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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
1-43-04 王相懐機より旧港の管事官あて、永楽十九年に暹羅まで送った旧港の人々の消息をたずね、交易を請う書簡(一四二八、一〇、五)
琉球国王相懐機、端粛して書を旧港の管事官閣下に奉る。
永楽十九年(一四二一)の間より、日本国九州の官源道鎮、旧港の施主烈智孫の差来せる那弗答鄧子昌等二十余名を送到するに、国に到れば告して逓送して回国するを乞わしむ、とあるを准く。此れを准け、能く諳んずるの火長無きに縁るも、思うに遠人に係われば以て久しく留め難し。未だ敢えて擅便せず。国王に啓し、敬んで即便に差を蒙り、正使闍那結制等をして海船一隻を駕使して已に暹羅国に到れば仍お転送を為すを乞うを行わしむるを除く外、未だ到れるや否やを知らず。
今、本国の頭目実達魯等、小船一隻を駕使して磁器等の貨を装載し、貴国に到りて買売する有り。仍お尺楮をして実達魯等に付し、旧港の管事官の前に前到し、告稟して回報せしむ。今、礼物を備えて馳送し、少しく遠意を伸ぶ。万望むらくは笑留せよ。所有の今去く人船は煩為わくは買売を寛容し、風迅に赶趁して回国せしめんことを。四海一家を為し永く往来を通ずるに便益なるに庶からん。今、礼物を将て後に開坐す。草字不宣。
今開す
素段五匹 鎖子甲二領
衮刀二柄 腰刀二柄
摺扇十把
宣徳三年(一四二八)十月初五日 書を奉る
注(1)旧港 〔四三-〇八〕注(2)旧港を参照。『歴代宝案』には旧港あての文書が十一通あり、これを対象とした小葉田淳・東恩納寛惇・安里延氏らの研究がある。和田久徳「十五世紀初期のスマトラにおける華商社会」(『お茶の水女子大学人文科学紀要』二〇、昭和四十二年三月)は、これらに修正や異なる解釈を加えたもので、本巻の旧港に関わる注の多くはこれに拠る。なお、宣徳三年の旧港あて文書として、本文書の他に国王咨〔四〇-〇六〕、執照〔四二-〇一〕がある。
(2)永楽十九年の間より…乞わしむ 永楽十七年(応永二十六・一四一九)薩摩の阿多氏領内に来着した南蛮船を、九州探題渋川満頼が永楽十九年に琉球に回送して、本国への送還を依頼した。この件の詳細については、関連の古文書を発見した高柳光寿「応永年間に於ける南蛮船来航の文書について」(『史学雑誌』四三の八、昭和七年)や、小葉田淳『増補中世南島通交貿易史の研究』(臨川書店、平成五年、四六五-四七二頁)を参照。なお、「自永楽十九年間」の「より」は懐機文稿に多出するが、「に於て」の意で、ある一定の時点をさす。
(3)源道鎮 渋川満頼。一三七二-一四四六年。渋川氏は清和源氏足利氏の流れをくみ、満頼は出家して道鎮を名のった。九州の官とはここでは足利幕府の九州探題で、渋川満頼は応永三年(一三九六)から二十六年までその任にあった。
(4)施主烈智孫 施亜烈済孫の誤写(主と亜は字形の相似により、智と済は字音の類似による)であろう。亜烈はジャワのマジャパヒト朝で用いられたaryaで、栄誉を意味するサンスクリット起源の語に由来する官爵。施済孫は、永楽五年に明朝から旧港宣慰使に任命された広東出身の施進卿の子で、永楽二十二年に宣慰使を襲職した(前掲和田論文)。
(5)那弗答 ペルシャ語na-khudaからきたマライ語nakhodaの音訳で、船主を意味する(前掲和田論文)。
(6)国王 琉球国王。
(7)已に…乞う 暹羅に到着したらそこで転送をお願いする、の意。
(8)実達魯等…遠意を伸ぶ 〔四〇-〇六〕〔四二-○一〕を参照。
(9)尺楮 手紙。
(10)草字不宣 草字は自己の字の謙称。不宣は友人間の手紙の末尾に記す語で、十分に意を述べつくさない、の意。
琉球国王相懐機、端粛して書を旧港の管事官閣下に奉る。
永楽十九年(一四二一)の間より、日本国九州の官源道鎮、旧港の施主烈智孫の差来せる那弗答鄧子昌等二十余名を送到するに、国に到れば告して逓送して回国するを乞わしむ、とあるを准く。此れを准け、能く諳んずるの火長無きに縁るも、思うに遠人に係われば以て久しく留め難し。未だ敢えて擅便せず。国王に啓し、敬んで即便に差を蒙り、正使闍那結制等をして海船一隻を駕使して已に暹羅国に到れば仍お転送を為すを乞うを行わしむるを除く外、未だ到れるや否やを知らず。
今、本国の頭目実達魯等、小船一隻を駕使して磁器等の貨を装載し、貴国に到りて買売する有り。仍お尺楮をして実達魯等に付し、旧港の管事官の前に前到し、告稟して回報せしむ。今、礼物を備えて馳送し、少しく遠意を伸ぶ。万望むらくは笑留せよ。所有の今去く人船は煩為わくは買売を寛容し、風迅に赶趁して回国せしめんことを。四海一家を為し永く往来を通ずるに便益なるに庶からん。今、礼物を将て後に開坐す。草字不宣。
今開す
素段五匹 鎖子甲二領
衮刀二柄 腰刀二柄
摺扇十把
宣徳三年(一四二八)十月初五日 書を奉る
注(1)旧港 〔四三-〇八〕注(2)旧港を参照。『歴代宝案』には旧港あての文書が十一通あり、これを対象とした小葉田淳・東恩納寛惇・安里延氏らの研究がある。和田久徳「十五世紀初期のスマトラにおける華商社会」(『お茶の水女子大学人文科学紀要』二〇、昭和四十二年三月)は、これらに修正や異なる解釈を加えたもので、本巻の旧港に関わる注の多くはこれに拠る。なお、宣徳三年の旧港あて文書として、本文書の他に国王咨〔四〇-〇六〕、執照〔四二-〇一〕がある。
(2)永楽十九年の間より…乞わしむ 永楽十七年(応永二十六・一四一九)薩摩の阿多氏領内に来着した南蛮船を、九州探題渋川満頼が永楽十九年に琉球に回送して、本国への送還を依頼した。この件の詳細については、関連の古文書を発見した高柳光寿「応永年間に於ける南蛮船来航の文書について」(『史学雑誌』四三の八、昭和七年)や、小葉田淳『増補中世南島通交貿易史の研究』(臨川書店、平成五年、四六五-四七二頁)を参照。なお、「自永楽十九年間」の「より」は懐機文稿に多出するが、「に於て」の意で、ある一定の時点をさす。
(3)源道鎮 渋川満頼。一三七二-一四四六年。渋川氏は清和源氏足利氏の流れをくみ、満頼は出家して道鎮を名のった。九州の官とはここでは足利幕府の九州探題で、渋川満頼は応永三年(一三九六)から二十六年までその任にあった。
(4)施主烈智孫 施亜烈済孫の誤写(主と亜は字形の相似により、智と済は字音の類似による)であろう。亜烈はジャワのマジャパヒト朝で用いられたaryaで、栄誉を意味するサンスクリット起源の語に由来する官爵。施済孫は、永楽五年に明朝から旧港宣慰使に任命された広東出身の施進卿の子で、永楽二十二年に宣慰使を襲職した(前掲和田論文)。
(5)那弗答 ペルシャ語na-khudaからきたマライ語nakhodaの音訳で、船主を意味する(前掲和田論文)。
(6)国王 琉球国王。
(7)已に…乞う 暹羅に到着したらそこで転送をお願いする、の意。
(8)実達魯等…遠意を伸ぶ 〔四〇-〇六〕〔四二-○一〕を参照。
(9)尺楮 手紙。
(10)草字不宣 草字は自己の字の謙称。不宣は友人間の手紙の末尾に記す語で、十分に意を述べつくさない、の意。