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資料詳細
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
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- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
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- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-74-12 福建布政使司より琉球国中山王尚穆あて、厳禁の大黄の収買を許可する上諭を通知する旨の咨文(乾隆五十四《一七八九》、閏五、二)
福建等処承宣布政使司、上諭を欽奉する事の為にす。
乾隆五十四年三月初十日、巡撫部院徐(嗣曾)の憲牌を奉けたるに、乾隆五十四年三月初九日、兵部の火票もて逓到せる大学士公阿(桂)、大学士伯和(珅)の字寄を准けたるに、盛京将軍、直隷・山東・江南・閩浙・広東の各督撫、乾隆五十四年二月二十六日、上諭を奉ず。
現在、洽克図は俄羅斯と貿易するを准さず。而れども大黄一種は尤も俄羅斯の必需の物たれば、已に節次に旨を降し、新疆の駐箚大臣に俄羅斯に通ずべきの処所に于て厳密に査禁し、私行、透漏の情事有るを許す毋かれ、と伝諭せしむ。嗣いで明亮、福崧等の奏に拠るに、喀什噶爾・阿克蘇等の処に在りて大黄を私販して竟に数千余斤の多き有るを査出す。復た旨を降し分別して厳しく治罪するにより、其の失察せるの大臣等は部に交して議処せしめ、並びに図薩布、仏寧に諭令して広東沿海関口に于て一体に厳飭して寔力稽査せしめ、奸商の大黄を私販して出洋するを許す毋からしむ。即ち澳門貿易の洋行も亦た其れを透漏して夾帯するに任にするを得ざらしむ。本日、又、伊桑阿の奏に拠るに、哈密地方に于て大黄五千余斤を私販するを査出し、已に各犯を将て勒保等に解交し審辦せしむ、等の語あり。已に另に清字の諭旨を降し、勒保等をして審辦せしむ。因りて思うに、各省地方は特だに広東のみ洋面に瀕臨するのみならず、即ち盛京・直隷・山東・閩浙・江南等の省も倶沿海の口岸有り。現在、粤省は已経に飭禁すると雖も、而れども奸商等、或いは又、各該省の海道より大黄を将て私販して出洋し、俄羅斯と附近せる番地に偸売し、転售して利を獲るを希図するも亦た未だ定むべからず。着して盛京将軍、直隷・江南・閩浙・山東の各督撫に伝諭し、各沿海口岸に於て飭属して寔力稽査せしめ、内地の奸商の私かに大黄を将て偸販し、番船に売与して夾帯し出洋するを許す毋かれ。並びに広東督撫に着して務めて宜しく前旨を遵照し厳しく査禁するを行じ、稍も偸漏有る毋からしめよ。此の由を将て四百里に各伝諭し之を知らしめよ、とあり。此れを欽めり。旨に遵いて寄信して前来せり。院に到れば司に行る。此れを奉けたり。
又、旨諭を欽奉する事の為にす。
乾隆五十四年五月十三日、巡撫部院徐(嗣曾)の憲案を奉けたるに、乾隆五十四年五月十二日、火票もて逓到せる大学士伯和(珅)の字寄あり。盛京将軍、直隷・江南・閩浙・山東・陜甘・広東の各督撫、乾隆五十四年四月二十一日、上諭を奉ず。
前因に内地の大黄一種は俄羅斯の必需の物たれば透漏を致すを恐る。節次、新疆の駐箚大臣に伝諭して厳密に査禁し、並びに瀕臨の海口、各省に諭令して一体に寔力稽査し、奸商の私行、偸販を許す毋かれ。本日、伍拉納等の覆奏に拠るに、毎年興泉永道をして五百斤を官買せしめ、台湾鎮道に帯交して各舗に配発して価を繳めて領售す。其れ琉球貢使の回国するに薬料を購買せんとする時は、需むる所の大黄は毎歳三、五百斤の数を逾えるを得ず、官伴人等の夾帯するを許す無し、等の語あり。辦ずる所、甚だ是なり。此より沿海の関口、査禁すること森厳にして、各省、寔力もて奉行すれば、奸商の私販の弊は杜絶するを期すべし。第だ思うに、大黄一種は内地の薬餌の必需の所たれば、若し禁を設くること厳に過ぎれば、以て販運前まざるを致さん。民間に於ても亦た未だ便ならざること有り。即ち台湾一郡の如きは、遠く海外に在ると雖も、究に内地に属す。該処は向より瘴疫多く、民間療治に大黄を常用す。是れ此の種の薬物は更に欠くべからず。総じて須らく員弁等に飭令し、妥く経理を為さしむべし。既に商販をして暗に外洋に漏らしめず。復た民人をして療疾に資するを得さしめ、欠乏するを虞るる無からしめば方めて、噎に因りて食を癈する致さざるなり。回部地方に至りては、内地と気候同じからず、本より大黄を需む無かるべきの処なれば、況んや安集延は俄羅斯と道路通ずべければ、如し回地に運販すれば転輾として偸漏するの情弊無きを保ち難し。著して勒保に伝諭し、嘉峪等の処に于て緊要の関隘にては、必ず須らく厳しく飭禁するを行わしめ、糸毫も夾帯するを准さざれば、方に妥善たるべし。此れを将て各伝諭して之を知らしめよ、とあり。此れを欽めり。旨に遵い寄信して前来す。院に到れば司に行る。此れを奉けたり。
茲に遣発の期に当たれば、合に就ちに移知すべし。此れが為に貴国王に備咨す。請煩わくは査照して一体に欽遵し施行せられんことを。
須らく咨に至るべき者なり。
右、琉球国中山王尚(穆)に咨す
乾隆五十四年(一七八九)閏五月初二日
注*本文書の咨覆は〔七五―二二〕である。
(1)火票 北京から地方へ公文書を発送する際に兵部から各駅へ交付する旅程及び発着日時等を記載した証明書(『清国行政法』第三巻、三四五頁)。
(2)大学士 内閣を構成する役職。大学士四名(満洲人二人、漢人二人)、協辦大学士二名(満洲人一名、漢人一名)などがあり、皇帝が下すべき上諭の草案の起草(これを票擬または票簽という)を主な任務とする。
(3)阿(桂) 康煕五十六~嘉慶二年(一七一七~九七)。満洲正藍旗の人。乾隆三年の挙人。金川、ジュンガル、回部の征討に従い、二十五年に伊犁(イリ)に駐屯し功績をあげる。二十八年軍機大臣、三十二年伊犁将軍となる。その後も緬甸(ミャンマー)、金川などを平定。これにより四十一年誠謀英勇公となり、協辦大学士となった。その間内閣大学士などを務めた(『清史稿』巻三一八、「列伝」一〇六)。
(4)字寄 軍機処より出される機密文書の一つ。雍正帝以後、軍機処が皇帝に代わって各大臣に送った書簡で諭旨を伝える文書の冒頭に置いた。乾隆年間には「某臣某字寄某大臣、某年某月某日、上諭を奉ず」のように、字寄の語の前に「軍機大臣の官称、姓名」を書いた。乾隆以後は単に「軍機大臣字寄某大臣、某年某月某日、上諭を奉ず」とだけ記した(劉文傑『歴史文書用語辞典』四川人民出版社、一九八八年、参照)。
(5)盛京将軍 盛京省(ほぼ今の遼寧省に相当する)の駐防八旗の総帥。乾隆三十年まで奉天府の府尹大臣(民政長官)を兼管したが、以後は省最高の武官として、軍政の全権を掌握し、また旗人に関する事務を統括した(『清国行政法』第二篇第四章第二節参照)。
(6)洽克図 恰克図と同じ。地名。キャフタ。現在のブリヤート共和国の都市。ロシア連邦に属す。蒙古との国境に近い。一六八九年のネルチンスク条約でロシアと清国の間で両国は国境を定め、一七二七年のキャフタ条約によりロシア・清国の交易の地となった。これらの条約は満洲語、ラテン語、ロシア語で記された。
(7)俄羅斯 ロシア。
(8)大黄 漢方生薬の一つ。瀉下作用があり、下剤、健胃剤として珍重される。タデ科の植物でその根茎を乾燥させて用いる。根茎が黄色いことから大黄と称される。
(9)駐箚 任地に留まる。
(10)明亮 富察氏。満洲鑲黄旗の人。乾隆三十年伊犂領隊大臣となり、四十八年伊犂将軍となる。その後鑲紅旗蒙古都統、刑部尚書などを歴任した(『清史稿』巻三三〇、「列伝」一一七)。
(11)福崧 ?~乾隆五十七年(一七九二)。烏雅氏。満洲正黄旗の人。乾隆四十七年浙江巡撫、五十二年阿克蘇辦事大臣となり、五十四年葉爾羌参賛大臣となる(『清史稿』巻三三八、「列伝」一二五)。
(12)喀什噶爾 地名。カシュガル。現在の新疆ウイグル自治区西部にある都市の一つ。タクラマカン砂漠西端に位置する。
(13)阿克蘇 地名。アクス。現在の新疆ウイグル自治区西部にある都市の一つ。タクラマカン砂漠北辺に位置する。
(14)図薩布 乾隆五十一年五月から五十四年六月まで広東巡撫(『清史稿』巻二〇二、「疆臣年表」六)。
(15)仏寧 乾隆五十四年二月二十一日付けの奏摺に粤海関監督として名がみえる(『宮中檔乾隆朝奏摺』第七一輯、三〇四~三〇五頁)。
(16)洋行 清代、外国貿易を独占していた官許商人団(中国商人)の通称。
(17)伊桑阿 満洲鑲黄の人。挙人。乾隆五十一年から五十四年まで哈密辦事大臣(『清代職官年表』、『清史稿』巻二〇六、「疆臣年表」十)。
(18)哈密 地名。ハミ。新疆ウイグル自治区東部にある都市の一つ。
(19)勒保 費莫氏。字は宜軒。謚は文襄。満洲鑲紅旗の人。乾隆五十一年九月から五十三年七月まで山西巡撫を務めた。五十二年六月からは陝甘総督を兼任した(『清史稿』巻三四四、「列伝」一三一)。
(20)清字の諭旨 満洲語のみの諭旨。
(21)偸売 こっそりと売る。密売。
(22)安集延 地名。アンディジャン。現在のウズベキスタン東端のフェルガナ盆地に位置する。
(23)回地 イスラム教徒の住む土地。
(24)関隘 関津把隘。関津は水陸の交通上の要衝。把隘は軍事上の要所か。
福建等処承宣布政使司、上諭を欽奉する事の為にす。
乾隆五十四年三月初十日、巡撫部院徐(嗣曾)の憲牌を奉けたるに、乾隆五十四年三月初九日、兵部の火票もて逓到せる大学士公阿(桂)、大学士伯和(珅)の字寄を准けたるに、盛京将軍、直隷・山東・江南・閩浙・広東の各督撫、乾隆五十四年二月二十六日、上諭を奉ず。
現在、洽克図は俄羅斯と貿易するを准さず。而れども大黄一種は尤も俄羅斯の必需の物たれば、已に節次に旨を降し、新疆の駐箚大臣に俄羅斯に通ずべきの処所に于て厳密に査禁し、私行、透漏の情事有るを許す毋かれ、と伝諭せしむ。嗣いで明亮、福崧等の奏に拠るに、喀什噶爾・阿克蘇等の処に在りて大黄を私販して竟に数千余斤の多き有るを査出す。復た旨を降し分別して厳しく治罪するにより、其の失察せるの大臣等は部に交して議処せしめ、並びに図薩布、仏寧に諭令して広東沿海関口に于て一体に厳飭して寔力稽査せしめ、奸商の大黄を私販して出洋するを許す毋からしむ。即ち澳門貿易の洋行も亦た其れを透漏して夾帯するに任にするを得ざらしむ。本日、又、伊桑阿の奏に拠るに、哈密地方に于て大黄五千余斤を私販するを査出し、已に各犯を将て勒保等に解交し審辦せしむ、等の語あり。已に另に清字の諭旨を降し、勒保等をして審辦せしむ。因りて思うに、各省地方は特だに広東のみ洋面に瀕臨するのみならず、即ち盛京・直隷・山東・閩浙・江南等の省も倶沿海の口岸有り。現在、粤省は已経に飭禁すると雖も、而れども奸商等、或いは又、各該省の海道より大黄を将て私販して出洋し、俄羅斯と附近せる番地に偸売し、転售して利を獲るを希図するも亦た未だ定むべからず。着して盛京将軍、直隷・江南・閩浙・山東の各督撫に伝諭し、各沿海口岸に於て飭属して寔力稽査せしめ、内地の奸商の私かに大黄を将て偸販し、番船に売与して夾帯し出洋するを許す毋かれ。並びに広東督撫に着して務めて宜しく前旨を遵照し厳しく査禁するを行じ、稍も偸漏有る毋からしめよ。此の由を将て四百里に各伝諭し之を知らしめよ、とあり。此れを欽めり。旨に遵いて寄信して前来せり。院に到れば司に行る。此れを奉けたり。
又、旨諭を欽奉する事の為にす。
乾隆五十四年五月十三日、巡撫部院徐(嗣曾)の憲案を奉けたるに、乾隆五十四年五月十二日、火票もて逓到せる大学士伯和(珅)の字寄あり。盛京将軍、直隷・江南・閩浙・山東・陜甘・広東の各督撫、乾隆五十四年四月二十一日、上諭を奉ず。
前因に内地の大黄一種は俄羅斯の必需の物たれば透漏を致すを恐る。節次、新疆の駐箚大臣に伝諭して厳密に査禁し、並びに瀕臨の海口、各省に諭令して一体に寔力稽査し、奸商の私行、偸販を許す毋かれ。本日、伍拉納等の覆奏に拠るに、毎年興泉永道をして五百斤を官買せしめ、台湾鎮道に帯交して各舗に配発して価を繳めて領售す。其れ琉球貢使の回国するに薬料を購買せんとする時は、需むる所の大黄は毎歳三、五百斤の数を逾えるを得ず、官伴人等の夾帯するを許す無し、等の語あり。辦ずる所、甚だ是なり。此より沿海の関口、査禁すること森厳にして、各省、寔力もて奉行すれば、奸商の私販の弊は杜絶するを期すべし。第だ思うに、大黄一種は内地の薬餌の必需の所たれば、若し禁を設くること厳に過ぎれば、以て販運前まざるを致さん。民間に於ても亦た未だ便ならざること有り。即ち台湾一郡の如きは、遠く海外に在ると雖も、究に内地に属す。該処は向より瘴疫多く、民間療治に大黄を常用す。是れ此の種の薬物は更に欠くべからず。総じて須らく員弁等に飭令し、妥く経理を為さしむべし。既に商販をして暗に外洋に漏らしめず。復た民人をして療疾に資するを得さしめ、欠乏するを虞るる無からしめば方めて、噎に因りて食を癈する致さざるなり。回部地方に至りては、内地と気候同じからず、本より大黄を需む無かるべきの処なれば、況んや安集延は俄羅斯と道路通ずべければ、如し回地に運販すれば転輾として偸漏するの情弊無きを保ち難し。著して勒保に伝諭し、嘉峪等の処に于て緊要の関隘にては、必ず須らく厳しく飭禁するを行わしめ、糸毫も夾帯するを准さざれば、方に妥善たるべし。此れを将て各伝諭して之を知らしめよ、とあり。此れを欽めり。旨に遵い寄信して前来す。院に到れば司に行る。此れを奉けたり。
茲に遣発の期に当たれば、合に就ちに移知すべし。此れが為に貴国王に備咨す。請煩わくは査照して一体に欽遵し施行せられんことを。
須らく咨に至るべき者なり。
右、琉球国中山王尚(穆)に咨す
乾隆五十四年(一七八九)閏五月初二日
注*本文書の咨覆は〔七五―二二〕である。
(1)火票 北京から地方へ公文書を発送する際に兵部から各駅へ交付する旅程及び発着日時等を記載した証明書(『清国行政法』第三巻、三四五頁)。
(2)大学士 内閣を構成する役職。大学士四名(満洲人二人、漢人二人)、協辦大学士二名(満洲人一名、漢人一名)などがあり、皇帝が下すべき上諭の草案の起草(これを票擬または票簽という)を主な任務とする。
(3)阿(桂) 康煕五十六~嘉慶二年(一七一七~九七)。満洲正藍旗の人。乾隆三年の挙人。金川、ジュンガル、回部の征討に従い、二十五年に伊犁(イリ)に駐屯し功績をあげる。二十八年軍機大臣、三十二年伊犁将軍となる。その後も緬甸(ミャンマー)、金川などを平定。これにより四十一年誠謀英勇公となり、協辦大学士となった。その間内閣大学士などを務めた(『清史稿』巻三一八、「列伝」一〇六)。
(4)字寄 軍機処より出される機密文書の一つ。雍正帝以後、軍機処が皇帝に代わって各大臣に送った書簡で諭旨を伝える文書の冒頭に置いた。乾隆年間には「某臣某字寄某大臣、某年某月某日、上諭を奉ず」のように、字寄の語の前に「軍機大臣の官称、姓名」を書いた。乾隆以後は単に「軍機大臣字寄某大臣、某年某月某日、上諭を奉ず」とだけ記した(劉文傑『歴史文書用語辞典』四川人民出版社、一九八八年、参照)。
(5)盛京将軍 盛京省(ほぼ今の遼寧省に相当する)の駐防八旗の総帥。乾隆三十年まで奉天府の府尹大臣(民政長官)を兼管したが、以後は省最高の武官として、軍政の全権を掌握し、また旗人に関する事務を統括した(『清国行政法』第二篇第四章第二節参照)。
(6)洽克図 恰克図と同じ。地名。キャフタ。現在のブリヤート共和国の都市。ロシア連邦に属す。蒙古との国境に近い。一六八九年のネルチンスク条約でロシアと清国の間で両国は国境を定め、一七二七年のキャフタ条約によりロシア・清国の交易の地となった。これらの条約は満洲語、ラテン語、ロシア語で記された。
(7)俄羅斯 ロシア。
(8)大黄 漢方生薬の一つ。瀉下作用があり、下剤、健胃剤として珍重される。タデ科の植物でその根茎を乾燥させて用いる。根茎が黄色いことから大黄と称される。
(9)駐箚 任地に留まる。
(10)明亮 富察氏。満洲鑲黄旗の人。乾隆三十年伊犂領隊大臣となり、四十八年伊犂将軍となる。その後鑲紅旗蒙古都統、刑部尚書などを歴任した(『清史稿』巻三三〇、「列伝」一一七)。
(11)福崧 ?~乾隆五十七年(一七九二)。烏雅氏。満洲正黄旗の人。乾隆四十七年浙江巡撫、五十二年阿克蘇辦事大臣となり、五十四年葉爾羌参賛大臣となる(『清史稿』巻三三八、「列伝」一二五)。
(12)喀什噶爾 地名。カシュガル。現在の新疆ウイグル自治区西部にある都市の一つ。タクラマカン砂漠西端に位置する。
(13)阿克蘇 地名。アクス。現在の新疆ウイグル自治区西部にある都市の一つ。タクラマカン砂漠北辺に位置する。
(14)図薩布 乾隆五十一年五月から五十四年六月まで広東巡撫(『清史稿』巻二〇二、「疆臣年表」六)。
(15)仏寧 乾隆五十四年二月二十一日付けの奏摺に粤海関監督として名がみえる(『宮中檔乾隆朝奏摺』第七一輯、三〇四~三〇五頁)。
(16)洋行 清代、外国貿易を独占していた官許商人団(中国商人)の通称。
(17)伊桑阿 満洲鑲黄の人。挙人。乾隆五十一年から五十四年まで哈密辦事大臣(『清代職官年表』、『清史稿』巻二〇六、「疆臣年表」十)。
(18)哈密 地名。ハミ。新疆ウイグル自治区東部にある都市の一つ。
(19)勒保 費莫氏。字は宜軒。謚は文襄。満洲鑲紅旗の人。乾隆五十一年九月から五十三年七月まで山西巡撫を務めた。五十二年六月からは陝甘総督を兼任した(『清史稿』巻三四四、「列伝」一三一)。
(20)清字の諭旨 満洲語のみの諭旨。
(21)偸売 こっそりと売る。密売。
(22)安集延 地名。アンディジャン。現在のウズベキスタン東端のフェルガナ盆地に位置する。
(23)回地 イスラム教徒の住む土地。
(24)関隘 関津把隘。関津は水陸の交通上の要衝。把隘は軍事上の要所か。