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資料詳細
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- 歴代宝案巻号
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
明代初期における琉球の官生派遣について
―『南雍志』にみる国子監留学生の位置付けとして―
岡本弘道
はじめに
第一章 『南雍志』による琉球官生像の再検討
一、『南雍志』の史料的性格
二、「官生」の定義とその待遇
三、琉球官生派遣開始時の経緯
四、琉球官生の在監状況―在監期間の特定―
五、琉球官生の「帰省」と「復監」
―琉球官生の中琉間往復の現実―
第二章 第一期琉球官生派遣の意義
一、琉球から見た派遣官生の役割
二、明朝の外交政策と琉球官生
むすびにかえて
はじめに
琉球史において官生とは、琉球から中国王朝の最高学府である国子監に派遣された留学生のことを指す。明朝の洪武五年(一三七二)に初めて中国王朝の朝貢国となった琉球は、その二十年後の洪武二五年(一三九二)に既に国子監へ官生を派遣していた。琉球の官生派遣は途中幾度かの中断期を挟みながらも、明治政府によって中国王朝との朝貢関係が中断させられる直前の清朝・同治一二年(一八七三)に至るまで、およそ五百年間にわたって続けられることとなる。このような留学生派遣の事例は他に類を見ない。琉球史を語る上で度々官生の存在に触れられることも当然であるといえよう。
琉球官生の派遣は、その選抜対象の違いや受け入れ側の中国王朝の交代などによって、四つの時期に大別される。本論考で検討するのは、その中の第一期、つまり琉球がいわゆる「三山分立」状態にあった時代、中国でいえば明朝の初期に当たる時代の官生派遣である。
琉球官生に関する論考は数多く存在するが、その中でも第一期の琉球官生については、さほど検討が加えられていないように思われる。伊波普猷氏の「官生騒動に就いて」も第一期について検討しようとするものではないが、その記述の中で第一期の琉球官生について、以下のように述べている。「……これらの史料を一瞥したら、最初の官生の成績が余程悪かつたといふことがわかる。実に遊逸、学に馴れない貴公子の連中は到底長期の修学にたへないで、皆悉く失敗に畢つた」。第一期官生が貴公子、つまり王族の子弟や寨官の子弟によって構成されており、彼等の成績が悪かったので、その結果第一期の官生派遣が失敗に終わったという伊波氏の解釈は、以後琉球の官生研究における第一期官生の評価を決定づけるものとなった。
琉球官生全体を対象とした論考の中でも、真境名安興氏の『沖縄一千年史』『沖縄教育史要』、仲原善忠氏の「官生小史―中国派遣の琉球留学生の概観―」は特に注目に値する。両氏の論考は中国文化吸収の一要素として、または進貢業務に不可欠な語学修得の一手段としての官生の役割に重点を置いたものである。また仲原氏は官生の成績の評価、さらには官生派遣自体の評価を、派遣された官生の名前がその後史料上で確認できるか否かによって行なっているが、この評価はこの時期に関する史料の現存状況を考えれば当を得ないことは明らかである。しかしこの評価が伊波氏の見解と相俟って、第一期琉球官生に対するイメージを拘束することになったのである。
このような研究状況を踏まえて第一期の琉球官生を再検討するとき、琉球官生の果たした役割を見直すことが最大の課題となろう。中国文化の吸収や語学修得など進貢業務に関わる能力育成の側面のみによって、琉球の官生派遣を評価してよいのであろうか。京師に置かれた国子監に長期滞在する留学生の存在は、明朝にとって中国文化による教化の対象でしかありえなかったのだろうか。このような琉球官生の役割を再検討した上でなければ、本当に彼等の派遣が失敗であったのかどうか判断することはできない。
ところが、従来第一期の琉球官生研究で扱われてきた史料は、
右の問題を検討するには質的にも量的にも決して十分なものとは
いえまい。第二期以降は『歴代宝案』、さらに第三期以降は中国の档案史料・琉球で編纂された史料によって、より詳細に官生の動きを追跡することが可能である。一方、第一期については主に『明実録』、『中山沿革志』、『中山世譜』、『琉球入学見聞録』などの史料によって研究が行なわれてきたが、これらに収載されている官生関連記事はほとんどすべてが『明実録』を基にしている、つまり『明実録』系史料ということができる。これについては和田久徳氏の「明実録の沖縄史料(一)」に詳しい。従って、これまでの第一期官生の研究は、『明実録』に記載されている決して豊富とはいえない史料に基づいて行なわれてきたということになる。
今回本論考で主に検討するのは、『南雍志』という、南京国子監のスタッフによって著された史料である。『南雍志』中に見られる琉球官生関連の記事も、決して質・量ともに豊富なものとはいえないが、少なくとも『明実録』とは異なる系統の史料ということができる。この『南雍志』に含まれる琉球官生関連の記事を検討し、『明実録』系の史料では窺うことのできなかった琉球官生の実態に迫ることによって、当時の琉球官生がどのような役割を担っていたのかを考察していきたい。
第一章 『南雍志』による琉球官生像の再検討
一、『南雍志』の史料的性格
『南雍志』は前述のように、南京国子監の祭酒、つまり校長に相当する役職にあった黄佐によって編纂された、南京国子監に関する諸制度や関係諸官の伝記などをまとめた書物である。嘉靖二三年(一五四四)の序が付けられているが、その原型は景泰年間(一四五〇~五六)に祭酒の呉節によって編纂された十八巻本(以後『旧志』と表記)であり、そのことは嘉靖二三年序の後に景泰七年(一四五六)『南雍旧志』序があることからも確認できる。その後嘉靖年間(一五二二~六六)の初期に祭酒の崔銑が重纂を始めたが完成せず、その後を受けた黄佐が監丞の趙恒、博士の王製・周瑞、助教の梅鷟等の協力を得て、呉節の稿本を増損して完成した。ただし、本書中には事紀の末尾や職官表など、万暦年間(一五七三~一六一五)の記述が含まれており、後人が随時添加したものと考えられる。本書の構成は大筋で司馬遷の『史記』に則っており、本紀に相当する「事紀」、年表に相当する「職官表」、八書に相当する「規制」「謨訓」「礼儀」「音楽」「儲養」「経籍」の各考、「列伝」に分けられている。テキストは嘉靖二三年序の刊本がある他、民国二〇年(一九三一)にそれを江蘇省立国学図書館が影印したものが存在する。また、台湾の偉文図書出版社有限公司から四冊本が出版されている。
以上の編纂経緯を考えると、第一期の琉球官生に関する記述は、大筋で呉節の『旧志』を継承したものと考えて良さそうである。もちろん黄佐等が編纂を行なっていた時期にも第二期の琉球官生が国子監に存在しており、その記述も本書に含まれていることには注意する必要がある。『南雍志』中に見られる琉球官生関連の記事は「事紀」「規制考」「儲養考」に集中しているが、そのかなりの部分が『明実録』系史料では確認できないものであり、官生研究に留まらず明代初期の琉明関係を考える上で有益な記述を含んでいると考えられる。最後に琉球官生関連の記事を抄出した「『南雍志』中の琉球官生関連記事」を付しておいたので参照されたい。
二、「官生」の定義とその待遇
冒頭で述べたように、従来琉球史において「官生」という用語は、琉球から中国王朝の最高学府である国子監に派遣された留学生の意で用いられてきた。その語義として、伊波氏は「官生とはやがて今日の官費留学生の様な者である」という表現を用い、その見解は大筋で琉球史研究者の間に継承されているように思われる。だが在学する学生すべてに食料・住居をあてがい、養うことが原則であった国子監において、「官費」という要素が特に意識されていたとは思われず、また「官生」という用語が成立した当時の琉球に「官費留学生」の概念を裏付ける「私費留学生」のような存在は確認できない。これに対して仲原氏は「雲南、四川土官生」という用語に注目し、その語源を中国に求めている。また、最近では孫薇氏が「冊封・朝貢について―中琉の冊封・朝貢関係を中心に―」の中で、『万暦大明会典』の中の「官生」規定から、官生を廕子入監の一例として捉え、「冊封」概念の拡大解釈によって説明しようとしている。
「官生」という用語について『南雍志』を見てみると、「儲養考」の中に以下のような記述がある。
「太祖高皇帝の初に国子を定め、官生・民生の二等を為す。官生は上裁より取り、民生は科・貢の制に由るなり。」
「洪武元年(一三六八)、生徒の国子学に選び入れらるる者は、品官の子弟なれば官生と為し、民間の俊秀なれば民生と為す。」
「官生は二等に分かつ。一は品官子弟と曰ひ、二は外夷子弟と曰ふ。品官は一品より七品に至るまで、皆廕叙を得。然るに皆特恩より出で、敢へて陳べ乞ふ者無し。之れを故牘に稽みるに、徴さるる所無し。惟だ洪武の末、故尚書呉雲の子の黻、廕国子生たるは、其の雲南に死事するを以てなれば、乃ち恤典なり。宣徳の中の大理寺卿湯宗の子の沐・正統の初の検討掌助教事王仙會の子の旒等、始めて恩を乞ひ監に入るを得。……」
以上の記述から、明代初期の段階で既に官生という用語が用いられており、それは民生と対をなすものであったこと、民生が科挙・歳貢のような制度によって恒常的に採用されるのに対し、官生は皇帝の裁断によってその都度採用されること、官生には品官の子弟と外夷の子弟が存在することがわかる。琉球官生も同様の形で入学の資格を与えられ、国子監の中で位置付けられていたと考えられる。
ただし、待遇の面から検討すると、必ずしも官生であることのみによってその待遇が決められたわけではないこともわかる。琉球官生に対する衣服・寝具等の給賜については『明実録』からも確認できるが、『続文献通考』には、以下のような記述がある。
「是れより、日本・琉球・暹羅の諸国、皆官生もて監に入れ書を読ましむる有り。朝廷は輒ち厚賜を加へ、并びに其の従人に給ふ。雲南・四川等の土官、時に子弟・民生を遣はし監に入れる者甚だ衆く、給賜すること日本諸国と同じく、監前に別に房百間を造りて之れを居らしむ。……蔣一葵の『長安客話』に曰く、国初、高麗は金濤等を遣はし太学に入れしむ。其の後各国及び土官も亦た皆子を遣はして監に入れしむれば、監前に別に房を造りて之れを居らしめ、王子書房と名づく。……」
つまり日本・琉球など外国が派遣した官生と、雲南・四川等の土官が派遣した子弟(=官生)、そして雲南・四川から来た民生が、給賜の面で同じ扱いを受けていた。『明実録』や『南雍志』に見られる琉球官生等への給賜の際「雲南・四川・琉球等官民生」として、五、六十人から百人前後の人数が示されているが、この人数の大部分は雲南・四川からの民生であったと考えられる。そして彼等雲南・四川からの民生を含めて、外夷生に対しては「王子書房」なる特別の宿舎をあてがったのである。これらの処置は、彼等が外夷であったことに由来する。雲南・四川は明朝の版図内にあったとはいえ、そこには多数の少数民族が住んでおり、明朝も彼等に対しては土官制度という、間接統治によってこの地を治める手段を採っており、その地域から派遣される民生も、少数民族出身の者がかなり含まれていたであろう。「王子書房」については、或いは言語・生活習慣の違いに配慮した結果なのかも知れない。そういったことをも含め、「外夷生」に対しては特別の待遇がなされた。このことには注目する必要があろう。
三、琉球官生派遣開始時の経緯
琉球官生がどのような手続きを経て派遣されるに至ったのかという問題は軽視することができない。何故なら、それは派遣者と受け入れる主体の双方が、官生派遣をどのように位置づけていたかを考える上で決して欠かすことのできない要素だからである。従来の第一期官生の研究で参照されてきた『明実録』系史料による限りこの問題について手がかりを見出すことは非常に困難であるが、『南雍志』事紀の洪武二四年(一三九一)三月の条には注目すべき記述が見られる。
「……又礼部の臣に諭して曰く、琉球国中山・山南の二王は、皆向化すれば、寨官の弟男子姪を選び、以て国子に充て待すべし。書を読み理を知れば、即ち国に帰らしめよ。宜しく行文して彼をして之れを知らしむべし。」
「弟男子姪」とは、ひろく親族の中の目下の男子を指す用語である。この史料によると、琉球の三山の内でも中山・山南の二王に対してのみ官生の派遣許可が出されていること、派遣官生として王の子弟ではなく、寨官の子弟を指定していることがわかる。実際、以後の史料において山北王が派遣した琉球官生の存在は確認できないが、何故に山北王に対しては官生派遣の許可が下りなかったのであろうか。また中国では通常用いられることのない「寨官」という用語を用い、その子弟を派遣させている点にも注意すべきであろう。以上の点からみて、この琉球官生派遣許可の諭旨は恐らくその前に行なわれたと考えられる琉球側からの官生派遣の要請を受けて出されたものと思われる。
また、琉球官生の派遣が開始された直後に、次のような記述も見られる。
「言官劾すらく、『祭酒の胡季安、外夷の子入学せるの束修を受く』と。季安罪を請ふ。上察して之れを宥す。」
「束修」とは、入学に対する謝礼のことである。後述するが、この時期に国子監に入学した「外夷の子」は、琉球官生以外には考えられない。だとすれば、琉球は官生を派遣する際に、禁止されている入学謝礼をわざわざ出していたということになる。むろん琉球側がそのような事情を知らずに起こした事件と見ることも可能であるが、琉球官生の派遣について琉球側からの要請があったという先の想定と考え合わせれば、この謝礼には琉球官生に対し何らかの便宜を図ってもらうことを期待した琉球側の意図が含まれているのかも知れない。
四、琉球官生の在監状況―在監期間の特定―
右のような経緯を経て派遣が開始された第一期の琉球官生は、どの時期まで派遣され国子監に在学し続けたのであろうか。従来の研究では、『明実録』系の史料に基づいて、洪武二五年(一三九二)から永楽一四年(一四一六)までとしている。しかしその一方で、第二期以降の琉球官生派遣に際して、「乞ふらくは永楽及び宣徳年間の事(例)に照らし」、「礼部は洪武・永楽・宣徳間の例を按ずるに」という記述が見られ、第一期の琉球官生は宣徳年間(一四二六~三五)まで存在していたことになっている。『明実録』が琉球官生の派遣・帰国について完全に網羅しているとは言い難い以上、従来の見解は再検討される必要があろう。
『南雍志』儲養考の儲養生徒之名数の条には、年度毎の国子監生の人数、内訳が収録されている。その内容をまとめたものが、次頁に挙げた別表である。この表は年度毎に全監生の人数、官生の人数、官生の代表としてその名前が明記されている者(以後官生筆頭者と呼ぶ)、官生の項目に付記されている事項(以後官生付記事項と呼ぶ)、『南雍志』事紀或いは『明実録』に見られる琉球官生の派遣・帰省に関連する記事を示したものである。儲養生徒之名数の条によると、洪武二五年(一三九二)から宣徳元年(一四二六)まで、毎年官生筆頭者の名前の前に「琉球国等処」の語句が見られる。同じく記されている官生筆頭者の名前と合わせて見る限り、この期間は琉球官生が南京の国子監に存在していたと考えて間違いあるまい。つまりこの時期が、琉球の官生派遣の第一期ということになる。そしてこの事実は、先に述べた第二期以降の琉球官生派遣の際の記述とも符合する。
別表を見ると、全監生の人数の中でも官生の人数は非常に少ないことがわかる。特に琉球官生が派遣された当初、洪武二六年(一三九三)以降の十数年は一桁に留まっている。洪武二四年には四十五人の官生が確認できるが、これらはほとんどすべてが雲南・四川などの土官が派遣した子弟である。彼等が洪武二四年ないし二五年に相次いで帰国した後、国子監に在学した官生は琉球官生のみであった。このことは国子監に派遣されてきた琉球官生の人数との比較で確認できるが、詳しくは次章で論じたい。儲養生徒之名数の条からは洪武二四年以前の官生の人数を確認することはできないが、前節引用の史料とも照らし合わせると、明代初期において「官生」という用語が示す対象は、品官の子弟というよりもむしろ琉球官生に代表される外夷の子弟であったと考えるべきであろう。
【別表】『南雍志』儲養考上、儲養生徒之名数の条などによる明代初期の琉球官生の在監状況表
五、琉球官生の「帰省」と「復監」
―琉球官生の中琉間往復の現実―
前節で確認したように、琉球官生は洪武二五年から宣徳元年までの三十五年間にわたり国子監に滞在していた。次にこの琉球官生の一人一人について、どのような動きが見られるかを検討していきたい。
従来の『明実録』系史料による研究でも、この琉球官生の動きについて興味深い指摘がなされている。洪武二五年に国子監に入学した三五郎尾は、同二九年(一三九六)二月に帰省することになるが、その年の一一月には再びやってきて、国子監に再入学する旨希望している。この三五郎尾(もしくは三五郎亹と表記)の事例は様々な形で注目を集めているが、彼が帰省した後再び国子監に戻ってきたことに関しては、さしたる検討が加えられてきたとは思えない。
琉球官生が一度帰省した後再び国子監に戻ってくるという事例は『明実録』には他に見当たらないが、『南雍志』を参照すると三五郎亹以外にも同様の事例が確認できる。本節ではこのような琉球官生の動きを個別に追っていくことで、第一期の琉球官生の役割を考えていく際の手がかりとしたい。なお史料上に見られる人名については或いは同姓同名の場合も考えられるが、以下の行論の都合上、同一の人名ないし同一音を表すと思われる人名は同一の人物を示すものとして検討を加えていくことにしたい。
まず第一に挙げるのは前述の三五郎亹(三五郎尾・三五良亹)である。前述の通り彼については『明実録』によって洪武二五年一二月に国子監へ入学し、洪武二九年二月には帰省、そして同年一一月に再大監するという動きが確認できる。しかし彼に関する記事として、『南雍志』事紀の永楽二年(一四〇四)一一月甲子の条に以下の記載がある。
「琉球国中山王の従子三五郎亹等九人、謝恩を以て京師に至り、監に入り書を読まんことを奏請す。之れに従ふ。給賜の其の従人に及ぶこと、一々洪武中の故事の如し。仍ほ工部をして王子書房を監の前に建てしめ、以て之れを居らしむ。」
周知のように、明朝では洪武三一年(一三九八)に太祖洪武帝が崩御した後、その跡を継いだ建文帝の藩王取り潰し政策に対してその叔父に当たる燕王棣が反旗を翻す、いわゆる「靖難の変」が起こっている。その間琉球がどのような対応を取ったのか、『明実録』からは読みとることができないが、三五郎亹等の琉球官生がこの際の政治的混乱を避けて一時的に国子監を離れていたことは十分に想定できる。永楽二年に彼と共に入学した八人の中にも、或いは同様の者が含まれていたかも知れない。この後、永楽三年から同九年(一四一一)に至るまで、「三五良亹」という名が『南雍志』儲養考・儲養生徒之名数の条の中に官生筆頭者として記載されているから、彼は少なくとも永楽九年まで国子監に在学していたと考えられる。
ところがこの永楽年間の三五郎亹の在学が事実だとすると、新たな問題が沸き上がってくる。これは既によく知られていることだが、『明実録』によれば永楽年間の前半期に中山王の使者として、中山王の従子もしくは姪である「三吾良亹」という人物が頻繁に登場する。名前及びその肩書きからして、国子監に在学していた「三五良亹」と同一人物であることはまず間違いない。彼が国子監に在学している期間を永楽二年一一月から仮に永楽九年末までとすると、その間にのべ八回にわたって『明実録』に中山王の使者としての彼の名が確認できる。つまり、彼は国子監に在学している官生でありながら、同時に進貢使節の正使の役割をも果たしていたということになる。このことは特に念頭に置いておく必要があろう。彼が国子監に在籍していた期間は、途中帰省などを挟みながらも、洪武二五年から永楽九年までとして、二十年にも及ぶことになる。
次に挙げるのは李傑である。彼はその名前からして、後の久米村人に相当する渡来中国人と思われるが、『明実録』によると永楽三年(一四〇五)五月に国子監に入学しており、『南雍志』事紀にも同様の記事が見られる。
「琉球国山南王の汪応柤、寨官の子李傑を遣はし、監に赴かせ学を受けしむ。夏衣一襲を賜ふ。」
なお別表にも挙げておいたが、儲養生徒之名数の条の永楽三年の官生付記事項に「新たに収める琉球国一名李傑は、大国山南王の下官李仲の次男に係る」という記述があり、彼の父親が李仲という名であることがわかる。「寨官の子」李傑の父親であるから、仲は寨官であるはずである。また、『南雍志』事紀の永楽六年(一四〇八)四月辛巳の条には次のような記事が見られる。
「琉球官生の李傑、監に在ること将に三年に及ばんとす。其の兄の銘が進貢して京師に至るに因り、帰りて親を省みんことを奏す。礼部は以聞す。之れに従ふ。」
国子監に滞在して三年が過ぎたというのは、帰省を願い出るときの常套文句である。この記述の中で、李傑に兄の銘が存在すること、銘が進貢使節の一行に加わっていたことがわかる。銘が加わっていた進貢使節とは、『明実録』永楽六年三月乙亥の条に見える山南王汪応祖の使者䒶達姑耶等の一行であろうと思われる。ところがその翌年、『南雍志』事紀の永楽七年(一四〇九)一一月己卯の条には次のような記事がある。
「琉球・四川・雲南官民生の李傑等及び其の従人に冬衣・靴韈を賜ふ。時に傑は其の国に親を省みる自り監に復すと云ふ。」
李傑も先の三五郎亹同様、再び国子監に戻ってきていたのである。彼が国子監に戻ってきたのは永楽七年一一月以前だから、帰国した後一年余りの期間をおいて再渡明したことになる。
その四年後、『南雍志』事紀の永楽一一年(一四一三)八月乙未の条には、また興味深い記事が見られる。ただし、永楽一一年の八月に「乙未」の日は存在しないから、恐らく「己未」(一三日)の誤りであろう。
「琉球官生の李傑、其の父仲進貢して京に至るも疾有るに因り、仲を送り福州に至りて監に還り卒業せんことを欲す。礼部は啓を引き、人材田畯喜を遣はして傑を護り福州に送り至らしむ。仲既に舟に登り国に帰れば、傑遂に監に復す。」
ここでまた父の仲が登場する。仲が参加した「進貢」とは、『明実録』永楽一一年八月癸亥の条に見られる山南王汪応祖の使者鄔頼誰結制等の進貢使節を指すのであろう。仲の病気を理由に福州まで同行したいと願い出た李傑に対し、礼部は「啓」を引用して田畯喜なる人物に護送させる処置を執っている。「啓」とは、広く奏疏・公文・書簡を指す用語であるから、このような事例にも前例があったのかも知れない。また、仲を送り赴く目的地が泉州ではなく福州であるという点も注目される。
その後『南雍志』によって彼の名を確認することはできない。ただ『明実録』洪煕元年(一四二五)二月辛酉の条に中山王世子尚巴志の通事としてその名が確認できる。『明実録』の朝貢記事に通事の名が記されることは希であり、正使格の人物に何らかの事故があったとも考えられるが、この回の朝貢に限らず、彼は通事役として常時進貢業務に携わっていたとみなすのが妥当であろう。李傑に関する『南雍志』の史料は断片的ながらも、『明実録』ではうかがうことのできない下位のレベルの状況を我々に示してくれるという意味で、非常に貴重なものである。李傑とその父の仲、兄の銘は、後の久米村人に相当する朝貢業務のスペシャリストの役割を果たしていたとみなすべきであろう。
三番目に挙げるのは模都古である。彼の国子監入学については『明実録』の永楽八年(一四一〇)六月庚子の条に記事が見られる。
「是の日、琉球国の官生模都古等二人、国子監に入りて学を受く。皇太子は悉く巾衣・靴絛・衾褥・帳具を賜はんことを命ず。」
ところが『南雍志』事紀には永楽八年四月丁未の条に以下のような記事が見られる。
「礼部啓言すらく、琉球国・四川・雲南の官民生李傑等及び其の従人、例として夏衣を賜ふ。惟だ琉球官生の模都古等は其の国にて親を省みる自り復監し、妻子・女伴六人を挈帯するも、未だ給賜有らず。皇太子は工部に命じて、亟かに製りて之れを給せしめ、仍ほ悉く巾衣・靴絛・衾褥・枕簟を賜ふ。」
この記述によると、『明実録』に見られる六月以前に模都古は国子監に滞在しており、しかもそれは一度帰省した後に戻ってきたとしている。琉球官生は基本的に三年の在学の後帰省するから、永楽四年(一四〇六)の石達魯等の国子監入学の際に一緒に入学した可能性が高い。そうすると、模都古は永楽四年に入学し、約三年の国子監の滞在の後帰省、そして永楽八年四月の直前に国子監に戻ってきていたと考えられる。しかもこの際、「妻子・女伴六人」を伴ってきたといい、彼女たちに対しても悉く給賜があったという。当時国子監生がその妻子を帯同して国子監に入ること、もしくは宿舎に泊めることは監規によって禁止されていた。しかも琉球から海を渡って南京の国子監までやってきた官生が妻子や女の召使いを連れて来るというのは、やはり尋常なことではない。少なくとも専任の教習の下で修学に専念したとされる清代の琉球官生のイメージからは、到底理解できない事態である。
『南雍志』にはその三年後、永楽一一年(一四一三)五月庚寅
の条に模都古等三人の帰省の記事が見られる。
「琉球の官生模都古等三人、帰省せんことを奏乞す。上は礼部臣に謂ひて曰く、遠人の来学すること、誠に美事たり。親を思ひて帰るも、亦た人情なり。宜しく厚く賜ひて以て之れを栄へしめよ。遂に綵幣表裏・襲衣及び鈔を賜ひ、道里の費と為さしむ。仍ほ兵部に命じて、駅伝を給ふ。」
この記事については『明実録』の同日の条にほとんど全く同じ記事が見られる。『南雍志』編纂時に『明実録』を参照したとは思われないから、この記事は南京国子監に残されていた档案を参照して記されたと考えるべきであろう。記事の内容自体は『明実録』によってよく知られているが、これまで見てきた事例からして、この後彼が再び国子監に戻ってきた可能性も十分に考えられる。しかし以上確認しただけでも、一度の帰省を挟んで、恐らくは永楽四年頃から同一一年まで彼が「官生」であったことがわかる。
四番目に挙げるのは周魯毎である。彼については『南雍志』事紀の永楽一一年(一四一三)二月壬子の条に次のような記述が見られる。
「琉球国中山王の思紹、使を遣はして寨官之子鄔同志久・周魯毎・恰那晟其の三人を送り、監に入れ学を受けしむ。給賜すること例の如し。」
『明実録』永楽一一年二月辛亥の条にもほぼ同様の記事が見られる。彼に関する記事はその後しばらく途絶えるが、『南雍志』事紀の永楽二〇年(一四二二)一二月壬辰の条に彼の帰国の記事が登場する。
「琉球の官生周魯毎・周弟、監に在ること三年、例として当に親を省みて国に帰るべし。礼部以聞す。上は之れに従ひ、其の国の使臣還るの日を候ちて始めて行はしむ。」
周弟については、『南雍志』儲養考・儲養生徒之名数の条の永楽一六年(一四一八)の官生付記事項に「琉球国一名、周弟」の記述が見られ、この年に派遣されたことがわかる。だとすれば実際に周弟が国子監に滞在した期間は四年になってしまうが、周魯毎も一度の帰省の後、周弟と共に永楽一六年に再入監したと考えるのが妥当であろう。
だが、周魯毎等はその後も南京国子監に残り続けた。『南雍志』事紀の永楽二一年(一四二三)四月甲寅の条には次のように記されている。
「四川・雲南の官民生駱進等六十一人、例として当に夏衣を給賜すべし。其の琉球の官生周魯毎等は尚ほ猶ほ未だ行はず。宜しく一体に給賜すべし。自後逓年の冬夏の衣服は、皆南京礼部より南京工部に行文して成造せしめ、時に依りて給賜し、奏請を待たず、著して為に馳奏し以聞せしめよ。上之れに従ふ。」
更に『南雍志』儲養考・儲養生徒之名数の条によると、永楽二二年(一四二四)まで周魯毎の名が官生の筆頭者として記載されている。周魯毎等が一緒に帰国するはずだった「其の国の使臣」は『明実録』永楽二〇年一〇月癸巳の条に見える中山王思紹の使者模都古であろうと思われるから、一二月の帰省許可からさほどの間をおかずに帰国することは可能であったと思われる。ともあれ、周魯毎は永楽一一年から同二二年まで、帰省を挟んで一一年間国子監に在籍していたことになる。
最後に挙げるのは韓寧毎である。彼の名前は『南雍志』儲養考・儲養生徒之名数の条にしか見られない。同条の永楽四年(一四〇六)の官生付記事項には、「琉球国中山王下の石達魯より韓寧毎等に至る六名」と記されており、この年に彼が国子監に入学したことがわかる。以後彼の名前は姿を消すが、時代が下って洪煕元年(一四二五)、宣徳元年(一四二六)になると、官生筆頭者として彼の名前が確認できる。同一人物とすれば二〇年間にもわたって国子監に在籍していたことになる。これまでの事例から、約三年に一度は帰省していたと考えられるが、それにしても非常に長期である。
以上、特に注目に値すると思われる五人の琉球官生を取り上げてその動向を追跡してみたが、むろんそれ以外の琉球官生についても、『南雍志』は様々な情報を与えてくれる。例えば、『南雍志』事紀の永楽七年(一四〇九)閏四月の条には次のような記事が見られる。
「琉球の官生石達魯、監に在ること三年、例として当に親を省みるべく、王舅仁悦慈と同に国に帰らんと欲す。礼部は事の外夷に属するを以て、馳駅以聞す。上之れに従ふ。」
内容自体は石達魯の帰省の記事であるが、この中に洪武二五年に派遣された官生である仁悦慈(『南雍志』では「人悦慈」とも表記)が王舅として進貢使節の正使を務めていたことが読みとれる。この回の進貢に相当する記事は『明実録』永楽七年四月癸未の条に見られるが、正使の名前は記されていない。このように『南雍志』の史料によって『明実録』の朝貢記事を補完できるということにも注意を払う必要がある。また、琉球官生の在監状況に注目してみても、先の石達魯が永楽四年に入監した後、永楽七年に帰省したことが確認できる他、永楽一一年(一四一三)に入監した鄔同志久は儲養考・儲養生徒之名数の条によって永楽一五~一七年(一四一七~一九)の在監が確認できる。また永楽一二年(一四一四)の官生付記事項に鄔同志久等と共にその名が記されている散皆益(久)は、同一三・一四年(一四一五・一六)の官生筆頭者としてその名前を残している。『明実録』でその在監が確認される益智毎は、永楽一七年(一四一九)の官生筆頭者として「益致毎」という名で記録されている。
もちろん『南雍志』によっても琉球官生の動きを完全に捉えることはできないが、これまでの検討によって、幾つかの特徴をつかむことはできる。
まず第一に、確認しうる限りにおいてではあるが、洪武二五年の琉球官生派遣開始以来宣徳元年に至るまでの間、南京の国子監には必ず琉球官生が滞在している状態が続いていたということである。『南雍志』儲養考・儲養生徒之名数の条を見ても、官生の記述自体が脱落している永楽五年(一四〇七)を除けば、筆頭者の名前は必ず「琉球国等処」の何某とあり、琉球官生の滞在を示している。後代の琉球官生はそれぞれの派遣が単発であり、国子監に琉球官生が滞在していない時期の方がはるかに長いから、このことは注目すべき事実といえよう。
第二に、長期にわたって国子監に滞在していた琉球官生が多数確認できるということである。途中に帰省の時期を挟むとはいえ、三五郎亹や韓寧毎のように滞在期間が二十年間にもわたる事例は、後代の琉球官生の事例と比較して異常というべきであるし、十一年間の周魯毎や八年間の李傑、七年間の模都古等も従来考えられていたよりはるかに長期にわたって滞在していたのであった。また『明実録』同様、『南雍志』事紀も琉球官生の入監・帰省に関わる記事をきちんと網羅しているとは到底言い難いから、この時期の琉球官生は実際には更に長期にわたって国子監に滞在していた可能性を意識しておく必要があろう。そのように考えれば、冒頭で挙げた伊波氏の「学に馴れない貴公子の連中は到底長期の修学にたへないで」という見解は全く事実に反することになる。
第三に、長期にわたって国子監に滞在していた琉球官生も、三年が過ぎると決まったように帰省を願い出、帰省して再び国子監に戻ってくるということである。これまで見てきた帰省の記事のほとんどに「監に在ること三年」という表現が見られることは繰り返すまでもあるまい。これについては洪武一六年(一三八三)には両親が健在である国子監生は入学して三年が過ぎたら期限を立てて帰省させよという命令が出されているから、この命令に則って琉球官生も三年毎に帰省を願い出たと考えられる。ただし、琉球官生の場合、帰省するには必ず海を渡らねばならず、果たして他の国子監生のように帰省の際に期限が立てられたかどうかは定かではない。問題はそうして帰省した琉球官生が再び国子監に戻ってくるということである。当時の交通事情を考えれば、南京と琉球の間を一往復するのは決して容易なことではない。何故当時の琉球官生がこのようなリスクを背負ってまで三年毎に琉球と国子監の間を往復したのかということについては、次の章に論を譲りたい。
第四に、三五郎亹のような、国子監の官生でありながら同時に進貢使節の正使を務める人物が存在するということである。こうした状況が生じた最大の理由は、彼の肩書きにあるだろう。つまり、彼は初め山南王承察度の姪であり、次いで中山王察度の従子となり、さらに中山王武寧の姪、そして中山王思紹の姪となっているが、「王の姪(従子)」であるという点では一貫していた。琉球官生派遣開始の経緯で見たように、派遣されるべき官生は寨官の子弟であったから、王の姪であった三五郎亹は他の官生より一段高い位置付けがなされたと考えられる。そのことは洪武二九年二月の帰省の際、寨官の子の実那盧亹等への下賜品が鈔二十錠・綵段一表裏だったのに対し、三五郎亹への下賜品は白金七十両・綵段六表裏・鈔五十錠と破格であったことからも裏付けられる。そのような待遇を受けていたからこそ明朝も彼を正使として認め、また琉球側も彼に対して王の姪という肩書きを保障し、正使の役割を委ねたのであろう。彼の事例は国子監に長期滞在する官生が進貢業務の一端を担っていたことを示す貴重な実例ということができよう。
第二章 第一期琉球官生派遣の意義
一、琉球から見た派遣官生の役割
従来の研究において、第一期を含めた琉球の官生派遣は中国の文化吸収、もしくは進貢業務に必要な語学能力を修得するための手段として捉えられてきた。しかし前章の『南雍志』を主とした検討によって第一期の琉球官生像が覆された以上、この従来の見解も再検討されねばならないだろう。本節では、明代初期に存在した他の朝貢国や土官からの官生派遣の事例を適宜参照しつつ、この時期の琉球官生の役割について考察を加えたい。
『南雍志』儲養考の儲養生徒之定制によると、明代初期には琉球の他に高麗・日本・雲南囉囉等土官からも官生が派遣されていたという。その内日本から派遣された官生については、『明実録』『南雍志』共にごくわずかな記事を載せているに過ぎない。『明実録』には、洪武二二年(一三八九)一〇月丁酉の条に「日本生滕佑壽等」への給賜の記事があり、翌二三年(一三九〇)九月の条には「日本国王子滕佑壽」への給賜の記事が見える。さらに翌二四年(一三九一)五月乙巳の条には「滕祐壽」を観察使に任命するという記事が見られる。『南雍志』では事紀・洪武二三年五月辛亥の条に日本生が「入監」したという記事が見られ、洪武二二年に既に日本生の存在を示す『明実録』と食い違うが、日本生の存在自体は疑うべくもない。ただし、この時期の明朝と日本との関係は非常に悪化しており、そういった状況下で何故日本から官生が派遣されたのかは不明である。
高麗は宋朝以来中国の国子監へ留学生を多数派遣してきた経緯もあり、明朝成立直後には既に官生派遣を行なっていた。『高麗史』世家の恭愍王一九年(一三七〇・洪武三年)九月辛丑の条によると、この時に朴實・金濤・柳伯濡の三人を「挙子」として明朝へ派遣している。『高麗史』には国子監入学という表現は使われていないが、『南雍志』儲養考・儲養生徒之定制の条には金濤等が国学に入り学習したとあるから、国子監への留学生であったことは間違いない。ただし、彼等高麗からの留学生の目的はあくまでも科挙受験にあったらしく、翌洪武四年(一三七一)の科挙においては金濤のみが進士となり、県丞の役職を与えられたものの、中国語が不得手なことと親が年老いていることを理由に辞退し、他の留学生と共にすぐに帰国している。翌洪武五年(一三七二)に高麗は再び国子監への留学生を派遣するが、洪武帝は外国の子弟を受け入れることは親子を引き離すことになり、そのようなことは強制できないとして、遠回しに拒絶している。その理由としては前年金濤が進士に及第しながら官職に就こうとせず帰国してしまったことに洪武帝が失望した結果とも考えられなくはないが、むしろその頃から現実問題となり始めた遼東を巡る両国の対立の影響が大きいように思われる。以後高麗から国子監への留学生を派遣した事例は確認できない。
雲南・四川などの土官からもその子弟が派遣されたことは前述の通りである。国子監では官生となった土官子弟のみならず、彼等の支配地域から選抜された民生も同様の扱いを受けていたが、これらの民生については取りあえず検討から除外したい。土官から派遣された官生の存在は、洪武一五年(一三八二)の明朝による雲南平定の後に確認できる。個別の事例は多数存在するが、その中でも特に洪武二三・二四年(一三九〇・九一)に派遣が集中している様が見て取れる。これらの事例を並べてみると、この時期に官生を派遣した土官は、すべて四川・雲南・貴州が境を接するごく限定された地域に集中していることがわかる。この地域では洪武二一年(一三八八)六月に東川諸蛮の反乱が起こっており、それに対して明朝は頴国公傅友徳等を派遣して鎮圧に当たらせている。翌二二(一三八九)年三月、明朝は反乱を鎮圧した傅友徳等の軍を湖広・四川の各衛に分駐させるという行動に出た。これらの駐屯地のほとんどは官生派遣を行なった土官の支配地域とは重ならないが、その地域を囲むように配置されていた。この地域での東川諸蛮に続く反乱の発生を想定し、それを未然に防ぐためにこの地域の少数民族を威圧することがこの駐屯の目的であったことはほぼ間違いない。多賀周五郎氏は「明太宗の学校教育政策」の中で、永楽四年(一四〇六)の車里・木邦・麓川等処宣慰使の刀暹答からの子弟派遣の事例を引いて、これが国子監への留学生派遣に名を借りた人質であることを永楽帝が見破り、人質を取る意志がないことを告げて帰らせたという記述から「これは、太宗の意向に、留学生を人質的に取り扱う意志がないことをしめすものである」と結論づけている。だがこのエピソードは、むしろ当時において国子監への留学生派遣が人質を差し出す目的で行なわれていたことを示すものであり、土官からの官生派遣もそのような動機から行なわれていたことは間違いあるまい。
これら他の朝貢国・土官から派遣された官生達と琉球官生を比較するとき、琉球官生の派遣の中に人質を差し出すといった意図は想定できない。何故ならば、琉球には雲南・四川等の土官における傅友徳軍駐屯のような明朝の脅威が存在せず、従って人質を差し出す動機が存在しないからである。また人質を差し出すのであれば、派遣されるのは王族の子弟であるべきで、基本的に寨官の子弟を派遣していたという状況からも琉球官生が人質としての意味を持っていなかったことは明白である。
だとすれば、琉球官生の派遣の動機は一体どのようなものだったのであろうか。この問題を考える際手がかりとなるのが、前章で明らかになった琉球官生の在監状況である。琉球官生個人が長期にわたって国子監に滞在しているのみならず、第一期全体で見ても、官生派遣開始以後、常に国子監に琉球官生か滞在する状態が保たれていた。これに比べて洪武二三・二四年に派遣された雲南・四川官生たちは、一、二年の内に潮が引くように国子監を離れている。彼等の帰郷について『明実録』にはさしたる記載はないが、『南雍志』事紀は雲南・四川官生の大量帰郷の事実を記載している。『南雍志』儲養考・儲養生徒之名数の条に記載されたこの時期の官生の在監数もそれを物語っている。洪武二四年の在監官生は四十五人であり、雲南・四川から大量に官生が派遣された事実を反映しているが、琉球官生の派遣が開始された翌二五年には十六人、更に同二六年には四人と大きく減少してしまう。琉球からは洪武二五年に中山から日孜毎・闊八馬・仁悦慈、山南から三五郎尾・実他慮尾・賀段志が、翌二六年には中山から段志毎が派遣されており、洪武二六年の四人はすべて琉球官生であったと断定できる。以後洪武年間の官生はすべて琉球官生であったと考えられる。つまり、雲南・四川から大量に派遣された官生は洪武二五年の内にすべて国子監を去っていたのである。彼等と比べてはるかに長期にわたって、しかも切れ目なく国子監に常駐し続けた琉球官生の特異性は、科挙受験ののち間をおかずに帰国した高麗の留学生の事例と比べても明らかである。
琉球官生が長期にわたって国子監に滞在しなければならなかった理由とは一体どのようなものであろうか。注目されるのは、二十年にわたって国子監に籍を持っていた三五郎亹の事例である。彼が官生でありながら同時に進貢使節の正使として史料に名を残していることは、前章で述べた。彼のケースは王の従子という肩書きを考慮する必要があり、決して一般化して考えることはできないが、官生の派遣と朝貢業務の結びつきを示しているという点は無視できない。国子監に籍を置き京師に長期滞在することが、彼の朝貢業務の遂行にとって有利だったと考えられる。『明実録』では進貢使節の正使もしくはそれに準ずる地位の人物の名前しか記していないので、三五郎亹以外の官生が朝貢業務の一端を担っていたとしても記録に残る可能性はまずない。しかし京師に長期滞在する官生の存在が、京師の事情・情勢を詳細につかみ、朝貢業務を円滑に遂行していく上で非常に有益なものであったことは十分に想定できる。田名真之氏によると、当時の朝貢使節の規模は後代のそれよりもかなり大きなものであった。このような使節が毎年のように京師を訪れる状況下では、琉球官生のサポートは非常に有用なものであったに相違ない。彼等は明朝との朝貢業務を通事役などの形で補完するのみではなく、使節の私貿易を含む交易活動においても活躍したものと考えられる。長期滞在の利点としてはもう一つ、語学修得に絶好の環境であることも挙げられるが、直接朝貢業務を担うに足る語学能力を持つ人材を養成するのが主目的であるならば、同じ人物を長期にわたって派遣するよりもむしろ派遣期間を数年に限定し、より多数の官生を派遣する方が効率がよいはずである。朝貢業務との関わりで官生派遣を考えるならば、彼等の国子監在学の意義を語学能力の修得のみに限定せず、国子監に滞在すること自体に注目すべきであろう。琉球官生の派遣・在監の状況を踏まえるならば、その意義は琉球の朝貢業務を補完する、いわばサポーターとしての役割に求められるべきであり、語学修得は第二義的な位置付けに留まるものと考えられる。
以上のように考えるとき、前章で確認した琉球官生の帰省→復監の動きについても再考する必要がある。先に述べたように両親が健在である国子監生は入学して三年経てば親元に帰省せしむべしとの命令が出されてはいる。しかしその意図からして、この命令が三年在学した国子監生を強制的に帰省させるものであるとは考えにくい。これまで見てきた事例も、多くの場合琉球官生の側から帰省を願い出るという形を取っている。琉球官生にとって親元へ帰省するということは危険な航海を意味するのであるから、仮にこの命令が強制力を持ったとしても琉球官生が素直に従うとも思えない。むしろ、琉球官生にとって相応の利益をもたらすが故に、この三年毎の帰省が行なわれたと考えるのが妥当ではなかろうか。その場合彼等の移動に伴う個人レベルの交易を考慮に入れる必要があろう。当時の琉球の朝貢使節が、国王・世子の進貢物・附搭物の他に各個人で品物を携帯し貿易を行なったことはよく知られているが、琉球官生の中琉間往復の際にも同様のことが行なわれていたと考えるべきである。なお、前章で挙げた永楽一一年の李傑の事例についても、父が病気となったので見送るという理由で国子監を離れているが、彼の場合も永楽七年の復監から約四年が経過しており、親元に帰省するという意味では他の三年帰省の事例と同様である。或いは彼も福州との往復の間に何らかの交易活動を行なっていたのかも知れない。ともあれ、琉球官生はこのように三年帰省の規定を逆手にとって交易活動に従事していたものと思われる。
以上のように、琉球官生は京師の国子監に長期滞在することができるという利点を最大限生かした活動を行なっていたと思われるが、では何故、宣徳元年を最後に琉球官生の存在が確認できなくなるのであろうか。その最大の原因は、北京遷都による朝貢使節の目的地の移動に求められよう。もともと永楽帝は外征で南京を留守にし、北京を「行在」と称して滞在することが多かったが、その間も皇太子が代わりに政務を司り、琉球使節も南京にやってきて朝貢を行なっていた。しかし永楽一九年(一四二一)の北京遷都以後、朝貢使節の目的地も南京ではなく、北京に変わる。この後洪煕元年(一四二五)には再び南京が京師となり、正統六年(一四四一)に至るまで北京は「行在」と呼ばれることになるが、その間も実質的には北京が政治の中心であり続け、南京は名ばかりの京師に過ぎなかった。実際、朝貢使節も南京ではなく、「行在」である北京に赴いている。つまり、永楽一九年を境に、朝貢使節の目的地は南京から北京へと移動したのである。
この事態の変化は、琉球官生の存在意義に関わる重大事件であった。朝貢事務のサポーターとしての役割を担っていた彼等にとって、もはや南京の国子監に滞在することはさしたる意味を持たないことであった。その五年後の宣徳元年(一四二六)を最後に琉球官生は南京国子監から姿を消すことになるが、この年は南京還都を推し進めようとした洪煕帝が死去し、南京への実質的な還都の動きに変化が生じた年でもあった。琉球官生派遣の第一期は、このような政治の中心の移動によって幕を下ろされたのである。
このように考えるとき、当然の疑問として、何故琉球官生を北京の国子監に滞在させることができなかったのかという問題が生じてくる。北京遷都の際に、琉球側が琉球官生の北京国子監派遣という手段を模索したことは当然想定しうる。しかし現実はそうならなかった。その理由を考えるためには明朝側の琉球官生に対する姿勢の変化を視野に入れなければならないが、詳しくは次節で検討したい。
二、明朝の外交政策と琉球官生
琉球にとっての官生派遣は朝貢業務を補完する役割を持っていたとしても、一方の当事者である明朝にとっての官生の受け入れが如何なる意味を持っていたかという問題は依然として存在する。前節で触れたように、高麗から派遣された留学生が受け入れを拒否されたという事例が存在する以上、外夷留学生の受け入れを華夷思想に裏付けられた普遍的な事象とみなすことはできない。明朝が琉球官生をどのように位置づけていたかを示す史料として、『明実録』洪武三〇年(一三九七)八月丙午の記事を見てみよう。
「礼部奏すらく、諸番の国の使臣客旅を通ぜず。上曰く、『洪武の初め、海外の諸番、中国と往来し、使臣は絶へず、商賈は之れを便とし、近しき者は、安南・占城・真臘・暹羅・爪哇・大琉球・三仏斉・渤尼・彭亨・百花・蘇門答剌・西洋・邦哈刺等凡そ三十国たり。胡惟庸乱を謀るを以て、三仏斉は乃ち間諜を生み、我が使臣の彼に至れるを紿むく。爪哇国王は其の事を聞知し、三仏斉を戒飭し、礼送し還朝せしむ。是の後、使臣商旅は阻絶し、諸国王の意は、遂に爾くのごとく通ぜざるなり。惟だ安南・占城・真臘・暹羅・大琉球は、入貢してより以来、今に至るまで来庭す。大琉球王と其の宰臣とは、皆子弟を遣はし、我が中国に入りて学を受く。凡そ諸番の国の使臣来たれば、皆礼を以て之れを待す。我が諸番の国を待するの意は薄からざるに、但だ未だ諸国の意は若何なるを知らず。今使を遣はして爪哇国に諭せんと欲するも、三仏斉の中途にて之れを阻むを恐る。聞くに三仏斉は爪哇の統属するに係る。爾礼部は備に朕の意を述べ、暹羅国王に移文して、人を遣はし爪哇に転達して之れを知らしめよ。』是に于て、礼部は暹羅国王に咨して曰く、『天地有る自り以来、即ち君臣上下の分有り、且つ中国・四夷の礼有るは、古自り皆然り。我が朝混一の初めより、海外の諸番、来庭せざる莫し。豈に胡惟庸の乱を造るを意ひ、三仏斉乃ち間諜を生み、我が信使を紿むき、肄行巧詐す。彼れ豈に大琉球王と其の宰臣、皆子弟を遣はし我が中国に入れて学を受けさしめ、皇上は寒暑の衣を賜ひ、疾有らば則ち医に命じて之れを診さしむを知らざるや。皇上の心は、仁義を兼ね尽くせり。皇上は一に仁義を以て諸番の国を待す。何ぞ三仏斉諸国は大恩に背かん。……(後略)』」
文書のやり取りが込み入っているが、この史料によると礼部から暹羅国王へ咨文を送り、暹羅国王から更に三仏斉の宗主国と思われていた爪哇を経て三仏斉に洪武帝の意向を伝えようとしている。礼部から三仏斉へ伝えられるべき内容の中に、琉球からの官生派遣の事例が含まれている点が興味深い。この内容が直接伝えられるであろう暹羅・爪哇・三仏斉はもちろん、その他の海外の諸番の国に対しても、皇帝の寛大さを強調し、朝貢を促すための修辞として琉球官生の事例が挙げられているのである。この史料を読む限り、中華皇帝は朝貢国が臣下の礼を取りさえすれば寛大な待遇でそれに応じることを表明し、その好例として琉球官生を位置づけていると言うことができる。
そもそも朝貢という形態自体が、中国王朝と外夷それぞれとの関係によって実態を様々に変化させるとはいえ、中華の威光を天下に誇示するという性格を持っていたことには異論がないであろう。特に建国当初の段階で多くの朝貢国を集めることは朝廷の正統性を認めさせるためにも重要であり、国内の支配を円滑に進める上で有効であったに違いない。留学生を受け入れるという行為も大筋で同様の意味合いを持っていたのではないだろうか。無論、その時々に訪れすぐに帰ってしまう朝貢使節と、長期にわたって京師に滞在する留学生とでは、その扱いが異なるのは当然である。前節で挙げた高麗の留学生受け入れ拒否の事例も、遼東を巡って高麗と明朝が対立する情勢の中、高麗からやってきた留学生が京師に長期滞在し、諜報活動などを行なうことのできる環境を与えることを洪武帝が嫌ったとは考えられないだろうか。外夷から派遣された留学生の受け入れを拒否した事例としては、他にも洪武一八年(一三八五)の四川建昌衛指揮使の月魯帖木兒が一家を挙げて京師に留まり、その子を国子監に入学させようとした事例が見られる。彼は元朝の遺臣であり、その名からもモンゴル人と推定されるから、明朝も彼を北元につながる要注意人物とみなしていたことは十分に考えられる。やはりその諜報活動を恐れて京師に留まることを許さなかったのではなかろうか。こうした事例に対し、洪武二〇年代にはほぼ朝貢断絶状態にあった日本からの留学生が官生として受け入れられている事例の存在は、その経緯が不明であるとはいえ、興味深い。留学生の受け入れが必ずしも朝貢関係の善し悪しによって左右されないことをこの事例が示している。更に言うならば、明朝は留学生が京師に長期滞在するという側面を殊更に意識し、その受け入れが明朝の支配に不安定要因をもたらすか否かによって対応に変化をつけているように思われる。
このように他の事例と比較する時、琉球官生の受け入れが明朝の支配に不安定要因をもたらすと考えられる条件は見当たらない。まして琉球は明代に入ってから朝貢国に仲間入りした国である。その琉球を手厚くもてなすことは、明朝の中国王朝としての威信を高める上で非常に効果的であり、それは国内支配や対外政策といった現実の政策とも密接に関係するものであった。例えば度重なる海船の支給に見られる琉球に対する破格の待遇は、明朝がその支配を進めていく上で重要な意味を持っていたのである。琉球官生の派遣許可も同様の意図によるものと考えてよかろう。
だとすればなおのこと、北京遷都に伴って琉球官生が北京国子監に入学しなかったことが不思議に思えてくる。琉球官生の存在が明朝の威信を高めるのであれば、彼等を京師に連れてくる方がより効果的であるはずである。だが現実に明朝は琉球官生を北京に滞在させることをしなかった。この事実は明朝の国内支配・対外政策における琉球官生の存在意義の低下を物語るものであるとはいえないだろうか。洪武帝は明朝の創始者であり、また永楽帝は靖難の変で建文帝から帝位を奪った簒奪者であった。よって彼等にとっては、如何にして確固たる支配体制を築き上げるかが最大の関心事となった。民間の自由な交易に制限を加え、華夷秩序を前面に押し出した外交姿勢を採ることも、彼等にとっては自らの正統性を証明し、その支配の正当性を認めさせる重要な手段であり、琉球官生を手厚くもてなすこともその範疇に含まれていたに相違ない。逆に考えれば、明朝の支配体制が一応の完成を見たとき、琉球官生の厚遇は現実問題としてはさしたる意味を持たなくなる。北京への遷都を実行し、その新都に琉球官生を連れていかなかった事実は、明朝の支配体制の確立を象徴する出来事であったのかも知れない。そして、琉球にとっての琉球官生があくまでも京師における朝貢業務のサポーターとしての存在を越えないものであったとすれば、その事実はすなわち琉球官生の派遣中止をもたらすもの以外ではあり得なかったのである。
第一期の琉球の官生派遣が中止されてから五十余年が経過した成化一八年(一四八二)、蔡賓等五人が中山王尚真によって派遣され、第二期の官生派遣が開始されることとなる。しかし彼等の宿舎は「監前」に建てられた「王子書房」ではなく、南京国子監の一番奥の光哲堂であった。この事実も、琉球官生に対する明朝の位置付けの変化を象徴するものといえよう。
むすびにかえて
琉球官生の派遣は第一期が終了した後も、幾度かの中断期を挟みながら琉球が朝貢国としての歴史を閉じる直前に至るまで、約五百年間にわたって実施され続けた。彼等琉球官生の存在が中国王朝と琉球の間の親密な友好関係を象徴するものであることに異議を差し挟むつもりはない。だが、彼等が国子監に入学した留学生であったから、彼等を中国王朝が厚遇したからといって、琉球の官生派遣の意義を彼等の学問にのみ求めようとしたり、琉球官生受け入れの史実を中国王朝の友好的態度の表れとのみ判断するのは危険であろう。琉球の官生派遣は琉球側の朝貢業務遂行上の必要から行なわれ、明朝も彼等の受け入れが自らの支配を強固にする上で役に立つと判断すればこそ彼等を厚遇したのである。そして北京遷都とそれに伴う支配体制の一応の確立が、明朝にとっての琉球官生の存在意義を低下させたと思われる。一方琉球にとっても京師に駐在しない官生をわざわざ派遣する意義が低下したことが、結果として第一期の官生派遣を終了させることとなった。第一期の琉球官生はこのような意味で、まさに明代初期の中琉関係を如実に反映したものであるといえよう。
第二期以降の琉球官生派遣について詳しく述べることはできないが、彼等の派遣は必ず当時の中琉関係の産物であり、派遣する琉球の側にも受け入れる中国王朝の側にもより積極的な意図が見出されるはずである。朝貢国としての琉球の歴史を通して存在した琉球官生の存在意義の変化は、そのままその当時の中琉関係における双方の外交姿勢の変化を示すであろう。その意味で、琉球官生の存在が中国史・琉球史に果たした役割は決して過小評価されるべきではない。
『南雍志』は琉球官生関連の記述という点から評価する限り、必ずしも質・量ともに豊富な史料ということはできないかも知れない。しかし国子監という現場において、琉球官生により近いところで編纂された史料であるという点で、この書物は我々に様々なことを教えてくれる。琉球史研究にとって、『歴代宝案』や清朝の档案史料のように膨大に残されている史料を如何に読み込んでいくかということは確かに至上命題である。だがこれらの史料と同時に、より現場に密着した史料に目を配ることも必要であろう。『南雍志』に限らず、まだまだ多くの漢籍史料の中に、琉球関連の史料が眠っているはずである。それらに目を向けることは『歴代宝案』や档案史料を活用していく上でも必ず重要となってくるに違いない。
なお、この論文を作成するに当たり、京都大学人文科学研究所により提供された書誌データペースであるCHINA3を利用した。
註(1)従来の諸研究によると、第一期は一三九二年(洪武二五)から一四一六年(永楽一四)まで、第二期は一四八二年(成化一八)から一五八七年(万暦一五)まで、第三期は一六八六年(康煕二五)から一七六四年(乾隆二九)まで、第四期は一八〇二年(嘉慶七)から一八七三年(同治一二)までということになっている(ただし、ここに挙げた下限は最終回派遣官生の帰国年もしくは国子監に存在したことが確認される最終年を指す)。この内第一期の下限年については本論考の検討対象となる。
(2)『伊波普猷全集』第一巻、平凡社、一九七四年、所収。
(3)伊波前掲論文、一二二頁~一二三頁。
(4)『真境名安興全集』第一巻・第二巻、琉球新報社、一九九三年、所収。
(5)『仲原善忠選集』上巻、沖縄タイムス社、一九六九年、所収。
(6)『中山世譜』には一七〇一年編纂の蔡鐸本と一七二五年編纂の蔡温本が存在するが、ここで『明実録』系史料とするのは、『中山沿革志』を用いて蔡鐸本を改訂した蔡温本である。従って蔡鐸本『中山世譜』及びそれ以前に編纂された向象賢の『中山世鑑』の琉球官生関連記事は区別して検討すべきであるが、両書の成立年次が『明実録』、『南雍志』に比べてかなり下ることから、本論では特別な場合を除き触れないことにする。
(7)『お茶の水女子大学人文科学紀要』、第二四巻第二分冊、一九七一年三月、所収。
(8)むろん従来の官生研究において、『明実録』系史料以外の史料が用いられなかったという訳ではない。前掲の伊波・真境名・仲原の各氏は『明実録』の史料を直接扱うことができない状況にあり、主に『中山世譜』、『中山沿革志』、『明史』琉球伝、『琉球入太学始末』等の史料を駆使して第一期の官生派遣の状況を検討している。前二者は本論中で述べたとおりだが、『明史』琉球伝は『明実録』を基本的に参照しながら同時に『明実録』に見られない記述を幾つか含んでいる。また『琉球入太学始末』は、清代初期の第三期の琉球官生派遣が開始された直後にもと国子監祭酒の王士禛によって著されたものだが、明代の琉球官生に関連する記述について「査太學志載……」とし、「太学志」なる書物を参照している。この「太学志」とは『皇明太学志』を指すものと思われるが、管見の限りではこの書物は日本に存在しないようである。『琉球入太学始末』は後に触れる永楽二年の三五良亹ら九人の入監を記載しており、『南雍志』同様「太学志」も国子監関係の記録・档案に基づいた書物であると思われる。しかし、和田氏によって『明実録』の記事を直接しかも簡便に利用できる環境が実現すると、これら『明実録』によって裏付けられない記述は無視されるか、或いは触れられるにしても『明実録』の記事に比べて軽視されるようになった。徐玉虎氏「明琉球官生入太学事蹟考実(上・下)」(『東方雑誌』復刊第一九巻第一〇期・第一一期、一九八六年四月・五月、所収)は『琉球入太学始末』の記事を検討の対象に加えておらず、また『中山世譜』蔡鐸本或いは『中山世鑑』の記事には触れているが、あくまでも『明実録』の記述を重要視し、『明実録』と合わない記事に対して疑問を投げかけている。
(9)江蘇省立国学図書館影印本と比較すると、多少の誤字・脱漏があり、また図を欠いているが、テキストの体裁自体は同一である。四巻本の巻一の末尾に「光緒廿九年冬十一月国子祭酒毓隆借鈔一分〈卅年四月還〉」「道光三年秋七月国子典簿葉志□借鈔一分」という書き込みがあることから、少なくとも道光三年(一八二三)以前に嘉靖二三年序刊本から筆写された可能性が高い。
(10)例えば、喜舎場一隆氏「琉球国の官生について」(『戦国織豊期の政治と文化』続群書類従完成会、一九九三年、所収)、六一五頁。伊波氏の表現は、その文意のみに注目すれば必ずしも史料用語としての「官生」を定義づけるものではないが、「官費留学生」の「官」と「生」の傍らに丸をつけており、「官生」イコール「官費留学生の略称」という見解を表している。
(11)仲原前掲論文、五三〇頁。
(12)『沖縄文化研究(法政大学沖縄文化研究所紀要)』一七、一九九一年三月、所収。
(13)『南雍志』、儲養考上(巻一五)、進修本末の条。原文は「太祖高皇帝初定國子、爲官生・民生二等。官生取自上裁、民生則由科貢制也。」
(14)同書、同巻、儲養生徒之定制の条。原文は「洪武元年、生徒選入國子學者、品官子弟爲官生、民間俊秀爲民生。」
(15)同書、同巻、同条。原文は「官生分二等。一曰品官子弟。二曰外夷子弟。品官自一品至七品、皆得廕敍。然皆出自特恩、無敢陳乞者。稽之故牘、無所於徴。惟洪武末、故尚書呉雲子黻、廕國子生、以其死事雲南、乃䘏典也。宣徳中大理寺卿湯宗子沐・正統初檢討掌助教事王仙會子旒等、始乞恩得入監。……」
(16)『続文献通考』、巻四七、学校一。原文は「自是、日本・琉球・暹羅諸国、皆有官生入監讀書。朝廷輒加厚賜、并給其從人。雲南・四川等土官、時遣子弟・民生入監者甚衆、給賜與日本諸國同、監前別造房百間居之。……蔣一葵『長安客話』曰、國初、高麗遣金濤等入太學。其後各國及土官亦皆遣子入監、監前別造房居之、名王子書房。……」。ただし、ここに挙げられている「暹羅」は、「囉囉」の誤りであろうと考えられる。『万暦大明会典』、巻二二〇、国子監の条を参照すると、「凡日本・琉球・暹羅諸國官生。洪武・永樂・宣徳間、倶入監讀書。賜冬夏衣・鈔・被・靴襪、及從人衣服。成化・正徳中、惟琉球官生有至者。或五名、或三・四名、倶入監。」とあるが、この記述の基となったと考えられる『正徳大明会典』、巻一七三、国子監の条には「洪武・永樂・宣徳間、日本・琉球・囉囉諸國官生、入監讀書。成化間。琉球國官生、入監。」「凡日本・琉球・囉囉諸國官生、倶賜冬夏衣・鈔・被・靴韈、及從人衣服。」とある。つまり、『正徳会典』では「囉囉」となっている箇所を『万暦会典』では「暹羅」と読み替えているのである。「囉囉」とは現在イ族・ロロ族と呼ばれる少数民族を指す。『万暦会典』の編者は日本・琉球と「囉囉」が並んでいるのを『正徳会典』の誤りとみなし、「暹羅」と読み替えたのか、或いは単なる筆写時のミスなのかはわからない。ただし、暹羅から派遣された官生の事例が確認できないこと、囉囉官生については雲南・四川などの土官から派遣された事例がいくつも確認できることから、暹羅から来た官生は存在しなかったと考えてよかろう。
(17)例えば、『明太宗実録』、永楽一〇年六月癸亥(一〇日)の条。「賜国子監琉球國・雲南・四川官民生懐徳等一百三十六人夏布・襴衫・絛靴。」。この記事に見られる「官民生」という用語について、和田前掲史料集は疑問を投げかけ、「官民」の語を「土官」の誤りではないかとしているが、これまで見てきたように「官民生」で何等問題はない。
(18)『南雍志』、事紀一(巻一)、洪武二四年三月辛卯(四日)の条。原文は「『南雍志』中の琉球官生関連記事」(以後「記事」と略称)(A一)参照のこと。
(19)「寨官」という用語は、琉球のグスクの主を表すものとして大筋で認められているが、異論もある。だが『明実録』による限り、少なくとも琉球関連の記事において「寨官」という用語は洪武二五年の官生派遣記事以前には見られない。その前年の諭旨に「寨官」の用語が存在する以上、そこに琉球側の働きかけがあったと見るのが自然であろう。
(20)なお、徐氏前掲論文(上)は三六頁で琉球官生派遣の開始に関連して、向象賢の『中山世鑑』及び蔡鐸本『中山世譜』の記事を引用している。「明洪武二十二年己已、中山王察度遣子弟、入國學讀書習禮。是球人入唐始也。」(『世鑑』)。「明洪武二十二年己巳、初遣子弟、入監讀書。」(『世譜』)。
これらの記事について、徐氏は「異説」とのみ記しているが、或いはこの記事は洪武二四年の派遣許可以前に行なわれた琉球側の官生派遣要請の動きを示すものかも知れない。
(21)『南雍志』、事紀一、洪武二六年七月乙卯(一二日)の条。原文は「言官劾、祭酒胡季安受外夷子入學束修。季安請罪。上察而宥之。」
(22)外夷の子の「束修」を受け取った祭酒の胡季安は、『南雍志』事紀によると、洪武二四年二月戊午朔(一日)に試祭酒となり、翌二五年正月癸未朔(一日)に祭酒に任じられているから、二四年三月の琉球官生派遣許可の決定に関与し、それに対して謝礼を受け取った可能性も否定できない。しかし、この謝礼はむしろ琉球官生の今後の活動のための付け届けであったように思われる。
(23)『歴代宝案』校訂本、第一冊、一-一八-〇一。
(24)『明憲宗実録』、成化一八年四月甲辰(六日)の条。
(25)例えば生田滋氏「琉球国の『三山統一』」は、三五郎亹の肩書きが山南王承察度の姪から中山王察度の従子、更に中山王武寧の姪と変化していることに注目し、この三者が兄弟であったと結論している。それに対して和田久徳氏「琉球国の三山統一再論」は山南王の姪の「三五郎尾」は官生であり、中山王の姪の「三五郎亹」は使者であって、名前の漢字も書き分けられていることから別人であるとされている。両者の主張の妥当性はともかく、この人物が山南と中山の関係を考える上で注目に値するということは確かであろう。
(26)『明太祖実録』、洪武二五年一二月庚申(一四日)の条。「琉球國山南王承察度、遣使南都妹等、貢方物。并遣姪三五郎尾及寨官之子實他盧尾・賀段志等、赴國子監讀書。詔賜三五郎尾等鈔各五錠・襴衫・緇巾・皀絛・靴韈并文綺・紬絹衣各一襲。」
同書、洪武二九年二月戊申(二〇日)の条。「詔遣國子監琉球生三五郎亹等歸省。賜三五郎亹白金七十兩・綵段六表裏・鈔五十錠、寨官子實那盧亹等鈔二十錠・綵段一表裏。」
同書、同年一一月戊寅(二四日)の条。「琉球國山北王攀安知、遣其臣善佳古耶等、中山王世子武寧、遣其臣蔡奇阿勃耶等、貢馬三十七匹及硫黄等物。并遣其寨官之子麻奢理・誠志魯二人、入太學。先是、山南王遣其姪三五郎亹、入太學、既三年歸省。至是、復與麻奢理等偕來、乞入太學。詔許之、仍賜衣巾・靴韈。」
(27)『南雍志』、事紀二(巻二)、永楽二年一一月甲子(二六日)の条。原文は「記事」(A九)参照のこと。
(28)『明太宗実録』永楽三年三月甲辰(九日)の条、同年同月癸亥(二八日)の条、永楽四年三月壬辰(二日)の条、永楽五年四月乙未(一一日)の条、永楽八年三月辛未(五日)の条、同年一二月丙辰(二四日)の条、永楽九年二月癸已(二日)の条、同年一一月辛巳(二四日)の条。うち永楽三年三月癸亥の条と永楽九年二月癸巳の条は賜宴の記事であり、この間に彼を正使とする朝貢使節は計六回「派遣」されたことになる。なお、永楽三年一二月戊子(二六日)の条、永楽四年正月甲午(三日)の条(前条と同じ使節の可能性大)に見られる朝貢使節は使者の名前が記されていないが、或いは三五郎亹が正使であった可能性がある。
(29)『南雍志』、事紀二、永楽三年五月乙巳二一日)の条。原文は「記事」(A一〇)参照のこと。また『明太宗実録』、永楽三年五月乙巳(一一日)の条。
(30)『南雍志』、事紀二、永楽六年四月辛巳(三日)の条。原文は「記事」(A一五)参照のこと。
(31)同書、同巻、永楽七年一一月己卯(一一日)の条。原文は「記事」(A一八)参照のこと。
(32)同書、同巻、永楽一一年八月乙未(八月に乙未はない。「己未」の誤りとすれば一三日)の条。原文は「記事」(A二五)参照のこと。
(33)『明仁宗実録』、洪煕元年二月辛酉(二一日)の条。原文は「故琉球國中山王思紹世子尚巴志、遣通事李傑、貢方物。賜鈔幣表裏。」
(34)『明太宗実録』、永楽八年六月庚子(五日)の条。「是日、琉球國官生模都古等二人、入國子監受學。皇太子命悉賜巾・衣・靴絛・衾褥・帳具。」なおこの記事について、和田氏は「二人」ではなくて「三人」ではないかとされている。恐らくは永楽一一年の帰国の記事との比較で推定しているのであろう。
(35)『南雍志』、事紀二、永楽八年四月丁未(一一日)の条。原文は「記事」(A一九)参照のこと。
(36)『明太宗実録』、永楽四年三月壬辰(二日)の条。「暹羅國王昭禄群膺哆羅諦刺、遣使奈必、琉球國中山王武寧・山南王汪應祖、遣其姪三五良亹等、來朝貢馬及方物。各賜鈔幣。武寧遣送寨官子石達魯等六人、入國子監受學。各賜鈔三十錠・羅衣一襲并夏衣等物。」
(37)なお第一期の琉球官生派遣について『明実録』で「官生」の用語が見られるのは、以前京師で修学し謝恩来貢した姑魯妹の事例(『明太祖実録』洪武三一年三月戊申朔の条)と註(18)の模都古等の事例のみである。よってこの時期『明実録』に「官生」という用語がなされるのは、既に国子監に入学し、「官生」の資格を与えられた者に対してのみであったといえる。逆に「官生」という用語が見られない琉球官生派遣の記事は、再入監の記述を含む洪武二九年一一月の三五郎亹の事例を除けば、初めての国子監入学を示すものと考えられる。
(38)『南雍志』、謨訓考上(巻九)、学規本末の条。「本年(洪武一五年)又定……
一、本監官員及官民生、不許將帶家人僮僕、擅入學紛擾汚雜。違者從繩愆廳糾治。」「洪武三十年欽定……
一、内外號房各生、毋得將引家人在内宿歇、因而生事引惹是非。違者痛决。」
(39)同書、事紀二、永楽一一年五月庚宙](一二日)の条。原文は「記事」(A二四)参照のこと。
(40)同書、同巻、永楽一一年二月壬子(三日)の条。原文は「記事」(A二三)参照のこと。
(41)同書、同巻、永楽二〇年一二月壬辰(九日)の条。原文は「記事」(A三一)参照のこと。
(42)同書、同巻、永楽二一年四月甲寅(四日)の条。原文は「記事」(A三二)参照のこと。
(43)同書、同巻、永楽七年閏四月の条。原文は「記事」(A一七)参照のこと。
(44)同書、事紀一(巻一)、洪武一六年の条。「是年、令考中歳貢生員送監再考、等第分堂肄業。仍令監生入監三年有父母者、照地遠近、定限帰省。其欲挈家及成婚者、亦如之、倶不許過限。父母喪照例丁憂、伯叔兄長喪而無子者、亦許立限奔喪。」
(45)『明太柤実録』、洪武二九年二月戊申(二〇日)の条。原文は註(26)を参照のこと。
(46)『明太柤実録』、洪武二二年一〇月丁酉(二日)の条。「賜國子監雲南生尹葆等・日本生滕佑壽等衣・鈔・靴韈。」
(47)『明太祖実録』、洪武二三年九月の条。「賜國子監讀書日本國王子滕佑壽・并雲南土官子弟以作等凡六十九人裌衣・纊被。」
(48)『明太祖実録』、洪武二四年五月乙巳(一九日)の条。「以國子監生滕祐壽爲観察使。祐壽日本國人。」
(49)この他、『明実録』は「倭生文壽」の存在をも記している。『明太祖実録』洪武一六年四月壬辰(一九日)の条には次のような記事がある。「賜國子監倭生文壽衣・衾・靴韈。」「倭」生という表現を日本国王が派遣した官生とみなすのはやや危険と思われるので、ここに記すに留めておく。
(50)『高麗史』、世家四二(巻四二)、恭愍王一九年九月辛丑(一六日)の条。「遣工部尚書權鈞如京師賀正、舉子朴實・金濤・柳伯濡從行。濤中制科。」
(51)『南雍志』、儲養考上(巻一五)、儲養生徒之定制の条。「外夷子弟、始自高麗遣金濤等四人、入國學讀書。洪武四年、濤登進士、除授縣丞不就、與三人者皆遣歸國。」
また、『高麗史』、列伝二四(巻一一一)、金濤伝。「金濤、字長源、延安府人。……中洪武四年制科、勅授東昌府丘縣丞、濤辭以不觧華語且親老、願還本國。詔許之。及還、王謂左右曰、我國之人登制科者、固罕。況此人既登科、又蒙勅授、名揚一時、使天下知我國有人。……」
(52)『南雍志』、儲養考上、儲養生徒之定制の条。「洪武五年、四川明昇初平。三月、高麗國王王顓、遣密直同知洪師範・鄭夢周等、奉表賀平夏、貢方物。且請遣子弟入太學。其詞曰、『秉彝好徳、無古今愚智之殊、用夏變夷、在禮樂詩書之習。故我東夷之人、自昔以來、皆遣子弟入太學、不惟知君臣父子之倫、亦且仰聲明文物之盛。伏望皇上察臣向化之誠、使互郷之童得齒虞庠之冑、不勝慶幸。』上顧謂中書省臣曰、『高麗欲遣子弟入學、此亦美事。但其渉海遠來、離其父母、未免彼此懐思。爾中書宜令其國王與群下熟議之。爲父兄者果願遣子弟入學、爲子弟者果聽父兄之命、無所勉強。』即遣使護送至京、或居一年、或半年、聽其歸省也。後竟不至。」
なお『明太柤実録』、洪武五年三月の条にも同様の記事が見られる。
(53)末松保和氏「高麗と明との場合」(『史林』第二五巻第一号、一九四〇年一月、所収)は、明朝の成立当初は高麗に対して好意を抱いていた洪武帝が遼東攻略を巡る問題から洪武五年一二月に高麗叱責の聖旨を下し、以後両者の関係は急速に悪化したとしている。同年一一月に元将の納哈出が明の遼東経略の兵站主地ともいうべき牛家荘を襲撃した事件が起こるが、洪武帝は元朝の残存勢力である北元と高麗が通謀していたと疑ったのが高麗叱責の聖旨の直接の動機であり、明麗関係の転機であったというのが末松氏の見解である。高麗の子弟派遣に対する回答はそれ以前の三月に出されており、末松氏の説によってその拒絶の理由を説明するのは困難であるが、一二月の聖旨が洪武帝の高麗への疑心の発露であるとすれば、その疑心は徐々に蓄積されて生じたものであり、その根源は一一月の事件のかなり以前にさかのぼるとも考えられる。この問題については明朝初期の明と高麗の関係を踏まえた上で議論する必要があり、ここでは筆者の現段階での見解を述べるに留めておきたい。
(54)高麗の後を受けて成立した李氏朝鮮は国子監への留学生派遣を明朝に願い出ているが、却下されている。『明宣宗実録』宣徳八年一一月乙酉(六日)の条、『明英宗実録』天順四年六月壬申(二七日)の条を参照のこと。何故明朝が受け入れを拒んだのか、その真意は不明である。
(55)『明太祖実録』、洪武二三年閏四月壬辰(三〇日)の条。「四川建昌衛土官安配等遣其子僧保等四十二人、請入國子監讀書。賜襲衣・靴韈。」
同書、同年五月己酉(一七日)の条。「播州・貴州宣慰使司并所屬宣撫司官、各遣其子來朝、請入太學。上勅國子監官曰、移風善俗、禮爲之本。敷訓導民、教爲之先。故禮教明於朝廷、而後風化達于四海。今西南夷土官、各遣子弟來朝、求入太學。因其慕義、特允其請。爾等善爲訓教、俾有成就、庶不負遠人慕學之心。」
同書、同年年七月戊申(一八日)の条。「雲南烏撒軍民府土官知府何能、遣其弟忽山及囉囉生二人、請入國子監請書。各賜鈔錠。」
同書、同年九月辛卯(二日)の条。「雲南烏蒙・芒部二軍民府土官、遣其子以作・捕駒等、請入國子監讀書。賜以衣・鈔。」
同書、洪武二四年正月丙辰(二八日)の条。「四川會川・建昌二府土官、遣其子王保等七人、入國子監。詔賜鈔錠・衣衾・靴韈。」
(56)『明太祖実録』、洪武二一年六月甲子(二二日)の条。「西平侯沐英奏、東川諸蠻據烏山路、刧寨而叛。其地重關複嶺、崖壁峭險、上下三百餘里、人跡阻絶。請討之。上乃命頴國公傅友徳仍爲征南將軍、英爲左副將軍、普定侯陳桓爲右副將軍、景川侯曹震爲左參將、靖寧侯葉昇爲右參將、統領馬歩軍、往討之。」
また同書、洪武二二年三月庚午朔(一日)の条。「遣使、命南征將軍頴國公傅友徳等還軍分駐湖廣・四川衛所操練。……(以後各々の将軍が何処へ配置されるかを列記するが、省略)」
(57)多賀秋五郎氏「明太宗の学校教育政策」(『近世東アジア教育史研究』第一章、学術書出版会、一九七〇年、所収)。多賀氏所引の史料は『明太宗実録』巻五三、永楽四年四月戊寅(一八日)の条。また、『南雍志』儲養考、儲養生徒之定制の条にも割注として同様の記事が載せられている。
(58)例えば『明太祖実録』、洪武二四年六月戊辰(一三日)の条。「國子監生烏容等以病乞歸。詔賜鈔遣還。容等皆四川建昌土官子弟也。」
(59)『南雍志』、事紀一、洪武二四年七月庚寅(五日)の条。「烏撒土官生陳都刺等四十五人還郷。各賜鈔十錠。」
(60)このように考えると、仁悦慈・三五郎尾・實他盧尾・賀段志は以後国子監に滞在していることが確認できるから、残った日孜毎・闊八馬・段志毎の三人は洪武二六年段階で国子監にいなかったことになってしまう。或いは洪武二四年の諭旨では寨官の子弟を派遣することになっていたから、その条件に合致する仁悦慈・實他盧尾・賀段志・段志毎の四人のみが官生として扱われ、王の従子(姪)である日孜毎・闊八馬・三五郎尾の三人はそれとは別枠で扱われた可能性も否定できない。
(61)『南雍志』、事紀一、洪武二六年一一月壬寅朔(一日)の条には「琉球・雲南官生」という表現がある。原文は「記事」(A四)参照のこと。しかし本論中で述べた如く、この時点で雲南官生が国子監に滞在していた可能性はほとんどない。この「官生」の語は「官民生」という語の「民」の字が脱漏したものではなかろうか。
(62)田名真之氏「古琉球の久米村」(『新琉球史』古琉球編、琉球新報社、一九九〇年、所収)。
(63)例えば小葉田淳氏『中世南島通交貿易史の研究』(西田書店、一九六八年)第二篇「琉明間の通交貿易」。
(64)『明太柤実録』、洪武三〇年八月丙午(二七日)の条。原文は「禮部奏、諸番國使臣客旅不通。上曰、洪武初、海外諸番、與中國往来、使臣不絶、商賈便之、近者、安南・占城・眞臘・暹羅・爪哇・大琉球・三佛齊・渤尼・彭亨・百花・蘇門答剌・西洋・邦哈剌等凡三十國。以胡惟庸謀亂、三佛齊乃生間諜、紿我使臣至彼。爪哇國王聞知其事、戒飭三佛齊、禮送還朝。是後、使臣商旅阻絶、諸國王之意、遂爾不通。惟安南・占城・眞臘・暹羅・大琉球、自入貢以來、至今來庭。大琉球王與其宰臣、皆遣子弟、入我中國受學。凡諸番國使臣來者、皆以禮待之。我待諸番國之意不薄、但未知諸國之心若何。今欲遣使諭爪哇國、恐三佛齊中途阻之。聞三佛齊係爪哇統屬。爾禮部備述朕意、移文暹羅國王、令遣人轉達爪哇知之。于是、禮部咨暹羅國王曰、自有天地以来、即有君臣上下之分、且有中国四夷之禮、自古皆然。我朝混一之初、海外諸番、莫不來庭。豈意胡惟庸造亂、三佛齊乃生間諜、紿我信使、肆行巧詐。彼豈不知大琉球王與其宰臣、皆遣子弟入我中國受學、皇上賜寒暑之衣、有疾則命醫診之。皇上之心、仁義兼盡矣。皇上一以仁義待諸番國。何三佛齊諸國背大恩。……(後略)」
(65)『明太柤実録』、洪武一八年正月丙子(一四日)の条。「賜建昌衛指揮使月魯帖木兒文綺百匹・鈔五百錠。時月魯帖木兒擧家入朝、請遣子入學、願留其家于京師。上不許、厚賜遣還。」
(66)『南雍志』、事紀四、成化一八年閏八月戊辰(二日)の条。原文は「記事」(A三四)参照のこと。なお、第二期官生の派遣開始を示す史料として『明憲宗実録』成化一八年四月甲辰(六日)の条がよく知られているが、この『南雍志』の記述によると、『明実録』の記事は福建布政司の上奏に対し、今回の琉球官生の受け入れを許可した際のものであり、『南雍志』の記事は実際に蔡賓等琉球官生が南京国子監に入った時点のものであることがわかる。
(67)『南雍志』、規制考(巻七)。原文は「記事」(B一)参照のこと。光哲堂は洪武一五年に建てられたのであるから、琉球官生の来監時に建てられた「王子豊房」でないことは明白である。また光哲堂は南京国子監の最も北、南側の正門から見て最も奥に位置しており、とても国子監の前にあるとは言えない。
『南雍志』光哲堂の図
『南雍志』中の琉球官生関連記事
凡例
一、この史料集は、明・黄佐撰の『南廱志』(以下『南雍志』)の嘉靖二三年序刊本を民国二〇年(一九三一)に影印した江蘇省立国学図書館影印原本について、琉球官生に関係する記事を抄出し編纂したものである。
二、編次は『南雍志』の記載に従い、抄出した記事にはそれぞれ頭番号を付して、利用の便を図った。なお、「事紀」「規制考」「儲養考」の各編目における記載内容の性質の違いを考慮して、「事紀」の記事には「A」、「規制考」の記事には「B」、「儲養考」の記事には「C」を頭番号の上に付して区別している。
三、異字・俗字・略字の多くは、正字あるいは通用の字体に改めた。なお、誤解の恐れがない場合は、印刷の便宜上、原本の正字などにかえて略字体を使用したこともある。
四、本史料集においては、「琉球」の語句が含まれ、明らかに琉球官生に関連した記事のみを抄録の対象とした。従って、本論中で琉球官生に関連した記述として扱っている記事もこの基準を満たさない場合には除外している。なお、採録した記事の中で、琉球とは直接には関係のない内容の部分は、これを省略した場合がある。省略した部分は点線符号(………)で示した。
五、「事紀」の記事については、その利用の便を図るため、記事の係る年月・干支(日次)を記事の前に記している。初出の年次の下の括弧内に西暦年数を示し、各干支(日次)の下の括弧内には当該月の日数を示した(西暦による日数ではない)。また、記事中に含まれる干支(日次)についても、同様に当該月の日数を示した。なお、直前の記事と同一年次の場合は西暦年数を示さないが、同一年次でも、その年末(一二月など)において西暦年数が変わる場合には、その月の下の括弧内にこれを示している(従って、この場合の西暦年数は、当該の記事の日次のものを示しており、必ずしもその月全体がそうであるとは限らない)。
六、記事が含まれる各編目はその記事の冒頭に記し、巻数はその下の括弧内に示しているが、「儲養考」の各記事については更にその条目を示して鍵括弧(「 」)で区別した。
七、割注については該当部分の記述の直後にそのまま付し、括弧(〈 〉)でくくって区別している。
八、各記事には、句読点を付した。
事紀一 (巻一)
(A一)洪武二四年(一三九一)三月辛卯(四日)
以監生許觀會試殿試。皆第一。召國子監官褒奨之。又諭禮部臣曰、琉球國中山・山南二王、皆向化者、可選寨官弟男子姪、以充國子待。讀書知理、即遣歸國。宜行文使彼知之。
(A二)洪武二五年(一三九二)
是年、琉球國初遣官生人悦慈等、入監讀書。賜土官生阿聶等炭各百斤。
(A三)洪武二六年(一三九三)八月
賜琉球官生人悦慈等四人羅衣。
(A四)洪武二六年一一月壬寅朔(一日)
賜琉球雲南官生賀段志毎等襲・鈔錠。〈十一月賜炭各百五十斤。十二月臈日賜寶鈔各二錠。〉
(A五)洪武二七年(一三九四)八月癸酉(六日)
賜琉球官生人悦慈等鈔各五錠。
(A六)洪武二九年(一三九六)四月辛亥(二四日)
琉球官生賀段志毎自言、入監三年、例當省親。壬子(二五日)禮部以聞。從之。
(A七)洪武三〇年(一三九七)正月乙卯(二日)
琉球國官生六里・麻奢理病没。禮部行文應天府、給棺以殮。上命焚化凾其骨、俟其國人至、歸之。
(A八)洪武三〇年八月
賜琉球官生人悦慈等三人羅衣各一襲。
事紀二(巻二)
(A九)永楽二年(一四〇四)一一月甲子(二六日)
琉球國中山王從子三五郎亹等九人、以謝恩至京師、奏請入監讀書。從之。給賜及其從人、一如洪武中故事。仍令工部建王子書房于監前、以居之。
(A一〇)永楽三年(一四〇五)五月乙巳(一一日)
琉球國山南王汪應祖、遣寨官子李傑、赴監受學。賜夏衣一襲。
(A一一)永楽三年一〇月乙丑(三日)
賜琉球・四川・雲南生李傑等并其從人六十三人衣衾。
(A一二)永楽四年(一四〇六)三月癸巳(三日)
琉球國中山王武寧、遣送寨官子石達魯等六人、入監受學。各賜鈔三十錠・羅衣一襲并夏衣等物。
(A一三)永楽四年八月甲辰(一八日)
賜國子監琉球國・雲南生石達魯等并從人紬絹・綿布・冬衣二百二十事。
(A一四)永楽五年(一四〇七)四月己酉(二五日)
賜琉球・雲南生石達魯等并其從人夏衣。
(A一五)永楽六年(一四〇八)四月辛巳(三日)
琉球官生李傑、在監將及三年、因其兄銘進貢至京師、奏歸省親。禮部以聞。從之。
(A一六)永楽六年四月辛丑(二三日)
賜琉球國及雲南・四川官民生石達魯等六十八人夏衣。
(A一七)永楽七年(一四〇九)閏四月
琉球官生石達魯、在監三年、例當省親、欲同王舅仁悦慈歸國。禮部以事屬外夷、馳驛以聞。上從之。
(A一八)永楽七年一一月己卯(一一日)
賜琉球・四川・雲南官民生李傑等及其從人冬衣・靴韈。時傑自其國省親復監云。
(A一九)永楽八年(一四一〇)四月丁未(一一日)
禮部啓言、琉球國・四川・雲南官民生李傑等及其從人、例賜夏衣。惟琉球官生模都古等自其國省親復監、挈帶妻子女伴六人、未有給賜。皇太子命工部亟製、給之。仍悉賜巾衣・靴絛・衾褥・枕簟。
(A二〇)永楽八年八月癸卯(九日)
賜琉球・四川・雲南生楊麟等九十二人衣服・衾褥・巾絛・靴韈。
(A二一)永楽八年一一月癸未(二一日)
上賜琉球等處官民生李傑等并其從人冬衣靴・韈。既而從容與群臣語及之。禮部尚書呂震曰、昔唐太宗興學校、新羅・百済皆遣子入學。當時僅聞給以廩膳、未若今日賚予周備也。陛下聖徳前古未有。上曰、遠方慕中國禮義、故遣子入學。必足於衣食、然後樂學。太祖高皇帝命資給之、著于令典。所謂曲成萬物而不遺者。朕安得違之。
(A二二)永楽九年(一四一一)二月癸巳(二日)
琉球國中山王思紹、遣王相之子懐得・寨官子祖魯古、入監受學。
(A二三)永楽一一年(一四一三)二月壬子(三日)
琉球國中山王思紹、遣使送寨官之子鄔同志久・周魯毎・恰那晟其三人、入監受學。給賜如例。
(A二四)永楽一一年五月庚寅(一二日)
琉球官生模都古等三人、奏乞歸省。上謂禮部臣曰、遠人來學、誠美事。思親而歸、亦人情。宜厚賜以榮之。遂賜綵幣表裏・襲衣及鈔、爲道里費。仍命兵部、給驛傳。
(A二五)永楽一一年五月丙午(二八日)
賜琉球・雲南・四川官民生懐得等六十人夏衣。
(A二六)永楽一一年八月乙未(八月に乙未はない。己未=一三日の誤りか)
琉球官生李傑、因其父仲進貢至京有疾、欲送仲至福州還監卒業。禮部引啓、遣人材田畯喜護傑送至福州。仲既登舟歸國、傑遂復監。
(A二七)永楽一一年一二月(一四一四)丁巳(一二日)
賜琉球・雲南・四川官民生懐得等四十六人冬衣・鞾韈。
(A二八)永楽一二年(一四一四)五月乙亥(三日)
琉球・雲南・四川官民生懐得等七十四人當給夏衣。皇太子令照例。
(A二九)永楽一三年(一四一五)五月辛酉(二五日)
賜琉球・雲南生益智毎等九十二人夏衣。
(A三〇)永楽一四年(一四一六)五月乙丑(五月に乙丑はない)
賜琉球・雲南生散皆益久等百一十九人夏衣。
(A三一)永楽二〇年(一四二二)一二月壬辰(九日)
琉球官生周魯毎・周弟、在監三年、例當省親歸國。禮部以聞。上從之、令候其國使臣還日始行。
(A三二)永楽二一年(一四二三)四月甲寅(四日)
四川・雲南官民生駱進等六十一人、例當給賜夏衣。其琉球官生周魯毎等、尚猶未行。宜一體給賜。自後遞年冬夏衣服、皆南京禮部行文南京工部成造、依時給賜、不待奏請、著爲令馳奏以聞。上從之。
事紀四(巻四)
(A三三)成化一八年(一四八二)閏八月戊辰(二日)
琉球國中山王遣其陪臣子蔡賓等五人、入監受學。先是、四月癸卯(五日)福建布政司以遠夷慕義奏聞。上命應付舟車脚力、送南京禮部行本監。査照洪武・永樂・宣徳年間事例、修理號舎、居之光哲堂、給與合用什物及冬夏衣服、雖從人亦如例與之。時外夷官生不至已久。所司詫爲異事、工部爲製用度紬襖・牀卓・柴薪之類、皆懵無所稽、毎移文本監而後行焉。
(A三四)成化一八年一一月乙未朔(一日)
太常寺卿掌監事劉宣、以琉球官生蔡賓等束脩有白金一斤、辭不受。後四年、賓等復申請前事。以聞。上命宣受之。
規制考(巻七)
(B一)右光哲堂圖。光哲堂在敬一亭後、洪武十五年建。凡一十五間、毎間闊一丈四尺、深一丈二尺、爲琉球國官生受業所居。(図は五〇頁)
儲養考上(巻一五)
「儲養生徒之定制」
(C一)外夷子弟……惟琉球國則常至焉。考之故牘、洪武二十五年八月、本國送官生日孜毎等入監。高皇帝命工部、毎人給與羅絹衣服、俾爲秋衣、仍與見成鋪蓋、從人給與綿布衣服。寔異数也。〈各官生毎名造給羅圓領・褡𧞤・貼裏各一件、絹汗衫・裙袴各一件、絹綿被布・臥單・毯褥・帳子・枕頭各一件。從人毎名綿布貼裏・直領・裙褲・綿被各一件。按舊志、有人悦慈等、無日孜毎。雖條例亦無之、今據案喜録入。〉著于皇明祖訓曰、大琉球國王子及陪臣之子、皆入太學讀書、蓋待之冠諸夷云。永楽迄正徳間、嘗三四至。惟嘉靖五年五月、琉球國中山王尚清送蔡廷美等四人至、十一年歸國。十七年三月、尚清又送梁炫・鄭憲・蔡朝器・陳繼成四人再至。二十三年三月歸國。蓋其向慕文教如此。………(後略)
「儲養生徒之名数」
(C二)○洪武二十五年。官民生人悦慈等一千三百九名。〈官生琉球國等處人悦慈・阿聶等十六名。民生一千二百九十三名〉
(C三)○洪武二十六年。官民生人悦慈等八千一百二十四名。〈官生琉球國等處人悦慈等四名。民生八千一百二十名〉
(C四)○洪武二十七年。官民生人悦慈等一千五百二十名。〈官生琉球國等處人悦慈等四名。民生袁珷等一千五百一十六名〉
(C五)○洪武三十年。官民生人悦慈等一千八百二十九名。〈官生琉球國等處人悦慈等三名。民生一千八百二十六名〉
(C六)○永樂三年。官民生三五良亹等三千五十名。〈官生琉球國等處三五良亹等九名、新収琉球國一名李傑、係大國山南王下官李仲次男。民生張紳等三千四十名〉
(C七)○永樂四年。冠帶舉人官民生王樂孟等四千五百八名。〈冠帶擧人王樂孟至張彦昞等十九名、不冠帶一名周健、官生琉球國等處三五良亹等一十七名、琉球國中山王下石達魯至韓寧毎等六名。民生張紳等四千四百七十一名〉
(C八)○永樂五年。冠帶舉官民生王樂孟等四千五百三十八名。〈冠帶及不冠帶舉人王樂孟等二十名。民生陶歆等四千五百零一名〉
(C九)○永樂六年。冠帶舉人官民生王樂孟等四千八百一十四名。〈冠帶及不官帶舉人王樂孟等二十名。官生琉球國等處三五良亹等十七名。民生陶歆等四千七百七十七名〉
(C一〇)○永樂七年。冠帶舉人官民生郭震等六千一百九十八名。〈冠帶及不冠帶舉人郭震等一百一十五名、内一等孔諤支米二石、二等王箕・張彦昞・陳原祐支教諭俸、三等歐陽和儒士鄭昇義米一石。官生琉球國等處三五良亹等十八名。民生蔣迪等六千六十五名〉
(C一一)永樂八年。冠帶舉人官民生周順等六千五百五十七名。〈冠帶及不冠帶舉人周順等一百名。官生琉球國等處三五良亹等一
十六名。民生蔣迪等六千四百三十七名〉
(C一二)○永樂九年。冠帶舉人官民生任用等六千六百二十九名。〈冠帶及不冠帶舉人任用等二十一名。官生琉球國等處三五良亹等一十八名、琉球國二名懐得・祖魯古。民生王讓等六千五百九十名〉
(C一三)○永樂十年。冠帶舉人官民生愈昞等七千六百八十三名。〈冠帶及不冠帶舉人愈昞等一十七名。官生琉球國等處懐得等一十九名。民生姚袤等七千六百一十九名〉
(C一四)○永樂十一年。冠帶舉人官民生愈昞等七千七百五十四名。〈冠帶及不冠帶舉人愈昞等一十七名。官生琉球國等處懐得等一十九名。民生朱遜等七千七百一十八名〉
(C一五)○永樂十二年。冠帶舉人官民生愈昞等六千六百二十八名。〈冠帶及不冠帶舉人愈昞等一十七名。官生琉球國等處懐得等二十一名、琉球國中山王下周魯毎・怜那成・散皆益・鄔同志久四名。民生司以成等六千五百九十名〉
(C一六)○永樂十三年。冠帶舉人官民生袁方等八千二百六十名。〈冠帶及不冠帶舉人袁方等四十名、内朱瑛等二十四名冠帶支教諭俸。官生琉球國等處散皆益久等一十九名。民生王讓等八千二百一名〉
(C一七)○永樂十四年。冠帶舉人官民生袁方等八千五百六十一名。〈冠帶及不冠帶舉人袁方等三十九名。官生琉球國等處散皆益久等一十七名。民生王訓等八千五百五名〉
(C一八)○永樂十五年。冠帶舉人官民生袁方等八千四百六十七名。〈冠帶及不冠帶舉人袁方等三十八名。官生琉球國等處鄔同志久等一十六名。民生泰毅等八千四百一十三名〉
(C一九)○永樂十六年。冠帶舉人官民生陸通等八千五百五十四名。〈冠帶及不冠帶舉人陸通等四十六名。官生琉球國等處鄔同志久等一十六名。琉球國一名周弟。民生林濟等八千四百九十二名。讀書習禮永康侯徐安・建平伯高福・安郷伯張安〉
(C二〇)○永樂十七年。冠帶舉人官民生陸通等八千五百五十一名。〈冠帶及不冠帶舉人陸通等四十六名。官生琉球國等處鄔同志久・益致毎等一十六名。民生林濟等八千四百八十九名〉
(C二一)永樂十八年。冠帶舉人官民生陸通等九千五百五十二名。〈冠帶及不冠帶舉人陸通等四十六名。官生琉球國等處鄔同志等一十五名。民生林濟等九千二百一名〉
(C二二)○永樂十九年。冠帶舉人官民生方瑛等九千八百八十四名。〈冠帶及不冠帶舉人方瑛等二十七名。官生琉球國等處周魯毎等一十四名。民生林濟等九千八百四十三名〉
(C二三)○永樂二十年。冠帶舉人官民生方瑛等九千九百七十二名。〈冠帶及不冠帶舉人方瑛等二十五名。官生琉球國等處周魯毎等一十四名。民生林濟等九千九百三十三名〉
(C二四)○永樂二十一年。冠帶舉人官民生方瑛等九千八百六十一名。〈冠帶及不冠帶舉人方瑛等二十五名。官生琉球國等處周魯毎等一十四名。民生林濟等九千八百二十一名〉
(C二五)○永樂二十二年。冠帶舉人官民生韋廣等九千五百三十三名。〈冠帶及不冠帶舉人韋廣等一十八名。官生琉球國等處周魯毎等一十四名。民生林濟等九千五百名〉
(C二六)○洪煕元年。冠帶舉人官民生徐昇等八千五百五十九名。〈冠帶及不冠帶舉人徐昇等一十九名。官生琉球國等處韓寧毎等一十四名。民生林濟等八千五百二十五名〉
(C二七)○宣徳元年。冠帶舉人官民生徐璟等八千六百六十六名。〈冠帶及不冠帶舉人徐璟等一十九名。官生琉球國等處韓寧毎等一十四名。民生顧信等八千六百三十二名〉
儲養考下(巻一六)
「廩饌」
(C二八)………按北監諸生、毎名日支柴二斤、本監無之。惟琉球官生・從人、毎人日支柴五斤・炭二斤。
「條約」
(C二九)………琉球官生願受業者、聽猶念敷教之法、寔非寛縱。定爲五品條約、開列于後。………(後略)
―『南雍志』にみる国子監留学生の位置付けとして―
岡本弘道
はじめに
第一章 『南雍志』による琉球官生像の再検討
一、『南雍志』の史料的性格
二、「官生」の定義とその待遇
三、琉球官生派遣開始時の経緯
四、琉球官生の在監状況―在監期間の特定―
五、琉球官生の「帰省」と「復監」
―琉球官生の中琉間往復の現実―
第二章 第一期琉球官生派遣の意義
一、琉球から見た派遣官生の役割
二、明朝の外交政策と琉球官生
むすびにかえて
はじめに
琉球史において官生とは、琉球から中国王朝の最高学府である国子監に派遣された留学生のことを指す。明朝の洪武五年(一三七二)に初めて中国王朝の朝貢国となった琉球は、その二十年後の洪武二五年(一三九二)に既に国子監へ官生を派遣していた。琉球の官生派遣は途中幾度かの中断期を挟みながらも、明治政府によって中国王朝との朝貢関係が中断させられる直前の清朝・同治一二年(一八七三)に至るまで、およそ五百年間にわたって続けられることとなる。このような留学生派遣の事例は他に類を見ない。琉球史を語る上で度々官生の存在に触れられることも当然であるといえよう。
琉球官生の派遣は、その選抜対象の違いや受け入れ側の中国王朝の交代などによって、四つの時期に大別される。本論考で検討するのは、その中の第一期、つまり琉球がいわゆる「三山分立」状態にあった時代、中国でいえば明朝の初期に当たる時代の官生派遣である。
琉球官生に関する論考は数多く存在するが、その中でも第一期の琉球官生については、さほど検討が加えられていないように思われる。伊波普猷氏の「官生騒動に就いて」も第一期について検討しようとするものではないが、その記述の中で第一期の琉球官生について、以下のように述べている。「……これらの史料を一瞥したら、最初の官生の成績が余程悪かつたといふことがわかる。実に遊逸、学に馴れない貴公子の連中は到底長期の修学にたへないで、皆悉く失敗に畢つた」。第一期官生が貴公子、つまり王族の子弟や寨官の子弟によって構成されており、彼等の成績が悪かったので、その結果第一期の官生派遣が失敗に終わったという伊波氏の解釈は、以後琉球の官生研究における第一期官生の評価を決定づけるものとなった。
琉球官生全体を対象とした論考の中でも、真境名安興氏の『沖縄一千年史』『沖縄教育史要』、仲原善忠氏の「官生小史―中国派遣の琉球留学生の概観―」は特に注目に値する。両氏の論考は中国文化吸収の一要素として、または進貢業務に不可欠な語学修得の一手段としての官生の役割に重点を置いたものである。また仲原氏は官生の成績の評価、さらには官生派遣自体の評価を、派遣された官生の名前がその後史料上で確認できるか否かによって行なっているが、この評価はこの時期に関する史料の現存状況を考えれば当を得ないことは明らかである。しかしこの評価が伊波氏の見解と相俟って、第一期琉球官生に対するイメージを拘束することになったのである。
このような研究状況を踏まえて第一期の琉球官生を再検討するとき、琉球官生の果たした役割を見直すことが最大の課題となろう。中国文化の吸収や語学修得など進貢業務に関わる能力育成の側面のみによって、琉球の官生派遣を評価してよいのであろうか。京師に置かれた国子監に長期滞在する留学生の存在は、明朝にとって中国文化による教化の対象でしかありえなかったのだろうか。このような琉球官生の役割を再検討した上でなければ、本当に彼等の派遣が失敗であったのかどうか判断することはできない。
ところが、従来第一期の琉球官生研究で扱われてきた史料は、
右の問題を検討するには質的にも量的にも決して十分なものとは
いえまい。第二期以降は『歴代宝案』、さらに第三期以降は中国の档案史料・琉球で編纂された史料によって、より詳細に官生の動きを追跡することが可能である。一方、第一期については主に『明実録』、『中山沿革志』、『中山世譜』、『琉球入学見聞録』などの史料によって研究が行なわれてきたが、これらに収載されている官生関連記事はほとんどすべてが『明実録』を基にしている、つまり『明実録』系史料ということができる。これについては和田久徳氏の「明実録の沖縄史料(一)」に詳しい。従って、これまでの第一期官生の研究は、『明実録』に記載されている決して豊富とはいえない史料に基づいて行なわれてきたということになる。
今回本論考で主に検討するのは、『南雍志』という、南京国子監のスタッフによって著された史料である。『南雍志』中に見られる琉球官生関連の記事も、決して質・量ともに豊富なものとはいえないが、少なくとも『明実録』とは異なる系統の史料ということができる。この『南雍志』に含まれる琉球官生関連の記事を検討し、『明実録』系の史料では窺うことのできなかった琉球官生の実態に迫ることによって、当時の琉球官生がどのような役割を担っていたのかを考察していきたい。
第一章 『南雍志』による琉球官生像の再検討
一、『南雍志』の史料的性格
『南雍志』は前述のように、南京国子監の祭酒、つまり校長に相当する役職にあった黄佐によって編纂された、南京国子監に関する諸制度や関係諸官の伝記などをまとめた書物である。嘉靖二三年(一五四四)の序が付けられているが、その原型は景泰年間(一四五〇~五六)に祭酒の呉節によって編纂された十八巻本(以後『旧志』と表記)であり、そのことは嘉靖二三年序の後に景泰七年(一四五六)『南雍旧志』序があることからも確認できる。その後嘉靖年間(一五二二~六六)の初期に祭酒の崔銑が重纂を始めたが完成せず、その後を受けた黄佐が監丞の趙恒、博士の王製・周瑞、助教の梅鷟等の協力を得て、呉節の稿本を増損して完成した。ただし、本書中には事紀の末尾や職官表など、万暦年間(一五七三~一六一五)の記述が含まれており、後人が随時添加したものと考えられる。本書の構成は大筋で司馬遷の『史記』に則っており、本紀に相当する「事紀」、年表に相当する「職官表」、八書に相当する「規制」「謨訓」「礼儀」「音楽」「儲養」「経籍」の各考、「列伝」に分けられている。テキストは嘉靖二三年序の刊本がある他、民国二〇年(一九三一)にそれを江蘇省立国学図書館が影印したものが存在する。また、台湾の偉文図書出版社有限公司から四冊本が出版されている。
以上の編纂経緯を考えると、第一期の琉球官生に関する記述は、大筋で呉節の『旧志』を継承したものと考えて良さそうである。もちろん黄佐等が編纂を行なっていた時期にも第二期の琉球官生が国子監に存在しており、その記述も本書に含まれていることには注意する必要がある。『南雍志』中に見られる琉球官生関連の記事は「事紀」「規制考」「儲養考」に集中しているが、そのかなりの部分が『明実録』系史料では確認できないものであり、官生研究に留まらず明代初期の琉明関係を考える上で有益な記述を含んでいると考えられる。最後に琉球官生関連の記事を抄出した「『南雍志』中の琉球官生関連記事」を付しておいたので参照されたい。
二、「官生」の定義とその待遇
冒頭で述べたように、従来琉球史において「官生」という用語は、琉球から中国王朝の最高学府である国子監に派遣された留学生の意で用いられてきた。その語義として、伊波氏は「官生とはやがて今日の官費留学生の様な者である」という表現を用い、その見解は大筋で琉球史研究者の間に継承されているように思われる。だが在学する学生すべてに食料・住居をあてがい、養うことが原則であった国子監において、「官費」という要素が特に意識されていたとは思われず、また「官生」という用語が成立した当時の琉球に「官費留学生」の概念を裏付ける「私費留学生」のような存在は確認できない。これに対して仲原氏は「雲南、四川土官生」という用語に注目し、その語源を中国に求めている。また、最近では孫薇氏が「冊封・朝貢について―中琉の冊封・朝貢関係を中心に―」の中で、『万暦大明会典』の中の「官生」規定から、官生を廕子入監の一例として捉え、「冊封」概念の拡大解釈によって説明しようとしている。
「官生」という用語について『南雍志』を見てみると、「儲養考」の中に以下のような記述がある。
「太祖高皇帝の初に国子を定め、官生・民生の二等を為す。官生は上裁より取り、民生は科・貢の制に由るなり。」
「洪武元年(一三六八)、生徒の国子学に選び入れらるる者は、品官の子弟なれば官生と為し、民間の俊秀なれば民生と為す。」
「官生は二等に分かつ。一は品官子弟と曰ひ、二は外夷子弟と曰ふ。品官は一品より七品に至るまで、皆廕叙を得。然るに皆特恩より出で、敢へて陳べ乞ふ者無し。之れを故牘に稽みるに、徴さるる所無し。惟だ洪武の末、故尚書呉雲の子の黻、廕国子生たるは、其の雲南に死事するを以てなれば、乃ち恤典なり。宣徳の中の大理寺卿湯宗の子の沐・正統の初の検討掌助教事王仙會の子の旒等、始めて恩を乞ひ監に入るを得。……」
以上の記述から、明代初期の段階で既に官生という用語が用いられており、それは民生と対をなすものであったこと、民生が科挙・歳貢のような制度によって恒常的に採用されるのに対し、官生は皇帝の裁断によってその都度採用されること、官生には品官の子弟と外夷の子弟が存在することがわかる。琉球官生も同様の形で入学の資格を与えられ、国子監の中で位置付けられていたと考えられる。
ただし、待遇の面から検討すると、必ずしも官生であることのみによってその待遇が決められたわけではないこともわかる。琉球官生に対する衣服・寝具等の給賜については『明実録』からも確認できるが、『続文献通考』には、以下のような記述がある。
「是れより、日本・琉球・暹羅の諸国、皆官生もて監に入れ書を読ましむる有り。朝廷は輒ち厚賜を加へ、并びに其の従人に給ふ。雲南・四川等の土官、時に子弟・民生を遣はし監に入れる者甚だ衆く、給賜すること日本諸国と同じく、監前に別に房百間を造りて之れを居らしむ。……蔣一葵の『長安客話』に曰く、国初、高麗は金濤等を遣はし太学に入れしむ。其の後各国及び土官も亦た皆子を遣はして監に入れしむれば、監前に別に房を造りて之れを居らしめ、王子書房と名づく。……」
つまり日本・琉球など外国が派遣した官生と、雲南・四川等の土官が派遣した子弟(=官生)、そして雲南・四川から来た民生が、給賜の面で同じ扱いを受けていた。『明実録』や『南雍志』に見られる琉球官生等への給賜の際「雲南・四川・琉球等官民生」として、五、六十人から百人前後の人数が示されているが、この人数の大部分は雲南・四川からの民生であったと考えられる。そして彼等雲南・四川からの民生を含めて、外夷生に対しては「王子書房」なる特別の宿舎をあてがったのである。これらの処置は、彼等が外夷であったことに由来する。雲南・四川は明朝の版図内にあったとはいえ、そこには多数の少数民族が住んでおり、明朝も彼等に対しては土官制度という、間接統治によってこの地を治める手段を採っており、その地域から派遣される民生も、少数民族出身の者がかなり含まれていたであろう。「王子書房」については、或いは言語・生活習慣の違いに配慮した結果なのかも知れない。そういったことをも含め、「外夷生」に対しては特別の待遇がなされた。このことには注目する必要があろう。
三、琉球官生派遣開始時の経緯
琉球官生がどのような手続きを経て派遣されるに至ったのかという問題は軽視することができない。何故なら、それは派遣者と受け入れる主体の双方が、官生派遣をどのように位置づけていたかを考える上で決して欠かすことのできない要素だからである。従来の第一期官生の研究で参照されてきた『明実録』系史料による限りこの問題について手がかりを見出すことは非常に困難であるが、『南雍志』事紀の洪武二四年(一三九一)三月の条には注目すべき記述が見られる。
「……又礼部の臣に諭して曰く、琉球国中山・山南の二王は、皆向化すれば、寨官の弟男子姪を選び、以て国子に充て待すべし。書を読み理を知れば、即ち国に帰らしめよ。宜しく行文して彼をして之れを知らしむべし。」
「弟男子姪」とは、ひろく親族の中の目下の男子を指す用語である。この史料によると、琉球の三山の内でも中山・山南の二王に対してのみ官生の派遣許可が出されていること、派遣官生として王の子弟ではなく、寨官の子弟を指定していることがわかる。実際、以後の史料において山北王が派遣した琉球官生の存在は確認できないが、何故に山北王に対しては官生派遣の許可が下りなかったのであろうか。また中国では通常用いられることのない「寨官」という用語を用い、その子弟を派遣させている点にも注意すべきであろう。以上の点からみて、この琉球官生派遣許可の諭旨は恐らくその前に行なわれたと考えられる琉球側からの官生派遣の要請を受けて出されたものと思われる。
また、琉球官生の派遣が開始された直後に、次のような記述も見られる。
「言官劾すらく、『祭酒の胡季安、外夷の子入学せるの束修を受く』と。季安罪を請ふ。上察して之れを宥す。」
「束修」とは、入学に対する謝礼のことである。後述するが、この時期に国子監に入学した「外夷の子」は、琉球官生以外には考えられない。だとすれば、琉球は官生を派遣する際に、禁止されている入学謝礼をわざわざ出していたということになる。むろん琉球側がそのような事情を知らずに起こした事件と見ることも可能であるが、琉球官生の派遣について琉球側からの要請があったという先の想定と考え合わせれば、この謝礼には琉球官生に対し何らかの便宜を図ってもらうことを期待した琉球側の意図が含まれているのかも知れない。
四、琉球官生の在監状況―在監期間の特定―
右のような経緯を経て派遣が開始された第一期の琉球官生は、どの時期まで派遣され国子監に在学し続けたのであろうか。従来の研究では、『明実録』系の史料に基づいて、洪武二五年(一三九二)から永楽一四年(一四一六)までとしている。しかしその一方で、第二期以降の琉球官生派遣に際して、「乞ふらくは永楽及び宣徳年間の事(例)に照らし」、「礼部は洪武・永楽・宣徳間の例を按ずるに」という記述が見られ、第一期の琉球官生は宣徳年間(一四二六~三五)まで存在していたことになっている。『明実録』が琉球官生の派遣・帰国について完全に網羅しているとは言い難い以上、従来の見解は再検討される必要があろう。
『南雍志』儲養考の儲養生徒之名数の条には、年度毎の国子監生の人数、内訳が収録されている。その内容をまとめたものが、次頁に挙げた別表である。この表は年度毎に全監生の人数、官生の人数、官生の代表としてその名前が明記されている者(以後官生筆頭者と呼ぶ)、官生の項目に付記されている事項(以後官生付記事項と呼ぶ)、『南雍志』事紀或いは『明実録』に見られる琉球官生の派遣・帰省に関連する記事を示したものである。儲養生徒之名数の条によると、洪武二五年(一三九二)から宣徳元年(一四二六)まで、毎年官生筆頭者の名前の前に「琉球国等処」の語句が見られる。同じく記されている官生筆頭者の名前と合わせて見る限り、この期間は琉球官生が南京の国子監に存在していたと考えて間違いあるまい。つまりこの時期が、琉球の官生派遣の第一期ということになる。そしてこの事実は、先に述べた第二期以降の琉球官生派遣の際の記述とも符合する。
別表を見ると、全監生の人数の中でも官生の人数は非常に少ないことがわかる。特に琉球官生が派遣された当初、洪武二六年(一三九三)以降の十数年は一桁に留まっている。洪武二四年には四十五人の官生が確認できるが、これらはほとんどすべてが雲南・四川などの土官が派遣した子弟である。彼等が洪武二四年ないし二五年に相次いで帰国した後、国子監に在学した官生は琉球官生のみであった。このことは国子監に派遣されてきた琉球官生の人数との比較で確認できるが、詳しくは次章で論じたい。儲養生徒之名数の条からは洪武二四年以前の官生の人数を確認することはできないが、前節引用の史料とも照らし合わせると、明代初期において「官生」という用語が示す対象は、品官の子弟というよりもむしろ琉球官生に代表される外夷の子弟であったと考えるべきであろう。
【別表】『南雍志』儲養考上、儲養生徒之名数の条などによる明代初期の琉球官生の在監状況表
五、琉球官生の「帰省」と「復監」
―琉球官生の中琉間往復の現実―
前節で確認したように、琉球官生は洪武二五年から宣徳元年までの三十五年間にわたり国子監に滞在していた。次にこの琉球官生の一人一人について、どのような動きが見られるかを検討していきたい。
従来の『明実録』系史料による研究でも、この琉球官生の動きについて興味深い指摘がなされている。洪武二五年に国子監に入学した三五郎尾は、同二九年(一三九六)二月に帰省することになるが、その年の一一月には再びやってきて、国子監に再入学する旨希望している。この三五郎尾(もしくは三五郎亹と表記)の事例は様々な形で注目を集めているが、彼が帰省した後再び国子監に戻ってきたことに関しては、さしたる検討が加えられてきたとは思えない。
琉球官生が一度帰省した後再び国子監に戻ってくるという事例は『明実録』には他に見当たらないが、『南雍志』を参照すると三五郎亹以外にも同様の事例が確認できる。本節ではこのような琉球官生の動きを個別に追っていくことで、第一期の琉球官生の役割を考えていく際の手がかりとしたい。なお史料上に見られる人名については或いは同姓同名の場合も考えられるが、以下の行論の都合上、同一の人名ないし同一音を表すと思われる人名は同一の人物を示すものとして検討を加えていくことにしたい。
まず第一に挙げるのは前述の三五郎亹(三五郎尾・三五良亹)である。前述の通り彼については『明実録』によって洪武二五年一二月に国子監へ入学し、洪武二九年二月には帰省、そして同年一一月に再大監するという動きが確認できる。しかし彼に関する記事として、『南雍志』事紀の永楽二年(一四〇四)一一月甲子の条に以下の記載がある。
「琉球国中山王の従子三五郎亹等九人、謝恩を以て京師に至り、監に入り書を読まんことを奏請す。之れに従ふ。給賜の其の従人に及ぶこと、一々洪武中の故事の如し。仍ほ工部をして王子書房を監の前に建てしめ、以て之れを居らしむ。」
周知のように、明朝では洪武三一年(一三九八)に太祖洪武帝が崩御した後、その跡を継いだ建文帝の藩王取り潰し政策に対してその叔父に当たる燕王棣が反旗を翻す、いわゆる「靖難の変」が起こっている。その間琉球がどのような対応を取ったのか、『明実録』からは読みとることができないが、三五郎亹等の琉球官生がこの際の政治的混乱を避けて一時的に国子監を離れていたことは十分に想定できる。永楽二年に彼と共に入学した八人の中にも、或いは同様の者が含まれていたかも知れない。この後、永楽三年から同九年(一四一一)に至るまで、「三五良亹」という名が『南雍志』儲養考・儲養生徒之名数の条の中に官生筆頭者として記載されているから、彼は少なくとも永楽九年まで国子監に在学していたと考えられる。
ところがこの永楽年間の三五郎亹の在学が事実だとすると、新たな問題が沸き上がってくる。これは既によく知られていることだが、『明実録』によれば永楽年間の前半期に中山王の使者として、中山王の従子もしくは姪である「三吾良亹」という人物が頻繁に登場する。名前及びその肩書きからして、国子監に在学していた「三五良亹」と同一人物であることはまず間違いない。彼が国子監に在学している期間を永楽二年一一月から仮に永楽九年末までとすると、その間にのべ八回にわたって『明実録』に中山王の使者としての彼の名が確認できる。つまり、彼は国子監に在学している官生でありながら、同時に進貢使節の正使の役割をも果たしていたということになる。このことは特に念頭に置いておく必要があろう。彼が国子監に在籍していた期間は、途中帰省などを挟みながらも、洪武二五年から永楽九年までとして、二十年にも及ぶことになる。
次に挙げるのは李傑である。彼はその名前からして、後の久米村人に相当する渡来中国人と思われるが、『明実録』によると永楽三年(一四〇五)五月に国子監に入学しており、『南雍志』事紀にも同様の記事が見られる。
「琉球国山南王の汪応柤、寨官の子李傑を遣はし、監に赴かせ学を受けしむ。夏衣一襲を賜ふ。」
なお別表にも挙げておいたが、儲養生徒之名数の条の永楽三年の官生付記事項に「新たに収める琉球国一名李傑は、大国山南王の下官李仲の次男に係る」という記述があり、彼の父親が李仲という名であることがわかる。「寨官の子」李傑の父親であるから、仲は寨官であるはずである。また、『南雍志』事紀の永楽六年(一四〇八)四月辛巳の条には次のような記事が見られる。
「琉球官生の李傑、監に在ること将に三年に及ばんとす。其の兄の銘が進貢して京師に至るに因り、帰りて親を省みんことを奏す。礼部は以聞す。之れに従ふ。」
国子監に滞在して三年が過ぎたというのは、帰省を願い出るときの常套文句である。この記述の中で、李傑に兄の銘が存在すること、銘が進貢使節の一行に加わっていたことがわかる。銘が加わっていた進貢使節とは、『明実録』永楽六年三月乙亥の条に見える山南王汪応祖の使者䒶達姑耶等の一行であろうと思われる。ところがその翌年、『南雍志』事紀の永楽七年(一四〇九)一一月己卯の条には次のような記事がある。
「琉球・四川・雲南官民生の李傑等及び其の従人に冬衣・靴韈を賜ふ。時に傑は其の国に親を省みる自り監に復すと云ふ。」
李傑も先の三五郎亹同様、再び国子監に戻ってきていたのである。彼が国子監に戻ってきたのは永楽七年一一月以前だから、帰国した後一年余りの期間をおいて再渡明したことになる。
その四年後、『南雍志』事紀の永楽一一年(一四一三)八月乙未の条には、また興味深い記事が見られる。ただし、永楽一一年の八月に「乙未」の日は存在しないから、恐らく「己未」(一三日)の誤りであろう。
「琉球官生の李傑、其の父仲進貢して京に至るも疾有るに因り、仲を送り福州に至りて監に還り卒業せんことを欲す。礼部は啓を引き、人材田畯喜を遣はして傑を護り福州に送り至らしむ。仲既に舟に登り国に帰れば、傑遂に監に復す。」
ここでまた父の仲が登場する。仲が参加した「進貢」とは、『明実録』永楽一一年八月癸亥の条に見られる山南王汪応祖の使者鄔頼誰結制等の進貢使節を指すのであろう。仲の病気を理由に福州まで同行したいと願い出た李傑に対し、礼部は「啓」を引用して田畯喜なる人物に護送させる処置を執っている。「啓」とは、広く奏疏・公文・書簡を指す用語であるから、このような事例にも前例があったのかも知れない。また、仲を送り赴く目的地が泉州ではなく福州であるという点も注目される。
その後『南雍志』によって彼の名を確認することはできない。ただ『明実録』洪煕元年(一四二五)二月辛酉の条に中山王世子尚巴志の通事としてその名が確認できる。『明実録』の朝貢記事に通事の名が記されることは希であり、正使格の人物に何らかの事故があったとも考えられるが、この回の朝貢に限らず、彼は通事役として常時進貢業務に携わっていたとみなすのが妥当であろう。李傑に関する『南雍志』の史料は断片的ながらも、『明実録』ではうかがうことのできない下位のレベルの状況を我々に示してくれるという意味で、非常に貴重なものである。李傑とその父の仲、兄の銘は、後の久米村人に相当する朝貢業務のスペシャリストの役割を果たしていたとみなすべきであろう。
三番目に挙げるのは模都古である。彼の国子監入学については『明実録』の永楽八年(一四一〇)六月庚子の条に記事が見られる。
「是の日、琉球国の官生模都古等二人、国子監に入りて学を受く。皇太子は悉く巾衣・靴絛・衾褥・帳具を賜はんことを命ず。」
ところが『南雍志』事紀には永楽八年四月丁未の条に以下のような記事が見られる。
「礼部啓言すらく、琉球国・四川・雲南の官民生李傑等及び其の従人、例として夏衣を賜ふ。惟だ琉球官生の模都古等は其の国にて親を省みる自り復監し、妻子・女伴六人を挈帯するも、未だ給賜有らず。皇太子は工部に命じて、亟かに製りて之れを給せしめ、仍ほ悉く巾衣・靴絛・衾褥・枕簟を賜ふ。」
この記述によると、『明実録』に見られる六月以前に模都古は国子監に滞在しており、しかもそれは一度帰省した後に戻ってきたとしている。琉球官生は基本的に三年の在学の後帰省するから、永楽四年(一四〇六)の石達魯等の国子監入学の際に一緒に入学した可能性が高い。そうすると、模都古は永楽四年に入学し、約三年の国子監の滞在の後帰省、そして永楽八年四月の直前に国子監に戻ってきていたと考えられる。しかもこの際、「妻子・女伴六人」を伴ってきたといい、彼女たちに対しても悉く給賜があったという。当時国子監生がその妻子を帯同して国子監に入ること、もしくは宿舎に泊めることは監規によって禁止されていた。しかも琉球から海を渡って南京の国子監までやってきた官生が妻子や女の召使いを連れて来るというのは、やはり尋常なことではない。少なくとも専任の教習の下で修学に専念したとされる清代の琉球官生のイメージからは、到底理解できない事態である。
『南雍志』にはその三年後、永楽一一年(一四一三)五月庚寅
の条に模都古等三人の帰省の記事が見られる。
「琉球の官生模都古等三人、帰省せんことを奏乞す。上は礼部臣に謂ひて曰く、遠人の来学すること、誠に美事たり。親を思ひて帰るも、亦た人情なり。宜しく厚く賜ひて以て之れを栄へしめよ。遂に綵幣表裏・襲衣及び鈔を賜ひ、道里の費と為さしむ。仍ほ兵部に命じて、駅伝を給ふ。」
この記事については『明実録』の同日の条にほとんど全く同じ記事が見られる。『南雍志』編纂時に『明実録』を参照したとは思われないから、この記事は南京国子監に残されていた档案を参照して記されたと考えるべきであろう。記事の内容自体は『明実録』によってよく知られているが、これまで見てきた事例からして、この後彼が再び国子監に戻ってきた可能性も十分に考えられる。しかし以上確認しただけでも、一度の帰省を挟んで、恐らくは永楽四年頃から同一一年まで彼が「官生」であったことがわかる。
四番目に挙げるのは周魯毎である。彼については『南雍志』事紀の永楽一一年(一四一三)二月壬子の条に次のような記述が見られる。
「琉球国中山王の思紹、使を遣はして寨官之子鄔同志久・周魯毎・恰那晟其の三人を送り、監に入れ学を受けしむ。給賜すること例の如し。」
『明実録』永楽一一年二月辛亥の条にもほぼ同様の記事が見られる。彼に関する記事はその後しばらく途絶えるが、『南雍志』事紀の永楽二〇年(一四二二)一二月壬辰の条に彼の帰国の記事が登場する。
「琉球の官生周魯毎・周弟、監に在ること三年、例として当に親を省みて国に帰るべし。礼部以聞す。上は之れに従ひ、其の国の使臣還るの日を候ちて始めて行はしむ。」
周弟については、『南雍志』儲養考・儲養生徒之名数の条の永楽一六年(一四一八)の官生付記事項に「琉球国一名、周弟」の記述が見られ、この年に派遣されたことがわかる。だとすれば実際に周弟が国子監に滞在した期間は四年になってしまうが、周魯毎も一度の帰省の後、周弟と共に永楽一六年に再入監したと考えるのが妥当であろう。
だが、周魯毎等はその後も南京国子監に残り続けた。『南雍志』事紀の永楽二一年(一四二三)四月甲寅の条には次のように記されている。
「四川・雲南の官民生駱進等六十一人、例として当に夏衣を給賜すべし。其の琉球の官生周魯毎等は尚ほ猶ほ未だ行はず。宜しく一体に給賜すべし。自後逓年の冬夏の衣服は、皆南京礼部より南京工部に行文して成造せしめ、時に依りて給賜し、奏請を待たず、著して為に馳奏し以聞せしめよ。上之れに従ふ。」
更に『南雍志』儲養考・儲養生徒之名数の条によると、永楽二二年(一四二四)まで周魯毎の名が官生の筆頭者として記載されている。周魯毎等が一緒に帰国するはずだった「其の国の使臣」は『明実録』永楽二〇年一〇月癸巳の条に見える中山王思紹の使者模都古であろうと思われるから、一二月の帰省許可からさほどの間をおかずに帰国することは可能であったと思われる。ともあれ、周魯毎は永楽一一年から同二二年まで、帰省を挟んで一一年間国子監に在籍していたことになる。
最後に挙げるのは韓寧毎である。彼の名前は『南雍志』儲養考・儲養生徒之名数の条にしか見られない。同条の永楽四年(一四〇六)の官生付記事項には、「琉球国中山王下の石達魯より韓寧毎等に至る六名」と記されており、この年に彼が国子監に入学したことがわかる。以後彼の名前は姿を消すが、時代が下って洪煕元年(一四二五)、宣徳元年(一四二六)になると、官生筆頭者として彼の名前が確認できる。同一人物とすれば二〇年間にもわたって国子監に在籍していたことになる。これまでの事例から、約三年に一度は帰省していたと考えられるが、それにしても非常に長期である。
以上、特に注目に値すると思われる五人の琉球官生を取り上げてその動向を追跡してみたが、むろんそれ以外の琉球官生についても、『南雍志』は様々な情報を与えてくれる。例えば、『南雍志』事紀の永楽七年(一四〇九)閏四月の条には次のような記事が見られる。
「琉球の官生石達魯、監に在ること三年、例として当に親を省みるべく、王舅仁悦慈と同に国に帰らんと欲す。礼部は事の外夷に属するを以て、馳駅以聞す。上之れに従ふ。」
内容自体は石達魯の帰省の記事であるが、この中に洪武二五年に派遣された官生である仁悦慈(『南雍志』では「人悦慈」とも表記)が王舅として進貢使節の正使を務めていたことが読みとれる。この回の進貢に相当する記事は『明実録』永楽七年四月癸未の条に見られるが、正使の名前は記されていない。このように『南雍志』の史料によって『明実録』の朝貢記事を補完できるということにも注意を払う必要がある。また、琉球官生の在監状況に注目してみても、先の石達魯が永楽四年に入監した後、永楽七年に帰省したことが確認できる他、永楽一一年(一四一三)に入監した鄔同志久は儲養考・儲養生徒之名数の条によって永楽一五~一七年(一四一七~一九)の在監が確認できる。また永楽一二年(一四一四)の官生付記事項に鄔同志久等と共にその名が記されている散皆益(久)は、同一三・一四年(一四一五・一六)の官生筆頭者としてその名前を残している。『明実録』でその在監が確認される益智毎は、永楽一七年(一四一九)の官生筆頭者として「益致毎」という名で記録されている。
もちろん『南雍志』によっても琉球官生の動きを完全に捉えることはできないが、これまでの検討によって、幾つかの特徴をつかむことはできる。
まず第一に、確認しうる限りにおいてではあるが、洪武二五年の琉球官生派遣開始以来宣徳元年に至るまでの間、南京の国子監には必ず琉球官生が滞在している状態が続いていたということである。『南雍志』儲養考・儲養生徒之名数の条を見ても、官生の記述自体が脱落している永楽五年(一四〇七)を除けば、筆頭者の名前は必ず「琉球国等処」の何某とあり、琉球官生の滞在を示している。後代の琉球官生はそれぞれの派遣が単発であり、国子監に琉球官生が滞在していない時期の方がはるかに長いから、このことは注目すべき事実といえよう。
第二に、長期にわたって国子監に滞在していた琉球官生が多数確認できるということである。途中に帰省の時期を挟むとはいえ、三五郎亹や韓寧毎のように滞在期間が二十年間にもわたる事例は、後代の琉球官生の事例と比較して異常というべきであるし、十一年間の周魯毎や八年間の李傑、七年間の模都古等も従来考えられていたよりはるかに長期にわたって滞在していたのであった。また『明実録』同様、『南雍志』事紀も琉球官生の入監・帰省に関わる記事をきちんと網羅しているとは到底言い難いから、この時期の琉球官生は実際には更に長期にわたって国子監に滞在していた可能性を意識しておく必要があろう。そのように考えれば、冒頭で挙げた伊波氏の「学に馴れない貴公子の連中は到底長期の修学にたへないで」という見解は全く事実に反することになる。
第三に、長期にわたって国子監に滞在していた琉球官生も、三年が過ぎると決まったように帰省を願い出、帰省して再び国子監に戻ってくるということである。これまで見てきた帰省の記事のほとんどに「監に在ること三年」という表現が見られることは繰り返すまでもあるまい。これについては洪武一六年(一三八三)には両親が健在である国子監生は入学して三年が過ぎたら期限を立てて帰省させよという命令が出されているから、この命令に則って琉球官生も三年毎に帰省を願い出たと考えられる。ただし、琉球官生の場合、帰省するには必ず海を渡らねばならず、果たして他の国子監生のように帰省の際に期限が立てられたかどうかは定かではない。問題はそうして帰省した琉球官生が再び国子監に戻ってくるということである。当時の交通事情を考えれば、南京と琉球の間を一往復するのは決して容易なことではない。何故当時の琉球官生がこのようなリスクを背負ってまで三年毎に琉球と国子監の間を往復したのかということについては、次の章に論を譲りたい。
第四に、三五郎亹のような、国子監の官生でありながら同時に進貢使節の正使を務める人物が存在するということである。こうした状況が生じた最大の理由は、彼の肩書きにあるだろう。つまり、彼は初め山南王承察度の姪であり、次いで中山王察度の従子となり、さらに中山王武寧の姪、そして中山王思紹の姪となっているが、「王の姪(従子)」であるという点では一貫していた。琉球官生派遣開始の経緯で見たように、派遣されるべき官生は寨官の子弟であったから、王の姪であった三五郎亹は他の官生より一段高い位置付けがなされたと考えられる。そのことは洪武二九年二月の帰省の際、寨官の子の実那盧亹等への下賜品が鈔二十錠・綵段一表裏だったのに対し、三五郎亹への下賜品は白金七十両・綵段六表裏・鈔五十錠と破格であったことからも裏付けられる。そのような待遇を受けていたからこそ明朝も彼を正使として認め、また琉球側も彼に対して王の姪という肩書きを保障し、正使の役割を委ねたのであろう。彼の事例は国子監に長期滞在する官生が進貢業務の一端を担っていたことを示す貴重な実例ということができよう。
第二章 第一期琉球官生派遣の意義
一、琉球から見た派遣官生の役割
従来の研究において、第一期を含めた琉球の官生派遣は中国の文化吸収、もしくは進貢業務に必要な語学能力を修得するための手段として捉えられてきた。しかし前章の『南雍志』を主とした検討によって第一期の琉球官生像が覆された以上、この従来の見解も再検討されねばならないだろう。本節では、明代初期に存在した他の朝貢国や土官からの官生派遣の事例を適宜参照しつつ、この時期の琉球官生の役割について考察を加えたい。
『南雍志』儲養考の儲養生徒之定制によると、明代初期には琉球の他に高麗・日本・雲南囉囉等土官からも官生が派遣されていたという。その内日本から派遣された官生については、『明実録』『南雍志』共にごくわずかな記事を載せているに過ぎない。『明実録』には、洪武二二年(一三八九)一〇月丁酉の条に「日本生滕佑壽等」への給賜の記事があり、翌二三年(一三九〇)九月の条には「日本国王子滕佑壽」への給賜の記事が見える。さらに翌二四年(一三九一)五月乙巳の条には「滕祐壽」を観察使に任命するという記事が見られる。『南雍志』では事紀・洪武二三年五月辛亥の条に日本生が「入監」したという記事が見られ、洪武二二年に既に日本生の存在を示す『明実録』と食い違うが、日本生の存在自体は疑うべくもない。ただし、この時期の明朝と日本との関係は非常に悪化しており、そういった状況下で何故日本から官生が派遣されたのかは不明である。
高麗は宋朝以来中国の国子監へ留学生を多数派遣してきた経緯もあり、明朝成立直後には既に官生派遣を行なっていた。『高麗史』世家の恭愍王一九年(一三七〇・洪武三年)九月辛丑の条によると、この時に朴實・金濤・柳伯濡の三人を「挙子」として明朝へ派遣している。『高麗史』には国子監入学という表現は使われていないが、『南雍志』儲養考・儲養生徒之定制の条には金濤等が国学に入り学習したとあるから、国子監への留学生であったことは間違いない。ただし、彼等高麗からの留学生の目的はあくまでも科挙受験にあったらしく、翌洪武四年(一三七一)の科挙においては金濤のみが進士となり、県丞の役職を与えられたものの、中国語が不得手なことと親が年老いていることを理由に辞退し、他の留学生と共にすぐに帰国している。翌洪武五年(一三七二)に高麗は再び国子監への留学生を派遣するが、洪武帝は外国の子弟を受け入れることは親子を引き離すことになり、そのようなことは強制できないとして、遠回しに拒絶している。その理由としては前年金濤が進士に及第しながら官職に就こうとせず帰国してしまったことに洪武帝が失望した結果とも考えられなくはないが、むしろその頃から現実問題となり始めた遼東を巡る両国の対立の影響が大きいように思われる。以後高麗から国子監への留学生を派遣した事例は確認できない。
雲南・四川などの土官からもその子弟が派遣されたことは前述の通りである。国子監では官生となった土官子弟のみならず、彼等の支配地域から選抜された民生も同様の扱いを受けていたが、これらの民生については取りあえず検討から除外したい。土官から派遣された官生の存在は、洪武一五年(一三八二)の明朝による雲南平定の後に確認できる。個別の事例は多数存在するが、その中でも特に洪武二三・二四年(一三九〇・九一)に派遣が集中している様が見て取れる。これらの事例を並べてみると、この時期に官生を派遣した土官は、すべて四川・雲南・貴州が境を接するごく限定された地域に集中していることがわかる。この地域では洪武二一年(一三八八)六月に東川諸蛮の反乱が起こっており、それに対して明朝は頴国公傅友徳等を派遣して鎮圧に当たらせている。翌二二(一三八九)年三月、明朝は反乱を鎮圧した傅友徳等の軍を湖広・四川の各衛に分駐させるという行動に出た。これらの駐屯地のほとんどは官生派遣を行なった土官の支配地域とは重ならないが、その地域を囲むように配置されていた。この地域での東川諸蛮に続く反乱の発生を想定し、それを未然に防ぐためにこの地域の少数民族を威圧することがこの駐屯の目的であったことはほぼ間違いない。多賀周五郎氏は「明太宗の学校教育政策」の中で、永楽四年(一四〇六)の車里・木邦・麓川等処宣慰使の刀暹答からの子弟派遣の事例を引いて、これが国子監への留学生派遣に名を借りた人質であることを永楽帝が見破り、人質を取る意志がないことを告げて帰らせたという記述から「これは、太宗の意向に、留学生を人質的に取り扱う意志がないことをしめすものである」と結論づけている。だがこのエピソードは、むしろ当時において国子監への留学生派遣が人質を差し出す目的で行なわれていたことを示すものであり、土官からの官生派遣もそのような動機から行なわれていたことは間違いあるまい。
これら他の朝貢国・土官から派遣された官生達と琉球官生を比較するとき、琉球官生の派遣の中に人質を差し出すといった意図は想定できない。何故ならば、琉球には雲南・四川等の土官における傅友徳軍駐屯のような明朝の脅威が存在せず、従って人質を差し出す動機が存在しないからである。また人質を差し出すのであれば、派遣されるのは王族の子弟であるべきで、基本的に寨官の子弟を派遣していたという状況からも琉球官生が人質としての意味を持っていなかったことは明白である。
だとすれば、琉球官生の派遣の動機は一体どのようなものだったのであろうか。この問題を考える際手がかりとなるのが、前章で明らかになった琉球官生の在監状況である。琉球官生個人が長期にわたって国子監に滞在しているのみならず、第一期全体で見ても、官生派遣開始以後、常に国子監に琉球官生か滞在する状態が保たれていた。これに比べて洪武二三・二四年に派遣された雲南・四川官生たちは、一、二年の内に潮が引くように国子監を離れている。彼等の帰郷について『明実録』にはさしたる記載はないが、『南雍志』事紀は雲南・四川官生の大量帰郷の事実を記載している。『南雍志』儲養考・儲養生徒之名数の条に記載されたこの時期の官生の在監数もそれを物語っている。洪武二四年の在監官生は四十五人であり、雲南・四川から大量に官生が派遣された事実を反映しているが、琉球官生の派遣が開始された翌二五年には十六人、更に同二六年には四人と大きく減少してしまう。琉球からは洪武二五年に中山から日孜毎・闊八馬・仁悦慈、山南から三五郎尾・実他慮尾・賀段志が、翌二六年には中山から段志毎が派遣されており、洪武二六年の四人はすべて琉球官生であったと断定できる。以後洪武年間の官生はすべて琉球官生であったと考えられる。つまり、雲南・四川から大量に派遣された官生は洪武二五年の内にすべて国子監を去っていたのである。彼等と比べてはるかに長期にわたって、しかも切れ目なく国子監に常駐し続けた琉球官生の特異性は、科挙受験ののち間をおかずに帰国した高麗の留学生の事例と比べても明らかである。
琉球官生が長期にわたって国子監に滞在しなければならなかった理由とは一体どのようなものであろうか。注目されるのは、二十年にわたって国子監に籍を持っていた三五郎亹の事例である。彼が官生でありながら同時に進貢使節の正使として史料に名を残していることは、前章で述べた。彼のケースは王の従子という肩書きを考慮する必要があり、決して一般化して考えることはできないが、官生の派遣と朝貢業務の結びつきを示しているという点は無視できない。国子監に籍を置き京師に長期滞在することが、彼の朝貢業務の遂行にとって有利だったと考えられる。『明実録』では進貢使節の正使もしくはそれに準ずる地位の人物の名前しか記していないので、三五郎亹以外の官生が朝貢業務の一端を担っていたとしても記録に残る可能性はまずない。しかし京師に長期滞在する官生の存在が、京師の事情・情勢を詳細につかみ、朝貢業務を円滑に遂行していく上で非常に有益なものであったことは十分に想定できる。田名真之氏によると、当時の朝貢使節の規模は後代のそれよりもかなり大きなものであった。このような使節が毎年のように京師を訪れる状況下では、琉球官生のサポートは非常に有用なものであったに相違ない。彼等は明朝との朝貢業務を通事役などの形で補完するのみではなく、使節の私貿易を含む交易活動においても活躍したものと考えられる。長期滞在の利点としてはもう一つ、語学修得に絶好の環境であることも挙げられるが、直接朝貢業務を担うに足る語学能力を持つ人材を養成するのが主目的であるならば、同じ人物を長期にわたって派遣するよりもむしろ派遣期間を数年に限定し、より多数の官生を派遣する方が効率がよいはずである。朝貢業務との関わりで官生派遣を考えるならば、彼等の国子監在学の意義を語学能力の修得のみに限定せず、国子監に滞在すること自体に注目すべきであろう。琉球官生の派遣・在監の状況を踏まえるならば、その意義は琉球の朝貢業務を補完する、いわばサポーターとしての役割に求められるべきであり、語学修得は第二義的な位置付けに留まるものと考えられる。
以上のように考えるとき、前章で確認した琉球官生の帰省→復監の動きについても再考する必要がある。先に述べたように両親が健在である国子監生は入学して三年経てば親元に帰省せしむべしとの命令が出されてはいる。しかしその意図からして、この命令が三年在学した国子監生を強制的に帰省させるものであるとは考えにくい。これまで見てきた事例も、多くの場合琉球官生の側から帰省を願い出るという形を取っている。琉球官生にとって親元へ帰省するということは危険な航海を意味するのであるから、仮にこの命令が強制力を持ったとしても琉球官生が素直に従うとも思えない。むしろ、琉球官生にとって相応の利益をもたらすが故に、この三年毎の帰省が行なわれたと考えるのが妥当ではなかろうか。その場合彼等の移動に伴う個人レベルの交易を考慮に入れる必要があろう。当時の琉球の朝貢使節が、国王・世子の進貢物・附搭物の他に各個人で品物を携帯し貿易を行なったことはよく知られているが、琉球官生の中琉間往復の際にも同様のことが行なわれていたと考えるべきである。なお、前章で挙げた永楽一一年の李傑の事例についても、父が病気となったので見送るという理由で国子監を離れているが、彼の場合も永楽七年の復監から約四年が経過しており、親元に帰省するという意味では他の三年帰省の事例と同様である。或いは彼も福州との往復の間に何らかの交易活動を行なっていたのかも知れない。ともあれ、琉球官生はこのように三年帰省の規定を逆手にとって交易活動に従事していたものと思われる。
以上のように、琉球官生は京師の国子監に長期滞在することができるという利点を最大限生かした活動を行なっていたと思われるが、では何故、宣徳元年を最後に琉球官生の存在が確認できなくなるのであろうか。その最大の原因は、北京遷都による朝貢使節の目的地の移動に求められよう。もともと永楽帝は外征で南京を留守にし、北京を「行在」と称して滞在することが多かったが、その間も皇太子が代わりに政務を司り、琉球使節も南京にやってきて朝貢を行なっていた。しかし永楽一九年(一四二一)の北京遷都以後、朝貢使節の目的地も南京ではなく、北京に変わる。この後洪煕元年(一四二五)には再び南京が京師となり、正統六年(一四四一)に至るまで北京は「行在」と呼ばれることになるが、その間も実質的には北京が政治の中心であり続け、南京は名ばかりの京師に過ぎなかった。実際、朝貢使節も南京ではなく、「行在」である北京に赴いている。つまり、永楽一九年を境に、朝貢使節の目的地は南京から北京へと移動したのである。
この事態の変化は、琉球官生の存在意義に関わる重大事件であった。朝貢事務のサポーターとしての役割を担っていた彼等にとって、もはや南京の国子監に滞在することはさしたる意味を持たないことであった。その五年後の宣徳元年(一四二六)を最後に琉球官生は南京国子監から姿を消すことになるが、この年は南京還都を推し進めようとした洪煕帝が死去し、南京への実質的な還都の動きに変化が生じた年でもあった。琉球官生派遣の第一期は、このような政治の中心の移動によって幕を下ろされたのである。
このように考えるとき、当然の疑問として、何故琉球官生を北京の国子監に滞在させることができなかったのかという問題が生じてくる。北京遷都の際に、琉球側が琉球官生の北京国子監派遣という手段を模索したことは当然想定しうる。しかし現実はそうならなかった。その理由を考えるためには明朝側の琉球官生に対する姿勢の変化を視野に入れなければならないが、詳しくは次節で検討したい。
二、明朝の外交政策と琉球官生
琉球にとっての官生派遣は朝貢業務を補完する役割を持っていたとしても、一方の当事者である明朝にとっての官生の受け入れが如何なる意味を持っていたかという問題は依然として存在する。前節で触れたように、高麗から派遣された留学生が受け入れを拒否されたという事例が存在する以上、外夷留学生の受け入れを華夷思想に裏付けられた普遍的な事象とみなすことはできない。明朝が琉球官生をどのように位置づけていたかを示す史料として、『明実録』洪武三〇年(一三九七)八月丙午の記事を見てみよう。
「礼部奏すらく、諸番の国の使臣客旅を通ぜず。上曰く、『洪武の初め、海外の諸番、中国と往来し、使臣は絶へず、商賈は之れを便とし、近しき者は、安南・占城・真臘・暹羅・爪哇・大琉球・三仏斉・渤尼・彭亨・百花・蘇門答剌・西洋・邦哈刺等凡そ三十国たり。胡惟庸乱を謀るを以て、三仏斉は乃ち間諜を生み、我が使臣の彼に至れるを紿むく。爪哇国王は其の事を聞知し、三仏斉を戒飭し、礼送し還朝せしむ。是の後、使臣商旅は阻絶し、諸国王の意は、遂に爾くのごとく通ぜざるなり。惟だ安南・占城・真臘・暹羅・大琉球は、入貢してより以来、今に至るまで来庭す。大琉球王と其の宰臣とは、皆子弟を遣はし、我が中国に入りて学を受く。凡そ諸番の国の使臣来たれば、皆礼を以て之れを待す。我が諸番の国を待するの意は薄からざるに、但だ未だ諸国の意は若何なるを知らず。今使を遣はして爪哇国に諭せんと欲するも、三仏斉の中途にて之れを阻むを恐る。聞くに三仏斉は爪哇の統属するに係る。爾礼部は備に朕の意を述べ、暹羅国王に移文して、人を遣はし爪哇に転達して之れを知らしめよ。』是に于て、礼部は暹羅国王に咨して曰く、『天地有る自り以来、即ち君臣上下の分有り、且つ中国・四夷の礼有るは、古自り皆然り。我が朝混一の初めより、海外の諸番、来庭せざる莫し。豈に胡惟庸の乱を造るを意ひ、三仏斉乃ち間諜を生み、我が信使を紿むき、肄行巧詐す。彼れ豈に大琉球王と其の宰臣、皆子弟を遣はし我が中国に入れて学を受けさしめ、皇上は寒暑の衣を賜ひ、疾有らば則ち医に命じて之れを診さしむを知らざるや。皇上の心は、仁義を兼ね尽くせり。皇上は一に仁義を以て諸番の国を待す。何ぞ三仏斉諸国は大恩に背かん。……(後略)』」
文書のやり取りが込み入っているが、この史料によると礼部から暹羅国王へ咨文を送り、暹羅国王から更に三仏斉の宗主国と思われていた爪哇を経て三仏斉に洪武帝の意向を伝えようとしている。礼部から三仏斉へ伝えられるべき内容の中に、琉球からの官生派遣の事例が含まれている点が興味深い。この内容が直接伝えられるであろう暹羅・爪哇・三仏斉はもちろん、その他の海外の諸番の国に対しても、皇帝の寛大さを強調し、朝貢を促すための修辞として琉球官生の事例が挙げられているのである。この史料を読む限り、中華皇帝は朝貢国が臣下の礼を取りさえすれば寛大な待遇でそれに応じることを表明し、その好例として琉球官生を位置づけていると言うことができる。
そもそも朝貢という形態自体が、中国王朝と外夷それぞれとの関係によって実態を様々に変化させるとはいえ、中華の威光を天下に誇示するという性格を持っていたことには異論がないであろう。特に建国当初の段階で多くの朝貢国を集めることは朝廷の正統性を認めさせるためにも重要であり、国内の支配を円滑に進める上で有効であったに違いない。留学生を受け入れるという行為も大筋で同様の意味合いを持っていたのではないだろうか。無論、その時々に訪れすぐに帰ってしまう朝貢使節と、長期にわたって京師に滞在する留学生とでは、その扱いが異なるのは当然である。前節で挙げた高麗の留学生受け入れ拒否の事例も、遼東を巡って高麗と明朝が対立する情勢の中、高麗からやってきた留学生が京師に長期滞在し、諜報活動などを行なうことのできる環境を与えることを洪武帝が嫌ったとは考えられないだろうか。外夷から派遣された留学生の受け入れを拒否した事例としては、他にも洪武一八年(一三八五)の四川建昌衛指揮使の月魯帖木兒が一家を挙げて京師に留まり、その子を国子監に入学させようとした事例が見られる。彼は元朝の遺臣であり、その名からもモンゴル人と推定されるから、明朝も彼を北元につながる要注意人物とみなしていたことは十分に考えられる。やはりその諜報活動を恐れて京師に留まることを許さなかったのではなかろうか。こうした事例に対し、洪武二〇年代にはほぼ朝貢断絶状態にあった日本からの留学生が官生として受け入れられている事例の存在は、その経緯が不明であるとはいえ、興味深い。留学生の受け入れが必ずしも朝貢関係の善し悪しによって左右されないことをこの事例が示している。更に言うならば、明朝は留学生が京師に長期滞在するという側面を殊更に意識し、その受け入れが明朝の支配に不安定要因をもたらすか否かによって対応に変化をつけているように思われる。
このように他の事例と比較する時、琉球官生の受け入れが明朝の支配に不安定要因をもたらすと考えられる条件は見当たらない。まして琉球は明代に入ってから朝貢国に仲間入りした国である。その琉球を手厚くもてなすことは、明朝の中国王朝としての威信を高める上で非常に効果的であり、それは国内支配や対外政策といった現実の政策とも密接に関係するものであった。例えば度重なる海船の支給に見られる琉球に対する破格の待遇は、明朝がその支配を進めていく上で重要な意味を持っていたのである。琉球官生の派遣許可も同様の意図によるものと考えてよかろう。
だとすればなおのこと、北京遷都に伴って琉球官生が北京国子監に入学しなかったことが不思議に思えてくる。琉球官生の存在が明朝の威信を高めるのであれば、彼等を京師に連れてくる方がより効果的であるはずである。だが現実に明朝は琉球官生を北京に滞在させることをしなかった。この事実は明朝の国内支配・対外政策における琉球官生の存在意義の低下を物語るものであるとはいえないだろうか。洪武帝は明朝の創始者であり、また永楽帝は靖難の変で建文帝から帝位を奪った簒奪者であった。よって彼等にとっては、如何にして確固たる支配体制を築き上げるかが最大の関心事となった。民間の自由な交易に制限を加え、華夷秩序を前面に押し出した外交姿勢を採ることも、彼等にとっては自らの正統性を証明し、その支配の正当性を認めさせる重要な手段であり、琉球官生を手厚くもてなすこともその範疇に含まれていたに相違ない。逆に考えれば、明朝の支配体制が一応の完成を見たとき、琉球官生の厚遇は現実問題としてはさしたる意味を持たなくなる。北京への遷都を実行し、その新都に琉球官生を連れていかなかった事実は、明朝の支配体制の確立を象徴する出来事であったのかも知れない。そして、琉球にとっての琉球官生があくまでも京師における朝貢業務のサポーターとしての存在を越えないものであったとすれば、その事実はすなわち琉球官生の派遣中止をもたらすもの以外ではあり得なかったのである。
第一期の琉球の官生派遣が中止されてから五十余年が経過した成化一八年(一四八二)、蔡賓等五人が中山王尚真によって派遣され、第二期の官生派遣が開始されることとなる。しかし彼等の宿舎は「監前」に建てられた「王子書房」ではなく、南京国子監の一番奥の光哲堂であった。この事実も、琉球官生に対する明朝の位置付けの変化を象徴するものといえよう。
むすびにかえて
琉球官生の派遣は第一期が終了した後も、幾度かの中断期を挟みながら琉球が朝貢国としての歴史を閉じる直前に至るまで、約五百年間にわたって実施され続けた。彼等琉球官生の存在が中国王朝と琉球の間の親密な友好関係を象徴するものであることに異議を差し挟むつもりはない。だが、彼等が国子監に入学した留学生であったから、彼等を中国王朝が厚遇したからといって、琉球の官生派遣の意義を彼等の学問にのみ求めようとしたり、琉球官生受け入れの史実を中国王朝の友好的態度の表れとのみ判断するのは危険であろう。琉球の官生派遣は琉球側の朝貢業務遂行上の必要から行なわれ、明朝も彼等の受け入れが自らの支配を強固にする上で役に立つと判断すればこそ彼等を厚遇したのである。そして北京遷都とそれに伴う支配体制の一応の確立が、明朝にとっての琉球官生の存在意義を低下させたと思われる。一方琉球にとっても京師に駐在しない官生をわざわざ派遣する意義が低下したことが、結果として第一期の官生派遣を終了させることとなった。第一期の琉球官生はこのような意味で、まさに明代初期の中琉関係を如実に反映したものであるといえよう。
第二期以降の琉球官生派遣について詳しく述べることはできないが、彼等の派遣は必ず当時の中琉関係の産物であり、派遣する琉球の側にも受け入れる中国王朝の側にもより積極的な意図が見出されるはずである。朝貢国としての琉球の歴史を通して存在した琉球官生の存在意義の変化は、そのままその当時の中琉関係における双方の外交姿勢の変化を示すであろう。その意味で、琉球官生の存在が中国史・琉球史に果たした役割は決して過小評価されるべきではない。
『南雍志』は琉球官生関連の記述という点から評価する限り、必ずしも質・量ともに豊富な史料ということはできないかも知れない。しかし国子監という現場において、琉球官生により近いところで編纂された史料であるという点で、この書物は我々に様々なことを教えてくれる。琉球史研究にとって、『歴代宝案』や清朝の档案史料のように膨大に残されている史料を如何に読み込んでいくかということは確かに至上命題である。だがこれらの史料と同時に、より現場に密着した史料に目を配ることも必要であろう。『南雍志』に限らず、まだまだ多くの漢籍史料の中に、琉球関連の史料が眠っているはずである。それらに目を向けることは『歴代宝案』や档案史料を活用していく上でも必ず重要となってくるに違いない。
なお、この論文を作成するに当たり、京都大学人文科学研究所により提供された書誌データペースであるCHINA3を利用した。
註(1)従来の諸研究によると、第一期は一三九二年(洪武二五)から一四一六年(永楽一四)まで、第二期は一四八二年(成化一八)から一五八七年(万暦一五)まで、第三期は一六八六年(康煕二五)から一七六四年(乾隆二九)まで、第四期は一八〇二年(嘉慶七)から一八七三年(同治一二)までということになっている(ただし、ここに挙げた下限は最終回派遣官生の帰国年もしくは国子監に存在したことが確認される最終年を指す)。この内第一期の下限年については本論考の検討対象となる。
(2)『伊波普猷全集』第一巻、平凡社、一九七四年、所収。
(3)伊波前掲論文、一二二頁~一二三頁。
(4)『真境名安興全集』第一巻・第二巻、琉球新報社、一九九三年、所収。
(5)『仲原善忠選集』上巻、沖縄タイムス社、一九六九年、所収。
(6)『中山世譜』には一七〇一年編纂の蔡鐸本と一七二五年編纂の蔡温本が存在するが、ここで『明実録』系史料とするのは、『中山沿革志』を用いて蔡鐸本を改訂した蔡温本である。従って蔡鐸本『中山世譜』及びそれ以前に編纂された向象賢の『中山世鑑』の琉球官生関連記事は区別して検討すべきであるが、両書の成立年次が『明実録』、『南雍志』に比べてかなり下ることから、本論では特別な場合を除き触れないことにする。
(7)『お茶の水女子大学人文科学紀要』、第二四巻第二分冊、一九七一年三月、所収。
(8)むろん従来の官生研究において、『明実録』系史料以外の史料が用いられなかったという訳ではない。前掲の伊波・真境名・仲原の各氏は『明実録』の史料を直接扱うことができない状況にあり、主に『中山世譜』、『中山沿革志』、『明史』琉球伝、『琉球入太学始末』等の史料を駆使して第一期の官生派遣の状況を検討している。前二者は本論中で述べたとおりだが、『明史』琉球伝は『明実録』を基本的に参照しながら同時に『明実録』に見られない記述を幾つか含んでいる。また『琉球入太学始末』は、清代初期の第三期の琉球官生派遣が開始された直後にもと国子監祭酒の王士禛によって著されたものだが、明代の琉球官生に関連する記述について「査太學志載……」とし、「太学志」なる書物を参照している。この「太学志」とは『皇明太学志』を指すものと思われるが、管見の限りではこの書物は日本に存在しないようである。『琉球入太学始末』は後に触れる永楽二年の三五良亹ら九人の入監を記載しており、『南雍志』同様「太学志」も国子監関係の記録・档案に基づいた書物であると思われる。しかし、和田氏によって『明実録』の記事を直接しかも簡便に利用できる環境が実現すると、これら『明実録』によって裏付けられない記述は無視されるか、或いは触れられるにしても『明実録』の記事に比べて軽視されるようになった。徐玉虎氏「明琉球官生入太学事蹟考実(上・下)」(『東方雑誌』復刊第一九巻第一〇期・第一一期、一九八六年四月・五月、所収)は『琉球入太学始末』の記事を検討の対象に加えておらず、また『中山世譜』蔡鐸本或いは『中山世鑑』の記事には触れているが、あくまでも『明実録』の記述を重要視し、『明実録』と合わない記事に対して疑問を投げかけている。
(9)江蘇省立国学図書館影印本と比較すると、多少の誤字・脱漏があり、また図を欠いているが、テキストの体裁自体は同一である。四巻本の巻一の末尾に「光緒廿九年冬十一月国子祭酒毓隆借鈔一分〈卅年四月還〉」「道光三年秋七月国子典簿葉志□借鈔一分」という書き込みがあることから、少なくとも道光三年(一八二三)以前に嘉靖二三年序刊本から筆写された可能性が高い。
(10)例えば、喜舎場一隆氏「琉球国の官生について」(『戦国織豊期の政治と文化』続群書類従完成会、一九九三年、所収)、六一五頁。伊波氏の表現は、その文意のみに注目すれば必ずしも史料用語としての「官生」を定義づけるものではないが、「官費留学生」の「官」と「生」の傍らに丸をつけており、「官生」イコール「官費留学生の略称」という見解を表している。
(11)仲原前掲論文、五三〇頁。
(12)『沖縄文化研究(法政大学沖縄文化研究所紀要)』一七、一九九一年三月、所収。
(13)『南雍志』、儲養考上(巻一五)、進修本末の条。原文は「太祖高皇帝初定國子、爲官生・民生二等。官生取自上裁、民生則由科貢制也。」
(14)同書、同巻、儲養生徒之定制の条。原文は「洪武元年、生徒選入國子學者、品官子弟爲官生、民間俊秀爲民生。」
(15)同書、同巻、同条。原文は「官生分二等。一曰品官子弟。二曰外夷子弟。品官自一品至七品、皆得廕敍。然皆出自特恩、無敢陳乞者。稽之故牘、無所於徴。惟洪武末、故尚書呉雲子黻、廕國子生、以其死事雲南、乃䘏典也。宣徳中大理寺卿湯宗子沐・正統初檢討掌助教事王仙會子旒等、始乞恩得入監。……」
(16)『続文献通考』、巻四七、学校一。原文は「自是、日本・琉球・暹羅諸国、皆有官生入監讀書。朝廷輒加厚賜、并給其從人。雲南・四川等土官、時遣子弟・民生入監者甚衆、給賜與日本諸國同、監前別造房百間居之。……蔣一葵『長安客話』曰、國初、高麗遣金濤等入太學。其後各國及土官亦皆遣子入監、監前別造房居之、名王子書房。……」。ただし、ここに挙げられている「暹羅」は、「囉囉」の誤りであろうと考えられる。『万暦大明会典』、巻二二〇、国子監の条を参照すると、「凡日本・琉球・暹羅諸國官生。洪武・永樂・宣徳間、倶入監讀書。賜冬夏衣・鈔・被・靴襪、及從人衣服。成化・正徳中、惟琉球官生有至者。或五名、或三・四名、倶入監。」とあるが、この記述の基となったと考えられる『正徳大明会典』、巻一七三、国子監の条には「洪武・永樂・宣徳間、日本・琉球・囉囉諸國官生、入監讀書。成化間。琉球國官生、入監。」「凡日本・琉球・囉囉諸國官生、倶賜冬夏衣・鈔・被・靴韈、及從人衣服。」とある。つまり、『正徳会典』では「囉囉」となっている箇所を『万暦会典』では「暹羅」と読み替えているのである。「囉囉」とは現在イ族・ロロ族と呼ばれる少数民族を指す。『万暦会典』の編者は日本・琉球と「囉囉」が並んでいるのを『正徳会典』の誤りとみなし、「暹羅」と読み替えたのか、或いは単なる筆写時のミスなのかはわからない。ただし、暹羅から派遣された官生の事例が確認できないこと、囉囉官生については雲南・四川などの土官から派遣された事例がいくつも確認できることから、暹羅から来た官生は存在しなかったと考えてよかろう。
(17)例えば、『明太宗実録』、永楽一〇年六月癸亥(一〇日)の条。「賜国子監琉球國・雲南・四川官民生懐徳等一百三十六人夏布・襴衫・絛靴。」。この記事に見られる「官民生」という用語について、和田前掲史料集は疑問を投げかけ、「官民」の語を「土官」の誤りではないかとしているが、これまで見てきたように「官民生」で何等問題はない。
(18)『南雍志』、事紀一(巻一)、洪武二四年三月辛卯(四日)の条。原文は「『南雍志』中の琉球官生関連記事」(以後「記事」と略称)(A一)参照のこと。
(19)「寨官」という用語は、琉球のグスクの主を表すものとして大筋で認められているが、異論もある。だが『明実録』による限り、少なくとも琉球関連の記事において「寨官」という用語は洪武二五年の官生派遣記事以前には見られない。その前年の諭旨に「寨官」の用語が存在する以上、そこに琉球側の働きかけがあったと見るのが自然であろう。
(20)なお、徐氏前掲論文(上)は三六頁で琉球官生派遣の開始に関連して、向象賢の『中山世鑑』及び蔡鐸本『中山世譜』の記事を引用している。「明洪武二十二年己已、中山王察度遣子弟、入國學讀書習禮。是球人入唐始也。」(『世鑑』)。「明洪武二十二年己巳、初遣子弟、入監讀書。」(『世譜』)。
これらの記事について、徐氏は「異説」とのみ記しているが、或いはこの記事は洪武二四年の派遣許可以前に行なわれた琉球側の官生派遣要請の動きを示すものかも知れない。
(21)『南雍志』、事紀一、洪武二六年七月乙卯(一二日)の条。原文は「言官劾、祭酒胡季安受外夷子入學束修。季安請罪。上察而宥之。」
(22)外夷の子の「束修」を受け取った祭酒の胡季安は、『南雍志』事紀によると、洪武二四年二月戊午朔(一日)に試祭酒となり、翌二五年正月癸未朔(一日)に祭酒に任じられているから、二四年三月の琉球官生派遣許可の決定に関与し、それに対して謝礼を受け取った可能性も否定できない。しかし、この謝礼はむしろ琉球官生の今後の活動のための付け届けであったように思われる。
(23)『歴代宝案』校訂本、第一冊、一-一八-〇一。
(24)『明憲宗実録』、成化一八年四月甲辰(六日)の条。
(25)例えば生田滋氏「琉球国の『三山統一』」は、三五郎亹の肩書きが山南王承察度の姪から中山王察度の従子、更に中山王武寧の姪と変化していることに注目し、この三者が兄弟であったと結論している。それに対して和田久徳氏「琉球国の三山統一再論」は山南王の姪の「三五郎尾」は官生であり、中山王の姪の「三五郎亹」は使者であって、名前の漢字も書き分けられていることから別人であるとされている。両者の主張の妥当性はともかく、この人物が山南と中山の関係を考える上で注目に値するということは確かであろう。
(26)『明太祖実録』、洪武二五年一二月庚申(一四日)の条。「琉球國山南王承察度、遣使南都妹等、貢方物。并遣姪三五郎尾及寨官之子實他盧尾・賀段志等、赴國子監讀書。詔賜三五郎尾等鈔各五錠・襴衫・緇巾・皀絛・靴韈并文綺・紬絹衣各一襲。」
同書、洪武二九年二月戊申(二〇日)の条。「詔遣國子監琉球生三五郎亹等歸省。賜三五郎亹白金七十兩・綵段六表裏・鈔五十錠、寨官子實那盧亹等鈔二十錠・綵段一表裏。」
同書、同年一一月戊寅(二四日)の条。「琉球國山北王攀安知、遣其臣善佳古耶等、中山王世子武寧、遣其臣蔡奇阿勃耶等、貢馬三十七匹及硫黄等物。并遣其寨官之子麻奢理・誠志魯二人、入太學。先是、山南王遣其姪三五郎亹、入太學、既三年歸省。至是、復與麻奢理等偕來、乞入太學。詔許之、仍賜衣巾・靴韈。」
(27)『南雍志』、事紀二(巻二)、永楽二年一一月甲子(二六日)の条。原文は「記事」(A九)参照のこと。
(28)『明太宗実録』永楽三年三月甲辰(九日)の条、同年同月癸亥(二八日)の条、永楽四年三月壬辰(二日)の条、永楽五年四月乙未(一一日)の条、永楽八年三月辛未(五日)の条、同年一二月丙辰(二四日)の条、永楽九年二月癸已(二日)の条、同年一一月辛巳(二四日)の条。うち永楽三年三月癸亥の条と永楽九年二月癸巳の条は賜宴の記事であり、この間に彼を正使とする朝貢使節は計六回「派遣」されたことになる。なお、永楽三年一二月戊子(二六日)の条、永楽四年正月甲午(三日)の条(前条と同じ使節の可能性大)に見られる朝貢使節は使者の名前が記されていないが、或いは三五郎亹が正使であった可能性がある。
(29)『南雍志』、事紀二、永楽三年五月乙巳二一日)の条。原文は「記事」(A一〇)参照のこと。また『明太宗実録』、永楽三年五月乙巳(一一日)の条。
(30)『南雍志』、事紀二、永楽六年四月辛巳(三日)の条。原文は「記事」(A一五)参照のこと。
(31)同書、同巻、永楽七年一一月己卯(一一日)の条。原文は「記事」(A一八)参照のこと。
(32)同書、同巻、永楽一一年八月乙未(八月に乙未はない。「己未」の誤りとすれば一三日)の条。原文は「記事」(A二五)参照のこと。
(33)『明仁宗実録』、洪煕元年二月辛酉(二一日)の条。原文は「故琉球國中山王思紹世子尚巴志、遣通事李傑、貢方物。賜鈔幣表裏。」
(34)『明太宗実録』、永楽八年六月庚子(五日)の条。「是日、琉球國官生模都古等二人、入國子監受學。皇太子命悉賜巾・衣・靴絛・衾褥・帳具。」なおこの記事について、和田氏は「二人」ではなくて「三人」ではないかとされている。恐らくは永楽一一年の帰国の記事との比較で推定しているのであろう。
(35)『南雍志』、事紀二、永楽八年四月丁未(一一日)の条。原文は「記事」(A一九)参照のこと。
(36)『明太宗実録』、永楽四年三月壬辰(二日)の条。「暹羅國王昭禄群膺哆羅諦刺、遣使奈必、琉球國中山王武寧・山南王汪應祖、遣其姪三五良亹等、來朝貢馬及方物。各賜鈔幣。武寧遣送寨官子石達魯等六人、入國子監受學。各賜鈔三十錠・羅衣一襲并夏衣等物。」
(37)なお第一期の琉球官生派遣について『明実録』で「官生」の用語が見られるのは、以前京師で修学し謝恩来貢した姑魯妹の事例(『明太祖実録』洪武三一年三月戊申朔の条)と註(18)の模都古等の事例のみである。よってこの時期『明実録』に「官生」という用語がなされるのは、既に国子監に入学し、「官生」の資格を与えられた者に対してのみであったといえる。逆に「官生」という用語が見られない琉球官生派遣の記事は、再入監の記述を含む洪武二九年一一月の三五郎亹の事例を除けば、初めての国子監入学を示すものと考えられる。
(38)『南雍志』、謨訓考上(巻九)、学規本末の条。「本年(洪武一五年)又定……
一、本監官員及官民生、不許將帶家人僮僕、擅入學紛擾汚雜。違者從繩愆廳糾治。」「洪武三十年欽定……
一、内外號房各生、毋得將引家人在内宿歇、因而生事引惹是非。違者痛决。」
(39)同書、事紀二、永楽一一年五月庚宙](一二日)の条。原文は「記事」(A二四)参照のこと。
(40)同書、同巻、永楽一一年二月壬子(三日)の条。原文は「記事」(A二三)参照のこと。
(41)同書、同巻、永楽二〇年一二月壬辰(九日)の条。原文は「記事」(A三一)参照のこと。
(42)同書、同巻、永楽二一年四月甲寅(四日)の条。原文は「記事」(A三二)参照のこと。
(43)同書、同巻、永楽七年閏四月の条。原文は「記事」(A一七)参照のこと。
(44)同書、事紀一(巻一)、洪武一六年の条。「是年、令考中歳貢生員送監再考、等第分堂肄業。仍令監生入監三年有父母者、照地遠近、定限帰省。其欲挈家及成婚者、亦如之、倶不許過限。父母喪照例丁憂、伯叔兄長喪而無子者、亦許立限奔喪。」
(45)『明太柤実録』、洪武二九年二月戊申(二〇日)の条。原文は註(26)を参照のこと。
(46)『明太柤実録』、洪武二二年一〇月丁酉(二日)の条。「賜國子監雲南生尹葆等・日本生滕佑壽等衣・鈔・靴韈。」
(47)『明太祖実録』、洪武二三年九月の条。「賜國子監讀書日本國王子滕佑壽・并雲南土官子弟以作等凡六十九人裌衣・纊被。」
(48)『明太祖実録』、洪武二四年五月乙巳(一九日)の条。「以國子監生滕祐壽爲観察使。祐壽日本國人。」
(49)この他、『明実録』は「倭生文壽」の存在をも記している。『明太祖実録』洪武一六年四月壬辰(一九日)の条には次のような記事がある。「賜國子監倭生文壽衣・衾・靴韈。」「倭」生という表現を日本国王が派遣した官生とみなすのはやや危険と思われるので、ここに記すに留めておく。
(50)『高麗史』、世家四二(巻四二)、恭愍王一九年九月辛丑(一六日)の条。「遣工部尚書權鈞如京師賀正、舉子朴實・金濤・柳伯濡從行。濤中制科。」
(51)『南雍志』、儲養考上(巻一五)、儲養生徒之定制の条。「外夷子弟、始自高麗遣金濤等四人、入國學讀書。洪武四年、濤登進士、除授縣丞不就、與三人者皆遣歸國。」
また、『高麗史』、列伝二四(巻一一一)、金濤伝。「金濤、字長源、延安府人。……中洪武四年制科、勅授東昌府丘縣丞、濤辭以不觧華語且親老、願還本國。詔許之。及還、王謂左右曰、我國之人登制科者、固罕。況此人既登科、又蒙勅授、名揚一時、使天下知我國有人。……」
(52)『南雍志』、儲養考上、儲養生徒之定制の条。「洪武五年、四川明昇初平。三月、高麗國王王顓、遣密直同知洪師範・鄭夢周等、奉表賀平夏、貢方物。且請遣子弟入太學。其詞曰、『秉彝好徳、無古今愚智之殊、用夏變夷、在禮樂詩書之習。故我東夷之人、自昔以來、皆遣子弟入太學、不惟知君臣父子之倫、亦且仰聲明文物之盛。伏望皇上察臣向化之誠、使互郷之童得齒虞庠之冑、不勝慶幸。』上顧謂中書省臣曰、『高麗欲遣子弟入學、此亦美事。但其渉海遠來、離其父母、未免彼此懐思。爾中書宜令其國王與群下熟議之。爲父兄者果願遣子弟入學、爲子弟者果聽父兄之命、無所勉強。』即遣使護送至京、或居一年、或半年、聽其歸省也。後竟不至。」
なお『明太柤実録』、洪武五年三月の条にも同様の記事が見られる。
(53)末松保和氏「高麗と明との場合」(『史林』第二五巻第一号、一九四〇年一月、所収)は、明朝の成立当初は高麗に対して好意を抱いていた洪武帝が遼東攻略を巡る問題から洪武五年一二月に高麗叱責の聖旨を下し、以後両者の関係は急速に悪化したとしている。同年一一月に元将の納哈出が明の遼東経略の兵站主地ともいうべき牛家荘を襲撃した事件が起こるが、洪武帝は元朝の残存勢力である北元と高麗が通謀していたと疑ったのが高麗叱責の聖旨の直接の動機であり、明麗関係の転機であったというのが末松氏の見解である。高麗の子弟派遣に対する回答はそれ以前の三月に出されており、末松氏の説によってその拒絶の理由を説明するのは困難であるが、一二月の聖旨が洪武帝の高麗への疑心の発露であるとすれば、その疑心は徐々に蓄積されて生じたものであり、その根源は一一月の事件のかなり以前にさかのぼるとも考えられる。この問題については明朝初期の明と高麗の関係を踏まえた上で議論する必要があり、ここでは筆者の現段階での見解を述べるに留めておきたい。
(54)高麗の後を受けて成立した李氏朝鮮は国子監への留学生派遣を明朝に願い出ているが、却下されている。『明宣宗実録』宣徳八年一一月乙酉(六日)の条、『明英宗実録』天順四年六月壬申(二七日)の条を参照のこと。何故明朝が受け入れを拒んだのか、その真意は不明である。
(55)『明太祖実録』、洪武二三年閏四月壬辰(三〇日)の条。「四川建昌衛土官安配等遣其子僧保等四十二人、請入國子監讀書。賜襲衣・靴韈。」
同書、同年五月己酉(一七日)の条。「播州・貴州宣慰使司并所屬宣撫司官、各遣其子來朝、請入太學。上勅國子監官曰、移風善俗、禮爲之本。敷訓導民、教爲之先。故禮教明於朝廷、而後風化達于四海。今西南夷土官、各遣子弟來朝、求入太學。因其慕義、特允其請。爾等善爲訓教、俾有成就、庶不負遠人慕學之心。」
同書、同年年七月戊申(一八日)の条。「雲南烏撒軍民府土官知府何能、遣其弟忽山及囉囉生二人、請入國子監請書。各賜鈔錠。」
同書、同年九月辛卯(二日)の条。「雲南烏蒙・芒部二軍民府土官、遣其子以作・捕駒等、請入國子監讀書。賜以衣・鈔。」
同書、洪武二四年正月丙辰(二八日)の条。「四川會川・建昌二府土官、遣其子王保等七人、入國子監。詔賜鈔錠・衣衾・靴韈。」
(56)『明太祖実録』、洪武二一年六月甲子(二二日)の条。「西平侯沐英奏、東川諸蠻據烏山路、刧寨而叛。其地重關複嶺、崖壁峭險、上下三百餘里、人跡阻絶。請討之。上乃命頴國公傅友徳仍爲征南將軍、英爲左副將軍、普定侯陳桓爲右副將軍、景川侯曹震爲左參將、靖寧侯葉昇爲右參將、統領馬歩軍、往討之。」
また同書、洪武二二年三月庚午朔(一日)の条。「遣使、命南征將軍頴國公傅友徳等還軍分駐湖廣・四川衛所操練。……(以後各々の将軍が何処へ配置されるかを列記するが、省略)」
(57)多賀秋五郎氏「明太宗の学校教育政策」(『近世東アジア教育史研究』第一章、学術書出版会、一九七〇年、所収)。多賀氏所引の史料は『明太宗実録』巻五三、永楽四年四月戊寅(一八日)の条。また、『南雍志』儲養考、儲養生徒之定制の条にも割注として同様の記事が載せられている。
(58)例えば『明太祖実録』、洪武二四年六月戊辰(一三日)の条。「國子監生烏容等以病乞歸。詔賜鈔遣還。容等皆四川建昌土官子弟也。」
(59)『南雍志』、事紀一、洪武二四年七月庚寅(五日)の条。「烏撒土官生陳都刺等四十五人還郷。各賜鈔十錠。」
(60)このように考えると、仁悦慈・三五郎尾・實他盧尾・賀段志は以後国子監に滞在していることが確認できるから、残った日孜毎・闊八馬・段志毎の三人は洪武二六年段階で国子監にいなかったことになってしまう。或いは洪武二四年の諭旨では寨官の子弟を派遣することになっていたから、その条件に合致する仁悦慈・實他盧尾・賀段志・段志毎の四人のみが官生として扱われ、王の従子(姪)である日孜毎・闊八馬・三五郎尾の三人はそれとは別枠で扱われた可能性も否定できない。
(61)『南雍志』、事紀一、洪武二六年一一月壬寅朔(一日)の条には「琉球・雲南官生」という表現がある。原文は「記事」(A四)参照のこと。しかし本論中で述べた如く、この時点で雲南官生が国子監に滞在していた可能性はほとんどない。この「官生」の語は「官民生」という語の「民」の字が脱漏したものではなかろうか。
(62)田名真之氏「古琉球の久米村」(『新琉球史』古琉球編、琉球新報社、一九九〇年、所収)。
(63)例えば小葉田淳氏『中世南島通交貿易史の研究』(西田書店、一九六八年)第二篇「琉明間の通交貿易」。
(64)『明太柤実録』、洪武三〇年八月丙午(二七日)の条。原文は「禮部奏、諸番國使臣客旅不通。上曰、洪武初、海外諸番、與中國往来、使臣不絶、商賈便之、近者、安南・占城・眞臘・暹羅・爪哇・大琉球・三佛齊・渤尼・彭亨・百花・蘇門答剌・西洋・邦哈剌等凡三十國。以胡惟庸謀亂、三佛齊乃生間諜、紿我使臣至彼。爪哇國王聞知其事、戒飭三佛齊、禮送還朝。是後、使臣商旅阻絶、諸國王之意、遂爾不通。惟安南・占城・眞臘・暹羅・大琉球、自入貢以來、至今來庭。大琉球王與其宰臣、皆遣子弟、入我中國受學。凡諸番國使臣來者、皆以禮待之。我待諸番國之意不薄、但未知諸國之心若何。今欲遣使諭爪哇國、恐三佛齊中途阻之。聞三佛齊係爪哇統屬。爾禮部備述朕意、移文暹羅國王、令遣人轉達爪哇知之。于是、禮部咨暹羅國王曰、自有天地以来、即有君臣上下之分、且有中国四夷之禮、自古皆然。我朝混一之初、海外諸番、莫不來庭。豈意胡惟庸造亂、三佛齊乃生間諜、紿我信使、肆行巧詐。彼豈不知大琉球王與其宰臣、皆遣子弟入我中國受學、皇上賜寒暑之衣、有疾則命醫診之。皇上之心、仁義兼盡矣。皇上一以仁義待諸番國。何三佛齊諸國背大恩。……(後略)」
(65)『明太柤実録』、洪武一八年正月丙子(一四日)の条。「賜建昌衛指揮使月魯帖木兒文綺百匹・鈔五百錠。時月魯帖木兒擧家入朝、請遣子入學、願留其家于京師。上不許、厚賜遣還。」
(66)『南雍志』、事紀四、成化一八年閏八月戊辰(二日)の条。原文は「記事」(A三四)参照のこと。なお、第二期官生の派遣開始を示す史料として『明憲宗実録』成化一八年四月甲辰(六日)の条がよく知られているが、この『南雍志』の記述によると、『明実録』の記事は福建布政司の上奏に対し、今回の琉球官生の受け入れを許可した際のものであり、『南雍志』の記事は実際に蔡賓等琉球官生が南京国子監に入った時点のものであることがわかる。
(67)『南雍志』、規制考(巻七)。原文は「記事」(B一)参照のこと。光哲堂は洪武一五年に建てられたのであるから、琉球官生の来監時に建てられた「王子豊房」でないことは明白である。また光哲堂は南京国子監の最も北、南側の正門から見て最も奥に位置しており、とても国子監の前にあるとは言えない。
『南雍志』光哲堂の図
『南雍志』中の琉球官生関連記事
凡例
一、この史料集は、明・黄佐撰の『南廱志』(以下『南雍志』)の嘉靖二三年序刊本を民国二〇年(一九三一)に影印した江蘇省立国学図書館影印原本について、琉球官生に関係する記事を抄出し編纂したものである。
二、編次は『南雍志』の記載に従い、抄出した記事にはそれぞれ頭番号を付して、利用の便を図った。なお、「事紀」「規制考」「儲養考」の各編目における記載内容の性質の違いを考慮して、「事紀」の記事には「A」、「規制考」の記事には「B」、「儲養考」の記事には「C」を頭番号の上に付して区別している。
三、異字・俗字・略字の多くは、正字あるいは通用の字体に改めた。なお、誤解の恐れがない場合は、印刷の便宜上、原本の正字などにかえて略字体を使用したこともある。
四、本史料集においては、「琉球」の語句が含まれ、明らかに琉球官生に関連した記事のみを抄録の対象とした。従って、本論中で琉球官生に関連した記述として扱っている記事もこの基準を満たさない場合には除外している。なお、採録した記事の中で、琉球とは直接には関係のない内容の部分は、これを省略した場合がある。省略した部分は点線符号(………)で示した。
五、「事紀」の記事については、その利用の便を図るため、記事の係る年月・干支(日次)を記事の前に記している。初出の年次の下の括弧内に西暦年数を示し、各干支(日次)の下の括弧内には当該月の日数を示した(西暦による日数ではない)。また、記事中に含まれる干支(日次)についても、同様に当該月の日数を示した。なお、直前の記事と同一年次の場合は西暦年数を示さないが、同一年次でも、その年末(一二月など)において西暦年数が変わる場合には、その月の下の括弧内にこれを示している(従って、この場合の西暦年数は、当該の記事の日次のものを示しており、必ずしもその月全体がそうであるとは限らない)。
六、記事が含まれる各編目はその記事の冒頭に記し、巻数はその下の括弧内に示しているが、「儲養考」の各記事については更にその条目を示して鍵括弧(「 」)で区別した。
七、割注については該当部分の記述の直後にそのまま付し、括弧(〈 〉)でくくって区別している。
八、各記事には、句読点を付した。
事紀一 (巻一)
(A一)洪武二四年(一三九一)三月辛卯(四日)
以監生許觀會試殿試。皆第一。召國子監官褒奨之。又諭禮部臣曰、琉球國中山・山南二王、皆向化者、可選寨官弟男子姪、以充國子待。讀書知理、即遣歸國。宜行文使彼知之。
(A二)洪武二五年(一三九二)
是年、琉球國初遣官生人悦慈等、入監讀書。賜土官生阿聶等炭各百斤。
(A三)洪武二六年(一三九三)八月
賜琉球官生人悦慈等四人羅衣。
(A四)洪武二六年一一月壬寅朔(一日)
賜琉球雲南官生賀段志毎等襲・鈔錠。〈十一月賜炭各百五十斤。十二月臈日賜寶鈔各二錠。〉
(A五)洪武二七年(一三九四)八月癸酉(六日)
賜琉球官生人悦慈等鈔各五錠。
(A六)洪武二九年(一三九六)四月辛亥(二四日)
琉球官生賀段志毎自言、入監三年、例當省親。壬子(二五日)禮部以聞。從之。
(A七)洪武三〇年(一三九七)正月乙卯(二日)
琉球國官生六里・麻奢理病没。禮部行文應天府、給棺以殮。上命焚化凾其骨、俟其國人至、歸之。
(A八)洪武三〇年八月
賜琉球官生人悦慈等三人羅衣各一襲。
事紀二(巻二)
(A九)永楽二年(一四〇四)一一月甲子(二六日)
琉球國中山王從子三五郎亹等九人、以謝恩至京師、奏請入監讀書。從之。給賜及其從人、一如洪武中故事。仍令工部建王子書房于監前、以居之。
(A一〇)永楽三年(一四〇五)五月乙巳(一一日)
琉球國山南王汪應祖、遣寨官子李傑、赴監受學。賜夏衣一襲。
(A一一)永楽三年一〇月乙丑(三日)
賜琉球・四川・雲南生李傑等并其從人六十三人衣衾。
(A一二)永楽四年(一四〇六)三月癸巳(三日)
琉球國中山王武寧、遣送寨官子石達魯等六人、入監受學。各賜鈔三十錠・羅衣一襲并夏衣等物。
(A一三)永楽四年八月甲辰(一八日)
賜國子監琉球國・雲南生石達魯等并從人紬絹・綿布・冬衣二百二十事。
(A一四)永楽五年(一四〇七)四月己酉(二五日)
賜琉球・雲南生石達魯等并其從人夏衣。
(A一五)永楽六年(一四〇八)四月辛巳(三日)
琉球官生李傑、在監將及三年、因其兄銘進貢至京師、奏歸省親。禮部以聞。從之。
(A一六)永楽六年四月辛丑(二三日)
賜琉球國及雲南・四川官民生石達魯等六十八人夏衣。
(A一七)永楽七年(一四〇九)閏四月
琉球官生石達魯、在監三年、例當省親、欲同王舅仁悦慈歸國。禮部以事屬外夷、馳驛以聞。上從之。
(A一八)永楽七年一一月己卯(一一日)
賜琉球・四川・雲南官民生李傑等及其從人冬衣・靴韈。時傑自其國省親復監云。
(A一九)永楽八年(一四一〇)四月丁未(一一日)
禮部啓言、琉球國・四川・雲南官民生李傑等及其從人、例賜夏衣。惟琉球官生模都古等自其國省親復監、挈帶妻子女伴六人、未有給賜。皇太子命工部亟製、給之。仍悉賜巾衣・靴絛・衾褥・枕簟。
(A二〇)永楽八年八月癸卯(九日)
賜琉球・四川・雲南生楊麟等九十二人衣服・衾褥・巾絛・靴韈。
(A二一)永楽八年一一月癸未(二一日)
上賜琉球等處官民生李傑等并其從人冬衣靴・韈。既而從容與群臣語及之。禮部尚書呂震曰、昔唐太宗興學校、新羅・百済皆遣子入學。當時僅聞給以廩膳、未若今日賚予周備也。陛下聖徳前古未有。上曰、遠方慕中國禮義、故遣子入學。必足於衣食、然後樂學。太祖高皇帝命資給之、著于令典。所謂曲成萬物而不遺者。朕安得違之。
(A二二)永楽九年(一四一一)二月癸巳(二日)
琉球國中山王思紹、遣王相之子懐得・寨官子祖魯古、入監受學。
(A二三)永楽一一年(一四一三)二月壬子(三日)
琉球國中山王思紹、遣使送寨官之子鄔同志久・周魯毎・恰那晟其三人、入監受學。給賜如例。
(A二四)永楽一一年五月庚寅(一二日)
琉球官生模都古等三人、奏乞歸省。上謂禮部臣曰、遠人來學、誠美事。思親而歸、亦人情。宜厚賜以榮之。遂賜綵幣表裏・襲衣及鈔、爲道里費。仍命兵部、給驛傳。
(A二五)永楽一一年五月丙午(二八日)
賜琉球・雲南・四川官民生懐得等六十人夏衣。
(A二六)永楽一一年八月乙未(八月に乙未はない。己未=一三日の誤りか)
琉球官生李傑、因其父仲進貢至京有疾、欲送仲至福州還監卒業。禮部引啓、遣人材田畯喜護傑送至福州。仲既登舟歸國、傑遂復監。
(A二七)永楽一一年一二月(一四一四)丁巳(一二日)
賜琉球・雲南・四川官民生懐得等四十六人冬衣・鞾韈。
(A二八)永楽一二年(一四一四)五月乙亥(三日)
琉球・雲南・四川官民生懐得等七十四人當給夏衣。皇太子令照例。
(A二九)永楽一三年(一四一五)五月辛酉(二五日)
賜琉球・雲南生益智毎等九十二人夏衣。
(A三〇)永楽一四年(一四一六)五月乙丑(五月に乙丑はない)
賜琉球・雲南生散皆益久等百一十九人夏衣。
(A三一)永楽二〇年(一四二二)一二月壬辰(九日)
琉球官生周魯毎・周弟、在監三年、例當省親歸國。禮部以聞。上從之、令候其國使臣還日始行。
(A三二)永楽二一年(一四二三)四月甲寅(四日)
四川・雲南官民生駱進等六十一人、例當給賜夏衣。其琉球官生周魯毎等、尚猶未行。宜一體給賜。自後遞年冬夏衣服、皆南京禮部行文南京工部成造、依時給賜、不待奏請、著爲令馳奏以聞。上從之。
事紀四(巻四)
(A三三)成化一八年(一四八二)閏八月戊辰(二日)
琉球國中山王遣其陪臣子蔡賓等五人、入監受學。先是、四月癸卯(五日)福建布政司以遠夷慕義奏聞。上命應付舟車脚力、送南京禮部行本監。査照洪武・永樂・宣徳年間事例、修理號舎、居之光哲堂、給與合用什物及冬夏衣服、雖從人亦如例與之。時外夷官生不至已久。所司詫爲異事、工部爲製用度紬襖・牀卓・柴薪之類、皆懵無所稽、毎移文本監而後行焉。
(A三四)成化一八年一一月乙未朔(一日)
太常寺卿掌監事劉宣、以琉球官生蔡賓等束脩有白金一斤、辭不受。後四年、賓等復申請前事。以聞。上命宣受之。
規制考(巻七)
(B一)右光哲堂圖。光哲堂在敬一亭後、洪武十五年建。凡一十五間、毎間闊一丈四尺、深一丈二尺、爲琉球國官生受業所居。(図は五〇頁)
儲養考上(巻一五)
「儲養生徒之定制」
(C一)外夷子弟……惟琉球國則常至焉。考之故牘、洪武二十五年八月、本國送官生日孜毎等入監。高皇帝命工部、毎人給與羅絹衣服、俾爲秋衣、仍與見成鋪蓋、從人給與綿布衣服。寔異数也。〈各官生毎名造給羅圓領・褡𧞤・貼裏各一件、絹汗衫・裙袴各一件、絹綿被布・臥單・毯褥・帳子・枕頭各一件。從人毎名綿布貼裏・直領・裙褲・綿被各一件。按舊志、有人悦慈等、無日孜毎。雖條例亦無之、今據案喜録入。〉著于皇明祖訓曰、大琉球國王子及陪臣之子、皆入太學讀書、蓋待之冠諸夷云。永楽迄正徳間、嘗三四至。惟嘉靖五年五月、琉球國中山王尚清送蔡廷美等四人至、十一年歸國。十七年三月、尚清又送梁炫・鄭憲・蔡朝器・陳繼成四人再至。二十三年三月歸國。蓋其向慕文教如此。………(後略)
「儲養生徒之名数」
(C二)○洪武二十五年。官民生人悦慈等一千三百九名。〈官生琉球國等處人悦慈・阿聶等十六名。民生一千二百九十三名〉
(C三)○洪武二十六年。官民生人悦慈等八千一百二十四名。〈官生琉球國等處人悦慈等四名。民生八千一百二十名〉
(C四)○洪武二十七年。官民生人悦慈等一千五百二十名。〈官生琉球國等處人悦慈等四名。民生袁珷等一千五百一十六名〉
(C五)○洪武三十年。官民生人悦慈等一千八百二十九名。〈官生琉球國等處人悦慈等三名。民生一千八百二十六名〉
(C六)○永樂三年。官民生三五良亹等三千五十名。〈官生琉球國等處三五良亹等九名、新収琉球國一名李傑、係大國山南王下官李仲次男。民生張紳等三千四十名〉
(C七)○永樂四年。冠帶舉人官民生王樂孟等四千五百八名。〈冠帶擧人王樂孟至張彦昞等十九名、不冠帶一名周健、官生琉球國等處三五良亹等一十七名、琉球國中山王下石達魯至韓寧毎等六名。民生張紳等四千四百七十一名〉
(C八)○永樂五年。冠帶舉官民生王樂孟等四千五百三十八名。〈冠帶及不冠帶舉人王樂孟等二十名。民生陶歆等四千五百零一名〉
(C九)○永樂六年。冠帶舉人官民生王樂孟等四千八百一十四名。〈冠帶及不官帶舉人王樂孟等二十名。官生琉球國等處三五良亹等十七名。民生陶歆等四千七百七十七名〉
(C一〇)○永樂七年。冠帶舉人官民生郭震等六千一百九十八名。〈冠帶及不冠帶舉人郭震等一百一十五名、内一等孔諤支米二石、二等王箕・張彦昞・陳原祐支教諭俸、三等歐陽和儒士鄭昇義米一石。官生琉球國等處三五良亹等十八名。民生蔣迪等六千六十五名〉
(C一一)永樂八年。冠帶舉人官民生周順等六千五百五十七名。〈冠帶及不冠帶舉人周順等一百名。官生琉球國等處三五良亹等一
十六名。民生蔣迪等六千四百三十七名〉
(C一二)○永樂九年。冠帶舉人官民生任用等六千六百二十九名。〈冠帶及不冠帶舉人任用等二十一名。官生琉球國等處三五良亹等一十八名、琉球國二名懐得・祖魯古。民生王讓等六千五百九十名〉
(C一三)○永樂十年。冠帶舉人官民生愈昞等七千六百八十三名。〈冠帶及不冠帶舉人愈昞等一十七名。官生琉球國等處懐得等一十九名。民生姚袤等七千六百一十九名〉
(C一四)○永樂十一年。冠帶舉人官民生愈昞等七千七百五十四名。〈冠帶及不冠帶舉人愈昞等一十七名。官生琉球國等處懐得等一十九名。民生朱遜等七千七百一十八名〉
(C一五)○永樂十二年。冠帶舉人官民生愈昞等六千六百二十八名。〈冠帶及不冠帶舉人愈昞等一十七名。官生琉球國等處懐得等二十一名、琉球國中山王下周魯毎・怜那成・散皆益・鄔同志久四名。民生司以成等六千五百九十名〉
(C一六)○永樂十三年。冠帶舉人官民生袁方等八千二百六十名。〈冠帶及不冠帶舉人袁方等四十名、内朱瑛等二十四名冠帶支教諭俸。官生琉球國等處散皆益久等一十九名。民生王讓等八千二百一名〉
(C一七)○永樂十四年。冠帶舉人官民生袁方等八千五百六十一名。〈冠帶及不冠帶舉人袁方等三十九名。官生琉球國等處散皆益久等一十七名。民生王訓等八千五百五名〉
(C一八)○永樂十五年。冠帶舉人官民生袁方等八千四百六十七名。〈冠帶及不冠帶舉人袁方等三十八名。官生琉球國等處鄔同志久等一十六名。民生泰毅等八千四百一十三名〉
(C一九)○永樂十六年。冠帶舉人官民生陸通等八千五百五十四名。〈冠帶及不冠帶舉人陸通等四十六名。官生琉球國等處鄔同志久等一十六名。琉球國一名周弟。民生林濟等八千四百九十二名。讀書習禮永康侯徐安・建平伯高福・安郷伯張安〉
(C二〇)○永樂十七年。冠帶舉人官民生陸通等八千五百五十一名。〈冠帶及不冠帶舉人陸通等四十六名。官生琉球國等處鄔同志久・益致毎等一十六名。民生林濟等八千四百八十九名〉
(C二一)永樂十八年。冠帶舉人官民生陸通等九千五百五十二名。〈冠帶及不冠帶舉人陸通等四十六名。官生琉球國等處鄔同志等一十五名。民生林濟等九千二百一名〉
(C二二)○永樂十九年。冠帶舉人官民生方瑛等九千八百八十四名。〈冠帶及不冠帶舉人方瑛等二十七名。官生琉球國等處周魯毎等一十四名。民生林濟等九千八百四十三名〉
(C二三)○永樂二十年。冠帶舉人官民生方瑛等九千九百七十二名。〈冠帶及不冠帶舉人方瑛等二十五名。官生琉球國等處周魯毎等一十四名。民生林濟等九千九百三十三名〉
(C二四)○永樂二十一年。冠帶舉人官民生方瑛等九千八百六十一名。〈冠帶及不冠帶舉人方瑛等二十五名。官生琉球國等處周魯毎等一十四名。民生林濟等九千八百二十一名〉
(C二五)○永樂二十二年。冠帶舉人官民生韋廣等九千五百三十三名。〈冠帶及不冠帶舉人韋廣等一十八名。官生琉球國等處周魯毎等一十四名。民生林濟等九千五百名〉
(C二六)○洪煕元年。冠帶舉人官民生徐昇等八千五百五十九名。〈冠帶及不冠帶舉人徐昇等一十九名。官生琉球國等處韓寧毎等一十四名。民生林濟等八千五百二十五名〉
(C二七)○宣徳元年。冠帶舉人官民生徐璟等八千六百六十六名。〈冠帶及不冠帶舉人徐璟等一十九名。官生琉球國等處韓寧毎等一十四名。民生顧信等八千六百三十二名〉
儲養考下(巻一六)
「廩饌」
(C二八)………按北監諸生、毎名日支柴二斤、本監無之。惟琉球官生・從人、毎人日支柴五斤・炭二斤。
「條約」
(C二九)………琉球官生願受業者、聽猶念敷教之法、寔非寛縱。定爲五品條約、開列于後。………(後略)