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資料詳細
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
〔史料紹介〕
嘉慶十三辰年接封一件
糸数兼治
一 蔡邦錦
蔡姓安次嶺家家譜(小宗、以下『蔡姓家譜』という)は十世応祥を系祖とするもので、応祥は蔡氏元祖崇(一世)の九世国器の第二子である。同族に蔡堅・蔡文溥・蔡鐸・蔡温等がいる。邦錦(字は日章、渡具知親雲上)は父佩蘭(十四世)の第一子で、祖父元鳳、曾祖父は績という人である。
邦錦は乾隆十五年(一七五〇)二月四日生、嘉慶十九年(一八一四)九月二十二日没している。享年六十五歳。
邦錦は嘉慶十二年(一八〇七)二月、尚灝王の冊封使(正使斉鯤・副使費錫章)迎接のため接封正議大夫(辰冠船御迎大夫)に任じられ、同九月二十三日接貢船に同乗して那覇港を出帆したが、十月二日海壇の観音澳囗に漂着、やむなく跟伴十二人とともに陸路より福州に向かった。福州琉球館到着は十月十五日である。しかるに接貢本船は十月二十五日夜、福州回航の途次、鐘門洋面において座礁、積載の銀両及び貨物をすべて沈失してしまった。死者六十四名(内、中国人舵工一名を含む)、生存者はわずかに三十名で、その福州到着は十一月十五日である。この日以前すでに邦錦は破船の報せを受け(破船を報じる上奏文は十一月十四日付けとなっている)、直ちに公銀の貸与願い〔史料一〕を提出したのではないかと思われる。それはともかく邦錦は不測の事態に直面し、種々苦労を重ねながら、ようやく冊封使迎接の準備を整え、翌嘉慶十三年(一八〇八)四月十二日には水口駅に冊封正副使を迎え、同五月二日離駅登舟、同五月十七日冊封使船とともに無事帰国している。この間の経緯については『蔡姓家譜』に次のような簡単な記事がある。
嘉慶十二年(一八〇七)丁卯二月朔日、恭しく王命を奉じて接封正議大夫と充為り、接貢船に駕して九月二十三日覇江開船、同日馬歯山に到りて風を候つ。二十五日順風有るを見て彼の所放洋、十月初二日海壇の観音澳口に漂到す。若し此の地に遅滞すれば、則ち欽差を迎接するの礼を欠悞するあるを恐れ、因りて地方官に早やかに陸より館に赴かんことを呈請したるに、随ちに恩准せらるるを蒙る。十月十一日跟伴十二人を率帯して上岸起程し、同十五日館駅に安頓す。何ぞ擬わんや、同二十五(日)夜、本船は鐘門洋面に在りて撃砕し、人口は淹斃し、貨物漂没せんとは。幸いに存する所の三十人名は十一月十五日館に到り安挿す。(翌嘉慶十三年)四月十一日に至り、布政司の牌令を叨奉し、同十二日水口に進到し、欽差両位大人を迎接し、五月初二日両位大人と随同に離駅登舟、同十一日五虎門に在りて一斉に開船、同十七日連䑸帰国す。
一般の家譜では福州における公務の内容については、いろいろ曲折はあったにしても、詳しい記録は見当らない。ところが『蔡姓家譜』は「此の時、閩に在りて行う所の公務左に記す」として二十三通の官府往復文書(稟・単等)を収める。本稿はこれらの文書を紹介し、あわせて若干の注記を加えることとする。
なお蔡邦錦には「辰冠船御迎大夫渡具(知)親(雲)上日記」があったらしく、楚南家文書『海路無恙』(法政大学沖縄文化研究所蔵)にはその一部の引用が見られる。これについて本稿ではその旨注記しておいた。この外接封に関する史料には豊見山和行氏が紹介した同治五年の「勅使御迎大夫真栄里親方(鄭秉衡)日記」(本誌3・4合併号)があって参考になる。
二 漂流・破船
ところで前記漂流・破船の模様については、閩浙総督阿林保・福建巡撫張師誠連名の上奏文に詳しい(1)。
奏す。閩浙総督臣阿林保・福建巡撫臣張師誠は跪して奏す。琉球国接貢船隻風に遭いて撃砕し、人口を淹斃す。赶緊に員を委わし、馳せ往きて撈救し、厚きに従い撫恤し、並びに接護遅延するの水師副将及び攔阻力めざるの署同知並びに代理遊撃を将て、旨を請い、分別に革職し、厳に議して以て儆戒を示さんが事の為なり。
案拠したるに、署平潭同知候補知府于天沢・代理海壇左営遊撃候補守備何文上の稟報には「琉球国通事蔡宬の報称する有り。『該国王世孫の差委を奉じたる正議大夫蔡邦錦は、官伴・水梢と同に共に一百零五員名、船隻に駕坐して閩に来たり、恭しく冊封の天使を迎え、及び進貢して国に回るの使臣を接えんとて、本年九月初十日に於て、琉球に在りて開船するも、洋に在りて風に遭い、篷を壊し、十月初三日海壇の観音澳口に漂至す等語』とあり。査するに、琉球の夷船は、向例、応に五虎門より入口して省に進むべし。該署同知等、随即に親ら該処に赴き、兵役を督同し、夷船を将て暫行く澳内に緯進し、代って船篷を修し、其の緊要の夷官蔡邦錦等を択び、跟伴を帯同すること一共十二人は、先に陸路より(福建)省に進み、其の余の通事・官伴・水梢人等は、仍お船内に在りて兵船を撥して前み往き、迎護して省に赴かんことを請う等の情」とあり。彼の時、臣阿林保は、尚お浙省に在りて洋匪を督緝す。臣張師誠は文報に接到するや、当ちに査するに、提督張見陞が一幇(一団)の兵船は、遠く興泉洋面に在りて盗匪を堵緝し、南澳鎮の王得禄が一幇の兵船は、彼の時、尚お未だ内渡せず。只だ閩安協の水師副将徐湧が兵船のみ有りて五虎門外洋面に在りて巡防す。観音澳を距つること遠からず。立即ちに五百里より該副将に飭委し、兵船を帯領して就近の海壇の観音澳に赶ぎ赴かしめ、該夷船を接護し、例に照らして五虎より省に進み、疎虞を致すこと毋からしめ、並びに該同知をして営員と会同して小心に防護せしめ、一面では沿途の営県に飛飭し、夷官等十二人を将て護送して省に到らしめ、並びに臣阿林保に咨会して一体に飭遵せしむること案に在り。嗣いで因るに、閩安協の副将徐湧は、十六日に於て臣張師誠の委箚に接到するも、仍お竿塘洋面に在りて遷延し、並えて師を率いて速往せず。又、経に屢次厳に催するも、該副将は二十四日に於て、復うるに「現帯の兵船僅かに七隻有り。稟請すらく、兵船を添派し、幇けて同に往きて夷船を護らん等の語」を以てす。臣等、査するに海壇の観音澳は五虎門を相い距つること水程遠からず。兵船、風に乗じて駕駛すれば、一、二日にして到るべし。其の時並しも別項の兵船の撥すべき無し。且つ夷船を接護するは、並えて盗を捕するの比すべきに非ず。兵船七隻を以て一夷船を護るに、何の敷らざること有らんや。顕らかに詞を飾りて推諉するに係る。復た経に厳に箚飭を行い、催して立刻に開船せしめんとするも、始め拠るに「該副将は、二十七日に於て竿塘より開駛して南下す」とあり。茲に署同知于天沢等の稟報を接りたるに「該夷船は迎護の兵船の赶到するを候たずして、十月十七日に於て開駕を行わんと欲す。該署同知于天沢は、随ちに伊の姪于克治・代理遊撃何文上を派し、面のあたり署守備
鄭海清に嘱し、転じて委わすの外、薜有声に委して前往阻止せしむるに、該夷船は、順風有るを見て肯えて聴従せず。竟に自ら澳囗を開出して放洋し、十九日洋に在りて風に遭い、立嶼外洋に寄泊するに、連日風雨交々作り、湧浪山の如く、小船にては往きて救う能わず。二十五日四更の時候に至り、鐘門洋面に漂至し、礁を撞きて撃砕す。撈救して生くるを得たる夷人は三十名、淹斃せるもの六十三名並び内地(中国)舵工一名なり。現に已に屍身三十七具を撈獲するも、其の余は漂没して蹤無し等情」とあり、前来す。候補道馮鞶に飛委して馳せ往かしめ。沿途の地方官に督飭して速やかに生くるを得たるの夷人を将て陸路より護送して省に来たらしめ、並びに飭して撈獲せる屍身を将て妥なく棺を備えて殮埋を為さしむるを除くの外、臣等、査するに、該夷船は兵船の赶到護送するを候たず、自行に開駕放洋し、以て遭風撃砕を致す。現に夷使蔡邦錦等の稟称に拠れば「実に風災は測られず、人力の施し難きものに係る」とあり。但だ副将徐湧は、箚委を接到するの後に於て、如し立即に前往せば、或いは時に乗じて救護すべし。乃ち経に臣張師誠が、節次厳に催して始めて開駕を行う。稟に拠れば「竿塘洋面に駛至したるに、忽ち東北風に転じ、湧浪猛烈、兵船も亦た損壊する有り」とあると雖も、但だ停泊すること十日、並しも法を設けて前進せず、以て救護及ぶ無きを致すは、実に遷延に属す。相い応に実に拠りて参奏し、旨を請い、閩安協副将徐湧を将て革職して以て儆戒を示すべし。署平潭同知候補知府于天沢・代理海壇左営遊撃候補守備何文上は、並しも親身から前往して力阻防護せず、夷船をして独自に開駕せしむるを致すは亦た玩忽に属す。応に旨を請い、于天沢・何文上を将て一併に部(刑部)に交し、厳に議処を加うべし。歴次夷船の失水するものに至りては、奏して聖恩もて銀一千両を賞給し、夷官、商船を雇覓して回国せしむるを蒙れり。又、査するに、嘉慶八年該国貢船風に遭い、撃砕して、貢物沈失せしとき、旨を奉じたるに、「常例に照らし、賞給を加倍せよ。嗣後、外番(琉球)の貢船漂没し、貢物を沈失するの事有るに遇えば、均しく此に著照して弁理せよ。此を欽め」とあり。欽遵すること案に在り。今、夷船撃砕し、貢物内に在ること無しと雖も、但だ淹斃せる人口は多名、殊に憫惻に堪えたり。所有の先行して陸路より来省し、及び撈救して生くるを得たるの官伴・水梢人等は、応に請う、前に奉じたる諭旨に遵照して口糧・棉布等の項を将て加倍に賞給し、并びに例に照らして銀一千両を給して以て船を雇うの資と作さしむべし。現在天気漸々冷く、臣等、又、棉衣等の項を捐給し、意を加えて撫恤し、館駅に安頓し、来年該国貢船返棹のときを俟ち、再び行遣回国せしめ、其の撈獲殮埋の各屍身は、已に飭して碑を立てて標記し、未だ獲ざるの各屍身は、仍お上緊に打撈して務めて一体を獲て妥なく弁理を為さしめん。臣等、謹んで詞を合せ、恭しく摺もて具奏す。伏して乞う、皇上睿鑑ありて訓示せられんことを。謹んで奏す。
嘉慶十二年十一月十四日
(硃批)「另に旨有り」
これによると破船の原因は、福州到着を急ぐ琉球船の「自行開駕」にあったとしながらも、あえて自らこれを阻正しなかった署平潭同知候補知府于天沢・代理海壇左営遊撃候補守備何文上を厳罰に処し、閩安協副将徐湧については接護遅延の廉で免職にするよう求めている。
三 史料
〔史料一〕
懇求借給公銀事
具稟琉球国接 封大夫蔡邦錦等為格外 天恩求救難夷性命事切錦等船隻遭風撃砕寸板無存一切倶無惨不可言王府銀子五千両南山北山銀子二万両土産鮑魚海参魚翅海菜等物可以売銀子六七万両通船共計銀子将近十万両倶已沈没禍此錦等銀子全無就是貧苦餓死而無怨而且国王銀子若無不能買国用一点緊要之物来年
欽差前去敝国
封典一点倶無所用矣敝国法度錦等四十二人性命断難再生淹死者上好活之者必至正法百計驚愁総無生路惟有冒死哀懇
大憲大人格外超生下念敝国遭難死至六十余人之惨恩賜例外賞恤例外借給或死者援照奉公淹斃之例格外賞恤或生者施賑災救命之仁借給銀両来年繳還不負欠其可以買得来年
冊封併国主要用一点物件回国錦等四十二人可以有一半不死矣哀々感激切稟
嘉慶十二年十一月 日具稟
公銀を借給するを懇求するの事
稟を具す。琉球国接封大夫蔡邦錦等は、格外の天恩もて難夷の性命を救いたまわんことを求めんが事の為なり。切に錦等の船隻風に遭い、撃砕して寸板も存する無し。一切は倶て無にして、惨として言うべからず。王府銀子五千両、南山北山銀子二万両、土産の鮑魚・海参・魚翅・海菜等の物は以て銀子六、七万両に売るべく、通船共計の銀子は将に十万両に近からんとす。倶て已に沈没す。此に禍されて、錦等、銀子全く無く、就是え貧苦餓死するとも怨む無きも、而且も国王の銀子は、若し無くんば、国用一点緊要の物を買う能わず。来年欽差敝国に前去するのとき、封典には一点すら倶て用うる所無し。敝国に法度あり。錦等四十二人の性命は断たれて再びは生きること難し。淹死する者も上好に活くるの者も必ず正法に至らん。百計驚愁するも総て生路無し。惟だ冒死して哀懇する有るのみ。大憲大人、格外の超生もて下は敝国難に遭いて死するもの六十人余に至るの惨を念い、例外の賞恤、例外の借給を恩賜せられ、或いは死者には公を奉して淹斃するの例に援照して格外に賞恤し、或いは生ける者には災いを賑い命を救うの仁を施したまわんことを。借給の銀両は来年繳還して負欠せず。其の以て来年の冊封併びに国主要用の一点の物件を買得して回国すべくんば、錦等四十二人は以て一半は死せざること有るべく、哀々に感激せん。切に稟す。
嘉慶十二年十一月 日 稟を具す
〔史料二〕
福州府分守南台海防庁張 単仰本役即着土通事鄭煌等刻即飛帯接 封大夫蔡邦錦接 貢使者毛維幹存留通事鄭克新各正身赴府立等諭話去後火速火速
嘉慶十二年十一月 日
福州府分守南台海防庁の張が単に「本役に仰じて、即ちに土通事鄭煌等をして刻即に接封大夫蔡邦錦・接貢使者毛維幹・存留通事鄭克新を飛帯し、各々正身に府に赴き、立てしめよ等、諭話せしめ去後れり。火速に、火速に」とあり。
嘉慶十二年十一月 日
〔史料三〕
此次遭風難夷淹斃六十余名情殊憫惻即現在獲生夷人銀物倶遭沈失亦属可矜其応作何従優賞恤及有無借給銀両之例案仰福防庁査案妥議詳奪
嘉慶十二年十一月十八日 此単自布政司給
此の次、遭風の難夷の淹斃せる六十余名は、情、殊に憫惻、即え、現に生を獲るに在るの夷人も、銀・物倶て沈失に遭う。亦た矜むべきに属す。其の応に何に従優く賞恤を作すべきや、及び銀両を借給するの例案有りや無しや、福防庁に仰じて案を査せしめ、妥議して詳奪せしむ。
嘉慶十二年十一月十八日 此の単は布政司より給せらる
〔史料四〕
海防庁面諭代為転求
〈督/撫〉藩憲可以借得王府銀子五千両買備薬材回国以済通国之用不可説及
欽差冊封要用之事即刻先做稟稿一張送来老爺看過
嘉慶十二年十一月十九日 此単自海防庁給
海防庁面諭す、「代わりに為に〈督/撫〉藩憲に転じて求め、王府銀子五千両を借得し、薬材を買備し、回国して以て通国の用に済つべし。欽差冊封要用の事に説き及ぶべからず。即刻に先ず稟稿一張を做り送り来たれ。老爺看過せん」と。
嘉慶十二年十一月十九日 此の単は海防庁より給せらる
〔史料五〕
拠稟南山北山帯銀二万両来閩買置貨物該南北両処所帯銀両是否官員所寄抑係夷民寄帯該国歴次進接
貢船到閩並無国王咨文無凭査考想係乗船隻赴閩私自寄帯即国王亦不知有此項所買何物今遭風沈没
天災所致人力難施各聴
天命
天朝不能代為料理爾大夫夷官等応暁諭各夷人不得混瀆訳取供詞送候察核
稟に拠れば「南山北山の帯銀二万両は、来閩して貨物を買置す」とあり。該南北両処帯ぶる所の銀両は、是れ官員の寄かる所なりや否や、抑も夷民の寄かり帯びるものに係るや、該国歴次の進・接貢船閩に到るに、並えて国王の咨文無く、査考に凭る無し。想うに船隻に乗りて閩に赴くとき、私自に寄帯せしものに係るならん。即ち国王も亦た此の項有りて買う所のものは何物なるやを知らず。今、風に遭いて沈没するは、天災の致す所にして人力施し難し。各々天命に聴せて、天朝は代わりて料理を為すこと能わざるなり。爾、大夫・夷官等、応に各夷人に暁諭し、混瀆するを得しめざるべし。供詞を訳取して送り、察核するを候て。
〔史料六〕
拠稟帯来土産海参海菜等物可以売銀六七万両等話此処爾官員夷人係接
冊封
天使来閩並非貿易且拠報貨物未経登岸即被風冲礁沈失亦無実数如何混開六七万両殊属捏飾況連次遭風難夷案内従来稟呈今忽開報
天朝於加意撫恤之外断不能為爾夷民籌及貿易預料遭風失事之計着訳諭夷民人等各聴
天命毋得多瀆取供送核
稟に拠れば「帯来せる土産の海参・海菜等の物は、以て銀六、七万両に売るべし等話」と。此の処は、爾、官員・夷人は冊封の天使を接せんとして来閩するに係る。並えて貿易するに非ず。且つ、報に拠れば「貨物は未だ登岸するを経ざるに、即ちに風を被り。礁に冲して沈失す」と。亦た実数無し。如何んぞ混開すること六、七万両なりと。殊に捏飾に属す。況んや連次風に遭うの難夷の案内には従来稟・呈あるをや。今、忽ちに開報す。天朝、意を加えて撫恤するの外に於て。断じて、爾、夷民の為に貿易に籌及し、預め遭風失事の計を料ること能わざるなり。着して夷民人等に訳諭し、各々天命に聴い、多瀆するを得しむる毋かれ。供を取りて送れ、核べみん。
〔史料七〕
拠稟国王帯銀五千両為来年
欽差前往
冊封備弁国用等話究竟備買何物逐一供明開単呈閲上届
嘉慶五年
冊封是否該国王帯銀来閩採買物件有無応賬開送察核如果該国必需之物訳供切寔以便拠情代為詳請転奏
大皇帝酌予借給以応国用
稟に拠れば「国王の帯銀五千両は、来年欽差前み往き、冊封するのとき、国用を備弁せんが為なり等話」と。究竟何物を備買するや、逐一供明せしめ、開単して呈閲せよ。上届嘉慶五年の冊封のとき、是れ該国王、銀を帯びて来閩し、物件を採買せしや否や、応に賬として開送すべきもの有りや無しや、察核して、如し果して該国必需の物にして訳供切寔ならば、以て情に拠り代わりて詳請を為し、転じて大皇帝に奏し、借給を酌予して以て国用に応ぜしむるに便ならしめん。
〔史料八〕
具稟伝訳琉球国引礼通事鄭煌馮邦麟為稟覆事遵奉
鈞諭備細訳諭夷官務将現在一切情形切実供覆茲拠該接
封正議大夫蔡邦錦等供称敝国僻処海隅毫無出産所有国用一切物件及薬材等項概係全頼
天朝蔭庇毎年准于進接 貢船随帯銀両土産来閩開館貿易兌換回国歴久遵行在案此番接
封接 貢来閩船隻遭風撃砕所有王府銀五千両並南山北山三十六島便帯銀二万両倶已沈没係属 天数錦等何敢怨尤但来年
冊封大典
大皇帝詔勅到国応備 龍旗 御扇各儀杖敬奉
天朝体制并一切地氈灯綵磁器盤碗仝国主王妃応着蟒錦各色紬緞必須内地買備敝国僻島無処購覓再小邦地暖人多疾病薬材万難少欠縁因窮国倚頼年々来閩兼之無力不能多買隔年之蓄如今年欠買則絶来年之用通国夷命所関錦等自思白手空回定遭国法是以哀懇
大憲超生非敢越例上瀆並無他人唆使泣叩
大老爺慈恩寛宥並懇詳請借給国主備弁物件銀五千両賜錦等樽節買備回国以資国用藉保蟻命至進
貢頭号船錦等業経吊回進館俟来春遣発内有応回存留通事一員王乗行跟伴五名改撥来年
冊封二号船内一仝遣回弁理一切事務合併稟明等供煌等合就拠供稟覆伏乞
大老爺察奪切稟
嘉慶十二年十一月 日 具稟伝訳琉球国引礼通事
稟を具す。伝訳琉球国引礼通事鄭煌・馮邦麟は稟覆の事の為なり。鈞諭を遵奉し、備細に夷官に訳諭し、務めて現在の一切の情形を将て切実に供覆す。茲に該接封正議大夫蔡邦錦等の供称に拠れば「敝国は海隅に僻処し、毫も出産無し。所有の国用一切の物件及び薬材等の項は概て全く天朝の蔭庇に頼りて、毎年進・接貢船、銀両・土産を随帯して来閩し、開館貿易兌換して回国するを准さるるに係る。歴久遵行すること案に在り。此の番、接封・接貢来閩の船隻、風に遭い、撃砕し、所有の王府銀五千両並びに南山・北山・三十六島便帯の銀二万両、倶に已に沈没するは、天数に属するに係る。錦等、何ぞ敢えて怨まんや。但だ来年冊封の大典あり。大皇帝の詔勅国に到るのときは、応に龍旗・御扇の各儀杖を備え、天朝の体制を敬奉すべし。並びに一切の地氈・灯綵・磁器・盤碗は国主・王妃の応に着すべき蟒錦・各色の紬緞と同に、必須ず内地(中国)より買備す。敝国は僻島なれば処として購覓する無し。再た小邦は地暖かにして、人、疾病多し。薬材は万にも少欠し難し。窮国たるに縁因り、倚頼して年々来閩す。之に兼ぬるに、無力にして多買する能わず。隔年の蓄えは、如し今年欠くれば、則ち来年の用を絶たん。通国の夷命に関わる所なれば。錦等、自ら思えらく、白手にて空しく回れば、定めて国法に遭んと。是の以に大憲の超生を哀懇し、敢えて例を越え上瀆するには非ず、並も他人の唆使する無し。泣いて叩う、大老爺、慈恩もて寛宥せられんことを。並びに懇くは、国主物件を備弁するの銀五千両を借給するを詳請し、錦等、樽節して買備回国し、以て国用に資し、藉りて蟻命を保するを賜わらんことを。進貢頭号船に至りては、錦等、業経に吊回して館に進めしめ、来春の遣発を俟つ。内に応に回すべき存留通事一員王秉行・跟伴五名有り。改めて来年の冊封二号船内に撥し、一同に遣回せしめ、一切の事務を弁理せしめん。合併に稟明す」等供す。煌等、合就に供に拠りて稟覆すべし。伏して乞う、大老爺、察奪せられんことを。切に稟す。
嘉慶十二年十一月 日 稟を具す。伝訳琉球国引礼通事
〔史料九〕
具稟琉球国接 封正議大夫蔡邦錦等為叩懇全恩詳請先借定織事切錦接
貢船隻来閩遭風漂収海壇錦因投逓接
封公文使者毛維幹因定織蟒錦誠恐遅延是以先行由陸来省詎船隻復又遭風撃砕一切銀両全無情急冒懇
天恩借給王府銀子五千両荷蒙
恩准転詳奉
〈撫/大〉憲題
奏在案錦等自応遵候給発縁閩省一切蟒錦長濶尺寸未合国主所用向係現銀雇人前往蘇州定織此時若再挨延計期必難織製不已哀懇
〈大老爺/大人〉恩全終始准賜詳請先行給発俾得赶緊往定以資国用感激無涯切稟
嘉慶十二年十二月 日 具稟琉球国接 封正議大夫蔡邦錦
稟を具す。琉球国接封正議大夫蔡邦錦等は、叩懇くは全恩もて詳請せられ、先借して定織せんが事の為なり。切に錦が接貢船隻、来閩のとき、風に遭い、海壇に漂収す。錦、因りて接封の公文を使者毛維幹に投逓し、蟒錦を定織するに誠に遅延するを恐るるに因り、是の以に先行して陸より省に来たるに、詎ぞおもわんや、船隻、復又た風に遭い、撃砕せんとは。一切の銀両は全く無し。情、急なれば、天恩もて王府銀子五千両を借給するを冒懇したるに、転詳するを恩准せらるるを荷蒙し、〈大/撫〉憲の題奏を奉ずること案に在り。錦等、自応に給発するを遵候すべきも、閩省一切の蟒錦は、長濶の尺寸未だ国主用うる所に合わず。向きには現銀もて人を雇い、蘇州に前み往きて定織せしむるに係る。此の時、若し再び挨延せば、期を計るに必ず織製し難し。已むをえず〈大老爺/大人〉に哀懇す。恩、終始を全うし、詳請して先行給発するを賜うを准し、赶緊に往定して以て国用に資するを得しむれば、感激、涯り無し。切に稟す。
嘉慶十二年十二月(十二)日 稟を具す。琉球国接封正議大夫
蔡邦錦
〔史料十〕
〔〈閩浙総督臣阿林保/福建巡撫臣張師誠〉跪(2)〕
奏為損賞琉球船隻遭風沈失該国王世孫銀両以広
皇仁仰祈
聖鑑事切照琉球国接
貢船隻在洋遭風漂至海壇之観音澳口不候兵船迎護〔旋即自〕行開駕在鐘門洋面撃砕淹斃人口経臣等派委大員馳往撈救従厚撫恤并将接護遅延及擱阻不力之地方文武拠寔参
奏在案嗣拠委員候補道馮鞶督同平潭庁営将撈獲箱匣五十九件并撈救得生之夷人三十名護送来省同先由観音澳携帯物件二十余抬赴岸到省之夷官等十二人一体安挿館駅宣布
皇恩賞給口粮衣履等項俾無失所茲拠夷官蔡邦錦等稟袮此次船隻遭風撃砕仰蒙憫念難夷厚加賞恤生死均感船内所載土産飽魚海参等物及南山北山各島附搭置買貨物銀二万両均已漂没無存惟内有本国王世孫発銀五千両置弁迎接
冊封天使備用各物今一併沈没不能買備回国恐有獲咎懇求酌量借給俾得買備物件等情臣等因備弁
冊封天使応用何物未拠明白声叙随飭藩司景敏督同海防同知張采五伝到該夷官当面訳訊拠供向来該国夷船来閩倶有随帯土産乗便貿易並南山北山各島附搭銀両買置貨物此次船内銀両漂没無存寔係夷人等貪趁一時順風率行開駕以致猝遇風災已蒙多方撈救并奏請
大皇帝厚賞囗粮等項又請
賞給雇船之資如体恤遠人無微不到皆
天朝格外恩施夷人等不勝感戴至本国王世孫発銀五千両係因
冊封天使到国応備
龍旗
御扇各儀仗敬奉
天朝又国主王妃跪迎
詔勅応製蟒錦綢緞各衣料及一切地氈灯綵磁器盤碗并預備薬材等物本国均無出産必須由内地購買今此項銀両沈失無従置弁恐致貽悞獲咎是以夷人等呈懇借給銀五千両以資購備回国俟下次進貢船隻来閩再請本国王措還並無別意只求転懇如数借給就沾恩了等語臣等査向来琉球夷船遭風漂没銀両除分別撫恤之外従無借給銀両之例嘉慶八年該国二号
貢船在台湾遭風漂失銀二万両十一年該国二号
貢船在澎湖冲礁沈失銀二万五千両均無賞借此次船隻撃砕該夷人附帯南北山銀両貨物沈失已照向例加倍撫恤毋庸另議外惟該国王世孫因来年有
冊封使臣到国発交銀五千両赴閩置弁物件自属寔情且有関敬奉
天朝儀注未便欠悞今銀両在洋沈失自当敬体
皇仁代籌接済臣等公同商酌擬将国王世孫所交銀五千両照数捐賞免其繳還俾該夷官等得以置備回国仍俟奉到
諭旨臣等照会該国王世孫遵照以仰副
聖主懐柔遠人有加無已之至意再査該国
貢使業已進京尚有同来之官伴人等仍用原船先行回国業経給咨登舟因風〓(日+卂)未順尚未放洋茲拠該夷官等稟請暫行調回来春再令開駕等情臣等査現値冬令風〓(日+卂)愆期難以駕駛出洋自応俯如所請准其船隻調回官伴貨物搬進館駅仍自回館之日起支給口粮塩菜俟来春風順或随接
封官伴一体附搭回国較為両便理合一併奏
聞所有臣等酌籌弁理各々縁由謹合詞恭摺具奏伏乞
皇上睿鑑訓示謹 奏
嘉慶十二年十二月朔日
〔嘉慶十二年十二月十九日奉硃批另有旨欽此〕
閩浙総督臣阿林保・福建巡撫臣張師誠は跪して奏す。琉球船隻風に遭い、沈失せる該国王世孫の銀両を損賞し、以て皇仁を広くし、仰いで聖鑑を祈めんが事の為なり。切に照らすに、琉球国接貢船隻、洋に在りて風に遭い、海壇の観音澳口に漂至す。兵船の迎護を候たず、旋即ちに自ら開駕を行い。鐘門洋面に在りて撃砕し、人口を淹斃す。経に、臣等、大員を派委し、馳せ往きて撈救し、従厚く撫恤し、并びに接護遅延し、及び攔阻力めざるの地方を将て、文武を、寔に拠りて参奏すること案に在り。嗣いで委員候補道馮鞶に拠れば、「平潭庁営を督同し、撈獲せる箱匣五十九件并びに撈救して生を得たるの夷人三十名を将て護送して省に来らしめ、先に観音澳より物件二十余抬を携帯して岸に赴き省に到るの夷官等十二人と同に一体に館駅に安挿し、皇恩を宣布し、口粮・衣履等の項を賞給して、所を失うこと無からしむ」とあり。茲に夷官蔡邦錦等の稟称に拠れば「此の次、船隻風に遭いて撃砕す。難夷を憫念せられ、厚く賞恤を加うるを仰蒙し、生けるものも死せるものも均しく感ず。船内載する所の土産の鮑魚・海参等の物及び南山・北山・各島の貨物を置買するの銀二万両を附搭するも、均しく已に漂没して存する無し。惟だ、内に本国王世孫の発りたる銀五千両有り。冊封の天使を迎接するのとき、用に備うる各物を置弁せんとす。今、一併に沈没して買備回国する能わず。恐らくは咎めを獲ること有らん。懇い求むらくは、借給するを酌量せられ、物件を買備するを得しめられんことを、等情」とあり。臣等、冊封天使の応に用うべき何物を備弁するや、未だ明白なる声叙に拠らざれば、随ちに藩司景敏に飭し、海防同知張采五を督同し、該夷官に伝到し当面に訳訊せしむ。供に拠れば「向来、該国夷船来閩のときは、倶て随帯の土産有り、便に乗じて貿易す。並びに南山・北山・各島、銀両を附搭し、貨物を買置す。此の次、船内の銀両、漂没して存する無し。寔に夷人等一時の順風に貪趁し、率いて開駕を行い、以て猝かに風災に遇うを致すに係る。已に多方撈救し、并びに大皇帝に奏請し、厚く囗粮等の項を賞せらるるを蒙る。又、船を雇うの資を賞給せらるるを請う。遠人を体恤するが如きは、微も到らざる無きなり。皆、天朝格外の恩施にして、夷人等感戴に勝えず。本国王世孫の発せる銀五千両に至りては、冊封の天使、国に到るに因り、応に龍旗・御扇の各儀杖を備え、天朝を敬奉すべく、又、国主・王妃、詔勅を跪迎するのときは、応に蟒錦・綢緞の各衣料及び一切の地氈・灯綵・磁器・盤碗を製し、并びに薬材等の物を預備すべきに係るも、本国は均しく出産無く、必須ず内地より購買す。今、此の項の銀両沈失し、置弁するに従無し。恐らくは貽悞を致し、咎めを獲ん。是の以に夷人等呈懇す、銀五千両を借給し、以て購備して回国するに資し、下次の進貢船隻の閩に来たるを俟ちて、再び本国王、措還するを請い、並えて別意無し。只だ求むらくは、転じて数の如く借給するを懇わば、就ち恩に沾い了らん等語」とあり。臣等、査するに、向来、琉球夷船風に遭い、銀両を漂没せしときは、分別に撫恤するを除くの外、従りて銀両を借給するの例無し。嘉慶八年(一八〇三)該国二号貢船、台湾に在りて風に遭い、銀二万両を漂失し、十一年(一八〇六)該国二号貢船、澎湖に在りて礁に冲し、銀二万五千両を沈失するも、均しく賞借する無し。此の次、船隻撃砕し、該夷人の附帯せる南・北山の銀両・貨物は沈失せり。已に向例に照らして撫恤を加倍したれば、別に議を庸うること毋きの外、惟だ該国王世孫は、来年冊封使臣の国に到ること有るに因り、銀五千両を発交し、閩に赴き物件を置弁せしむるは、自ら寔情に属す。且つ天朝を敬奉するに関る儀注は、未だ欠悞するに便ならざる有り。今、銀両は洋に在りて沈失す。自当に敬んで皇仁を体し、代りて接済するを籌るべし。臣等、公同に商酌し国王世孫交する所の銀五千両を将て数に照らして捐賞し、其の繳還を免かれしめ該夷官等をして以て置備回国せしめ、仍お諭旨を奉到するを俟ち、臣等、該国王世孫に照会して遵照せしめ、以て仰いで聖主の、遠人を懐柔するに加うる有りて已む無きの至意に副わんと擬す。再び査するに、該国貢使、業已に京に進むも、尚お同来の官伴人等、仍お原船を用て先行回国するもの有り。業経に咨を給して登舟せしむるも、風〓(日+卂)未だ順ならざるに因り、尚お未だ放洋せず。茲に該夷官等の稟請に拠れば「暫く調回を行い、来春再び開駕せしめられたし等情」とあり。臣等、査するに、現に冬令に値う。風〓(日+卂)期を愆れば、以て駕駛して出洋し難し。自応に俯して請う所の如く、其の船隻の調回するを准し、官伴・貨物は館駅に搬進し、仍お回館の日より起こして囗粮・塩菜を支給し、来春風順なるを俟ち、或るものは接封の官伴に随いて一体に附搭回国せしむれば、較だ両便と為す。理として合に一併に奏聞す。所有の臣等が酌籌弁理せる各々の縁由は謹んで合詞して恭しく摺もて具奏す。伏して乞う、皇上、睿鑑ありて訓示せられたし。謹んで奏す。
嘉慶十二年十二月朔日
〔嘉慶十二年十二月十九日 硃批を奉じたるに「另に旨有り。此を欽め」とあり〕
〔史料十一〕
具稟琉球国接 封正議大夫蔡邦錦為非蒙先借仍悞公差情急再懇乞賜 恩全事切錦等接
貢船隻遭風撃砕人口淹斃銀貨全無哀懇
天恩借給国主所発銀子五千両買備来年
封典必用物件敬奉
天朝体制荷蒙
恩准詳
題錦等感激再造銘心刻骨縁錦等所借之銀委因往蘇定織蟒錦確計往回并織製日子必須百有余天方能無悞是以於本月十二日以叩懇全恩等事冒請先行撥借未蒙
批示錦等昼夜難安誠恐遅延挨出年外則赶弁不及錦等仍難免悞公之咎矣情急催懇哀乞
大人俯察已蒙准借再賜先行給発全錦等不至仍悞公差感徳于生々世々矣切稟
嘉慶十二年十二月十七日
稟を具す。琉球国接封正議大夫蔡邦錦は、先借するを蒙るに非ざれば、仍お公差を悞らん。情、急なれば、再び恩全きを賜うを懇乞わんが事の為なり。切に錦等の接貢船隻、風に遭いて撃砕し、人口は淹斃し、銀・貨も全く無し。哀懇すらく、天恩もて国主発る所の銀子五千両を借給し、来年の封典に必用の物件を買備し、天朝の体制を敬奉せん。詳題を恩准せらるるを荷蒙し、錦等、再造に感激し、心に銘し、骨に刻めり。錦等借する所の銀は、委ねて蘇に往き蟒錦を定織せしむるに因り、確として往回并びに織製の日子を計るに、必須ず百有余天にして方めて能く悞り無きに縁り、是の以に本月十二日に於て「叩懇わくは恩を全うせられたし等の事」〔史料九〕を以て、先行して撥借するを冒請するも、未だ批示を蒙らず。錦等、昼夜安んじ難し。誠に恐る、遅延して年外に挨出せば則ち赶弁するも及ばざらんことを。錦等、仍お公を悞るの咎めを免かれ難し。情、急なれば、大人に催懇哀乞す、已に借するを准すを蒙りたるを俯察せられ、再び先行して給発すること全きを賜わらば、錦等、仍お公差を悞るに至らず、徳を生生世世に感ぜん。切に稟す。
嘉慶十二年十二月十七日
〔史料十二〕 〔史料九〕と重複
〔史料十三〕
福州府分守南台海防庁兼管水利関課張 為叩懇全恩等事拠琉球国接 封大夫蔡邦錦等具稟船隻遭風撃砕銀両全無借給王府銀子五千両蒙准詳題在案懇請先行給発俾得往蘇州定織蟒錦等情到府拠此査此次賞借銀両已蒙
〈督/撫〉憲具奏応供奉到
諭旨再行籌款給領此時末便転請此係歴来未有之曠典為此諭仰土通事即便明白訳諭衆夷官遵照毋違此諭
嘉慶十二年十二月十五日
福州府分守南台海防庁兼管水利関課張は、叩懇わくは、恩を全うせられん等の事の為なり。琉球国接封大夫蔡邦錦等の具稟するに拠れば「船隻風に遭いて撃砕し、銀両全く無し。王府銀子五千両を借給するにつき、詳題を准すを蒙ること案に在り。懇請らくは、先行して給発し、蘇州に往きて蟒錦を定織するを得しめられたし等情」とあり。府に到る。此を拠けたり。査するに、此の次、銀両を賞借するは、已に〈督/撫〉憲の具奏せらるるを蒙る。応に諭旨の奉到するを侯ち、再び籌款を行いて給領せしむべし。此の時は、未だ転請に便ならざるなり。此れ歴来未だ有らざるの曠典に係る。此が為に、諭もて土通事に仰じ、即便に明白に衆夷に訳諭せしむ。遵照して違うこと毋かれ。此に諭す。
嘉慶十二年十二月十五日
〔史料十四〕
嘉慶十三年正月初七日承准 廷寄十二月十九日内閣奉
上諭阿 奏請損賞琉球船隻遭風沈失該国王世孫銀両一摺該国王世孫因来年有 冊封使臣到国発交夷官銀五千両備弁迎接応用物件儀制攸関今因船隻在洋遭風此項銀両漂失該夷官等呈懇借給以資購弁自応加之体恤量予恩施所有該国沈失銀五千両無庸該督等全数捐賞着加恩賞給庫銀二千五百両其余銀二千五百両着該省督撫司道大員損資賞給均免其繳還用示懐柔至意余着照所請行該部知照欽此等因
嘉慶十三年正月初八日
嘉慶十三年正月初七日延寄を承准し、十二月十九日内閣より上諭を奉りたるに「阿が奏請したる『琉球船隻風に遭い、沈失せる該国王世孫の銀両を損賞す』の一摺は、該国王世孫、来年冊封の使臣国に到るに因り、夷官に銀五千両を発交し、迎接のとき応に用うべき物件を備弁せしめんとなり。儀制に関る攸なれども、今、船隻洋に在りて風に遭い、此の項の銀両漂失するに因り、該夷官等、呈懇すらく、借給して以て購弁に資せんと。自応に之に体恤を加え、恩施するを量予し、所有の該国の沈失銀五千両は、該督等、全数捐賞するを庸うる無く、着して恩を加え、庫銀二千五百両を賞給し、其の余の銀二千五百両は、該省の督・撫・司・道の大員をして資を損して賞給せしめ、均しく其の繳還を免かれしめ、用て懐柔の至意を示すべし。余は着して請う所に照らして該部に行し、知照せしめよ、此を欽め等因」とあり。
嘉慶十三年正月初八日
〔史料十五〕
具甘結琉球国接 封正議大夫蔡邦錦等今在
大人台下領得沈失銀両奉
旨恩賞銀二千五百両又各
憲捐賞銀二千五百両共成銀五千両領回置買物件眼仝弾兌面封看包封並無剋扣情事合具甘結是寔
嘉慶十三年正月二十四日具甘結琉球国接 封正議大夫蔡邦錦
甘結を具す。琉球国接封正議大夫蔡邦錦等は、今、大人台下に在りて、沈失せる銀両を領得せり。奉旨の恩賞銀二千五百両と、又、各憲の捐賞銀二千五百両と、共に成銀五千両は、領回して物件を置買す。眼同に弾兌し、面封す。包封を看るに、並も剋扣するの情事無し。合に甘結を具す。是れ寔なり。
嘉慶十三年正月二十四日甘結を具す。琉球国接封正議大夫蔡邦錦
〔史料十六〕
福州府分守南台海防庁兼管水利関課張 為欽奉
上諭事嘉慶十三年正月二十七日蒙
布政使司景 憲札嘉慶十三年正月初七日奉
巡撫部院張 憲案嘉慶十三年正月初七日承准
廷寄嘉慶十二年十二月十九日内閣奉
上諭阿 等奏請損賞琉球船隻遭風沈失該国王世孫銀両一摺該国王世孫因来年有 冊封使臣到国発交夷官銀五千両備弁迎接応用物件儀制攸関今因船隻在洋遭風此項銀両漂失該夷官等呈懇借給以資購弁自応加之体恤量予施恩所有該国沈失銀五千両毋庸該督等全数捐賞着加恩賞給庫項銀二千五百両其余銀二千五百両着該省督撫司道大員損資賞給均免其繳還用示懐柔至意余着照所請
行該部知道欽此等因到本部院承准此合就行知備案行司立即欽遵転行査照弁理毋違等因奉此又為前事本年正月二十一日奉
巡撫部院 批本司詳覆査向来琉球国遭風難番所需賞項均動司(支脱カ)庫存公項下支銷今奉
旨賞給琉球国沈失銀二千五百両応請体照歴弁例案在於嘉慶十二年存公款内動支給領其余銀二千五百両
両院両司六道匀作十股平捐毎股捐銀二百五十両先於
司庫不報
部留支文職各衙門未支各年俸工款内暫行照数借支同
恩賞銀両一併給発夷官承領一面移咨司道即日照数觧司帰補清款等由奉批本部院応捐銀二百五十両即於正月分養廉銀内照数扣収給領至省城司道亦可於養廉内即扣台湾道已拠該司詳扣均可毋庸借款其余各道応捐銀両如詳暫行借款給領仍催各道等限於本月内即行解司帰款具報仍候
督部堂批示繳又奉
総督部堂阿 批如詳借支給領仰即分移司道即日照数捐解帰補清款仍候
撫部院批示繳奉此除分別支給外合就飭知為此仰庁官吏即便補具印領送司備案毋違等因蒙此合就飭行為此諭仰夷官蔡邦錦等速即補具領状呈繳赴府以凭転送勿得延悞速速此諭
嘉慶十三年二月初三日
計開
閩浙総督部堂 阿林保 寧福道 張志緒
福建巡撫部院 張師誠 塩法道 陳観
布政使司 景敏 延建邵道 李華崶
按察使司 慶保 汀漳龍道 海福
興泉永道 王紹蘭
台湾道 清華
福州府分守南台海防庁兼管水利関課張は、上諭を欽奉するの事の為なり。嘉慶十三年正月二十七日布政使司景敏の憲札を蒙け、嘉慶十三年正月初七日巡撫部院張の憲案を奉け、嘉慶十三年正月初七日延寄を承准し、嘉慶十二年十二月十九日内閣より上諭を奉けたるに「阿等、琉球船隻風に遭い、沈失せる該国王世孫の銀両を損賞せんことを奏請すの一摺〔史料十〕は、該国王世孫、来年冊封の使臣、国に到るに因り、夷官に銀五千両を発交し、迎接のとき応に用うべき物件を備弁せしむ。儀制に関る攸なれども、今、船隻洋に在りて風に遭い、此の項の銀両漂失するに因り、該夷官等呈懇すらく、借給して以て購弁に資せんと。自応に之に体恤を加え、施恩するを量予し、所有の該国沈失の銀五千両は、該督等、全数捐賞するを庸うる無く、着して恩を加え、庫項銀二千五百両を賞給し、其の余の銀二千五百両は、該省の督・撫・司・道の大員をして資を損して賞給せしめ、均しく其の繳還を免じ、用て懐柔の至急を示すべし。余は着して請う所に照らして該部(礼部)に行し、知道せしめよ。此を欽め等因」〔史料十四〕とあり。本部院に到る。此を承准けたれば、合に就ちに行知すべし。案を備え、司に行す。「立即に欽遵して転行し、査照弁理して違うこと毋かれ等因」と。此を奉けたり。又、前の事の為なり。本年正月二十一日巡撫部院の批を奉けたるに。「本司詳覆す、『査するに、向来、琉球国遭風難番、需むる所の賞項は、均しく司庫(布政司の倉庫・地方費)の存公項(積み立て金)の下より動支して支銷す。今。旨を奉じて賞給する琉球国沈失銀二千五百両は、応に請うらくは、歴弁の例案に体照して、嘉慶十二年の存公款(積み立て金)の内より動支給領せしむべし。其の余の銀二千五百両は、両院・両司・六道匀しく十股平捐と作し、毎股捐銀二百五十両とし、先に、司庫、部(戸部)に報ぜず、留めて文職各衙門に支せんとして未だ支せざる各年俸工款(給料)の内より、暫らく数に照らして借支を行い、恩賞銀両と同に一併に夷官に給発承領せしめ、一面には司・道に移咨し、即日に数に照らして司に解り、補して清款(精算額)を帰さしめん等由』と。批を奉けたるに、本部院の応に捐すべき銀二百五十両は、即ちに正月分の養廉銀(勤務地手当)の内より数に照らして扣収(差引収納)給領せしめ、省城の司・道に至りても亦た養廉内より即ちに扣(差引)し、台湾道は已に該司の詳に拠れば『扣して均しく借款を庸うること毋かるべし』とあり。其の余の各道の応に捐すべき銀両は、詳の如く暫らく借款を行いて給領(給発承領)せしめ、仍お各道等に催し、本月内を限って即行に司に解り帰款(償還)具報せしめよ。仍お督部堂の批示するを候て。繳せ」とあり。又、総督部堂阿の批を奉けたるに、「詳の如く借支し給領せしめ、仰じて即ちに司・道に分移し、即日、数に照らして捐解し、補して清款を帰さしめよ。仍お撫部院の批示するを侯て。繳せ」とあり。此を奉けたれば、分別に支給するを除くの外、合に就ちに飭知すべし。此が為に庁の官吏に仰ず、「即便に印領を補具し、司に送り、案を備え、違うこと毋からしめよ等因」と。此を蒙けたれば、合に就ちに飭行すべし。此が為に夷官蔡邦錦等に諭もて仰ず、「速即に領状を補具して呈もて繳め、府に赴き、以て転送に凭らしめよ。延悞するを得ること勿かれ。速速」と。此に諭す。
嘉慶十三年二月初三日
計開
(両院) (六道)
閩浙総督部堂 阿林保 寧福道 張志緒
福建巡撫部院 張師誠 塩法道 陳観
(両司) 延建郡道 李華崶
布政使司 景敏 汀漳龍道 海福
按察使司 慶保 興泉永道 王紹蘭
台湾道 清華
〔史料十七〕
懇求預選寛大新船事
具稟琉球国接封大夫蔡邦錦等為照例預選寛大新船稟請親臨帯仝勘定以便該船艌補堅固聴候
天使乗汛開洋事切錦等奉 王世孫命接
封来閩荷蒙
皇恩憲徳格外施仁損賞銀両錦等拝領之下銘感不勝但本国恭迎
天使到国 封襲例由閩省選択呈請封定寛大海船二隻倶係夷梢引導駕駛歴届遵行在案縁査乾隆二十一年間 冊封選定船隻之後伝令夷梢前赴看験奈有一船久懶臨□(期カ)莫能稟換至該船往返受険多次敝国主惶恐莫安此番錦等奉命接
封帯仝熟諳海道夷梢来閩在国屢承 王世孫再三嘱諭到閩先期帯仝舵梢前往各船上細加験看選択新造寛大船身堅固堪以衝風敵浪方可稟請封定等因此番錦等到閩遵即帯仝熟諳夷梢赴各船上遍行屢加験看惟有金森美薜長発両船合式船身新造堅固寛大堪以駕駛重洋其余陳茂春等各船倶不合式或歴年已久不堪遠渉波涛或船身短促毎船不能装運二百余人且製造異式夷梢不穏駕駛随将預選両船名字稟叩 福防庁在案前因来蒙票(稟カ)伝随験誠恐臨期周章情急上稟
藩憲大人荷蒙親臨河千(下カ)帯仝錦等随験感激無地本当静候詳請
大憲大人親臨覆験縁封舟開駕必須夏汛瞬届将臨且選定封舟之船必須船上添補器具以及艌修堅固尚需時日錦等不揣冒眛瀝情稟叩
大憲大人仰体 封襲大典俯察遠渉重洋 恩准迅賜親臨勘定以便該船艌補堅固乗汛得穏開洋遠人戴徳靡涯切稟
右菓上
海防 福州府 閩県 布政司 撫院
預め寛大なる新船を選ぶを懇求する事
稟を具す。琉球国接封大夫蔡邦錦等は、例に照らして預め寛大なる新船を選び、稟もて親臨して帯同に勘定するを請い、以て該船艌補堅固ならしめ、天使、汛に乗じて開洋するを聴候つに便ならしめんが事の為なり。
切に錦等、王世孫の命を奉け、封を接せんとして閩に来たるに、皇恩・憲徳を荷蒙し、格外に仁を施され、銀両を損賞せらる。錦等、拝領の下、銘感に勝えず。但だ本国恭しく天使を迎えて国に到り、封襲するのときは、例として閩省より選択し。呈請して寛大なる海船二隻を封定す。倶に夷梢引導して駕駛するに係る。歴届遵行すること案に在り。査に縁れば、乾隆二十一年間の冊封のときは、船隻を選定するの後、令を夷梢に伝え、前み赴きて看験したり。奈んせん一船久しく懶ること有らば、期に臨んで能く稟もて換うること莫し。該船に至りては、往返険を受くること多次、敝国主惶恐として安んずる莫し。此の番、錦等、命を奉じて封を接せんとし、海道に熟諳せる夷梢を帯同して来閩するのとき、国に在りて屢々王世孫の再三の嘱諭を承くるに「閩に到らば期に先んじて舵梢を帯同し、各船上に前み往き、細さに験看を加え、新造寛大、船身堅固にして以て風を衝き浪に敵するに堪うるものを選択して方めて稟もて封定を請うべし等因」とあり。此の番、錦等、閩に到り、遵即に熟諳の夷梢を帯同し、各船上に赴き、遍行く屢々験看を加うるに、惟だ金森美・薜長発の両船のみ式に合し、船身も新造・堅固・寛大にして以て重洋を駕駛するに堪う。其の余の陳茂春等の各船は、倶に式に合せず、或いは歴年已に久しくして遠く波涛を渉るに堪えず、或いは船身短促にして毎船二百余人を装運すること能わず。且つ製造も異式なれば、夷梢、駕駛するに穏からず。随って預め選びたる両船の名字を将て、稟もて福防庁に叩うこと案に在り。前の因は、未だ稟もて伝うるも随ちに験するを蒙らざれば、誠に恐る、期に臨んで周章せんことを。情、急なれば稟を上るに、藩憲大人の河下に親臨し、錦等を帯同して随ちに験するを荷蒙せり。感激、地無し。本より当に詳請して大憲大人の親臨して覆験するを静かに候つべきも、封舟開駕するときは、必須ず夏汛瞬届に将に臨らんとし、且つ封舟に選定せし船は、必須ず船上に器具を添補し、以及び艌修堅固ならしむるに縁り、尚お時日を需す。錦等、冒眛を揣らず、情を瀝べ、稟もて叩う、大憲大人、仰いでは封襲の大典を体し、俯しては遠く重洋を渉るを察し、迅やかに親臨して勘定するを賜わり、以て該船艌補堅固ならしめ、汛に乗じて穏やかに開洋するを得るに便ならしむるを恩准せば、遠人、徳を戴くこと涯り靡し。切に稟す。
右の稟は海防・福州府・閩県・布政司・撫院に上る
〔史料十八〕
具稟琉球国接封大夫蔡邦錦等為懇 恩迅賜詳請勘定預選封舟以便該船艌補堅固聴候
天使乗汛開洋事本年正月二十八日蒙
大人車駕親臨各船験看錦等感激無地但封舟大典例応詳明
撫憲大人勘定之後該船必須添補器具艌修堅固尚需時日現今
天使将次来閩転盻風汛届期即可開駕是以錦等先期帯仝熟諳夷梢前赴各船上遍行屢加験看惟金森美薜長発両船合式船身新造寛大堅固堪以駕駛重洋難逃洞鑑之中其余陳茂春等各船或歴年已久不堪衝風敵浪或船身短小毎船難以載運二百余人且製造異式夷梢不穏駕駛錦等罪責攸関不已声明再懇
大人台下仰体 封襲大典俯察遠渉重洋乞准選定金森美薜長発両船詳請
撫憲大人親臨覆験俾得該船艌補堅固乗汛得穏開洋遠人頂祝不朽切稟
再稟
布政司
稟を具す。琉球国接封大夫蔡邦錦等は、懇わくは恩もて迅やかに詳請を賜い、勘定して預め封舟を選び、以て該船艌補堅固ならしめ、天使、汛に乗じて開洋するを聴候つに便ならしめんが事の為なり。
本年正月二十八日、大人、車に駕り、親から各船に臨み、験看するを蒙る。錦等、感激、地無し。但だ、封舟の大典は、例として応に詳明し、撫憲大人勘定の後、該船は必須ず器具を添補し、艌修堅固ならしむべきも、尚お時日を需す。現今、天使、将次に閩に来たらんとするに、転た風汛の期届るを盻る。即ちに開駕すべし。是の以に、錦等、期に先んじて熟諳の夷梢を帯同し、各船上に前み赴き、遍行く屢々験看を加うるに、惟だ金森美・薜長発の両船のみ式に合し、船身も新造・寛大・堅固にして以て重洋を駕馳するに堪え、洞鑑の中より逃れ難し。其の余の陳茂春等の各船は、或いは歴年已に久しく、風を衝き浪に敵するに堪えず、或いは船身短小にして毎船以て二百余人を載運し難し。且つ製造も異式なれば、夷梢、駕駭するに穏からず。錦等の罪責の関る攸なれば、已むをえず声明す、再び懇わくは、大人台下、仰いでは封襲の大典なるを体し、俯しては遠く重洋を渉るを察し、乞う、金森美・薜長発の両船を選定するを准し、撫憲大人に親臨して覆験せんことを詳請したまい、該船をして艌補堅固ならしめ、汛に乗じて穏やかに開洋するを得しむれば、遠人、頂祝すること不朽ならん。切に禀す。
再び布政司に稟す
〔史料十九〕
具甘結琉球国接封正議大夫蔡邦錦今在
大人台下結得南台河下有金森美薜長発両号船隻倶無龍骨係是平底船身寛大堅固堪以選為
冊封
欽差坐駕之用倘或臨期不堪以及在洋駕駛疎虞錦願甘坐罪合具甘結是寔
甘結を具す。琉球国接封正議大夫蔡邦錦は、今、大人台下に在いて結び得たり。南台河下に金森美・薜長発両号の船隻有り。倶に龍骨無し。是れ平底に係る。船身寛大堅固にして以て選びて冊封欽差坐駕の用と為すに堪えたり。倘し或いは期に臨んで堪えず、以及び洋に在りて駕駛疎虞すれば、錦、願わくは、甘んじて罪に坐せん。合に甘結を具す。是れ寔なり。
〔史料二十〕
諭夷官蔡邦錦
署福州府閩県正堂言 為遵札詳覆事嘉慶十三年二月十九日蒙前海防分府張 憲札嘉慶十三年二月十九日蒙
布政使司景 批本府会同該県詳覆琉球国接封大夫蔡邦錦具呈南台河下停泊有金森美薜長発二船新造寛大堅固堪為
冊封
欽差坐駕呈請選封備用等情会同査明堪以穏渉等縁由奉批如詳准将金森美薜長発両船選封備用仰即飭着該船戸詳慎修理取具興工日期具報仍候転報 両院憲査考繳等因蒙此除差着金森備薜長発両船赶緊慎修取具興工日期具報并将前選茂春等四船折封外合就行知為此行県官吏即便遵照毋違等因蒙此合行飭知為此諭仰該夷官蔡邦錦即便知照毋違特諭
嘉慶十三年二月二十五日諭
夷官蔡邦鏥に諭す。
署福州府閩県正堂言は、札に遵い詳覆せんが事の為なり。嘉慶十三年二月十九日前海防分府張が憲札を蒙け、嘉慶十三年二月十九日布政使司景の批を蒙けたるに、「本府は該県と会同に詳覆す『琉球国接封大夫蔡邦錦、呈を具すに〔南台河下に停泊せる金森美・薜長発の二船有り。新造寛大にして堅固なれば、冊封欽差の坐駕と為すに堪えたり。選封して用に備うるを呈請されたし等情〕とあり。会同に査明するに、以て穏渉に堪う等の縁由』と。批を奉けたるに『詳の如く、金森美・薜長発の両船を将て選封して用に備うるを准す。仰いで即ちに飭し、該船戸をして詳慎に修理せしめ、工を興すの日期を取具して具報せよ。仍お両院憲に転報して査考するを候て。繳せ等因』」とあり。此を蒙けたれば、金森美・薜長発の両船に差着して赶緊に慎修せしめ、工を興すの日期を取具して具報し、并びに前に選びたる陳茂春等の四船を将て折封するを除くの外、合に就ちに行知すべし。此が為に県の官吏に行す、「即便に遵照して違うこと毋からしめよ等因」と。此を蒙けたれば、合に飭知を行うべし。此が為に諭もて該夷官蔡邦錦に仰ず、「即便に知照して違うこと毋かれ」と。特に諭す。
嘉慶十三年二月二十五日諭す
〔史料二十一〕
懇求出示以減貨物事
具案琉球国接 封正議大夫蔡邦錦為稟明実情懇 恩出示諭知減貨物以恤貧窮事切敝国蕞爾陬土遠居海隅夙蒙
天朝一視同仁之徳進貢弗懈世世襲爵謹守藩職此誠天高地厚之洪恩也這番錦臨行之時奉本国法司官諭令奈因国運衰微貢船数遭漂没且柔遠駅被火焚焼所失公項甚属過多今僅蓄得三万両銀内一万両以為頭号船評価銀又一万両以為二号船評価銀仍照前例加二息銀共計二万四千両其余六千両以為備弁
封典応用物件此次接貢船隻到閩応即稟叩
上憲請示約束等由奉此錦窃想敝国土瘠産乏貨若浮多銀則於少莫何拮据無処措挪臨時誠恐随封人等籍此滋事反累
欽差大人錦故以先行案明免得臨時周章但乾隆二十一年
冊封随封人等在国勒買不遂騒動不法及至帰省
天朝厳行大法護封武員以及兵役数名被罪原為貨物以起禍端乃因敝国貧窮竟累
天朝員名国主聞知深痛寝食不安又査康煕五十八年
冊封所帯貨物亦属甚多因而稟明実力不能承買奈堅執不容実不得已勉力強収臣民男女金銀銅簪及銅錫器皿等物算成銀両方能買得四分之一其四分之三依旧帯回伏乞大人仰体
皇上柔遠至意俯察敝国瘠乏苦情迅賜先発告示厳行約束所有封船二隻圧載貨物毎船限以一万両之額俾得安頓兵役粛静地方則挙国臣民感激即国主亦感佩鴻慈於無既矣切稟
嘉慶十三年五月 日具稟琉球国接 封正議大夫蔡邦錦
右稟上
海防 布政司 撫院 欽差両位
出示して以て貨物を減ずるを懇求する事。
稟を具す。琉球国接封正議大夫蔡邦錦は、実情を稟明し、懇わくは恩もて諭知を出示し、貨物を減じて以て貧窮を恤いたまわんが事の為なり。切に敝国は蕞爾たる陬土にして遠く海隅に居る。夙に天朝一視同仁の徳を蒙り、進貢懈らず、世々爵を襲ぎ、勤んで藩職を守る。此れ誠に天のごとく高く、地のごとく厚き洪恩なり。這の番、錦、行に臨むの時、本国法司官の諭令を奉けたるに、「奈んせん、国運衰微し、貢船は数々漂没に遭い、且つ柔遠駅は火を被りて焚焼するに因り、失う所の公項は、甚だ過多に属す。今、僅かに三万両の銀を蓄え得たるも、内一万両は以て頭号船の評価銀と為し、又、一万両は以て二号船の評価銀と為す。仍お前例に照らして二息の銀を加え、共計二万四千両なり。其の余の六千両は以て封典のとき応に用うべき物件を備弁するを為す。此の次、接貢船隻閩に到らば、応に即ちに稟もて上憲に約束(制限)を請示するを叩うべし等由」と。此を奉けたれば、錦、窃かに想えらく、敝国は土瘠せ、産乏し。貨、若し浮多にして、銀、則ち少くるに於ては、何ぞ拮据すること莫からんや。処として措挪する無しと。時に臨んで誠に恐る、随封人等、此に籍りて事を滋くし、反って欽差大人に累あらんことを。錦、故を以て先行して稟明し、時に臨んで周章するを免かれ得しめん。但だ乾隆二十一年冊封のとき、随封人等、国に在りて勒いて買らんとして遂げず、騒動不法なり。省に至り帰るに及び、天朝厳に大法を行い、護封の武員以及び兵役数名は罪せらる。原より貨物以て起禍の端と為る。乃ち敝国貧窮なるに因り、竟に天朝の員名に累あるなり。国主、聞知し深く痛み、寝食安んぜず。又、査するに康煕五十八年冊封のとき、帯ぶる所の貨物も亦た甚だ多きに属す。因りて稟明す、実力に承買する能わずと。奈んせん、堅く執りて容れず。実に已むを得ず勉力して強いて臣民の男女の金銀銅の簪及び銅錫の器皿等の物を収め、銀両を算成して、方めて能く四分の一を買得し、其の四分の三は旧に依りて帯び回らしむ。伏して乞うらくは、大人、仰いでは皇上柔遠の至意を体し、俯しては敝国瘠乏の苦情を察せられ、迅やかに先きに告示を発するを賜いて厳に約束(制限)を行い、所有の封船二隻の圧載の貨物は毎船限るに一万両の額を以てし、兵役を安頓し、地方を粛静ならしむるを得れば、則ち挙国臣民感激し、即ち国主も亦た鴻慈を無既に感佩せん。切に稟す。
嘉慶十三年五月 日稟を具す。琉球国接封正議大夫蔡邦錦
右の稟は、海防、布政司、撫院、欽差両位に上る
〔史料二十二〕
懇求酌減夫役事
具案琉球国接 封正議大夫蔡邦錦為乞怜小国苦情
恩准酌減夫役以恤窮邦以粛安静事切本国僻処弾丸出産無幾凡有
冊封大典必須蓄積数年賦税方敢前来請
封歴届遵行在案縁自 尚温王嗣位未及七載即薨世子尚成五齢幼主嗣位三年又逝兼以嘉慶七年進 貢両船倶失頭号全船覆没二号漂失台湾寸板無存至嘉慶九年柔遠駅被火焚焼貨物尽失似此歴歳迍遭難免倉庫窮乏奚敢遽行請
封但因国運衰新主必須請
封得叨
天朝洪福気運更新所以挙国臣民尽行勉力急公於嘉慶十一年特遣正議大夫梁邦弼請
封前来不料是冬二号船又漂失彭湖地方寸板無存至十二年特遣錦前来接
封船隻又漂至海壇地方失破船貨倶没官伴水梢淹斃六十三人幸蒙
皇恩憲徳捐賞銀両感激不勝但査乾隆二十一年間
冊封所有随封員弁兵役併匠作船梢共計四百五十七員名至
嘉慶五年
冊封所有随封人数算至四百九十九員名之多但例撥随封人数何敢辞供給之繁奈敝国主請
封在前不意遇災両次在後誠恐臨時拮据力不従心難免失礼之愆錦思天使随封員伴例有定数不敢請減而船上応用舵梢亦不可欠惟有夫役之中似可邀減不揣冒昧瀝情稟叩
大人台下仰体柔遠至意俯察窮国迍遭 恩准体照前例酌減随封夫役俾小邦得以安静挙国臣民啣恩不朽切稟
嘉慶十三年五月 日具梁琉球国接 封正議大夫蔡邦錦
右稟上
海防 布政司 撫院 欽差両位
夫役を酌減するを懇求するの事
稟を具す。琉球国接封正議大夫蔡邦錦は、小国の苦情を怜み、夫役を酌減するを恩准せられ、以て窮邦を恤み、以て安静を粛うるを乞わんが事の為なり。
切に本国は弾丸に僻処し、出産幾ばくも無し。凡そ冊封の大典有るときは、必須ず数年の賦税を蓄積して方めて敢えて前来して封を請う。歴届遵行すること案に在り。尚温王、位を嗣いでより未だ七載に及ばざるに、即ち薨じ、世子尚成は五齢の幼主にして位を嗣ぐも、三年にして又逝き、兼ねて以て嘉慶七年の進貢両船は倶に失し、頭号は全船覆没し、二号は台湾に漂失して寸板も存するもの無し。嘉慶九年に至りては、柔遠駅火を被りて焚焼し、貨物尽く失う。此の似く歴歳迍遭免かれ難く、倉庫窮乏するに縁り、奚ぞ敢えて遽かに請封を行わんや。但だ国運衰えるときは、新主は必須ず封を請い、天朝の洪福を叨うするを得て、気運更新し、所以に挙国臣民尽行く急公に勉力するに因り、嘉慶十一年特に正議大夫梁邦弼を遣わし、請封前来せしむるに、料らずも是の冬二号船は又澎湖地方に漂失し、寸板も存する無し。十二年に至り、特に錦を遣わし、前来して封を接せしむるに、船隻、又海壇地方に漂至し、失破して船貨倶に没し、官伴・水梢の淹斃するもの六十三人なり。幸いに皇恩憲徳を蒙り、銀両を捐賞せられ、感激勝之ず。但だ査するに、乾隆二十一年間、冊封のとき。所有の随封の員弁・兵役併びに匠作・船梢は共計四百五十七員名なり。嘉慶五年の冊封に至りては、所有の随封人の数は、算するに四百九十九員名の多きに至る。但だ例として撥する随封人の数なれば、何ぞ敢えて供給の繁きを辞せんや。奈んせん、敝国主、封を請うに、前に在りては不意に災に遇うこと両次、後に在りては誠に恐る、時に臨んで拮据し、力、心に従わず、礼を失するの愆を免かれ難からんことを。錦、思うに天使随封の員伴は、例として定数有り。敢えて減ずるを請わず、而して船上応に用うべき舵梢も亦た欠くべからず。惟だ夫役の中には邀減すべきが似きもの有らん。冒眛を揣らず、情を瀝べ、稟もて叨うらくは、大人台下、仰いでは柔遠の至意を体し、俯しては窮国の迍遭を察し、前例に体照して随封の夫役を酌減し、小邦をして以て安静を得るを恩准せば、挙国臣民、恩を啣すること不朽なり。切に稟す。
嘉慶十三年五月 日稟を具す。琉球国接封正議大夫蔡邦錦
右の稟は、海防、布政司、撫院、欽差両位に上る
〔史料二十三〕
懇求飭水口撥給人夫船隻糧食事
琉球国接 封正議大夫蔡邦錦為乞恤外夷人地生疎恩准飭馹撥給人夫船隻糧食以便遵令往接 天使事切錦
奉王世孫命来閩恭接
冊封天使例応遵候
〈大人/仁憲〉給批前往前途迎接但敝国自納款
天朝以来皆係由海而至従無旱路到閩是以歴次進 貢往京併各省逓送漂風難夷到閩向蒙飭県備弁人夫船隻口粮等項此番錦船隻遭風漂収海壇地方先行由旱進館亦蒙照例弁応此皆深沐
皇恩憲徳下恤外夷之至意也錦此番恭接
天使前往水口将次起行不已瀝情叩懇
〈大人/大老爺〉恩准迅賜飭行前途馹跕僱備船隻人夫粮食併賜発護昭俾外夷得以穏往感激無涯切稟
右稟上
海防 布政司
水口駅に飭して人夫・船隻・糧食を撥給するを懇求する事
琉球国接封正議大夫蔡邦錦は、外夷は人も地も生疎なるを恤み、馹に飭して人夫・船隻・糧食を撥給するを恩准せられ、以て令に遵い、往きて天使を接するに便ならしめんことを乞わんが事の為なり。
切に錦は、王世孫の命を奉けて来閩し、恭しく冊封の天使を接す。例として応に〈大人/仁憲〉の給せられたる批に遵候し、前み往きて前途に迎接すべし。但だ敝国は款を天朝に納れてより以来、皆、海よりして至るに係る。従りて旱路より閩に到ること無し。是の以に歴次貢を進めて京に往き併びに各省漂風の難夷を逓送して閩に到るときは、向には県に飭して人夫・船隻・口粮等の項を備弁せしむるを蒙る。此の番、錦が船隻風に遭い、海壇地方に漂収し、先行して旱より館に進むときも亦た例に照らして弁応せしむるを蒙る。此れ、皆、深く皇恩・憲徳に沐するは、下は外夷を恤むの至意なり。錦、此の番、恭しく天使を接せんとして水口に前み往く。将次に行を起さんとす。已むをえず情を瀝べ、叩懇すらく、〈大人/大老爺〉、迅やかに前途の馹跕に飭行して船隻・人夫・粮食を僱備するを賜い、併びに護照を給発し、外夷をして以て穏やかに往くを得しむるを賜うを恩准せば、感激、涯り無し。切に稟す。
右の稟は海防・布政司に上る
〔史料二十四〕
〈兵部尚書兼都察院右都御史総督福建浙江等処地方軍務兼理糧餉塩課阿 /兵部侍郎兼都察院右副都御史巡撫福建等処地方提督軍務張 〉 為
照会事照得
貴国海東宣化任重分藩世受
崇封恪恭効順此届恭迎
冊封天使船隻航海遠来因在洋遭風於嘉慶十二年十月二十五日漂至□□(鐘門カ)洋面撞礁撃砕淹斃官伴人等六十三名并内地舵工一名業経本部〈堂/院〉飭令地方官先将撈救得生使臣官伴人等護送来省給与衣履口糧安頓館駅并派委明幹妥員撈獲屍身三十七具立碑標記恭摺具
奏仰蒙
大皇帝諭令将口糧棉布等項加倍賞給并賞銀一千両以作僱船回国之費又賞銀五百両交貴国使臣帯回分給淹斃各官伴家属承領以示軫恤嗣拠使臣蔡邦錦等稟称
貴国王世孫有発交銀五千両令伊等帯至内地製弁迎接
冊封天使備用各物因船隻撃砕銀両沈失懇求借給以資購弁俟下次進
貢船隻来閩再行帯還等情又経本部〈堂/院〉奏蒙
大皇帝照数賞銀五千両
加恩免其繳還荷
皇恩之稠畳寔欽戴以同深茲乗該使臣等回国相応照会為此照会
貴国王世孫請煩査照将備弁物件銀五千両欽遵
諭旨毋庸繳還并将該使臣等帯去銀五百両伝到淹斃官伴各家属分別頒賞以副
大皇帝懐柔体恤優加無已之至意海天在望遙維履候綏佳須至照会者右照会
中山国王世孫尚
嘉慶十三年五月 日
兵部尚書兼都察院右都御史総督福建浙江等処地方軍務兼理糧餉塩課阿、兵部侍郎兼都察院右副都御史巡撫福建等処地方提督軍務張は、照会の事の為なり。照得するに、貴国は海東に化を宣べ、任重し。藩を分ち世々崇封を受け、恪恭んで順を効す。此の届、恭しく冊封の天使を迎うるの船隻、海を航して遠来す。洋に在りて風に遭うに因り、嘉慶十二年十月二十五日に於いて鐘門洋面に漂至し、礁を撞きて撃砕し、官伴人等六十三名并びに内地の舵工一名を淹斃す。業経に本部〈堂/院〉地方官に飭令し、先ず撈救して生くるを得たる使臣・官伴人等を将て護送して省に来たらしめ、衣履・口糧を給与して館駅に安頓せしめ、并びに明幹なる妥員を派委し、屍身三十七具を撈獲して碑を立てて標記し、恭しく摺もて具奏す。仰いで大皇帝の諭令を蒙けたるに「口糧・棉布等の項を将て加倍に賞給し、并びに銀一千両を賞して以て船を僱いて回国するの費と作し、又、銀五百両を賞して貴国使臣に交し、帯回して淹斃せる各官伴の家属に分給して承領せしめ、以て軫恤を示すべし」とあり。嗣いで使臣蔡邦錦等の稟称に拠れば「貴国王世孫、銀五千両を発交し、伊等をして内地に帯び至らしめ、冊封の天使を迎接するのとき、備用の各物を製弁せしむること有り。船隻撃砕し、銀両沈失するに因り、懇求わくは、借給して以て購弁に資し、下次の進貢船隻の来閩するを俟ちて再び帯還を行わん等情」とあり。又、経に本部〈堂/院〉奏す。蒙るに、大皇帝より、数に照らして銀五千両を賞し、恩を加えて其の繳還を免ぜよ、とあり。皇恩を荷ること之れ稠畳、寔に欽戴以て同に深し。茲に該使臣等の回国するに乗じ、相い応に照会すべし。此が為に貴国王世孫に照会す。請煩わくは、査照して、物件を備弁するの銀五千両を将て諭旨に欽遵して繳還を庸うること毋く、并びに該使臣等帯去の銀五百両を将て、淹斃せる官伴の各家属に伝到し、分別に頒賞して以て大皇帝の懐柔体恤すること優く加えて巳む無きの至意に副わしむ。海天望かに在り。遙かに維れ綏佳なるを履候す。須らく照会に至るべき者なり。
右は中山国王世孫尚に照会す
嘉慶十三年五月 日
〔史料二十五〕
兼署福建等処承宣布政使司為知照事嘉慶十三年二月二十七日奉
総督部堂阿 憲箚嘉慶十三年二月十五日准礼部咨主客司案呈嘉慶十二年十二月二十二日内閣抄出閩浙総督阿 福建巡撫張
奏為捐賞琉球船隻遭風沈失該国王世孫銀両一摺本月十九日奉
上諭一道欽此欽遵抄出到部相応抄録原奏移咨閩浙総督可也計連単一紙等因又於二月二十三日准
戸部咨同前因各到本部堂准此擬合就行備箚行司即便移行欽遵弁理毋違計粘単内開嘉慶十二年十二月二十一日内閣抄出閩浙総督臣阿 福建巡撫臣張 跪
奏為捐賞琉球船隻遭風沈失該国王世孫銀両以広 皇仁仰祈
聖鑑事窃照琉球国接
貢船隻在洋遭風漂至海壇之観音澳口不候兵船迎護旋即自行開駕在鐘門洋面撃砕淹斃人口経臣等派委大員馳往撈救従厚撫惶並将接護遅延及攔阻不力之地方文武拠寔参
奏在案嗣拠委員候補道馮鞶督同平潭庁営将撈獲箱匣五十九件並撈救得生之夷人三十名護送来省同先由観音澳携帯物件二十余抬赴岸到省之夷官等十二人一体安頓館駅宣布
皇恩賞給口粮衣履等項俾無失所茲拠該夷官蔡邦錦等稟称此次船隻遭風撃砕仰蒙
憫念難夷厚加賞恤生死均感船内所載土産鮑魚海参等物及南山北各島附搭置買貨物銀二万両均已漂没無存惟内有本国王世孫発銀五千両置弁迎接
冊封天使備用各物今一併沈没不能買備回国恐有獲咎懇求酌量借給俾得買弁物件等情臣等因備弁
冊封天使応用何物未拠明白声叙随飭藩司景督同海防同知張采五伝到該夷官当面訳訊拠供向来該国夷船来閩倶有随帯土産乗便貿易並南山北各島附搭銀両置買貨物此次船内銀貨漂没無存寔係夷人等貪趁一時順風承行開駕以致猝遇風災已蒙多方撈救並奏請
大皇帝厚賞口粮等項又請
賞給僱船之資如此体恤遠人無微不到皆
天相格外恩施夷人等不勝感戴至本国王世孫発銀五千両係因
冊封天使到国応備
龍旗
御扇各儀仗敬奉
天朝又国主王妃跪迎
詔勅応製蟒錦紬緞各衣料及一切地氈灯綵磁器盤碗并預備薬材等物本国均無出産必須由内地購買今此項銀両沈失無従置弁恐致貽悞獲咎是以夷人等呈懇借給銀五千両以資購備回国俟下次進貢船隻来閩再請本国王措還並無別意只求転懇如数借給就沾恩了等語臣等査向来琉球夷船遭風漂没銀物除分別撫恤之処従無借給銀両之例嘉慶八年該国二号
貢船在台湾遭風漂失銀二万両十一年該国二号
貢船在澎湖冲礁沈失銀二万五千両均無賞借此次船隻撃砕該夷人附帯南北山銀両貨物沈失已照向例加倍撫恤無庸另議外惟該国王世孫因来年有
冊封臣到国発交銀五千両赴閩置弁物件自属寔情且有関敬奉
天朝儀注未便欠悞今銀両在洋沈失自当敬体
皇仁代籌接済臣等公同商酌擬将該国王世孫所交銀五千両照数捐賞免其繳還俾該夷人官等得以置備回国仍俟奉到
諭旨臣等照会該国王世孫遵照以仰副
聖主懐柔遠人有加無已之至意再査該国
貢使業已進京尚有同来之官伴人等仍用原船先行回国業経給咨登舟因風〓(日+卂)未順尚未放洋茲拠該夷官等稟請暫行調回来春再令開解等情臣等査現値冬令風〓(日+卂)愆期難以駕駛出洋自応俯如所請准其将船隻調回官伴貨物搬進館駅仍自応回館之日起支給囗粮塩菜俟来春風順或随接
封官伴一体附搭回国較為両便理合一併奏
聞所有臣等酌籌弁理各縁由謹合詞恭摺具
奏伏乞
皇上睿鑑訓示謹
奏十九日奉
硃批另有旨欽此本日奉
上諭阿 等奏請捐賞琉球船隻遭風沈失該国王世孫銀両一摺該国王世孫因来年有冊封使臣到国発交夷官銀五千両備弁迎接応用物件儀制攸関今因船隻在洋遭風此項銀両漂失該夷官等呈懇借給以資購備自応加之体恤量予恩施所有該国沈失銀五千両著加恩賞給庫項銀二千五百両其余銀二千五百両准該省督撫司道大員損資発給均免其繳還用示懐柔至意余着照所請行該部知道欽此等因奉此査摘回頭号船進
貢官伴梁淵等係上年十日初六日離駅登舟至十一月二十日吊回館駅前拠該夷官稟請接支口粮業経詳奉
撫憲批准即自十二年十月初七日起接支給領在案茲当遣発之期合併移知為此備咨貴国王世孫請煩査照施行【等因到国准此査得本国接
貢船隻在洋遭風漂至鐘門洋面撞礁撃砕淹斃人口沈失貨物仰蒙
列憲憫念難夷代為具
題生者加賞死者加恤併発給銀両俾得買弁款待
天使物件又査頭号
貢船都通事梁淵等已雖離駅登舟現値冬令難以駕駛回国更蒙吊回館駅接支口粮俟侯風順俾以回国此誠
浩恩憲得感激無地理合咨謝為此備咨
貴司請煩転謝施行(3)】須至咨者
右 咨
琉球国中山王世孫尚
嘉慶十三年五月 日
兼署福建等処承宣布政使司は知照の事の為なり。嘉慶十三年二月二十七日、奉りたる総督部堂阿の憲箚に「嘉慶十三年二月十五日礼部の咨を准く。主客司の案呈に『嘉慶十二年十二月二十二日、内閣にて抄出す。閩浙総督阿・福建巡撫張、琉球船隻風に遭いて沈失せる該国王世孫の銀両を捐賞することを為すを奏するの一摺は、本月十九日上諭一道を奉りたるに、此を欽めよ、とあり。欽遵して抄出して部に到る。相い応に原奏を抄録して閩浙総督に移咨して可なるべし。計るに、単一紙を連ぬ等因』とあり。又、二月二十三日に於いて戸部の咨を准けたるに、前の因に同じ、とあり。各々本部堂に到る。此を准けたれば、合に就行ちに箚を備えて司に行らんとす。即便ちに移行し、欽遵して弁理し、違うこと毋かれ」とあり。計るに、粘単あり。内に開く「嘉慶十二年十二月二十一日内閣にて抄出す。閩浙総督臣阿・福建巡撫臣張、跪して奏す。『琉球船隻風に遭い沈失せる該国王世孫の銀両を捐賞し、以て皇仁を広くし、仰いで聖鑑を祈めんが事の為なり。窃かに照うに、琉球国接貢船隻、洋に在りて風に遭い、海壇の観音澳囗に漂至す。兵船の迎護を候たずして旋即ちに自から開駕を行い、鐘門洋面に在りて撃砕し、人口を淹斃す。経に臣等大員を派委し、馳せ往きて撈救し、厚きに従いて撫恤し、並びに接護遅延し及び攔阻力めざるの地方を将て、文武を、寔に拠って参奏すること案に在り。嗣いで拠るに、委員候補道馮鞶は平潭庁営を督同し、撈獲する所の箱匣五十九件並びに撈救して生くるを得るの夷人三十名を将て、護送して省に来り、先に観音澳より物件二十余抬を携帯して岸に赴き省に到るの夷官等十二人と同に一体に館駅に安頓し、皇恩を宣布し、口粮・衣履等の項を賞給して所を失うこと無からしむ。茲に該夷官蔡邦錦等の稟称に拠れば〔此の次、船隻風に遭いて撃砕す。難夷を憫念せられ、厚く賞恤を加うるを仰蒙す。生けるものも死せるものも均しく感ず。船内載する所の土産の鮑魚・海参等の物及び南山北各島附搭して貨物を置買するの銀二万両は、均しく已に漂没して存する無し。惟だ内に本国王世孫銀五千両を発り、冊封の天使を迎接するに備用の各物を置弁する有り。今、一併に沈没したれば、買備して回国する能わず。恐らくは咎めを獲ること有らん。懇求わくは、酌量して借給し、物件を買弁するを得しめられんことを等情〕とあり。臣等、冊封の天使の応に用うべき何物を備弁するや、未だ明白なる声叙に拠らざるに因り、随ちに藩司景(敏)に飭し、海防同知張采五を督同して該夷官に伝到し、当面に訳訊せしむ。供に拠れば〔向来、該国夷船閩に来たるときは、倶に土産を随帯し、便に乗じて貿易し、並びに南山北各島は銀両を附搭して貨物を置買する有り。此の次、船内の銀貨漂没して存する無し。寔に夷人等一時の順風に貪趁して承いで開駕を行い、以て猝に風災に遇うを致せしに係る。已に多方に撈救するを蒙り、並びに大皇帝に奏請して厚く囗粮等の項を賞し、又、船を僱うの資を賞給せんことを請う。此くの如く遠人を体恤すること微も到らざる無く、皆、天相格外に恩施せらる。夷人等感戴に勝えず。本国王世孫の発りたる銀五千両に至りては、冊封の天使国に到るに因り、応に備うべきの龍旗・御扇の各儀仗は、敬んで天朝を奉じ、又、国主・王妃跪して詔勅を迎うるのとき、応に製すべきの蟒錦・紬緞の各衣料及び一切の地氈・灯綏・磁器・盤碗并びに預め備うる薬材等の物は、本国均しく出産無く、必ず須らく内地より購買すべきに係る。今、此の項の銀両沈失し、従て置弁する無し。貽悞ありて咎めを獲るを致すを恐る。是の以に夷人等呈懇す、銀五千両を借給して以て資して購備回国し、下次の進貢船隻の閩に来たるを俟ち、再び本国王に請いて措還し、並も別の意無きなり。只だ求むらくは、転して数の如く借給すを懇いたまわば、就ち恩に沾い了れり等語〕とあり。臣等、査するに、向来、琉球夷船風に遭いて銀物を漂没せしときは、分別して撫恤するの処、従いて銀両を借給するの例無し。嘉慶八年該国二号貢船台湾に在りて風に遭い、銀二万両を漂失す。十一年該国二号貢船澎湖に在りて礁に冲し、銀二万五千両を沈失す。均しく賞借すること無し。此の次、船隻撃砕し、該夷人の附帯せる南北山の銀両・貨物、沈失す。已に向例に照らして加倍して撫恤し、另の議を庸うる無きを除くの外、惟だ該国王世孫、来年冊封の臣、国に到ること有るに因り、銀五千両を発交し、閩に赴きて物件を置弁せしむるは、自から寔情に属す。且つ敬んで天朝の儀注を奉ずるに関わること有り。未だ欠悞するに便ならず。今、銀両は洋に在りて沈失す。自当に敬んで皇仁を体し、代りて接済を籌るべし。臣等、公同に商酌し、該国王世孫交する所の銀五千両を将て、数に照らして捐賞し、其の繳還を免じ、該夷人官等をして以て置備して回国するを得せしめんとす。仍お諭旨を奉到するを俟ち、臣等、該国王世孫に照会し、遵照して以て仰いで聖主遠人を懐柔すること、加うる有りて已む無きの至意に副わん。再び査するに、該国貢使、業已に京に進む。尚お同来の官伴人等仍お原船を用て先行して国に回るに、業経に咨を給して登舟する有り。風〓(日+卂)未だ順ならざるに因り、尚お未だ放洋せず。茲に該夷官等の稟請に拠れば〔暫く調回を行いて来春再び開解せしめられたし等情〕とあり。臣等、査するに、現に冬令に値う。風〓(日+卂)期を愆てば、以て駕駛して出洋し難し。自応に俯して請う所の如く、其の船隻を将て調回せしめ、官伴・貨物は館駅に搬進するを准すべし。仍お自応に館に回るの日より起こして口粮・塩菜を支給し、来春風順なるを俟ち、或いは接封の官伴に随いて一体に附搭して回国せしむべくんば、較だ両便と為す。理として合に一併に奏聞すべし。所有の臣等酌籌弁理するの各々の縁由は、謹んで詞を合して恭しく摺もて具奏す。伏して乞うらくは。皇上睿鑑ありて訓示ありたし。謹んで奏す』。十九日奉りたる硃批には、『另に旨有り、此を欽め』とあり。本日奉りたる上諭には『阿等の奏請したる〔琉球船隻風に遭いて沈失せる該国王世孫の銀両を捐賞する〕の一摺は、該国王世孫、来年冊封の使臣国に到るに因り、夷官に銀五千両を発交し、迎接のとき応に用うべき物件を備弁せしむ。儀制の関わる攸なれど、今、船隻洋に在りて風に遭い、此の項の銀両漂失するに因り、該夷官等、呈懇すらく、借給して以て購備に資せんことを。自応に之に体恤を加え、量予して所有の該国の沈失銀五千両を恩施し、著して恩を加え、庫項銀二千五百両を賞給し、其の余の銀二千五百両は、該省の督・撫・司・道の大員、資を損して発給し、均しく其の繳還を免ずるを准し、用て懐柔の至意を示すべし。余は着して請う所に照らして該部に行して知道せよ。此を欽め等の因』あり」。此を奉けたり。査するに、摘回する頭号船の進貢官伴梁淵等は、上年十月初六日駅を離れ、登舟するも、十一月二十日に至り、館駅に吊回せるものに係る。前に拠りたる該夷官の稟請には「囗粮を接支せられたし」とありたれば、業経に詳したるに、奉りたる撫憲の批には「即ちに十二年十月初七日より起こして接支して給領せしむるを准す」とあること案に在り。茲に遣発の期に当り、合併に移知す。此が為に備に貴国王世孫に咨す。請煩わくは査照して施行せられたし。須らく咨に至るべき者なり。
右は琉球国中山王世孫尚に咨す
嘉慶十三年五月 日
四 文書内容及び文書経路
次に文書の内容等について、簡単に私見を述べておきたい。なお本史料における各衙門の統属関係及び文書経路並びに各衙門の長の通称は以下のとおりではないかと考えられる。
〔総督〕大憲(大人) ・督憲
⇄〔布政使〕大老爺・大人
〔巡撫〕大憲(大人) ・撫憲(大人)
台下・藩憲(大人) ・仁憲 ⇄〔海防同知〕大人
〔史料一〕 総督又は巡撫宛。公銀の借給(貸与)願い。おそらく海防庁・布政司を経て提出したものであろう。沈失銀は約十万両。その内訳は(一)南山・北山銀二万両、(二)土産の売り上げ見込み代銀六、七万両、(三)王府銀(冊封の大典に必要な物件の購入資金)五千両、である。提出の日付を欠いているが、前述のように十一月十五、十六日前後と推定される。
〔史料二〕 海防庁より蔡邦錦等宛。福州府への出頭命令。おそらく損失額等について報告に誤りがないかどうか各本人(正身)自ら府に赴き証言(立)せよというのであろう。
〔史料三〕 布政司より蔡邦錦等宛。銀両借給(貸与)等について前例の有無を調査し、報告するよう福防庁(福州府分守南台海防庁)に命じたことを伝える文書。
〔史料四〕 海防庁より蔡邦錦等宛。薬材購入について、願い通り総督・巡撫・布政司に取り次ぐから稟稿一部を作成し差し出せ、ということであろう。〔史料三〕の稟では、銀五千両の使途目的が冊封に必要な物品の購入にあることを述べているが、薬材の購入については言及されていない。このため蔡邦錦としては銀五千両には薬材の購入が含まれることを追加しておきたかったのであろう。
〔史料五・六・七〕 総督・巡撫の命を受け、布政司より土通事(引礼通事)鄭煌・馮邦麟に宛てたものか、〔史料一〕の稟に対する疑義照会文書。後出〔史料十〕嘉慶十二年十二月朔日付上奏文に「臣等、冊封天使の応に用うべき何物を備弁するや、未だ明白なる声叙に拠らざれば、随ちに藩司(布政司)景敏に飭し、海防同知張采五を督同し、伝えて該官(蔡邦錦)に到り、当面に訳訊せしむ」とある。〔史料五〕は南山・北山帯銀二万両は私人が勝手に持ち込んだもので、朝廷の関知するところではない。公私を混同して申告(混瀆)してはならない。〔史料六〕は土産の売り上げ見込み代銀六、七万両とあるが、実際より多めに申告(多瀆)したもので実数ではないはず。〔史料七〕は王府銀五千両については借給の必要性をみとめ、督・撫に詳請し、題奏をお願いしてもよい。ただし購入リストを提出せよ、ということであろう。
〔史料八〕 土通事。(引礼通事)鄭煌・馮邦麟より布政司宛。前項の疑問点に回答(稟覆)したもの。冊封に必要な物件及び薬材の購入費に充てるため銀五千両の借給を督・撫に詳請せられたし。
〔史料九〕 蔡邦錦等より布政司宛、先借願い。銀五千両の借給についてはさきに十二月朔日付で題奏〔史料十〕があったことだし、不許可はありえない。これ以上の延引はできないので、諭旨の下る前に貸与されたし。日付を欠くが、〔史料十一〕によって「十二日」であることがわかる。
〔史料十〕 督・撫連名の上奏文。日付からいって〔史料九〕の前にあるべき。銀五千両については、冊封の大典に係るものであるから、全額給発することとし、且つ返済の用なしとしたい。
〔史料十一〕 蔡邦錦等より海防庁宛。再度の先借願い。蟒錦の織造には百余日を要す。これ以上遅延して年を越すようなことになれば、回国の日期に間に合わない。
〔史料十二〕 〔史料九〕と重複。
〔史料十三〕 海防庁より蔡邦錦等宛、先借不可の回答文書。あくまで諭旨奉到の後、給領せしむべし。
〔史料十四〕 諭旨の一部分を抜粋したものか。全文は〔史料十六〕に見える。十二月十九日付内閣奉上諭(明発上諭)には、前述のように「另に旨有り」(処理については別途指示する)とだけあって〔史料十〕、諭旨の内容はわからない。諭旨の具体的内容(指示事項)は正月七日付軍機処から巡撫に宛てた廷寄(寄信上諭)によって示される。蔡邦錦等は翌日これを入手したのであろう。諭旨の内容は銀五千両のうち、二千五百両については庫銀から支出し、残り二千五百両については総督・巡撫(両院)、両司(布政使・按察使)、六道の計十名で一人あたり二百五十両ずつ負担し、その繳還(返済)を免ず、というものである。
〔史料十五〕 蔡邦錦等より布政司宛、銀五千両の受け取り書。〔史料十六〕 海防庁より蔡邦錦等宛、諭旨の伝達。末尾に「銀五千両の受領につき呈文を作成し、海防庁に差し出せ」とあるが、銀の受け取り及びその受領書の提出はすでに終わっている〔史料十五〕。文書経路を整理すれば、次のようになろう。
内閣(上諭)→巡撫部院(十二年十二月十九日受、下行文、奉)
軍機処(廷寄)→巡撫部院(十三年一月七日受、平行文、承准)
巡撫部院(憲案)→布政司(十三年一月七日受、下行文、奉)
布政司(憲礼)→海防庁(十三年一月二十七日受、下行文、蒙)
海防庁(諭)→蔡邦錦等(十三年二月三日)
〔史料十七〕 蔡邦錦等より巡撫宛、冊封使乗船の選定につき、すみやかに親臨の上覆験勘定せられたし。布政司の取次無しに直接巡撫に提出したのであろう。この文書について『海路無恙』には「勅使御乗船(冊封頭号船)并遊撃乗船(冊封二号船)、兼而御船頭(頭号船々頭)・二号船々頭・佐事・水主共召列、内分より見分仕、金森美・薛長発両艘相しらべ置候付、何卒右両艘江被仰付度、尤御見分之砌者、私共江も御用被仰付度旨、呈相調、海防官并布政司・閩県衙門参上、大爺(知県)取次を以、願中上候稟」とある。
〔史料十八〕 蔡邦錦等より布政司宛再稟。すでに海防同知・布政司の験看も済んでいるので、巡撫の親臨覆験を詳請せられたし。
〔史料十九〕 蔡邦錦等より布政司宛、冊封使乗船の選定終了後提出した保証書。日付がないが、次の〔史料二十〕の後にあるべきか。
〔史料二十〕 閖県より蔡邦錦等宛、冊封使乗船の選定結果についての通知。文書経路は次のようになろう。
布政司(批)→海防庁(十三年二月十九日受、下行文、蒙)
海防庁(憲札)→閩県(十三年二月十九日受、下行文、蒙)
閩県(諭)→蔡邦錦等(十三年二月二十五日)
〔史料二十一〕 蔡邦錦等より海防庁宛、琉球側で買い取る貨物(評価物)の量を一船につき一万両に約束(制限)してほしい。この文書について『海路無恙』には「評価物減少之願、呈相調、私、古存留・儀者召列、案(按カ)察司衙門江参上仕候処、御他出ニ而、御門ニ待上候処、海防官右衙門江御入駕之折ニ而、私共御覧被成、御尋有之候付、評価物一件之願ニ付而参上仕居候段申上、右之呈入御覧候処、海防官御直々御取次を以委ク被申上、右之呈茂被差上候間、私共江者可罷帰由被申聞候付、罷帰(候)事」とある。
〔史料二十二〕 蔡邦錦等より布政司宛、随封の夫役の数を減じてほしい。この文書について『海路無恙』には「五月六日河口通事召列、正使様公館江参上仕候処、御前江被召呼候付、御機嫌伺仕、御出船夏至前御出船被遊度、且御入津之儀注、早々被成下候様、且又評価物減少并人数減少被仰付被下度願申上候処、副使江も御相談を以、随分御取計被成下旨、承知仕候付罷帰、引次副使公館江参上仕候処、御差合御座候段承知仕、罷帰候事」とある。これによれば文書の日付は五月六日である。
〔史料二十三〕 蔡邦錦等より海防庁・布政司宛、水口駅までの船隻・人夫・粮食の給発願い。この文書について『海路無恙』には「右ハ洪山橋より水口迄之間。往還共大河舟、私乗船并河口通事乗船ハ、先例琉球方より賃銀差出置候処、此節之儀ハ、兼而布政司御方江願申上、御物より被差出候稟」とある。
以上が『蔡姓家譜』に収録されている史料であって、〔史料二十四・二十五〕は鄭良弼本『歴代宝案』所収文書である。辰年接封一件に関する史料はこのほかにも数多く存在するが、今回は紙幅の都合で割愛せざるをえなかった。他日を期したい。
明清両朝における冠船貿易の推移については、万暦七年(一五七九)己卯、尚永の冊封副使として来琉した謝杰の『日東交市記』と康煕五十八年(一七一九)己亥、尚敬の冊封副使として来琉した徐葆光の『中山伝信録』に注目すべき指摘がある。
〔䘏役〕利は君子の道わざる所なり。故に曰く、天子は有無を言
わず、諸侯は多寡を言わずと。然れども言わざる所は、己の有無多寡なり。若し其の下の為め、民の為めならば、則ち『周礼』周官に載する所も、蓋し諄々乎として之を言えり。航海は危うき役なり。吾が役するものは、即ち吾が民なり。吾䣊、大義の分に迫られ、当に身を致すべし。彼の役せらるるものは、何ぞ焉を知らんや。荀くも利以て之を駆るに非ざれば、何を以て其の心を結び、其の力を得んや。洪武の間、過海五百人、行李各百斤、夷と貿易するを許す。実に利を以て之に噉すに、亦だ五万斤を以てす。実に載する所たるや、著わして絜令と為す。故に甲午の使(嘉靖十三年〔一五三四〕尚清冊封、正副使陳侃・高澄)は、之に因て万金を得たり。総計五百人、人ごとに各二十金上下、多きものは三、四十金に至る。少なきものも亦た十金、八金を得たり。時に洋々として意を得ざるもの莫し。辛酉(嘉靖四十年〔一五六一〕尚元冊封、正副使郭汝霖・李際春)の諸役も、冀うこと仍お前の如し。其の住く者は、率ね皆工巧精技なり。二使(甲午・辛酉の使)の、倭に警せらるるも、しかも免るるを獲たるものは、未だ必ずしも人を得るの効にはあらざるなり。比、獲る所の利は、僅かに六千金、五百人を以て之を計れば、人ごとに各十二金のみ。多きものは二十金、少なきは或いは五、六金なるべし。稍や望む所を觖くこと無くんばあらず。是の以に己卯(謝杰来琉時)の招募には、僅かに中才を得るのみにして、役に応ずるものは、前の如く之れ精工なること能わざるなり。然も猶お其の辛酉の如きを冀えども、不意りき、夷の、貧甚だしきに値い、得る所は僅かに三千余金のみならんとは。時に帯びる所四百人なりと雖も、亦た人ごとに各八金のみ。多きも十五、六金、少なきは或いは三、四金、或いは一金なるべし。亦た大いに望む所を失するを免れず。吾輩、廩を捐して之を助くるに至りて後、師を全うして以て帰るを得たり。蓋し甲午の使は、番舶(日本及び東南アジア諸国の商船)の夷(琉球)に転販するもの、無慮十余国、夷利四倍す。故に我が衆の利も亦た倍す。辛酉の使は、番舶の夷に転販するもの、僅かに三、四国、夷利稍や減ず。故に我が衆の利も亦た減ず。己卯の使は、通番の禁(海禁令)弛み漳人自ら(東南アジア諸国に)往販し、番の一舶も至らず。夷利頓かに絶え、故に我が衆の利も亦た絶ゆ。勢いの然らしむるなり。(『日東交市記』)
今、康煕二十二年(一六八三)癸亥の役(尚貞冊封、正副使汪楫・林麟焻)は、是の時海禁(遷界令)方に厳しく、中国の貨物は外邦争いて購致せんと欲す。琉球に相い近き諸島、薩摩州・土噶喇・七島等の処の如き、皆、風を聞きて来り集まり。其の貨は售り易かりき。閩人浴説して今に至る。故に役に充る者衆し。昇平日久しく(展海令)、琉球歳ごとに来たりて貿易す。中国の貨物は、外邦多く有す。此の番(徐葆光来琉時)、封舟到るの後、土噶喇等の番舶、一つとして至るもの無し。本の国(琉球)は、素より貧乏にして貨は多くは售れず。人役并に困しむ。(『中山伝信録』)
一五六七年(隆慶元)の部分解禁(漳州月港開港)、一六八四年(康煕二十三)における展海令の施行が、琉球の海外発展のみならず、冠船貿易にも深刻な影響を及ぼしていたのである。ことに徐葆光来琉時、閩人の風説に惑い、大量の貨物が持ち込まれたため、その四分の三は買取不能に陥り(『蔡温自叙伝』)、冊封正副使を巻き込んだ一大騒動にまで発展した(評価(ハンガー)事件)。海外への転売もままならず、唐物市場が琉球国内に限定されるのであれば、王府の購買力にはおのずから限界があるから、高価なもの、不要なものは除外され、国内消費が最優先されるのはいたしかたのないことであろう。このときは「府庫一空」し、王府財政は危機に瀕した、という(『球陽』)。冊封使の受入れに関して「冊封使乗船の選定」及び「貨物・夫役の酌減」等の問題が福州における接封使の重要な交渉課題になるのは、徐葆光来琉時(康煕五十八年)以後のことであろう。すなわち民間商船をチャーターして冊封使乗船(頭号船・二号船)に充てる場合、琉球での補修費がかからないよう新造船であること、貨物は両船各一万両(福州原価)以下とすること(評価銀は琉球での買取価格は二割増〔二息〕であるから四千両追加して合計二万四千両となる)、夫役は必要最小限に止めること等である。
冊封は大典であり、財政難を理由に中止ないし廃止することはできない。とすると必要な財源をどこに求めたらよいのか。ここに近世後期、王国体制を維持するための「遠き慮り」(長期計画)ないし先後緩急誤りなき政治手段、すなわち「御政道の本法にもとづく国家経営」が為政者に対して強く要求されることとなるのである。
蔡温は琉球国の置かれた状況について「御当国の儀、偏小の国力を以、唐・大和への御勤御座候に付ては、御分力不相応程の御事候」(『独物語』)と述べているが、冊封朝貢体制のもと「偏小の国力」しかない琉球が王国の体制を維持していくことは至難のことであったにちがいない。そうしてそれを可能にしたものは、ほかならぬ王府の官僚組織であり、また官僚であった。本史料を通読して痛感することは、とりわけ王府の官僚がいかに有能で使命感に燃えていたか、ということである。
注(1)原文は。『清代中琉関係档案選編』三七五頁。
(2)中国第一歴史档案館档案翻字史料(沖縄大学蔵)参照。〔 〕はそれで補った。
(3)【 】の部分は他文書の証人であろう。
嘉慶十三辰年接封一件
糸数兼治
一 蔡邦錦
蔡姓安次嶺家家譜(小宗、以下『蔡姓家譜』という)は十世応祥を系祖とするもので、応祥は蔡氏元祖崇(一世)の九世国器の第二子である。同族に蔡堅・蔡文溥・蔡鐸・蔡温等がいる。邦錦(字は日章、渡具知親雲上)は父佩蘭(十四世)の第一子で、祖父元鳳、曾祖父は績という人である。
邦錦は乾隆十五年(一七五〇)二月四日生、嘉慶十九年(一八一四)九月二十二日没している。享年六十五歳。
邦錦は嘉慶十二年(一八〇七)二月、尚灝王の冊封使(正使斉鯤・副使費錫章)迎接のため接封正議大夫(辰冠船御迎大夫)に任じられ、同九月二十三日接貢船に同乗して那覇港を出帆したが、十月二日海壇の観音澳囗に漂着、やむなく跟伴十二人とともに陸路より福州に向かった。福州琉球館到着は十月十五日である。しかるに接貢本船は十月二十五日夜、福州回航の途次、鐘門洋面において座礁、積載の銀両及び貨物をすべて沈失してしまった。死者六十四名(内、中国人舵工一名を含む)、生存者はわずかに三十名で、その福州到着は十一月十五日である。この日以前すでに邦錦は破船の報せを受け(破船を報じる上奏文は十一月十四日付けとなっている)、直ちに公銀の貸与願い〔史料一〕を提出したのではないかと思われる。それはともかく邦錦は不測の事態に直面し、種々苦労を重ねながら、ようやく冊封使迎接の準備を整え、翌嘉慶十三年(一八〇八)四月十二日には水口駅に冊封正副使を迎え、同五月二日離駅登舟、同五月十七日冊封使船とともに無事帰国している。この間の経緯については『蔡姓家譜』に次のような簡単な記事がある。
嘉慶十二年(一八〇七)丁卯二月朔日、恭しく王命を奉じて接封正議大夫と充為り、接貢船に駕して九月二十三日覇江開船、同日馬歯山に到りて風を候つ。二十五日順風有るを見て彼の所放洋、十月初二日海壇の観音澳口に漂到す。若し此の地に遅滞すれば、則ち欽差を迎接するの礼を欠悞するあるを恐れ、因りて地方官に早やかに陸より館に赴かんことを呈請したるに、随ちに恩准せらるるを蒙る。十月十一日跟伴十二人を率帯して上岸起程し、同十五日館駅に安頓す。何ぞ擬わんや、同二十五(日)夜、本船は鐘門洋面に在りて撃砕し、人口は淹斃し、貨物漂没せんとは。幸いに存する所の三十人名は十一月十五日館に到り安挿す。(翌嘉慶十三年)四月十一日に至り、布政司の牌令を叨奉し、同十二日水口に進到し、欽差両位大人を迎接し、五月初二日両位大人と随同に離駅登舟、同十一日五虎門に在りて一斉に開船、同十七日連䑸帰国す。
一般の家譜では福州における公務の内容については、いろいろ曲折はあったにしても、詳しい記録は見当らない。ところが『蔡姓家譜』は「此の時、閩に在りて行う所の公務左に記す」として二十三通の官府往復文書(稟・単等)を収める。本稿はこれらの文書を紹介し、あわせて若干の注記を加えることとする。
なお蔡邦錦には「辰冠船御迎大夫渡具(知)親(雲)上日記」があったらしく、楚南家文書『海路無恙』(法政大学沖縄文化研究所蔵)にはその一部の引用が見られる。これについて本稿ではその旨注記しておいた。この外接封に関する史料には豊見山和行氏が紹介した同治五年の「勅使御迎大夫真栄里親方(鄭秉衡)日記」(本誌3・4合併号)があって参考になる。
二 漂流・破船
ところで前記漂流・破船の模様については、閩浙総督阿林保・福建巡撫張師誠連名の上奏文に詳しい(1)。
奏す。閩浙総督臣阿林保・福建巡撫臣張師誠は跪して奏す。琉球国接貢船隻風に遭いて撃砕し、人口を淹斃す。赶緊に員を委わし、馳せ往きて撈救し、厚きに従い撫恤し、並びに接護遅延するの水師副将及び攔阻力めざるの署同知並びに代理遊撃を将て、旨を請い、分別に革職し、厳に議して以て儆戒を示さんが事の為なり。
案拠したるに、署平潭同知候補知府于天沢・代理海壇左営遊撃候補守備何文上の稟報には「琉球国通事蔡宬の報称する有り。『該国王世孫の差委を奉じたる正議大夫蔡邦錦は、官伴・水梢と同に共に一百零五員名、船隻に駕坐して閩に来たり、恭しく冊封の天使を迎え、及び進貢して国に回るの使臣を接えんとて、本年九月初十日に於て、琉球に在りて開船するも、洋に在りて風に遭い、篷を壊し、十月初三日海壇の観音澳口に漂至す等語』とあり。査するに、琉球の夷船は、向例、応に五虎門より入口して省に進むべし。該署同知等、随即に親ら該処に赴き、兵役を督同し、夷船を将て暫行く澳内に緯進し、代って船篷を修し、其の緊要の夷官蔡邦錦等を択び、跟伴を帯同すること一共十二人は、先に陸路より(福建)省に進み、其の余の通事・官伴・水梢人等は、仍お船内に在りて兵船を撥して前み往き、迎護して省に赴かんことを請う等の情」とあり。彼の時、臣阿林保は、尚お浙省に在りて洋匪を督緝す。臣張師誠は文報に接到するや、当ちに査するに、提督張見陞が一幇(一団)の兵船は、遠く興泉洋面に在りて盗匪を堵緝し、南澳鎮の王得禄が一幇の兵船は、彼の時、尚お未だ内渡せず。只だ閩安協の水師副将徐湧が兵船のみ有りて五虎門外洋面に在りて巡防す。観音澳を距つること遠からず。立即ちに五百里より該副将に飭委し、兵船を帯領して就近の海壇の観音澳に赶ぎ赴かしめ、該夷船を接護し、例に照らして五虎より省に進み、疎虞を致すこと毋からしめ、並びに該同知をして営員と会同して小心に防護せしめ、一面では沿途の営県に飛飭し、夷官等十二人を将て護送して省に到らしめ、並びに臣阿林保に咨会して一体に飭遵せしむること案に在り。嗣いで因るに、閩安協の副将徐湧は、十六日に於て臣張師誠の委箚に接到するも、仍お竿塘洋面に在りて遷延し、並えて師を率いて速往せず。又、経に屢次厳に催するも、該副将は二十四日に於て、復うるに「現帯の兵船僅かに七隻有り。稟請すらく、兵船を添派し、幇けて同に往きて夷船を護らん等の語」を以てす。臣等、査するに海壇の観音澳は五虎門を相い距つること水程遠からず。兵船、風に乗じて駕駛すれば、一、二日にして到るべし。其の時並しも別項の兵船の撥すべき無し。且つ夷船を接護するは、並えて盗を捕するの比すべきに非ず。兵船七隻を以て一夷船を護るに、何の敷らざること有らんや。顕らかに詞を飾りて推諉するに係る。復た経に厳に箚飭を行い、催して立刻に開船せしめんとするも、始め拠るに「該副将は、二十七日に於て竿塘より開駛して南下す」とあり。茲に署同知于天沢等の稟報を接りたるに「該夷船は迎護の兵船の赶到するを候たずして、十月十七日に於て開駕を行わんと欲す。該署同知于天沢は、随ちに伊の姪于克治・代理遊撃何文上を派し、面のあたり署守備
鄭海清に嘱し、転じて委わすの外、薜有声に委して前往阻止せしむるに、該夷船は、順風有るを見て肯えて聴従せず。竟に自ら澳囗を開出して放洋し、十九日洋に在りて風に遭い、立嶼外洋に寄泊するに、連日風雨交々作り、湧浪山の如く、小船にては往きて救う能わず。二十五日四更の時候に至り、鐘門洋面に漂至し、礁を撞きて撃砕す。撈救して生くるを得たる夷人は三十名、淹斃せるもの六十三名並び内地(中国)舵工一名なり。現に已に屍身三十七具を撈獲するも、其の余は漂没して蹤無し等情」とあり、前来す。候補道馮鞶に飛委して馳せ往かしめ。沿途の地方官に督飭して速やかに生くるを得たるの夷人を将て陸路より護送して省に来たらしめ、並びに飭して撈獲せる屍身を将て妥なく棺を備えて殮埋を為さしむるを除くの外、臣等、査するに、該夷船は兵船の赶到護送するを候たず、自行に開駕放洋し、以て遭風撃砕を致す。現に夷使蔡邦錦等の稟称に拠れば「実に風災は測られず、人力の施し難きものに係る」とあり。但だ副将徐湧は、箚委を接到するの後に於て、如し立即に前往せば、或いは時に乗じて救護すべし。乃ち経に臣張師誠が、節次厳に催して始めて開駕を行う。稟に拠れば「竿塘洋面に駛至したるに、忽ち東北風に転じ、湧浪猛烈、兵船も亦た損壊する有り」とあると雖も、但だ停泊すること十日、並しも法を設けて前進せず、以て救護及ぶ無きを致すは、実に遷延に属す。相い応に実に拠りて参奏し、旨を請い、閩安協副将徐湧を将て革職して以て儆戒を示すべし。署平潭同知候補知府于天沢・代理海壇左営遊撃候補守備何文上は、並しも親身から前往して力阻防護せず、夷船をして独自に開駕せしむるを致すは亦た玩忽に属す。応に旨を請い、于天沢・何文上を将て一併に部(刑部)に交し、厳に議処を加うべし。歴次夷船の失水するものに至りては、奏して聖恩もて銀一千両を賞給し、夷官、商船を雇覓して回国せしむるを蒙れり。又、査するに、嘉慶八年該国貢船風に遭い、撃砕して、貢物沈失せしとき、旨を奉じたるに、「常例に照らし、賞給を加倍せよ。嗣後、外番(琉球)の貢船漂没し、貢物を沈失するの事有るに遇えば、均しく此に著照して弁理せよ。此を欽め」とあり。欽遵すること案に在り。今、夷船撃砕し、貢物内に在ること無しと雖も、但だ淹斃せる人口は多名、殊に憫惻に堪えたり。所有の先行して陸路より来省し、及び撈救して生くるを得たるの官伴・水梢人等は、応に請う、前に奉じたる諭旨に遵照して口糧・棉布等の項を将て加倍に賞給し、并びに例に照らして銀一千両を給して以て船を雇うの資と作さしむべし。現在天気漸々冷く、臣等、又、棉衣等の項を捐給し、意を加えて撫恤し、館駅に安頓し、来年該国貢船返棹のときを俟ち、再び行遣回国せしめ、其の撈獲殮埋の各屍身は、已に飭して碑を立てて標記し、未だ獲ざるの各屍身は、仍お上緊に打撈して務めて一体を獲て妥なく弁理を為さしめん。臣等、謹んで詞を合せ、恭しく摺もて具奏す。伏して乞う、皇上睿鑑ありて訓示せられんことを。謹んで奏す。
嘉慶十二年十一月十四日
(硃批)「另に旨有り」
これによると破船の原因は、福州到着を急ぐ琉球船の「自行開駕」にあったとしながらも、あえて自らこれを阻正しなかった署平潭同知候補知府于天沢・代理海壇左営遊撃候補守備何文上を厳罰に処し、閩安協副将徐湧については接護遅延の廉で免職にするよう求めている。
三 史料
〔史料一〕
懇求借給公銀事
具稟琉球国接 封大夫蔡邦錦等為格外 天恩求救難夷性命事切錦等船隻遭風撃砕寸板無存一切倶無惨不可言王府銀子五千両南山北山銀子二万両土産鮑魚海参魚翅海菜等物可以売銀子六七万両通船共計銀子将近十万両倶已沈没禍此錦等銀子全無就是貧苦餓死而無怨而且国王銀子若無不能買国用一点緊要之物来年
欽差前去敝国
封典一点倶無所用矣敝国法度錦等四十二人性命断難再生淹死者上好活之者必至正法百計驚愁総無生路惟有冒死哀懇
大憲大人格外超生下念敝国遭難死至六十余人之惨恩賜例外賞恤例外借給或死者援照奉公淹斃之例格外賞恤或生者施賑災救命之仁借給銀両来年繳還不負欠其可以買得来年
冊封併国主要用一点物件回国錦等四十二人可以有一半不死矣哀々感激切稟
嘉慶十二年十一月 日具稟
公銀を借給するを懇求するの事
稟を具す。琉球国接封大夫蔡邦錦等は、格外の天恩もて難夷の性命を救いたまわんことを求めんが事の為なり。切に錦等の船隻風に遭い、撃砕して寸板も存する無し。一切は倶て無にして、惨として言うべからず。王府銀子五千両、南山北山銀子二万両、土産の鮑魚・海参・魚翅・海菜等の物は以て銀子六、七万両に売るべく、通船共計の銀子は将に十万両に近からんとす。倶て已に沈没す。此に禍されて、錦等、銀子全く無く、就是え貧苦餓死するとも怨む無きも、而且も国王の銀子は、若し無くんば、国用一点緊要の物を買う能わず。来年欽差敝国に前去するのとき、封典には一点すら倶て用うる所無し。敝国に法度あり。錦等四十二人の性命は断たれて再びは生きること難し。淹死する者も上好に活くるの者も必ず正法に至らん。百計驚愁するも総て生路無し。惟だ冒死して哀懇する有るのみ。大憲大人、格外の超生もて下は敝国難に遭いて死するもの六十人余に至るの惨を念い、例外の賞恤、例外の借給を恩賜せられ、或いは死者には公を奉して淹斃するの例に援照して格外に賞恤し、或いは生ける者には災いを賑い命を救うの仁を施したまわんことを。借給の銀両は来年繳還して負欠せず。其の以て来年の冊封併びに国主要用の一点の物件を買得して回国すべくんば、錦等四十二人は以て一半は死せざること有るべく、哀々に感激せん。切に稟す。
嘉慶十二年十一月 日 稟を具す
〔史料二〕
福州府分守南台海防庁張 単仰本役即着土通事鄭煌等刻即飛帯接 封大夫蔡邦錦接 貢使者毛維幹存留通事鄭克新各正身赴府立等諭話去後火速火速
嘉慶十二年十一月 日
福州府分守南台海防庁の張が単に「本役に仰じて、即ちに土通事鄭煌等をして刻即に接封大夫蔡邦錦・接貢使者毛維幹・存留通事鄭克新を飛帯し、各々正身に府に赴き、立てしめよ等、諭話せしめ去後れり。火速に、火速に」とあり。
嘉慶十二年十一月 日
〔史料三〕
此次遭風難夷淹斃六十余名情殊憫惻即現在獲生夷人銀物倶遭沈失亦属可矜其応作何従優賞恤及有無借給銀両之例案仰福防庁査案妥議詳奪
嘉慶十二年十一月十八日 此単自布政司給
此の次、遭風の難夷の淹斃せる六十余名は、情、殊に憫惻、即え、現に生を獲るに在るの夷人も、銀・物倶て沈失に遭う。亦た矜むべきに属す。其の応に何に従優く賞恤を作すべきや、及び銀両を借給するの例案有りや無しや、福防庁に仰じて案を査せしめ、妥議して詳奪せしむ。
嘉慶十二年十一月十八日 此の単は布政司より給せらる
〔史料四〕
海防庁面諭代為転求
〈督/撫〉藩憲可以借得王府銀子五千両買備薬材回国以済通国之用不可説及
欽差冊封要用之事即刻先做稟稿一張送来老爺看過
嘉慶十二年十一月十九日 此単自海防庁給
海防庁面諭す、「代わりに為に〈督/撫〉藩憲に転じて求め、王府銀子五千両を借得し、薬材を買備し、回国して以て通国の用に済つべし。欽差冊封要用の事に説き及ぶべからず。即刻に先ず稟稿一張を做り送り来たれ。老爺看過せん」と。
嘉慶十二年十一月十九日 此の単は海防庁より給せらる
〔史料五〕
拠稟南山北山帯銀二万両来閩買置貨物該南北両処所帯銀両是否官員所寄抑係夷民寄帯該国歴次進接
貢船到閩並無国王咨文無凭査考想係乗船隻赴閩私自寄帯即国王亦不知有此項所買何物今遭風沈没
天災所致人力難施各聴
天命
天朝不能代為料理爾大夫夷官等応暁諭各夷人不得混瀆訳取供詞送候察核
稟に拠れば「南山北山の帯銀二万両は、来閩して貨物を買置す」とあり。該南北両処帯ぶる所の銀両は、是れ官員の寄かる所なりや否や、抑も夷民の寄かり帯びるものに係るや、該国歴次の進・接貢船閩に到るに、並えて国王の咨文無く、査考に凭る無し。想うに船隻に乗りて閩に赴くとき、私自に寄帯せしものに係るならん。即ち国王も亦た此の項有りて買う所のものは何物なるやを知らず。今、風に遭いて沈没するは、天災の致す所にして人力施し難し。各々天命に聴せて、天朝は代わりて料理を為すこと能わざるなり。爾、大夫・夷官等、応に各夷人に暁諭し、混瀆するを得しめざるべし。供詞を訳取して送り、察核するを候て。
〔史料六〕
拠稟帯来土産海参海菜等物可以売銀六七万両等話此処爾官員夷人係接
冊封
天使来閩並非貿易且拠報貨物未経登岸即被風冲礁沈失亦無実数如何混開六七万両殊属捏飾況連次遭風難夷案内従来稟呈今忽開報
天朝於加意撫恤之外断不能為爾夷民籌及貿易預料遭風失事之計着訳諭夷民人等各聴
天命毋得多瀆取供送核
稟に拠れば「帯来せる土産の海参・海菜等の物は、以て銀六、七万両に売るべし等話」と。此の処は、爾、官員・夷人は冊封の天使を接せんとして来閩するに係る。並えて貿易するに非ず。且つ、報に拠れば「貨物は未だ登岸するを経ざるに、即ちに風を被り。礁に冲して沈失す」と。亦た実数無し。如何んぞ混開すること六、七万両なりと。殊に捏飾に属す。況んや連次風に遭うの難夷の案内には従来稟・呈あるをや。今、忽ちに開報す。天朝、意を加えて撫恤するの外に於て。断じて、爾、夷民の為に貿易に籌及し、預め遭風失事の計を料ること能わざるなり。着して夷民人等に訳諭し、各々天命に聴い、多瀆するを得しむる毋かれ。供を取りて送れ、核べみん。
〔史料七〕
拠稟国王帯銀五千両為来年
欽差前往
冊封備弁国用等話究竟備買何物逐一供明開単呈閲上届
嘉慶五年
冊封是否該国王帯銀来閩採買物件有無応賬開送察核如果該国必需之物訳供切寔以便拠情代為詳請転奏
大皇帝酌予借給以応国用
稟に拠れば「国王の帯銀五千両は、来年欽差前み往き、冊封するのとき、国用を備弁せんが為なり等話」と。究竟何物を備買するや、逐一供明せしめ、開単して呈閲せよ。上届嘉慶五年の冊封のとき、是れ該国王、銀を帯びて来閩し、物件を採買せしや否や、応に賬として開送すべきもの有りや無しや、察核して、如し果して該国必需の物にして訳供切寔ならば、以て情に拠り代わりて詳請を為し、転じて大皇帝に奏し、借給を酌予して以て国用に応ぜしむるに便ならしめん。
〔史料八〕
具稟伝訳琉球国引礼通事鄭煌馮邦麟為稟覆事遵奉
鈞諭備細訳諭夷官務将現在一切情形切実供覆茲拠該接
封正議大夫蔡邦錦等供称敝国僻処海隅毫無出産所有国用一切物件及薬材等項概係全頼
天朝蔭庇毎年准于進接 貢船随帯銀両土産来閩開館貿易兌換回国歴久遵行在案此番接
封接 貢来閩船隻遭風撃砕所有王府銀五千両並南山北山三十六島便帯銀二万両倶已沈没係属 天数錦等何敢怨尤但来年
冊封大典
大皇帝詔勅到国応備 龍旗 御扇各儀杖敬奉
天朝体制并一切地氈灯綵磁器盤碗仝国主王妃応着蟒錦各色紬緞必須内地買備敝国僻島無処購覓再小邦地暖人多疾病薬材万難少欠縁因窮国倚頼年々来閩兼之無力不能多買隔年之蓄如今年欠買則絶来年之用通国夷命所関錦等自思白手空回定遭国法是以哀懇
大憲超生非敢越例上瀆並無他人唆使泣叩
大老爺慈恩寛宥並懇詳請借給国主備弁物件銀五千両賜錦等樽節買備回国以資国用藉保蟻命至進
貢頭号船錦等業経吊回進館俟来春遣発内有応回存留通事一員王乗行跟伴五名改撥来年
冊封二号船内一仝遣回弁理一切事務合併稟明等供煌等合就拠供稟覆伏乞
大老爺察奪切稟
嘉慶十二年十一月 日 具稟伝訳琉球国引礼通事
稟を具す。伝訳琉球国引礼通事鄭煌・馮邦麟は稟覆の事の為なり。鈞諭を遵奉し、備細に夷官に訳諭し、務めて現在の一切の情形を将て切実に供覆す。茲に該接封正議大夫蔡邦錦等の供称に拠れば「敝国は海隅に僻処し、毫も出産無し。所有の国用一切の物件及び薬材等の項は概て全く天朝の蔭庇に頼りて、毎年進・接貢船、銀両・土産を随帯して来閩し、開館貿易兌換して回国するを准さるるに係る。歴久遵行すること案に在り。此の番、接封・接貢来閩の船隻、風に遭い、撃砕し、所有の王府銀五千両並びに南山・北山・三十六島便帯の銀二万両、倶に已に沈没するは、天数に属するに係る。錦等、何ぞ敢えて怨まんや。但だ来年冊封の大典あり。大皇帝の詔勅国に到るのときは、応に龍旗・御扇の各儀杖を備え、天朝の体制を敬奉すべし。並びに一切の地氈・灯綵・磁器・盤碗は国主・王妃の応に着すべき蟒錦・各色の紬緞と同に、必須ず内地(中国)より買備す。敝国は僻島なれば処として購覓する無し。再た小邦は地暖かにして、人、疾病多し。薬材は万にも少欠し難し。窮国たるに縁因り、倚頼して年々来閩す。之に兼ぬるに、無力にして多買する能わず。隔年の蓄えは、如し今年欠くれば、則ち来年の用を絶たん。通国の夷命に関わる所なれば。錦等、自ら思えらく、白手にて空しく回れば、定めて国法に遭んと。是の以に大憲の超生を哀懇し、敢えて例を越え上瀆するには非ず、並も他人の唆使する無し。泣いて叩う、大老爺、慈恩もて寛宥せられんことを。並びに懇くは、国主物件を備弁するの銀五千両を借給するを詳請し、錦等、樽節して買備回国し、以て国用に資し、藉りて蟻命を保するを賜わらんことを。進貢頭号船に至りては、錦等、業経に吊回して館に進めしめ、来春の遣発を俟つ。内に応に回すべき存留通事一員王秉行・跟伴五名有り。改めて来年の冊封二号船内に撥し、一同に遣回せしめ、一切の事務を弁理せしめん。合併に稟明す」等供す。煌等、合就に供に拠りて稟覆すべし。伏して乞う、大老爺、察奪せられんことを。切に稟す。
嘉慶十二年十一月 日 稟を具す。伝訳琉球国引礼通事
〔史料九〕
具稟琉球国接 封正議大夫蔡邦錦等為叩懇全恩詳請先借定織事切錦接
貢船隻来閩遭風漂収海壇錦因投逓接
封公文使者毛維幹因定織蟒錦誠恐遅延是以先行由陸来省詎船隻復又遭風撃砕一切銀両全無情急冒懇
天恩借給王府銀子五千両荷蒙
恩准転詳奉
〈撫/大〉憲題
奏在案錦等自応遵候給発縁閩省一切蟒錦長濶尺寸未合国主所用向係現銀雇人前往蘇州定織此時若再挨延計期必難織製不已哀懇
〈大老爺/大人〉恩全終始准賜詳請先行給発俾得赶緊往定以資国用感激無涯切稟
嘉慶十二年十二月 日 具稟琉球国接 封正議大夫蔡邦錦
稟を具す。琉球国接封正議大夫蔡邦錦等は、叩懇くは全恩もて詳請せられ、先借して定織せんが事の為なり。切に錦が接貢船隻、来閩のとき、風に遭い、海壇に漂収す。錦、因りて接封の公文を使者毛維幹に投逓し、蟒錦を定織するに誠に遅延するを恐るるに因り、是の以に先行して陸より省に来たるに、詎ぞおもわんや、船隻、復又た風に遭い、撃砕せんとは。一切の銀両は全く無し。情、急なれば、天恩もて王府銀子五千両を借給するを冒懇したるに、転詳するを恩准せらるるを荷蒙し、〈大/撫〉憲の題奏を奉ずること案に在り。錦等、自応に給発するを遵候すべきも、閩省一切の蟒錦は、長濶の尺寸未だ国主用うる所に合わず。向きには現銀もて人を雇い、蘇州に前み往きて定織せしむるに係る。此の時、若し再び挨延せば、期を計るに必ず織製し難し。已むをえず〈大老爺/大人〉に哀懇す。恩、終始を全うし、詳請して先行給発するを賜うを准し、赶緊に往定して以て国用に資するを得しむれば、感激、涯り無し。切に稟す。
嘉慶十二年十二月(十二)日 稟を具す。琉球国接封正議大夫
蔡邦錦
〔史料十〕
〔〈閩浙総督臣阿林保/福建巡撫臣張師誠〉跪(2)〕
奏為損賞琉球船隻遭風沈失該国王世孫銀両以広
皇仁仰祈
聖鑑事切照琉球国接
貢船隻在洋遭風漂至海壇之観音澳口不候兵船迎護〔旋即自〕行開駕在鐘門洋面撃砕淹斃人口経臣等派委大員馳往撈救従厚撫恤并将接護遅延及擱阻不力之地方文武拠寔参
奏在案嗣拠委員候補道馮鞶督同平潭庁営将撈獲箱匣五十九件并撈救得生之夷人三十名護送来省同先由観音澳携帯物件二十余抬赴岸到省之夷官等十二人一体安挿館駅宣布
皇恩賞給口粮衣履等項俾無失所茲拠夷官蔡邦錦等稟袮此次船隻遭風撃砕仰蒙憫念難夷厚加賞恤生死均感船内所載土産飽魚海参等物及南山北山各島附搭置買貨物銀二万両均已漂没無存惟内有本国王世孫発銀五千両置弁迎接
冊封天使備用各物今一併沈没不能買備回国恐有獲咎懇求酌量借給俾得買備物件等情臣等因備弁
冊封天使応用何物未拠明白声叙随飭藩司景敏督同海防同知張采五伝到該夷官当面訳訊拠供向来該国夷船来閩倶有随帯土産乗便貿易並南山北山各島附搭銀両買置貨物此次船内銀両漂没無存寔係夷人等貪趁一時順風率行開駕以致猝遇風災已蒙多方撈救并奏請
大皇帝厚賞囗粮等項又請
賞給雇船之資如体恤遠人無微不到皆
天朝格外恩施夷人等不勝感戴至本国王世孫発銀五千両係因
冊封天使到国応備
龍旗
御扇各儀仗敬奉
天朝又国主王妃跪迎
詔勅応製蟒錦綢緞各衣料及一切地氈灯綵磁器盤碗并預備薬材等物本国均無出産必須由内地購買今此項銀両沈失無従置弁恐致貽悞獲咎是以夷人等呈懇借給銀五千両以資購備回国俟下次進貢船隻来閩再請本国王措還並無別意只求転懇如数借給就沾恩了等語臣等査向来琉球夷船遭風漂没銀両除分別撫恤之外従無借給銀両之例嘉慶八年該国二号
貢船在台湾遭風漂失銀二万両十一年該国二号
貢船在澎湖冲礁沈失銀二万五千両均無賞借此次船隻撃砕該夷人附帯南北山銀両貨物沈失已照向例加倍撫恤毋庸另議外惟該国王世孫因来年有
冊封使臣到国発交銀五千両赴閩置弁物件自属寔情且有関敬奉
天朝儀注未便欠悞今銀両在洋沈失自当敬体
皇仁代籌接済臣等公同商酌擬将国王世孫所交銀五千両照数捐賞免其繳還俾該夷官等得以置備回国仍俟奉到
諭旨臣等照会該国王世孫遵照以仰副
聖主懐柔遠人有加無已之至意再査該国
貢使業已進京尚有同来之官伴人等仍用原船先行回国業経給咨登舟因風〓(日+卂)未順尚未放洋茲拠該夷官等稟請暫行調回来春再令開駕等情臣等査現値冬令風〓(日+卂)愆期難以駕駛出洋自応俯如所請准其船隻調回官伴貨物搬進館駅仍自回館之日起支給口粮塩菜俟来春風順或随接
封官伴一体附搭回国較為両便理合一併奏
聞所有臣等酌籌弁理各々縁由謹合詞恭摺具奏伏乞
皇上睿鑑訓示謹 奏
嘉慶十二年十二月朔日
〔嘉慶十二年十二月十九日奉硃批另有旨欽此〕
閩浙総督臣阿林保・福建巡撫臣張師誠は跪して奏す。琉球船隻風に遭い、沈失せる該国王世孫の銀両を損賞し、以て皇仁を広くし、仰いで聖鑑を祈めんが事の為なり。切に照らすに、琉球国接貢船隻、洋に在りて風に遭い、海壇の観音澳口に漂至す。兵船の迎護を候たず、旋即ちに自ら開駕を行い。鐘門洋面に在りて撃砕し、人口を淹斃す。経に、臣等、大員を派委し、馳せ往きて撈救し、従厚く撫恤し、并びに接護遅延し、及び攔阻力めざるの地方を将て、文武を、寔に拠りて参奏すること案に在り。嗣いで委員候補道馮鞶に拠れば、「平潭庁営を督同し、撈獲せる箱匣五十九件并びに撈救して生を得たるの夷人三十名を将て護送して省に来らしめ、先に観音澳より物件二十余抬を携帯して岸に赴き省に到るの夷官等十二人と同に一体に館駅に安挿し、皇恩を宣布し、口粮・衣履等の項を賞給して、所を失うこと無からしむ」とあり。茲に夷官蔡邦錦等の稟称に拠れば「此の次、船隻風に遭いて撃砕す。難夷を憫念せられ、厚く賞恤を加うるを仰蒙し、生けるものも死せるものも均しく感ず。船内載する所の土産の鮑魚・海参等の物及び南山・北山・各島の貨物を置買するの銀二万両を附搭するも、均しく已に漂没して存する無し。惟だ、内に本国王世孫の発りたる銀五千両有り。冊封の天使を迎接するのとき、用に備うる各物を置弁せんとす。今、一併に沈没して買備回国する能わず。恐らくは咎めを獲ること有らん。懇い求むらくは、借給するを酌量せられ、物件を買備するを得しめられんことを、等情」とあり。臣等、冊封天使の応に用うべき何物を備弁するや、未だ明白なる声叙に拠らざれば、随ちに藩司景敏に飭し、海防同知張采五を督同し、該夷官に伝到し当面に訳訊せしむ。供に拠れば「向来、該国夷船来閩のときは、倶て随帯の土産有り、便に乗じて貿易す。並びに南山・北山・各島、銀両を附搭し、貨物を買置す。此の次、船内の銀両、漂没して存する無し。寔に夷人等一時の順風に貪趁し、率いて開駕を行い、以て猝かに風災に遇うを致すに係る。已に多方撈救し、并びに大皇帝に奏請し、厚く囗粮等の項を賞せらるるを蒙る。又、船を雇うの資を賞給せらるるを請う。遠人を体恤するが如きは、微も到らざる無きなり。皆、天朝格外の恩施にして、夷人等感戴に勝えず。本国王世孫の発せる銀五千両に至りては、冊封の天使、国に到るに因り、応に龍旗・御扇の各儀杖を備え、天朝を敬奉すべく、又、国主・王妃、詔勅を跪迎するのときは、応に蟒錦・綢緞の各衣料及び一切の地氈・灯綵・磁器・盤碗を製し、并びに薬材等の物を預備すべきに係るも、本国は均しく出産無く、必須ず内地より購買す。今、此の項の銀両沈失し、置弁するに従無し。恐らくは貽悞を致し、咎めを獲ん。是の以に夷人等呈懇す、銀五千両を借給し、以て購備して回国するに資し、下次の進貢船隻の閩に来たるを俟ちて、再び本国王、措還するを請い、並えて別意無し。只だ求むらくは、転じて数の如く借給するを懇わば、就ち恩に沾い了らん等語」とあり。臣等、査するに、向来、琉球夷船風に遭い、銀両を漂没せしときは、分別に撫恤するを除くの外、従りて銀両を借給するの例無し。嘉慶八年(一八〇三)該国二号貢船、台湾に在りて風に遭い、銀二万両を漂失し、十一年(一八〇六)該国二号貢船、澎湖に在りて礁に冲し、銀二万五千両を沈失するも、均しく賞借する無し。此の次、船隻撃砕し、該夷人の附帯せる南・北山の銀両・貨物は沈失せり。已に向例に照らして撫恤を加倍したれば、別に議を庸うること毋きの外、惟だ該国王世孫は、来年冊封使臣の国に到ること有るに因り、銀五千両を発交し、閩に赴き物件を置弁せしむるは、自ら寔情に属す。且つ天朝を敬奉するに関る儀注は、未だ欠悞するに便ならざる有り。今、銀両は洋に在りて沈失す。自当に敬んで皇仁を体し、代りて接済するを籌るべし。臣等、公同に商酌し国王世孫交する所の銀五千両を将て数に照らして捐賞し、其の繳還を免かれしめ該夷官等をして以て置備回国せしめ、仍お諭旨を奉到するを俟ち、臣等、該国王世孫に照会して遵照せしめ、以て仰いで聖主の、遠人を懐柔するに加うる有りて已む無きの至意に副わんと擬す。再び査するに、該国貢使、業已に京に進むも、尚お同来の官伴人等、仍お原船を用て先行回国するもの有り。業経に咨を給して登舟せしむるも、風〓(日+卂)未だ順ならざるに因り、尚お未だ放洋せず。茲に該夷官等の稟請に拠れば「暫く調回を行い、来春再び開駕せしめられたし等情」とあり。臣等、査するに、現に冬令に値う。風〓(日+卂)期を愆れば、以て駕駛して出洋し難し。自応に俯して請う所の如く、其の船隻の調回するを准し、官伴・貨物は館駅に搬進し、仍お回館の日より起こして囗粮・塩菜を支給し、来春風順なるを俟ち、或るものは接封の官伴に随いて一体に附搭回国せしむれば、較だ両便と為す。理として合に一併に奏聞す。所有の臣等が酌籌弁理せる各々の縁由は謹んで合詞して恭しく摺もて具奏す。伏して乞う、皇上、睿鑑ありて訓示せられたし。謹んで奏す。
嘉慶十二年十二月朔日
〔嘉慶十二年十二月十九日 硃批を奉じたるに「另に旨有り。此を欽め」とあり〕
〔史料十一〕
具稟琉球国接 封正議大夫蔡邦錦為非蒙先借仍悞公差情急再懇乞賜 恩全事切錦等接
貢船隻遭風撃砕人口淹斃銀貨全無哀懇
天恩借給国主所発銀子五千両買備来年
封典必用物件敬奉
天朝体制荷蒙
恩准詳
題錦等感激再造銘心刻骨縁錦等所借之銀委因往蘇定織蟒錦確計往回并織製日子必須百有余天方能無悞是以於本月十二日以叩懇全恩等事冒請先行撥借未蒙
批示錦等昼夜難安誠恐遅延挨出年外則赶弁不及錦等仍難免悞公之咎矣情急催懇哀乞
大人俯察已蒙准借再賜先行給発全錦等不至仍悞公差感徳于生々世々矣切稟
嘉慶十二年十二月十七日
稟を具す。琉球国接封正議大夫蔡邦錦は、先借するを蒙るに非ざれば、仍お公差を悞らん。情、急なれば、再び恩全きを賜うを懇乞わんが事の為なり。切に錦等の接貢船隻、風に遭いて撃砕し、人口は淹斃し、銀・貨も全く無し。哀懇すらく、天恩もて国主発る所の銀子五千両を借給し、来年の封典に必用の物件を買備し、天朝の体制を敬奉せん。詳題を恩准せらるるを荷蒙し、錦等、再造に感激し、心に銘し、骨に刻めり。錦等借する所の銀は、委ねて蘇に往き蟒錦を定織せしむるに因り、確として往回并びに織製の日子を計るに、必須ず百有余天にして方めて能く悞り無きに縁り、是の以に本月十二日に於て「叩懇わくは恩を全うせられたし等の事」〔史料九〕を以て、先行して撥借するを冒請するも、未だ批示を蒙らず。錦等、昼夜安んじ難し。誠に恐る、遅延して年外に挨出せば則ち赶弁するも及ばざらんことを。錦等、仍お公を悞るの咎めを免かれ難し。情、急なれば、大人に催懇哀乞す、已に借するを准すを蒙りたるを俯察せられ、再び先行して給発すること全きを賜わらば、錦等、仍お公差を悞るに至らず、徳を生生世世に感ぜん。切に稟す。
嘉慶十二年十二月十七日
〔史料十二〕 〔史料九〕と重複
〔史料十三〕
福州府分守南台海防庁兼管水利関課張 為叩懇全恩等事拠琉球国接 封大夫蔡邦錦等具稟船隻遭風撃砕銀両全無借給王府銀子五千両蒙准詳題在案懇請先行給発俾得往蘇州定織蟒錦等情到府拠此査此次賞借銀両已蒙
〈督/撫〉憲具奏応供奉到
諭旨再行籌款給領此時末便転請此係歴来未有之曠典為此諭仰土通事即便明白訳諭衆夷官遵照毋違此諭
嘉慶十二年十二月十五日
福州府分守南台海防庁兼管水利関課張は、叩懇わくは、恩を全うせられん等の事の為なり。琉球国接封大夫蔡邦錦等の具稟するに拠れば「船隻風に遭いて撃砕し、銀両全く無し。王府銀子五千両を借給するにつき、詳題を准すを蒙ること案に在り。懇請らくは、先行して給発し、蘇州に往きて蟒錦を定織するを得しめられたし等情」とあり。府に到る。此を拠けたり。査するに、此の次、銀両を賞借するは、已に〈督/撫〉憲の具奏せらるるを蒙る。応に諭旨の奉到するを侯ち、再び籌款を行いて給領せしむべし。此の時は、未だ転請に便ならざるなり。此れ歴来未だ有らざるの曠典に係る。此が為に、諭もて土通事に仰じ、即便に明白に衆夷に訳諭せしむ。遵照して違うこと毋かれ。此に諭す。
嘉慶十二年十二月十五日
〔史料十四〕
嘉慶十三年正月初七日承准 廷寄十二月十九日内閣奉
上諭阿 奏請損賞琉球船隻遭風沈失該国王世孫銀両一摺該国王世孫因来年有 冊封使臣到国発交夷官銀五千両備弁迎接応用物件儀制攸関今因船隻在洋遭風此項銀両漂失該夷官等呈懇借給以資購弁自応加之体恤量予恩施所有該国沈失銀五千両無庸該督等全数捐賞着加恩賞給庫銀二千五百両其余銀二千五百両着該省督撫司道大員損資賞給均免其繳還用示懐柔至意余着照所請行該部知照欽此等因
嘉慶十三年正月初八日
嘉慶十三年正月初七日延寄を承准し、十二月十九日内閣より上諭を奉りたるに「阿が奏請したる『琉球船隻風に遭い、沈失せる該国王世孫の銀両を損賞す』の一摺は、該国王世孫、来年冊封の使臣国に到るに因り、夷官に銀五千両を発交し、迎接のとき応に用うべき物件を備弁せしめんとなり。儀制に関る攸なれども、今、船隻洋に在りて風に遭い、此の項の銀両漂失するに因り、該夷官等、呈懇すらく、借給して以て購弁に資せんと。自応に之に体恤を加え、恩施するを量予し、所有の該国の沈失銀五千両は、該督等、全数捐賞するを庸うる無く、着して恩を加え、庫銀二千五百両を賞給し、其の余の銀二千五百両は、該省の督・撫・司・道の大員をして資を損して賞給せしめ、均しく其の繳還を免かれしめ、用て懐柔の至意を示すべし。余は着して請う所に照らして該部に行し、知照せしめよ、此を欽め等因」とあり。
嘉慶十三年正月初八日
〔史料十五〕
具甘結琉球国接 封正議大夫蔡邦錦等今在
大人台下領得沈失銀両奉
旨恩賞銀二千五百両又各
憲捐賞銀二千五百両共成銀五千両領回置買物件眼仝弾兌面封看包封並無剋扣情事合具甘結是寔
嘉慶十三年正月二十四日具甘結琉球国接 封正議大夫蔡邦錦
甘結を具す。琉球国接封正議大夫蔡邦錦等は、今、大人台下に在りて、沈失せる銀両を領得せり。奉旨の恩賞銀二千五百両と、又、各憲の捐賞銀二千五百両と、共に成銀五千両は、領回して物件を置買す。眼同に弾兌し、面封す。包封を看るに、並も剋扣するの情事無し。合に甘結を具す。是れ寔なり。
嘉慶十三年正月二十四日甘結を具す。琉球国接封正議大夫蔡邦錦
〔史料十六〕
福州府分守南台海防庁兼管水利関課張 為欽奉
上諭事嘉慶十三年正月二十七日蒙
布政使司景 憲札嘉慶十三年正月初七日奉
巡撫部院張 憲案嘉慶十三年正月初七日承准
廷寄嘉慶十二年十二月十九日内閣奉
上諭阿 等奏請損賞琉球船隻遭風沈失該国王世孫銀両一摺該国王世孫因来年有 冊封使臣到国発交夷官銀五千両備弁迎接応用物件儀制攸関今因船隻在洋遭風此項銀両漂失該夷官等呈懇借給以資購弁自応加之体恤量予施恩所有該国沈失銀五千両毋庸該督等全数捐賞着加恩賞給庫項銀二千五百両其余銀二千五百両着該省督撫司道大員損資賞給均免其繳還用示懐柔至意余着照所請
行該部知道欽此等因到本部院承准此合就行知備案行司立即欽遵転行査照弁理毋違等因奉此又為前事本年正月二十一日奉
巡撫部院 批本司詳覆査向来琉球国遭風難番所需賞項均動司(支脱カ)庫存公項下支銷今奉
旨賞給琉球国沈失銀二千五百両応請体照歴弁例案在於嘉慶十二年存公款内動支給領其余銀二千五百両
両院両司六道匀作十股平捐毎股捐銀二百五十両先於
司庫不報
部留支文職各衙門未支各年俸工款内暫行照数借支同
恩賞銀両一併給発夷官承領一面移咨司道即日照数觧司帰補清款等由奉批本部院応捐銀二百五十両即於正月分養廉銀内照数扣収給領至省城司道亦可於養廉内即扣台湾道已拠該司詳扣均可毋庸借款其余各道応捐銀両如詳暫行借款給領仍催各道等限於本月内即行解司帰款具報仍候
督部堂批示繳又奉
総督部堂阿 批如詳借支給領仰即分移司道即日照数捐解帰補清款仍候
撫部院批示繳奉此除分別支給外合就飭知為此仰庁官吏即便補具印領送司備案毋違等因蒙此合就飭行為此諭仰夷官蔡邦錦等速即補具領状呈繳赴府以凭転送勿得延悞速速此諭
嘉慶十三年二月初三日
計開
閩浙総督部堂 阿林保 寧福道 張志緒
福建巡撫部院 張師誠 塩法道 陳観
布政使司 景敏 延建邵道 李華崶
按察使司 慶保 汀漳龍道 海福
興泉永道 王紹蘭
台湾道 清華
福州府分守南台海防庁兼管水利関課張は、上諭を欽奉するの事の為なり。嘉慶十三年正月二十七日布政使司景敏の憲札を蒙け、嘉慶十三年正月初七日巡撫部院張の憲案を奉け、嘉慶十三年正月初七日延寄を承准し、嘉慶十二年十二月十九日内閣より上諭を奉けたるに「阿等、琉球船隻風に遭い、沈失せる該国王世孫の銀両を損賞せんことを奏請すの一摺〔史料十〕は、該国王世孫、来年冊封の使臣、国に到るに因り、夷官に銀五千両を発交し、迎接のとき応に用うべき物件を備弁せしむ。儀制に関る攸なれども、今、船隻洋に在りて風に遭い、此の項の銀両漂失するに因り、該夷官等呈懇すらく、借給して以て購弁に資せんと。自応に之に体恤を加え、施恩するを量予し、所有の該国沈失の銀五千両は、該督等、全数捐賞するを庸うる無く、着して恩を加え、庫項銀二千五百両を賞給し、其の余の銀二千五百両は、該省の督・撫・司・道の大員をして資を損して賞給せしめ、均しく其の繳還を免じ、用て懐柔の至急を示すべし。余は着して請う所に照らして該部(礼部)に行し、知道せしめよ。此を欽め等因」〔史料十四〕とあり。本部院に到る。此を承准けたれば、合に就ちに行知すべし。案を備え、司に行す。「立即に欽遵して転行し、査照弁理して違うこと毋かれ等因」と。此を奉けたり。又、前の事の為なり。本年正月二十一日巡撫部院の批を奉けたるに。「本司詳覆す、『査するに、向来、琉球国遭風難番、需むる所の賞項は、均しく司庫(布政司の倉庫・地方費)の存公項(積み立て金)の下より動支して支銷す。今。旨を奉じて賞給する琉球国沈失銀二千五百両は、応に請うらくは、歴弁の例案に体照して、嘉慶十二年の存公款(積み立て金)の内より動支給領せしむべし。其の余の銀二千五百両は、両院・両司・六道匀しく十股平捐と作し、毎股捐銀二百五十両とし、先に、司庫、部(戸部)に報ぜず、留めて文職各衙門に支せんとして未だ支せざる各年俸工款(給料)の内より、暫らく数に照らして借支を行い、恩賞銀両と同に一併に夷官に給発承領せしめ、一面には司・道に移咨し、即日に数に照らして司に解り、補して清款(精算額)を帰さしめん等由』と。批を奉けたるに、本部院の応に捐すべき銀二百五十両は、即ちに正月分の養廉銀(勤務地手当)の内より数に照らして扣収(差引収納)給領せしめ、省城の司・道に至りても亦た養廉内より即ちに扣(差引)し、台湾道は已に該司の詳に拠れば『扣して均しく借款を庸うること毋かるべし』とあり。其の余の各道の応に捐すべき銀両は、詳の如く暫らく借款を行いて給領(給発承領)せしめ、仍お各道等に催し、本月内を限って即行に司に解り帰款(償還)具報せしめよ。仍お督部堂の批示するを候て。繳せ」とあり。又、総督部堂阿の批を奉けたるに、「詳の如く借支し給領せしめ、仰じて即ちに司・道に分移し、即日、数に照らして捐解し、補して清款を帰さしめよ。仍お撫部院の批示するを侯て。繳せ」とあり。此を奉けたれば、分別に支給するを除くの外、合に就ちに飭知すべし。此が為に庁の官吏に仰ず、「即便に印領を補具し、司に送り、案を備え、違うこと毋からしめよ等因」と。此を蒙けたれば、合に就ちに飭行すべし。此が為に夷官蔡邦錦等に諭もて仰ず、「速即に領状を補具して呈もて繳め、府に赴き、以て転送に凭らしめよ。延悞するを得ること勿かれ。速速」と。此に諭す。
嘉慶十三年二月初三日
計開
(両院) (六道)
閩浙総督部堂 阿林保 寧福道 張志緒
福建巡撫部院 張師誠 塩法道 陳観
(両司) 延建郡道 李華崶
布政使司 景敏 汀漳龍道 海福
按察使司 慶保 興泉永道 王紹蘭
台湾道 清華
〔史料十七〕
懇求預選寛大新船事
具稟琉球国接封大夫蔡邦錦等為照例預選寛大新船稟請親臨帯仝勘定以便該船艌補堅固聴候
天使乗汛開洋事切錦等奉 王世孫命接
封来閩荷蒙
皇恩憲徳格外施仁損賞銀両錦等拝領之下銘感不勝但本国恭迎
天使到国 封襲例由閩省選択呈請封定寛大海船二隻倶係夷梢引導駕駛歴届遵行在案縁査乾隆二十一年間 冊封選定船隻之後伝令夷梢前赴看験奈有一船久懶臨□(期カ)莫能稟換至該船往返受険多次敝国主惶恐莫安此番錦等奉命接
封帯仝熟諳海道夷梢来閩在国屢承 王世孫再三嘱諭到閩先期帯仝舵梢前往各船上細加験看選択新造寛大船身堅固堪以衝風敵浪方可稟請封定等因此番錦等到閩遵即帯仝熟諳夷梢赴各船上遍行屢加験看惟有金森美薜長発両船合式船身新造堅固寛大堪以駕駛重洋其余陳茂春等各船倶不合式或歴年已久不堪遠渉波涛或船身短促毎船不能装運二百余人且製造異式夷梢不穏駕駛随将預選両船名字稟叩 福防庁在案前因来蒙票(稟カ)伝随験誠恐臨期周章情急上稟
藩憲大人荷蒙親臨河千(下カ)帯仝錦等随験感激無地本当静候詳請
大憲大人親臨覆験縁封舟開駕必須夏汛瞬届将臨且選定封舟之船必須船上添補器具以及艌修堅固尚需時日錦等不揣冒眛瀝情稟叩
大憲大人仰体 封襲大典俯察遠渉重洋 恩准迅賜親臨勘定以便該船艌補堅固乗汛得穏開洋遠人戴徳靡涯切稟
右菓上
海防 福州府 閩県 布政司 撫院
預め寛大なる新船を選ぶを懇求する事
稟を具す。琉球国接封大夫蔡邦錦等は、例に照らして預め寛大なる新船を選び、稟もて親臨して帯同に勘定するを請い、以て該船艌補堅固ならしめ、天使、汛に乗じて開洋するを聴候つに便ならしめんが事の為なり。
切に錦等、王世孫の命を奉け、封を接せんとして閩に来たるに、皇恩・憲徳を荷蒙し、格外に仁を施され、銀両を損賞せらる。錦等、拝領の下、銘感に勝えず。但だ本国恭しく天使を迎えて国に到り、封襲するのときは、例として閩省より選択し。呈請して寛大なる海船二隻を封定す。倶に夷梢引導して駕駛するに係る。歴届遵行すること案に在り。査に縁れば、乾隆二十一年間の冊封のときは、船隻を選定するの後、令を夷梢に伝え、前み赴きて看験したり。奈んせん一船久しく懶ること有らば、期に臨んで能く稟もて換うること莫し。該船に至りては、往返険を受くること多次、敝国主惶恐として安んずる莫し。此の番、錦等、命を奉じて封を接せんとし、海道に熟諳せる夷梢を帯同して来閩するのとき、国に在りて屢々王世孫の再三の嘱諭を承くるに「閩に到らば期に先んじて舵梢を帯同し、各船上に前み往き、細さに験看を加え、新造寛大、船身堅固にして以て風を衝き浪に敵するに堪うるものを選択して方めて稟もて封定を請うべし等因」とあり。此の番、錦等、閩に到り、遵即に熟諳の夷梢を帯同し、各船上に赴き、遍行く屢々験看を加うるに、惟だ金森美・薜長発の両船のみ式に合し、船身も新造・堅固・寛大にして以て重洋を駕駛するに堪う。其の余の陳茂春等の各船は、倶に式に合せず、或いは歴年已に久しくして遠く波涛を渉るに堪えず、或いは船身短促にして毎船二百余人を装運すること能わず。且つ製造も異式なれば、夷梢、駕駛するに穏からず。随って預め選びたる両船の名字を将て、稟もて福防庁に叩うこと案に在り。前の因は、未だ稟もて伝うるも随ちに験するを蒙らざれば、誠に恐る、期に臨んで周章せんことを。情、急なれば稟を上るに、藩憲大人の河下に親臨し、錦等を帯同して随ちに験するを荷蒙せり。感激、地無し。本より当に詳請して大憲大人の親臨して覆験するを静かに候つべきも、封舟開駕するときは、必須ず夏汛瞬届に将に臨らんとし、且つ封舟に選定せし船は、必須ず船上に器具を添補し、以及び艌修堅固ならしむるに縁り、尚お時日を需す。錦等、冒眛を揣らず、情を瀝べ、稟もて叩う、大憲大人、仰いでは封襲の大典を体し、俯しては遠く重洋を渉るを察し、迅やかに親臨して勘定するを賜わり、以て該船艌補堅固ならしめ、汛に乗じて穏やかに開洋するを得るに便ならしむるを恩准せば、遠人、徳を戴くこと涯り靡し。切に稟す。
右の稟は海防・福州府・閩県・布政司・撫院に上る
〔史料十八〕
具稟琉球国接封大夫蔡邦錦等為懇 恩迅賜詳請勘定預選封舟以便該船艌補堅固聴候
天使乗汛開洋事本年正月二十八日蒙
大人車駕親臨各船験看錦等感激無地但封舟大典例応詳明
撫憲大人勘定之後該船必須添補器具艌修堅固尚需時日現今
天使将次来閩転盻風汛届期即可開駕是以錦等先期帯仝熟諳夷梢前赴各船上遍行屢加験看惟金森美薜長発両船合式船身新造寛大堅固堪以駕駛重洋難逃洞鑑之中其余陳茂春等各船或歴年已久不堪衝風敵浪或船身短小毎船難以載運二百余人且製造異式夷梢不穏駕駛錦等罪責攸関不已声明再懇
大人台下仰体 封襲大典俯察遠渉重洋乞准選定金森美薜長発両船詳請
撫憲大人親臨覆験俾得該船艌補堅固乗汛得穏開洋遠人頂祝不朽切稟
再稟
布政司
稟を具す。琉球国接封大夫蔡邦錦等は、懇わくは恩もて迅やかに詳請を賜い、勘定して預め封舟を選び、以て該船艌補堅固ならしめ、天使、汛に乗じて開洋するを聴候つに便ならしめんが事の為なり。
本年正月二十八日、大人、車に駕り、親から各船に臨み、験看するを蒙る。錦等、感激、地無し。但だ、封舟の大典は、例として応に詳明し、撫憲大人勘定の後、該船は必須ず器具を添補し、艌修堅固ならしむべきも、尚お時日を需す。現今、天使、将次に閩に来たらんとするに、転た風汛の期届るを盻る。即ちに開駕すべし。是の以に、錦等、期に先んじて熟諳の夷梢を帯同し、各船上に前み赴き、遍行く屢々験看を加うるに、惟だ金森美・薜長発の両船のみ式に合し、船身も新造・寛大・堅固にして以て重洋を駕馳するに堪え、洞鑑の中より逃れ難し。其の余の陳茂春等の各船は、或いは歴年已に久しく、風を衝き浪に敵するに堪えず、或いは船身短小にして毎船以て二百余人を載運し難し。且つ製造も異式なれば、夷梢、駕駭するに穏からず。錦等の罪責の関る攸なれば、已むをえず声明す、再び懇わくは、大人台下、仰いでは封襲の大典なるを体し、俯しては遠く重洋を渉るを察し、乞う、金森美・薜長発の両船を選定するを准し、撫憲大人に親臨して覆験せんことを詳請したまい、該船をして艌補堅固ならしめ、汛に乗じて穏やかに開洋するを得しむれば、遠人、頂祝すること不朽ならん。切に禀す。
再び布政司に稟す
〔史料十九〕
具甘結琉球国接封正議大夫蔡邦錦今在
大人台下結得南台河下有金森美薜長発両号船隻倶無龍骨係是平底船身寛大堅固堪以選為
冊封
欽差坐駕之用倘或臨期不堪以及在洋駕駛疎虞錦願甘坐罪合具甘結是寔
甘結を具す。琉球国接封正議大夫蔡邦錦は、今、大人台下に在いて結び得たり。南台河下に金森美・薜長発両号の船隻有り。倶に龍骨無し。是れ平底に係る。船身寛大堅固にして以て選びて冊封欽差坐駕の用と為すに堪えたり。倘し或いは期に臨んで堪えず、以及び洋に在りて駕駛疎虞すれば、錦、願わくは、甘んじて罪に坐せん。合に甘結を具す。是れ寔なり。
〔史料二十〕
諭夷官蔡邦錦
署福州府閩県正堂言 為遵札詳覆事嘉慶十三年二月十九日蒙前海防分府張 憲札嘉慶十三年二月十九日蒙
布政使司景 批本府会同該県詳覆琉球国接封大夫蔡邦錦具呈南台河下停泊有金森美薜長発二船新造寛大堅固堪為
冊封
欽差坐駕呈請選封備用等情会同査明堪以穏渉等縁由奉批如詳准将金森美薜長発両船選封備用仰即飭着該船戸詳慎修理取具興工日期具報仍候転報 両院憲査考繳等因蒙此除差着金森備薜長発両船赶緊慎修取具興工日期具報并将前選茂春等四船折封外合就行知為此行県官吏即便遵照毋違等因蒙此合行飭知為此諭仰該夷官蔡邦錦即便知照毋違特諭
嘉慶十三年二月二十五日諭
夷官蔡邦鏥に諭す。
署福州府閩県正堂言は、札に遵い詳覆せんが事の為なり。嘉慶十三年二月十九日前海防分府張が憲札を蒙け、嘉慶十三年二月十九日布政使司景の批を蒙けたるに、「本府は該県と会同に詳覆す『琉球国接封大夫蔡邦錦、呈を具すに〔南台河下に停泊せる金森美・薜長発の二船有り。新造寛大にして堅固なれば、冊封欽差の坐駕と為すに堪えたり。選封して用に備うるを呈請されたし等情〕とあり。会同に査明するに、以て穏渉に堪う等の縁由』と。批を奉けたるに『詳の如く、金森美・薜長発の両船を将て選封して用に備うるを准す。仰いで即ちに飭し、該船戸をして詳慎に修理せしめ、工を興すの日期を取具して具報せよ。仍お両院憲に転報して査考するを候て。繳せ等因』」とあり。此を蒙けたれば、金森美・薜長発の両船に差着して赶緊に慎修せしめ、工を興すの日期を取具して具報し、并びに前に選びたる陳茂春等の四船を将て折封するを除くの外、合に就ちに行知すべし。此が為に県の官吏に行す、「即便に遵照して違うこと毋からしめよ等因」と。此を蒙けたれば、合に飭知を行うべし。此が為に諭もて該夷官蔡邦錦に仰ず、「即便に知照して違うこと毋かれ」と。特に諭す。
嘉慶十三年二月二十五日諭す
〔史料二十一〕
懇求出示以減貨物事
具案琉球国接 封正議大夫蔡邦錦為稟明実情懇 恩出示諭知減貨物以恤貧窮事切敝国蕞爾陬土遠居海隅夙蒙
天朝一視同仁之徳進貢弗懈世世襲爵謹守藩職此誠天高地厚之洪恩也這番錦臨行之時奉本国法司官諭令奈因国運衰微貢船数遭漂没且柔遠駅被火焚焼所失公項甚属過多今僅蓄得三万両銀内一万両以為頭号船評価銀又一万両以為二号船評価銀仍照前例加二息銀共計二万四千両其余六千両以為備弁
封典応用物件此次接貢船隻到閩応即稟叩
上憲請示約束等由奉此錦窃想敝国土瘠産乏貨若浮多銀則於少莫何拮据無処措挪臨時誠恐随封人等籍此滋事反累
欽差大人錦故以先行案明免得臨時周章但乾隆二十一年
冊封随封人等在国勒買不遂騒動不法及至帰省
天朝厳行大法護封武員以及兵役数名被罪原為貨物以起禍端乃因敝国貧窮竟累
天朝員名国主聞知深痛寝食不安又査康煕五十八年
冊封所帯貨物亦属甚多因而稟明実力不能承買奈堅執不容実不得已勉力強収臣民男女金銀銅簪及銅錫器皿等物算成銀両方能買得四分之一其四分之三依旧帯回伏乞大人仰体
皇上柔遠至意俯察敝国瘠乏苦情迅賜先発告示厳行約束所有封船二隻圧載貨物毎船限以一万両之額俾得安頓兵役粛静地方則挙国臣民感激即国主亦感佩鴻慈於無既矣切稟
嘉慶十三年五月 日具稟琉球国接 封正議大夫蔡邦錦
右稟上
海防 布政司 撫院 欽差両位
出示して以て貨物を減ずるを懇求する事。
稟を具す。琉球国接封正議大夫蔡邦錦は、実情を稟明し、懇わくは恩もて諭知を出示し、貨物を減じて以て貧窮を恤いたまわんが事の為なり。切に敝国は蕞爾たる陬土にして遠く海隅に居る。夙に天朝一視同仁の徳を蒙り、進貢懈らず、世々爵を襲ぎ、勤んで藩職を守る。此れ誠に天のごとく高く、地のごとく厚き洪恩なり。這の番、錦、行に臨むの時、本国法司官の諭令を奉けたるに、「奈んせん、国運衰微し、貢船は数々漂没に遭い、且つ柔遠駅は火を被りて焚焼するに因り、失う所の公項は、甚だ過多に属す。今、僅かに三万両の銀を蓄え得たるも、内一万両は以て頭号船の評価銀と為し、又、一万両は以て二号船の評価銀と為す。仍お前例に照らして二息の銀を加え、共計二万四千両なり。其の余の六千両は以て封典のとき応に用うべき物件を備弁するを為す。此の次、接貢船隻閩に到らば、応に即ちに稟もて上憲に約束(制限)を請示するを叩うべし等由」と。此を奉けたれば、錦、窃かに想えらく、敝国は土瘠せ、産乏し。貨、若し浮多にして、銀、則ち少くるに於ては、何ぞ拮据すること莫からんや。処として措挪する無しと。時に臨んで誠に恐る、随封人等、此に籍りて事を滋くし、反って欽差大人に累あらんことを。錦、故を以て先行して稟明し、時に臨んで周章するを免かれ得しめん。但だ乾隆二十一年冊封のとき、随封人等、国に在りて勒いて買らんとして遂げず、騒動不法なり。省に至り帰るに及び、天朝厳に大法を行い、護封の武員以及び兵役数名は罪せらる。原より貨物以て起禍の端と為る。乃ち敝国貧窮なるに因り、竟に天朝の員名に累あるなり。国主、聞知し深く痛み、寝食安んぜず。又、査するに康煕五十八年冊封のとき、帯ぶる所の貨物も亦た甚だ多きに属す。因りて稟明す、実力に承買する能わずと。奈んせん、堅く執りて容れず。実に已むを得ず勉力して強いて臣民の男女の金銀銅の簪及び銅錫の器皿等の物を収め、銀両を算成して、方めて能く四分の一を買得し、其の四分の三は旧に依りて帯び回らしむ。伏して乞うらくは、大人、仰いでは皇上柔遠の至意を体し、俯しては敝国瘠乏の苦情を察せられ、迅やかに先きに告示を発するを賜いて厳に約束(制限)を行い、所有の封船二隻の圧載の貨物は毎船限るに一万両の額を以てし、兵役を安頓し、地方を粛静ならしむるを得れば、則ち挙国臣民感激し、即ち国主も亦た鴻慈を無既に感佩せん。切に稟す。
嘉慶十三年五月 日稟を具す。琉球国接封正議大夫蔡邦錦
右の稟は、海防、布政司、撫院、欽差両位に上る
〔史料二十二〕
懇求酌減夫役事
具案琉球国接 封正議大夫蔡邦錦為乞怜小国苦情
恩准酌減夫役以恤窮邦以粛安静事切本国僻処弾丸出産無幾凡有
冊封大典必須蓄積数年賦税方敢前来請
封歴届遵行在案縁自 尚温王嗣位未及七載即薨世子尚成五齢幼主嗣位三年又逝兼以嘉慶七年進 貢両船倶失頭号全船覆没二号漂失台湾寸板無存至嘉慶九年柔遠駅被火焚焼貨物尽失似此歴歳迍遭難免倉庫窮乏奚敢遽行請
封但因国運衰新主必須請
封得叨
天朝洪福気運更新所以挙国臣民尽行勉力急公於嘉慶十一年特遣正議大夫梁邦弼請
封前来不料是冬二号船又漂失彭湖地方寸板無存至十二年特遣錦前来接
封船隻又漂至海壇地方失破船貨倶没官伴水梢淹斃六十三人幸蒙
皇恩憲徳捐賞銀両感激不勝但査乾隆二十一年間
冊封所有随封員弁兵役併匠作船梢共計四百五十七員名至
嘉慶五年
冊封所有随封人数算至四百九十九員名之多但例撥随封人数何敢辞供給之繁奈敝国主請
封在前不意遇災両次在後誠恐臨時拮据力不従心難免失礼之愆錦思天使随封員伴例有定数不敢請減而船上応用舵梢亦不可欠惟有夫役之中似可邀減不揣冒昧瀝情稟叩
大人台下仰体柔遠至意俯察窮国迍遭 恩准体照前例酌減随封夫役俾小邦得以安静挙国臣民啣恩不朽切稟
嘉慶十三年五月 日具梁琉球国接 封正議大夫蔡邦錦
右稟上
海防 布政司 撫院 欽差両位
夫役を酌減するを懇求するの事
稟を具す。琉球国接封正議大夫蔡邦錦は、小国の苦情を怜み、夫役を酌減するを恩准せられ、以て窮邦を恤み、以て安静を粛うるを乞わんが事の為なり。
切に本国は弾丸に僻処し、出産幾ばくも無し。凡そ冊封の大典有るときは、必須ず数年の賦税を蓄積して方めて敢えて前来して封を請う。歴届遵行すること案に在り。尚温王、位を嗣いでより未だ七載に及ばざるに、即ち薨じ、世子尚成は五齢の幼主にして位を嗣ぐも、三年にして又逝き、兼ねて以て嘉慶七年の進貢両船は倶に失し、頭号は全船覆没し、二号は台湾に漂失して寸板も存するもの無し。嘉慶九年に至りては、柔遠駅火を被りて焚焼し、貨物尽く失う。此の似く歴歳迍遭免かれ難く、倉庫窮乏するに縁り、奚ぞ敢えて遽かに請封を行わんや。但だ国運衰えるときは、新主は必須ず封を請い、天朝の洪福を叨うするを得て、気運更新し、所以に挙国臣民尽行く急公に勉力するに因り、嘉慶十一年特に正議大夫梁邦弼を遣わし、請封前来せしむるに、料らずも是の冬二号船は又澎湖地方に漂失し、寸板も存する無し。十二年に至り、特に錦を遣わし、前来して封を接せしむるに、船隻、又海壇地方に漂至し、失破して船貨倶に没し、官伴・水梢の淹斃するもの六十三人なり。幸いに皇恩憲徳を蒙り、銀両を捐賞せられ、感激勝之ず。但だ査するに、乾隆二十一年間、冊封のとき。所有の随封の員弁・兵役併びに匠作・船梢は共計四百五十七員名なり。嘉慶五年の冊封に至りては、所有の随封人の数は、算するに四百九十九員名の多きに至る。但だ例として撥する随封人の数なれば、何ぞ敢えて供給の繁きを辞せんや。奈んせん、敝国主、封を請うに、前に在りては不意に災に遇うこと両次、後に在りては誠に恐る、時に臨んで拮据し、力、心に従わず、礼を失するの愆を免かれ難からんことを。錦、思うに天使随封の員伴は、例として定数有り。敢えて減ずるを請わず、而して船上応に用うべき舵梢も亦た欠くべからず。惟だ夫役の中には邀減すべきが似きもの有らん。冒眛を揣らず、情を瀝べ、稟もて叨うらくは、大人台下、仰いでは柔遠の至意を体し、俯しては窮国の迍遭を察し、前例に体照して随封の夫役を酌減し、小邦をして以て安静を得るを恩准せば、挙国臣民、恩を啣すること不朽なり。切に稟す。
嘉慶十三年五月 日稟を具す。琉球国接封正議大夫蔡邦錦
右の稟は、海防、布政司、撫院、欽差両位に上る
〔史料二十三〕
懇求飭水口撥給人夫船隻糧食事
琉球国接 封正議大夫蔡邦錦為乞恤外夷人地生疎恩准飭馹撥給人夫船隻糧食以便遵令往接 天使事切錦
奉王世孫命来閩恭接
冊封天使例応遵候
〈大人/仁憲〉給批前往前途迎接但敝国自納款
天朝以来皆係由海而至従無旱路到閩是以歴次進 貢往京併各省逓送漂風難夷到閩向蒙飭県備弁人夫船隻口粮等項此番錦船隻遭風漂収海壇地方先行由旱進館亦蒙照例弁応此皆深沐
皇恩憲徳下恤外夷之至意也錦此番恭接
天使前往水口将次起行不已瀝情叩懇
〈大人/大老爺〉恩准迅賜飭行前途馹跕僱備船隻人夫粮食併賜発護昭俾外夷得以穏往感激無涯切稟
右稟上
海防 布政司
水口駅に飭して人夫・船隻・糧食を撥給するを懇求する事
琉球国接封正議大夫蔡邦錦は、外夷は人も地も生疎なるを恤み、馹に飭して人夫・船隻・糧食を撥給するを恩准せられ、以て令に遵い、往きて天使を接するに便ならしめんことを乞わんが事の為なり。
切に錦は、王世孫の命を奉けて来閩し、恭しく冊封の天使を接す。例として応に〈大人/仁憲〉の給せられたる批に遵候し、前み往きて前途に迎接すべし。但だ敝国は款を天朝に納れてより以来、皆、海よりして至るに係る。従りて旱路より閩に到ること無し。是の以に歴次貢を進めて京に往き併びに各省漂風の難夷を逓送して閩に到るときは、向には県に飭して人夫・船隻・口粮等の項を備弁せしむるを蒙る。此の番、錦が船隻風に遭い、海壇地方に漂収し、先行して旱より館に進むときも亦た例に照らして弁応せしむるを蒙る。此れ、皆、深く皇恩・憲徳に沐するは、下は外夷を恤むの至意なり。錦、此の番、恭しく天使を接せんとして水口に前み往く。将次に行を起さんとす。已むをえず情を瀝べ、叩懇すらく、〈大人/大老爺〉、迅やかに前途の馹跕に飭行して船隻・人夫・粮食を僱備するを賜い、併びに護照を給発し、外夷をして以て穏やかに往くを得しむるを賜うを恩准せば、感激、涯り無し。切に稟す。
右の稟は海防・布政司に上る
〔史料二十四〕
〈兵部尚書兼都察院右都御史総督福建浙江等処地方軍務兼理糧餉塩課阿 /兵部侍郎兼都察院右副都御史巡撫福建等処地方提督軍務張 〉 為
照会事照得
貴国海東宣化任重分藩世受
崇封恪恭効順此届恭迎
冊封天使船隻航海遠来因在洋遭風於嘉慶十二年十月二十五日漂至□□(鐘門カ)洋面撞礁撃砕淹斃官伴人等六十三名并内地舵工一名業経本部〈堂/院〉飭令地方官先将撈救得生使臣官伴人等護送来省給与衣履口糧安頓館駅并派委明幹妥員撈獲屍身三十七具立碑標記恭摺具
奏仰蒙
大皇帝諭令将口糧棉布等項加倍賞給并賞銀一千両以作僱船回国之費又賞銀五百両交貴国使臣帯回分給淹斃各官伴家属承領以示軫恤嗣拠使臣蔡邦錦等稟称
貴国王世孫有発交銀五千両令伊等帯至内地製弁迎接
冊封天使備用各物因船隻撃砕銀両沈失懇求借給以資購弁俟下次進
貢船隻来閩再行帯還等情又経本部〈堂/院〉奏蒙
大皇帝照数賞銀五千両
加恩免其繳還荷
皇恩之稠畳寔欽戴以同深茲乗該使臣等回国相応照会為此照会
貴国王世孫請煩査照将備弁物件銀五千両欽遵
諭旨毋庸繳還并将該使臣等帯去銀五百両伝到淹斃官伴各家属分別頒賞以副
大皇帝懐柔体恤優加無已之至意海天在望遙維履候綏佳須至照会者右照会
中山国王世孫尚
嘉慶十三年五月 日
兵部尚書兼都察院右都御史総督福建浙江等処地方軍務兼理糧餉塩課阿、兵部侍郎兼都察院右副都御史巡撫福建等処地方提督軍務張は、照会の事の為なり。照得するに、貴国は海東に化を宣べ、任重し。藩を分ち世々崇封を受け、恪恭んで順を効す。此の届、恭しく冊封の天使を迎うるの船隻、海を航して遠来す。洋に在りて風に遭うに因り、嘉慶十二年十月二十五日に於いて鐘門洋面に漂至し、礁を撞きて撃砕し、官伴人等六十三名并びに内地の舵工一名を淹斃す。業経に本部〈堂/院〉地方官に飭令し、先ず撈救して生くるを得たる使臣・官伴人等を将て護送して省に来たらしめ、衣履・口糧を給与して館駅に安頓せしめ、并びに明幹なる妥員を派委し、屍身三十七具を撈獲して碑を立てて標記し、恭しく摺もて具奏す。仰いで大皇帝の諭令を蒙けたるに「口糧・棉布等の項を将て加倍に賞給し、并びに銀一千両を賞して以て船を僱いて回国するの費と作し、又、銀五百両を賞して貴国使臣に交し、帯回して淹斃せる各官伴の家属に分給して承領せしめ、以て軫恤を示すべし」とあり。嗣いで使臣蔡邦錦等の稟称に拠れば「貴国王世孫、銀五千両を発交し、伊等をして内地に帯び至らしめ、冊封の天使を迎接するのとき、備用の各物を製弁せしむること有り。船隻撃砕し、銀両沈失するに因り、懇求わくは、借給して以て購弁に資し、下次の進貢船隻の来閩するを俟ちて再び帯還を行わん等情」とあり。又、経に本部〈堂/院〉奏す。蒙るに、大皇帝より、数に照らして銀五千両を賞し、恩を加えて其の繳還を免ぜよ、とあり。皇恩を荷ること之れ稠畳、寔に欽戴以て同に深し。茲に該使臣等の回国するに乗じ、相い応に照会すべし。此が為に貴国王世孫に照会す。請煩わくは、査照して、物件を備弁するの銀五千両を将て諭旨に欽遵して繳還を庸うること毋く、并びに該使臣等帯去の銀五百両を将て、淹斃せる官伴の各家属に伝到し、分別に頒賞して以て大皇帝の懐柔体恤すること優く加えて巳む無きの至意に副わしむ。海天望かに在り。遙かに維れ綏佳なるを履候す。須らく照会に至るべき者なり。
右は中山国王世孫尚に照会す
嘉慶十三年五月 日
〔史料二十五〕
兼署福建等処承宣布政使司為知照事嘉慶十三年二月二十七日奉
総督部堂阿 憲箚嘉慶十三年二月十五日准礼部咨主客司案呈嘉慶十二年十二月二十二日内閣抄出閩浙総督阿 福建巡撫張
奏為捐賞琉球船隻遭風沈失該国王世孫銀両一摺本月十九日奉
上諭一道欽此欽遵抄出到部相応抄録原奏移咨閩浙総督可也計連単一紙等因又於二月二十三日准
戸部咨同前因各到本部堂准此擬合就行備箚行司即便移行欽遵弁理毋違計粘単内開嘉慶十二年十二月二十一日内閣抄出閩浙総督臣阿 福建巡撫臣張 跪
奏為捐賞琉球船隻遭風沈失該国王世孫銀両以広 皇仁仰祈
聖鑑事窃照琉球国接
貢船隻在洋遭風漂至海壇之観音澳口不候兵船迎護旋即自行開駕在鐘門洋面撃砕淹斃人口経臣等派委大員馳往撈救従厚撫惶並将接護遅延及攔阻不力之地方文武拠寔参
奏在案嗣拠委員候補道馮鞶督同平潭庁営将撈獲箱匣五十九件並撈救得生之夷人三十名護送来省同先由観音澳携帯物件二十余抬赴岸到省之夷官等十二人一体安頓館駅宣布
皇恩賞給口粮衣履等項俾無失所茲拠該夷官蔡邦錦等稟称此次船隻遭風撃砕仰蒙
憫念難夷厚加賞恤生死均感船内所載土産鮑魚海参等物及南山北各島附搭置買貨物銀二万両均已漂没無存惟内有本国王世孫発銀五千両置弁迎接
冊封天使備用各物今一併沈没不能買備回国恐有獲咎懇求酌量借給俾得買弁物件等情臣等因備弁
冊封天使応用何物未拠明白声叙随飭藩司景督同海防同知張采五伝到該夷官当面訳訊拠供向来該国夷船来閩倶有随帯土産乗便貿易並南山北各島附搭銀両置買貨物此次船内銀貨漂没無存寔係夷人等貪趁一時順風承行開駕以致猝遇風災已蒙多方撈救並奏請
大皇帝厚賞口粮等項又請
賞給僱船之資如此体恤遠人無微不到皆
天相格外恩施夷人等不勝感戴至本国王世孫発銀五千両係因
冊封天使到国応備
龍旗
御扇各儀仗敬奉
天朝又国主王妃跪迎
詔勅応製蟒錦紬緞各衣料及一切地氈灯綵磁器盤碗并預備薬材等物本国均無出産必須由内地購買今此項銀両沈失無従置弁恐致貽悞獲咎是以夷人等呈懇借給銀五千両以資購備回国俟下次進貢船隻来閩再請本国王措還並無別意只求転懇如数借給就沾恩了等語臣等査向来琉球夷船遭風漂没銀物除分別撫恤之処従無借給銀両之例嘉慶八年該国二号
貢船在台湾遭風漂失銀二万両十一年該国二号
貢船在澎湖冲礁沈失銀二万五千両均無賞借此次船隻撃砕該夷人附帯南北山銀両貨物沈失已照向例加倍撫恤無庸另議外惟該国王世孫因来年有
冊封臣到国発交銀五千両赴閩置弁物件自属寔情且有関敬奉
天朝儀注未便欠悞今銀両在洋沈失自当敬体
皇仁代籌接済臣等公同商酌擬将該国王世孫所交銀五千両照数捐賞免其繳還俾該夷人官等得以置備回国仍俟奉到
諭旨臣等照会該国王世孫遵照以仰副
聖主懐柔遠人有加無已之至意再査該国
貢使業已進京尚有同来之官伴人等仍用原船先行回国業経給咨登舟因風〓(日+卂)未順尚未放洋茲拠該夷官等稟請暫行調回来春再令開解等情臣等査現値冬令風〓(日+卂)愆期難以駕駛出洋自応俯如所請准其将船隻調回官伴貨物搬進館駅仍自応回館之日起支給囗粮塩菜俟来春風順或随接
封官伴一体附搭回国較為両便理合一併奏
聞所有臣等酌籌弁理各縁由謹合詞恭摺具
奏伏乞
皇上睿鑑訓示謹
奏十九日奉
硃批另有旨欽此本日奉
上諭阿 等奏請捐賞琉球船隻遭風沈失該国王世孫銀両一摺該国王世孫因来年有冊封使臣到国発交夷官銀五千両備弁迎接応用物件儀制攸関今因船隻在洋遭風此項銀両漂失該夷官等呈懇借給以資購備自応加之体恤量予恩施所有該国沈失銀五千両著加恩賞給庫項銀二千五百両其余銀二千五百両准該省督撫司道大員損資発給均免其繳還用示懐柔至意余着照所請行該部知道欽此等因奉此査摘回頭号船進
貢官伴梁淵等係上年十日初六日離駅登舟至十一月二十日吊回館駅前拠該夷官稟請接支口粮業経詳奉
撫憲批准即自十二年十月初七日起接支給領在案茲当遣発之期合併移知為此備咨貴国王世孫請煩査照施行【等因到国准此査得本国接
貢船隻在洋遭風漂至鐘門洋面撞礁撃砕淹斃人口沈失貨物仰蒙
列憲憫念難夷代為具
題生者加賞死者加恤併発給銀両俾得買弁款待
天使物件又査頭号
貢船都通事梁淵等已雖離駅登舟現値冬令難以駕駛回国更蒙吊回館駅接支口粮俟侯風順俾以回国此誠
浩恩憲得感激無地理合咨謝為此備咨
貴司請煩転謝施行(3)】須至咨者
右 咨
琉球国中山王世孫尚
嘉慶十三年五月 日
兼署福建等処承宣布政使司は知照の事の為なり。嘉慶十三年二月二十七日、奉りたる総督部堂阿の憲箚に「嘉慶十三年二月十五日礼部の咨を准く。主客司の案呈に『嘉慶十二年十二月二十二日、内閣にて抄出す。閩浙総督阿・福建巡撫張、琉球船隻風に遭いて沈失せる該国王世孫の銀両を捐賞することを為すを奏するの一摺は、本月十九日上諭一道を奉りたるに、此を欽めよ、とあり。欽遵して抄出して部に到る。相い応に原奏を抄録して閩浙総督に移咨して可なるべし。計るに、単一紙を連ぬ等因』とあり。又、二月二十三日に於いて戸部の咨を准けたるに、前の因に同じ、とあり。各々本部堂に到る。此を准けたれば、合に就行ちに箚を備えて司に行らんとす。即便ちに移行し、欽遵して弁理し、違うこと毋かれ」とあり。計るに、粘単あり。内に開く「嘉慶十二年十二月二十一日内閣にて抄出す。閩浙総督臣阿・福建巡撫臣張、跪して奏す。『琉球船隻風に遭い沈失せる該国王世孫の銀両を捐賞し、以て皇仁を広くし、仰いで聖鑑を祈めんが事の為なり。窃かに照うに、琉球国接貢船隻、洋に在りて風に遭い、海壇の観音澳囗に漂至す。兵船の迎護を候たずして旋即ちに自から開駕を行い、鐘門洋面に在りて撃砕し、人口を淹斃す。経に臣等大員を派委し、馳せ往きて撈救し、厚きに従いて撫恤し、並びに接護遅延し及び攔阻力めざるの地方を将て、文武を、寔に拠って参奏すること案に在り。嗣いで拠るに、委員候補道馮鞶は平潭庁営を督同し、撈獲する所の箱匣五十九件並びに撈救して生くるを得るの夷人三十名を将て、護送して省に来り、先に観音澳より物件二十余抬を携帯して岸に赴き省に到るの夷官等十二人と同に一体に館駅に安頓し、皇恩を宣布し、口粮・衣履等の項を賞給して所を失うこと無からしむ。茲に該夷官蔡邦錦等の稟称に拠れば〔此の次、船隻風に遭いて撃砕す。難夷を憫念せられ、厚く賞恤を加うるを仰蒙す。生けるものも死せるものも均しく感ず。船内載する所の土産の鮑魚・海参等の物及び南山北各島附搭して貨物を置買するの銀二万両は、均しく已に漂没して存する無し。惟だ内に本国王世孫銀五千両を発り、冊封の天使を迎接するに備用の各物を置弁する有り。今、一併に沈没したれば、買備して回国する能わず。恐らくは咎めを獲ること有らん。懇求わくは、酌量して借給し、物件を買弁するを得しめられんことを等情〕とあり。臣等、冊封の天使の応に用うべき何物を備弁するや、未だ明白なる声叙に拠らざるに因り、随ちに藩司景(敏)に飭し、海防同知張采五を督同して該夷官に伝到し、当面に訳訊せしむ。供に拠れば〔向来、該国夷船閩に来たるときは、倶に土産を随帯し、便に乗じて貿易し、並びに南山北各島は銀両を附搭して貨物を置買する有り。此の次、船内の銀貨漂没して存する無し。寔に夷人等一時の順風に貪趁して承いで開駕を行い、以て猝に風災に遇うを致せしに係る。已に多方に撈救するを蒙り、並びに大皇帝に奏請して厚く囗粮等の項を賞し、又、船を僱うの資を賞給せんことを請う。此くの如く遠人を体恤すること微も到らざる無く、皆、天相格外に恩施せらる。夷人等感戴に勝えず。本国王世孫の発りたる銀五千両に至りては、冊封の天使国に到るに因り、応に備うべきの龍旗・御扇の各儀仗は、敬んで天朝を奉じ、又、国主・王妃跪して詔勅を迎うるのとき、応に製すべきの蟒錦・紬緞の各衣料及び一切の地氈・灯綏・磁器・盤碗并びに預め備うる薬材等の物は、本国均しく出産無く、必ず須らく内地より購買すべきに係る。今、此の項の銀両沈失し、従て置弁する無し。貽悞ありて咎めを獲るを致すを恐る。是の以に夷人等呈懇す、銀五千両を借給して以て資して購備回国し、下次の進貢船隻の閩に来たるを俟ち、再び本国王に請いて措還し、並も別の意無きなり。只だ求むらくは、転して数の如く借給すを懇いたまわば、就ち恩に沾い了れり等語〕とあり。臣等、査するに、向来、琉球夷船風に遭いて銀物を漂没せしときは、分別して撫恤するの処、従いて銀両を借給するの例無し。嘉慶八年該国二号貢船台湾に在りて風に遭い、銀二万両を漂失す。十一年該国二号貢船澎湖に在りて礁に冲し、銀二万五千両を沈失す。均しく賞借すること無し。此の次、船隻撃砕し、該夷人の附帯せる南北山の銀両・貨物、沈失す。已に向例に照らして加倍して撫恤し、另の議を庸うる無きを除くの外、惟だ該国王世孫、来年冊封の臣、国に到ること有るに因り、銀五千両を発交し、閩に赴きて物件を置弁せしむるは、自から寔情に属す。且つ敬んで天朝の儀注を奉ずるに関わること有り。未だ欠悞するに便ならず。今、銀両は洋に在りて沈失す。自当に敬んで皇仁を体し、代りて接済を籌るべし。臣等、公同に商酌し、該国王世孫交する所の銀五千両を将て、数に照らして捐賞し、其の繳還を免じ、該夷人官等をして以て置備して回国するを得せしめんとす。仍お諭旨を奉到するを俟ち、臣等、該国王世孫に照会し、遵照して以て仰いで聖主遠人を懐柔すること、加うる有りて已む無きの至意に副わん。再び査するに、該国貢使、業已に京に進む。尚お同来の官伴人等仍お原船を用て先行して国に回るに、業経に咨を給して登舟する有り。風〓(日+卂)未だ順ならざるに因り、尚お未だ放洋せず。茲に該夷官等の稟請に拠れば〔暫く調回を行いて来春再び開解せしめられたし等情〕とあり。臣等、査するに、現に冬令に値う。風〓(日+卂)期を愆てば、以て駕駛して出洋し難し。自応に俯して請う所の如く、其の船隻を将て調回せしめ、官伴・貨物は館駅に搬進するを准すべし。仍お自応に館に回るの日より起こして口粮・塩菜を支給し、来春風順なるを俟ち、或いは接封の官伴に随いて一体に附搭して回国せしむべくんば、較だ両便と為す。理として合に一併に奏聞すべし。所有の臣等酌籌弁理するの各々の縁由は、謹んで詞を合して恭しく摺もて具奏す。伏して乞うらくは。皇上睿鑑ありて訓示ありたし。謹んで奏す』。十九日奉りたる硃批には、『另に旨有り、此を欽め』とあり。本日奉りたる上諭には『阿等の奏請したる〔琉球船隻風に遭いて沈失せる該国王世孫の銀両を捐賞する〕の一摺は、該国王世孫、来年冊封の使臣国に到るに因り、夷官に銀五千両を発交し、迎接のとき応に用うべき物件を備弁せしむ。儀制の関わる攸なれど、今、船隻洋に在りて風に遭い、此の項の銀両漂失するに因り、該夷官等、呈懇すらく、借給して以て購備に資せんことを。自応に之に体恤を加え、量予して所有の該国の沈失銀五千両を恩施し、著して恩を加え、庫項銀二千五百両を賞給し、其の余の銀二千五百両は、該省の督・撫・司・道の大員、資を損して発給し、均しく其の繳還を免ずるを准し、用て懐柔の至意を示すべし。余は着して請う所に照らして該部に行して知道せよ。此を欽め等の因』あり」。此を奉けたり。査するに、摘回する頭号船の進貢官伴梁淵等は、上年十月初六日駅を離れ、登舟するも、十一月二十日に至り、館駅に吊回せるものに係る。前に拠りたる該夷官の稟請には「囗粮を接支せられたし」とありたれば、業経に詳したるに、奉りたる撫憲の批には「即ちに十二年十月初七日より起こして接支して給領せしむるを准す」とあること案に在り。茲に遣発の期に当り、合併に移知す。此が為に備に貴国王世孫に咨す。請煩わくは査照して施行せられたし。須らく咨に至るべき者なり。
右は琉球国中山王世孫尚に咨す
嘉慶十三年五月 日
四 文書内容及び文書経路
次に文書の内容等について、簡単に私見を述べておきたい。なお本史料における各衙門の統属関係及び文書経路並びに各衙門の長の通称は以下のとおりではないかと考えられる。
〔総督〕大憲(大人) ・督憲
⇄〔布政使〕大老爺・大人
〔巡撫〕大憲(大人) ・撫憲(大人)
台下・藩憲(大人) ・仁憲 ⇄〔海防同知〕大人
〔史料一〕 総督又は巡撫宛。公銀の借給(貸与)願い。おそらく海防庁・布政司を経て提出したものであろう。沈失銀は約十万両。その内訳は(一)南山・北山銀二万両、(二)土産の売り上げ見込み代銀六、七万両、(三)王府銀(冊封の大典に必要な物件の購入資金)五千両、である。提出の日付を欠いているが、前述のように十一月十五、十六日前後と推定される。
〔史料二〕 海防庁より蔡邦錦等宛。福州府への出頭命令。おそらく損失額等について報告に誤りがないかどうか各本人(正身)自ら府に赴き証言(立)せよというのであろう。
〔史料三〕 布政司より蔡邦錦等宛。銀両借給(貸与)等について前例の有無を調査し、報告するよう福防庁(福州府分守南台海防庁)に命じたことを伝える文書。
〔史料四〕 海防庁より蔡邦錦等宛。薬材購入について、願い通り総督・巡撫・布政司に取り次ぐから稟稿一部を作成し差し出せ、ということであろう。〔史料三〕の稟では、銀五千両の使途目的が冊封に必要な物品の購入にあることを述べているが、薬材の購入については言及されていない。このため蔡邦錦としては銀五千両には薬材の購入が含まれることを追加しておきたかったのであろう。
〔史料五・六・七〕 総督・巡撫の命を受け、布政司より土通事(引礼通事)鄭煌・馮邦麟に宛てたものか、〔史料一〕の稟に対する疑義照会文書。後出〔史料十〕嘉慶十二年十二月朔日付上奏文に「臣等、冊封天使の応に用うべき何物を備弁するや、未だ明白なる声叙に拠らざれば、随ちに藩司(布政司)景敏に飭し、海防同知張采五を督同し、伝えて該官(蔡邦錦)に到り、当面に訳訊せしむ」とある。〔史料五〕は南山・北山帯銀二万両は私人が勝手に持ち込んだもので、朝廷の関知するところではない。公私を混同して申告(混瀆)してはならない。〔史料六〕は土産の売り上げ見込み代銀六、七万両とあるが、実際より多めに申告(多瀆)したもので実数ではないはず。〔史料七〕は王府銀五千両については借給の必要性をみとめ、督・撫に詳請し、題奏をお願いしてもよい。ただし購入リストを提出せよ、ということであろう。
〔史料八〕 土通事。(引礼通事)鄭煌・馮邦麟より布政司宛。前項の疑問点に回答(稟覆)したもの。冊封に必要な物件及び薬材の購入費に充てるため銀五千両の借給を督・撫に詳請せられたし。
〔史料九〕 蔡邦錦等より布政司宛、先借願い。銀五千両の借給についてはさきに十二月朔日付で題奏〔史料十〕があったことだし、不許可はありえない。これ以上の延引はできないので、諭旨の下る前に貸与されたし。日付を欠くが、〔史料十一〕によって「十二日」であることがわかる。
〔史料十〕 督・撫連名の上奏文。日付からいって〔史料九〕の前にあるべき。銀五千両については、冊封の大典に係るものであるから、全額給発することとし、且つ返済の用なしとしたい。
〔史料十一〕 蔡邦錦等より海防庁宛。再度の先借願い。蟒錦の織造には百余日を要す。これ以上遅延して年を越すようなことになれば、回国の日期に間に合わない。
〔史料十二〕 〔史料九〕と重複。
〔史料十三〕 海防庁より蔡邦錦等宛、先借不可の回答文書。あくまで諭旨奉到の後、給領せしむべし。
〔史料十四〕 諭旨の一部分を抜粋したものか。全文は〔史料十六〕に見える。十二月十九日付内閣奉上諭(明発上諭)には、前述のように「另に旨有り」(処理については別途指示する)とだけあって〔史料十〕、諭旨の内容はわからない。諭旨の具体的内容(指示事項)は正月七日付軍機処から巡撫に宛てた廷寄(寄信上諭)によって示される。蔡邦錦等は翌日これを入手したのであろう。諭旨の内容は銀五千両のうち、二千五百両については庫銀から支出し、残り二千五百両については総督・巡撫(両院)、両司(布政使・按察使)、六道の計十名で一人あたり二百五十両ずつ負担し、その繳還(返済)を免ず、というものである。
〔史料十五〕 蔡邦錦等より布政司宛、銀五千両の受け取り書。〔史料十六〕 海防庁より蔡邦錦等宛、諭旨の伝達。末尾に「銀五千両の受領につき呈文を作成し、海防庁に差し出せ」とあるが、銀の受け取り及びその受領書の提出はすでに終わっている〔史料十五〕。文書経路を整理すれば、次のようになろう。
内閣(上諭)→巡撫部院(十二年十二月十九日受、下行文、奉)
軍機処(廷寄)→巡撫部院(十三年一月七日受、平行文、承准)
巡撫部院(憲案)→布政司(十三年一月七日受、下行文、奉)
布政司(憲礼)→海防庁(十三年一月二十七日受、下行文、蒙)
海防庁(諭)→蔡邦錦等(十三年二月三日)
〔史料十七〕 蔡邦錦等より巡撫宛、冊封使乗船の選定につき、すみやかに親臨の上覆験勘定せられたし。布政司の取次無しに直接巡撫に提出したのであろう。この文書について『海路無恙』には「勅使御乗船(冊封頭号船)并遊撃乗船(冊封二号船)、兼而御船頭(頭号船々頭)・二号船々頭・佐事・水主共召列、内分より見分仕、金森美・薛長発両艘相しらべ置候付、何卒右両艘江被仰付度、尤御見分之砌者、私共江も御用被仰付度旨、呈相調、海防官并布政司・閩県衙門参上、大爺(知県)取次を以、願中上候稟」とある。
〔史料十八〕 蔡邦錦等より布政司宛再稟。すでに海防同知・布政司の験看も済んでいるので、巡撫の親臨覆験を詳請せられたし。
〔史料十九〕 蔡邦錦等より布政司宛、冊封使乗船の選定終了後提出した保証書。日付がないが、次の〔史料二十〕の後にあるべきか。
〔史料二十〕 閖県より蔡邦錦等宛、冊封使乗船の選定結果についての通知。文書経路は次のようになろう。
布政司(批)→海防庁(十三年二月十九日受、下行文、蒙)
海防庁(憲札)→閩県(十三年二月十九日受、下行文、蒙)
閩県(諭)→蔡邦錦等(十三年二月二十五日)
〔史料二十一〕 蔡邦錦等より海防庁宛、琉球側で買い取る貨物(評価物)の量を一船につき一万両に約束(制限)してほしい。この文書について『海路無恙』には「評価物減少之願、呈相調、私、古存留・儀者召列、案(按カ)察司衙門江参上仕候処、御他出ニ而、御門ニ待上候処、海防官右衙門江御入駕之折ニ而、私共御覧被成、御尋有之候付、評価物一件之願ニ付而参上仕居候段申上、右之呈入御覧候処、海防官御直々御取次を以委ク被申上、右之呈茂被差上候間、私共江者可罷帰由被申聞候付、罷帰(候)事」とある。
〔史料二十二〕 蔡邦錦等より布政司宛、随封の夫役の数を減じてほしい。この文書について『海路無恙』には「五月六日河口通事召列、正使様公館江参上仕候処、御前江被召呼候付、御機嫌伺仕、御出船夏至前御出船被遊度、且御入津之儀注、早々被成下候様、且又評価物減少并人数減少被仰付被下度願申上候処、副使江も御相談を以、随分御取計被成下旨、承知仕候付罷帰、引次副使公館江参上仕候処、御差合御座候段承知仕、罷帰候事」とある。これによれば文書の日付は五月六日である。
〔史料二十三〕 蔡邦錦等より海防庁・布政司宛、水口駅までの船隻・人夫・粮食の給発願い。この文書について『海路無恙』には「右ハ洪山橋より水口迄之間。往還共大河舟、私乗船并河口通事乗船ハ、先例琉球方より賃銀差出置候処、此節之儀ハ、兼而布政司御方江願申上、御物より被差出候稟」とある。
以上が『蔡姓家譜』に収録されている史料であって、〔史料二十四・二十五〕は鄭良弼本『歴代宝案』所収文書である。辰年接封一件に関する史料はこのほかにも数多く存在するが、今回は紙幅の都合で割愛せざるをえなかった。他日を期したい。
明清両朝における冠船貿易の推移については、万暦七年(一五七九)己卯、尚永の冊封副使として来琉した謝杰の『日東交市記』と康煕五十八年(一七一九)己亥、尚敬の冊封副使として来琉した徐葆光の『中山伝信録』に注目すべき指摘がある。
〔䘏役〕利は君子の道わざる所なり。故に曰く、天子は有無を言
わず、諸侯は多寡を言わずと。然れども言わざる所は、己の有無多寡なり。若し其の下の為め、民の為めならば、則ち『周礼』周官に載する所も、蓋し諄々乎として之を言えり。航海は危うき役なり。吾が役するものは、即ち吾が民なり。吾䣊、大義の分に迫られ、当に身を致すべし。彼の役せらるるものは、何ぞ焉を知らんや。荀くも利以て之を駆るに非ざれば、何を以て其の心を結び、其の力を得んや。洪武の間、過海五百人、行李各百斤、夷と貿易するを許す。実に利を以て之に噉すに、亦だ五万斤を以てす。実に載する所たるや、著わして絜令と為す。故に甲午の使(嘉靖十三年〔一五三四〕尚清冊封、正副使陳侃・高澄)は、之に因て万金を得たり。総計五百人、人ごとに各二十金上下、多きものは三、四十金に至る。少なきものも亦た十金、八金を得たり。時に洋々として意を得ざるもの莫し。辛酉(嘉靖四十年〔一五六一〕尚元冊封、正副使郭汝霖・李際春)の諸役も、冀うこと仍お前の如し。其の住く者は、率ね皆工巧精技なり。二使(甲午・辛酉の使)の、倭に警せらるるも、しかも免るるを獲たるものは、未だ必ずしも人を得るの効にはあらざるなり。比、獲る所の利は、僅かに六千金、五百人を以て之を計れば、人ごとに各十二金のみ。多きものは二十金、少なきは或いは五、六金なるべし。稍や望む所を觖くこと無くんばあらず。是の以に己卯(謝杰来琉時)の招募には、僅かに中才を得るのみにして、役に応ずるものは、前の如く之れ精工なること能わざるなり。然も猶お其の辛酉の如きを冀えども、不意りき、夷の、貧甚だしきに値い、得る所は僅かに三千余金のみならんとは。時に帯びる所四百人なりと雖も、亦た人ごとに各八金のみ。多きも十五、六金、少なきは或いは三、四金、或いは一金なるべし。亦た大いに望む所を失するを免れず。吾輩、廩を捐して之を助くるに至りて後、師を全うして以て帰るを得たり。蓋し甲午の使は、番舶(日本及び東南アジア諸国の商船)の夷(琉球)に転販するもの、無慮十余国、夷利四倍す。故に我が衆の利も亦た倍す。辛酉の使は、番舶の夷に転販するもの、僅かに三、四国、夷利稍や減ず。故に我が衆の利も亦た減ず。己卯の使は、通番の禁(海禁令)弛み漳人自ら(東南アジア諸国に)往販し、番の一舶も至らず。夷利頓かに絶え、故に我が衆の利も亦た絶ゆ。勢いの然らしむるなり。(『日東交市記』)
今、康煕二十二年(一六八三)癸亥の役(尚貞冊封、正副使汪楫・林麟焻)は、是の時海禁(遷界令)方に厳しく、中国の貨物は外邦争いて購致せんと欲す。琉球に相い近き諸島、薩摩州・土噶喇・七島等の処の如き、皆、風を聞きて来り集まり。其の貨は售り易かりき。閩人浴説して今に至る。故に役に充る者衆し。昇平日久しく(展海令)、琉球歳ごとに来たりて貿易す。中国の貨物は、外邦多く有す。此の番(徐葆光来琉時)、封舟到るの後、土噶喇等の番舶、一つとして至るもの無し。本の国(琉球)は、素より貧乏にして貨は多くは售れず。人役并に困しむ。(『中山伝信録』)
一五六七年(隆慶元)の部分解禁(漳州月港開港)、一六八四年(康煕二十三)における展海令の施行が、琉球の海外発展のみならず、冠船貿易にも深刻な影響を及ぼしていたのである。ことに徐葆光来琉時、閩人の風説に惑い、大量の貨物が持ち込まれたため、その四分の三は買取不能に陥り(『蔡温自叙伝』)、冊封正副使を巻き込んだ一大騒動にまで発展した(評価(ハンガー)事件)。海外への転売もままならず、唐物市場が琉球国内に限定されるのであれば、王府の購買力にはおのずから限界があるから、高価なもの、不要なものは除外され、国内消費が最優先されるのはいたしかたのないことであろう。このときは「府庫一空」し、王府財政は危機に瀕した、という(『球陽』)。冊封使の受入れに関して「冊封使乗船の選定」及び「貨物・夫役の酌減」等の問題が福州における接封使の重要な交渉課題になるのは、徐葆光来琉時(康煕五十八年)以後のことであろう。すなわち民間商船をチャーターして冊封使乗船(頭号船・二号船)に充てる場合、琉球での補修費がかからないよう新造船であること、貨物は両船各一万両(福州原価)以下とすること(評価銀は琉球での買取価格は二割増〔二息〕であるから四千両追加して合計二万四千両となる)、夫役は必要最小限に止めること等である。
冊封は大典であり、財政難を理由に中止ないし廃止することはできない。とすると必要な財源をどこに求めたらよいのか。ここに近世後期、王国体制を維持するための「遠き慮り」(長期計画)ないし先後緩急誤りなき政治手段、すなわち「御政道の本法にもとづく国家経営」が為政者に対して強く要求されることとなるのである。
蔡温は琉球国の置かれた状況について「御当国の儀、偏小の国力を以、唐・大和への御勤御座候に付ては、御分力不相応程の御事候」(『独物語』)と述べているが、冊封朝貢体制のもと「偏小の国力」しかない琉球が王国の体制を維持していくことは至難のことであったにちがいない。そうしてそれを可能にしたものは、ほかならぬ王府の官僚組織であり、また官僚であった。本史料を通読して痛感することは、とりわけ王府の官僚がいかに有能で使命感に燃えていたか、ということである。
注(1)原文は。『清代中琉関係档案選編』三七五頁。
(2)中国第一歴史档案館档案翻字史料(沖縄大学蔵)参照。〔 〕はそれで補った。
(3)【 】の部分は他文書の証人であろう。