迄ニ而不相遂〉牢込拷問等不召行候而不叶訳有之節ハ其訳奉伺首尾方可有之〈若令違犯私ニ牢込拷問等召行候役々ハ老幼糺明律見合可議罪〉
〈老幼糺明律〉
一八議ニ相見得候御間柄并官職重キ人其外格別之人品ハ〈礼法可優〉若此等之人々犯罪有之節ハ軽々敷拷問等不申付夫々之証拠証跡を以議定可致〈八議之人犯罪律并八議之人父祖犯罪律老幼廃疾犯罪律等見合〉首尾方可有之
〈右同律〉
一証拠明白ならハ有筋白状無之候共糺明相遂候も同断首尾方可相済故必白状可為致与強而責問申付間敷候
〈右同律〉
一前条之人品与乍存法義ニ違致拷問〈若苦痛堪兼空言申候を取揚〉罪ニ入候役々ハ〈罪科出入律を以〉可議罪
〈訴訟不取揚律〉
一人殺并盗賊喧𠵅打擲犯姦等之類ハ直ニひら方取揚〈夫々之律条見合〉可論
〈人命律〉
一謀殺之奸情者仇怨財色等之宿意有て謀殺類也尤其偽計陰謀を設定る者を張本とすへし若無其儀〈同謀者之内〉一言之証拠抔を以張本ニ召成且其場ニ在て見伺〈或声を懸恐り驚せ窮迫させ味方を守護ニ而〉助勢シたる者を助殴重傷之者ニ成し一同重罪ニ擬多命を傷ふへからす
〈盗賊律〉
一盗人捕付委細之書付取添差出候ハヽ〈罪人牢込律条見合〉牢舎可申付若書付持参無之候ハヽ盗物色立員数月日又は逢盗候人名居分等委ク致帳留捕出候人ハ無滞可差帰
〈療治日限律〉
一喧𠵅打擲ニ依て傷を負其段申出有之候ハヽ〈則役々差寄傷之重軽并手足木刀刃物等之分ケ慥ニ見届傷を負たる時刻等ニ至る明白書記〉殴たる犯人江限を立療治申付〈年月差引律見合〉限内平復せさる時ハ左条見合〈喧𠵅打擲律ニ依て論〉傷之軽重を以其咎申付若限内〈破傷風等之類ニ成〉其傷ニ依て死し候ハヽ〈喧𠵅殺害律内〉喧𠵅打擲ニ依て殴殺たる律を以可論
本文傷験見之儀田舎ハ検者小横目其外役々立合見届〈一紙書を以〉披露書一同差出候ハヽ前後律条之通其首尾可有之
〈犯姦律〉
一姦情は〈曖昧にして偽り易く〉実否難取究故必於姦所捕付披露申出る者ハ可取揚〇若姦所にあらすして〈別所にて〉とらへ出し候歟或〈姦を犯したる由〉名指を以訟出候共〈何楚之証拠無之追論かたきゆえ〉取揚間敷候
〈落書律〉
一落書人之儀露顕難致陰謀者を捕出候故可賞之且又必落書人落書共ニ捕出候を可褒賞儀其締無之候而不叶儀ニ候縦令ハ落書為致者者不捕出〈其人何某与人指を以申出候共〉落書計取出し候を取揚候ハヽ何楚遺恨有之候人之所為と可申偽儀も有之専其弊を為可防必落書人落書共ニ捕出候得者可賞之
〈放火律〉
一放火人其場ニ而捕付慥成証拠有之候ハヽ夫々之本律を以可治罪
何楚之証拠も無之者を仕向疑敷邪推を以とらへ出其罪ニ曲入候も無覚束尤放火之罪科至て重故其慎可有之
〈糺明法条〉
一糺明相遂科付之砌斬罪とも又者身命難保所江流刑とも分明難取究者ハ流刑ニ召成流刑之内六年とも拾年とも難取分候者者六年可召成候其余皆共件之了簡肝要候若疑敷者者重方江片付支配いたし候ハヽ不仁之道甚以不宜儀候
〈詐偽律〉
一文書を偽作候者既ニ施行いまた不施行之差別有之候言語を偽伝ふ者其分ケ無之候者文書者跡方之証拠有之候故既ニ行いまた不行之差別あるへし言語ハ跡方之証拠無之如何んして其差別可致夫故必公事を申付規避之稜有之候を其罪ニ処すへし若公事を申付規避無之候ハヽいまた偽伝ニあらす
一嘉慶元年西原間切末吉村比嘉筑登之親雲上同村前伊田親雲上両人致喧𠵅比嘉よ里者壱丈余之壇下江被蹴落疵負十死一生為及段申出伊田よ里者蹈違自分ニ而為転落由申出拷問等申付候得共双方張合相成且道光三拾年八重山嶋滞在西村無系城間筑登之親雲上よ里宿元江届用之海人草東村嫡子渡嘉敷筑登之相預り脇売之考候間帰帆之上密ニ取卸呉り候様城間頼承崎原之崎乗参り候砌釣舟江取卸候時相転し海人草為致流失由城間よ里者密ニ取卸候頼不仕段両人張合相成且咸豊三年玉城間切検者真玉橋里之子親雲上事於間切段々不宜仕向有之糺方被仰付候内上御役場又者御物奉行衆御心安御取合諸事御指図通取扱候付下知不汲受者者屹与其仕付可致旨為有之由間切役々申出真玉橋ニ者右様之儀共無之由申出右三ケ条共外ニ致見聞候者無之互ニ口柄之張合ニ而無証拠故儘差通置申候外ニ茂右様之例段々有之候
〈申〉
五月
L 糺明官の意見 〔仲里按司・與世山親方等〕
小禄親方牧志親雲上糺方一件付加勢主取世名城里之子親雲上并宇地原親方摩文仁親方伊江王子御見付落着難成所よ里見立相替筈候間右吟味書相下ケ存寄之程書付を以可申上旨被仰渡役人共江茂申談左ニ申上候
一世名城書面ニ今般三人之牢人所犯之振合薩州御側役衆江相貫キ候与相見得成程恩河牧志ニ者御側役衆江相貫キ候晴目有之小禄ニ者此程段々致穿鑿候得共三司官為致内意儀曽而無之旨申出何之証拠茂無之候を三人共御側役衆江相貫キ候与究而書付置候儀不束相見得申候
一右通御側役衆江相貫キ此御地御世話を為懸上形行甚不臣之仕形此情犯科律新集科律又者清律等ニ茂相見得申間敷与有之候処不臣之仕形与申者所犯何程之見立ニ而候哉清律者天下十八省何分非常之情犯謀反叛逆罪三族ニ及候者迄茂議罪被仰付候御規摸科律新集科律茂清律よ里御当地可被召行条々被組立置於小国ニ者縦令非常之情犯出来候共弥以右両律又者清律ニ者可準律例可有之尤法義者究り有て事情変易者無際限故清律迚茂所犯少も不相替全ク的当之律例者有少古来唐御当地茂情犯ニ応し準シ例等を以罪科被仰付御規向之事候処小禄恩河牧志三人之情犯甚不臣之仕形科律新集科律又者清律等ニ茂相見得申間敷与之見付何様共難存当事御座
一右様非常之重犯人御糺明ニ付而ハ責扱茂御法ニ相見得候道具之数々者不相行候而不相済筈候処此程拶指扱之道具不相揃且水問等ハ一切相用不申候を当分迄之晴目書を以夫々罪分御議定被相成候方ニ者存当不申段相見へ候処拶指扱之砌道具不相揃与申者嘉慶五年冠船之時大屋子当真筑登之親雲上拶指扱之仕様巡捕官よ里習受〓(金+渡)はめ上ニ犯人跪跌シ股脛之間ニ棒横ニ入致尋問白状不致候得者拶指相用候段日記ニ相見得候処是迄拶指之扱棒〓(金+渡)り不相用故兎角右通申立候半右棒〓(金+渡)不相用子細者清律条例ニ拶指者寸尺付等一々被記置候処棒〓(金+渡)之儀者不相見へ尤右様棒〓(金+渡)其外非法之刑具を用犯人責扱失命ニ及させ搆之官人所払等被仰付置右様非法之刑具相用候儀堅御禁止之段清律嘉慶十二十六年之
上諭ニ相見得候付跡々吟味之上当分通相用且水問者苦痛堪兼犯人共難受吟味ニ而科律組立被仰付置候以来相用不申段先々より申伝有之候を無証拠之上別而八議之人品右様重刑具を以屹与可致責扱与之儀何共難存当事御座候
一摩文仁親方宇地原親方書面ニ小禄疑之情犯を以罪科被召行候而者従者者張本相成不穏段相見得候処成程証拠有之候得者糺シ明白ニ可相成候得共何茂証拠無之口柄迄之事故自然牧志茂中使為致儀無之旨張通候ハヽ何分首尾難引結躰ニ茂成立候処牧志ニ者中使為致段申出小禄ニ者牧志より小禄名を仮り為致内意積与張合なから小禄晴目之内気附不足之明間有之候付小禄より為致内意形ニ糺明相決疑之情犯を以等を減牧志より罪科軽目之方ニ被仰付候而茂律法通ニ而従者者張本相成候筋ニ而者無之尤先例茂有之候処御咎目向者明白糺付所犯相当ニ不被仰付候而不叶迚無限致糺明候向ニ而者終ニ失命又者苦痛絶兼いやなから請合させ実情を不得罪科差過候方ニ可相成左候得者無証拠ニ付而疑之情犯を以等を減御咎目被仰付儀者不穏無限致糺明失命等及させ候儀者穏与申筋合ニ而抑律意取失差当御不足者勿論往々此流弊如何可成行哉往昔唐之中宗之時代索元礼周興来俊臣与申刑官共常々残忍之性質ニ而犯人一人出候得者数百人引拘らし或者倒ニ懸ケ首に石を提け或者醋を鼻に灌し其外非刑段々相用専責扱而巳ニ而相糺候故苦痛絶兼不有之事々茂請込さセ残害ニ逢候者数千人ニ為相及由当時ニ而茂証拠証跡無搆定法ニ替り重刑具を以致責扱候ハヽ不有之事茂受合又者死亡ニ不及者者罷在間敷積ニ而此所能々不相慎候而不叶儀与奉存候
一小禄糺明筋いまた不行届所よ里白状不致候間猶口問帳等委敷取調部致糺明候ハヽ埒明可申与相見得候処凡糺問者兼而之心得題目ニ而是迄糺明之砌者前以口問帳取調部節々取束尋之趣向主取役人中吟味を以出席之人数差図を得候得者存寄之程茂取添段々相糺糺明央ニ茂存寄有之節者犯人引せ候而吟味之上猶又問附さセ去年七月以来拶指拷問都合十二座ニ及責扱為致候得共三司官為致内意儀毛頭無之段申出候付奉行役人共工面を尽手懸可相成与存付候儀共者無罪者迄牢込を以段々相糺乍其上風説之事々茂致穿鑿候得共何楚手懸可相成儀出来不申尤御見付替之御銘々ニ茂兼々口問帳平等方又者御取寄ニ而御調部被成候付兎角御工面を為被尽筈候得共此程為何御存寄茂無之此上者重而穿鑿□(之カ)手筋相絶候処よ里不及是非当分之晴目書ニ而糺明居候方吟味を以申上置候処今更小禄糺明之手筋不行届猶口問帳等委敷取調部精々手を尽候ハヽ白状又者証拠可致出来与之儀何共難心得儀与奉存候
右者依御尋吟味仕申上候以上
附別紙両通返シ上申候
〈申〉
七月
小波津親雲上
森山親雲上
與世山親方
仲里按司
史料二 牧志恩河一件口問書
A 小禄親方口問書
〈未八月四日〉
一牧志よ里池城殿内江大里御殿并譜久山殿内御揃之段有之於其儀ニ者自身者御月番ニ而候を自身ニ者何分様子も無之右御面々池城殿内江被相揃候儀者兎角自身一件ニ而ハ有之間敷哉与相心得牧志ニ而承合晩方重而相知候様申達置候処為何様子も無之ニ付牧志家内差遣候処他行之由ニ而翌七(ママ)日罷出候付相尋候処弥自身一件之事ニ而為有之段申ニ付何事ニ而候哉与事之訳合相尋候処是者何分不相知尤此次第牧志より為承儀者致口外間敷旨口詰等有之よし
附自身一件ニ而者有之間敷哉与たまかいたる儀者飛舟使與儀筑登之親雲上帰帆之上入札内意一件自身より正右衛門殿江致内意たる次第與儀よ里承居候付本文通たまかいたる由
〈八月八日〉
一入札一件付自身より仮屋方江致内意たる儀毛頭無之よし
〈同日〉
一右一件付牧志中使ニ而致内意たる儀毛頭無之牧志中使為致段池城殿内より為致承知迄之事ニ而候よし
〈同日〉
一去年二三月比ニ而為有之半飛舟使帰帆之上自身より太郎左衛門殿書状差遣内意為致筋大和ニ而風聞為有之次第承兎角讒したる積右式讒し候躰ニ相成候ハヽ大事之事与驚入登 城之上摂政三司官江も形行為申上事候得共摩文仁親方江者何分問尋も無之此段者気不相附今更届不足為相成由
〈同日〉
一摩文仁親方より讒し候半与摩文仁を疑候儀者毛頭無之大和ニ而之成行摩文仁尋問不仕儀者至極不届相成恐入候よし
〈同日〉
一自身事仁右衛門殿正右衛門殿より者数馬殿者猶丁寧之事候得者自身より入札一件致内意事候ハヽおのつから数馬殿江も内意仕筈候処無其儀上者正右衛門殿等江不致内意証拠相成候よし
〈未八月十四日〉
一牧志中使いたし置候ハヽ自身御役御免前摂政三司官御揃相成候付牧志ニ者早速自身江右一件発顕之次第急ニ告知可申之処無其儀牧志ニ者右一件承来候様申達置候得共延引いたし翌日罷出候上者自身より牧志中使仕置候儀無之証拠ニも可相成よし
〈同日〉
一去年三四月比正右衛門殿より御用有之罷下候処正右衛門殿より十五人之内座喜味組合者者早々代合為致侯様
太守様御意ニ而候間早々代合為致候様有之半途ニ代合為致候而者人倒し候付急ニ者不罷成今般
御婚礼御祝儀并来十二月ニ代合可為致候間其間御待可被成旨申上候付自身引請ニ而候哉与被申候付御相役御相談之上代合為致候段申上右次第摂政三司官江も申上たるよし
附何かし/\代合為致可申哉与尋上候処人躰者何分不申聞先役よ里退役為致候様為被申よし
〈同日〉
一代合之人躰尋上候処其方ニ茂能存居候与申何分不申聞且正右衛門殿より十五人名前書付銘々座喜味組合者ニ而候哉与問届猶又喜舎場浦添阿波根與那原者別而相疑右面々者如何可有之哉与尋有之右面々座喜味参候様ニ者見得不申段折角迦し候而相晴目候得共落着無之様ニ為有之よし
〈未九月六日〉
一牧志親雲上より御晴目申上置候正右衛門殿仁右衛門殿江三司官入札内意一件之儀牧志より仮屋方ニ而之評判承来候而之咄ニ而右一件者自身豊見城御殿等江も御咄申上置自身も右次第為承事候得共自身より右内意一件牧志江為申含儀毛頭無之よし
〈同日〉
一牧志事桑江里之子親雲上江為致内談儀可有之其趣者自身御役御免為被仰付日桑江より与力潮平江旦那者事ニ被係居候間早々致出勤候様且其後桑江より猶又潮平江旦那者当分之躰ニ而者難被迦可及大事何歟進物用之品表向進物方より差出さセ候而ハ不相済潮平格護之品又者庫理方江格護之等(ママ)有之潮平迄を以取償可相成哉於其儀ニ異国方岩下新之丞殿江牧志より内意申込事能取計可相成筋内談有之候付潮平ニ者格護之品無之尤右様之取計いたし候而ハ相応不致段致返答候付左候ハヽ旦那江者隠置候様桑江為申段潮平申出有之候付宜致返答置候以後何方よりも右様之相談有之候ハヽ屹与可相断与申付置候次第有之是以も牧志よ里自身名前を仮り為致内意証拠ニ而候よし
〈同日〉
一牧志より今度之三司官者正右衛門殿者翁長与被申仁右衛門殿等者野村与被見受候段之咄者自身ニも為承事候得共自身より右両人江内意いたし候様牧志江為申付儀毛頭無之よし
〈同日〉
一廿七日之朝池城殿内より牧志江其方者小禄中使為相勤哉与御尋被成候処中使不相勤段返答為有之次第も承居候よし
〈十月廿二日〉
一太守様御逝去後摂政三司官恩河牧志等御在番所江御用付参上御奉行正右衛門殿御出席蒸気船御買入一件之御用御取戻之段致承知済而御玄官ニ而正右衛門殿より彼之申付被置候御内用も都而御取返之段為致承知由
〈同日〉
一正右衛門殿より
太守様御意与申座喜味殿内之党早々退役為致候様被仰渡候付急ニ退役申付候而ハ一世奉公留之形ニ成り来十二月又者御婚礼付而も紫冠申付候付其節退役さセ候ハヽ不目立様可相成候間右之方江被仰付候而ハ如何可有之哉与申上候処右両度ニ者退役可相成哉与尋有之候付両度ニ者吟味可相成与致返答猶又何かし/\ニ而候哉与尋上候処阿波根喜舎場浦添與那原親方摩文仁親方等之段被申候付與那原ハ自身三司官被仰付與那原御用取扱之躰見候へ者座喜味組合之方ニ者不相見得喜舎場阿波根浦添等ニも自身目前ニ而ハ何楚右組合者与者不相見得段致返答尤摩文仁者其時上国ニ而正右衛門殿尋も無之付弁も不致猶又面立を以星廻したるよし
〈未十一月五日〉
一正右衛門殿より御用付致参上候処
太守様御意与申座喜味殿内組合之者共早々退役さセ候様被仰付候付只今退役させ候ハヽ一世御奉公留之形ニ而候間追々
御婚礼又者十二月之間ハ順々退役罷成可申候間御相中江も御相談之上可取計段申上且人躰ハ與那原親方喜舎場親方阿波根親方浦添親雲上摩文仁親方等与申ニ付興那原親方は御用致 〔以下欠――金城註〕
B 伊志嶺里之子親雲上口問書
〈未八月廿六日〉
一小禄一件付諸官御揃之日宮平親方宅致参上候処濱元里之子親雲上書役翁長里之子親雲上茂参合ニ而焼酎出候付何様之儀ニ而焼酎被召上候哉与申上候処小禄一件付焼酎呑候与被申小禄事一門之腰引
御継目一件ニ而候ハヽ可切殺与怒立候而為被申よし
〈未八月廿六日〉
一入札一件付御揃之段自身申候処右一件之儀者数馬殿宿江小禄殿内池城殿内宮平其外酒宴之時之事ニ而右一件迄之事候ハヽ可相済候得共
御継目一件ニ而候ハヽ可切殺与被申たるよし
〈同日〉
一数馬殿宿ニ而之一件者小禄より今度之三司官ハ野村ニ而可有之与被申たる段為承よし
〈同日〉
一得与相考候得者小禄池城御一同右通為被申段為承覚然共池城親方よ里御内意為被申上段慥ニ為承儀者不覚之よし
〈未九月四日〉
一小禄殿内一件発顕之当日宮平親方宅江参り七ツ時分ニも為相成哉小禄按司松堂親方濱元里之子親雲上書役翁長里之子親雲上其外旅供上江洲等御揃合焼酎被召上候付何様之儀ニ而酒被召上候哉与問上候処小禄一件風聞悪敷焼酎被呑候段御返答有之且風聞ハ何々之事ニ而候哉与申上候処御継目一件三司官内意一件等取沙汰有之候得共御継目一件者邪説ニ而可有之三司官御内意一件ニ而も不相済段為被申よし
〈同日〉
一其時宮平被申候者小禄より三司官一件御内意いたし置候ハヽ大事ニ而可有之候へ共数馬殿ニ而之一件者酔事ニ而其辺迄之事候ハヽ御咎目ニ者不及筈与被申たるよし
〈申閏三月廿四日〉
一去年三月廿七八日之比諸官御揃之日七ツ時分宮平親方宅江為参よし
〈同日〉
一小禄按司松堂親方翁長里之子親雲上濱元里之子親雲上等御出焼酎出為申よし
〈同日〉
一何様之儀ニ而昼焼酎被召上候哉与尋上候処小禄殿内一件御世話到来之由被申候付如何様之儀ニ而可有之哉与尋上候付御役目御内意与申もあり又者御継目一件与申者も有之候得共夫者諸官御吟味之上仮屋江御相談相成候もの有之右之ひづけニ而可有之賦就而ハ御継目一件ニ而ハ有之間敷数馬殿宿ニ而之事者酔事之儀ニ而右一件ニ而者有之間敷実ニ三司官御内意いたし置候ハヽ不都合之儀与為被申よし
〈同日〉
一宮平被酔候而より者御内意仕置候ハヽ殺し候而も可相済与被申たるよし
附小禄按司松堂親方等御帰り後本文通宮平被申たるよし
一其翌日ニ而も為有之哉牧志宅江参り小禄殿内一件相咄数馬殿宅ニ而御内意心地之事為有之哉与相尋候処右心地之事有之其時者池城殿内其外過分之御人数ニ而為有之段牧志為申よし
附池域殿内より御内意為被成筋ニ者不承よし
(「附」以下朱書――金城註)
〈未十月六日〉
一数馬殿宿ニ而酒呑為申事有之右之移違ニ而三司官御内意与びつけたるニ而者有之間敷哉右之事ニ而候ハヽ左程ニハ及間敷与被申候付数馬殿ニ而之事者其方共之申通之様成もの夫者池城殿内等も御一同之事ニ而右一件者有之間敷与親方為被申よし
附池城殿内より御内意御一同ニ被成たる筋ニ而者無之よし
〈申四月廿七日〉
一小禄一件付諸官御揃之日八ツ時ニも為相成哉宮平親方宅江参り候処小禄按司松堂親方書役翁長里之子親雲上桃原村濱元里之子親雲上御揃合焼酎出御咄被成候付何様之事候哉与尋上候処小禄一件付世話出来候与被申候付何様之事ニ而候哉与尋上候得者御継目一件与申邪説もあり又者三司官内意一件与申者もあり御継目一件ニ而者有之間敷夫者諸官御吟味之上仮屋江被御遣たる儀有之其びづけニ而可有之実ニ内意仕置候ハヽ不届候へ共数馬殿宿ニ而之一件ニ而ハ有之間敷哉其時似た事者有之候酔事之儀ニ候其時池城殿内等も御ましよん之事ニ而為有之段宮平為被申よし
C 小禄親方・牧志親雲上口問書〔糺官意見書〕
当四月二日之比與世山親方よ里於仲里御殿申出之趣者恩河親方御奉公留被仰付候以後玉川御殿安村親方御一同御歩行被成候間與世山茂致同伴候様安村よ里承玉川御殿茂與世山江御立寄御一同多和田之御屋取江被参居候砌小禄親方茂彼辺よ里歩行御屋取江奉公人被差遣伺候付御殿よ里小禄茂被召呼椰子抔出ぶうさあ共被成御殿より恩河御奉公留之次第御尋ニ付此儀者自身共罪与被答上再三同断被仰候付終ニ小禄より自身も追々倒り可申其時者みよんぢゆ茂与被申候を承安村與世山ニ茂夜入御両人より先達而為罷帰由
未八月四日小禄親方口問
一恩河御奉公留以後玉川御殿與世山親方安村親方四人玉川御殿多和田之屋取江為参儀者有之よし
一玉川御殿よ里恩河御奉公留之成行御尋有之恩河者物欲ニ迷ひ人を騙し借銭等仕置候付御奉公留為被仰付段御返答為申上よし
未四月十八日牧志親雲上口問
一仁右衛門殿ニ茂今度之三司官者何かしニ而候哉与被申候付野村親方可宜哉与申上此段者壮右衛門殿江通上度申上候処随分奉通候段返答為有之よし
一数馬殿ニ者酒宴御数奇ニ而不断酒宴為有之よし
一池域殿内茂右一件御働為有之よし
一右一件相働候人数者宮平親方恩河親方も能存居候間御問尋有之度よし
一数馬殿江後御宿奥之座小ニ而池城殿内よ里野村被仰付方ニ御取計被下度為被申上よし
附小禄殿内茂往古者入札壱枚入候而も被仰付置候段為被申よし且上之思召次第与も為被申よし
一其時之御人数玉川王子池城親方宮平親方小禄親方恩河親方自身都合六人之覚ひニ而候由
一宮平親方者三味線弾候処取込茶呑なから右次第承不目立之躰相見得為申よし
一玉川御殿も小座江為被参時も有之候得共御口上者不承よし
一仁右衛門殿江茂池城殿内よ里入札枚数等封付御持参ニ而差上被申上置候段為承よし
附仁右衛門殿よ里右次第為承よし
一仁右衛門殿江者小禄殿内よりも被申上置候よし
一仁右衛門殿正右衛門殿江進物等為差上儀無之よし
附差向ニ者難申上候付進物差上不申よし
一池城殿内小禄殿内よ里野村親方江被仰付度被相働候儀者野村江も御約束之上ニ而被相働候形ニ者相見得不申池城小禄御両人者野村与御別懇之事ニ而右通御働為被成様与存候よし
一入札後二三度計右御三人も酒宴為有之事ニ者候得共其時入札一件之御咄茂不承よし
一其時々之人数右御三人並玉川御殿宮平恩河自身七八人程之よし
一野村江被仰付度相働候儀者仁右衛門者御脇々よ里直ニ被相働正右衛門殿ニ者下涯ニ而いまた御近付無之自身者先達而近付罷成居候付被差使たる筈之よし
一右次第池城殿内小禄殿内兼而御口合之上ニ而為有之哉此儀者不相分よし
一数馬殿御宿ニ而ハ池城殿内御手元にて小禄殿内者最初者上之思召次第与申候を池城殿内より山芋ふてと為被申よし
〈未〉十月
D 牧志親雲上口問書
〈未十一月五日口問〉
一数馬殿宿江弓之会之時玉川御殿者座之縁頬江被為在池城殿内者(ママ)自身者小座江罷在候時小禄殿内も盃被持参左候而池城殿内よ里数馬殿江今度之三司官野村者札数相劣候得共野村被伺候而者如何可有之哉与被申上候を小禄よ里左社(さこそ)申候而者不相済与被申候を池城よりかめやつきい山芋ふて与被申候付小禄も御賢慮次第札一枚ニ而も被仰付置候例も有之候与被申数馬殿者私も左様心得被居候段御返答為有之よし
〈同日〉
一宮平親方者三味線弾候所ニ而耳を傾キ承候所不合点之様ニ相見へ為申よし
〈同日〉
一其後数馬殿宿参上之時現札見セ上候様池城殿内江可申上旨被仰渡尤札数者相劣候得共札柄者相勝候段者承候段も致承知登 城之砌池城殿内江右之形行申上候砌小禄殿内茂御出勤ニ付御聞取具志川里之子親雲上御用ニ而現札見セ上候而も可相済哉与被仰下候付往古より現札見セ上置候例無之段申上候付御返答者池城殿内よ里被申上候筋為相成よし
〈未十一月七日〉
一小座江池城殿内小禄殿内被罷居候時数馬殿盃酒被持参池城江盃被遣候時池城よ里数馬殿江野村者札数者相劣候得共人柄ニ而候へ者野村被伺候而者如何可有御座哉与被申候付其通相心得罷居候段数馬殿為被申よし
〈未十一月十四日〉
一池城殿内者小座江被罷在候砌数馬殿盃酒被持寄池城江被差上追而小禄も被差寄此場池城よ里野村者札数者相劣候得共札柄者相勝チ候得者今度者野村被伺候而者如何可有之哉与被申候付数馬殿者左様心得候与被申小禄より者札通之事与被申候を池城より山芋ふてと被申たるよし
〈未十二月二十四日〉
一去々年十一月三司官入札二三日後数馬殿宿ニ而酒宴之時玉川御殿池城殿内小禄殿内伊是名親方恩河親方自身並宮平親方ニ而為有之よし
附御仮屋方より者岩元(ママ)清蔵殿八太郎殿仁右衛門殿柳田正太郎殿ニ而為有之よし
〈同日〉
一其砌池城より数馬殿江野村者札数者相劣候へ共人柄之事候間野村被伺候而者如何可有之哉与被申候を小禄より左様申候而者不相済与被申候付池城よ里山芋ふて与被申候付小禄も御意次第之事むかし者札一枚ニ而も被仰付置候段為被申よし
〈同日〉
一其後右御礼ニ為参儀ニ而も為有之哉数馬殿宿参上之時数馬殿被申候者三司官入札之御届者池城より被申上置候野村者札数者相劣候得共札柄者相勝チ候段も池城より被承候現札見セ上候ハヽ御用御見合ニも可相成候間此段池城江申上候様被仰下登 城之砌池城殿内江右之次第申上候折小禄も御出勤ニ付御一同右次第被承小禄よ里主取江も御尋之上何分可被成旨被申候付自身江主取呼候様被申付主取参上仕候付被相尋主取より現札者此迄不差上札数迄を御届被仰上置候段申上候付御取止相成御返答者池城より被申上候段為被仰下よし
〈同日〉
一其四五日後ニ而も為有之哉御用御案内ニ小禄殿内参上之時小禄より野村者人柄ニ而候得共是迄人ニ被越不便ニ候然共数馬殿仁右衛門殿江者野村被伺筈正右衛門殿者下涯様子不相分候間都合次第仁右衛門殿正右衛門殿□(江カ)通し置候様被申付たるよし
〈同日〉
一十一日十二日又者七八日比ニ而も為有之哉日柄者慥ニ覚ひ不申候得共桑江自身宅江参り小禄より潮平江私ゆへに伊是名牧志等江も相拘さセ気之毒之段為被申由自家裏座ニ而両入居合之上為承よし
〈申二月廿二日〉
一其後正右衛門殿よ里招付参候折正右衛門殿より追々三司官交代三司官方も致入札候哉三司官方者何かし与被見付候哉与尋有之三司官者入札不致且小禄親方等者野村之方人柄与被見受候野村被伺度趣申上候処返答之趣者正右衛門殿ニ者翁長与被見受候翁長者在番勤之時物込等いたし御奉公肝厚し先嶋者毒蛇を殺候者者同船ニ而不烈(ママ)渡俗式ニ而候得共是又列渡陰徳も有之小禄殿内三司官之時も太守様ニ者翁長与被思召上以後者翁長与御内定有之旁以翁長与被相心得候段も為申よし
〈同日〉
一其後仁右衛門殿宿参居候時仁右衛門殿より正右衛門同様尋懸有之野村被伺度申上候処弥心得ニ而候段返答有之たるよし
〈同日〉
一右之首尾小禄者上ノ屋敷江御出付右別荘江参り両人之有様申上候処正右衛門殿申分者落着不罷成与小禄も為被申よし
〈(申カ)三月廿二日〉
一小禄殿内池城殿内小座江被罷在候時数馬殿本座より酒瓶盃被持寄池城殿内江差上返盃済而猶又小禄江被差上左候而池城より数馬殿江野村者入札者相劣候得共人柄ニ而候へ者野村被伺度被申上候付委細致承知候其心得之段御返答為有之よし
〈同日〉
一其時宮平者一間半計間ニ罷居茶を呑候砌耳を傾ケ承不安躰ニ有之たるよし
〈同日〉
一登 城之上右次第池城殿内江申上候処相待候様被申追而小禄も御出勤付右次第被申上候付主取御尋被成候様被申候付自身主取呼候様被申付詰所より呼来候処右次第御尋相成候処先々より札数迄差上現札者差上不申入札者済次第焼収候筋ニ而差上候而ハ差障候段御返答有之候付数馬殿江之御返答者何様可仕哉与申上候処池城殿内より被申上候段為被仰下たる(ママ)よし
〈同日〉
一諸官御揃之翌日伊志嶺里之子親雲上自身宅江参り咄之趣者昨日宮平親方宅江参り候処宮平者焼酎被給世間之邪説通ニ而候ハヽ宮平よりも切殺可申候得共三司官内意一件ニ而候ハヽ池城始被相働たる事ニ而不苦与被申たる段有之候付数馬殿宿ニ而之一件者宮平ニも能聞合之上ニ而候故右通被申候旨為致返答よし
〈申四月廿七日〉
一池城殿内小禄殿内者小座江被罷在候時数馬殿本座表より湯酎瓶盃被持寄池城江御取替之砌池城より野村者札数者相劣候得共人柄ニ而候間野村被伺度被申上候付委細致承知候其心得之段数馬殿被申其折小禄より札次第之事左様申上候而ハ不相済与申付池城より山芋ふて与被申候付猶又小禄も御意次第之事昔者札一枚ニ而も被仰付置候与為被申よし
〈同日〉
一諸官御揃之後伊志嶺里之子親雲上私宅江罷出小禄ハ存外之事右御揃之日者宮平江参り居候処宮平者邪説通ニ而候ハヽ切殺可申候得共数馬殿宿ニ而之事ニ而候ハヽ池城殿内小禄殿内等も御一同之事ニ而不苦与為申段申ニ付其時者御一同ニ而為有之段為致返答よし
〈同日〉
一現札一件池城殿内江申上候付追而小禄も御出勤主取江御尋之砌も自身居合ニ而是迄之御晴目不相替候得共主取之御晴め相替候ハヽ不及是非よし
附主取小禄も御口上不相替由候へ者自身覚違之筋ニ而候よし
〈同日〉
一小禄一件発顕之日小禄より与儀大和ニ而為承一件為致発顕哉与被申候付私付而咄形之事ニ而ハ有之間敷哉与為申上段者後以御晴め申上置候得共是者以前ニ者荒々御晴め申上後ニ者委細申上置候よし且又其時迄者自身中使之段も不相知且右一件発顕ニ付而者呉々世話可致場を世話不致与被仰下候儀者呉々世話ニ者候得共小禄江参り鈞合不致儀者小禄ニ者御役御免被仰付自身に者其時迄者出勤も被仰付置適御役御免之方江出入鈞合いたし候儀者憚ニ存鈞合不致よし
附僅之嫌を以太事之釣合不致儀者不埒之様相見へ候得共自身ニ者本文通之よし
〈同日〉
一小禄より彼故を以野村私迄懸而令迷惑残念之儀与咄たる段者潮平桑江両人より者右様之儀無之段申上候由候得者兎角私覚違ニ而可有之右之咄側ニ居合為承証拠人も無之ニ付而ハ自身覚違之筋又右両人ニ者外ニ係合御晴目申上候儀憚与存候哉右之咄為承儀者無相違候へ共張合ニ者相成不申候よし
〈同日〉
一桑江江中使一件咄形之事者為有之段申達たる儀者自身病気御預之当日其時者自身者前之座より本座江入桑江も後より追来候付座江入早速之事尤其時桑江より自身病気之様子等相尋為申由且桑江より右次第不承筋申上候者兎角御取締ニ付而者実成申上候者事煩敷相成却而其身之障可相成与右通申上候半此上者桑江対面被仰付度よし
〈同日〉
一去年入札之儀硯屏之後ニ而為承与申上懸置候儀者主取より仮屋江入札御届之儀者昔ハ御口上迄ニ而枚数迚不申上候処連々与相替候段為申よし
〈同日〉
一主取詰所より呼来候段申上置候儀者詰所又者ゆるひ之前なとゝハ然々覚ひ不申候得共主取より池城殿内拝ミ御応答為被成時者自身ニも居合ニ而候よし
〈申五月八日〉
一池城殿内小禄者小座江被罷在其時数馬殿湯酎瓶盃持参池城殿内江被差上其時池城殿内より野村者札数者相劣候得共人柄候間野村被伺候而ハ如何可有之哉与被申上候付其心得之段返答有之其時小禄より左様申上候而者不相済与被申ニ付池城より山芋ふて与被申候付猶又小禄もむかし者札一枚ニ而も被仰付置候御意次第与為被申よし
〈同日〉
一主取参り候付池城よ里右次第御達相成候付主取御返答者往古より札数迄差上置候例ニ而現札差上候而ハ不相済段申ニ付私より数馬殿江御返事ハ何様可仕哉与尋上候処池城より御返事被申上候段致承知たるよし
〈同日〉
一小禄兼々遺恨迚も無之其上小禄名を借り致内意万一仁右衛門正右衛門より小禄江中使為有之段引当いたし候ハヽ私ニ者偽作之所相顕可申候へ者小禄名を借り候儀毛頭無之よし
E 糺明官意見書(一)〔糺官吟味之次第〕
一去々年十一月三司官座喜味親方跡御役入札相済候後玉川王子池城親方小禄親方宮平親方恩河親方牧志親雲上数馬殿宿ニ而酒宴之時小座ニ而池城親方よ里数馬殿江今度之三司官者野村親方江被仰付方御取計被下度被申候央小禄よ里札通之事致何角候而者不相済与被申候を池城よ里山芋ふるなと被申候得者小禄よ里むかしハ壱札入札之方江被仰付置例茂有之何分御意次第与被申候を宮平者此時三味線差置湯呑候砌承候模様不安躰ニ有之玉川王子者大窪八太郎殿一同縁頬恩河者岩元(ママ)清蔵殿一同玄喚表江被罷在園田仁右衛門殿御用達等ハ本座三味線弾候者共ニ者右小座次之間江為罷在由牧志申出候
小禄親方一件ニ付諸官御揃之翌日伊志嶺里之子親雲上牧志宅江参噺之趣者昨日伊志嶺宮平親方宅江罷出候処宮平申候者小禄事世上邪説之通ニ而候ハヽ宮平よ里茂不免置候得共数馬殿宿ニ而野村江三司官御内意一件ニ而候ハヽ池城親方始為被相働事ニ而随分可相済与申焼酎為被給段伊志嶺申ニ付数馬殿宿ニ而池城よ里御内意為被致段者宮平ニ茂同席ニ而能存居候付右通被申候与為致返答由牧志申出候
附伊志嶺申出候者小禄親方一件ニ付諸官御揃之翌日牧志宅江参り牧志逢取昨日者宮平親方宅江参候処宮平焼酎被給候付訳合相尋候処小禄一件致無興候数馬殿宿ニ而酒宴之折入札一件為被申事茂有之候得共其節者池城親方等まじゆうんニ而是ニ而者かつミらる間敷現当致御内意置候ハヽ宮平よ里茂不免置与為被申段申聞候処弥池城茂まじゆうんニ而為有之由牧志返答為承段伊志嶺申出候付まじゆうん与者小禄池城一同御内意為被致筋ニ而候哉与問詰候処宮平口上者池城親方茂まじゅうんニ而為有之与為承迄ニ而池城よ里御内意被致候形ニ者不承牧志ニ茂池城よ里御内意被致たるとハ不申聞由申出本文牧志口柄符合不致候
牧志親雲上数馬殿宿参上之時入札枚数者先達而池城親方より相届候野村江者札数相劣候得共札柄者相勝チ候由池城よ里承候現札貰受候ハヽ御用見合相成此段池城江申達候様伝言承御座元御出勤之時右之趣申上池城ニ者現札届上候而茂可相済含ニ相見得候処小禄追々御出右次第被承主取江茂被相尋候様被申候付主取御用ニ而御尋相成候処現札差上候而者不相済段御返答有之現札差上候儀者御取止相成右ニ付数馬殿江御返答者何様可仕哉与申上候処池城よ里御返答被成候段承此段者主取証拠之由
右外今度之三司官者野村江被仰付筈与御咄之序ニ小禄池城よ里為承由牧志申出候
附去々年十一月三司官座喜味親方跡御役入札相済候後池城親方御出勤具志川里之子親雲上申口御座下ニ而多葉粉呑候折縁頬よ里御座江御通之砌被召呼候付拝候処いやゑまづ仮屋よ里入札見候様可相成哉与被仰聞候付是者至極憚之御所望与申上候処あんたへ何様御返答被成可然哉与御尋有之候付入札者
国王目前ニ而披キ書取之上早速焼収之模ニ而格護無之段御返答相成可然与申上候処弥其通御返答可被成与被仰聞尤其時者池城親方御壱人為被成御座由且右之御尋済而後暫間ニ而牧志親雲上上之御座よ里相下候時硯屏之後ニ而入札者焼収候模ニ而候哉与尋有之其通之段返答為致由牧志晴目筋具志川申出与ハ符合不致候
一三司官入札相済候後別御用ニ付小禄親方宅参上之時小禄よ里野村者人柄ニ而候得共是迄人ニ被越不便存候数馬殿仁右衛門殿ニ者野村被伺筈正右衛門殿ニ者下涯様子不相分候間折次第野村被伺候方江夏殿江通し被上度申上候様被申付前条数馬殿宿ニ而池城等よ里御内意之後正右衛門殿宿江夜噺ニ参居候折正右衛門殿より今度之三司官ハ誰々致評判候哉三司官方ハ誰を被見付候哉与尋有之多分野村之方取沙汰いたし又候小禄者野村与被見付候江夏殿江野村之方被伺度申上候処正右衛門殿ニ者落着無之由牧志申出候
右ニ付野村御内意一件者小禄池城其外ニ茂組合者可罷在積実成申出候様段々問詰候処兎角肝と肝のちやあひニ而為被致内意哉寄合為致相談儀者毛頭不承由申出候付拷問拶指等を以致穿鑿候得共右通不相替由申出候
右通牧志晴目筋之上を以池城親方尋上候方致吟味候処数馬殿宿小座ニ而野村親方江三司官被仰付方ニ御取計被下度御内意為申上儀無之且野村江入札枚数ハ相劣候得共札柄ハ相勝チ候与数馬殿江為申上儀も無之牧志ニ付而現札見せ候様ニと之御沙汰者最初入札之御届ハ私より申上候付右通為被申遣半今度之三司官者野村江被仰付筈与牧志江噺為申聞儀茂無之抔与被申募候節牧志対決さセ候而茂右内意之儀ニ付池城小禄牧志等為致直談も無之張合相成候ハヽ屹与可取懸責句無之其上牧志晴目之内正右衛門殿より三司官方者誰を見付候哉与之尋者数馬殿宿ニ而池城よ里御内意為致与之日よ里後之事ニ而牧志ニ茂野村江心を寄居候上者好キ折おのつから小禄池城者野村を見付居候段可申聞場ニ小禄計之見付与為申聞儀晴目筋聞得不申殊ニ現札一件池城口上者具志川証拠数馬殿宿ニ而之事宮平申分者伊志嶺証拠之(ママ)成ニ牧志申出候処具志川申出之上を以者数馬殿より現札所望池城者存外之語気ニ而野村札数者相劣候得共札柄ハ相勝チ候与数馬殿江申聞候者如何様牧志自分之言葉を池城よ里数馬殿江為申聞形ニ申成し候茂難計且宮平口上茂池城よ里御内意為致筋ニ者不承段伊志嶺達而申出候を牧志ニ者池城始御内意為被相働与之申分伊志嶺口柄符合不致候惣而糺明筋者証拠証跡ニ基キ取扱仕候御法様ニ而縦令一同聞合之者共罷在候而茂口柄符合不致外ニ引当可相成証拠無之候得者何分ニ茂首尾難引結事候処右通牧志晴目筋聞得不申候上証拠申出候茂符合不致旁以牧志晴目筋難取持何れ外ニ手懸可相成証拠手強相成不申内者池城江手を附候儀罷成間敷与いつれ茂吟味仕候事
〈未〉
十一月
F 糺明官意見書(二)〔伊江王子・摩文仁親方・宇地原親方〕
小禄親方牧志親雲上晴目筋之儀当分張合相成就而者疑之情犯を以罪科被仰付度役人共申出世名城里之子親雲上ニ者猶糺方被仰付度申出候依之吟味仕候者御咎目向之儀明白糺付所犯相当ニ不被仰付候而不叶事候処役人共見付之通疑之情犯を以罪科被召行候而者従者ハ張本ニ相成不穏儀御座候小禄糺明筋いまた不行届所より白状不致積奉存候間猶口問等委敷取調部糺明筋精々手を尽候ハヽ白状又は証拠可相成儀共致出来所犯明白相成相当之御取扱相成可申哉与存当申候此段申上候以上
六月
宇地原親方
摩文仁親方
右吟味之通同意存申候以上
六月 伊江王子
G 糺明官意見書(三)
一方之吟味八議之人品証拠証跡迚も無之拶指拷問も十二座ニ及此上者仕過ニ可相及候付疑之情犯を以罪科相擬り首尾方被仰付度趣ニ相見得候処別冊伊志嶺里之子親雲上口問ニ相見得候通小禄一件ニ付諸官御揃之日八ツ時分ニも為相成哉宮平親方宅江参り候処小禄按司松堂親方書役翁長里之子親雲上桃原村濱元里之子親雲上揃合焼酎出御咄被成候付何様之事候哉与尋上候処小禄一件付世話出来候与被申候付何様之事候哉与尋上候得者御継目一件与申邪説もあり又者三司官内意一件与申者もあり御継目一件ニ而ハ有之間敷夫者諸官御吟味之上仮屋江被御遣たる儀有之其ひづけニ而可有之実ニ内意仕置候ハヽ不届候得共(「数馬」と書き抹消さる――金城註)何某殿宿ニ而之一件ニ而者有之間敷哉其時似た事者有之候酔事之儀ニ候其時池城殿内茂御ましよん之事ニ而為有之段宮平為被申由且牧志親雲上申披キ之内諸官御揃之翌日伊志嶺里之子親雲上自身宅江参り噺之趣者昨日宮平親方宅江参り候処宮平者焼酎被給世間之邪説通ニ而候ハヽ宮平よりも切殺可申候得共三司官内意ニ而候ハヽ池城始為被相働事ニ而不苦与為被申段有之候付(「数馬」と書き抹消さる――金城註)何某殿宿ニ而之一件者宮平ニも能聞合之上ニ而侯故右通被申候旨致返答たる由両人之口柄趣意致符合居候付而ハ此所細密取調部小禄江手懸り可相成桁々吟味可致之処無其儀証拠証跡迚も無之段申出就而者宮平帰帆之上相尋猶証拠証跡を可相求筈之処是又差押当分通小禄張通シ之形を以疑之情犯ニ而夫々罪科相擬首尾方被仰付度与之趣私共ニ者何共同意難成事御座候間小禄牧志伊志嶺等口問書御覧之上何分御治定有御座度口問書五冊取添差上申候以上
〈申〉
八月
H 糺明官意見書(四)〔平等方糺明向〕
今般平等方糺明向一件付奉行役々等見立相替候付宇地原親方召寄宮平親方帰帆之上問届候手筋致問尋弥問届候方ニ被仰付候ハヽ双方召寄可相達旨申達候処此儀一分ニ而者究而難申出伊江王子江茂御口合之上何分可申出与罷帰追而王子并摩文仁親方宇地原被罷出宮平帰帆之上問届候方ニ被仰付候ハヽ双方打組ニ而者糺方不相調自然打組糺方被仰付候ハヽ御免被仰付度被申出趣致承達宮平帰帆之上問届候儀者糺明向係合之筋相見得候付此儀者弥被申出通被仰付尤双方打組糺方被仰付候ハヽ御免被仰付度被申出候得共此節平等方御用筋之儀至而重立候付奉行役々被召附此程折角取詰手を附置候付而者猶精々熟談を遂早々首尾全引結候様無之候而不叶右之趣奉伺候処双方熟談を以宮平帰帆之上筋々明白ニ問届候様
御意被成下候間被奉拝承此涯双方熟談を以宮平帰帆之上問届候儀者勿論最初よ里之御用筋早々首尾全引結候様御取計可被成事
〈申〉
九月十七日
I 糺明官意見書(五)〔断片〕
本文吟味之上を以者牧志より誣告之形ニ相見得尤摩文仁親方江小禄不取懸所迄を以越度ニ召成牧志晴目筋も取添疑之情犯を以罪科被仰付度与之申立ニ而候得共成程摩文仁江不取懸所者不届候得共太郎左衛門江書状差遣為致内意儀ニ而者無之以後者何分相知不申与黙止居為申段申晴候ハヽ儘差通不申候而不叶儀を外ニ手懸可相成明間之所ハ差押ひ右通之吟味筋何共難存付御座候
附仁右衛門江内意為致段太郎左衛門書状ニ相見へ小禄書状不差遣段は是以相知申候
J 糺明官意見書(六)〔断片〕
本文拶指之用様当分通清律ニ茂相見得尤律外之刑具相用間敷旨嘉慶十二年十六年ニ茂
上諭被為在候付吟味之上跡々よ里召留置候趣相認置候処於御当地ニ者適申冠船之時巡捕官江相附習受被仰付及
上聞既ニ御法ニ相成居候を何分御差図茂不仕平等方吟味迄ニ而召留置候段之申出甚聞へ不申候事
K 糺明官意見書(七)〔断片〕
糺明向ニ相携候方者第一義理正道を以軽重過不足之差ひ無之様可相嗜儀本意ニ而可有之勿論恩恵ハ
上よ里出申筈之儀を本文之趣を以ハ御恩恵被召行度趣ニ相見得下として相応不致吟味与存当申候事
L 糺明官意見書(八)〔断片〕
本文之趣者李禧耿韜糺明之時致夾訊置候付向後者三品以上之大臣罪譴ニ羅り候節者
旨を奉りて職を改め拿め問ひ法司茂又にわかに気を加ふ事不得もし夾訊せすんハ不得るものあらハ亦必す
旨を請ふへし与之
上諭科律ニ茂八議之人品者右通之趣相見得候付右両段共及言上相済候上最初者仲里按司宅ニ而問届不致白状候付平等方江召込拷問拶指等相用させ候事
M 糺明官意見書(九)〔断片〕
小禄実ニ三司官内意不致事候ハヽ牧志中使為致訳池城親方よ里御達之砌不図怒を発し努々右様之儀無之此儀牧志よ里私名を借り為申積候間屹与御糺方被仰付度旨申上猶子共弟等門中之内を茂召寄右成行申聞子弟等門中ニ付而茂糺願可為致之処右様之取計茂不致池城親方よ里御尋之砌御糺之上何分被仰付度申上置候付其篇ニ而可相済与相心得候上翌々廿九日濱比嘉親方浦添親雲上御使を以御役御断可申上与之
御意被成下
御意重奉存何分願立不申段之晴目筋聞へ不申候
附牧志晴目之内ニ小禄名を借り致内意万一仁右衛門正右衛門よ里小禄江中使為有之段引当いたし候ハヽ私ニ者偽作之所相顕れ可申候得者小禄名を借り候儀者毛頭無之段達而申出候
N 糺明官意見書(十)〔断片〕
本文桑江者致寄せ尋潮平江者右之取計無之候を潮平桑江口柄不相替牧志晴目筋不束ニ相成候与之吟味落着難成事御座候