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資料詳細
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テキスト
勅使御迎大夫真栄里親方日記について
豊見山和行
一 日記の書誌と記主
本日記は、早稲田大学附属図書館特別資料室の所蔵にかかる史料である。同資料室の目録カードでは「琉球勅使御迎大夫日記 真栄里親方」として整理されている。ちなみに請求番号は、「リ5/5567/1・2」である。二冊からなる和装本で、丁数は第一冊目が一一五丁、第二冊目が七八丁である。法量は縦二二・二cm×横一八・八cmで、帙に収められ、表に「昭和一三年/六月十一日/購求」という印が押されている。帙の題箋には、「琉球/勅使御迎大夫日記 真栄里親方」とあるが、琉球と真栄里親方の部分は後筆であり、帙の作成時点では単に「勅使御迎大夫日記」とだけ記されていたようである。早稲田大学がどのような経緯で一九三八年(昭和一三)に購入したのかは、現在の職員も不明とのことである。
ところで、本日記は原本ではなく写本であるが、虫喰い部分は少なく、さらに文書の裏打ちが施されているなど保存状態は良好である。
本日記の記載年は、同治四年(一八六五)二月一三日から翌五年(一八六六)六月二三日までとなっている。
さて、本日記の記主・真栄里親雲上(後に親方)について簡単に触れてみたい。真栄里の出自は久米系士族で、唐名は鄭秉衡である。「鄭姓家譜支流」(『那覇市史 資料篇第1巻6 家譜資料二』)によれば、真栄里は、嘉慶一九年(一八一四)正月九日に鄭良弼と毛氏真鶴の間に次男として生まれている。長男(鄭秉鈞)が、一八歳で死亡したため道光一六年(一八三六)に、鄭姓十世の嫡子となっている。
真栄里の略歴を見ると、道光一七年(三七)に冊封使(正使林鴻年、副使高人鑑)の来琉に際し、国王の「御宮仕兼書簡所」役を勤めている。その翌一八年には、勤学(留学生)として中国へ渡り二年後の道光二〇年(一八四〇)五月に帰国している。道光二四年(一八四四)六月から同二七年(四七)五月までは、フランス人宣教師フォルカードらへの対応のための「重通事」に、咸豊元年(一八五一)三月から同年一一月まではイギリス人宣教師ベッテルハイムヘの対応のための通事に任命されている。真栄里は北京官話に通暁していたようで、咸豊三年(五三)から同八年(五八)にかけて薩摩人園田仁右衛門と大窪八太郎の官話師となり、さらに同年から翌年までは、官話習得のために来琉した岩下新之丞に対しても同様に官話師を勤めている。
同治二年(一八六三)五月には、漂着中国人(山東登州府黄県の杜栢茂ら)を送還するため大通事として福州へ赴いている。航海の途上で海賊に襲われ貨物を奪われるという事件に巻き込まれたが、ようやく同年十月に福州にたどり着くことができ、翌年(六四)六月に無事帰国している。
そして、同治四年(六五)二月に勅使(冊封使)の迎接役として正議大夫(接封大夫)に任命され、三度目の唐旅(中国行き)となるのである。その際の経緯を詳細に記録したものが、本日記である。
ところで、本日記が写本であることは前述した通りであるが、「尚家文書」中にも同日記が存在するようである。というのは、「尚家文書目録」によれば、
道光十七年・同治五年
四三三 勅使御迎大夫日記 接封大夫 真栄里親方 三冊
として記録されている(沖縄県教育委員会『古文書等緊急調査報告書』一九七六年、四三頁)。尚家文書は、現在未公開のため同家所蔵のものと突き合わせて検討することはできない。そのため早稲田大学所蔵本と尚家本との異同については、今後の課題とせざるを得ない。ただし、興味深い点は、「尚家文書目録」では、同治五年の真栄里親方(鄭秉衡)の日記だけでなく、同人の父親である鄭良弼の「勅使御迎日記」(道光一七年)の存在も窺われることにある。親子二代にわたって勅使の迎接役に任命されただけでなく、同様に「勅使御迎日記」を残していたことになる。
以上のことから、「勅使御迎大夫真栄里親方日記」は鄭良弼のそれと本日記の鄭秉衡のものが存在することになる。両人とも真栄里親方であり紛らわしくなるため、正確には「勅使御迎大夫真栄里親方(鄭良弼)日記」(道光一七年)と「勅使御迎大夫真栄里親方(鄭秉衡)日記」(同治四・五年)として区別するべきであろう。ただし、前述したように鄭良弼の日記は未公開であり、どのような内容のものかを知ることができないので、目下のところ便宜的に本稿の日記である鄭秉衡のそれを「勅使御迎大夫真栄里親方日記」としておきたい。
二 日記の内容
本日記は、琉球国の最後の国王となった尚泰を冊封するための使節を迎接した際の真栄里親雲上の日記である。本日記の「勅使御迎」というタイトルは、冊封使が勅使とも呼ばれていたことに由来している。ちなみに尚泰を冊封した時の正使は趙新、副使は于光甲である。
さて、本日記の記述は出発前の準備過程と福州での交渉過程に大別される。特に、前者が全体の五割強を占めており、勅使迎接の際の周到な準備状況を知ることができる。以下、日記の日次を追って簡単に内容を紹介したい。
同治四年(一八六五)二月一三日に、勅使御迎大夫に任命されることから本日記は開始されている。役務拝命の記事から書き出すのは、他の公日記(「御物城高里親雲上日記」「頭役被仰付候以来之日記」など)でも同様である。国王・王妃・聞得大君へ役務拝命を謝する拝謁儀礼である「御拝」も他の日記と同様に行われている(二月一五日条)。
船頭の人選が行われ(三月二日条)、路銀として銭九〇〇〇貫文(銀子に換算すると一貫二百目)、渡唐賦飯米として粟一二石が支給されているが、それだけでは不足であったと見え、給地蔵から銭八〇〇〇貫文(=銀子二貫目)を無利子で借用している(三月四日条)。その他、干イカや莚などの物品を通常の進貢大夫並に支給されるよう要求している(四月条)。五月には、渡唐人数の「旅御拝」が行われている。
注目されるのは、六月二六日条である。同日、真栄里親雲上が首里城に登城したところ、二七通(別紙含む)にも及ぶ書付けを手交され、福州での交渉に臨む際の詳細な指示が評定所から与えられた。その指示は、冨川親雲上・古堅親雲上・安室親雲上・勝連親雲上・濱比嘉親方五人の連名によるものであるが、彼らの職名は「評価方日記」(台湾大学図書館蔵)同治四年丑閏五月十四日条によれば、冠船御用意方主取というものである。冠船御用意方は単に冠船方とも称され、冊封時に評定所の中に臨時に設置されたセクションである。冠船方は評価貿易を専掌する評価方をも管轄し、冊封時における中心的な機関であったと思われる(拙稿「冠船貿易についての一考察―準備態勢を中心に―」『第三届中琉歴史関係國際學術會議論文集』一九九一年、参照)。さて、その指示の内容を次に概観してみよう。
第一文書は、勅使の乗船する冊封船(封舟、冠船ともいう)が大型船にならないよう留意すること、琉球の渡唐船(進貢船)程度の船を選定するように中国側へ働きかけることを指示している。那覇港が浅くなっているため大型船の出入が危険であることを理由にあげているが、実際には大型船での来琉は大量の評価貿易品を積載してくることになるため、それを避けるための方策である。
第二文書は、布政司から支給される前行牌を早めに入手し、帰国するように、との指示である。
第三文書は、渡唐の面々は、中国人から借銀をしてはならないこと、来年の中国からの帰航をスムーズに行うようにすべきこと、とある。
第四文書は、渡唐の面々が中国で手広く交易を行っては来年渡琉する中国人らの持ち込む評価物(交易品)が大量になるので、可能な限り個人貿易品は削減するように、との指示である。
第五文書は、冊封船が渡琉する日程を来年の「芒種」後すぐに渡海し、同年の九月には帰国できるように手配すること、遅れるとそれだけ琉球滞在が長引くことになるため、そのことを懸念しているのである。
第六文書は、帰航時における諸島での合図の照らし火、久米島での毎夜の篝火を了解しておくこと、さらに、帰航時、各島へ停泊する際は食料などを勅使へ進呈すべきこと、などを指示している。
第七文書は、冠船が那覇ではなく奄美地域(道之島)へ着岸した場合の指示である。かつて康熙二年(一六六三)に奄美大島へ着岸した例を引き、その前例に従いつつも唐人(中国側)に琉球と薩摩との関係が露見しないように注意を与えている。
第八文書も同様に奄美へ着岸した場合、即座に船を那覇へ回すように、との指示である。
第九文書は、前文書同様奄美地域への停泊の際の対処策であり、第十文書は、第九文書の別紙である。勅使や守備・千総役へ差し上げる食料・酒などの規定である。
第十一文書は、閩江上流に位置する水口で勅使を出迎えること。その際、冠船の船主らが貿易品(評価物)を大量に持ち込まないように勅使の機嫌を見計らって要請すること。さらに辰冠船(一八〇八年)時の冊封使録である「続琉球国志略」中の「志餘之篇」に、乗員の減少、交易品も千百石を超過しないようにすることなどが記載されているため、この書物を持参して、勅使と対顔の折り機嫌を見計らって呈示すること。中国での具体的交渉方法の指示である。
第十二文書は、福州において勅使が進物を不要とする場合もあるが、受納の際には乾隆二一年(一七五六)の通りに準備すること。第十三文書は、前文書の別紙、すなわち進物の具体的物品・数量などを記載したものである。
第十四文書は、冠船渡来の折り、先皇帝・先皇后の月忌みに当たった場合、天使館での路次楽演奏を中止すべきどうかを福州で調査することの指示である。さらに、「儀注」の文字が前代の咸豊皇帝の名と同音のため、その使用の可否をも調査すること、などが指示されている。
第十五文書は、冠船の那覇入港時における儀注(儀礼)に関して、勅使から福州で儀注書を受け取り、先例と引き当てて異なる部分は習い受けるように、との指示である。
第十六文書は、第一に、冠船渡来時の中国人乗船員と評価物の減少の要請を福州総督・撫院へ行うこと。第二に、琉球滞在時に冊封使一行へ支給する食料の全稟給・半稟給・口月糧の区別について勅使へ申請すること。第三に、節(儀礼用の道具)以外に勅使が持ち込む道具があればそれへの対応も行うこと。第四に、勅使や遊撃の乗船で故意に古船を雇い入れて琉球で修補するのは不都合なので、なるべく新造船で渡航するように働きかけること。以上である。
第十七文書は、第一に、冊封使一行が総勢四百人を超えないように働きかけること。第二に、正規の使者以外に、測量官や副将・参将・弾圧官などの高官が伴として来琉する場合は、前もって連絡すること。第三に、評価物は部銀を込めて四百貫を超えないように働きかけること。第四に、評価物でも高額品・無益品の買い取りは困難なので、別冊に区分してあるように働きかけること(第十八文書)。第五に、冊封使の出身地・姓名・官位などは薩摩藩へ報告するので、早めに知らせること。
第十八文書は、前文書第四条で簡単に言及されているものの中身である。琉球へ持ち込んでもよい品(阿膠・砂仁など十三品)、琉球の当用品に付き持ち込んでもよい品(石黄・乳香・肉豆蒄など二十九品)、なるべく搬入してほしくない品(大黄・甘草・土茯苓など八品)、高価品に付き搬入を拒否する品(玳瑁・銀硃・紅花など二十九品)、無用品に付き一切の搬入を拒否する品(玳瑁器具玩物・沈香玩物・犀角器皿玩物・金木石磁奇巧人物玩物各等器)。このようなランク分けによって、評価物の搬入を琉球側に有利に導こうとしていたのである(前掲拙稿参照)。
第十九文書は、冊封使一行の中に琉球側のパイプ役として協力しえるような唐人を加えることの指示である。
第二十文書は、渡唐の面々が中国で借銀をしないようにすること、さらに借銀しているものは今回の渡唐で返済し、借用状を取り返すこと、の指示である。
第二一文書は、第一に、冠船貿易時に唐人(中国人)が琉球から搬入する海鼠(ナマコ)・鮑の件については、接待用のみしかないことを伝え、海鼠・鮑をあてにして評価物を大量に持ち込まないように働きかけること。第二に、評価貿易用の昆布と蕃銭(洋銀)との比価について、とりわけ昆布の地代(元値)が高値になっていることを唐人らへ前もって知らせておくこと。第三に、琉球において唐品が高価であることは中国では一切話題にしてはならないこと。第四に、今回渡唐する人員の中には唐人の名義で自己の商品を評価物の中に紛れ込ませたり、あるいは帰航する接貢船の船間(積載スペース)の権利を唐人へ売却したり、あるいは唐人へ銀子や商品を渡し琉球の地で返済の企てを図るものが存在することも予想されるので、そういうことがないようにそれぞれの頭が監督すること、などの指示である。
第二二文書は、評価物減少の要請であるが、去年の秋に中国商人から評価物減少の「拠書」を受け取っているが、そのことは商人の慣行として信用しがたいため、今年も評価中取役人の玉那覇・当間を渡唐させ、さらに委細を別紙(第二三文書)で指示したものである。その第二三文書とは、実際に唐人と交渉する際の想定問答を「唐人江應答之心得」としてまとめたものである。第一に、評価物を大量に持ち込むと琉球側では全部を買い上げることができず、持ち帰る結果となること。第二に、前代の冊封からは間隔があいており、余裕があるはずなのに前条のような回答では納得できないと問い詰めてきた場合、琉球には近年異国船が頻繁に来航したり異国人が逗留していること、また災害が打ち続き国中が困窮していることを答えとしている。第三に、そのような困窮状況において冊封使の迎接はかえって琉球の負担となるのではないかとの質問へは、冊封の儀式はこの上も無い「大典」であり、冊封使の渡来による王爵の授与は皇帝の徳化を蒙ることとなり、ひいては琉球の国運も良い方向へ向かい豊饒の世となる、という答えを準備している。
第二四文書は、*阿口通事の謝衢・馮爺、同筆者の王秉謙らの三人は評価一件やその他、琉球側の役に立つので冊封使一行に加えて琉球へ渡海させるように、との指示である。(*河口通事とも称されるが、本稿ではすべて阿口通事に統一した。)
第二五文書は、冊封使の滞在中、傾城(遊女)との問題が発生しないように勅使へ対して、別紙(第二六文書)の趣旨を伝えるように働きかけることである。第二六文書の内容は次の通り。異国人に対し琉球には傾城は存在しないということになっている。ところが、冊封使の滞在中、唐人に傾城を「附合」せては異国人へも知られてしまい問題となる。現在、傾城たちは近年逗留するようになった異国人を恐れて方々へ逃げ去ってしまったこと、また飢饉が打ち続き傾城と「附合」う者はいないこと。このような状況にあるため傾城は当分居合わせないことを渡唐の面々も中国で吹聴するようにし、間違っても「実形」に傾城が存在することを話してはならないこと。この傾城一件は、唐人へ周知させなくては「御難題」となるので、渡唐の五主・船方・従の者まで徹底するように、との指示である。
第二七文書は、冊封の正式な「勅答」の件について、琉球へ早々と連絡するように、との指図である。
以上のことから判明するように、接封大夫(御迎大夫)に任命された真栄里親雲上は、冊封使を琉球に無事に迎えるためだけの使者の役目よりも、むしろ琉球側の利害に深く係わるような重要かつ実質的な交渉を担う使者としての役目を期待されていたことが分かる。
さて、以上のような任務を帯びて真栄里らは八月二八日に乗船式を行い、十月六日、接貢船に乗り付け、翌七日に石火矢(大砲)を三発放って那覇港を後にした。同八日には久米島を通船するが、風並が戌亥の間(北西)に変わったため、座喜味島の阿嘉泊に引き返している。風待ちの後、同十日出帆し、同十七日には中国の錠海へ到着している。翌日に閩江を遡って恰山院へ着き、同二十日には福州の林浦へ到着している。翌二一日に下船して琉球館(館屋)で旅装を解いた。同二六日には、阿口通事から明日、船荷改めがある旨の連絡をうけ、その準備を行っている。同二八日には、阿口通事二人・同筆者二人・長班一人を招いて咨文二通を点検させ、布政司へ差し出す咨文は阿口通事から提出させている。十一月八日には、福州の総督衙門・撫院衙門・海防衙門など十五ケ所の官衙へ挨拶に赴いている。興味深いのは、真栄里は轎に乗って行列を組んで赴いているのであるが、通常の進貢使節の場合も同様に行列を組んでの官衙詣でが行われていたようである(十月二七日条)。
さて、福州での真栄里が直面した問題は次の三つであった。第一は、冊封使が乗船する冠船の選定問題である。第二は、福州での冊封使迎接の際の要請の一件である。第三は、冊封使が福州総督の所持する火輪船で琉球へ渡航すると言い出してきた問題である。
第一の冠船の選定問題は、以下のようなものであった。当該期には商船を雇上げて冠船に充てていたため、大型船を避け積載する評価貿易品の量を少なくすることが真栄里らの主要任務であることは前述した通りである。その交渉過程は次のようになされた。まず、十二月七日に、冠船の選定時には真栄里らも検分に加わらせてもらうようにと申請している。真栄里らはすでに手ごろな船の選定を済ませていたのである。ところが、翌同治五年一月一六日に、冠船については海防官が調査の上、決定するとの情報を得て、驚いた真栄里らは、急きょ彼らが希望する福宝玉船・金振茙船の検分を要請した。同月二八日に、海防官から呼び出されて参上したところ、琉球側の希望する二艘は除外され、新據豊船・邱大順船などの六艘が候補にのぼっていた。邱大順船について琉球側の意見を求められため、調査済みのことは伏せて、邱大順は不達者であり、かつ同船は「古佐(作)事」=建造が古すぎて冊封使へ乗船を願うのは困難であると回答した。その結果、琉球側が希望する前述の二艘の検分要請も採り上げられた。翌二九日に、海防官が候補に挙げた六艘を真栄里らも検分し船底まで「すいミ」(覗き見)を行い、新徳盛船のみが新造船であるが艍が半分しかないこと、他の五艘は古作事であることを海防官へ参上して返答している。そして二月一日に、真栄里らは船着き場へ出向き海防官らと船の選定を行っている。その際、真栄里らは海防官候補の船へは色々と難点を挙げつらい、琉球側の推す金振茙船を検分させたところ、海防官も納得の色を示している。結局、他の一艘も琉球側の推す福宝玉船に決定された(三月四日条)。以上が冠船選定の経緯である。
第二の福州において冊封使迎接時の要請一件は、以下のような次第である。三月二七日に伴送官や巡捕官・布政司掌案らとともに、真栄里らは四艘で洪山橋を出発し、水口に到着して同地の公館で冊封使の到着を待ち、四月六日に到着した冊封使に最初の御機嫌伺いを行い、福州城の公館で再度の拝謁を要望して琉球館へ戻っている。これは、評価物と乗組人員の減少、琉球において借銀返済方の禁止を要請するための伏線であった。しかし、同二八日に福州城の公館で拝謁を願ったが拒否されてしまい、五月三日にも再度拝謁の要求を行ったが逢うことができず、取りあえず要望書のみを提出している。遊撃・都司・弾圧官らとは拝謁することができたため、右の要請と傾城一件を取り添えて要望している。結局、真栄里は冊封使へ直接対面して主要な案件を要請することはできなかったのである。
第三の、真栄里らが選定した冠船ではなく火輪船で琉球へ渡航すると言い出してきた問題は次のようなものであった。五月一四日、冠船の頭号船が出船の際、浅瀬へ乗り上げてしまった。そのため冊封使は福州総督の所持する火輪船で渡海したいが、琉球側は了解するかどうかを真栄里らに通達してきた。驚愕した真栄里は、先例通り唐船での渡海を返答し、海防官へも同様に回答し、その取りなし方を依頼していた(五月一七日条)。翌一八日に、冊封使から呼びつけられた真栄里は、縷々火輪船での渡海が琉球の不都合となることを述べ、中止を要請したところ、「欽差(冊封使)の命は皇帝同前」であり、これ以上火輪船の件を拒否するようならば琉球への渡海はできないと恫喝されたのである。途方に暮れた真栄里は、海防官へ善後策を伺うため王秉謙を遣ったところ、次のような返答があった。ひとまず冊封使の言う通り稟を提出しておけば、あとは福州の官人衆で邱大順船へ繰り替えるように取り計らうとの回答であった。最終的には火輪船での琉球渡海の件は、福州の官人らの取り計らいで邱大順船に決定されている(五月二三日条)。なぜ、冊封使の要求を福州官人らが却下したのかは不明であるが、六月五日に林浦を出航し、一路琉球へ向かうことができたのである。航海の途中、久米島兼城泊近辺で若干のトラブルがあったが、六月二一日に無事那覇港へ到着している。真栄里の役務拝命から帰任までの大まかな経緯は、以上の通りである。
ところで、その他に注目されることとして中国での和文文書の使用の問題がある。というのは、薩藩支配下の琉球は日本との関係を押し隠していたため、中国へ漂着した場合、日本年号や薩摩人名の記入された和文文書は焼却するか海中に投じるなどの処理を行うように、との一七二一年の法令が存在する(「船改之覚」『那覇市史 資料篇第1巻2』、二八四頁)。
このことから漠然と中国内では琉球側は和文文書を使用していないものと筆者は考えていた。ところが、本日記の同治四年十月二一日条や同二七日条、十一月三日条などに散見されるように、琉球人間の通達・命令文書は琉球国内で使用されるのと同じような和文文書が使用されているのである。もちろん、中国へ提出する文書は漢文であるが、琉球館内での使用文書は和文であったと考えられるのである。
そのことは、真栄里がこのような詳細な日記を残すことができたのは、琉球に帰国してから中国での経緯を回想して日記を作成したのではなく、中国の地で日記をほぼリアル・タイムで記録していたからだと考えられる。もし、そうでなければ漢文で日記を作成し、帰国後和文の本日記に作成し直したと考えざるをえないが、その可能性は低く、さらに前述の和文文書による通達文などの存在を説明しえなくなる。
以上が、本日記の大まかな内容である。このように本日記は冊封使を迎接する際の一件について、役務拝命から帰任までの経緯を詳細に記録するという特徴を持っている。同様の日記に道光三十年(一八五〇)の「田里筑登之親雲上渡唐準備日記」(沖縄県立博物館所蔵、渡名喜明「資料紹介・田里筑登之親雲上渡唐準備日記」「〈沖縄県教育委員会文化課〉紀要』第一・二号、一九八四・五年)がある。しかしながら、田里日記は専ら渡唐前の準備過程のみの記録であり、途中の航海・中国でのあり方などについては記録されていない。その意味においても、本日記は現在のところ中国への渡航から帰任までの全過程を記録した唯一の日記ということになる。本日記は前述したように写本であるが、その内容が極めて興味深いものであることは了解しえたのではなかろうか。紹介しえなかった他の部分については、他日を期したい。
末筆ながら本日記の閲覧と翻刻について快諾していただいた早稲田大
学附属図書館に感謝の念を表しておきたい。また、煩瑣な校正等にご協
力していただいた本誌編集担当の漢那敬子氏にもお礼を申し上げたい。
* *
翻刻文については編集の都合上、以下の処理を施した。
(一)句点、並列点を付した。(二)変体仮名の一部(江・え、者・は、而・て、ゟ・より、など)はそのまま使用した。(三)朱の部分は「 」で括り、抹消部分は傍点を文字の左に付した。
参考史料として真栄里の家譜の部分を前掲『那覇市史』から転載した。
ただし、原文と照合し若干の誤植を訂正した。
[史料紹介]
勅使御迎大夫真栄里親方日記
(第一冊、表紙)
勅使御迎大夫日記 真栄里親方
同治四年〈乙丑〉二月十三日
一今日、勅使御迎大夫被仰付候事、
二月十五日
一今日、旅役被仰付候美拝為可申上五ツ時分登 城、御書院当・御近習御取次、
上様
野嵩按司加那志様江美拝申上、退 城、直
聞得大君御殿参上、大親御取次美拝申上、夫より摂政・三司官衆・御鎖之側・日帳主取迄御禮罷通候事、
二月廿一日
一今日五ツ時分、登 城、西之御殿参上、御鎖之側御取次を以御請申上、左候而那覇江罷帰、里主・問役案内ニ而御在番所御役々衆御届、御見舞申上候事、
一久米村役者中(中山御門涯迄騎馬・加籠、私者守禮御門涯迄騎馬・加籠ニ而候、尤那覇江罷下候砌も里主所前迄騎馬・加籠ニ而候、
一勅使御迎船頭、人柄吟味を以申出候様、勝連親雲上・濱比嘉親方より役者中江被仰付候、御船手奉行江者御評定所より被仰聞候段、承候事、
三月二日
一今日、勅使御乗船御船頭御相談ニ付、四ツ時分御船手江相揃、左之通おかす差出候事、
附、首里役者中ハ吟味分ニ而差出候也、
覚
〈西村〉 〈久高嶋下小之〉
伊差川筑登之親雲上 西銘筑登之親雲上
右 勅使様御乗船々頭人柄吟味を以可申上旨被仰渡、吟味仕候處、両人事旅数段々相募、船功人品旁宜者共与見及申候間、両人之内より御乗船々頭被仰付可然与奉存、此段申上候、以上、
〈御迎大夫〉
三月二日 真栄里親雲上
〈久米村〉
役者中連名
右通、私ニ茂相合人柄吟味之上申上候間、両人之内より被仰付度奉存候、以上、
三月二日 高奉行
三月四日
一今日 勅使様御乗船々頭、久高嶋西銘筑登之親雲上江被仰付候事、
〈本文并御賦飯米・拝借銀請取候砌、祝銭とシテ銭六拾貫文御給地御蔵加勢中江先例通相進候也、〉
請取
銭九千貫文 銀子ニシテ壱貫弐百目
右者 勅使御迎大夫真栄里親雲上渡唐御賦とシテ慥ニ如斯御座候、以上、
〈儀者相済不申候付名代〉
三月 伊差川筑登之
給地方
請取
粟拾弐石者
右者 勅使御迎大夫真栄里親雲上渡唐御賦飯米とシテ慥ニ如斯御座候、以上、
〈儀者相済不申候付名代〉
三月 伊差川筑登之
給地御蔵
〈御印〉 口上覚
〈本文給地ニ而相済候事、〉
銭八千貫文 銀子ニシテ弐貫目
右者乍恐申上候、私事
勅使御迎大夫被仰付難有当秋渡唐仕筈候處、仕廻料差迫居候間、何卒本行之員数無利ニシテ拝借被成下、返上方之儀者御法様之通被仰付被下度奉願候、此旨宜様御取成奉頼候、以上、
三月 真栄里親雲上
證文
〈本文給地方懸印いたし候事、〉
銭八千貫文 銀子ニシテ弐貫目
右者勅使御迎大夫ニ而当秋渡唐付、拝借与シテ慥ニ受取申候、返上方之儀ハ帰帆次年より御法様之通堅固ニ上納可仕候、為後證如斯候御座候、以上、
〈鄭氏〉
同治四年〈乙丑〉三月 真栄里親雲上
〈秉衡〉
給地御蔵
〈本文御評定所唐船方江差出候事、〉
〈御印〉 口上覚
乍恐申上候、
勅使御迎大夫被仰付、難有奉存候、
然者私并儀者、今般旅役御規式之儀、接貢役者同様被仰付被下度奉願候、此旨宜様御取戍奉頼候、以上、
二月 真栄里親雲上
〈本文御評定所唐船方江差出、御印紙相済候ハヽ御評定所より直大宿江「御問合」被致候也、〉
〈御印〉 覚 〈印〉
乍恐申上候、私事今般
勅使御迎大夫被仰付難有当秋渡唐仕事御座候、然者於唐、轎并行列道具之儀、先例之通大宿江調方被仰付被下度奉願候、此旨宜様御取成奉頼候、以上、
三月 真栄里親雲上
覚
〈東村嫡子当分勤問役〉
高良筑登之
右、当秋渡唐ニ付、儀者被仰付可被下候、以上、
〈御迎大夫〉
三月 真栄里親雲上
覚
〈問役〉
高良筑登之
右、当秋渡唐、勅使御迎大夫真栄里親雲上儀者ニ而列渡申度由、申出候間、其通被仰付被仰付(衍字)被下度、奉存候事、
以上、
〈御評定所筆者〉
三月十日 平敷里之子親雲上
〈同〉
真栄平筑登之親雲上
一りうきう詰さん物方懸御さいきう掛并同懸見ふん役之儀、御吟味之訳有之、当分之詰限ニ而不及交代様、左候而さん物方諸取扱向之儀ハ、定式さいはん(在番)奉行并定式見ふん役江兼務被仰付候付而者、軽者共萬一茂心得違抜物取企候而者別而不可然事候条、定式詰見ふん役江分ケ而取締可致候、尤りうきうさん物方御手本品抜物者勿論、唐物品等買取方等不致様、りうきう并りうきう下り船々乗船之面々江厳敷可申渡候、此以後致抜物等候而者可及迷惑候、
右之通被仰付候条、りうきう方も抜物無之様分ケ而取締可有之候、此旨摂政・三司官江申越候様さいはん親方并りうきう館きゝ役江可申渡候、
十二月
右之通、御勝手方掛御側御用人いちゝさう之丞との御取次被仰渡候段、此節りうきう館より申来候、然者抜物御取締ニ付而者先年段々被仰渡置趣も有之、聊緩之儀ハ無之筈候得共、萬一心「得」違抜物取企候儀共有之候而者、其身迷惑「ハ」勿論、御難題ニも可相及候条、兼々被仰渡置候通、猶以堅相守、聊心得違無之様、五主・船方・従之者共厳重可被申渡候、自然不守之者於有之ハ当人者勿論、各ニも屹与可及御沙汰候、此旨御差圖ニ而候、以上、
三月 桑江親雲上 崎濱親雲上
勝連親雲上 小波津親方
一当秋接貢船之儀、勅使御迎大夫并御船頭・佐事・水主等乗付被差渡、冠船一同帰帆仕事ニ而、夏至前差懸候得者日和次第冠船御出帆有之筈候處、萬一諸仕廻方差支候儀共有之候而者夏「甚」不都合可相成候、右ニ付而者早々渡唐之上、諸事年内中致手組、来年三月中ニ者御用物全相調、其外冠船ニ相懸事共都而其内相仕廻、萬反無支何れニも冠船一同不致帰帆候而不叶事ニ而、至而大切成折柄候間仕廻方差急、兼而被申出置候日賦通諸事七月中仕廻取、八月朔日より先順風次第無滞可致出帆旨、此涯分ケ而被仰渡候上、何歟与申出帆及遅滞候而者御奉公人之本意取失候儀ニ而、御沙汰之程も不軽筈候条、右之趣具ニ得其意、船頭以下末々之者共江も厳重可被申渡候、此旨御差圖ニ而候、以上、
三月 與那覇「原」里之子親雲上
御迎大夫
〈本文帳当座ニ而相済、取納座冠船方江相届候事、〉
〈御印〉 覚 〈印〉
一干いか拾斤 一永良部鰍五斤
一しゅく〓(難+酉)物壱斗三升
一干たく拾斤
一ふつめち〓(難+酉)物壱斗三升
一黄〓(難+酉)物壱升七合
一割ゐ尺迦莚拾三枚
右者私事、此節
勅使御迎大夫被仰付、当秋渡唐仕事御座候、然者右品々於唐官府遣用御座候間、進貢大夫之例を以所望被下御模日限通寄申様、被仰付可被下候、以上、
四月 真栄里親雲上
覚
一割ゐ弐間莚五枚 一同表莚六枚
右者私事、此節
勅使御迎大夫被仰付、当秋渡唐仕事御座候、然者右品於唐官府遣用御座候間、進貢大夫之例を以久米嶋江御誂越、早便より「積渡寄」所望被仰付可被下候、以上、
四月 真栄里親雲上
覚
割ゐ尺迦莚五枚
右者私事、
勅使御大夫真栄里親雲上儀者ニ而、当秋渡唐仕事御座候、然者右品於唐官府遣用御座候間、進貢大夫儀者江被下置候例を以所望被下御模日限通寄申様被仰付可被下候、以上、
〈東村〉
四月 高良筑登之
覚
一割ゐ表莚弐枚
一同弐間莚弐枚
右者
勅使御迎大夫真栄「里」親雲上儀者ニ而、当秋渡唐仕事御座候、右品々於唐官府遣用御座候間、進貢大夫儀者江被下被下置候例を以久米嶋江御誂越、早便より積渡寄所望被仰付可被下候、以上、
〈東村〉
四月 高良筑登之
言上写
請申口座 真栄里親雲上
以上
〈御評定所筆者〉
四月 屋嘉比里之子親雲上
〈同〉
與儀筑登之親雲上
同十六日
一昨日、申口座御位頂戴仕候付、今日四ツ時分登 城、美拝申上候事、
同廿七日
一申口座御位頂戴仕候付、今日従
上様御近習御使を以、御祝詞被成下候事、
同廿八日
一右ニ付、今日五ツ時分登 城、御近習御取次を以美拝申上候事、
五月三日
言上写
今日「月」十一日、渡唐人数旅御拝之事、
以上
〈丑〉五月三日
右通、言上相済候間、此段致御通達候、以上、
〈御評定所筆者〉
與那覇里之子親雲上
〈丑〉五月三日
平敷里之子親雲上
下庫理当 同勢頭 御近習
御書院当 御物奉行
〈役者中江茂御通達可被成下候、〉
大夫 才府
右之通有之候間、此段致御通達候、以上、
〈儀者〉
五月三日 高良筑登之
安慶名親雲上 上運天里之子親雲上
奥聞里之子親雲上
同十一日
一今日旅御拝ニ付、五ツ時分登 城、例之通相勤、左候而
上様
聞得大君加那志様
野嵩按司加那志様江美拝申上候事、
附、正議大夫并申口座御位御美拝も一同被仰付置候、
言上写
今月十一日、唐船御名付之事、
以上、
閏五月六日
右之通言上相済候間、此段致通達候、以上、
〈御評定所筆者〉
閏五月六日 真栄平里之子親雲上
〈同〉
屋嘉比里之子親雲上
又五月十一日
一右ニ付、今日可致出勤之処、不快ニ付左之通書付を以御暇乞申上候事、
口上
私事、不快ニ付今日之御規式難勤得御座候間、宜様御暇乞被仰上可被下候、以上、
〈御迎大夫〉
又五月 真栄里親雲上
同廿一日
一御迎大夫被仰付候ニ付、御願出次第当御使を以御餞被成下候間、三日前御申出可被成候、以上、
附、当日御注進次第、
〈御書院〉
又五月 金城筑登之親雲上
真栄里親雲上
六月十五日
一今月廿四日、当秋渡唐人数聞得大君御殿、三平等御立願可仕事、以上
〈丑〉六月十五日
右之通言上相済候間、致御通達候、以上、
〈御評定所筆者〉 〈同〉
〈丑〉六月十五日 鉢嶺筑親雲上 與儀筑登之親雲上
右之通相済候間、此段致通達候、以上、
〈大夫儀者〉
六月十五日 高良筑登之
大宿
六月廿四日
一今日、於
聞得大君御殿、三平等之御立願被仰付候事、
六月廿六日
一今日、勝連親雲上より御用有之、罷登候處、左之御書付被相渡候事、
一来年冠船之節、
勅使御乗船并二号船之儀、商船より御見合を以被仰付由候處、唐商船之儀ハ段々大小有之、至而大振之船も有之由、然者那覇港連々淺相成、大船出入差支折角浚方被仰付事候得共、今以大振之船ハ乗入難成事ニ而
勅使御乗船并二号船餘り大振之船江被仰付儀も候而者出入差支可中哉与、至極御念遣之御事候、去戌年冠船之時も接封大夫江被仰越候付、船方共召列福州港居合之山東行商船致見分候處、壱艘者五拾万斤位積入候程之大船罷在候付、稟取仕立、右船者差除、餘之船々寄書取添、海防官江願立候處、欽差御乗船禮部より及言上、総督・撫院江調部被仰付、御決定候得者、大夫より相調部願出候儀例違之由ニ而被差帰候付、子細承合候處、右大船船主方より海防官江御内意申上候段承、猶以稟取仕立、琉球浚「港」之儀、狭淺有之、大船出入差支候間、右船者御差除、餘之商船より御見合被仰付度、布政司衙門江願立候付、兼而寄書之船江為被仰付由、此節之儀も右之心得を以、両艘共大抵琉球渡唐船程来之船江御賦付被仰付候様、御内意可被相働候、尤此儀御取受之程も難計候間、随分御落着有之、少も不差障様可被取計候、此旨御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫
一戌冠船之時、布政司より前行牌之儀、先達而持渡不申候而不叶事候處、何様相心得候哉之旨、存留江被仰渡候付、接貢船より先達而捧渡候筋呈文を以申上、冠船より先致帰帆、諸事都合能為相成由、来年茂右例通可被仰渡も難計事ニ而、仕舞方折角差急早目致渡唐、御買物も三月中致調達、前行牌御渡次第早々帰帆不致候而ハ至而御不都合相成事候条、右之趣末々江も具ニ申聞、随分仕舞方差急、八月中致渡唐候様可被取計候、此旨御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫 渡唐役者中
一渡唐之面々、商人共より諸品物取入、直段差引之儀ハ致川下算用相究、代銀不引足分者直ニ借状相渡候者も有之、色々及難渋候由、就而者右諸首尾不相済内、唐船致帰帆候得者唐人共及迷惑候故、衙門江致掛号回文相渡候儀、態与延引させ帰帆之支ニも可成立哉、於唐致借銀間敷段ハ別紙を以被仰渡、殊ニ来年ハ取分ケ仕廻方差急、少も出帆之支不相成様精々可相働旨、被仰渡候處、右之仕向ニ而者帰帆之支可相成与、甚及御念遣候条、件之趣具ニ得其意、交易等之諸品決算之儀、乗船不致内相済候様、堅可被申渡候、乍此上及遅滞川下ニ而算用旁相遂候由相聞(得脱カ)候ハヽ、其身ハ不及申、至各ニも屹与可及御沙汰候条、此旨末々ニも厳重可被申渡旨、御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上
古堅親雲上
安室親雲上
勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫
〈丑秋走〉
渡唐役者中
一来年冠船御渡来之節、評價物大分不持渡様可相働旨、去秋勢頭・大夫江被仰渡、猶又係人をも被差遣、商人共兼而品物等手組不致内、御当地ニ而交易振之向合等細々申諭、評價物相細品物等も其見合を以持渡、不及銀高様可取計旨被仰渡置候處、渡唐之面々仕舞立廣有之候而者、壱艘前之仕廻銀高及大分、兎角唐人共ニも其心当を以交易品多可持渡、就而ハ此節渡唐之面々仕廻立相減不申ハ、係人共より交易振等申諭候趣意致齟齬候段者勿論、評價物多持渡候而者御用意銀高ニ而買取方不相成、御難題可成立事候条、件之趣末々之者迄厚汲受、面々仕廻立成丈相減、尤人々用物も繰合品者屹与可相断候、此旨末々之者江も堅可被申渡旨、御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫 渡唐役者中
一先年冠船之節、
勅使御乗船六月十日唐御出帆、久米嶋御潮懸ニ而七月八日御当地御着船、諸規式等相済、十月廿六日御乗船被成候處、順風無之及御滞船、終冬深相成越年為被成事候、来年ハ四月末比芒種之時「節入」可相当、右節入以後順風次第唐御出帆、五月初比御当地御着船被成候ハヽ御規式早ク相済、九月より先順風次第御帰帆被成、時分柄能海上心遣も有之間敷候間、右之段
勅使江宜被申上、唐船頭并末々之唐人とも江者西銘筑登之親雲上より委曲申含、兼而右之心懸を以仕廻方差急せ、出帆之支不相成様可被申渡候、御当地御着船遅成候得者おのつから諸御規式相延、御帰帆も時分後相成事ニ而、無越年御帰朝被成候儀者専御当地御早着相懸事候間、前文之趣を以不差障様宜御挨拶申上、何れ早々御渡海御座候様可被取計候、
一接貢船之儀、前々冠船之節ハ、
勅使御乗船一同唐出帆有之候得共、御乗船より先達而致帰帆候得者諸事之御手当宜有之、戌冠船ニ者兼而被仰渡置、先達而帰着萬反都合能為有之由候間、来年も可成程御乗船より致早着候様可被取計候、右ニ付而者仕廻方不差急候得「而」者出帆之支可相成候条、末々迄仕舞方差急せ、聊出帆不差支様取計可被致候、
一唐人寝具之儀、眠床外ハ自分持渡候先例ニ而此節も眠床迄を調方被仰付置候處、若末々唐人共寝具調料銀御当地ニ而被下候筋相心得、蚊帳其外之品々不持渡候而ハ至而差支可申候間、右之趣兼而委細相達、聊心得違無之様可被取計候、
右之通被仰渡候間、勢頭・大夫江も申談、宜取計可被致旨、御差圖ニ
而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
〈丑秋走〉
接封大夫 渡唐役者中
一勅使御乗船并遊撃乗船、諸浦・諸嶋近ク御通船、又者御潮掛被成儀も候ハヽ、てらし火四ツ可相立候、諸浦・諸嶋在番人江も右之火請次、四ツ相立候様被仰渡置候、
一久米両間切江嶋見分ケ之為、芒種之節入三日後より
勅使御乗船御入津迄、毎夜篝火為焼候間、左様可相心得候、
一勅使御乗船并遊撃乗船、諸浦・諸嶋御潮懸之節、下程・野菜・肴差上候儀、各申談取計候様被仰渡置候間、應時宜可被取計候、
一同時所之在番人、
勅使御目見仕可然哉、是又應時宜取計、在番人江も可申渡候、右之通被仰渡候間、可被得其意候、此旨御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫
一康煕弐卯年冠船御渡来之節、唐御出帆以後風並相替、大嶋江御着岸被成候付、接「封」大夫より彼嶋御代官江申出、米・ふた・庭鳥・玉子・薪木等致御借用、御返弁ハ御当地より御くに元江為相調由、書留相見得候、来年ハ随分風並乗筋等尽吟味、直那覇川御着船有之候様可相働旨、別紙を以被仰渡候付而、右様之儀ハ有之間敷候得共、萬一風並ニ依り道之嶋江御潮懸、下程差上候品之外御入用品も有之候ハヽ、御代官江申出、申請を以御用相達、諸事御不自由無之様取計、左候而代銀ハ御当地より直ニ御くに元江相納候筋可被申談候、尤代銀首尾方一件、たう人江相知候而者御故障筋可致出来候間、随分隠蜜(密)可被取計候、此旨御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫
一来年冠船之儀、時節能御渡海有之筈ニも候得共、萬一洋中乗筋取違道之嶋抔江御潮懸被成、御当地江之風順有少、長ク被及滞船儀も候而者至極御差遣「支」相成事候条、御乗船々頭并遊撃乗船案内者、其外冠船より罷渡候船功之唐人共ニも申談、風並乗筋船文等見合随分順能乗届、直ニ那覇川御着船有之候様可被取計候、此旨御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫
一来年冠船御渡海之砌、依風並道之嶋江御潮懸被成儀も可有之哉、於其儀ハ無挨拶無之様、右嶋々江被仰渡置度旨、御当地諸嶋御潮懸之節
勅使御方毎日御入用野菜・肴之外、為下程差上候品・員数書取添、御くに元江被申上候處、弥其通可取計旨、嶋々江被仰渡置候段、せつ津とのより被仰渡置候間得其意、萬一道之嶋江御潮懸被成儀も候ハヽ、右之趣を以所役々衆申談、別紙之品・員数差上、其外萬反御失禮不相成様可被取計候、此旨御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫
覚
一ふた壱疋〈完〉 一庭鳥五ツ〈完〉
一生魚弐拾斤〈完〉 〈但、不有合候ハヽ玉子三拾甲ツヽ〉
一屋久貝拾甲〈完〉 一冬瓜五粒〈完〉
一焼酎五済ツヽ
右、両勅使様江
〈「但、測量官御渡海候ハヽ、品員数同断」〉
一庭鳥三ツ〈完〉
一生魚五斤〈完〉 〈但、不有合候ハヽ玉子弐拾甲完〉
「一塩魚五斤ツヽ」
一焼酎三済ツヽ
右、守備千総江
但、遊撃・都司・巡捕官渡海有之候ハヽ、品・員数同断、尤遊撃・都司・巡捕官江之下程品ハ、御くに元より之仰渡ニ相見得不申抔与所役々申候ハヽ、守備・千総同格之事ニ而、同様不差遣候而不叶段申出、無挨拶不相成様可被取計候、
月日
一来年
勅使御列渡之人数減少并評價物多不持渡、品物等も高直又者御当地ニ而不益之物不持渡様可被相働与之趣ハ、別紙を以被仰渡置通ニ而、おのつから其心得被致筈ニ者候得共、冠船御入料之儀、今以大分之御不足差見得候付而者、此涯御用銀取細候働無之候而不叶事候處、萬一御渡海之
勅使其取受無之、評價物無際限高直之品々等御持渡有之候而者、当時唐物御取締稠敷被仰渡、脇評價茂不相成時節至而御難渋可成立ハ案中ニ而甚御心配之御事候、然者御列渡之人数、評價品員数減少等之儀者
勅使御治定次第ニも可相懸御方江者、
勅使福州御下向之砌、水口中所迄御迎被相勤先格之由候得者、彼所より先江差越候而も何そ御制度向不差障候ハヽ、可成程遠所迄差越、於御一宿所御緩々奉得御對顔、随分御機嫌見計、封王使御招請之儀兼而より用意之上奉願事ニ者候得共、近年琉球飢饉打續候上、此以前異国船繁々来着、異人等逗留等ニ而其流墜及大分、旁以諸民一統及困窮、冠船用意銀今以相調不申候得共、封王使御招請之儀、無此上御国典ニ而御手当向ニ拘長々御延引も難被成、請封御願被仰上事候處、船主共評價物大分持渡候而者、御手当向礑与及相違、買取方御断申上外無之趣共細々御内意申上込、何れ之筋御取受能詮立候方ニ可被相働候、且又辰冠船之時、
勅使被組立置候續琉球国志略之内志餘之篇ニ僕・従人等者多列渡ニ不及、従客之人も武官者相減、筆墨ニ長たる者より可列渡、且船主共交易品高も壱艘向ニ千百石「不」可過、且御帰帆不差急候而者琉球国之費不少次第等委曲被記置候、此書式備
皇覧被置、既ニ置目ニ相成居候賦ニ而、兼而
勅使御覧も為被成筈候得共、人数減少評價物一件御内意向之筋ニ可相成候間、右書持渡、是又御對顔之折御機嫌見計、備御覧候様可被取計旨御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫
一前々冠船之節、
両勅使其外役々江御迎大夫より為御進物品物差上、依時者銀子差上置候例も有之、「戌」冠船之節者御進物差上度阿口通事申談、
勅使堂官相伺させ候處、御進物差上候而も御取納無御座候間、取止候方可宜段有之、尤餘之官人衆江之御進物ハ何様可有之哉与申談候處、
勅使江差上不申候付而ハ官人方江も取止可相済段、阿口通事より承、彼是其通取止、御当地御渡来之上、自分調を以為差上由、書留相見得候得共、於唐御進物御受納不被成儀者、
勅使思召次第之事ニ而、此節御無沙汰ハ相成間敷候間、品員数等致吟味、勢頭・大夫得差圖、阿口通事江も申談候上、大宿役者より品物・銀子相請取可被差上候、康煕五拾八亥年冠船之節差上置候員数ハ、別而分過相見「得」候間、乾隆弐拾壱子年差上置候品員数別紙之通見合を以可被差上候、都合「司」江も古存留進物差遣置候間、是又右同断可被取計旨、御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫
覚
「一焼酎弐拾済」 「一拾済入徳利弐ツ」
一かつう節四拾ツ 一唐紙百六拾枚
一三升入屋貫弐ツ 一錦手女茶わん弐枚
一右入杉箱弐ツ 一五本物金扇子拾六本
一四本入桐扇子箱四ツ 一杉原紙百六拾枚
一醤油樽弐丁
右、両勅使様江進物
一七本物扇子拾六本 一四本入桐扇子箱四ツ
一弐升入屋貫弐ツ 一焼酎六沸
一三沸入徳利弐ツ 一赤嶋「芭」蕉布四反
一かつう節弐拾ツ 一尺幾世留拾対
右、遊撃・都司御両人江進物
一七本物扇子拾六本 一弐本入桐扇子箱八ツ
一唐紙八拾枚 一百田紙四束
一尺幾世留拾弐対
右、両勅使様総官四人江進物
一七本物扇子弐拾四本 一弐本入桐扇子箱拾弐ツ
一百田紙六束 一杉原紙弐百四拾枚
一尺幾世留拾八対
右、両勅使様巡捕弐人・書弁弐人・門使弐人、合六人江進物
右、接封大夫より
一七本物扇子八本 一弐本入桐扇子箱四ツ
一練蕉布弐反 一弐升入屋貫壱ツ
一尺幾世留五対 一かつう節拾ツ
一焼酎三沸 一三沸入徳利壱ツ
右、古存留より都司江進物
月日
一前々冠船之節、
勅使御滞在中
先皇帝様
先皇后様御月忌御差当候節者、於天使館致吹鞁候儀為被召留由候處、冠船御入津之当日右御月忌御当候ハヽ、路次楽奏し候儀何様有之可然哉、久米村方江吟味被仰付候處、
咸豊皇帝様御即位之紅詔布政司衙門より捧下候節、
道光皇帝様御忌内ニ而候處、路次楽被仰付、且申冠船之節、
乾隆皇帝様国喪内ニ而御規式之楽者被召留、御入津之当日、又者諭祭・冊封之時、路次楽ハ御先例通被仰付「置」候、冠船御入津之時、路次楽奏し候儀、
天朝御尊恭向ニ相懸、格別成御事候得者御入津之当日御月忌御当候共、先例通奏楽被仰付可宜候得共、此節於唐習受させ候上、何分被仰付候方申出有之候間、渡唐之上功者之方より可習受候、
一冠船之時、儀注之二字者
咸豊皇帝様御名同音ニ而、於唐ハ禮節之二字ニ改方被仰付置事候得者、琉球之儀も禮節ニ相直可宜段、阿口通事足謝爺申越有之候間、弥相直候様被仰付度、先達而考方申出、其通被仰付置候處、当時
同治皇帝様御代ニ而御先例通儀注相直候而も可相済哉、又者当分通禮節与書候方可宜哉之旨、久米村方江吟味被仰渡候処、最早先御代相成候付而者御先例通儀注之二字ニ相直候方ニも可有之候得共、此節於唐習受被仰付候上、何分被仰付可宜段申出有之候間、渡唐之上右謝爺其外功者之方より可習受候、
一天使飯「館」御樓眠床懸香之儀、前々冠船之節者御餝無之、戌冠船之節接封大夫在唐之砌、阿口通事より懸香御餝無之候而も相応不致段申出、右大夫自分買入を以持渡御用相弁由候得者、前々冠船之節々「ハ」懸香御餝無之候付而ハ、右例通ニ而も可相済哉、又者戌年之通致御餝候儀可宜哉、彼是於唐阿口通事其外功者之方より習受、弥戌年之例通懸香致御餝可宜筋ニ候ハヽ、大宿役者江買渡方可被申付候、
右之通習受、便宜次第被申越候、此段可申渡旨御差圖ニ而候、以上、
月日 勝連親雲上 濱比嘉親方
接封大夫
一冠船御入津儀注之儀、
勅使より請下候先例候間、福州御下着被成候ハヽ早速申上請下、便宜次第早々可差越候、右ニ付先例儀注写壱さつ為見合考方より可相渡候間、先例相替不審之所有之候ハヽ是又習受、聊間違之儀共無之様可被取計候、此旨御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫
一冠船御渡来之節被召列候人数相減シ、評價物も多不持渡様可被相働与之趣ハ、別段被仰渡置通ニ候、然者辰冠船之時、正使御親父相便右一件御内意申上、布政司并海防官江も呈を以願為申上事候得共、其時海賦「賊」盛有之、冠船御召列之武官并兵之儀も調部方入念候様、
詔意之趣御座候由ニ而、申冠船遊撃之場ニ副将、都司之場ニ参将被仰付、其外千総壱人・把総三人重被仰付、兵も先例より被召重候付、兵外之人数者減少被仰付度旨、
両勅使江願上候處、兵被召減候上、吹鞁・諸細工・従内・水主よりも引方被仰付候得共、惣人数五百人餘ニ及、評價物も過分被持渡、買取方一涯為及難渋由、戌冠船ニも右一件稟取仕立、撫院・布政司・海防官江願立、
勅使江も御内意申上候付、渡来人数「被召減」、且評價物も船主持渡候太荷者、琉球近年災殃飢饉等打續及困窮候間、御定数よりも格別相減、惣而太荷代銀弐百貫目ニ不過様、且太荷品員数等委細可書出、左候ハヽ官人差遣調部方可被仰付旨、総撫両院御差圖之上、海防官ニ而取締仕候様、且船主荷物之儀、太荷可持渡高直之品持渡候儀御禁止被仰渡、萬一抜荷持渡致押賣、難渋仕候者者重科可被仰付段、度々告示を以厳敷御取締被仰渡、積荷之砌ハ構之官人衆御船江御乗付、荷物改方之儀者於戸部之前、斤数懸〆を以積入為被仰付由候處、積物以後蜜(密)々致抜積、評價物千貫目餘之品物被持渡、右買入代銀及不足、さん物方より拝借等を以兎哉角御取償為成事候、此節之儀跡々ニ替不意非常之御物入、又ハ凶歳等段々打續、旁以御蔵方を始国中一統極々及難渋、御手当向調兼候得共、格別成御封爵長々御延引も難被遊、去秋請封御願被仰上置御事候条、右之趣厚得心被致、何れも御列渡人、又ハ評價物相減候方精々可被取計、当時唐浦々海賊致蜂起居候由候得者、若哉辰冠船之例を以兵丁被召重儀も候ハヽ、吹鞁・諸細工・従内・水主等ハ御見合を以被召減度、屹与御内意可被申上候、尤惣人数御賦方ハ福州督撫両院御構之由候間、是又手寄を求、成丈相細候様可被相働候、
附、戌冠船御帰帆之上、総督より冠船両艘之評價物御定数外、琉球江持渡商賣為有之哉、有無書出候様諭帖被下候付、王舅・勢頭・大夫差圖之上、御定数外商賣物不持渡趣稟相調為差出段、存留申越之書留有之事ニ而、戌年之成行有筋申上候而者可差障候条、前々冠船之時評價物大分持渡候儀御尋共候ハヽ、御定数外抜荷持渡、於琉球買取方為及難渋儀も有之趣を以、御都合能御返答可被申上候、
一冠船御入津被成候ハヽ、唐人末々迄早速より飯料被下候間、全廩給・半廩給人数高、
勅使江申上御書付申請、入津之上可被差出候、辰冠船ニも右通被仰渡
勅使江度々為申上由候得共、御障無御座由ニ而御渡無之、御入津以後被御渡、戌冠船ニも右同断被仰渡、阿口通事を以
勅使相公致相談候處、清冊之儀於御当地、
上様江差上候先例与申、是又御入津以後御渡有之、両度共至而御差支為相成事候、然者辰冠船ニ者右通御障無御座由ニ而不被成下段、書留相見得、且子冠船之節も勢頭・大夫より右御書付申受度、
勅使御方江申上候処、先冠船之時何役者全廩給、何役者半廩給与差分之古帳持登居候ハヽ、可被差出段被仰下候處、其時右古帳不持渡人数御取〆難被成候付、於琉球右古帳御見合を以御書付御渡可被成由、御返答為有之段、是又帳留相見得候付而者、必御当地ニ而被御渡候先例ニ而者有之間敷、尤清冊者御渡来之上御渡被成事候ハヽ、写ニ而もいつれ人数帳兼而申請無之候而不叶、右差分之古帳写相渡候間、
勅使福州御下着被成候ハヽ右之趣申上、古帳写も掛御目、人数帳申受持渡、壱通ハ接貢船よりも可被差越候、若福州ニ而不相調儀も候ハヽ於船中申受、御入津早速可被差出候、尤右之段末々唐人共江相聞候而者我増全廩給被召加候様ニ与御内意申込候儀も可有之、左候得者口月粮相成筈之者も全半廩給罷成、却而御不勝手可相成候間、右様之儀共無之様、是又気を付可被取計候、
一子冠船ニ者節御持渡龍亭・彩亭兼而之御手当より相重、俄ニ調方差支候付、申辰戌冠船之節者前以其手当有之、節御持渡為相成事候得共、差支無之候、来年も右様先例より相重候品有之候ハヽ、餝様調方等委承合便宜も候ハヽ可被申越候、
一勅使御乗船并遊撃乗船之儀、福州官人方より見合被申付候付、船持之者共態々古船取仕出、御当地ニ而作事替させ可申与之所巧を以、官人方江段々致遣銀、御乗船願出候由、申年冠船之節ハ新作事之船より御渡海有之候様可被相働旨被仰付越候付、於北京勢頭・大夫より呈文相調、梁上國頼上、
両勅使江申上、福州ニ而も接封大夫より総督・撫院江訴申上、海防官船御見分之砌、接封大夫ニも見分被仰渡、古存留・船頭・佐事・水主召列見分之上被仰付置候段、接封大夫より問合有之候處、以之外遊撃乗船之儀、艍無之船ニ而帰帆之砌、冬深難海乗渡候儀、
勅使御疑相付候付、御当地船御借船等之筋ニも可被仰付哉与、及御心配候處、大修補仕候上ハ少も念遣無之段、證文等差上相済候、辰冠船之節も新作事之船より御渡海有之候様可相働旨、御達相成候付、於北京勢頭・大夫より稟帖相調、阿口通事差遣、
両勅使江申上、福州ニ而も接封大夫より兼而御船頭・二号船々頭・作(佐)事・水主共召列見分仕、新作事弐艘相調部、諸衙門江願申上、願通相済為申事候得共、海防官御代合ニ付、跡御役より頭号船者被相替、船作事「修補」等之節ハ船頭・佐事・水主江も差越見分仕候處、武官御詰合ニ而堅固ニ被申付、右船より御渡海之上猶又両艘共御当地ニ而修補仕、御乗帰相成、去戌年ニも右同断新船より御渡海有之候様可相働旨、被仰付越候付、接封大夫より古存留并頭号船・二号船々頭・佐事・水主召列、御乗船可相成船兼而致見分、稟取仕立船々寄書取添、海防官江願申上候處、欽差御乗船之儀、禮部より及言上総督・撫院江調部被仰付、御決定候得者、大夫より相調部願出候儀、例違之由ニ而被差帰、段々手便を求ミ子細承合候處、古船所持之者より向々江掛号銀差遣、海防官江御内意申上候付、古船之所ハ押隠、欽差御乗船相應可仕段、海防官より布政司江為被申上由承候付、右船者古船ニ而遠海致往還候儀、別而無心元候間御差除、餘之商船より御見合被仰付、御船御調部之砌者琉人江も見分被仰付度、稟を以布政司衙門江願立候付、兼而見付置候船江被仰付、船修補も被入御念、海防官江被仰渡、船主御差引ニ而堅固ニ修補被仰付、右船より御渡海之上是又両艘共於御当地致修補、御乗帰為相成事候、来年右様古船又者艍無之船より御渡海、依時佐(作)事替等之筋申出可及難渋儀も難計候、封王使御招請之儀、大分之御物入、殊ニ国中繁多之砌、御船作事等有之候而者別而差支可申候条、
勅使御乗船・遊撃乗船共新造之船より御賦付被仰付候様、御内意相働、御船見分之節ハ能々入念、左候而御帰帆之節修補等不及御乗船可相成段、船主證文請取、於爰元少も難渋之儀共無之様、精々可被相働候、
右之通、去秋進貢御使者江も被仰渡置候間、渡唐之上諸事申談、宜被致調達候、此旨御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
〈丑秋走〉
接封大夫 渡唐役者中
一冠船之節、
勅使御召列之人数、康煕弐卯年ニ者三百七拾九人、同弐拾弐亥年四百五拾三人、同五拾八亥年六百四拾九人、乾隆弐拾壱子年四百五拾九人、嘉慶五申年五百四人、同拾三辰年五百拾九人、道光拾八戌年四百拾七人御列渡、段々多少有之事候、若大勢御召列有之候而者諸事難調、別而差支可相成候間、随分減少ニ而被召列候様、
勅使并御構之官人衆江御内意申上、何れ之筋四百人ニ不過様可被相働候、
一康煕五拾八亥年冠船之節者、測量官御両人御渡来、嘉慶拾三辰年ニ者副将・参将・弾圧官之外千総一人・把総三人相重御渡来有之、兼而用意も無之候處、亥年ニ者漂着唐人送届候楷船先達而帰帆、右之次第相知候付、御旅飯「館」、彼是夜白之働を以相調、辰年ニ者兼而不相知、別而差支為申事候、右様之御人躰御渡来ハ不圖之事ニ而、来寅年ニも御手当ハ無之候間、若官人衆相重御渡来被成儀も候ハヽ、兼而不相知候而者至極差支、御失禮ニも相成事候間、随分承合便宜も候ハヽ、先達而可被申越候、
一進貢・接貢船より国用之品ハ買求用事相達候処、評價物大分被持渡候而者至極可及難渋候間、部銀相込四百貫目之分ニ不過様、随分可被相働候、
一評價物之儀、右銀高之分被持渡候而も高直又者不益之品買取候儀ハ甚迷惑相成事候条、別冊勝手相成候品々不「被」持渡候様可被相働候、尤右之段ハ下々之者共江も委ク申渡置、自然唐人より問尋有之候ハヽ、別冊之品々持渡可宜段申達候様、堅可被申渡候、
一封王使生国・姓名・官位等御国元江可及御届候間、委承合、便宜有之候ハヽ先達而可被申越候、
右之趣具ニ被得其意、宜致調達候、御当地之儀、頃年段々御物入打續至而御当迫之砌、金銀諸物古来未聞之高料成立、此節冠船御入料銀御先例之三四増倍程相重、至而及難渋候付、去秋勢頭・大夫江も分ケ而申渡置候間、渡唐之上萬反申談、随分詮立候様可被取計候也、
三司官
月日
接封大夫
〈丑秋走〉
渡唐役者中
計開
一阿膠 一砂仁
一児茶 一黄茋
一藿香 一連翹
一使君子 一猪苓
一洋青 一兕角
一胭脂 一蘇木
一滑石
右品之儀、持渡候而可然候
一石黄 一乳香
一肉豆蒄 一没薬
一木瓜 一白姜蚕
一酸棗仁 一良姜
一尺桂 一山𦳐
一血竭 一碗薬
一西洋棉紗 一棉花
一山東繭綢 一桐板経緯〈苧絲〉
一桐板纃 一阿南纃
一海南葛 一白邊紙
一棉袋紙 一炮早紙
一官香 一短香
一清明茶 一春水
一白糖 一茶油
一傘
右国中当用ニ而候間、持渡候様
一大黄 一甘草
一土茯苓 一蒼朮
一大茴香 一大腹皮
一杜仲 一白朮
右品之儀、至而僅之遣高ニ而候間可成程不持渡様
一玳瑁 一玳瑁脚
一玳瑁腹 一玳瑁裙
一銀硃 一紅花
一長条洋山面 一統洋山
一充艾片 一犀角
一沈香 一虫絲
一水銀 一象牙
一硼砂 一木香
一本人参 一條人参
一高麗人参 一厚粉
一肉桂 一鹿葺
一麝香 一燕窩
一哈喇呢 一嗶吱
一呢 一羽毛
一西洋各色布類
右品之儀、及銀高候間不持渡様
一玳瑁器具玩物 一沈香玩物
一犀角器皿玩物
一金木石磁奇巧人物玩物各等器
右無用之品ニ而候間、一切不持渡様
月日
一来年冠船御渡来ニ付而者大分之御入料ニ而、御手当向及御不足、甚以心配「之」御事候、右ニ付而者第一評價物相減不申候而不叶、部銀相込四百貫目不過、品柄も高直又者不益之物不持渡様可相働旨、委細別紙を以被仰渡置通ニ候、然共「者」申冠船ニ者
勅使御乗船々頭漢那親雲上江内々被仰含越、評價物大荷勝持渡させ、且標官与申唐人御当地江列渡候ハヽ、御用之御為ニも可相成与相考、彼父子渡海為致度申進候得共、仕廻料差支候由ニ而相断候付、自分銀借相渡、父子共正使内ニ而為致渡海候故、評價物加下又者六ケ敷儀共標官を以、
「勅使江御内意申上させ、段々御為筋為相成由、辰冠船ニも評價物多不持渡様可相働旨、渡唐人数之内御見合内々被仰含越候得共、其儀不相調、折節寅秋走大唐船唐江越年ニ而脇筆者仲里筑登之親雲上ニ者正使御方林氏・丁氏兼而心安致取合、右両人手寄を以」
勅使江も参謁之上、評價物減方御内意申上、弥清冊を以御締方被仰渡置候處、冠船両艘多人数乗組候付御締向届兼、千貫目程之品物持渡、御手銀高ニ而者難買取、猶又仲里江訳ケ而被仰渡、右之林氏・丁氏両人相便極蜜(密)取計を以、評價物高料之品ハ都而差返、部銀も加四加三及筈候處、是又相働加二相下ケ最初千貫め程之評價物過半相減為申由、戌冠船ニも兼而係人渡唐被仰付、評價物太荷勝持渡、高直之所「品」不持渡方ニ商人共江細々頼入、請合之拠書等請取来、猶又御迎大夫江も被仰含越、於唐相働候付官所よりも御取締被仰付、評價物太荷勝持渡、高直之品持渡候儀御禁止為被仰付由、然處多人数之御取締向届兼候哉、既ニ御渡来之上者千貫め餘之品物相及、右買入代銀及不足、さん物方より拝借等を以兎哉角御取饋為相成事候、此節之儀不意非常之御物入凶歳等打續、旁以御蔵方を始国中一統極々及難渋候上、「さん物方も金子御格護無之事ニ而、差当御手当銀及相違候而も右様御取饋方難被成、至而及御差支候儀案中ニ而、何れ」評價物相減不申者不叶、其方共江評價方御用係被仰付候間、渡唐候ハヽ勢頭・大夫・接封大夫・役者中江差圖之上随分相働、且標官又者林氏・丁氏様成唐人共丁寧ニ取合、
勅使御方抔江相付、渡海為致、御用向彼是御為筋相成候様可被取計候、左候而働之程合ニ應し其御見合被仰付筈候、此旨被達
上聞被仰渡候条、右之件得与汲受、此涯尽心力可被相働旨、御差圖ニ而候、以上、
月日
〈評價方中取〉
玉那覇筑登之親雲上
当間筑登之親雲上
右之通被仰渡候間、萬反致差圖、尤唐人慥成人躰各ニも承合、
勅使内ニ而渡海させ御当地御為筋相成候様可被取計候、此旨御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
〈丑秋走〉
接封大夫 渡唐役者中
一渡唐之面々、唐人より不致借銭様ニ与之儀者、跡々より堅御禁止被仰渡置、猶又去戌冠船前分ケ而被仰渡趣有之候付而者、聊緩せ之儀者有之間敷候得共、先年冠船之節唐人より致借銀候者罷在、段々及御糺方ニ御咎め被仰付置候、来年右躰之者とも有之、唐人共催促方難渋之儀共申立候而者、其身之罪科者不申及、御難題ニも相成事候条、借銀有之方ハ急度致返済、借状取返置候様可申渡旨、去辰年以来渡唐役者江被仰渡置候得共、猶又稠敷相糺シ、若致借銀居候者も候ハヽ此節銀致返済、借状取返させ、左候而向後兼而被仰渡置趣堅相守、少迚も唐人より致借間敷候、乍此上借銀取隠置唐人渡海之上催促於有之ハ、屹与可及御沙汰候条、右之趣渡唐末々之者迄堅可被申渡候、尤役者より右之首尾方取扱候筋唐人江相聞候而者却而難渋之儀共可致出来候間、渡唐之上勢頭・大夫申談、随分不事立様可被取計候、此旨御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫 渡唐役者中
一海鼠・蚫之儀、当時御くに元高直之上才覚も六ケ敷有之、来年冠船之節評價用意申請御取止相成候處、此申渡唐船よりいりく・蚫類年々大分為持渡由候得者、来年唐人共右品類ニ品替之考を以評價物大分可持渡茂難計事候条、渡唐之上唐人共江時宜都合次第いりく・蚫之儀、国産ハ纔計ニ而、多分宝嶋持渡「来」候を買取候處、近年出所高直之由ニ而廣不持渡、求方至而六ケ敷有之、唐人江馳走用意迄を漸相調、評價用者昆布・干藻・鱶鰭等手当有之趣を以申聞、唐人共評價品多不持渡様、精々可被相働候、
一戌冠船之節、評價用之昆布百斤ニ蕃銭六枚ニ而相拂置候、其比ハ於唐昆布百斤蕃銭拾五六枚以上ニも拂方相成候付、評價用も右代成ニ而買取為申筈候得共、当時於唐昆布代百斤ニ蕃銭五六枚相立候由候得者、評價用如何程下直ニ可申懸も難計事ニ而、昆布地代及高料候次第兼而唐人共江相噺落着させ置不中ハ、至其期ニ代立一件致難渋、御損成ニも可相及候間、是又前条同断及高直候趣を以、折次第可被相達候、
一御当地唐品及高料候次第唐人江相知候而ハ、評價物直組六ケ敷可及難渋候間、於唐一切右之致取沙汰間敷、尤高料相成候次第響合候而唐人相尋候儀も候ハヽ、成程一往者相應之直成為相拂事候得共、国中ニ而者禿ハ少、多分ハ宝嶋人共買取、日本国江持渡致交易事候處、近年彼之国江西洋諸国之船々渡着、唐物類手廣致交易、利潤無之由ニ而買取不申、夫故当夏進貢船江持渡之品々不買「賣」捌候上、下直ニ相成候段、致返答候様可被相心得候、
一此節渡唐末々之者共若哉唐人名前を借、自分之品物評價方江賣上候所巧取企候者も可致出来哉、且又接貢船帰帆船間唐人江賣渡候歟、又者唐人之頼を承、諸品物接貢船より積来者も可有之哉、且唐人江銀子品物等致借渡、於御当地返弁請取候働取企候者も可致出来哉、縦令末々之者ニ而も強右様之心底ハ有之間敷候得共、萬一一己之利欲ニ迷ひ不正之企いたし評價物多持渡候而者、当御時節至而御差支可相成「ハ」案中ニ而、別而御念遣之事候条堅致取締、自然右躰取企候旅「族」も候ハヽ、罪科不軽段も頭ニ可被申聞置事、
右者来年冠船御渡来之節、評價物多持渡直段及高料候歟、又者此方より賣渡候品々直段引下、且渡唐球「琉」人共不正筋之儀共於有之ハ、甚御難題可成立事候条、此節渡唐末々ニ至り具ニ申聞、各も萬反気を付差引可被致候、此旨御差圖ニ而候、以上、
附
一本文数ケ条之趣ハ、従之者共并五主・船方中人別堅申聞、仰渡通可相守段請取、首尾可被申出候、
一渡唐之上者在唐人数江も委細可被申渡候、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫 渡唐役者中
一来年冠船御渡来付、評價物多不持渡様可被相働与之趣ハ、先達而被仰渡置候得共、戌冠船之節渡来為致唐人、評價之様子能存居候者共罷在由候付、評價物押々過分持渡候儀も可有之哉、当時唐物御取締稠敷被仰渡候付、御免品外者容易賣捌方不罷成、其上御時節柄御用意銀高茂調兼、至而御難渋之御事ニ而商人共兼而品柄等手組不致内、於御当地交易振之向合等細々申諭、評價銀高相細、品柄等も其見合を以持渡候様無之候而不叶、去秋評價方係人之内「渡」唐付、右御用係被仰付、於唐評價物相減候一件、商人共細々頼入、請合之拠書等請取来候得共、商人之慣し致反覆候も難計、此節も評價中取玉那覇筑登之親雲上・当間筑登之親雲上致渡唐候付、評價一件之御用兼務被仰付、別紙唐人等江應答心得書取添被仰渡候間、勢頭・大夫相合、精々加下知随分詮立候様可被取計候、尤時宜次第冠船御手当向之様子相尋候儀も可有之、其場返答振交々「相成候而者右應答之趣意不実之形ニ被取受」却而故障筋可致出来不実之形被取受候間、何歟御手当之様子尋有之候ハヽ、別紙之趣を以致返答、又者都合次第不屹与立様噺成等ニ而細々申諭候様、役者以下五主・船方・従之者共人別相達、渡唐之上在唐人数江も委細「可被」申渡候、此旨御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫 渡唐役者中
唐人江應答之心得
一琉球之儀不自由之小国、金銀一切出産無之、宝嶋人日本国より求来候を買取候處、近年彼之国江西洋諸国之船々渡着致交易、金銀求方前々之様不相達由ニ而、進貢・接貢料銀も乍漸相求候振合故、冠船料銀于今全不相調、且昆布・海鼠・蚫等之品々国産ハ纔計ニ而、多分宝嶋人持渡候を買取候処、是又近来出所高直之由ニ而廣不持来、右通之次第故渡唐之面々金子「一切」不持渡、昆布・蚫「等」之品々も以前より持渡高引入居候次第ニ而、評價物大分持渡候而者悉買取候儀不相叶、持戻候外無之、礑与迷惑可致候間、其心得を以仕廻方相細、高代之品柄等不持渡方可然与之趣可申諭候、
一唐人より此節冠船之儀、前々之例より者格別年数相延候付而ハ夫丈廻安、諸手当向相届為申筈候處、前条通之申分落着難成抔与申事候ハヽ、此以前異国船繁々来着、夷人も交々逗留段々不意非常之入費及大分、且近年風旱飢饉等打續、旁之所より国中一統及困窮、諸手当向思様不相調段可相答候、
一右通国中困窮付而者封王使御渡来被成候儀却而大粧可致与申候ハヽ、封王使申請之儀、無此上大典、殊ニ
勅使御渡海王爵被致頂戴候ハヽ、蒙
御徳化おのつから国運到来豊饒可相成与上下萬民深願仕居候段、返答可致候、
月日
一冠船御渡来之節、罷渡候阿口通事之儀、謝衢并馮爺事人躰宜、此両人渡来有之候ハヽ御用弁宜、且阿口通事筆者王康(秉)謙も人躰相應有之、
勅使御側用ニ而罷渡候ハヽ、評價一件其外御内意向等格別御為筋可相成候間、右三人致渡来候様被仰付度旨、久米村方并御方被申出趣遂披露、其通被仰付候条、渡唐之上勢頭・大夫江も被申談、面々申達
勅使福州御下着被成候ハヽ、屹与御内意申上いつれも右者共被列渡、諸御用向宜相弁候様可被取計候、此旨御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫
一冠船御滞留中、傾城共引拂被仰付候段ハ別紙を以被仰渡置通ニ候、然者戌冠船之時、布政司より御取締被仰渡候御書付写ニ、
勅使御召列人数随分国法を守、身分を安し於琉球少も難渋仕間敷、若酒色を好、賭博・喧𠵅・口論又者傾城慰等いたし候者者無調法之品「應し」罪科可被仰付与之趣相見得、既
勅使御渡海之上、傾城共館屋近邊徘徊、兵役人等令蠱惑候段被聞召、厳密ニ相改追返候様ニ与、那覇官江被仰渡、末々唐人等江も段々御取締被仰付、右外琉球国志略等ニ傾城一件御取締被仰渡置御事も候得共「者」、兎角来年も右例を以おのつから御取締可被仰付賦候得共、前々冠船之節者、唐人共傾城附合させ、至此節被召留殊ニ此跡渡唐之者より傾城罷渡「在」候段、相噺置候も有之由候得者、当分傾城不罷居段相達候ハヽ、異国人ニ拘取繕候形ニ唐人共相察、来年渡唐之上、女人江差障候も難計、至極御念遣之御事候条、於唐勢頭・大夫江も申談、
勅使福州御下着被成候ハヽ、時宜御都合次第別紙被仰渡置候趣を以、傾城不罷居次第通上、末々唐人等心得違無之様御取計被下度御内意申上、猶又官所江も手寄を求、稠敷御取締被仰渡候方相働、唐人共渡来之上律儀有之候様可被取計候、此旨御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫
一御当地傾城之儀、異国人等ニ對し不罷居「段」御達相成候付、冠船御渡来之節、唐人共傾城附合させ候而者、異人等江響合相成、又者冠船御滞留中異国船来着、異人等目ニ懸候ハヽ、至而御故障筋出来、是以御国難之端不容易儀与深被及御吟味、冠船御滞留中ハ傾城引拂被仰付候間、此節渡唐之面々唐人共江、御当地此以前異国船繁々来着、異人等逗留住家等作立永久之姿相見得候付、傾城共致驚怖方々江迯去、且飢饉打續諸民一統及難儀、傾城附合候も無之、右者共素立方不罷成、至当分ハ不罷居段、折次第相達、尤此中渡唐末々之者より傾城罷在候段相噺置候茂可有之、右之趣唐人より申掛候ハヽ、虚説之成ニ相達、前文通当文「分」不罷居段幾重ニも申張、令落着候様可被取計候、有間敷事ニ者候得共、萬一傾城罷在候段、実形唐人江相噺候而者、来年渡来之者上傾城在所相尋候迚致方々、至而御故障筋可致出来ハ案中ニ而、甚御念遣之御事候条、件之趣具ニ得其意、此涯傾城一件、唐人共江申触様不行届候ハヽ、御難題ニも相懸候訳合厚心肝銘し、前文之趣を以何れニ茂唐人令落着候様、五主・船方・従之者迄人別堅申渡、其首尾可被申出候、此旨御差圖ニ而候、以上、
附、渡唐之上者在唐人躰「数」江も本文之趣、細蜜(密)可申渡候、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫 渡唐役者中
〈「本文、九月十日馬艦船那覇致入津、勅答茂閏五月十六日相下候段、承候事」〉
一去秋進貢便より請封御願被仰上、弥御願通相済候段、早々御承知被成候得共、御手当彼是手都合有之候間、右一件早々申越候方可被取計段ハ、勢頭・大夫渡唐前被仰渡置候付、唐着早速より段々相働候得共、帰唐船出帆涯迄
勅答不相下、漂着馬艦船出帆相扣させ
勅使相下次第帰帆可申付段、勢頭・大夫申越有之候處、今以帰着無之、至而御持(待カ)兼被成候、布政司より接封大夫差渡方を始、諸手当向等都而先例通可取計旨、為被仰渡由候得者、御願通相済候儀おのつから之事候得共、
勅答御承知被成候得共「者」、猶以御安心可有御座候間、漂着馬艦船于今致滞船居候ハヽ、来春日和見合早々帰帆させ候様可被取計候、依御差圖此段申達候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫
言上写
一今月七日、当秋渡唐人数江御茶飯可被下事、
以上
〈丑〉八月朔日
右之通言上相済候間、此段致通達候、以上、
〈御評定所筆者〉
〈丑〉八月朔日 瀬名波里之子親雲上 與儀筑登之親雲上
真栄里親雲上
八月七日
右ニ付、今日五ツ前登 城、例之通相勤候事、
覚
一冠船御入津之時、従
上様於通堂御迎之手本差上候得者
勅使様御下船被遊候御先例候間、
勅使様より之新儀注いつれニも福州ニ而乞下ケ、先達而相届候様、精々可被相働候、
一全半廩給、口月粮差分を以入津早速より飯料被相渡筈候間、右差分清冊是又前条同断可被相働候、
一萬寿之儀、冠船之時於御当地被祝上置候御先例候間、能々聞合を以可被申越事、
一冠船付、表御方より被仰渡条々、其外ニも右一件ニ付可習受儀共ハ、諸事気を付習受可被申越事、
一阿口通事共江従
上様被成下候御返答「礼」物之儀、大宿方何歟不正之儀共有之由不宜候間、渡方之砌者各を始、新・古存留役者中ニも出張拝受可被致候、
右条々萬反気を付被罷居、尤可申越儀共有之候ハヽ、便宜次第早々可被申越候、以上、
月日 冨山通事親雲上 国場親雲上
天願親方
〈御迎大夫〉
真栄里親雲上
私渡唐帰帆積間之儀、戌年之例通渡唐之時進貢大夫同様、帰帆之時進貢大夫之三分壱被成下候、尤割方之儀渡唐「者」才府以下五主・船方迄、帰帆ハ勢頭・大夫より五主・船方中迄割府為致由、承候事、
附、儀者積間も進貢大夫儀者同様ニ而候由、承候事、
八月七日
一願出次第親雲上以御使、御餞被成下候間、此段致通達候、以上、
附、三日前可被申出候、
聞得大君御殿
八月七日
真栄里親雲上
一御願出次第親雲上御使を以、御餞被成下候間、三日前御申出可被成候、此段致御通達候、以上、
附、当日御注進次第、
〈佐敷御殿〉
田場筑登之親雲上
八月七日
濱比嘉里之子親雲上
真栄里親雲上
八月十九日
来ル廿二日、御餞被成下度旨、御書院并御近習
聞得大君御殿参上相伺候処、弥其通被仰付候段、「被仰聞候付」当日御注進なく八ツ時分御下被成度、是又申上候事、
八月廿二日
一今日従
上様、御書院当御使、従
聞得大君加那志様
佐敷按司加那志様、親雲上御使を以御餞被成下候事、
拝領物左之通
一白麻五束 一尺幾せる拾五対
一国分多葉粉六拾把 一練蕉布三反
右、従
上様
一白麻弐束〈完〉 一国分多葉粉弐拾把ツヽ
右、従
聞得大君御殿
佐敷御殿
八月廿三日
昨日、従
上様、御書院当、従
聞得大君加那志様
佐敷按司加那志様、親雲上御使を以御餞被成下候、美拝為可申上、今日登城、御書院并御近習御取次美拝申上、左候而
聞得大君御殿参上、大親御取次美拝申上、罷在「下」候事、
八月十八日
一乗船之儀、被申出候通、来ル廿八日相済候間、此段致問合候、以上、
澤岻親雲上
八月十八日
渡唐役者中
今般唐江被差上候御状、明日於上之天后宮相渡候間、同日四ツ時分罷出可被請取候、此段致御通達候、以上、
冨山通事親雲上
八月廿六日
国場親雲上
真栄里親雲上
同廿七日
一右ニ付、今日四ツ時分、上之天后宮江罷出、左之通請「取」候事、
一為恭迎欽差之咨壱通
右、勅使様江差上用
一為恭迎綸恩欽差之咨壱通
右、布政司江収差上用
一咨之空道
一咨皮空道
八月廿七日
今日五ツ時分、登 城
上様江御書院当、
佐敷按司加那志様江御近習御取次、御暇乞申上、
聞得大君御殿「参上」、大親御取次を以右同断申上候事、
一勅使御入津儀注写壱さつ
一先冠船之時人名清冊写壱さつ
右、於唐見合用とシテ久米村考方、筆者嘉手川筑登之より請取候事、一前々冠船御渡来之節ハ、御当地船方より頭号船江六人、二号船江四人乗合被仰付、御帰帆之節々ハ頭号船々頭申出之趣有之、唐御船頭・水主共船功之者ニ而無之訳を以、頭号船ハ船方拾四人相重、都合弐拾人乗付被仰付候處、辰冠船御帰帆之時ハ船間関合候付、佐事并従之内より都合六人差卸、戌冠船ニ者
副勅使二号船より御帰帆被成ニ付、是又当頭号船同様弐拾人乗付置候、当時船方共不進相成、定式之船方さへ持「揃」兼候躰候得者、来年冠船御帰帆之節重乗付候儀も候而者、船柄之者揃兼可申哉与、御念遣之御事候間、右之趣頭二号船両艘船頭共江具ニ申聞、渡唐之上ハ各船主相逢、冠船御往還共日和乗前等相互ニ致吟味、入念相働候儀ハをのつから之事候得共、第一唐御船頭・水主共船柄相揃不申ハ、於船中働方思様不行届可差支候間、御船頭并水主共船柄見合方、分ケ而入念候様、右両艘船主共江令相談、何れも船柄相揃候様可被取計候、尤唐船方共先例四拾八人之由候得共、若哉「琉」船方共手弱有之候抔与申、唐人重乗付候儀も難計事候間、能々気を付聞繕、自然右躰「様」之模様も候ハヽ、手寄を求屹与御内意申上、戌冠船之時、布政司より撫院江被御申上候趣も辰冠船ニ者一艘向ニ船頭・水主四拾八人乗合候處、山東往来之商船者水主弐拾四人乗合全致往還候間、欽差御乗船水主ハ今六人重、都合三拾人乗付候ハヽ、差支候儀ハ無御座候間、右大躰「数」乗合被仰付度旨被申上候處、船主共より船中不人足ニ而者船取扱方不行届候間、水主者先例通一艘四拾八人乗付候様、海防官江願立、其通為被仰付段、御迎大夫申出之書付、帳留相見得候間、右之行成「も」御都合次第ニ者御内分より申上、何れ先例通一艘向ニ四拾八人ニ不過、渡来有之候様可可被相働候、此旨御差圖ニ而候、以上、
八月廿六日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫
勅使福州御下着、奉得御對顔候砌者、御当地国喪之次第被聞召、右一件者御尋共候ハヽ、去臘
国母様薨御為被遊事候得共、王爵御頂戴ハ無此上御大典ニ而、申冠船之時も前年
乾隆皇帝様薨御被遊候處、封王使被御遣、且朝鮮・安南国ニも三年之喪内王爵を以頂戴被致候例有之由ニ而、此節も去秋之請封御願被仰上候付、為御迎被差渡候段申上、尤
勅使御相持(待カ)向一件何様相心得候哉与、御尋共候ハヽ、
勅使御取「相」持之儀、被為對
天朝不軽御事ニ而、諸事御先例通「致」手当置候得共、兎角御渡海之上、萬端「得」御差圖取行申筈之段申上、御都合次第ニ者御方所存形を以、躍・火花・爬龍舟等之儀、何様有之可然哉之所、不屹立様被習受、何分便宜次第可被申越旨、御差圖ニ而候事、
八月廿六日
一来年御渡来之遊撃・都司・弾圧官、前々冠船之時渡来被致候衆より官上ニ而候ハヽ、
上様・摂政・三司官衆より御禮對向相替候儀も可有之哉、且唐之儀時之振合次第御禮對向相替候儀も難計事候間、渡唐之上勢頭・大夫相合、右官人衆官位又者当時之禮節等承合、御禮對向相替事候ハヽ、功者之方より習受便宜次第可被申越候、此旨御差圖ニ而候、以上、
勝連親雲上
九月二日
濱比嘉親方
接封大夫
覚
一勅使始附従之官人衆、生国・姓名・官位、且官人衆并全廩給・半廩給其外御召列人数高之事、
一龍亭・彩亭ニ可載御品、戌冠船より相重候ハヽ餝相調方等之事、
一御筆御拝領之事、
一御入津儀注之事、
一冠船御入津之当日、
先皇帝様
先皇后様御月忌御差当候節、路次楽奏し候儀、且儀注之二字者
咸豊皇帝様御名同音ニ而、禮節ニ改方被仰付置候得共、
同治皇帝様御代相成候付、御先例之通儀注相直候而も可相済哉、且天使館御樓眠床懸香御餝一件、且来年御渡来遊撃・都合(司)・弾圧官、前々渡来被致候衆より官上ニ而候ハヽ、御禮對向一件習受被仰付候数ケ条之事、
一評價物品員数并地代且惣銀高之事、
一古銀・蕃銭、十分銀ニ何程致引合候段、右引合員数書之事、
但、二行評價中取玉那覇筑登之親雲上・当間筑登之親雲上被仰渡置候間、右両人江可被申渡候、
右条々ハ御手当向「ニ」相懸、早々御承知被成候得者御心得可相成候間、馬艦船等致漂着儀も候ハヽ早仕出を以、右条々其外も御心得可相成儀共気を付可被問越旨、御差圖ニ而候事、
九月三日
近年、朝鮮国江封王使御渡海為被成「由」噂有之由候處、右者三年之国喪内ニ而ハ有之間敷哉、阿口通事謝爺其外ニも在京之時、右一件承候者も可有之哉、渡唐之上内々聞合、噺承居候者罷在候ハヽ、国喪内勅使御相待向何様為被召行哉、委承便宜次第可被申越候、且又朝鮮其外之国喪内
勅使御相待向一件、委載置候書物も可有之哉、是又被相尋、弥右書有之候ハヽ致才覚来夏可被持渡事、
九月
(第二冊)
勅使御迎大夫日記 真栄里親方
〈接貢「封」大夫〉
同治四年〈乙丑〉八月 真栄里親雲上
八月廿八日
一今日、乗船仕候事、
一右ニ付、今日五ツ時分役者中・御船頭・接貢船船頭迄才府田里筑登之親雲上宿江相揃、御奉行様・御役々衆江口上書名札を以御暇乞申上候事、
九月九日
一今日、重陽之節句ニ付、菩薩加那志御前江御三味物備上、例之通御拝相勤候事、
附、御三味物之儀ハ公向ニ而候、尤調方之儀ハ總官構ニ而候也、
〈御印〉 口上覚 〈印〉
乍恐申上候、
勅使様御迎佐事・水主勲功之儀、定式佐事・水主「共」より倍御取持被仰付候御先例之由、内々承知仕候、然者船方之儀、惣而困窮之者ニ而専繰合之餘勢を以、父母妻子致介抱候處、近年殊之外唐不景気相成、船方共相厭候付、去年進貢船佐事・定加子者勲功倍御取持被仰付、水主者銭三千貫文ツヽ拝借被成下候付、漸請合相勤来事御座候、依之奉訴候儀御都合之程茂難計、恐多御座候得共、右佐事・水主之儀、
勅使様為御迎被差渡候付、何れ船功之者乗附候様取計不申者不叶事ニ而、折角人躰見合おかす仕、既御印紙等相済候処、勲功御取持之儀、御先規通ニ而者定式同様「前」何そ不相替事ニ而、何れ茂相厭何角謂を構断可申出者案中ニ而、至極心配仕事御座候間、前件之次第格別之御取分を以、何卒此節御迎佐事勲功之儀、去年定式佐事勲功より倍御取持被仰付、且水主共ニ茂定式足佐事・足定加子等勤居候方より見合、殊拝借願も不申上次第御座候間、定式・水主四旅之勲功御取持被仰付被下度奉願候、左様御達被下候ハヽ何れ茂難有奉存、随分進立勤向出精仕可申与奉存、此段奉訴事御座候条、此等之趣幾重ニ茂宜様御取成可被下儀奉頼候、以上、
〈頭号船船頭〉
八月 西銘筑登之親雲上
右願出之通、御取持有御座度奉存候、以上、
〈御迎大夫〉
八月 真栄里親雲上
右願出之通、被仰付度奉存候、以上、
〈御船手奉行〉
喜舎場里之子親雲上
〈高奉行〉
安谷屋親雲上
板良敷親雲上
澤岻親雲上
玉城親方
十月二日
一接貢船之儀、来ル七日致出帆候付、衣裳包并船中野菜等五日限積入候様、且同日早朝役者中沖之寺江相揃候様、高奉行より被仰渡候間、其心得可被成候、此段致通達候、以上、
十月二日 大宿
〈大夫江も可被申上候 〉
高良筑登之
一産物方御商法品拾六「種」之内并御臨時御注文品之儀、此節より商人共見込を以相對注文、又者勝手商法被仰付候段、御くに元より被仰渡趣有之候付、産物方御注文品之儀、何様可被仰付哉之旨、御目附衆相伺候処、当年ハ先達而御注文御渡相成候通、調達方被仰付候段被仰渡候間、此旨得其意、抜物又者買過買不不(衍カ)足等無之、御注文通全可買来候、此旨御差圖ニ而候、以上、
冨嶋親雲上
十月朔日
崎濱親雲上
勝連親雲上
小波津親方
〈接貢船〉
役者中
右之通被仰渡候間、被得其意、抜物等無之様、従之者共厳重取締可被申渡候、此段致通達候、以上、
大宿
十月二日
〈大夫江も可被申上候〉
高良筑登之
同五日
一今日、衣裳包并船中野菜等乗付候段、承候事、
一接貢船之儀、明後七日未明致出帆候間、明日酉頭時分「乗付」候様、高奉行より被仰付候事、
同六日
一今日、酉頭時分御船江乗付候事、
同七日
一今日、順風相成候付、石火矢三筒打、五ツ頭時分私并役者中・儀者・勤学迄、艫屋之上着座、三司官衆江御一礼、追而大口乗出候付、着座之面々御城江向御拝仕、引次御船菩薩加那志御前江御拝仕候事、
附、
一大口乗出候砌、石火矢三筒打候也、
一帆持祝として四合瓶壱双船頭方江収差遣候也、
一儀者者壱合瓶壱双差遣候段、承候也、
一今日七ツ過時分、慶良間嶋致通船候事、
十月八日
一今日早朝、久米嶋致通船候處、同九ツ時分風戌亥之間相成候付、引帰し酉頭時分慶良間「嶋」座喜味間切阿嘉泊江致汐懸候也、
同九日
一今日、三日祝とシテ四合瓶壱對船頭方江差遣候事、
一今日、風之御立願とシテ接貢船船頭并頭号船船頭両人陸卸ニ而、阿嘉村のん殿内并同所嶽々致参詣候段、承候事、
附、御花米者役者中より当日貫、御五水者大宿より差足置、後日致割府候段、承候事、
一屋久かい四甲
右者座間味・渡嘉敷両間切より有付とシテ目録取添進来候事、
附、儀者江者弐申、右同断ニ而進来候由、承候事、
一当所津口江諸船汐懸之節者、船中よりふた壱疋・御花・御五水・仙香相備致立願候先例之由ニ而、今日接貢船船頭・御船頭両人、佐事共致立願候段、承候事、
附、ふた代者接貢船々頭より差出、餘者帰帆之上船方中致割府候由、承候也、
十月十日
一今日、風卯之方相成候付、八ツ時分当所出帆、入相時分久米嶋通船、夜弐更迠針筋酉戌之間、三更より針筋子丑之間、
同十一日
一今日、針筋子丑之間、
同十二日
一今日、風子之方相成候付、針筋寅卯之間、七ツ時分粟国嶋致通船候處、漸々風根相下、卯辰之間相成候付、夜四ツ時分針筋酉戌之間、
十月十三日
一今日、風子丑之間、針筋右同断ニ而五ツ時分久米嶋致通船候事、
同十四日
一今日、小雨、風寅之方、針筋酉戌之間ニ而候処、夜中風根段々相替候付、右ニ應し針筋取直し致通船候事、
同十五日 雨天
一今日、風亥子之方、針筋申酉之間、風波荒立候付御船菩薩加那志御前江三百篇経讀上、御立願仕候事、
一夜入候而より風波猶又荒立候付、御船菩薩加那志御取次、恰山院并宮之上菩薩加那志江大御三味之御結願仕候段、御立願仕候事、
十月十六日
一今日、風波静相成、風子之方、針筋酉戌之間、
同十七日
一今日、風子丑之方、針筋酉戌之間、五ツ頭時分とん瀬与申外山見懸、夜七ツ時分錠海江錠を卸候事、
同十八日
一今日未明、片平城江存留より「之」報相届候付、早速兵船弐艘差出、引港とシテ唐人壱人被乗付候付、同日五ツ時分同所出帆、七ツ過時分恰山院致参着候事、
同十九日
一今日、恰山院菩薩加那志御前江大御三味備上御結願ニ付、私始役者中色衣儀者・勤学人・船頭・御船頭・佐事・五主・船方中衣色冠帽子ニ而、恰山院廟参詣、三跪九叩頭相勤候事、
十月廿日
一閩安鎮御改之儀、阿口通事「并」古存留罷出不申候付、無「御」改相済候様取計度旨、存留上運天里之子親雲上より同所通事相頼候處、弥願通無御改相済候段有之候付、今日五ツ時分恰山院より廻船、同日七ツ時分林浦致参着候事、
同廿一日
一今日、身廻相卸、私始役者中館屋下り「卸」いたし候事、
一右ニ付、都浦新港江左之通進物差遣候也、
一扇子弐本ツヽ 一小鰹三節ツヽ 一白麻二帖ツヽ
一於琉館屋住居所之儀、新四橌「中」表弐橌相往居候事、
十月廿六日
一明日、封堵珎盤被仰付候段、阿口通事申来候間、下館之面々御船江乗付、御改之砌無手抜様可被申渡候、此段致問合候、以上、
〈古存留〉
十月廿六日 楚南里之子親雲上
上運天里之子親雲上
右之通有之候間、此段致通達候、以上、
十月廿六日 上運天里之子親雲上
〈大夫江も可被申上候〉
高良筑登之
同廿七日
一今日、安挿ニ付可致出勤之處、御用繁多ニ付、内々館屋下「卸」いたし居候段申上、御暇乞仕、左候而安挿相済役者中御船より罷帰「候ニ付」私茂色衣冠ニ而宮之上江罷出、大菩薩加那志御前并土地君・琉位牌之御前江赤蠟燭壱對ツヽ・御香・御焼紙備上、菩薩御前者三跪九叩頭、土地君・位牌「廟」者一跪三叩頭仕、罷帰候事、
一接封大夫追而参官被仰付筈候間、乗轎并行列道具之儀、進貢大夫之例を以被相調、此方様子次第可被相渡候、「此段致問合候」、以上、
〈儀者〉
十月廿七日 高良筑登之
大宿
一頭号船・二号船可相成船調部方、頭号船・二号船船頭共申付候事、
請取
一銀子八匁 半天
右者布政司江之咨文差出候砌、取次之馬夫江懸号銀とシテ慥ニ如斯御座候、以上、
〈儀者〉
十月廿七日 高良筑登之
大宿
覚
一□(四)人轎壱通、幕并雨履共
一赤笠五ツ鳥羽共
一赤凉傘壱本栄共
一冊封〈恭迎〉大牌 壱對
一正議大夫小牌 壱對
一中山王府小牌 壱對
一樶花 壱對
一朱ぬり捧 壱對
一轎夫衣裳五枚
右之通御迎大夫参官之時入用有之候間、進貢大夫之例を以調方被御申渡、此方様子次第可被相渡候、以上、
〈儀者〉
十月廿七日 高良筑登之
大宿
右諸道具相調候ハヽ、儀者請取書を以相請取候事、
一銀子百七拾三匁 半天
右参官之時、掛号銀并手本代とシテ、儀者請取書を以大宿より請取、長班役江相渡候事、
十月廿八日
一今日、例之通阿口通事弐人・同筆者弐人・長班役壱人相招、咨文両通相調部させ、布政司江之咨文、阿口通事ニ而差上「させ」候事、
附、調部方之砌、琉菓子致馳走候事、
十一月三日
一明日冬至ニ付、於大堂御規式有之候間、五ツ前色衣冠帽子ニ而、例之通可被相勤候、此段致御通達候、以上、
附、佐事・五主・士・無系之位衆迄色衣・帽子ニ而罷出候先例ニ而候間、五主中者大宿江、従之者者各拘主、船方者詰佐事ニ而可被相達候、以上、
十一月三日 上運天里之子親雲上
〈大夫江も可被申上候〉
高良筑登之
同四日
一今日冬至ニ付、いつれ茂相揃、子之方并琉球江之朝拝等先例通相勤候事、
一同日九ツ時分、阿口通事・同筆者・長班役謝相工罷出、於大堂例通琉球江向御拝相勤、「済而」為祝儀私橌江罷出候付、色衣冠ニ而相逢、茶菓子致馳走候事、
附、存留橌ニ而右唐人共江御物調を以十二碗之料理馳走有之候段、承候也、
十一月六日
一明後八日、諸衙門参官被仰付候間、同日五ツ時分例之通色衣冠ニ而可被御勤候、此段御通達いたし候、以上、
十一月六日 上運天里之子親雲上
〈大夫江も可被申上候〉
高良筑登之
十一月七日
一明「日」諸衙門参官之日柄相済候間、五ツ時分大堂江御揃例之通御勤可被成候、此段致御通達候、以上、
〈大夫儀者〉
十一月七日 高良筑登之
〈才府〉
田里筑登之親雲上
覚
一佐事壱人
但、色衣・帽子・大帯・鞋着ニ而、
一水主拾四人
但、色衣・帽子・小帯・鞋着ニ而、
右御迎大夫参官ニ付、例之通行列相賦置候間、同日五更時分罷出、此方引合を以相勤候様可被御申渡候、以上、
〈儀者〉
十一月七日 高良筑登之
安慶名親雲上
覚
一唐日用四人 一同弐人轎共
右、明日参官ニ付、野菜入阿第江相達、相頼候事、
一明日、御迎大夫参官ニ付、五主壱人例之通行列相賦置候間、同日五更時分罷出、此方引合を以相勤候様可被御申渡候、以上、
〈儀者〉
十一月七日 高良筑登之
〈小文〉
国吉里之子親雲上
十一月八日
一今日、諸衙門参官ニ付、私并才府・大通事・官舎・存留迠色衣冠、儀者・小姓供、色衣・帽子・大帯、下供江者色衣・小帯ニ而、五ツ時分大堂江相揃、阿口通事・長班役案内者ニ而撫院衙門参上、土地君廟江相扣、阿口通事を以私共参官之段申上、手本差上させ、夫より總督衙門・布政司衙門参上、最前之通手本差上させ、私共者直帰館、餘之衙門江者存留・阿口通事両人参館、手本差上させ候事、
行列左記
〈水主〉 〈水主〉
銅鑼金 銅鑼金
〈水主〉 〈水主〉
冊封〈恭迎〉大牌 冊封〈恭迎〉大牌
〈同〉 〈同〉
中山王府小牌 中山王府小牌
〈同〉 〈同〉
正議大夫小牌 正議大夫小牌
〈同〉 〈同〉
樶花 樶花
〈水主〉 〈水主〉 〈水主〉
朱ぬり棒 赤凉傘 朱ぬり棒
五主 佐事
〈色衣帽子〉 四人轎唐日用 〈色衣帽子〉
小姓 小姓
〈下供〉 〈下供〉
手笠持 八巻家持
〈「水主」下供〉 〈下供〉
馬架椅持 きせる持
儀者弐人轎〈下供〉
諸衙門左記
一總督衙門 一撫院衙門
一将軍衙門 一布政司衙門
一都堂衙門 一案察司衙門
一福州府衙門 一守城衙門
一理事廳衙門 一都院衙門
一粮捕衙門 一粮道衙門
一防道衙門 一水師衙門
一海防衙門
一行列之佐事・五主・雇供致帰館候ハヽ、から肴・「四ツ」碗之物・焼酎致馳走候事、
一右之人数并唐日用者店ちんとシテ銭拾弐貫文ツヽ相與候事、
覚〈印勢頭/印大夫/印御迎大夫〉
西銘筑登之親雲上
右者二号船々頭ニ而候処、佐事「唱」ニ而者對唐人、御都合向不宜、剰佐事・水主共ニ茂諸事気請薄下知方届兼候儀茂可有御座与奉存候間、那覇川乗届候迠之間船頭与唱申様被仰付可被下候、以上、
〈古存留〉
十一月 楚南里之子親雲上
十一月十四日
一今日、菩薩加那志御下船ニ付、例之通相勤候事、
覚
一渡唐之面々於琉球被仰渡置候旨趣、聊無緩疎可相守事、
一火用心可入念事、
一燈爐之儀、はあきや塗并紙張之外品柄見合懸置、就中消跡見届可入念事、
一油紙并蠟引合羽之類、畳不置様堅取締可致事、
一橌々戸口用水ニ水桶居置、満水入通候様可申付事、
一館屋立入之商人、「且」橌々手叶唐人共、二更之加鞁打限各宿元江差帰、橌々行爐可相消事、
一夜廻之儀、無緩疎厳重相働候様可申付事、
一大堂浮道左右用「天」甕之儀、火用心之為居置候問、右甕江きり・あくた投入間敷旨、供中手叶唐人共江可申付事、
一唐人取合方之儀、上下共律儀可相嗜候、勿論喧𠵅・口論等仕出候ハヽ、甚御難題可成立候条、此儀能々可致勘弁事、
一平日我身之行跡正敷、中間中睦敷相交、就中尊卑之礼儀相糺、国土之御風格宜敷相見得候様可心懸事、
一無益之所江致徘徊候而者其身之名折迠ニ而無之、依躰者御外聞ニ茂可相及候間、屹与可差止候、用事有之候ハヽ、日帰之外差越間敷事、
一下々者共、分限を不顧、無益之費有「之」、帰帆前差懸、借銀又者買物代銀等致不首尾、段々及難渋候者茂有之由相聞へ、甚不可然事候、唐人より「借銀」不致様ニ与之儀者跡々より堅被仰渡置趣茂有之候間、右躰之儀共無之様可相嗜事、
一酒之儀、礼式迠を取はやし、猥朋輩中出會酒宴を投(設カ)候儀、堅可令禁止候、酒宴ケ間敷他所之障ニ相成候者茂候ハヽ、屹与其沙汰可被仰付候条、能々可相慎事、
一館中橌々用事外、猥ニ致出入間敷事、
一御用物又者渡唐之者共交易之和産・唐産、異国人江差知候而者至而御故䧛(障)可成立事候間、館屋ニ而者勿論、荷物積入卸荷之砌茂格護可入念事、
一字紙之儀、無用相成候ハヽ則々あふり収、庭杯江散置候を見付候ハヽ、其格護可入念事、
一溜池之儀、火用心之為被作立候處、間ニ者塵芥投込、或者諸道具抔洗候而者淺之基不可然事候条、無左様取締可致事、
右條々無緩疎可相守旨、渡唐早速勢頭・大夫より被申渡事候処、此節上京被為「成」居候付、私より存留江申付、厳重取締申渡候事、
十一月十八日
一来ル廿四日、宮之上菩薩加那志并御船菩薩加那志江御結願ニ付被成候付、同廿日より菩薩経讀上候間、此段致問合候、以上、
〈総官〉
十一月十八日 奥聞里之子親雲上
〈存留〉
上運天里之子親雲上
右之通有之候間、明後廿日より菩薩経讀取候日迠、各四ツ時分色衣冠・帽子ニ而於宮之上、菩薩御前御拝礼可被成候、此段御通達いたし候、以上、
〈存留〉
十一月廿八日 上運天里之子親雲上
〈大夫江茂可申上候〉
高良筑登之
十一月廿日
一今日、於宮之上菩薩経讀上ニ付、色衣冠ニ而五ツ時分出勤経壱篇讀上、私者暇乞ニ而罷帰候事、
一同廿一日より三日迠御用繁多ニ付、宮之上出勤致御暇乞候事、
十一月廿一日
一今日、布政司より開館御免之告示被下候段、承候事、
一接貢船之儀、芒種之時節ニ而致出帆候様表御方より被仰渡趣有之候付而者、いつれ右時節出帆不致候而不叶、公用「司」御買物三月中相仕廻、四月二日報竣申出候考ニ而候間、各内證聞并従・五主・船方末々迠、右日限内ニ而仕廻取「候様」領主頭立候方より毎度可被申付候、此段分ケ而致通達候、以上、
十一月 公司
〈大夫江茂可被申上候〉
高良筑登之
同廿四日
一今日、御結願ニ付、四ツ時分色衣冠帽子ニ而相揃、例之通相勤候事、
十一月廿六日
一今日、文武把門官并阿口通事、其外琉球懸之面々江例之通進物差遣候事、
同廿八日
一今日、従
上様、阿口通事共江御返礼物相渡候段、承候事、
十二月七日
一今日、欽差御乗船并遊撃乗船早め御調部被仰付、御見分之砌者私共ニ茂見分被仰付度、稟差出候事、
同十五日
一今日、欽差御召列人数減少、評價物多不持渡、且高代之品不持渡様、且唐人共於琉球借銭催促方難渋ケ間敷儀共御取締被仰付度、稟取仕立差出候事、
十二月廿三日
一今日、粮銀被成下候美拝とシテ、大堂子之方江臺餝、私・古存留両人色衣冠ニ而、例之通相勤候事、
一正月元日於大堂御規式有之候間、色衣冠・帽子ニ而例之通可被相勤候、此段致御通達候、以上、
附、
一佐事・五主并「士・従」・無系之筑登之座敷迠、御規式有之候間、罷出相勤候様各拘主より可被相達候、
一御規式相済、引次菩薩加那志御前江勧進銀并目録備上候様「間」、是又御拝可被相勤候、
十二月廿八日 上運天里之子親雲上
〈大夫江茂可被申上候〉
高良筑登之
十二月廿九日
一歳之夜ニ付、菩薩加那志・土地君・「琉」位牌之御前江年玉餅御餝、新古存留・勤学人罷出、例之通御拝相勤候段、首尾有之候事、
附、年玉餅調方者古存留・總官構ニ而候由、承候也
同治五年〈丙寅〉正月朔日
一今日、元日ニ付子之方并琉球江之朝拝等、例之通相勤候事、
正月二日
一諸衙門江年頭之為御祝儀、例之通帖相調差上候段、存留より首尾承候事、
一今日、初起之為御祝儀、頭号船橌元江左之通焼酎差遣候事、
一四合錫壱双、
一儀者者壱合瓶壱對差遣候段、承候也、
一二号船橌元江者古存留より差遣候段、承候也、
同五日
一今日、年頭之礼とシテ阿口通事・同筆者・長班役迠罷出候付、吸物壱ツ・から肴六ツ・焼酎致馳走候事、
正月十五日
一今日、例之通於大堂琉球江之朝拝并都而之勤方元旦同断相勤候事、
附、子之方江之勤方ハ無之候也、
同十六日
一今日、琉人墓所為見廻、役者以下手配を以差越致焼香候段、承候事、
一欽差御乗船并遊撃乗船之儀、前々之通此方より内々相調部差付願書候而者可差障段、阿口通事共并李哥申付候付、兼而福宝玉・金振茙之両船相調部為申事ニ者候得共、先以隠置御乗船早め御調部被仰付、御見分之砌者私共ニ茂見分被仰付度、此間願出置候處、今迠為何御返事も無御座候付、手便を求内々承合候得者、海防官御調部御決定之上、御返事被下候御含ニ而候由承、至極驚入、右銘々江茂委敷申談、福宝玉・金振茙之両船新佐事程来茂宜敷有之候段、船方共内々見及居申候間、右両艘御調部被仰付、御見分之砌者私共ニ茂見分被仰付度旨、稟取仕立、今日願出候事、
正月廿八日
一今日、海防官より御用有之候付、阿口通事馮爺・同筆者王秉謙・頭号船々頭召列、彼衙門参上仕御對顔を得候處、船構之者より船々書出候者其方共願出候両艘者差除、新據豊船・邱大順船・新興福船・金萬全船・金徳盛船・新徳盛船之六艘申出、其内邱大順ハ戌冠船之二号船ニ而候處、皆共調部方之上、右両艘願出候哉与被仰下候付、前件習受候通兼而相調部置候段、実形申上候而者御都合向不宜、右邱大順者戌年以後修補之節々多々はぢ延、至当分者船程格別太ク相成「居」候付、いつれ此船者差除不申「候而」不叶事候處、福州府閩縣右段々御内意被成候由承居候付、先以御返答之趣者、御当地船々琉人より直ニ見分仕候而者憚多御座候故、いまた見分も不仕候得共戌冠船之二号船邱大順者不達者、其上古佐(作)事ニ而欽差御乗船御願難申上、右両艘者今「先」日稟を以申上置候通、格別宜敷船与船方之者共内々見及候付、御願為申上次第申上候處、彼是被聞召分、重而被仰下候者、右六艘いまた見分不致候ハヽ、琉船方共申付得与相調部させ、実形之次第申出候様、左候ハヽ、私共ニ茂見分御構之向々江申上相済可申与被仰下候付、大切成御乗船調部方船方迠ニ而者如何敷御座候間、私并存留ニ而船方共召列見分仕候上申上度、尤御存知之通当年者節入相早り候「付」而者、いつれ四月十五日比致川下、五月初比順風次第致出帆候様無之候而不叶、御乗船御調部相済候ハヽ、船修補茂大抵壱ケ月程日数を込、夫より積荷彼是ニ茂日込相成申事御座候間、旁御取分を以道そ早め御調部被仰付度申上、罷帰候事、
正月廿九日
一右ニ付、今日古存留楚南里之子親雲上・阿口通事馮爺・同筆者王秉謙、頭号船々頭・佐事共召列、新據豊「船」・新福興船・金萬全船・金徳盛船・新徳盛船見分船方共申付、すいミニ而船底迠見届させ候處、五艘之内新徳盛船壱艘者新作事、程来茂大抵琉球進貢船同様相見得、船具茂相揃申候處、艍之儀ハ半分有之、其餘者多分古作事、其上艍無之候付、直ニ海防官衙門参上仕候處、御他行ニ而御逢不被成候付、右之成行掌案共江申含、罷帰候事、
同卅日
一明日、海防官并閩縣御両人船々御見分可被成候間、私共ニ茂四ツ時分船元江差越候様、阿口通事申来候事、
二月朔日
一今日、古存留楚南里之子親雲上・阿口通事馮爺・同筆者王秉謙・二号船々頭・作事共召列船元江差越居候處、海防官・閩縣御両人も追付御出被成、御同伴ニ而「新據豊船江」差越御見分、此船如何与御尋有之候付、作事宜敷候得共、餘船ニ替り程来茂大ク有之、琉球於港「出入」可差支、殊ニ艍無之候付而者遠海往還難成段申上候處、船構之者より艍有之段申候処、艍無之候哉与被仰下候付、艍之有無御疑ニ而候ハヽ、船方共すいミニ而「船底」見分仕させ度申上、早速見届させ候處、右申上置候通弥艍無之段申候付、其通申上候處、被成御落着、左候而戌冠船之二号船御見分、船程丈尺させ右二号船一件者御無沙汰被成、中奥江居合之金振茙船江御差越御見分被成、其方共申出通金振茙「船」宜敷船ニ而候間、一先喜悦之筈与御取請宜敷御容躰ニ而被仰下候付、道そ官頭江罷在候福宝玉「船も」此所江御召寄御見分被成下度申上候付、近日中御召寄御見分可被成段御返答被下、御帰被成候付、私共ニ茂致帰橌候事、
正「二」月六日
一官頭ニ罷在候福宝玉船中奥江致参着居候付、明日海防官・閩縣御両人御見分御差越可被成候間、私共ニ茂致見分候様、阿口通事申来候事、
正「二」月七日
一右ニ付、今日古存留楚南里之子親雲上・頭二号船船頭・阿口通事馮爺・同筆者王秉謙召列、先達而差越居候處、追「而」御見分之被成、此福宝玉船「宜敷」有之候得共、庫理へり少様相見得候間、「へり」数重させ候而者如何可有之哉与被成下候付、左様御取計被下候ハヽ、猶々上夫相成可宜段申上、御同伴ニ而罷帰候事、
同十日
一今日、海防官、館屋江御出被成候段、阿口通事申来候付、色衣冠ニ而大堂江相揃候處御出被成、欽差御乗船之儀、其方共願立通福宝玉・金振茙両艘江可被仰付候間、左様可相心得旨被仰下、「土地君廟・位牌殿、其外橌々迠御見分」、御帰被成候事、
附、御茶御菓子私方より差出、御馳走仕候也、
三月三日
一明日、撫院・布政司・粮道・塩道・福州府・閩縣、船御見分ニ御差越可被成候間、私共ニ茂差越居候様、阿口通事申来候事、
同四日
一右ニ付、今日古存留楚南里之子親雲上・阿口通事馮爺・鄭爺・同筆者王秉謙・頭二号船船頭召列、戸封之官廳江差越扣居候處、布政司・粮道・福州府・海防官・候官縣御出候付、御礼對相済、左候而金振茙船江御差越御見分被成、布政司より金振茙船・福宝玉船者如何与私江御「尋」有之候付、金振茙船茂宜敷有之候得共、福宝玉船者作事別而堅固有之、格別宜敷船与見及候段申上候處、粮道被仰下候者、其方共宜敷船与見及候ハヽ弥可宜与被申、追而福宝玉船江御差越御見分被成、其方共願出通、頭号船福宝玉、二号船金振茙「江」可被仰付段「被成下、左候而」当月廿日比ニ者欽差御下向可□(被カ)遊候間、其内船修補上夫相調置候様、布政司より海防官江被仰渡、海防官より馬夫ニ而船主共江堅御申付させ、旁相済御帰被成候付、私共茂館屋江罷帰候事、
三月六日
一今日より頭号・二号船修補取附候段、承候事、
一欽差御乗船御修補相始候付、頭号船・二号船佐事・水主、御船元江毎日差越候間、公司番并加封「番」可被差免候、此段致問合候、以上、
〈御迎大夫儀者〉
三月六日 高良筑登之
〈古存留〉
楚南里之子親雲上
〈接貢船〉
公司
一右ニ付、頭号船・二号船船方共、左之通致通達候事、
一頭号船・二号船御修補中、公司番并加鞁番御免被仰付候間、此段申渡候、以上、
〈御迎大夫儀者〉
三月六日 高良筑登之
〈古存留〉
楚南里之子親雲上
〈頭号船・二号船〉
佐事 水主中
三月十四日
覚
〈汀志良次村四男〉
国吉筑登之親雲上
右何「阿」班
〈西村平良之〉
仁王大嶺
右頭碇
右、頭号船水主ニ而渡唐仕居申候處、腰書之通被仰付可被下候、以上、
〈頭号船々頭〉
三月 西銘筑登之親雲上
覚
〈知念間切久高嶋外間村〉
内聞筑登之親雲上
右何「阿」班
〈座間味間切慶良間村〉
大城筑登之親雲上
右頭碇
右之通二号船水主ニ而渡唐仕申候間、腰書之通被仰付可被下候、以上、
〈二号船々頭〉
三月 西銘筑登之親雲上
右之通被仰付被下度奉存候、以上、
〈古存留〉
楚南里之子親雲上
一接貢船之儀、仕廻方差急進貢使下京不致候而茂来月廿日比離驛登船仕候様、海防官より被仰渡趣有之候、右ニ付而者来月十日内報竣仕、若勢頭・大夫御下京間ニ逢不申候ハヽ、同十五日御船相下、御下京持(待)方候方ニ阿口通事共申談置候間、其御心得を以御仕廻方可被差急候、「此段」致御通達候、以上、
〈存留〉
三月十四日 上運天里之子親雲上
〈大夫江茂可被申上候〉
高良筑登之
三月十五日
一於水口、
勅使様御迎差越候阿口通事、馮爺江被仰付、且私従并馮爺従氏名歳付清冊早々可差出段、布政司より被仰付候諭帖、今日同所馬夫持来候事、 附、持参之馬夫江苦労銀相進候也、
同廿一日
一頭号船・二号船より乗合之面々者接貢船江配当有之候付而者、両艘江大荷物又者細物類迚茂曽而積入間敷候、尤身廻之儀、船中用「迄」至而手軽積入、柳庫理懸硯帳箱抔者各御乗船振合次第積入候而可然「候」、自然多人数関合積入方不相調候ハヽ、風呂敷包ニ而着用之衣類計積入、唐人共見分宜様可相嗜候、帰琉之上者琉球懸役々より荷物一々明改被仰付事候条、此旨各頭役より分ケ而厳重可被申渡候、以上、
三月廿一日 真栄里親雲上
〈古存留〉
楚南里之子親雲上
〈頭号船々頭〉
西銘筑登之親雲上
〈二号船々頭〉
西銘筑登之親雲上
三月廿四日
一明後廿六日、
勅使様為御迎、水口江差越候様、布政司御方諭帖を以被仰付候事、
同廿五日
一今日、布政司御方より御用有之候付、馮爺召列彼衙門参上、於水口両勅使様江之公文壱通并私列之者・阿口通事従名面書紅批壱枚被相渡候付、拝請罷帰候事、
同廿六日
一今日、於水口
勅使様御迎起身ニ付、宮之上菩薩并土地君・琉位牌御前御拝相勤、済而四ツ時分咨文箱捧、阿口通事馮爺召列陸地罷通、四ツ時分洪山橋相届候事、
一同酉頭時分、伴送官被参候事、
附、前々者洪山橋より水口迄伴送官・阿口通事・私乗船琉球より差出、且水口滞留中自分賄ニ而候由候處、去辰戌両度共依訴、船「賃」并賄方被下置候段、書留相見得候付、今年茂兼而布政司江願出候付、往還共河舟御物より被差出、且水口滞留中日ニ弐度八碗之御賄被下、従之者江ハ六碗被下候、尤往還中者自分賄ニ而候也、
三月廿七日
一今日四ツ時分、伴送官乗船、巡捕官余枉「兄」彭履亭乗船、布政司掌案・海防掌案乗船、私乗船、都合四艘一同洪山橋出船、入相時分右四艘閩清与申所江着船仕候事、
同廿八日
一今日未明、同所出船いたし、同日七ツ時分水口参着、早速公館江相移り候事、
附、御当地之儀、此節御欠略ニ付、阿口通事乗船茂私与同船被仰付置候、
三月廿九日
一今日、阿口通事召列伴送官并手本上之官人、古田縣御方御見廻之手本差上候事、
附、新粮道北京より水口「公」館御参着ニ付、御見廻之手本差上候事、
四月朔日
一右ニ付、御銘々より御見廻之手本御到来有之候事、
同六日
一勅使様今日陸地より水口江御下向被遊候付、同所土「公」館(衙カ)御門「ニ於」跪ニ而御迎、公館御光駕被遊候付、阿口通事召列参上、布政司より之公文、海防官より之紅批、大爺取次差上、道そ奉得御拝顔度申上候付、御前被召寄、一跪三叩頭仕、済而伴送官より私召列、先達而罷帰城於公館、重而奉得御拝顔申度、御暇乞申上、同日七ツ時分伴送官阿口通事一同、先達而罷帰候事、
四月廿一日
一今日七ツ時分、水口より至館ニ付、宮之上菩薩加那志・土地君・琉位牌之御前御拝相勤候事、
覚
一銀子八拾め 半天
右者乗船之時、阿口通事乗船壱艘、接「封」大夫乗船壱艘、古存留乗船壱艘、船頭・佐事・水主乗船壱艘、都合四艘之質(賃カ)銀とシテ大宿より渡申様、被仰付可被下候、以上、
〈儀者〉
四月 高良筑登之
覚
一銀子四百め 半天
右阿口通事馮爺、御迎大夫江相附、
勅使様御迎水口江被差越候付、路次銀拝借之願申出有之候間、先例之通大宿より渡申様、被仰付可被下候、以上、
附、返上方之儀者、来年被成下候年例銀引当之證文取入置申候。
〈儀者〉
四月 高良筑登之
請取
一火抱百弐拾結
右
勅使様御乗船并二号船てらし打用とシテ慥ニ如斯御座候、以上、
〈儀者〉
四月 高良筑登之
大宿
四月廿二日
一今日四ツ時分、城「公」館江伺公、七ツ時分、
勅使様公館御光駕被遊候付伺御機嫌、罷帰候事、
同廿八日
一今日、
勅使様江評價物并人数減少、且於琉球借銀催促方御禁止被仰付度旨願上度、公館参上仕候處、御逢不被成候付、罷帰候事、
五月三日
一今日、右願申上度重而参上仕候處、師爺共口能ニ而御逢候様不罷成候付稟計差出、直ニ遊撃・都司・弾圧官御逢、右願事并傾城一件等取添願申上、罷帰候事、
同八日
一頭号船・二号船菩薩加那志御乗船之段、承候事、
同十二日
一今日、古存留并私乗船ニ付、宮之上菩薩・土君地(地君カ)・琉位牌之御前、赤蠟燭灯上御拝相勤、済而九ツ時分咨文箱水主江捧、阿口通事一同水汲所より河舟ニ而乗船仕、御船菩薩加那志御前御香・蠟燭・御紙焼上、御拝相勤候事、
附、私并御船「頭」・佐事・水主共住居所之儀、兼而船頭ニ而船主為致相談、艫こおり二こおり江相住「居」候也、
同十三日
一今日七ツ時分、
勅使様御乗船ニ付、阿口通事并古存留・私伝間江一列ニ立、
勅書并
欽差御乗船之砌、一跪ニ而御迎仕候事、
五月十四日
一今日、戸部之前錠を起、致川下候處、引港共溝違ニ而頭号船尾墩与申所之淺地江走上、同夜二更時分より致関湯(揚カ)候付、積荷物取卸、同十五日九ツ時分御案内之上、私共も館屋江罷帰、
両勅使様并官人衆者両江會館江御留館「被遊候事」、
附、二号船者無事ニ致廻船候也、
同十六日
一今日、福州府・税官御両人より大爺御使、阿口通事筆者王秉謙江被仰下候者、欽差御乗船之儀、総督御所持之戦船火輪船江被仰付筈候処、琉人大共ニも落着ニ而候哉、故障有無之所委細相尋、御返答申上候様有之段、王秉謙申来候付、至極驚入、古存留楚南里之子親雲上相合、火輪船江御乗合一件、渡唐前分ケ而被仰渡置候御趣意ニ基、右江御乗船被仰付候而者琉球至而難渋成立可申候間、道そ御先例通唐船江御見合被仰付度、申上させ候事、
同十七日
一今日、海防官より私御用有之候付、阿口通事馮爺・同筆者王秉謙召列参上、得御對顔申候處、昨日福州府・税官如御尋、火輪船江御乗船被仰付候而茂可相済哉与、被仰付「下」候付、右同断御返答申上候處、海防官被仰下候者、私共ニも琉国之故障ニ相成候段者能存居候付、御乗船之儀、戌冠船之二号船邸大順相賦置候處、欽差より屹与火輪船相賦候様、御申付有之、御心配之段被仰下候付、道そ大老爺ニ而も宜敷御取計被下度、御頼申上候處、随分御取計被下候段御返答承、罷帰候事、
五月十八日
一今日、欽差より私御用有之候付、又候右両人召列参上、奉得御對顔候處、乗船之儀火輪船ハ琉国故障之訳合有之候付、邸大順相賦置候段、福州府より問合有之候、右火輪船之儀、総督御所持之船火加減等取扱させ候為夷人等三人ハ頼切ニ而乗付置、異国船与ハ訳合相替居候處、右式ニ而も差障可申哉与被仰渡候付、福州府・海防官江御返答申上置候通、欽差琉球御下着被遊候ハヽ、
上様那覇江
御光駕、其外七宴之御規式等御直ニ御執行被為遊御事、且評價物致取引候儀共異人等目ニ懸候ハヽ、をのつから彼国者共江響合相成、至而難題成立可申、且琉球港之儀、狭淺ニ有之、尤毎度異国船港内江乗入難成、尤毎度大風之夏有之候付、沖懸迚も不罷成、旁以差支申事御座候間、火輪船ハ御取止、道そ御先例通唐船より御渡海被遊候様被仰付被下度申上候處、芒種夏至以後ニも琉球江之順風可有之哉、決而有無之所申出候様被仰渡候付、六七月ニも順風有之事ニ者候得共、時宜次第之事ニ而決而有之筋ニ者難申上段申上候處、其方事適私共迎之為被差渡候處、時分柄琉球江之順風無覚束与者乍申、火輪船より之渡海も相断候儀、甚落着難成、
欽差之命者
皇帝同前ニ而、此段ハ能存知之筈候間、彼是得与弁別早々火輪船江乗船相賦候様、福州府江願立首尾可申出、自然此上断申出候ハヽ、右之成行ニ而琉球江渡海難成段、
皇帝様江 奏聞仕可中与、至極御怒立御容躰ニ而御退座被遊候付、何共可致様無御座帰館仕、海防官御方江王秉謙差遣、右之旁申上、習請させ候處、
欽差右之御申付ニ而候ハヽ、一先御機嫌應し稟差出候様、左候ハヽ御内分より官人衆御取合、今通邱大順江被仰付候方御取計被成下候段被仰下候付、道そ御助成被成下度御頼申上、夫より福州府御方参上、前件通御乗船御取替願立候様、
欽差より仰渡御座候段、委細之成行申上させ候處、邱大順一件者既ニ向々御案内相済候「付」而者、今更御取替之願、其方共并私よりハ難申上候間、
欽差ニ而布政司・按察司・粮道・塩道御相談之上、御取替被遊候様可申上旨、被仰下候付、直ニ両江會館参上、
欽差江件之通申上させ候處、火輪船之儀、琉球方故障之段ハ先達而御聞達被成候間、海渡之上ハ異人等陸卸召留、且渡海早速右船可差帰、尤最初火輪船相断候も其方共より願立置候付而者、此節も其方「共」より願立、屹与取替候様、別紙写之趣ニ而稟相調可差出旨被仰渡、此上御断申上候而者御機嫌を傷、如何御難題ニ歟相及可申哉、海防官御内談茂仕置申事候得者、稟差出候上、働方仕候儀可宜与吟味仕、布政司衙門之李哥共江も申談候處、其通ニ而可宜段申上候付、稟相調候事、
五月十九日
一右ニ付、稟持参ニ而両江會館参上、備
御覧候處、御添消被遊候付、右李哥入調部申候處、稟之起ニ仰渡相受候而此方願意之趣、綴立置候付而者乍不安被押付、願立候段ハ為差知事ニ而、琉球方為筋付而弥以可宜与申、所々取直呉り候付、早速清書させ候事、
五月廿日
一右ニ付、又以備 御覧申候處、重而御添消被遊候付、清書替させ候事、
同廿一日
一今日、福州府・海防官御方江差出候事、
同廿三日
一今日、総督より欽差御方江御乗船之儀、此間御賦通邱大順江可被仰付与之御問合御差遣被成候段、承候事、
五月廿五日
一来月四日、御乗船之日柄相究候段、承候事、
六月三日
一今日、私共致乗船候事、
同四日
一今日、 勅使様御乗船ニ付、都而最初御乗船之時同断、相働候事、
同五日
一今日二号船一同林浦之前錠を起、所々汐懸ニ而、同七日恰山院錠を卸勅使様菩薩御拝相済、同日官頭参「着」いたし候事、
六月八日
一今日、同所錠を起、同日壺口錠を卸候事、
同九日
一今日、風未之方相成候付、二号船一同未明五虎門出帆いたし、同九ツ時分より風午之方、針「筋」辰之間、同時竿塘通船、同七ツ時分東砂(沙カ)東湧致通船候、尤二号船者五六里程先相成候事、
但、夜中風針筋同断、
同十日
一今日、風未之方、針筋辰之間、同七ツ時分半架山与申所見懸致通船候
事、
但、夜中同断、
同十一日
一今日風午之方、針筋卯辰之間、同酉頭時分魚魡(釣)通船、同夜初更時分久場嶋通船、同二更時分より風巳午之方、針筋寅卯之間、
六月十二日
一今日風午未之方、針筋卯辰之間、同九ツ時分風巳午之方、針筋寅卯之「間」、同八ツ過時分久米赤嶋致通船候、同七ツ時分、風力少相成候付、
両勅使様菩薩加那志御前江御立願被遊候事、
但、夜中風根同断ニ而候得共、風力少々強相成候事、
同十三日
一今日風力一ゑん無之、潮之満干ニ随ひ致通船候事、
但、日中ニ而遊撃より三度、同夜初更時分
両勅使様より壱度、菩薩加那志御前江御立願被遊候付、同二更時分より風丑之方より吹出候付、針筋卯辰之間、
六月十四日
一今日、風丑之方、針筋卯辰之間、夜中同断、
同十五日
一今日、風卯之方より針筋辰巳之間、五ツ時分久米嶋見懸候事、
同十六日
一今日、風寅卯之方、針筋巳午之間、七ツ時分久米嶋はんね崎拾里程近寄、石火矢打候得共、小舟不寄来候處、近辺江罷在候釣舟壱艘漕来候付、挽舟寄方致問合候処、八ツ時分数拾艘寄来候付、同夜三更時分はんね崎内表江挽入、錠を卸候事、
六月十七日
一今日、五ツ時分兼城泊前表江挽入候處、七ツ時分風未申之方相成候付、同所致出帆候処、酉時分より風力一ゑん無之、夜中嶋端より潮之儘致流行候事、
同十八日
一右ニ付、今日五ツ時分石火矢三筒打候處、挽舟共寄来候付、右嶋江挽入度折角相働候得共潮引強有之、挽舟共之力ニ而ハ中々難乗行、漸々南表江被持流候付、時分柄萬一此所ニ而風波荒立候儀共候ハヽ、大船ハ相凌可申候得共、挽舟共ハ可及失命儀案中ニ而、道そ差免呉り度、挽舟「者」共申立有之候付、御案内之上、夜三更時分より挽舟共相免候事、
附、本文通大船ハ挽方不容易、小舟「小振之船者」致挽方やすく可有之候間、少ニ而茂風力相起候ハヽ琉球より同鵈江到着之
上使御乗船之馬艦船召寄、右船江
両勅使様移上同嶋江御上陸為遊候歟、又者挽舟ニ而直ニ如琉球乗行候共、御案内之上両様之間時宜ニ応し取計可致含ニ而阿口通事共ニも内談仕置候処、風力同篇ニ而候故、漸々被持流候事、
同十九日
一今日八ツ時分、久米嶋南表江弐三拾里程被持流、如何可成行哉与至極致世話居候處、七ツ時分より風午未之方より少吹出候付、いつれも気を付「気力を起」又以如久米嶋通船仕候事、
同廿日
一今日風根最通候模様相見得候付、直ニ如那覇川乗行、七ツ過時分久米嶋通船いたし候事、
同廿一日
一今日未明、慶良間嶋座間味間切近ク寄候處、風力少又以被持流候躰相見へ候付、早速挽舟相雇させ挽方ニ而通船、九ツ時分より順風吹出候付、酉頭時分那覇へ致御入津候事、
六月廿二日
一今日、
両勅使様御下船被遊候付、於迎恩亭
上様美迎并諸事御先例通相済候事、
一右ニ付、天使館迄供夫「奉」仕、夫より仮里主所参上、
上様奉伺御機嫌、致帰宅候事、
一今日、私并存留・儀者・勤学人、頭号船・二号船船頭共召列、御書院・聞得大君御殿・按司・三司官御宅迄参上、帰帆之御届可申上候先例候處、唐麻疹相時行居候付、明日被召延置候事、
同廿三日
一今日、御船頭召列城間江差越、御奉行様・御役々衆江口上書名札を以御届、御見舞申上候事、
口上
御奉行様弥御勇健被成、御勤務珎重御儀奉存候、然者私事頭号船江乗合、今月九日二号船一同五虎門出帆、去廿一日那覇入津仕申候、為御届船頭召列参上仕申候、此旨宜様御披露奉頼候、以上、
六月廿三日 真栄里親方
一銀子百七拾三匁 半天
但、私并才府参官之時掛号銀手本代
右通致遣銀候處、戌年之例無之由を以所添「拂」帳ニ不足被相抜候、辰年者其例有之、此節之大宿役者茂私江渡方之御印紙相済、帳面勘定等相遂、尤
両勅使様江御用御取次之巡捕・書辨・總官・門遣拾人江差遣候掛号銀者、先例弐百九拾目ニ而候處、私帳者百九拾目ニ而、百め者立不足候間夫ニ而相補帳面差通候様、自然其儀不罷成「候ハヽ」戌年之例ニ而差通度、構之申口方筆者相談仕候得共、御座・奉行所御案内等相済居候付、重而申上候儀不相成段「有之」、無是非不足被相抜候事、
〔参考史料〕
鄭姓家譜
十世秉衡
童名松金字平如行二嘉慶十九年甲戌正月初九日午時生因兄秉鈞病故道光十六年丙申十一月十六日請命為嫡子
父良弼
母毛氏
室楊氏眞蒲戸嘉慶二十年乙亥六月二十三日生道光二十九年己酉十二月十七日死享年三十五葬于波上兼宮墓
長女眞鶴道光十四年甲午三月二十三日辰時生
長男蘭芬
次男蘭芳
三男蘭馥
四男蘭言
継室蔡氏眞嘉戸道光六年丙戌正月二十九日生
二女眞牛咸豐二年壬子六月十七日生同治二年癸亥十二月二十五日死享年十二葬于波上兼宮墓
五男蘭皐
三女武樽金咸豐六年丙辰十二月初二日生
六男蘭蓀
官爵
道光五年乙酉二月十九日為若秀才
道光八年戊子二月二十三日結欹髻為秀才
道光十七年丁酉十二月初一日擢通事陞若里之子
道光十八年戊戌十二月初一日頂戴黄冠
道光二十一年辛丑十二月初一日陞當座敷
道光二十六年丙午十二月初一日擢(都)通事陞座敷
同治二年癸亥五月初五日陞中議大夫
同治四年乙丑二月十三日陞正議大夫
同治四年乙丑四月十五日陞申口座
同治五年丙寅八月二十八日恭値 冊封大慶陞紫金大夫
勛庸
道光十七年丁酉七月為冊使臨國事奉 命為御前御宮仕兼書簡所〈俗云墨當方〉
道光十八年戊戌三月為讀書習禮事奉 憲令為勤學隨謝封北京大通事魏學源牧志里之子親雲上坐駕頭號貢船十二日在那覇港與封舟一齊開洋二十日到閩就師習業十二月十三日隨紫金大夫楊徳昌村山親方上 京翌年三月初五日届 京四月初四日由 京起程到通州張家湾登舟七月二十三日回到福州庚子三月因接回謝恩國使大通事王得才新崎里之子親雲上病死奉 謝恩使憲令為署大通事五月十六日坐駕其船五虎開洋十九日歸國復 命
道光二十四年甲辰六月因夷人等逗遛天久寺為重通事二十七年丁未五月事
竣退職
咸豐元年辛亥三月因夷人留在護國寺為其通事十一月二十七日方以退職
咸豐三年癸丑十月為教授官話薩州人事恭奉 憲令充為其師〈以其四年勤功準訓詁師一任〉從時厥後毎日厚教園田仁右衛門與大窪八太郎至八年戊午六月職竣退任〈園田仁右衛門于本年二月習完回國大窪八太郎于其七月習完回國〉
咸豐八年戊午六月有倭人岩下新之丞者為習官話事來到本國因此再奉 憲令充為其師〈勲功同前〉翌年八月職務全竣
同治二年乙丑五月初五日為護送山東登州府黄縣難人杜柏茂等事奉 命為大通事九月八日那覇開船十三日收泊海壇竹嶼口地方二十六日惨遭艇匪将本船牽至野馬山擱礁損漏搶劫貨物幸衡等在于該山遇救得生由陸送省荷蒙沿途地方官賞給棉布衣服竝供應飯食夫價十月初六日送至閩省隨将該難人等照例送官翌年五月初四日離驛登舟二十八日五虎門開船六月初三日回國復 命
同治四年乙丑二月十三日為迎接 天使事奉 命為正議大夫坐駕接貢船十月初七日那覇開船初八日到馬齒山候風十日該山放洋十七日到定海灣泊十八日到恰山院二十一日安挿舘驛次年丙寅三月二十六日為迎接 冊使事奉 布政司牌令起身二十八日到水口驛伺候四月二十日 冊封正使趙大人〈尊諱新〉副使于大人〈尊諱光甲〉由陸駕到水口驛秉衡同伴送官土通事等恭接 兩位大人即将 王世子咨文併布政司公文海防紅批事上于 正使趙大人此時伴送官請命 勅使率同夷官先到城中公舘候待 尊顔自此諸凡公務勵精赶辨五月十三日先登頭號封舟 兩位大人亦登封舟此時秉衡同土通事下坐杉板恭迎 節詔勅一同登舟十四日戸部起椗引程誤失至尾墩地方擱淺損漏赶緊卸貨十五日請命于 勅使回到舘驛 勅使及官員等亦歸留兩江會舘五月二十三日改換船隻六月初七日恰山院起椗初九日與二號封舟一齊五虎門開洋二十一日同到那覇港次日衡等跟隨 冊使下船上岸而到仮里主公驛奉候 王上聖顔後日進城復 命從時厥後毎逢 兩位大人出外必有跟隨焉秉衡在閩之時凡選擇封舟酌減弁兵減少貨物禁索舊欠併請辭改換火輪船等事皆已有禀蒙所具之禀及各衙門所示批文倶載在公案
同治六年丁卯七月二十日因賜褒章曁物件其所賜褒章記左
覚写(原文草書)
一掛物一幅 一丁子風呂一通 一嶋紬二端
真榮里親方
右者接封大夫ニ而渡唐之砌、評價物多不持渡人参并肉桂・麝香其外高直之品々持渡無之、且唐人共於琉球借銀催促不致様可相働旨申渡候處、御構之向々江段々御内意申上候付、評價物減少ニ而持渡方且於琉球借銀催促法外之事不仕出様、夫々告示を以厳重御締方被仰渡置且
勅使様御乗船并二號船之儀、新作事小振之等より御見合有之候様、是又可相働旨申渡候付、渡唐早速頭二號船可致相應船佐事共江見分させ候處、居合船々之内両艘者新作事程合茂大抵渡唐船同様相見得候段申出候付、阿口通事并布政司衙門之掌案共申談右両艘江御賦付被仰付度趣を以海防官御方江願立段々御内意等申上候付願之通御賦被仰付、且頭號船之儀致川下候砌、引港共溝違ニ而淺目江走揚致関湯(揚)候付、
勅使様より總督御取持之戦船火輪船江御繰替之方ニ御申立有之、其通ニ而茂可相済哉、琉人共江相尋御返答可申上旨福州府税官より阿口通事筆者王秉謙江御達有之、猶又
勅使様より茂屹与火輪船江乗船可願立旨御直御達有之候處、其通ニ而者異人茂乗合申由ニ而於琉球段々故障筋差見得候付、唐船より御渡海被遊候方是又段々相働、願通唐船江御乗船被仰付候由、且長毛賊共海路相妨候茂難計事候付、
勅使御召列之武官遊撃之場者副将、都司之場者參将被仰付、且千總把總両人宛重御渡海被仰付度布政司衙門之師爺共内々取企候由承、副将參将千總把總御渡海被成候ハヽ附隨之者共大分相重及御物入事ニ而、戌年之例通遊撃都司御渡海之方ニ右師爺共江段々内意申込其通相済、畢竟御用之程厚汲受一涯骨折相働候故、夫々都合能相成一稜之働御座候間為御褒美右通被
成下度奉存候事、
以上
〈卯〉七月廿日
右之通言上相済候間、明廿二日登
城頂戴可被成候、以上
〈御評定所筆者〉
屋嘉比里之子親雲上
〈卯〉七月廿一日
小那覇里之子親雲上
真榮里親方
同治五年丙寅九月十日奉 命為署總理司
寵榮
同治四年乙丑二月十三日為接封大夫其秋臨行之時恭蒙 王上遣官贐賜白麻五束烟管十五對烟草六十把練蕉布三端又蒙 國高祖母及 王妃遣官贐賜白麻各二束烟草各二十把
同治五年丙寅八月二十八日陞紫金大夫恭蒙 王上及 國高祖母 王妃各遣官賀賜御玉貫一雙
同治五年丙寅十一月二十六日恭蒙 聖主遣下庫理當官賜諭書曰冊封之時凡事盡心善完一世一次之大典誠為歡怍由是於 皇上賞賜緞疋之内頒賜一緞是誠家門榮光也
采地
咸豐元年辛亥七月十九日因承父家統續授高嶺間切仲城地頭職〈改稱眞榮里〉
俸禄
咸豐元年辛亥七月十九日因継父家統減賜知行高四十石
同治五年丙寅九月十日拝為署總理司〈加賜役知四十斛共計八十斛〉
婚嫁
長女眞鶴適王瑞蘭知名秀才
長男蘭芬娶魏學賢牧志里之子親雲上長女眞鶴
次男蘭芳娶鄭紹業古波藏里之子親雲上長女武樽金
四男蘭言娶梁超群安慶名親雲上長女眞鶴
(『那覇市史 資料篇第1巻6 家譜資料二』七〇〇~七〇二頁、一九八〇年)
豊見山和行
一 日記の書誌と記主
本日記は、早稲田大学附属図書館特別資料室の所蔵にかかる史料である。同資料室の目録カードでは「琉球勅使御迎大夫日記 真栄里親方」として整理されている。ちなみに請求番号は、「リ5/5567/1・2」である。二冊からなる和装本で、丁数は第一冊目が一一五丁、第二冊目が七八丁である。法量は縦二二・二cm×横一八・八cmで、帙に収められ、表に「昭和一三年/六月十一日/購求」という印が押されている。帙の題箋には、「琉球/勅使御迎大夫日記 真栄里親方」とあるが、琉球と真栄里親方の部分は後筆であり、帙の作成時点では単に「勅使御迎大夫日記」とだけ記されていたようである。早稲田大学がどのような経緯で一九三八年(昭和一三)に購入したのかは、現在の職員も不明とのことである。
ところで、本日記は原本ではなく写本であるが、虫喰い部分は少なく、さらに文書の裏打ちが施されているなど保存状態は良好である。
本日記の記載年は、同治四年(一八六五)二月一三日から翌五年(一八六六)六月二三日までとなっている。
さて、本日記の記主・真栄里親雲上(後に親方)について簡単に触れてみたい。真栄里の出自は久米系士族で、唐名は鄭秉衡である。「鄭姓家譜支流」(『那覇市史 資料篇第1巻6 家譜資料二』)によれば、真栄里は、嘉慶一九年(一八一四)正月九日に鄭良弼と毛氏真鶴の間に次男として生まれている。長男(鄭秉鈞)が、一八歳で死亡したため道光一六年(一八三六)に、鄭姓十世の嫡子となっている。
真栄里の略歴を見ると、道光一七年(三七)に冊封使(正使林鴻年、副使高人鑑)の来琉に際し、国王の「御宮仕兼書簡所」役を勤めている。その翌一八年には、勤学(留学生)として中国へ渡り二年後の道光二〇年(一八四〇)五月に帰国している。道光二四年(一八四四)六月から同二七年(四七)五月までは、フランス人宣教師フォルカードらへの対応のための「重通事」に、咸豊元年(一八五一)三月から同年一一月まではイギリス人宣教師ベッテルハイムヘの対応のための通事に任命されている。真栄里は北京官話に通暁していたようで、咸豊三年(五三)から同八年(五八)にかけて薩摩人園田仁右衛門と大窪八太郎の官話師となり、さらに同年から翌年までは、官話習得のために来琉した岩下新之丞に対しても同様に官話師を勤めている。
同治二年(一八六三)五月には、漂着中国人(山東登州府黄県の杜栢茂ら)を送還するため大通事として福州へ赴いている。航海の途上で海賊に襲われ貨物を奪われるという事件に巻き込まれたが、ようやく同年十月に福州にたどり着くことができ、翌年(六四)六月に無事帰国している。
そして、同治四年(六五)二月に勅使(冊封使)の迎接役として正議大夫(接封大夫)に任命され、三度目の唐旅(中国行き)となるのである。その際の経緯を詳細に記録したものが、本日記である。
ところで、本日記が写本であることは前述した通りであるが、「尚家文書」中にも同日記が存在するようである。というのは、「尚家文書目録」によれば、
道光十七年・同治五年
四三三 勅使御迎大夫日記 接封大夫 真栄里親方 三冊
として記録されている(沖縄県教育委員会『古文書等緊急調査報告書』一九七六年、四三頁)。尚家文書は、現在未公開のため同家所蔵のものと突き合わせて検討することはできない。そのため早稲田大学所蔵本と尚家本との異同については、今後の課題とせざるを得ない。ただし、興味深い点は、「尚家文書目録」では、同治五年の真栄里親方(鄭秉衡)の日記だけでなく、同人の父親である鄭良弼の「勅使御迎日記」(道光一七年)の存在も窺われることにある。親子二代にわたって勅使の迎接役に任命されただけでなく、同様に「勅使御迎日記」を残していたことになる。
以上のことから、「勅使御迎大夫真栄里親方日記」は鄭良弼のそれと本日記の鄭秉衡のものが存在することになる。両人とも真栄里親方であり紛らわしくなるため、正確には「勅使御迎大夫真栄里親方(鄭良弼)日記」(道光一七年)と「勅使御迎大夫真栄里親方(鄭秉衡)日記」(同治四・五年)として区別するべきであろう。ただし、前述したように鄭良弼の日記は未公開であり、どのような内容のものかを知ることができないので、目下のところ便宜的に本稿の日記である鄭秉衡のそれを「勅使御迎大夫真栄里親方日記」としておきたい。
二 日記の内容
本日記は、琉球国の最後の国王となった尚泰を冊封するための使節を迎接した際の真栄里親雲上の日記である。本日記の「勅使御迎」というタイトルは、冊封使が勅使とも呼ばれていたことに由来している。ちなみに尚泰を冊封した時の正使は趙新、副使は于光甲である。
さて、本日記の記述は出発前の準備過程と福州での交渉過程に大別される。特に、前者が全体の五割強を占めており、勅使迎接の際の周到な準備状況を知ることができる。以下、日記の日次を追って簡単に内容を紹介したい。
同治四年(一八六五)二月一三日に、勅使御迎大夫に任命されることから本日記は開始されている。役務拝命の記事から書き出すのは、他の公日記(「御物城高里親雲上日記」「頭役被仰付候以来之日記」など)でも同様である。国王・王妃・聞得大君へ役務拝命を謝する拝謁儀礼である「御拝」も他の日記と同様に行われている(二月一五日条)。
船頭の人選が行われ(三月二日条)、路銀として銭九〇〇〇貫文(銀子に換算すると一貫二百目)、渡唐賦飯米として粟一二石が支給されているが、それだけでは不足であったと見え、給地蔵から銭八〇〇〇貫文(=銀子二貫目)を無利子で借用している(三月四日条)。その他、干イカや莚などの物品を通常の進貢大夫並に支給されるよう要求している(四月条)。五月には、渡唐人数の「旅御拝」が行われている。
注目されるのは、六月二六日条である。同日、真栄里親雲上が首里城に登城したところ、二七通(別紙含む)にも及ぶ書付けを手交され、福州での交渉に臨む際の詳細な指示が評定所から与えられた。その指示は、冨川親雲上・古堅親雲上・安室親雲上・勝連親雲上・濱比嘉親方五人の連名によるものであるが、彼らの職名は「評価方日記」(台湾大学図書館蔵)同治四年丑閏五月十四日条によれば、冠船御用意方主取というものである。冠船御用意方は単に冠船方とも称され、冊封時に評定所の中に臨時に設置されたセクションである。冠船方は評価貿易を専掌する評価方をも管轄し、冊封時における中心的な機関であったと思われる(拙稿「冠船貿易についての一考察―準備態勢を中心に―」『第三届中琉歴史関係國際學術會議論文集』一九九一年、参照)。さて、その指示の内容を次に概観してみよう。
第一文書は、勅使の乗船する冊封船(封舟、冠船ともいう)が大型船にならないよう留意すること、琉球の渡唐船(進貢船)程度の船を選定するように中国側へ働きかけることを指示している。那覇港が浅くなっているため大型船の出入が危険であることを理由にあげているが、実際には大型船での来琉は大量の評価貿易品を積載してくることになるため、それを避けるための方策である。
第二文書は、布政司から支給される前行牌を早めに入手し、帰国するように、との指示である。
第三文書は、渡唐の面々は、中国人から借銀をしてはならないこと、来年の中国からの帰航をスムーズに行うようにすべきこと、とある。
第四文書は、渡唐の面々が中国で手広く交易を行っては来年渡琉する中国人らの持ち込む評価物(交易品)が大量になるので、可能な限り個人貿易品は削減するように、との指示である。
第五文書は、冊封船が渡琉する日程を来年の「芒種」後すぐに渡海し、同年の九月には帰国できるように手配すること、遅れるとそれだけ琉球滞在が長引くことになるため、そのことを懸念しているのである。
第六文書は、帰航時における諸島での合図の照らし火、久米島での毎夜の篝火を了解しておくこと、さらに、帰航時、各島へ停泊する際は食料などを勅使へ進呈すべきこと、などを指示している。
第七文書は、冠船が那覇ではなく奄美地域(道之島)へ着岸した場合の指示である。かつて康熙二年(一六六三)に奄美大島へ着岸した例を引き、その前例に従いつつも唐人(中国側)に琉球と薩摩との関係が露見しないように注意を与えている。
第八文書も同様に奄美へ着岸した場合、即座に船を那覇へ回すように、との指示である。
第九文書は、前文書同様奄美地域への停泊の際の対処策であり、第十文書は、第九文書の別紙である。勅使や守備・千総役へ差し上げる食料・酒などの規定である。
第十一文書は、閩江上流に位置する水口で勅使を出迎えること。その際、冠船の船主らが貿易品(評価物)を大量に持ち込まないように勅使の機嫌を見計らって要請すること。さらに辰冠船(一八〇八年)時の冊封使録である「続琉球国志略」中の「志餘之篇」に、乗員の減少、交易品も千百石を超過しないようにすることなどが記載されているため、この書物を持参して、勅使と対顔の折り機嫌を見計らって呈示すること。中国での具体的交渉方法の指示である。
第十二文書は、福州において勅使が進物を不要とする場合もあるが、受納の際には乾隆二一年(一七五六)の通りに準備すること。第十三文書は、前文書の別紙、すなわち進物の具体的物品・数量などを記載したものである。
第十四文書は、冠船渡来の折り、先皇帝・先皇后の月忌みに当たった場合、天使館での路次楽演奏を中止すべきどうかを福州で調査することの指示である。さらに、「儀注」の文字が前代の咸豊皇帝の名と同音のため、その使用の可否をも調査すること、などが指示されている。
第十五文書は、冠船の那覇入港時における儀注(儀礼)に関して、勅使から福州で儀注書を受け取り、先例と引き当てて異なる部分は習い受けるように、との指示である。
第十六文書は、第一に、冠船渡来時の中国人乗船員と評価物の減少の要請を福州総督・撫院へ行うこと。第二に、琉球滞在時に冊封使一行へ支給する食料の全稟給・半稟給・口月糧の区別について勅使へ申請すること。第三に、節(儀礼用の道具)以外に勅使が持ち込む道具があればそれへの対応も行うこと。第四に、勅使や遊撃の乗船で故意に古船を雇い入れて琉球で修補するのは不都合なので、なるべく新造船で渡航するように働きかけること。以上である。
第十七文書は、第一に、冊封使一行が総勢四百人を超えないように働きかけること。第二に、正規の使者以外に、測量官や副将・参将・弾圧官などの高官が伴として来琉する場合は、前もって連絡すること。第三に、評価物は部銀を込めて四百貫を超えないように働きかけること。第四に、評価物でも高額品・無益品の買い取りは困難なので、別冊に区分してあるように働きかけること(第十八文書)。第五に、冊封使の出身地・姓名・官位などは薩摩藩へ報告するので、早めに知らせること。
第十八文書は、前文書第四条で簡単に言及されているものの中身である。琉球へ持ち込んでもよい品(阿膠・砂仁など十三品)、琉球の当用品に付き持ち込んでもよい品(石黄・乳香・肉豆蒄など二十九品)、なるべく搬入してほしくない品(大黄・甘草・土茯苓など八品)、高価品に付き搬入を拒否する品(玳瑁・銀硃・紅花など二十九品)、無用品に付き一切の搬入を拒否する品(玳瑁器具玩物・沈香玩物・犀角器皿玩物・金木石磁奇巧人物玩物各等器)。このようなランク分けによって、評価物の搬入を琉球側に有利に導こうとしていたのである(前掲拙稿参照)。
第十九文書は、冊封使一行の中に琉球側のパイプ役として協力しえるような唐人を加えることの指示である。
第二十文書は、渡唐の面々が中国で借銀をしないようにすること、さらに借銀しているものは今回の渡唐で返済し、借用状を取り返すこと、の指示である。
第二一文書は、第一に、冠船貿易時に唐人(中国人)が琉球から搬入する海鼠(ナマコ)・鮑の件については、接待用のみしかないことを伝え、海鼠・鮑をあてにして評価物を大量に持ち込まないように働きかけること。第二に、評価貿易用の昆布と蕃銭(洋銀)との比価について、とりわけ昆布の地代(元値)が高値になっていることを唐人らへ前もって知らせておくこと。第三に、琉球において唐品が高価であることは中国では一切話題にしてはならないこと。第四に、今回渡唐する人員の中には唐人の名義で自己の商品を評価物の中に紛れ込ませたり、あるいは帰航する接貢船の船間(積載スペース)の権利を唐人へ売却したり、あるいは唐人へ銀子や商品を渡し琉球の地で返済の企てを図るものが存在することも予想されるので、そういうことがないようにそれぞれの頭が監督すること、などの指示である。
第二二文書は、評価物減少の要請であるが、去年の秋に中国商人から評価物減少の「拠書」を受け取っているが、そのことは商人の慣行として信用しがたいため、今年も評価中取役人の玉那覇・当間を渡唐させ、さらに委細を別紙(第二三文書)で指示したものである。その第二三文書とは、実際に唐人と交渉する際の想定問答を「唐人江應答之心得」としてまとめたものである。第一に、評価物を大量に持ち込むと琉球側では全部を買い上げることができず、持ち帰る結果となること。第二に、前代の冊封からは間隔があいており、余裕があるはずなのに前条のような回答では納得できないと問い詰めてきた場合、琉球には近年異国船が頻繁に来航したり異国人が逗留していること、また災害が打ち続き国中が困窮していることを答えとしている。第三に、そのような困窮状況において冊封使の迎接はかえって琉球の負担となるのではないかとの質問へは、冊封の儀式はこの上も無い「大典」であり、冊封使の渡来による王爵の授与は皇帝の徳化を蒙ることとなり、ひいては琉球の国運も良い方向へ向かい豊饒の世となる、という答えを準備している。
第二四文書は、*阿口通事の謝衢・馮爺、同筆者の王秉謙らの三人は評価一件やその他、琉球側の役に立つので冊封使一行に加えて琉球へ渡海させるように、との指示である。(*河口通事とも称されるが、本稿ではすべて阿口通事に統一した。)
第二五文書は、冊封使の滞在中、傾城(遊女)との問題が発生しないように勅使へ対して、別紙(第二六文書)の趣旨を伝えるように働きかけることである。第二六文書の内容は次の通り。異国人に対し琉球には傾城は存在しないということになっている。ところが、冊封使の滞在中、唐人に傾城を「附合」せては異国人へも知られてしまい問題となる。現在、傾城たちは近年逗留するようになった異国人を恐れて方々へ逃げ去ってしまったこと、また飢饉が打ち続き傾城と「附合」う者はいないこと。このような状況にあるため傾城は当分居合わせないことを渡唐の面々も中国で吹聴するようにし、間違っても「実形」に傾城が存在することを話してはならないこと。この傾城一件は、唐人へ周知させなくては「御難題」となるので、渡唐の五主・船方・従の者まで徹底するように、との指示である。
第二七文書は、冊封の正式な「勅答」の件について、琉球へ早々と連絡するように、との指図である。
以上のことから判明するように、接封大夫(御迎大夫)に任命された真栄里親雲上は、冊封使を琉球に無事に迎えるためだけの使者の役目よりも、むしろ琉球側の利害に深く係わるような重要かつ実質的な交渉を担う使者としての役目を期待されていたことが分かる。
さて、以上のような任務を帯びて真栄里らは八月二八日に乗船式を行い、十月六日、接貢船に乗り付け、翌七日に石火矢(大砲)を三発放って那覇港を後にした。同八日には久米島を通船するが、風並が戌亥の間(北西)に変わったため、座喜味島の阿嘉泊に引き返している。風待ちの後、同十日出帆し、同十七日には中国の錠海へ到着している。翌日に閩江を遡って恰山院へ着き、同二十日には福州の林浦へ到着している。翌二一日に下船して琉球館(館屋)で旅装を解いた。同二六日には、阿口通事から明日、船荷改めがある旨の連絡をうけ、その準備を行っている。同二八日には、阿口通事二人・同筆者二人・長班一人を招いて咨文二通を点検させ、布政司へ差し出す咨文は阿口通事から提出させている。十一月八日には、福州の総督衙門・撫院衙門・海防衙門など十五ケ所の官衙へ挨拶に赴いている。興味深いのは、真栄里は轎に乗って行列を組んで赴いているのであるが、通常の進貢使節の場合も同様に行列を組んでの官衙詣でが行われていたようである(十月二七日条)。
さて、福州での真栄里が直面した問題は次の三つであった。第一は、冊封使が乗船する冠船の選定問題である。第二は、福州での冊封使迎接の際の要請の一件である。第三は、冊封使が福州総督の所持する火輪船で琉球へ渡航すると言い出してきた問題である。
第一の冠船の選定問題は、以下のようなものであった。当該期には商船を雇上げて冠船に充てていたため、大型船を避け積載する評価貿易品の量を少なくすることが真栄里らの主要任務であることは前述した通りである。その交渉過程は次のようになされた。まず、十二月七日に、冠船の選定時には真栄里らも検分に加わらせてもらうようにと申請している。真栄里らはすでに手ごろな船の選定を済ませていたのである。ところが、翌同治五年一月一六日に、冠船については海防官が調査の上、決定するとの情報を得て、驚いた真栄里らは、急きょ彼らが希望する福宝玉船・金振茙船の検分を要請した。同月二八日に、海防官から呼び出されて参上したところ、琉球側の希望する二艘は除外され、新據豊船・邱大順船などの六艘が候補にのぼっていた。邱大順船について琉球側の意見を求められため、調査済みのことは伏せて、邱大順は不達者であり、かつ同船は「古佐(作)事」=建造が古すぎて冊封使へ乗船を願うのは困難であると回答した。その結果、琉球側が希望する前述の二艘の検分要請も採り上げられた。翌二九日に、海防官が候補に挙げた六艘を真栄里らも検分し船底まで「すいミ」(覗き見)を行い、新徳盛船のみが新造船であるが艍が半分しかないこと、他の五艘は古作事であることを海防官へ参上して返答している。そして二月一日に、真栄里らは船着き場へ出向き海防官らと船の選定を行っている。その際、真栄里らは海防官候補の船へは色々と難点を挙げつらい、琉球側の推す金振茙船を検分させたところ、海防官も納得の色を示している。結局、他の一艘も琉球側の推す福宝玉船に決定された(三月四日条)。以上が冠船選定の経緯である。
第二の福州において冊封使迎接時の要請一件は、以下のような次第である。三月二七日に伴送官や巡捕官・布政司掌案らとともに、真栄里らは四艘で洪山橋を出発し、水口に到着して同地の公館で冊封使の到着を待ち、四月六日に到着した冊封使に最初の御機嫌伺いを行い、福州城の公館で再度の拝謁を要望して琉球館へ戻っている。これは、評価物と乗組人員の減少、琉球において借銀返済方の禁止を要請するための伏線であった。しかし、同二八日に福州城の公館で拝謁を願ったが拒否されてしまい、五月三日にも再度拝謁の要求を行ったが逢うことができず、取りあえず要望書のみを提出している。遊撃・都司・弾圧官らとは拝謁することができたため、右の要請と傾城一件を取り添えて要望している。結局、真栄里は冊封使へ直接対面して主要な案件を要請することはできなかったのである。
第三の、真栄里らが選定した冠船ではなく火輪船で琉球へ渡航すると言い出してきた問題は次のようなものであった。五月一四日、冠船の頭号船が出船の際、浅瀬へ乗り上げてしまった。そのため冊封使は福州総督の所持する火輪船で渡海したいが、琉球側は了解するかどうかを真栄里らに通達してきた。驚愕した真栄里は、先例通り唐船での渡海を返答し、海防官へも同様に回答し、その取りなし方を依頼していた(五月一七日条)。翌一八日に、冊封使から呼びつけられた真栄里は、縷々火輪船での渡海が琉球の不都合となることを述べ、中止を要請したところ、「欽差(冊封使)の命は皇帝同前」であり、これ以上火輪船の件を拒否するようならば琉球への渡海はできないと恫喝されたのである。途方に暮れた真栄里は、海防官へ善後策を伺うため王秉謙を遣ったところ、次のような返答があった。ひとまず冊封使の言う通り稟を提出しておけば、あとは福州の官人衆で邱大順船へ繰り替えるように取り計らうとの回答であった。最終的には火輪船での琉球渡海の件は、福州の官人らの取り計らいで邱大順船に決定されている(五月二三日条)。なぜ、冊封使の要求を福州官人らが却下したのかは不明であるが、六月五日に林浦を出航し、一路琉球へ向かうことができたのである。航海の途中、久米島兼城泊近辺で若干のトラブルがあったが、六月二一日に無事那覇港へ到着している。真栄里の役務拝命から帰任までの大まかな経緯は、以上の通りである。
ところで、その他に注目されることとして中国での和文文書の使用の問題がある。というのは、薩藩支配下の琉球は日本との関係を押し隠していたため、中国へ漂着した場合、日本年号や薩摩人名の記入された和文文書は焼却するか海中に投じるなどの処理を行うように、との一七二一年の法令が存在する(「船改之覚」『那覇市史 資料篇第1巻2』、二八四頁)。
このことから漠然と中国内では琉球側は和文文書を使用していないものと筆者は考えていた。ところが、本日記の同治四年十月二一日条や同二七日条、十一月三日条などに散見されるように、琉球人間の通達・命令文書は琉球国内で使用されるのと同じような和文文書が使用されているのである。もちろん、中国へ提出する文書は漢文であるが、琉球館内での使用文書は和文であったと考えられるのである。
そのことは、真栄里がこのような詳細な日記を残すことができたのは、琉球に帰国してから中国での経緯を回想して日記を作成したのではなく、中国の地で日記をほぼリアル・タイムで記録していたからだと考えられる。もし、そうでなければ漢文で日記を作成し、帰国後和文の本日記に作成し直したと考えざるをえないが、その可能性は低く、さらに前述の和文文書による通達文などの存在を説明しえなくなる。
以上が、本日記の大まかな内容である。このように本日記は冊封使を迎接する際の一件について、役務拝命から帰任までの経緯を詳細に記録するという特徴を持っている。同様の日記に道光三十年(一八五〇)の「田里筑登之親雲上渡唐準備日記」(沖縄県立博物館所蔵、渡名喜明「資料紹介・田里筑登之親雲上渡唐準備日記」「〈沖縄県教育委員会文化課〉紀要』第一・二号、一九八四・五年)がある。しかしながら、田里日記は専ら渡唐前の準備過程のみの記録であり、途中の航海・中国でのあり方などについては記録されていない。その意味においても、本日記は現在のところ中国への渡航から帰任までの全過程を記録した唯一の日記ということになる。本日記は前述したように写本であるが、その内容が極めて興味深いものであることは了解しえたのではなかろうか。紹介しえなかった他の部分については、他日を期したい。
末筆ながら本日記の閲覧と翻刻について快諾していただいた早稲田大
学附属図書館に感謝の念を表しておきたい。また、煩瑣な校正等にご協
力していただいた本誌編集担当の漢那敬子氏にもお礼を申し上げたい。
* *
翻刻文については編集の都合上、以下の処理を施した。
(一)句点、並列点を付した。(二)変体仮名の一部(江・え、者・は、而・て、ゟ・より、など)はそのまま使用した。(三)朱の部分は「 」で括り、抹消部分は傍点を文字の左に付した。
参考史料として真栄里の家譜の部分を前掲『那覇市史』から転載した。
ただし、原文と照合し若干の誤植を訂正した。
[史料紹介]
勅使御迎大夫真栄里親方日記
(第一冊、表紙)
勅使御迎大夫日記 真栄里親方
同治四年〈乙丑〉二月十三日
一今日、勅使御迎大夫被仰付候事、
二月十五日
一今日、旅役被仰付候美拝為可申上五ツ時分登 城、御書院当・御近習御取次、
上様
野嵩按司加那志様江美拝申上、退 城、直
聞得大君御殿参上、大親御取次美拝申上、夫より摂政・三司官衆・御鎖之側・日帳主取迄御禮罷通候事、
二月廿一日
一今日五ツ時分、登 城、西之御殿参上、御鎖之側御取次を以御請申上、左候而那覇江罷帰、里主・問役案内ニ而御在番所御役々衆御届、御見舞申上候事、
一久米村役者中(中山御門涯迄騎馬・加籠、私者守禮御門涯迄騎馬・加籠ニ而候、尤那覇江罷下候砌も里主所前迄騎馬・加籠ニ而候、
一勅使御迎船頭、人柄吟味を以申出候様、勝連親雲上・濱比嘉親方より役者中江被仰付候、御船手奉行江者御評定所より被仰聞候段、承候事、
三月二日
一今日、勅使御乗船御船頭御相談ニ付、四ツ時分御船手江相揃、左之通おかす差出候事、
附、首里役者中ハ吟味分ニ而差出候也、
覚
〈西村〉 〈久高嶋下小之〉
伊差川筑登之親雲上 西銘筑登之親雲上
右 勅使様御乗船々頭人柄吟味を以可申上旨被仰渡、吟味仕候處、両人事旅数段々相募、船功人品旁宜者共与見及申候間、両人之内より御乗船々頭被仰付可然与奉存、此段申上候、以上、
〈御迎大夫〉
三月二日 真栄里親雲上
〈久米村〉
役者中連名
右通、私ニ茂相合人柄吟味之上申上候間、両人之内より被仰付度奉存候、以上、
三月二日 高奉行
三月四日
一今日 勅使様御乗船々頭、久高嶋西銘筑登之親雲上江被仰付候事、
〈本文并御賦飯米・拝借銀請取候砌、祝銭とシテ銭六拾貫文御給地御蔵加勢中江先例通相進候也、〉
請取
銭九千貫文 銀子ニシテ壱貫弐百目
右者 勅使御迎大夫真栄里親雲上渡唐御賦とシテ慥ニ如斯御座候、以上、
〈儀者相済不申候付名代〉
三月 伊差川筑登之
給地方
請取
粟拾弐石者
右者 勅使御迎大夫真栄里親雲上渡唐御賦飯米とシテ慥ニ如斯御座候、以上、
〈儀者相済不申候付名代〉
三月 伊差川筑登之
給地御蔵
〈御印〉 口上覚
〈本文給地ニ而相済候事、〉
銭八千貫文 銀子ニシテ弐貫目
右者乍恐申上候、私事
勅使御迎大夫被仰付難有当秋渡唐仕筈候處、仕廻料差迫居候間、何卒本行之員数無利ニシテ拝借被成下、返上方之儀者御法様之通被仰付被下度奉願候、此旨宜様御取成奉頼候、以上、
三月 真栄里親雲上
證文
〈本文給地方懸印いたし候事、〉
銭八千貫文 銀子ニシテ弐貫目
右者勅使御迎大夫ニ而当秋渡唐付、拝借与シテ慥ニ受取申候、返上方之儀ハ帰帆次年より御法様之通堅固ニ上納可仕候、為後證如斯候御座候、以上、
〈鄭氏〉
同治四年〈乙丑〉三月 真栄里親雲上
〈秉衡〉
給地御蔵
〈本文御評定所唐船方江差出候事、〉
〈御印〉 口上覚
乍恐申上候、
勅使御迎大夫被仰付、難有奉存候、
然者私并儀者、今般旅役御規式之儀、接貢役者同様被仰付被下度奉願候、此旨宜様御取戍奉頼候、以上、
二月 真栄里親雲上
〈本文御評定所唐船方江差出、御印紙相済候ハヽ御評定所より直大宿江「御問合」被致候也、〉
〈御印〉 覚 〈印〉
乍恐申上候、私事今般
勅使御迎大夫被仰付難有当秋渡唐仕事御座候、然者於唐、轎并行列道具之儀、先例之通大宿江調方被仰付被下度奉願候、此旨宜様御取成奉頼候、以上、
三月 真栄里親雲上
覚
〈東村嫡子当分勤問役〉
高良筑登之
右、当秋渡唐ニ付、儀者被仰付可被下候、以上、
〈御迎大夫〉
三月 真栄里親雲上
覚
〈問役〉
高良筑登之
右、当秋渡唐、勅使御迎大夫真栄里親雲上儀者ニ而列渡申度由、申出候間、其通被仰付被仰付(衍字)被下度、奉存候事、
以上、
〈御評定所筆者〉
三月十日 平敷里之子親雲上
〈同〉
真栄平筑登之親雲上
一りうきう詰さん物方懸御さいきう掛并同懸見ふん役之儀、御吟味之訳有之、当分之詰限ニ而不及交代様、左候而さん物方諸取扱向之儀ハ、定式さいはん(在番)奉行并定式見ふん役江兼務被仰付候付而者、軽者共萬一茂心得違抜物取企候而者別而不可然事候条、定式詰見ふん役江分ケ而取締可致候、尤りうきうさん物方御手本品抜物者勿論、唐物品等買取方等不致様、りうきう并りうきう下り船々乗船之面々江厳敷可申渡候、此以後致抜物等候而者可及迷惑候、
右之通被仰付候条、りうきう方も抜物無之様分ケ而取締可有之候、此旨摂政・三司官江申越候様さいはん親方并りうきう館きゝ役江可申渡候、
十二月
右之通、御勝手方掛御側御用人いちゝさう之丞との御取次被仰渡候段、此節りうきう館より申来候、然者抜物御取締ニ付而者先年段々被仰渡置趣も有之、聊緩之儀ハ無之筈候得共、萬一心「得」違抜物取企候儀共有之候而者、其身迷惑「ハ」勿論、御難題ニも可相及候条、兼々被仰渡置候通、猶以堅相守、聊心得違無之様、五主・船方・従之者共厳重可被申渡候、自然不守之者於有之ハ当人者勿論、各ニも屹与可及御沙汰候、此旨御差圖ニ而候、以上、
三月 桑江親雲上 崎濱親雲上
勝連親雲上 小波津親方
一当秋接貢船之儀、勅使御迎大夫并御船頭・佐事・水主等乗付被差渡、冠船一同帰帆仕事ニ而、夏至前差懸候得者日和次第冠船御出帆有之筈候處、萬一諸仕廻方差支候儀共有之候而者夏「甚」不都合可相成候、右ニ付而者早々渡唐之上、諸事年内中致手組、来年三月中ニ者御用物全相調、其外冠船ニ相懸事共都而其内相仕廻、萬反無支何れニも冠船一同不致帰帆候而不叶事ニ而、至而大切成折柄候間仕廻方差急、兼而被申出置候日賦通諸事七月中仕廻取、八月朔日より先順風次第無滞可致出帆旨、此涯分ケ而被仰渡候上、何歟与申出帆及遅滞候而者御奉公人之本意取失候儀ニ而、御沙汰之程も不軽筈候条、右之趣具ニ得其意、船頭以下末々之者共江も厳重可被申渡候、此旨御差圖ニ而候、以上、
三月 與那覇「原」里之子親雲上
御迎大夫
〈本文帳当座ニ而相済、取納座冠船方江相届候事、〉
〈御印〉 覚 〈印〉
一干いか拾斤 一永良部鰍五斤
一しゅく〓(難+酉)物壱斗三升
一干たく拾斤
一ふつめち〓(難+酉)物壱斗三升
一黄〓(難+酉)物壱升七合
一割ゐ尺迦莚拾三枚
右者私事、此節
勅使御迎大夫被仰付、当秋渡唐仕事御座候、然者右品々於唐官府遣用御座候間、進貢大夫之例を以所望被下御模日限通寄申様、被仰付可被下候、以上、
四月 真栄里親雲上
覚
一割ゐ弐間莚五枚 一同表莚六枚
右者私事、此節
勅使御迎大夫被仰付、当秋渡唐仕事御座候、然者右品於唐官府遣用御座候間、進貢大夫之例を以久米嶋江御誂越、早便より「積渡寄」所望被仰付可被下候、以上、
四月 真栄里親雲上
覚
割ゐ尺迦莚五枚
右者私事、
勅使御大夫真栄里親雲上儀者ニ而、当秋渡唐仕事御座候、然者右品於唐官府遣用御座候間、進貢大夫儀者江被下置候例を以所望被下御模日限通寄申様被仰付可被下候、以上、
〈東村〉
四月 高良筑登之
覚
一割ゐ表莚弐枚
一同弐間莚弐枚
右者
勅使御迎大夫真栄「里」親雲上儀者ニ而、当秋渡唐仕事御座候、右品々於唐官府遣用御座候間、進貢大夫儀者江被下被下置候例を以久米嶋江御誂越、早便より積渡寄所望被仰付可被下候、以上、
〈東村〉
四月 高良筑登之
言上写
請申口座 真栄里親雲上
以上
〈御評定所筆者〉
四月 屋嘉比里之子親雲上
〈同〉
與儀筑登之親雲上
同十六日
一昨日、申口座御位頂戴仕候付、今日四ツ時分登 城、美拝申上候事、
同廿七日
一申口座御位頂戴仕候付、今日従
上様御近習御使を以、御祝詞被成下候事、
同廿八日
一右ニ付、今日五ツ時分登 城、御近習御取次を以美拝申上候事、
五月三日
言上写
今日「月」十一日、渡唐人数旅御拝之事、
以上
〈丑〉五月三日
右通、言上相済候間、此段致御通達候、以上、
〈御評定所筆者〉
與那覇里之子親雲上
〈丑〉五月三日
平敷里之子親雲上
下庫理当 同勢頭 御近習
御書院当 御物奉行
〈役者中江茂御通達可被成下候、〉
大夫 才府
右之通有之候間、此段致御通達候、以上、
〈儀者〉
五月三日 高良筑登之
安慶名親雲上 上運天里之子親雲上
奥聞里之子親雲上
同十一日
一今日旅御拝ニ付、五ツ時分登 城、例之通相勤、左候而
上様
聞得大君加那志様
野嵩按司加那志様江美拝申上候事、
附、正議大夫并申口座御位御美拝も一同被仰付置候、
言上写
今月十一日、唐船御名付之事、
以上、
閏五月六日
右之通言上相済候間、此段致通達候、以上、
〈御評定所筆者〉
閏五月六日 真栄平里之子親雲上
〈同〉
屋嘉比里之子親雲上
又五月十一日
一右ニ付、今日可致出勤之処、不快ニ付左之通書付を以御暇乞申上候事、
口上
私事、不快ニ付今日之御規式難勤得御座候間、宜様御暇乞被仰上可被下候、以上、
〈御迎大夫〉
又五月 真栄里親雲上
同廿一日
一御迎大夫被仰付候ニ付、御願出次第当御使を以御餞被成下候間、三日前御申出可被成候、以上、
附、当日御注進次第、
〈御書院〉
又五月 金城筑登之親雲上
真栄里親雲上
六月十五日
一今月廿四日、当秋渡唐人数聞得大君御殿、三平等御立願可仕事、以上
〈丑〉六月十五日
右之通言上相済候間、致御通達候、以上、
〈御評定所筆者〉 〈同〉
〈丑〉六月十五日 鉢嶺筑親雲上 與儀筑登之親雲上
右之通相済候間、此段致通達候、以上、
〈大夫儀者〉
六月十五日 高良筑登之
大宿
六月廿四日
一今日、於
聞得大君御殿、三平等之御立願被仰付候事、
六月廿六日
一今日、勝連親雲上より御用有之、罷登候處、左之御書付被相渡候事、
一来年冠船之節、
勅使御乗船并二号船之儀、商船より御見合を以被仰付由候處、唐商船之儀ハ段々大小有之、至而大振之船も有之由、然者那覇港連々淺相成、大船出入差支折角浚方被仰付事候得共、今以大振之船ハ乗入難成事ニ而
勅使御乗船并二号船餘り大振之船江被仰付儀も候而者出入差支可中哉与、至極御念遣之御事候、去戌年冠船之時も接封大夫江被仰越候付、船方共召列福州港居合之山東行商船致見分候處、壱艘者五拾万斤位積入候程之大船罷在候付、稟取仕立、右船者差除、餘之船々寄書取添、海防官江願立候處、欽差御乗船禮部より及言上、総督・撫院江調部被仰付、御決定候得者、大夫より相調部願出候儀例違之由ニ而被差帰候付、子細承合候處、右大船船主方より海防官江御内意申上候段承、猶以稟取仕立、琉球浚「港」之儀、狭淺有之、大船出入差支候間、右船者御差除、餘之商船より御見合被仰付度、布政司衙門江願立候付、兼而寄書之船江為被仰付由、此節之儀も右之心得を以、両艘共大抵琉球渡唐船程来之船江御賦付被仰付候様、御内意可被相働候、尤此儀御取受之程も難計候間、随分御落着有之、少も不差障様可被取計候、此旨御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫
一戌冠船之時、布政司より前行牌之儀、先達而持渡不申候而不叶事候處、何様相心得候哉之旨、存留江被仰渡候付、接貢船より先達而捧渡候筋呈文を以申上、冠船より先致帰帆、諸事都合能為相成由、来年茂右例通可被仰渡も難計事ニ而、仕舞方折角差急早目致渡唐、御買物も三月中致調達、前行牌御渡次第早々帰帆不致候而ハ至而御不都合相成事候条、右之趣末々江も具ニ申聞、随分仕舞方差急、八月中致渡唐候様可被取計候、此旨御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫 渡唐役者中
一渡唐之面々、商人共より諸品物取入、直段差引之儀ハ致川下算用相究、代銀不引足分者直ニ借状相渡候者も有之、色々及難渋候由、就而者右諸首尾不相済内、唐船致帰帆候得者唐人共及迷惑候故、衙門江致掛号回文相渡候儀、態与延引させ帰帆之支ニも可成立哉、於唐致借銀間敷段ハ別紙を以被仰渡、殊ニ来年ハ取分ケ仕廻方差急、少も出帆之支不相成様精々可相働旨、被仰渡候處、右之仕向ニ而者帰帆之支可相成与、甚及御念遣候条、件之趣具ニ得其意、交易等之諸品決算之儀、乗船不致内相済候様、堅可被申渡候、乍此上及遅滞川下ニ而算用旁相遂候由相聞(得脱カ)候ハヽ、其身ハ不及申、至各ニも屹与可及御沙汰候条、此旨末々ニも厳重可被申渡旨、御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上
古堅親雲上
安室親雲上
勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫
〈丑秋走〉
渡唐役者中
一来年冠船御渡来之節、評價物大分不持渡様可相働旨、去秋勢頭・大夫江被仰渡、猶又係人をも被差遣、商人共兼而品物等手組不致内、御当地ニ而交易振之向合等細々申諭、評價物相細品物等も其見合を以持渡、不及銀高様可取計旨被仰渡置候處、渡唐之面々仕舞立廣有之候而者、壱艘前之仕廻銀高及大分、兎角唐人共ニも其心当を以交易品多可持渡、就而ハ此節渡唐之面々仕廻立相減不申ハ、係人共より交易振等申諭候趣意致齟齬候段者勿論、評價物多持渡候而者御用意銀高ニ而買取方不相成、御難題可成立事候条、件之趣末々之者迄厚汲受、面々仕廻立成丈相減、尤人々用物も繰合品者屹与可相断候、此旨末々之者江も堅可被申渡旨、御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫 渡唐役者中
一先年冠船之節、
勅使御乗船六月十日唐御出帆、久米嶋御潮懸ニ而七月八日御当地御着船、諸規式等相済、十月廿六日御乗船被成候處、順風無之及御滞船、終冬深相成越年為被成事候、来年ハ四月末比芒種之時「節入」可相当、右節入以後順風次第唐御出帆、五月初比御当地御着船被成候ハヽ御規式早ク相済、九月より先順風次第御帰帆被成、時分柄能海上心遣も有之間敷候間、右之段
勅使江宜被申上、唐船頭并末々之唐人とも江者西銘筑登之親雲上より委曲申含、兼而右之心懸を以仕廻方差急せ、出帆之支不相成様可被申渡候、御当地御着船遅成候得者おのつから諸御規式相延、御帰帆も時分後相成事ニ而、無越年御帰朝被成候儀者専御当地御早着相懸事候間、前文之趣を以不差障様宜御挨拶申上、何れ早々御渡海御座候様可被取計候、
一接貢船之儀、前々冠船之節ハ、
勅使御乗船一同唐出帆有之候得共、御乗船より先達而致帰帆候得者諸事之御手当宜有之、戌冠船ニ者兼而被仰渡置、先達而帰着萬反都合能為有之由候間、来年も可成程御乗船より致早着候様可被取計候、右ニ付而者仕廻方不差急候得「而」者出帆之支可相成候条、末々迄仕舞方差急せ、聊出帆不差支様取計可被致候、
一唐人寝具之儀、眠床外ハ自分持渡候先例ニ而此節も眠床迄を調方被仰付置候處、若末々唐人共寝具調料銀御当地ニ而被下候筋相心得、蚊帳其外之品々不持渡候而ハ至而差支可申候間、右之趣兼而委細相達、聊心得違無之様可被取計候、
右之通被仰渡候間、勢頭・大夫江も申談、宜取計可被致旨、御差圖ニ
而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
〈丑秋走〉
接封大夫 渡唐役者中
一勅使御乗船并遊撃乗船、諸浦・諸嶋近ク御通船、又者御潮掛被成儀も候ハヽ、てらし火四ツ可相立候、諸浦・諸嶋在番人江も右之火請次、四ツ相立候様被仰渡置候、
一久米両間切江嶋見分ケ之為、芒種之節入三日後より
勅使御乗船御入津迄、毎夜篝火為焼候間、左様可相心得候、
一勅使御乗船并遊撃乗船、諸浦・諸嶋御潮懸之節、下程・野菜・肴差上候儀、各申談取計候様被仰渡置候間、應時宜可被取計候、
一同時所之在番人、
勅使御目見仕可然哉、是又應時宜取計、在番人江も可申渡候、右之通被仰渡候間、可被得其意候、此旨御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫
一康煕弐卯年冠船御渡来之節、唐御出帆以後風並相替、大嶋江御着岸被成候付、接「封」大夫より彼嶋御代官江申出、米・ふた・庭鳥・玉子・薪木等致御借用、御返弁ハ御当地より御くに元江為相調由、書留相見得候、来年ハ随分風並乗筋等尽吟味、直那覇川御着船有之候様可相働旨、別紙を以被仰渡候付而、右様之儀ハ有之間敷候得共、萬一風並ニ依り道之嶋江御潮懸、下程差上候品之外御入用品も有之候ハヽ、御代官江申出、申請を以御用相達、諸事御不自由無之様取計、左候而代銀ハ御当地より直ニ御くに元江相納候筋可被申談候、尤代銀首尾方一件、たう人江相知候而者御故障筋可致出来候間、随分隠蜜(密)可被取計候、此旨御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫
一来年冠船之儀、時節能御渡海有之筈ニも候得共、萬一洋中乗筋取違道之嶋抔江御潮懸被成、御当地江之風順有少、長ク被及滞船儀も候而者至極御差遣「支」相成事候条、御乗船々頭并遊撃乗船案内者、其外冠船より罷渡候船功之唐人共ニも申談、風並乗筋船文等見合随分順能乗届、直ニ那覇川御着船有之候様可被取計候、此旨御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫
一来年冠船御渡海之砌、依風並道之嶋江御潮懸被成儀も可有之哉、於其儀ハ無挨拶無之様、右嶋々江被仰渡置度旨、御当地諸嶋御潮懸之節
勅使御方毎日御入用野菜・肴之外、為下程差上候品・員数書取添、御くに元江被申上候處、弥其通可取計旨、嶋々江被仰渡置候段、せつ津とのより被仰渡置候間得其意、萬一道之嶋江御潮懸被成儀も候ハヽ、右之趣を以所役々衆申談、別紙之品・員数差上、其外萬反御失禮不相成様可被取計候、此旨御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫
覚
一ふた壱疋〈完〉 一庭鳥五ツ〈完〉
一生魚弐拾斤〈完〉 〈但、不有合候ハヽ玉子三拾甲ツヽ〉
一屋久貝拾甲〈完〉 一冬瓜五粒〈完〉
一焼酎五済ツヽ
右、両勅使様江
〈「但、測量官御渡海候ハヽ、品員数同断」〉
一庭鳥三ツ〈完〉
一生魚五斤〈完〉 〈但、不有合候ハヽ玉子弐拾甲完〉
「一塩魚五斤ツヽ」
一焼酎三済ツヽ
右、守備千総江
但、遊撃・都司・巡捕官渡海有之候ハヽ、品・員数同断、尤遊撃・都司・巡捕官江之下程品ハ、御くに元より之仰渡ニ相見得不申抔与所役々申候ハヽ、守備・千総同格之事ニ而、同様不差遣候而不叶段申出、無挨拶不相成様可被取計候、
月日
一来年
勅使御列渡之人数減少并評價物多不持渡、品物等も高直又者御当地ニ而不益之物不持渡様可被相働与之趣ハ、別紙を以被仰渡置通ニ而、おのつから其心得被致筈ニ者候得共、冠船御入料之儀、今以大分之御不足差見得候付而者、此涯御用銀取細候働無之候而不叶事候處、萬一御渡海之
勅使其取受無之、評價物無際限高直之品々等御持渡有之候而者、当時唐物御取締稠敷被仰渡、脇評價茂不相成時節至而御難渋可成立ハ案中ニ而甚御心配之御事候、然者御列渡之人数、評價品員数減少等之儀者
勅使御治定次第ニも可相懸御方江者、
勅使福州御下向之砌、水口中所迄御迎被相勤先格之由候得者、彼所より先江差越候而も何そ御制度向不差障候ハヽ、可成程遠所迄差越、於御一宿所御緩々奉得御對顔、随分御機嫌見計、封王使御招請之儀兼而より用意之上奉願事ニ者候得共、近年琉球飢饉打續候上、此以前異国船繁々来着、異人等逗留等ニ而其流墜及大分、旁以諸民一統及困窮、冠船用意銀今以相調不申候得共、封王使御招請之儀、無此上御国典ニ而御手当向ニ拘長々御延引も難被成、請封御願被仰上事候處、船主共評價物大分持渡候而者、御手当向礑与及相違、買取方御断申上外無之趣共細々御内意申上込、何れ之筋御取受能詮立候方ニ可被相働候、且又辰冠船之時、
勅使被組立置候續琉球国志略之内志餘之篇ニ僕・従人等者多列渡ニ不及、従客之人も武官者相減、筆墨ニ長たる者より可列渡、且船主共交易品高も壱艘向ニ千百石「不」可過、且御帰帆不差急候而者琉球国之費不少次第等委曲被記置候、此書式備
皇覧被置、既ニ置目ニ相成居候賦ニ而、兼而
勅使御覧も為被成筈候得共、人数減少評價物一件御内意向之筋ニ可相成候間、右書持渡、是又御對顔之折御機嫌見計、備御覧候様可被取計旨御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫
一前々冠船之節、
両勅使其外役々江御迎大夫より為御進物品物差上、依時者銀子差上置候例も有之、「戌」冠船之節者御進物差上度阿口通事申談、
勅使堂官相伺させ候處、御進物差上候而も御取納無御座候間、取止候方可宜段有之、尤餘之官人衆江之御進物ハ何様可有之哉与申談候處、
勅使江差上不申候付而ハ官人方江も取止可相済段、阿口通事より承、彼是其通取止、御当地御渡来之上、自分調を以為差上由、書留相見得候得共、於唐御進物御受納不被成儀者、
勅使思召次第之事ニ而、此節御無沙汰ハ相成間敷候間、品員数等致吟味、勢頭・大夫得差圖、阿口通事江も申談候上、大宿役者より品物・銀子相請取可被差上候、康煕五拾八亥年冠船之節差上置候員数ハ、別而分過相見「得」候間、乾隆弐拾壱子年差上置候品員数別紙之通見合を以可被差上候、都合「司」江も古存留進物差遣置候間、是又右同断可被取計旨、御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫
覚
「一焼酎弐拾済」 「一拾済入徳利弐ツ」
一かつう節四拾ツ 一唐紙百六拾枚
一三升入屋貫弐ツ 一錦手女茶わん弐枚
一右入杉箱弐ツ 一五本物金扇子拾六本
一四本入桐扇子箱四ツ 一杉原紙百六拾枚
一醤油樽弐丁
右、両勅使様江進物
一七本物扇子拾六本 一四本入桐扇子箱四ツ
一弐升入屋貫弐ツ 一焼酎六沸
一三沸入徳利弐ツ 一赤嶋「芭」蕉布四反
一かつう節弐拾ツ 一尺幾世留拾対
右、遊撃・都司御両人江進物
一七本物扇子拾六本 一弐本入桐扇子箱八ツ
一唐紙八拾枚 一百田紙四束
一尺幾世留拾弐対
右、両勅使様総官四人江進物
一七本物扇子弐拾四本 一弐本入桐扇子箱拾弐ツ
一百田紙六束 一杉原紙弐百四拾枚
一尺幾世留拾八対
右、両勅使様巡捕弐人・書弁弐人・門使弐人、合六人江進物
右、接封大夫より
一七本物扇子八本 一弐本入桐扇子箱四ツ
一練蕉布弐反 一弐升入屋貫壱ツ
一尺幾世留五対 一かつう節拾ツ
一焼酎三沸 一三沸入徳利壱ツ
右、古存留より都司江進物
月日
一前々冠船之節、
勅使御滞在中
先皇帝様
先皇后様御月忌御差当候節者、於天使館致吹鞁候儀為被召留由候處、冠船御入津之当日右御月忌御当候ハヽ、路次楽奏し候儀何様有之可然哉、久米村方江吟味被仰付候處、
咸豊皇帝様御即位之紅詔布政司衙門より捧下候節、
道光皇帝様御忌内ニ而候處、路次楽被仰付、且申冠船之節、
乾隆皇帝様国喪内ニ而御規式之楽者被召留、御入津之当日、又者諭祭・冊封之時、路次楽ハ御先例通被仰付「置」候、冠船御入津之時、路次楽奏し候儀、
天朝御尊恭向ニ相懸、格別成御事候得者御入津之当日御月忌御当候共、先例通奏楽被仰付可宜候得共、此節於唐習受させ候上、何分被仰付候方申出有之候間、渡唐之上功者之方より可習受候、
一冠船之時、儀注之二字者
咸豊皇帝様御名同音ニ而、於唐ハ禮節之二字ニ改方被仰付置事候得者、琉球之儀も禮節ニ相直可宜段、阿口通事足謝爺申越有之候間、弥相直候様被仰付度、先達而考方申出、其通被仰付置候處、当時
同治皇帝様御代ニ而御先例通儀注相直候而も可相済哉、又者当分通禮節与書候方可宜哉之旨、久米村方江吟味被仰渡候処、最早先御代相成候付而者御先例通儀注之二字ニ相直候方ニも可有之候得共、此節於唐習受被仰付候上、何分被仰付可宜段申出有之候間、渡唐之上右謝爺其外功者之方より可習受候、
一天使飯「館」御樓眠床懸香之儀、前々冠船之節者御餝無之、戌冠船之節接封大夫在唐之砌、阿口通事より懸香御餝無之候而も相応不致段申出、右大夫自分買入を以持渡御用相弁由候得者、前々冠船之節々「ハ」懸香御餝無之候付而ハ、右例通ニ而も可相済哉、又者戌年之通致御餝候儀可宜哉、彼是於唐阿口通事其外功者之方より習受、弥戌年之例通懸香致御餝可宜筋ニ候ハヽ、大宿役者江買渡方可被申付候、
右之通習受、便宜次第被申越候、此段可申渡旨御差圖ニ而候、以上、
月日 勝連親雲上 濱比嘉親方
接封大夫
一冠船御入津儀注之儀、
勅使より請下候先例候間、福州御下着被成候ハヽ早速申上請下、便宜次第早々可差越候、右ニ付先例儀注写壱さつ為見合考方より可相渡候間、先例相替不審之所有之候ハヽ是又習受、聊間違之儀共無之様可被取計候、此旨御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫
一冠船御渡来之節被召列候人数相減シ、評價物も多不持渡様可被相働与之趣ハ、別段被仰渡置通ニ候、然者辰冠船之時、正使御親父相便右一件御内意申上、布政司并海防官江も呈を以願為申上事候得共、其時海賦「賊」盛有之、冠船御召列之武官并兵之儀も調部方入念候様、
詔意之趣御座候由ニ而、申冠船遊撃之場ニ副将、都司之場ニ参将被仰付、其外千総壱人・把総三人重被仰付、兵も先例より被召重候付、兵外之人数者減少被仰付度旨、
両勅使江願上候處、兵被召減候上、吹鞁・諸細工・従内・水主よりも引方被仰付候得共、惣人数五百人餘ニ及、評價物も過分被持渡、買取方一涯為及難渋由、戌冠船ニも右一件稟取仕立、撫院・布政司・海防官江願立、
勅使江も御内意申上候付、渡来人数「被召減」、且評價物も船主持渡候太荷者、琉球近年災殃飢饉等打續及困窮候間、御定数よりも格別相減、惣而太荷代銀弐百貫目ニ不過様、且太荷品員数等委細可書出、左候ハヽ官人差遣調部方可被仰付旨、総撫両院御差圖之上、海防官ニ而取締仕候様、且船主荷物之儀、太荷可持渡高直之品持渡候儀御禁止被仰渡、萬一抜荷持渡致押賣、難渋仕候者者重科可被仰付段、度々告示を以厳敷御取締被仰渡、積荷之砌ハ構之官人衆御船江御乗付、荷物改方之儀者於戸部之前、斤数懸〆を以積入為被仰付由候處、積物以後蜜(密)々致抜積、評價物千貫目餘之品物被持渡、右買入代銀及不足、さん物方より拝借等を以兎哉角御取償為成事候、此節之儀跡々ニ替不意非常之御物入、又ハ凶歳等段々打續、旁以御蔵方を始国中一統極々及難渋、御手当向調兼候得共、格別成御封爵長々御延引も難被遊、去秋請封御願被仰上置御事候条、右之趣厚得心被致、何れも御列渡人、又ハ評價物相減候方精々可被取計、当時唐浦々海賊致蜂起居候由候得者、若哉辰冠船之例を以兵丁被召重儀も候ハヽ、吹鞁・諸細工・従内・水主等ハ御見合を以被召減度、屹与御内意可被申上候、尤惣人数御賦方ハ福州督撫両院御構之由候間、是又手寄を求、成丈相細候様可被相働候、
附、戌冠船御帰帆之上、総督より冠船両艘之評價物御定数外、琉球江持渡商賣為有之哉、有無書出候様諭帖被下候付、王舅・勢頭・大夫差圖之上、御定数外商賣物不持渡趣稟相調為差出段、存留申越之書留有之事ニ而、戌年之成行有筋申上候而者可差障候条、前々冠船之時評價物大分持渡候儀御尋共候ハヽ、御定数外抜荷持渡、於琉球買取方為及難渋儀も有之趣を以、御都合能御返答可被申上候、
一冠船御入津被成候ハヽ、唐人末々迄早速より飯料被下候間、全廩給・半廩給人数高、
勅使江申上御書付申請、入津之上可被差出候、辰冠船ニも右通被仰渡
勅使江度々為申上由候得共、御障無御座由ニ而御渡無之、御入津以後被御渡、戌冠船ニも右同断被仰渡、阿口通事を以
勅使相公致相談候處、清冊之儀於御当地、
上様江差上候先例与申、是又御入津以後御渡有之、両度共至而御差支為相成事候、然者辰冠船ニ者右通御障無御座由ニ而不被成下段、書留相見得、且子冠船之節も勢頭・大夫より右御書付申受度、
勅使御方江申上候処、先冠船之時何役者全廩給、何役者半廩給与差分之古帳持登居候ハヽ、可被差出段被仰下候處、其時右古帳不持渡人数御取〆難被成候付、於琉球右古帳御見合を以御書付御渡可被成由、御返答為有之段、是又帳留相見得候付而者、必御当地ニ而被御渡候先例ニ而者有之間敷、尤清冊者御渡来之上御渡被成事候ハヽ、写ニ而もいつれ人数帳兼而申請無之候而不叶、右差分之古帳写相渡候間、
勅使福州御下着被成候ハヽ右之趣申上、古帳写も掛御目、人数帳申受持渡、壱通ハ接貢船よりも可被差越候、若福州ニ而不相調儀も候ハヽ於船中申受、御入津早速可被差出候、尤右之段末々唐人共江相聞候而者我増全廩給被召加候様ニ与御内意申込候儀も可有之、左候得者口月粮相成筈之者も全半廩給罷成、却而御不勝手可相成候間、右様之儀共無之様、是又気を付可被取計候、
一子冠船ニ者節御持渡龍亭・彩亭兼而之御手当より相重、俄ニ調方差支候付、申辰戌冠船之節者前以其手当有之、節御持渡為相成事候得共、差支無之候、来年も右様先例より相重候品有之候ハヽ、餝様調方等委承合便宜も候ハヽ可被申越候、
一勅使御乗船并遊撃乗船之儀、福州官人方より見合被申付候付、船持之者共態々古船取仕出、御当地ニ而作事替させ可申与之所巧を以、官人方江段々致遣銀、御乗船願出候由、申年冠船之節ハ新作事之船より御渡海有之候様可被相働旨被仰付越候付、於北京勢頭・大夫より呈文相調、梁上國頼上、
両勅使江申上、福州ニ而も接封大夫より総督・撫院江訴申上、海防官船御見分之砌、接封大夫ニも見分被仰渡、古存留・船頭・佐事・水主召列見分之上被仰付置候段、接封大夫より問合有之候處、以之外遊撃乗船之儀、艍無之船ニ而帰帆之砌、冬深難海乗渡候儀、
勅使御疑相付候付、御当地船御借船等之筋ニも可被仰付哉与、及御心配候處、大修補仕候上ハ少も念遣無之段、證文等差上相済候、辰冠船之節も新作事之船より御渡海有之候様可相働旨、御達相成候付、於北京勢頭・大夫より稟帖相調、阿口通事差遣、
両勅使江申上、福州ニ而も接封大夫より兼而御船頭・二号船々頭・作(佐)事・水主共召列見分仕、新作事弐艘相調部、諸衙門江願申上、願通相済為申事候得共、海防官御代合ニ付、跡御役より頭号船者被相替、船作事「修補」等之節ハ船頭・佐事・水主江も差越見分仕候處、武官御詰合ニ而堅固ニ被申付、右船より御渡海之上猶又両艘共御当地ニ而修補仕、御乗帰相成、去戌年ニも右同断新船より御渡海有之候様可相働旨、被仰付越候付、接封大夫より古存留并頭号船・二号船々頭・佐事・水主召列、御乗船可相成船兼而致見分、稟取仕立船々寄書取添、海防官江願申上候處、欽差御乗船之儀、禮部より及言上総督・撫院江調部被仰付、御決定候得者、大夫より相調部願出候儀、例違之由ニ而被差帰、段々手便を求ミ子細承合候處、古船所持之者より向々江掛号銀差遣、海防官江御内意申上候付、古船之所ハ押隠、欽差御乗船相應可仕段、海防官より布政司江為被申上由承候付、右船者古船ニ而遠海致往還候儀、別而無心元候間御差除、餘之商船より御見合被仰付、御船御調部之砌者琉人江も見分被仰付度、稟を以布政司衙門江願立候付、兼而見付置候船江被仰付、船修補も被入御念、海防官江被仰渡、船主御差引ニ而堅固ニ修補被仰付、右船より御渡海之上是又両艘共於御当地致修補、御乗帰為相成事候、来年右様古船又者艍無之船より御渡海、依時佐(作)事替等之筋申出可及難渋儀も難計候、封王使御招請之儀、大分之御物入、殊ニ国中繁多之砌、御船作事等有之候而者別而差支可申候条、
勅使御乗船・遊撃乗船共新造之船より御賦付被仰付候様、御内意相働、御船見分之節ハ能々入念、左候而御帰帆之節修補等不及御乗船可相成段、船主證文請取、於爰元少も難渋之儀共無之様、精々可被相働候、
右之通、去秋進貢御使者江も被仰渡置候間、渡唐之上諸事申談、宜被致調達候、此旨御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
〈丑秋走〉
接封大夫 渡唐役者中
一冠船之節、
勅使御召列之人数、康煕弐卯年ニ者三百七拾九人、同弐拾弐亥年四百五拾三人、同五拾八亥年六百四拾九人、乾隆弐拾壱子年四百五拾九人、嘉慶五申年五百四人、同拾三辰年五百拾九人、道光拾八戌年四百拾七人御列渡、段々多少有之事候、若大勢御召列有之候而者諸事難調、別而差支可相成候間、随分減少ニ而被召列候様、
勅使并御構之官人衆江御内意申上、何れ之筋四百人ニ不過様可被相働候、
一康煕五拾八亥年冠船之節者、測量官御両人御渡来、嘉慶拾三辰年ニ者副将・参将・弾圧官之外千総一人・把総三人相重御渡来有之、兼而用意も無之候處、亥年ニ者漂着唐人送届候楷船先達而帰帆、右之次第相知候付、御旅飯「館」、彼是夜白之働を以相調、辰年ニ者兼而不相知、別而差支為申事候、右様之御人躰御渡来ハ不圖之事ニ而、来寅年ニも御手当ハ無之候間、若官人衆相重御渡来被成儀も候ハヽ、兼而不相知候而者至極差支、御失禮ニも相成事候間、随分承合便宜も候ハヽ、先達而可被申越候、
一進貢・接貢船より国用之品ハ買求用事相達候処、評價物大分被持渡候而者至極可及難渋候間、部銀相込四百貫目之分ニ不過様、随分可被相働候、
一評價物之儀、右銀高之分被持渡候而も高直又者不益之品買取候儀ハ甚迷惑相成事候条、別冊勝手相成候品々不「被」持渡候様可被相働候、尤右之段ハ下々之者共江も委ク申渡置、自然唐人より問尋有之候ハヽ、別冊之品々持渡可宜段申達候様、堅可被申渡候、
一封王使生国・姓名・官位等御国元江可及御届候間、委承合、便宜有之候ハヽ先達而可被申越候、
右之趣具ニ被得其意、宜致調達候、御当地之儀、頃年段々御物入打續至而御当迫之砌、金銀諸物古来未聞之高料成立、此節冠船御入料銀御先例之三四増倍程相重、至而及難渋候付、去秋勢頭・大夫江も分ケ而申渡置候間、渡唐之上萬反申談、随分詮立候様可被取計候也、
三司官
月日
接封大夫
〈丑秋走〉
渡唐役者中
計開
一阿膠 一砂仁
一児茶 一黄茋
一藿香 一連翹
一使君子 一猪苓
一洋青 一兕角
一胭脂 一蘇木
一滑石
右品之儀、持渡候而可然候
一石黄 一乳香
一肉豆蒄 一没薬
一木瓜 一白姜蚕
一酸棗仁 一良姜
一尺桂 一山𦳐
一血竭 一碗薬
一西洋棉紗 一棉花
一山東繭綢 一桐板経緯〈苧絲〉
一桐板纃 一阿南纃
一海南葛 一白邊紙
一棉袋紙 一炮早紙
一官香 一短香
一清明茶 一春水
一白糖 一茶油
一傘
右国中当用ニ而候間、持渡候様
一大黄 一甘草
一土茯苓 一蒼朮
一大茴香 一大腹皮
一杜仲 一白朮
右品之儀、至而僅之遣高ニ而候間可成程不持渡様
一玳瑁 一玳瑁脚
一玳瑁腹 一玳瑁裙
一銀硃 一紅花
一長条洋山面 一統洋山
一充艾片 一犀角
一沈香 一虫絲
一水銀 一象牙
一硼砂 一木香
一本人参 一條人参
一高麗人参 一厚粉
一肉桂 一鹿葺
一麝香 一燕窩
一哈喇呢 一嗶吱
一呢 一羽毛
一西洋各色布類
右品之儀、及銀高候間不持渡様
一玳瑁器具玩物 一沈香玩物
一犀角器皿玩物
一金木石磁奇巧人物玩物各等器
右無用之品ニ而候間、一切不持渡様
月日
一来年冠船御渡来ニ付而者大分之御入料ニ而、御手当向及御不足、甚以心配「之」御事候、右ニ付而者第一評價物相減不申候而不叶、部銀相込四百貫目不過、品柄も高直又者不益之物不持渡様可相働旨、委細別紙を以被仰渡置通ニ候、然共「者」申冠船ニ者
勅使御乗船々頭漢那親雲上江内々被仰含越、評價物大荷勝持渡させ、且標官与申唐人御当地江列渡候ハヽ、御用之御為ニも可相成与相考、彼父子渡海為致度申進候得共、仕廻料差支候由ニ而相断候付、自分銀借相渡、父子共正使内ニ而為致渡海候故、評價物加下又者六ケ敷儀共標官を以、
「勅使江御内意申上させ、段々御為筋為相成由、辰冠船ニも評價物多不持渡様可相働旨、渡唐人数之内御見合内々被仰含越候得共、其儀不相調、折節寅秋走大唐船唐江越年ニ而脇筆者仲里筑登之親雲上ニ者正使御方林氏・丁氏兼而心安致取合、右両人手寄を以」
勅使江も参謁之上、評價物減方御内意申上、弥清冊を以御締方被仰渡置候處、冠船両艘多人数乗組候付御締向届兼、千貫目程之品物持渡、御手銀高ニ而者難買取、猶又仲里江訳ケ而被仰渡、右之林氏・丁氏両人相便極蜜(密)取計を以、評價物高料之品ハ都而差返、部銀も加四加三及筈候處、是又相働加二相下ケ最初千貫め程之評價物過半相減為申由、戌冠船ニも兼而係人渡唐被仰付、評價物太荷勝持渡、高直之所「品」不持渡方ニ商人共江細々頼入、請合之拠書等請取来、猶又御迎大夫江も被仰含越、於唐相働候付官所よりも御取締被仰付、評價物太荷勝持渡、高直之品持渡候儀御禁止為被仰付由、然處多人数之御取締向届兼候哉、既ニ御渡来之上者千貫め餘之品物相及、右買入代銀及不足、さん物方より拝借等を以兎哉角御取饋為相成事候、此節之儀不意非常之御物入凶歳等打續、旁以御蔵方を始国中一統極々及難渋候上、「さん物方も金子御格護無之事ニ而、差当御手当銀及相違候而も右様御取饋方難被成、至而及御差支候儀案中ニ而、何れ」評價物相減不申者不叶、其方共江評價方御用係被仰付候間、渡唐候ハヽ勢頭・大夫・接封大夫・役者中江差圖之上随分相働、且標官又者林氏・丁氏様成唐人共丁寧ニ取合、
勅使御方抔江相付、渡海為致、御用向彼是御為筋相成候様可被取計候、左候而働之程合ニ應し其御見合被仰付筈候、此旨被達
上聞被仰渡候条、右之件得与汲受、此涯尽心力可被相働旨、御差圖ニ而候、以上、
月日
〈評價方中取〉
玉那覇筑登之親雲上
当間筑登之親雲上
右之通被仰渡候間、萬反致差圖、尤唐人慥成人躰各ニも承合、
勅使内ニ而渡海させ御当地御為筋相成候様可被取計候、此旨御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
〈丑秋走〉
接封大夫 渡唐役者中
一渡唐之面々、唐人より不致借銭様ニ与之儀者、跡々より堅御禁止被仰渡置、猶又去戌冠船前分ケ而被仰渡趣有之候付而者、聊緩せ之儀者有之間敷候得共、先年冠船之節唐人より致借銀候者罷在、段々及御糺方ニ御咎め被仰付置候、来年右躰之者とも有之、唐人共催促方難渋之儀共申立候而者、其身之罪科者不申及、御難題ニも相成事候条、借銀有之方ハ急度致返済、借状取返置候様可申渡旨、去辰年以来渡唐役者江被仰渡置候得共、猶又稠敷相糺シ、若致借銀居候者も候ハヽ此節銀致返済、借状取返させ、左候而向後兼而被仰渡置趣堅相守、少迚も唐人より致借間敷候、乍此上借銀取隠置唐人渡海之上催促於有之ハ、屹与可及御沙汰候条、右之趣渡唐末々之者迄堅可被申渡候、尤役者より右之首尾方取扱候筋唐人江相聞候而者却而難渋之儀共可致出来候間、渡唐之上勢頭・大夫申談、随分不事立様可被取計候、此旨御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫 渡唐役者中
一海鼠・蚫之儀、当時御くに元高直之上才覚も六ケ敷有之、来年冠船之節評價用意申請御取止相成候處、此申渡唐船よりいりく・蚫類年々大分為持渡由候得者、来年唐人共右品類ニ品替之考を以評價物大分可持渡茂難計事候条、渡唐之上唐人共江時宜都合次第いりく・蚫之儀、国産ハ纔計ニ而、多分宝嶋持渡「来」候を買取候處、近年出所高直之由ニ而廣不持渡、求方至而六ケ敷有之、唐人江馳走用意迄を漸相調、評價用者昆布・干藻・鱶鰭等手当有之趣を以申聞、唐人共評價品多不持渡様、精々可被相働候、
一戌冠船之節、評價用之昆布百斤ニ蕃銭六枚ニ而相拂置候、其比ハ於唐昆布百斤蕃銭拾五六枚以上ニも拂方相成候付、評價用も右代成ニ而買取為申筈候得共、当時於唐昆布代百斤ニ蕃銭五六枚相立候由候得者、評價用如何程下直ニ可申懸も難計事ニ而、昆布地代及高料候次第兼而唐人共江相噺落着させ置不中ハ、至其期ニ代立一件致難渋、御損成ニも可相及候間、是又前条同断及高直候趣を以、折次第可被相達候、
一御当地唐品及高料候次第唐人江相知候而ハ、評價物直組六ケ敷可及難渋候間、於唐一切右之致取沙汰間敷、尤高料相成候次第響合候而唐人相尋候儀も候ハヽ、成程一往者相應之直成為相拂事候得共、国中ニ而者禿ハ少、多分ハ宝嶋人共買取、日本国江持渡致交易事候處、近年彼之国江西洋諸国之船々渡着、唐物類手廣致交易、利潤無之由ニ而買取不申、夫故当夏進貢船江持渡之品々不買「賣」捌候上、下直ニ相成候段、致返答候様可被相心得候、
一此節渡唐末々之者共若哉唐人名前を借、自分之品物評價方江賣上候所巧取企候者も可致出来哉、且又接貢船帰帆船間唐人江賣渡候歟、又者唐人之頼を承、諸品物接貢船より積来者も可有之哉、且唐人江銀子品物等致借渡、於御当地返弁請取候働取企候者も可致出来哉、縦令末々之者ニ而も強右様之心底ハ有之間敷候得共、萬一一己之利欲ニ迷ひ不正之企いたし評價物多持渡候而者、当御時節至而御差支可相成「ハ」案中ニ而、別而御念遣之事候条堅致取締、自然右躰取企候旅「族」も候ハヽ、罪科不軽段も頭ニ可被申聞置事、
右者来年冠船御渡来之節、評價物多持渡直段及高料候歟、又者此方より賣渡候品々直段引下、且渡唐球「琉」人共不正筋之儀共於有之ハ、甚御難題可成立事候条、此節渡唐末々ニ至り具ニ申聞、各も萬反気を付差引可被致候、此旨御差圖ニ而候、以上、
附
一本文数ケ条之趣ハ、従之者共并五主・船方中人別堅申聞、仰渡通可相守段請取、首尾可被申出候、
一渡唐之上者在唐人数江も委細可被申渡候、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫 渡唐役者中
一来年冠船御渡来付、評價物多不持渡様可被相働与之趣ハ、先達而被仰渡置候得共、戌冠船之節渡来為致唐人、評價之様子能存居候者共罷在由候付、評價物押々過分持渡候儀も可有之哉、当時唐物御取締稠敷被仰渡候付、御免品外者容易賣捌方不罷成、其上御時節柄御用意銀高茂調兼、至而御難渋之御事ニ而商人共兼而品柄等手組不致内、於御当地交易振之向合等細々申諭、評價銀高相細、品柄等も其見合を以持渡候様無之候而不叶、去秋評價方係人之内「渡」唐付、右御用係被仰付、於唐評價物相減候一件、商人共細々頼入、請合之拠書等請取来候得共、商人之慣し致反覆候も難計、此節も評價中取玉那覇筑登之親雲上・当間筑登之親雲上致渡唐候付、評價一件之御用兼務被仰付、別紙唐人等江應答心得書取添被仰渡候間、勢頭・大夫相合、精々加下知随分詮立候様可被取計候、尤時宜次第冠船御手当向之様子相尋候儀も可有之、其場返答振交々「相成候而者右應答之趣意不実之形ニ被取受」却而故障筋可致出来不実之形被取受候間、何歟御手当之様子尋有之候ハヽ、別紙之趣を以致返答、又者都合次第不屹与立様噺成等ニ而細々申諭候様、役者以下五主・船方・従之者共人別相達、渡唐之上在唐人数江も委細「可被」申渡候、此旨御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫 渡唐役者中
唐人江應答之心得
一琉球之儀不自由之小国、金銀一切出産無之、宝嶋人日本国より求来候を買取候處、近年彼之国江西洋諸国之船々渡着致交易、金銀求方前々之様不相達由ニ而、進貢・接貢料銀も乍漸相求候振合故、冠船料銀于今全不相調、且昆布・海鼠・蚫等之品々国産ハ纔計ニ而、多分宝嶋人持渡候を買取候処、是又近来出所高直之由ニ而廣不持来、右通之次第故渡唐之面々金子「一切」不持渡、昆布・蚫「等」之品々も以前より持渡高引入居候次第ニ而、評價物大分持渡候而者悉買取候儀不相叶、持戻候外無之、礑与迷惑可致候間、其心得を以仕廻方相細、高代之品柄等不持渡方可然与之趣可申諭候、
一唐人より此節冠船之儀、前々之例より者格別年数相延候付而ハ夫丈廻安、諸手当向相届為申筈候處、前条通之申分落着難成抔与申事候ハヽ、此以前異国船繁々来着、夷人も交々逗留段々不意非常之入費及大分、且近年風旱飢饉等打續、旁之所より国中一統及困窮、諸手当向思様不相調段可相答候、
一右通国中困窮付而者封王使御渡来被成候儀却而大粧可致与申候ハヽ、封王使申請之儀、無此上大典、殊ニ
勅使御渡海王爵被致頂戴候ハヽ、蒙
御徳化おのつから国運到来豊饒可相成与上下萬民深願仕居候段、返答可致候、
月日
一冠船御渡来之節、罷渡候阿口通事之儀、謝衢并馮爺事人躰宜、此両人渡来有之候ハヽ御用弁宜、且阿口通事筆者王康(秉)謙も人躰相應有之、
勅使御側用ニ而罷渡候ハヽ、評價一件其外御内意向等格別御為筋可相成候間、右三人致渡来候様被仰付度旨、久米村方并御方被申出趣遂披露、其通被仰付候条、渡唐之上勢頭・大夫江も被申談、面々申達
勅使福州御下着被成候ハヽ、屹与御内意申上いつれも右者共被列渡、諸御用向宜相弁候様可被取計候、此旨御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫
一冠船御滞留中、傾城共引拂被仰付候段ハ別紙を以被仰渡置通ニ候、然者戌冠船之時、布政司より御取締被仰渡候御書付写ニ、
勅使御召列人数随分国法を守、身分を安し於琉球少も難渋仕間敷、若酒色を好、賭博・喧𠵅・口論又者傾城慰等いたし候者者無調法之品「應し」罪科可被仰付与之趣相見得、既
勅使御渡海之上、傾城共館屋近邊徘徊、兵役人等令蠱惑候段被聞召、厳密ニ相改追返候様ニ与、那覇官江被仰渡、末々唐人等江も段々御取締被仰付、右外琉球国志略等ニ傾城一件御取締被仰渡置御事も候得共「者」、兎角来年も右例を以おのつから御取締可被仰付賦候得共、前々冠船之節者、唐人共傾城附合させ、至此節被召留殊ニ此跡渡唐之者より傾城罷渡「在」候段、相噺置候も有之由候得者、当分傾城不罷居段相達候ハヽ、異国人ニ拘取繕候形ニ唐人共相察、来年渡唐之上、女人江差障候も難計、至極御念遣之御事候条、於唐勢頭・大夫江も申談、
勅使福州御下着被成候ハヽ、時宜御都合次第別紙被仰渡置候趣を以、傾城不罷居次第通上、末々唐人等心得違無之様御取計被下度御内意申上、猶又官所江も手寄を求、稠敷御取締被仰渡候方相働、唐人共渡来之上律儀有之候様可被取計候、此旨御差圖ニ而候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫
一御当地傾城之儀、異国人等ニ對し不罷居「段」御達相成候付、冠船御渡来之節、唐人共傾城附合させ候而者、異人等江響合相成、又者冠船御滞留中異国船来着、異人等目ニ懸候ハヽ、至而御故障筋出来、是以御国難之端不容易儀与深被及御吟味、冠船御滞留中ハ傾城引拂被仰付候間、此節渡唐之面々唐人共江、御当地此以前異国船繁々来着、異人等逗留住家等作立永久之姿相見得候付、傾城共致驚怖方々江迯去、且飢饉打續諸民一統及難儀、傾城附合候も無之、右者共素立方不罷成、至当分ハ不罷居段、折次第相達、尤此中渡唐末々之者より傾城罷在候段相噺置候茂可有之、右之趣唐人より申掛候ハヽ、虚説之成ニ相達、前文通当文「分」不罷居段幾重ニも申張、令落着候様可被取計候、有間敷事ニ者候得共、萬一傾城罷在候段、実形唐人江相噺候而者、来年渡来之者上傾城在所相尋候迚致方々、至而御故障筋可致出来ハ案中ニ而、甚御念遣之御事候条、件之趣具ニ得其意、此涯傾城一件、唐人共江申触様不行届候ハヽ、御難題ニも相懸候訳合厚心肝銘し、前文之趣を以何れニ茂唐人令落着候様、五主・船方・従之者迄人別堅申渡、其首尾可被申出候、此旨御差圖ニ而候、以上、
附、渡唐之上者在唐人躰「数」江も本文之趣、細蜜(密)可申渡候、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫 渡唐役者中
〈「本文、九月十日馬艦船那覇致入津、勅答茂閏五月十六日相下候段、承候事」〉
一去秋進貢便より請封御願被仰上、弥御願通相済候段、早々御承知被成候得共、御手当彼是手都合有之候間、右一件早々申越候方可被取計段ハ、勢頭・大夫渡唐前被仰渡置候付、唐着早速より段々相働候得共、帰唐船出帆涯迄
勅答不相下、漂着馬艦船出帆相扣させ
勅使相下次第帰帆可申付段、勢頭・大夫申越有之候處、今以帰着無之、至而御持(待カ)兼被成候、布政司より接封大夫差渡方を始、諸手当向等都而先例通可取計旨、為被仰渡由候得者、御願通相済候儀おのつから之事候得共、
勅答御承知被成候得共「者」、猶以御安心可有御座候間、漂着馬艦船于今致滞船居候ハヽ、来春日和見合早々帰帆させ候様可被取計候、依御差圖此段申達候、以上、
月日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫
言上写
一今月七日、当秋渡唐人数江御茶飯可被下事、
以上
〈丑〉八月朔日
右之通言上相済候間、此段致通達候、以上、
〈御評定所筆者〉
〈丑〉八月朔日 瀬名波里之子親雲上 與儀筑登之親雲上
真栄里親雲上
八月七日
右ニ付、今日五ツ前登 城、例之通相勤候事、
覚
一冠船御入津之時、従
上様於通堂御迎之手本差上候得者
勅使様御下船被遊候御先例候間、
勅使様より之新儀注いつれニも福州ニ而乞下ケ、先達而相届候様、精々可被相働候、
一全半廩給、口月粮差分を以入津早速より飯料被相渡筈候間、右差分清冊是又前条同断可被相働候、
一萬寿之儀、冠船之時於御当地被祝上置候御先例候間、能々聞合を以可被申越事、
一冠船付、表御方より被仰渡条々、其外ニも右一件ニ付可習受儀共ハ、諸事気を付習受可被申越事、
一阿口通事共江従
上様被成下候御返答「礼」物之儀、大宿方何歟不正之儀共有之由不宜候間、渡方之砌者各を始、新・古存留役者中ニも出張拝受可被致候、
右条々萬反気を付被罷居、尤可申越儀共有之候ハヽ、便宜次第早々可被申越候、以上、
月日 冨山通事親雲上 国場親雲上
天願親方
〈御迎大夫〉
真栄里親雲上
私渡唐帰帆積間之儀、戌年之例通渡唐之時進貢大夫同様、帰帆之時進貢大夫之三分壱被成下候、尤割方之儀渡唐「者」才府以下五主・船方迄、帰帆ハ勢頭・大夫より五主・船方中迄割府為致由、承候事、
附、儀者積間も進貢大夫儀者同様ニ而候由、承候事、
八月七日
一願出次第親雲上以御使、御餞被成下候間、此段致通達候、以上、
附、三日前可被申出候、
聞得大君御殿
八月七日
真栄里親雲上
一御願出次第親雲上御使を以、御餞被成下候間、三日前御申出可被成候、此段致御通達候、以上、
附、当日御注進次第、
〈佐敷御殿〉
田場筑登之親雲上
八月七日
濱比嘉里之子親雲上
真栄里親雲上
八月十九日
来ル廿二日、御餞被成下度旨、御書院并御近習
聞得大君御殿参上相伺候処、弥其通被仰付候段、「被仰聞候付」当日御注進なく八ツ時分御下被成度、是又申上候事、
八月廿二日
一今日従
上様、御書院当御使、従
聞得大君加那志様
佐敷按司加那志様、親雲上御使を以御餞被成下候事、
拝領物左之通
一白麻五束 一尺幾せる拾五対
一国分多葉粉六拾把 一練蕉布三反
右、従
上様
一白麻弐束〈完〉 一国分多葉粉弐拾把ツヽ
右、従
聞得大君御殿
佐敷御殿
八月廿三日
昨日、従
上様、御書院当、従
聞得大君加那志様
佐敷按司加那志様、親雲上御使を以御餞被成下候、美拝為可申上、今日登城、御書院并御近習御取次美拝申上、左候而
聞得大君御殿参上、大親御取次美拝申上、罷在「下」候事、
八月十八日
一乗船之儀、被申出候通、来ル廿八日相済候間、此段致問合候、以上、
澤岻親雲上
八月十八日
渡唐役者中
今般唐江被差上候御状、明日於上之天后宮相渡候間、同日四ツ時分罷出可被請取候、此段致御通達候、以上、
冨山通事親雲上
八月廿六日
国場親雲上
真栄里親雲上
同廿七日
一右ニ付、今日四ツ時分、上之天后宮江罷出、左之通請「取」候事、
一為恭迎欽差之咨壱通
右、勅使様江差上用
一為恭迎綸恩欽差之咨壱通
右、布政司江収差上用
一咨之空道
一咨皮空道
八月廿七日
今日五ツ時分、登 城
上様江御書院当、
佐敷按司加那志様江御近習御取次、御暇乞申上、
聞得大君御殿「参上」、大親御取次を以右同断申上候事、
一勅使御入津儀注写壱さつ
一先冠船之時人名清冊写壱さつ
右、於唐見合用とシテ久米村考方、筆者嘉手川筑登之より請取候事、一前々冠船御渡来之節ハ、御当地船方より頭号船江六人、二号船江四人乗合被仰付、御帰帆之節々ハ頭号船々頭申出之趣有之、唐御船頭・水主共船功之者ニ而無之訳を以、頭号船ハ船方拾四人相重、都合弐拾人乗付被仰付候處、辰冠船御帰帆之時ハ船間関合候付、佐事并従之内より都合六人差卸、戌冠船ニ者
副勅使二号船より御帰帆被成ニ付、是又当頭号船同様弐拾人乗付置候、当時船方共不進相成、定式之船方さへ持「揃」兼候躰候得者、来年冠船御帰帆之節重乗付候儀も候而者、船柄之者揃兼可申哉与、御念遣之御事候間、右之趣頭二号船両艘船頭共江具ニ申聞、渡唐之上ハ各船主相逢、冠船御往還共日和乗前等相互ニ致吟味、入念相働候儀ハをのつから之事候得共、第一唐御船頭・水主共船柄相揃不申ハ、於船中働方思様不行届可差支候間、御船頭并水主共船柄見合方、分ケ而入念候様、右両艘船主共江令相談、何れも船柄相揃候様可被取計候、尤唐船方共先例四拾八人之由候得共、若哉「琉」船方共手弱有之候抔与申、唐人重乗付候儀も難計事候間、能々気を付聞繕、自然右躰「様」之模様も候ハヽ、手寄を求屹与御内意申上、戌冠船之時、布政司より撫院江被御申上候趣も辰冠船ニ者一艘向ニ船頭・水主四拾八人乗合候處、山東往来之商船者水主弐拾四人乗合全致往還候間、欽差御乗船水主ハ今六人重、都合三拾人乗付候ハヽ、差支候儀ハ無御座候間、右大躰「数」乗合被仰付度旨被申上候處、船主共より船中不人足ニ而者船取扱方不行届候間、水主者先例通一艘四拾八人乗付候様、海防官江願立、其通為被仰付段、御迎大夫申出之書付、帳留相見得候間、右之行成「も」御都合次第ニ者御内分より申上、何れ先例通一艘向ニ四拾八人ニ不過、渡来有之候様可可被相働候、此旨御差圖ニ而候、以上、
八月廿六日 冨川親雲上 古堅親雲上
安室親雲上 勝連親雲上
濱比嘉親方
接封大夫
勅使福州御下着、奉得御對顔候砌者、御当地国喪之次第被聞召、右一件者御尋共候ハヽ、去臘
国母様薨御為被遊事候得共、王爵御頂戴ハ無此上御大典ニ而、申冠船之時も前年
乾隆皇帝様薨御被遊候處、封王使被御遣、且朝鮮・安南国ニも三年之喪内王爵を以頂戴被致候例有之由ニ而、此節も去秋之請封御願被仰上候付、為御迎被差渡候段申上、尤
勅使御相持(待カ)向一件何様相心得候哉与、御尋共候ハヽ、
勅使御取「相」持之儀、被為對
天朝不軽御事ニ而、諸事御先例通「致」手当置候得共、兎角御渡海之上、萬端「得」御差圖取行申筈之段申上、御都合次第ニ者御方所存形を以、躍・火花・爬龍舟等之儀、何様有之可然哉之所、不屹立様被習受、何分便宜次第可被申越旨、御差圖ニ而候事、
八月廿六日
一来年御渡来之遊撃・都司・弾圧官、前々冠船之時渡来被致候衆より官上ニ而候ハヽ、
上様・摂政・三司官衆より御禮對向相替候儀も可有之哉、且唐之儀時之振合次第御禮對向相替候儀も難計事候間、渡唐之上勢頭・大夫相合、右官人衆官位又者当時之禮節等承合、御禮對向相替事候ハヽ、功者之方より習受便宜次第可被申越候、此旨御差圖ニ而候、以上、
勝連親雲上
九月二日
濱比嘉親方
接封大夫
覚
一勅使始附従之官人衆、生国・姓名・官位、且官人衆并全廩給・半廩給其外御召列人数高之事、
一龍亭・彩亭ニ可載御品、戌冠船より相重候ハヽ餝相調方等之事、
一御筆御拝領之事、
一御入津儀注之事、
一冠船御入津之当日、
先皇帝様
先皇后様御月忌御差当候節、路次楽奏し候儀、且儀注之二字者
咸豊皇帝様御名同音ニ而、禮節ニ改方被仰付置候得共、
同治皇帝様御代相成候付、御先例之通儀注相直候而も可相済哉、且天使館御樓眠床懸香御餝一件、且来年御渡来遊撃・都合(司)・弾圧官、前々渡来被致候衆より官上ニ而候ハヽ、御禮對向一件習受被仰付候数ケ条之事、
一評價物品員数并地代且惣銀高之事、
一古銀・蕃銭、十分銀ニ何程致引合候段、右引合員数書之事、
但、二行評價中取玉那覇筑登之親雲上・当間筑登之親雲上被仰渡置候間、右両人江可被申渡候、
右条々ハ御手当向「ニ」相懸、早々御承知被成候得者御心得可相成候間、馬艦船等致漂着儀も候ハヽ早仕出を以、右条々其外も御心得可相成儀共気を付可被問越旨、御差圖ニ而候事、
九月三日
近年、朝鮮国江封王使御渡海為被成「由」噂有之由候處、右者三年之国喪内ニ而ハ有之間敷哉、阿口通事謝爺其外ニも在京之時、右一件承候者も可有之哉、渡唐之上内々聞合、噺承居候者罷在候ハヽ、国喪内勅使御相待向何様為被召行哉、委承便宜次第可被申越候、且又朝鮮其外之国喪内
勅使御相待向一件、委載置候書物も可有之哉、是又被相尋、弥右書有之候ハヽ致才覚来夏可被持渡事、
九月
(第二冊)
勅使御迎大夫日記 真栄里親方
〈接貢「封」大夫〉
同治四年〈乙丑〉八月 真栄里親雲上
八月廿八日
一今日、乗船仕候事、
一右ニ付、今日五ツ時分役者中・御船頭・接貢船船頭迄才府田里筑登之親雲上宿江相揃、御奉行様・御役々衆江口上書名札を以御暇乞申上候事、
九月九日
一今日、重陽之節句ニ付、菩薩加那志御前江御三味物備上、例之通御拝相勤候事、
附、御三味物之儀ハ公向ニ而候、尤調方之儀ハ總官構ニ而候也、
〈御印〉 口上覚 〈印〉
乍恐申上候、
勅使様御迎佐事・水主勲功之儀、定式佐事・水主「共」より倍御取持被仰付候御先例之由、内々承知仕候、然者船方之儀、惣而困窮之者ニ而専繰合之餘勢を以、父母妻子致介抱候處、近年殊之外唐不景気相成、船方共相厭候付、去年進貢船佐事・定加子者勲功倍御取持被仰付、水主者銭三千貫文ツヽ拝借被成下候付、漸請合相勤来事御座候、依之奉訴候儀御都合之程茂難計、恐多御座候得共、右佐事・水主之儀、
勅使様為御迎被差渡候付、何れ船功之者乗附候様取計不申者不叶事ニ而、折角人躰見合おかす仕、既御印紙等相済候処、勲功御取持之儀、御先規通ニ而者定式同様「前」何そ不相替事ニ而、何れ茂相厭何角謂を構断可申出者案中ニ而、至極心配仕事御座候間、前件之次第格別之御取分を以、何卒此節御迎佐事勲功之儀、去年定式佐事勲功より倍御取持被仰付、且水主共ニ茂定式足佐事・足定加子等勤居候方より見合、殊拝借願も不申上次第御座候間、定式・水主四旅之勲功御取持被仰付被下度奉願候、左様御達被下候ハヽ何れ茂難有奉存、随分進立勤向出精仕可申与奉存、此段奉訴事御座候条、此等之趣幾重ニ茂宜様御取成可被下儀奉頼候、以上、
〈頭号船船頭〉
八月 西銘筑登之親雲上
右願出之通、御取持有御座度奉存候、以上、
〈御迎大夫〉
八月 真栄里親雲上
右願出之通、被仰付度奉存候、以上、
〈御船手奉行〉
喜舎場里之子親雲上
〈高奉行〉
安谷屋親雲上
板良敷親雲上
澤岻親雲上
玉城親方
十月二日
一接貢船之儀、来ル七日致出帆候付、衣裳包并船中野菜等五日限積入候様、且同日早朝役者中沖之寺江相揃候様、高奉行より被仰渡候間、其心得可被成候、此段致通達候、以上、
十月二日 大宿
〈大夫江も可被申上候 〉
高良筑登之
一産物方御商法品拾六「種」之内并御臨時御注文品之儀、此節より商人共見込を以相對注文、又者勝手商法被仰付候段、御くに元より被仰渡趣有之候付、産物方御注文品之儀、何様可被仰付哉之旨、御目附衆相伺候処、当年ハ先達而御注文御渡相成候通、調達方被仰付候段被仰渡候間、此旨得其意、抜物又者買過買不不(衍カ)足等無之、御注文通全可買来候、此旨御差圖ニ而候、以上、
冨嶋親雲上
十月朔日
崎濱親雲上
勝連親雲上
小波津親方
〈接貢船〉
役者中
右之通被仰渡候間、被得其意、抜物等無之様、従之者共厳重取締可被申渡候、此段致通達候、以上、
大宿
十月二日
〈大夫江も可被申上候〉
高良筑登之
同五日
一今日、衣裳包并船中野菜等乗付候段、承候事、
一接貢船之儀、明後七日未明致出帆候間、明日酉頭時分「乗付」候様、高奉行より被仰付候事、
同六日
一今日、酉頭時分御船江乗付候事、
同七日
一今日、順風相成候付、石火矢三筒打、五ツ頭時分私并役者中・儀者・勤学迄、艫屋之上着座、三司官衆江御一礼、追而大口乗出候付、着座之面々御城江向御拝仕、引次御船菩薩加那志御前江御拝仕候事、
附、
一大口乗出候砌、石火矢三筒打候也、
一帆持祝として四合瓶壱双船頭方江収差遣候也、
一儀者者壱合瓶壱双差遣候段、承候也、
一今日七ツ過時分、慶良間嶋致通船候事、
十月八日
一今日早朝、久米嶋致通船候處、同九ツ時分風戌亥之間相成候付、引帰し酉頭時分慶良間「嶋」座喜味間切阿嘉泊江致汐懸候也、
同九日
一今日、三日祝とシテ四合瓶壱對船頭方江差遣候事、
一今日、風之御立願とシテ接貢船船頭并頭号船船頭両人陸卸ニ而、阿嘉村のん殿内并同所嶽々致参詣候段、承候事、
附、御花米者役者中より当日貫、御五水者大宿より差足置、後日致割府候段、承候事、
一屋久かい四甲
右者座間味・渡嘉敷両間切より有付とシテ目録取添進来候事、
附、儀者江者弐申、右同断ニ而進来候由、承候事、
一当所津口江諸船汐懸之節者、船中よりふた壱疋・御花・御五水・仙香相備致立願候先例之由ニ而、今日接貢船船頭・御船頭両人、佐事共致立願候段、承候事、
附、ふた代者接貢船々頭より差出、餘者帰帆之上船方中致割府候由、承候也、
十月十日
一今日、風卯之方相成候付、八ツ時分当所出帆、入相時分久米嶋通船、夜弐更迠針筋酉戌之間、三更より針筋子丑之間、
同十一日
一今日、針筋子丑之間、
同十二日
一今日、風子之方相成候付、針筋寅卯之間、七ツ時分粟国嶋致通船候處、漸々風根相下、卯辰之間相成候付、夜四ツ時分針筋酉戌之間、
十月十三日
一今日、風子丑之間、針筋右同断ニ而五ツ時分久米嶋致通船候事、
同十四日
一今日、小雨、風寅之方、針筋酉戌之間ニ而候処、夜中風根段々相替候付、右ニ應し針筋取直し致通船候事、
同十五日 雨天
一今日、風亥子之方、針筋申酉之間、風波荒立候付御船菩薩加那志御前江三百篇経讀上、御立願仕候事、
一夜入候而より風波猶又荒立候付、御船菩薩加那志御取次、恰山院并宮之上菩薩加那志江大御三味之御結願仕候段、御立願仕候事、
十月十六日
一今日、風波静相成、風子之方、針筋酉戌之間、
同十七日
一今日、風子丑之方、針筋酉戌之間、五ツ頭時分とん瀬与申外山見懸、夜七ツ時分錠海江錠を卸候事、
同十八日
一今日未明、片平城江存留より「之」報相届候付、早速兵船弐艘差出、引港とシテ唐人壱人被乗付候付、同日五ツ時分同所出帆、七ツ過時分恰山院致参着候事、
同十九日
一今日、恰山院菩薩加那志御前江大御三味備上御結願ニ付、私始役者中色衣儀者・勤学人・船頭・御船頭・佐事・五主・船方中衣色冠帽子ニ而、恰山院廟参詣、三跪九叩頭相勤候事、
十月廿日
一閩安鎮御改之儀、阿口通事「并」古存留罷出不申候付、無「御」改相済候様取計度旨、存留上運天里之子親雲上より同所通事相頼候處、弥願通無御改相済候段有之候付、今日五ツ時分恰山院より廻船、同日七ツ時分林浦致参着候事、
同廿一日
一今日、身廻相卸、私始役者中館屋下り「卸」いたし候事、
一右ニ付、都浦新港江左之通進物差遣候也、
一扇子弐本ツヽ 一小鰹三節ツヽ 一白麻二帖ツヽ
一於琉館屋住居所之儀、新四橌「中」表弐橌相往居候事、
十月廿六日
一明日、封堵珎盤被仰付候段、阿口通事申来候間、下館之面々御船江乗付、御改之砌無手抜様可被申渡候、此段致問合候、以上、
〈古存留〉
十月廿六日 楚南里之子親雲上
上運天里之子親雲上
右之通有之候間、此段致通達候、以上、
十月廿六日 上運天里之子親雲上
〈大夫江も可被申上候〉
高良筑登之
同廿七日
一今日、安挿ニ付可致出勤之處、御用繁多ニ付、内々館屋下「卸」いたし居候段申上、御暇乞仕、左候而安挿相済役者中御船より罷帰「候ニ付」私茂色衣冠ニ而宮之上江罷出、大菩薩加那志御前并土地君・琉位牌之御前江赤蠟燭壱對ツヽ・御香・御焼紙備上、菩薩御前者三跪九叩頭、土地君・位牌「廟」者一跪三叩頭仕、罷帰候事、
一接封大夫追而参官被仰付筈候間、乗轎并行列道具之儀、進貢大夫之例を以被相調、此方様子次第可被相渡候、「此段致問合候」、以上、
〈儀者〉
十月廿七日 高良筑登之
大宿
一頭号船・二号船可相成船調部方、頭号船・二号船船頭共申付候事、
請取
一銀子八匁 半天
右者布政司江之咨文差出候砌、取次之馬夫江懸号銀とシテ慥ニ如斯御座候、以上、
〈儀者〉
十月廿七日 高良筑登之
大宿
覚
一□(四)人轎壱通、幕并雨履共
一赤笠五ツ鳥羽共
一赤凉傘壱本栄共
一冊封〈恭迎〉大牌 壱對
一正議大夫小牌 壱對
一中山王府小牌 壱對
一樶花 壱對
一朱ぬり捧 壱對
一轎夫衣裳五枚
右之通御迎大夫参官之時入用有之候間、進貢大夫之例を以調方被御申渡、此方様子次第可被相渡候、以上、
〈儀者〉
十月廿七日 高良筑登之
大宿
右諸道具相調候ハヽ、儀者請取書を以相請取候事、
一銀子百七拾三匁 半天
右参官之時、掛号銀并手本代とシテ、儀者請取書を以大宿より請取、長班役江相渡候事、
十月廿八日
一今日、例之通阿口通事弐人・同筆者弐人・長班役壱人相招、咨文両通相調部させ、布政司江之咨文、阿口通事ニ而差上「させ」候事、
附、調部方之砌、琉菓子致馳走候事、
十一月三日
一明日冬至ニ付、於大堂御規式有之候間、五ツ前色衣冠帽子ニ而、例之通可被相勤候、此段致御通達候、以上、
附、佐事・五主・士・無系之位衆迄色衣・帽子ニ而罷出候先例ニ而候間、五主中者大宿江、従之者者各拘主、船方者詰佐事ニ而可被相達候、以上、
十一月三日 上運天里之子親雲上
〈大夫江も可被申上候〉
高良筑登之
同四日
一今日冬至ニ付、いつれ茂相揃、子之方并琉球江之朝拝等先例通相勤候事、
一同日九ツ時分、阿口通事・同筆者・長班役謝相工罷出、於大堂例通琉球江向御拝相勤、「済而」為祝儀私橌江罷出候付、色衣冠ニ而相逢、茶菓子致馳走候事、
附、存留橌ニ而右唐人共江御物調を以十二碗之料理馳走有之候段、承候也、
十一月六日
一明後八日、諸衙門参官被仰付候間、同日五ツ時分例之通色衣冠ニ而可被御勤候、此段御通達いたし候、以上、
十一月六日 上運天里之子親雲上
〈大夫江も可被申上候〉
高良筑登之
十一月七日
一明「日」諸衙門参官之日柄相済候間、五ツ時分大堂江御揃例之通御勤可被成候、此段致御通達候、以上、
〈大夫儀者〉
十一月七日 高良筑登之
〈才府〉
田里筑登之親雲上
覚
一佐事壱人
但、色衣・帽子・大帯・鞋着ニ而、
一水主拾四人
但、色衣・帽子・小帯・鞋着ニ而、
右御迎大夫参官ニ付、例之通行列相賦置候間、同日五更時分罷出、此方引合を以相勤候様可被御申渡候、以上、
〈儀者〉
十一月七日 高良筑登之
安慶名親雲上
覚
一唐日用四人 一同弐人轎共
右、明日参官ニ付、野菜入阿第江相達、相頼候事、
一明日、御迎大夫参官ニ付、五主壱人例之通行列相賦置候間、同日五更時分罷出、此方引合を以相勤候様可被御申渡候、以上、
〈儀者〉
十一月七日 高良筑登之
〈小文〉
国吉里之子親雲上
十一月八日
一今日、諸衙門参官ニ付、私并才府・大通事・官舎・存留迠色衣冠、儀者・小姓供、色衣・帽子・大帯、下供江者色衣・小帯ニ而、五ツ時分大堂江相揃、阿口通事・長班役案内者ニ而撫院衙門参上、土地君廟江相扣、阿口通事を以私共参官之段申上、手本差上させ、夫より總督衙門・布政司衙門参上、最前之通手本差上させ、私共者直帰館、餘之衙門江者存留・阿口通事両人参館、手本差上させ候事、
行列左記
〈水主〉 〈水主〉
銅鑼金 銅鑼金
〈水主〉 〈水主〉
冊封〈恭迎〉大牌 冊封〈恭迎〉大牌
〈同〉 〈同〉
中山王府小牌 中山王府小牌
〈同〉 〈同〉
正議大夫小牌 正議大夫小牌
〈同〉 〈同〉
樶花 樶花
〈水主〉 〈水主〉 〈水主〉
朱ぬり棒 赤凉傘 朱ぬり棒
五主 佐事
〈色衣帽子〉 四人轎唐日用 〈色衣帽子〉
小姓 小姓
〈下供〉 〈下供〉
手笠持 八巻家持
〈「水主」下供〉 〈下供〉
馬架椅持 きせる持
儀者弐人轎〈下供〉
諸衙門左記
一總督衙門 一撫院衙門
一将軍衙門 一布政司衙門
一都堂衙門 一案察司衙門
一福州府衙門 一守城衙門
一理事廳衙門 一都院衙門
一粮捕衙門 一粮道衙門
一防道衙門 一水師衙門
一海防衙門
一行列之佐事・五主・雇供致帰館候ハヽ、から肴・「四ツ」碗之物・焼酎致馳走候事、
一右之人数并唐日用者店ちんとシテ銭拾弐貫文ツヽ相與候事、
覚〈印勢頭/印大夫/印御迎大夫〉
西銘筑登之親雲上
右者二号船々頭ニ而候処、佐事「唱」ニ而者對唐人、御都合向不宜、剰佐事・水主共ニ茂諸事気請薄下知方届兼候儀茂可有御座与奉存候間、那覇川乗届候迠之間船頭与唱申様被仰付可被下候、以上、
〈古存留〉
十一月 楚南里之子親雲上
十一月十四日
一今日、菩薩加那志御下船ニ付、例之通相勤候事、
覚
一渡唐之面々於琉球被仰渡置候旨趣、聊無緩疎可相守事、
一火用心可入念事、
一燈爐之儀、はあきや塗并紙張之外品柄見合懸置、就中消跡見届可入念事、
一油紙并蠟引合羽之類、畳不置様堅取締可致事、
一橌々戸口用水ニ水桶居置、満水入通候様可申付事、
一館屋立入之商人、「且」橌々手叶唐人共、二更之加鞁打限各宿元江差帰、橌々行爐可相消事、
一夜廻之儀、無緩疎厳重相働候様可申付事、
一大堂浮道左右用「天」甕之儀、火用心之為居置候問、右甕江きり・あくた投入間敷旨、供中手叶唐人共江可申付事、
一唐人取合方之儀、上下共律儀可相嗜候、勿論喧𠵅・口論等仕出候ハヽ、甚御難題可成立候条、此儀能々可致勘弁事、
一平日我身之行跡正敷、中間中睦敷相交、就中尊卑之礼儀相糺、国土之御風格宜敷相見得候様可心懸事、
一無益之所江致徘徊候而者其身之名折迠ニ而無之、依躰者御外聞ニ茂可相及候間、屹与可差止候、用事有之候ハヽ、日帰之外差越間敷事、
一下々者共、分限を不顧、無益之費有「之」、帰帆前差懸、借銀又者買物代銀等致不首尾、段々及難渋候者茂有之由相聞へ、甚不可然事候、唐人より「借銀」不致様ニ与之儀者跡々より堅被仰渡置趣茂有之候間、右躰之儀共無之様可相嗜事、
一酒之儀、礼式迠を取はやし、猥朋輩中出會酒宴を投(設カ)候儀、堅可令禁止候、酒宴ケ間敷他所之障ニ相成候者茂候ハヽ、屹与其沙汰可被仰付候条、能々可相慎事、
一館中橌々用事外、猥ニ致出入間敷事、
一御用物又者渡唐之者共交易之和産・唐産、異国人江差知候而者至而御故䧛(障)可成立事候間、館屋ニ而者勿論、荷物積入卸荷之砌茂格護可入念事、
一字紙之儀、無用相成候ハヽ則々あふり収、庭杯江散置候を見付候ハヽ、其格護可入念事、
一溜池之儀、火用心之為被作立候處、間ニ者塵芥投込、或者諸道具抔洗候而者淺之基不可然事候条、無左様取締可致事、
右條々無緩疎可相守旨、渡唐早速勢頭・大夫より被申渡事候処、此節上京被為「成」居候付、私より存留江申付、厳重取締申渡候事、
十一月十八日
一来ル廿四日、宮之上菩薩加那志并御船菩薩加那志江御結願ニ付被成候付、同廿日より菩薩経讀上候間、此段致問合候、以上、
〈総官〉
十一月十八日 奥聞里之子親雲上
〈存留〉
上運天里之子親雲上
右之通有之候間、明後廿日より菩薩経讀取候日迠、各四ツ時分色衣冠・帽子ニ而於宮之上、菩薩御前御拝礼可被成候、此段御通達いたし候、以上、
〈存留〉
十一月廿八日 上運天里之子親雲上
〈大夫江茂可申上候〉
高良筑登之
十一月廿日
一今日、於宮之上菩薩経讀上ニ付、色衣冠ニ而五ツ時分出勤経壱篇讀上、私者暇乞ニ而罷帰候事、
一同廿一日より三日迠御用繁多ニ付、宮之上出勤致御暇乞候事、
十一月廿一日
一今日、布政司より開館御免之告示被下候段、承候事、
一接貢船之儀、芒種之時節ニ而致出帆候様表御方より被仰渡趣有之候付而者、いつれ右時節出帆不致候而不叶、公用「司」御買物三月中相仕廻、四月二日報竣申出候考ニ而候間、各内證聞并従・五主・船方末々迠、右日限内ニ而仕廻取「候様」領主頭立候方より毎度可被申付候、此段分ケ而致通達候、以上、
十一月 公司
〈大夫江茂可被申上候〉
高良筑登之
同廿四日
一今日、御結願ニ付、四ツ時分色衣冠帽子ニ而相揃、例之通相勤候事、
十一月廿六日
一今日、文武把門官并阿口通事、其外琉球懸之面々江例之通進物差遣候事、
同廿八日
一今日、従
上様、阿口通事共江御返礼物相渡候段、承候事、
十二月七日
一今日、欽差御乗船并遊撃乗船早め御調部被仰付、御見分之砌者私共ニ茂見分被仰付度、稟差出候事、
同十五日
一今日、欽差御召列人数減少、評價物多不持渡、且高代之品不持渡様、且唐人共於琉球借銭催促方難渋ケ間敷儀共御取締被仰付度、稟取仕立差出候事、
十二月廿三日
一今日、粮銀被成下候美拝とシテ、大堂子之方江臺餝、私・古存留両人色衣冠ニ而、例之通相勤候事、
一正月元日於大堂御規式有之候間、色衣冠・帽子ニ而例之通可被相勤候、此段致御通達候、以上、
附、
一佐事・五主并「士・従」・無系之筑登之座敷迠、御規式有之候間、罷出相勤候様各拘主より可被相達候、
一御規式相済、引次菩薩加那志御前江勧進銀并目録備上候様「間」、是又御拝可被相勤候、
十二月廿八日 上運天里之子親雲上
〈大夫江茂可被申上候〉
高良筑登之
十二月廿九日
一歳之夜ニ付、菩薩加那志・土地君・「琉」位牌之御前江年玉餅御餝、新古存留・勤学人罷出、例之通御拝相勤候段、首尾有之候事、
附、年玉餅調方者古存留・總官構ニ而候由、承候也
同治五年〈丙寅〉正月朔日
一今日、元日ニ付子之方并琉球江之朝拝等、例之通相勤候事、
正月二日
一諸衙門江年頭之為御祝儀、例之通帖相調差上候段、存留より首尾承候事、
一今日、初起之為御祝儀、頭号船橌元江左之通焼酎差遣候事、
一四合錫壱双、
一儀者者壱合瓶壱對差遣候段、承候也、
一二号船橌元江者古存留より差遣候段、承候也、
同五日
一今日、年頭之礼とシテ阿口通事・同筆者・長班役迠罷出候付、吸物壱ツ・から肴六ツ・焼酎致馳走候事、
正月十五日
一今日、例之通於大堂琉球江之朝拝并都而之勤方元旦同断相勤候事、
附、子之方江之勤方ハ無之候也、
同十六日
一今日、琉人墓所為見廻、役者以下手配を以差越致焼香候段、承候事、
一欽差御乗船并遊撃乗船之儀、前々之通此方より内々相調部差付願書候而者可差障段、阿口通事共并李哥申付候付、兼而福宝玉・金振茙之両船相調部為申事ニ者候得共、先以隠置御乗船早め御調部被仰付、御見分之砌者私共ニ茂見分被仰付度、此間願出置候處、今迠為何御返事も無御座候付、手便を求内々承合候得者、海防官御調部御決定之上、御返事被下候御含ニ而候由承、至極驚入、右銘々江茂委敷申談、福宝玉・金振茙之両船新佐事程来茂宜敷有之候段、船方共内々見及居申候間、右両艘御調部被仰付、御見分之砌者私共ニ茂見分被仰付度旨、稟取仕立、今日願出候事、
正月廿八日
一今日、海防官より御用有之候付、阿口通事馮爺・同筆者王秉謙・頭号船々頭召列、彼衙門参上仕御對顔を得候處、船構之者より船々書出候者其方共願出候両艘者差除、新據豊船・邱大順船・新興福船・金萬全船・金徳盛船・新徳盛船之六艘申出、其内邱大順ハ戌冠船之二号船ニ而候處、皆共調部方之上、右両艘願出候哉与被仰下候付、前件習受候通兼而相調部置候段、実形申上候而者御都合向不宜、右邱大順者戌年以後修補之節々多々はぢ延、至当分者船程格別太ク相成「居」候付、いつれ此船者差除不申「候而」不叶事候處、福州府閩縣右段々御内意被成候由承居候付、先以御返答之趣者、御当地船々琉人より直ニ見分仕候而者憚多御座候故、いまた見分も不仕候得共戌冠船之二号船邱大順者不達者、其上古佐(作)事ニ而欽差御乗船御願難申上、右両艘者今「先」日稟を以申上置候通、格別宜敷船与船方之者共内々見及候付、御願為申上次第申上候處、彼是被聞召分、重而被仰下候者、右六艘いまた見分不致候ハヽ、琉船方共申付得与相調部させ、実形之次第申出候様、左候ハヽ、私共ニ茂見分御構之向々江申上相済可申与被仰下候付、大切成御乗船調部方船方迠ニ而者如何敷御座候間、私并存留ニ而船方共召列見分仕候上申上度、尤御存知之通当年者節入相早り候「付」而者、いつれ四月十五日比致川下、五月初比順風次第致出帆候様無之候而不叶、御乗船御調部相済候ハヽ、船修補茂大抵壱ケ月程日数を込、夫より積荷彼是ニ茂日込相成申事御座候間、旁御取分を以道そ早め御調部被仰付度申上、罷帰候事、
正月廿九日
一右ニ付、今日古存留楚南里之子親雲上・阿口通事馮爺・同筆者王秉謙、頭号船々頭・佐事共召列、新據豊「船」・新福興船・金萬全船・金徳盛船・新徳盛船見分船方共申付、すいミニ而船底迠見届させ候處、五艘之内新徳盛船壱艘者新作事、程来茂大抵琉球進貢船同様相見得、船具茂相揃申候處、艍之儀ハ半分有之、其餘者多分古作事、其上艍無之候付、直ニ海防官衙門参上仕候處、御他行ニ而御逢不被成候付、右之成行掌案共江申含、罷帰候事、
同卅日
一明日、海防官并閩縣御両人船々御見分可被成候間、私共ニ茂四ツ時分船元江差越候様、阿口通事申来候事、
二月朔日
一今日、古存留楚南里之子親雲上・阿口通事馮爺・同筆者王秉謙・二号船々頭・作事共召列船元江差越居候處、海防官・閩縣御両人も追付御出被成、御同伴ニ而「新據豊船江」差越御見分、此船如何与御尋有之候付、作事宜敷候得共、餘船ニ替り程来茂大ク有之、琉球於港「出入」可差支、殊ニ艍無之候付而者遠海往還難成段申上候處、船構之者より艍有之段申候処、艍無之候哉与被仰下候付、艍之有無御疑ニ而候ハヽ、船方共すいミニ而「船底」見分仕させ度申上、早速見届させ候處、右申上置候通弥艍無之段申候付、其通申上候處、被成御落着、左候而戌冠船之二号船御見分、船程丈尺させ右二号船一件者御無沙汰被成、中奥江居合之金振茙船江御差越御見分被成、其方共申出通金振茙「船」宜敷船ニ而候間、一先喜悦之筈与御取請宜敷御容躰ニ而被仰下候付、道そ官頭江罷在候福宝玉「船も」此所江御召寄御見分被成下度申上候付、近日中御召寄御見分可被成段御返答被下、御帰被成候付、私共ニ茂致帰橌候事、
正「二」月六日
一官頭ニ罷在候福宝玉船中奥江致参着居候付、明日海防官・閩縣御両人御見分御差越可被成候間、私共ニ茂致見分候様、阿口通事申来候事、
正「二」月七日
一右ニ付、今日古存留楚南里之子親雲上・頭二号船船頭・阿口通事馮爺・同筆者王秉謙召列、先達而差越居候處、追「而」御見分之被成、此福宝玉船「宜敷」有之候得共、庫理へり少様相見得候間、「へり」数重させ候而者如何可有之哉与被成下候付、左様御取計被下候ハヽ、猶々上夫相成可宜段申上、御同伴ニ而罷帰候事、
同十日
一今日、海防官、館屋江御出被成候段、阿口通事申来候付、色衣冠ニ而大堂江相揃候處御出被成、欽差御乗船之儀、其方共願立通福宝玉・金振茙両艘江可被仰付候間、左様可相心得旨被仰下、「土地君廟・位牌殿、其外橌々迠御見分」、御帰被成候事、
附、御茶御菓子私方より差出、御馳走仕候也、
三月三日
一明日、撫院・布政司・粮道・塩道・福州府・閩縣、船御見分ニ御差越可被成候間、私共ニ茂差越居候様、阿口通事申来候事、
同四日
一右ニ付、今日古存留楚南里之子親雲上・阿口通事馮爺・鄭爺・同筆者王秉謙・頭二号船船頭召列、戸封之官廳江差越扣居候處、布政司・粮道・福州府・海防官・候官縣御出候付、御礼對相済、左候而金振茙船江御差越御見分被成、布政司より金振茙船・福宝玉船者如何与私江御「尋」有之候付、金振茙船茂宜敷有之候得共、福宝玉船者作事別而堅固有之、格別宜敷船与見及候段申上候處、粮道被仰下候者、其方共宜敷船与見及候ハヽ弥可宜与被申、追而福宝玉船江御差越御見分被成、其方共願出通、頭号船福宝玉、二号船金振茙「江」可被仰付段「被成下、左候而」当月廿日比ニ者欽差御下向可□(被カ)遊候間、其内船修補上夫相調置候様、布政司より海防官江被仰渡、海防官より馬夫ニ而船主共江堅御申付させ、旁相済御帰被成候付、私共茂館屋江罷帰候事、
三月六日
一今日より頭号・二号船修補取附候段、承候事、
一欽差御乗船御修補相始候付、頭号船・二号船佐事・水主、御船元江毎日差越候間、公司番并加封「番」可被差免候、此段致問合候、以上、
〈御迎大夫儀者〉
三月六日 高良筑登之
〈古存留〉
楚南里之子親雲上
〈接貢船〉
公司
一右ニ付、頭号船・二号船船方共、左之通致通達候事、
一頭号船・二号船御修補中、公司番并加鞁番御免被仰付候間、此段申渡候、以上、
〈御迎大夫儀者〉
三月六日 高良筑登之
〈古存留〉
楚南里之子親雲上
〈頭号船・二号船〉
佐事 水主中
三月十四日
覚
〈汀志良次村四男〉
国吉筑登之親雲上
右何「阿」班
〈西村平良之〉
仁王大嶺
右頭碇
右、頭号船水主ニ而渡唐仕居申候處、腰書之通被仰付可被下候、以上、
〈頭号船々頭〉
三月 西銘筑登之親雲上
覚
〈知念間切久高嶋外間村〉
内聞筑登之親雲上
右何「阿」班
〈座間味間切慶良間村〉
大城筑登之親雲上
右頭碇
右之通二号船水主ニ而渡唐仕申候間、腰書之通被仰付可被下候、以上、
〈二号船々頭〉
三月 西銘筑登之親雲上
右之通被仰付被下度奉存候、以上、
〈古存留〉
楚南里之子親雲上
一接貢船之儀、仕廻方差急進貢使下京不致候而茂来月廿日比離驛登船仕候様、海防官より被仰渡趣有之候、右ニ付而者来月十日内報竣仕、若勢頭・大夫御下京間ニ逢不申候ハヽ、同十五日御船相下、御下京持(待)方候方ニ阿口通事共申談置候間、其御心得を以御仕廻方可被差急候、「此段」致御通達候、以上、
〈存留〉
三月十四日 上運天里之子親雲上
〈大夫江茂可被申上候〉
高良筑登之
三月十五日
一於水口、
勅使様御迎差越候阿口通事、馮爺江被仰付、且私従并馮爺従氏名歳付清冊早々可差出段、布政司より被仰付候諭帖、今日同所馬夫持来候事、 附、持参之馬夫江苦労銀相進候也、
同廿一日
一頭号船・二号船より乗合之面々者接貢船江配当有之候付而者、両艘江大荷物又者細物類迚茂曽而積入間敷候、尤身廻之儀、船中用「迄」至而手軽積入、柳庫理懸硯帳箱抔者各御乗船振合次第積入候而可然「候」、自然多人数関合積入方不相調候ハヽ、風呂敷包ニ而着用之衣類計積入、唐人共見分宜様可相嗜候、帰琉之上者琉球懸役々より荷物一々明改被仰付事候条、此旨各頭役より分ケ而厳重可被申渡候、以上、
三月廿一日 真栄里親雲上
〈古存留〉
楚南里之子親雲上
〈頭号船々頭〉
西銘筑登之親雲上
〈二号船々頭〉
西銘筑登之親雲上
三月廿四日
一明後廿六日、
勅使様為御迎、水口江差越候様、布政司御方諭帖を以被仰付候事、
同廿五日
一今日、布政司御方より御用有之候付、馮爺召列彼衙門参上、於水口両勅使様江之公文壱通并私列之者・阿口通事従名面書紅批壱枚被相渡候付、拝請罷帰候事、
同廿六日
一今日、於水口
勅使様御迎起身ニ付、宮之上菩薩并土地君・琉位牌御前御拝相勤、済而四ツ時分咨文箱捧、阿口通事馮爺召列陸地罷通、四ツ時分洪山橋相届候事、
一同酉頭時分、伴送官被参候事、
附、前々者洪山橋より水口迄伴送官・阿口通事・私乗船琉球より差出、且水口滞留中自分賄ニ而候由候處、去辰戌両度共依訴、船「賃」并賄方被下置候段、書留相見得候付、今年茂兼而布政司江願出候付、往還共河舟御物より被差出、且水口滞留中日ニ弐度八碗之御賄被下、従之者江ハ六碗被下候、尤往還中者自分賄ニ而候也、
三月廿七日
一今日四ツ時分、伴送官乗船、巡捕官余枉「兄」彭履亭乗船、布政司掌案・海防掌案乗船、私乗船、都合四艘一同洪山橋出船、入相時分右四艘閩清与申所江着船仕候事、
同廿八日
一今日未明、同所出船いたし、同日七ツ時分水口参着、早速公館江相移り候事、
附、御当地之儀、此節御欠略ニ付、阿口通事乗船茂私与同船被仰付置候、
三月廿九日
一今日、阿口通事召列伴送官并手本上之官人、古田縣御方御見廻之手本差上候事、
附、新粮道北京より水口「公」館御参着ニ付、御見廻之手本差上候事、
四月朔日
一右ニ付、御銘々より御見廻之手本御到来有之候事、
同六日
一勅使様今日陸地より水口江御下向被遊候付、同所土「公」館(衙カ)御門「ニ於」跪ニ而御迎、公館御光駕被遊候付、阿口通事召列参上、布政司より之公文、海防官より之紅批、大爺取次差上、道そ奉得御拝顔度申上候付、御前被召寄、一跪三叩頭仕、済而伴送官より私召列、先達而罷帰城於公館、重而奉得御拝顔申度、御暇乞申上、同日七ツ時分伴送官阿口通事一同、先達而罷帰候事、
四月廿一日
一今日七ツ時分、水口より至館ニ付、宮之上菩薩加那志・土地君・琉位牌之御前御拝相勤候事、
覚
一銀子八拾め 半天
右者乗船之時、阿口通事乗船壱艘、接「封」大夫乗船壱艘、古存留乗船壱艘、船頭・佐事・水主乗船壱艘、都合四艘之質(賃カ)銀とシテ大宿より渡申様、被仰付可被下候、以上、
〈儀者〉
四月 高良筑登之
覚
一銀子四百め 半天
右阿口通事馮爺、御迎大夫江相附、
勅使様御迎水口江被差越候付、路次銀拝借之願申出有之候間、先例之通大宿より渡申様、被仰付可被下候、以上、
附、返上方之儀者、来年被成下候年例銀引当之證文取入置申候。
〈儀者〉
四月 高良筑登之
請取
一火抱百弐拾結
右
勅使様御乗船并二号船てらし打用とシテ慥ニ如斯御座候、以上、
〈儀者〉
四月 高良筑登之
大宿
四月廿二日
一今日四ツ時分、城「公」館江伺公、七ツ時分、
勅使様公館御光駕被遊候付伺御機嫌、罷帰候事、
同廿八日
一今日、
勅使様江評價物并人数減少、且於琉球借銀催促方御禁止被仰付度旨願上度、公館参上仕候處、御逢不被成候付、罷帰候事、
五月三日
一今日、右願申上度重而参上仕候處、師爺共口能ニ而御逢候様不罷成候付稟計差出、直ニ遊撃・都司・弾圧官御逢、右願事并傾城一件等取添願申上、罷帰候事、
同八日
一頭号船・二号船菩薩加那志御乗船之段、承候事、
同十二日
一今日、古存留并私乗船ニ付、宮之上菩薩・土君地(地君カ)・琉位牌之御前、赤蠟燭灯上御拝相勤、済而九ツ時分咨文箱水主江捧、阿口通事一同水汲所より河舟ニ而乗船仕、御船菩薩加那志御前御香・蠟燭・御紙焼上、御拝相勤候事、
附、私并御船「頭」・佐事・水主共住居所之儀、兼而船頭ニ而船主為致相談、艫こおり二こおり江相住「居」候也、
同十三日
一今日七ツ時分、
勅使様御乗船ニ付、阿口通事并古存留・私伝間江一列ニ立、
勅書并
欽差御乗船之砌、一跪ニ而御迎仕候事、
五月十四日
一今日、戸部之前錠を起、致川下候處、引港共溝違ニ而頭号船尾墩与申所之淺地江走上、同夜二更時分より致関湯(揚カ)候付、積荷物取卸、同十五日九ツ時分御案内之上、私共も館屋江罷帰、
両勅使様并官人衆者両江會館江御留館「被遊候事」、
附、二号船者無事ニ致廻船候也、
同十六日
一今日、福州府・税官御両人より大爺御使、阿口通事筆者王秉謙江被仰下候者、欽差御乗船之儀、総督御所持之戦船火輪船江被仰付筈候処、琉人大共ニも落着ニ而候哉、故障有無之所委細相尋、御返答申上候様有之段、王秉謙申来候付、至極驚入、古存留楚南里之子親雲上相合、火輪船江御乗合一件、渡唐前分ケ而被仰渡置候御趣意ニ基、右江御乗船被仰付候而者琉球至而難渋成立可申候間、道そ御先例通唐船江御見合被仰付度、申上させ候事、
同十七日
一今日、海防官より私御用有之候付、阿口通事馮爺・同筆者王秉謙召列参上、得御對顔申候處、昨日福州府・税官如御尋、火輪船江御乗船被仰付候而茂可相済哉与、被仰付「下」候付、右同断御返答申上候處、海防官被仰下候者、私共ニも琉国之故障ニ相成候段者能存居候付、御乗船之儀、戌冠船之二号船邸大順相賦置候處、欽差より屹与火輪船相賦候様、御申付有之、御心配之段被仰下候付、道そ大老爺ニ而も宜敷御取計被下度、御頼申上候處、随分御取計被下候段御返答承、罷帰候事、
五月十八日
一今日、欽差より私御用有之候付、又候右両人召列参上、奉得御對顔候處、乗船之儀火輪船ハ琉国故障之訳合有之候付、邸大順相賦置候段、福州府より問合有之候、右火輪船之儀、総督御所持之船火加減等取扱させ候為夷人等三人ハ頼切ニ而乗付置、異国船与ハ訳合相替居候處、右式ニ而も差障可申哉与被仰渡候付、福州府・海防官江御返答申上置候通、欽差琉球御下着被遊候ハヽ、
上様那覇江
御光駕、其外七宴之御規式等御直ニ御執行被為遊御事、且評價物致取引候儀共異人等目ニ懸候ハヽ、をのつから彼国者共江響合相成、至而難題成立可申、且琉球港之儀、狭淺ニ有之、尤毎度異国船港内江乗入難成、尤毎度大風之夏有之候付、沖懸迚も不罷成、旁以差支申事御座候間、火輪船ハ御取止、道そ御先例通唐船より御渡海被遊候様被仰付被下度申上候處、芒種夏至以後ニも琉球江之順風可有之哉、決而有無之所申出候様被仰渡候付、六七月ニも順風有之事ニ者候得共、時宜次第之事ニ而決而有之筋ニ者難申上段申上候處、其方事適私共迎之為被差渡候處、時分柄琉球江之順風無覚束与者乍申、火輪船より之渡海も相断候儀、甚落着難成、
欽差之命者
皇帝同前ニ而、此段ハ能存知之筈候間、彼是得与弁別早々火輪船江乗船相賦候様、福州府江願立首尾可申出、自然此上断申出候ハヽ、右之成行ニ而琉球江渡海難成段、
皇帝様江 奏聞仕可中与、至極御怒立御容躰ニ而御退座被遊候付、何共可致様無御座帰館仕、海防官御方江王秉謙差遣、右之旁申上、習請させ候處、
欽差右之御申付ニ而候ハヽ、一先御機嫌應し稟差出候様、左候ハヽ御内分より官人衆御取合、今通邱大順江被仰付候方御取計被成下候段被仰下候付、道そ御助成被成下度御頼申上、夫より福州府御方参上、前件通御乗船御取替願立候様、
欽差より仰渡御座候段、委細之成行申上させ候處、邱大順一件者既ニ向々御案内相済候「付」而者、今更御取替之願、其方共并私よりハ難申上候間、
欽差ニ而布政司・按察司・粮道・塩道御相談之上、御取替被遊候様可申上旨、被仰下候付、直ニ両江會館参上、
欽差江件之通申上させ候處、火輪船之儀、琉球方故障之段ハ先達而御聞達被成候間、海渡之上ハ異人等陸卸召留、且渡海早速右船可差帰、尤最初火輪船相断候も其方共より願立置候付而者、此節も其方「共」より願立、屹与取替候様、別紙写之趣ニ而稟相調可差出旨被仰渡、此上御断申上候而者御機嫌を傷、如何御難題ニ歟相及可申哉、海防官御内談茂仕置申事候得者、稟差出候上、働方仕候儀可宜与吟味仕、布政司衙門之李哥共江も申談候處、其通ニ而可宜段申上候付、稟相調候事、
五月十九日
一右ニ付、稟持参ニ而両江會館参上、備
御覧候處、御添消被遊候付、右李哥入調部申候處、稟之起ニ仰渡相受候而此方願意之趣、綴立置候付而者乍不安被押付、願立候段ハ為差知事ニ而、琉球方為筋付而弥以可宜与申、所々取直呉り候付、早速清書させ候事、
五月廿日
一右ニ付、又以備 御覧申候處、重而御添消被遊候付、清書替させ候事、
同廿一日
一今日、福州府・海防官御方江差出候事、
同廿三日
一今日、総督より欽差御方江御乗船之儀、此間御賦通邱大順江可被仰付与之御問合御差遣被成候段、承候事、
五月廿五日
一来月四日、御乗船之日柄相究候段、承候事、
六月三日
一今日、私共致乗船候事、
同四日
一今日、 勅使様御乗船ニ付、都而最初御乗船之時同断、相働候事、
同五日
一今日二号船一同林浦之前錠を起、所々汐懸ニ而、同七日恰山院錠を卸勅使様菩薩御拝相済、同日官頭参「着」いたし候事、
六月八日
一今日、同所錠を起、同日壺口錠を卸候事、
同九日
一今日、風未之方相成候付、二号船一同未明五虎門出帆いたし、同九ツ時分より風午之方、針「筋」辰之間、同時竿塘通船、同七ツ時分東砂(沙カ)東湧致通船候、尤二号船者五六里程先相成候事、
但、夜中風針筋同断、
同十日
一今日、風未之方、針筋辰之間、同七ツ時分半架山与申所見懸致通船候
事、
但、夜中同断、
同十一日
一今日風午之方、針筋卯辰之間、同酉頭時分魚魡(釣)通船、同夜初更時分久場嶋通船、同二更時分より風巳午之方、針筋寅卯之間、
六月十二日
一今日風午未之方、針筋卯辰之間、同九ツ時分風巳午之方、針筋寅卯之「間」、同八ツ過時分久米赤嶋致通船候、同七ツ時分、風力少相成候付、
両勅使様菩薩加那志御前江御立願被遊候事、
但、夜中風根同断ニ而候得共、風力少々強相成候事、
同十三日
一今日風力一ゑん無之、潮之満干ニ随ひ致通船候事、
但、日中ニ而遊撃より三度、同夜初更時分
両勅使様より壱度、菩薩加那志御前江御立願被遊候付、同二更時分より風丑之方より吹出候付、針筋卯辰之間、
六月十四日
一今日、風丑之方、針筋卯辰之間、夜中同断、
同十五日
一今日、風卯之方より針筋辰巳之間、五ツ時分久米嶋見懸候事、
同十六日
一今日、風寅卯之方、針筋巳午之間、七ツ時分久米嶋はんね崎拾里程近寄、石火矢打候得共、小舟不寄来候處、近辺江罷在候釣舟壱艘漕来候付、挽舟寄方致問合候処、八ツ時分数拾艘寄来候付、同夜三更時分はんね崎内表江挽入、錠を卸候事、
六月十七日
一今日、五ツ時分兼城泊前表江挽入候處、七ツ時分風未申之方相成候付、同所致出帆候処、酉時分より風力一ゑん無之、夜中嶋端より潮之儘致流行候事、
同十八日
一右ニ付、今日五ツ時分石火矢三筒打候處、挽舟共寄来候付、右嶋江挽入度折角相働候得共潮引強有之、挽舟共之力ニ而ハ中々難乗行、漸々南表江被持流候付、時分柄萬一此所ニ而風波荒立候儀共候ハヽ、大船ハ相凌可申候得共、挽舟共ハ可及失命儀案中ニ而、道そ差免呉り度、挽舟「者」共申立有之候付、御案内之上、夜三更時分より挽舟共相免候事、
附、本文通大船ハ挽方不容易、小舟「小振之船者」致挽方やすく可有之候間、少ニ而茂風力相起候ハヽ琉球より同鵈江到着之
上使御乗船之馬艦船召寄、右船江
両勅使様移上同嶋江御上陸為遊候歟、又者挽舟ニ而直ニ如琉球乗行候共、御案内之上両様之間時宜ニ応し取計可致含ニ而阿口通事共ニも内談仕置候処、風力同篇ニ而候故、漸々被持流候事、
同十九日
一今日八ツ時分、久米嶋南表江弐三拾里程被持流、如何可成行哉与至極致世話居候處、七ツ時分より風午未之方より少吹出候付、いつれも気を付「気力を起」又以如久米嶋通船仕候事、
同廿日
一今日風根最通候模様相見得候付、直ニ如那覇川乗行、七ツ過時分久米嶋通船いたし候事、
同廿一日
一今日未明、慶良間嶋座間味間切近ク寄候處、風力少又以被持流候躰相見へ候付、早速挽舟相雇させ挽方ニ而通船、九ツ時分より順風吹出候付、酉頭時分那覇へ致御入津候事、
六月廿二日
一今日、
両勅使様御下船被遊候付、於迎恩亭
上様美迎并諸事御先例通相済候事、
一右ニ付、天使館迄供夫「奉」仕、夫より仮里主所参上、
上様奉伺御機嫌、致帰宅候事、
一今日、私并存留・儀者・勤学人、頭号船・二号船船頭共召列、御書院・聞得大君御殿・按司・三司官御宅迄参上、帰帆之御届可申上候先例候處、唐麻疹相時行居候付、明日被召延置候事、
同廿三日
一今日、御船頭召列城間江差越、御奉行様・御役々衆江口上書名札を以御届、御見舞申上候事、
口上
御奉行様弥御勇健被成、御勤務珎重御儀奉存候、然者私事頭号船江乗合、今月九日二号船一同五虎門出帆、去廿一日那覇入津仕申候、為御届船頭召列参上仕申候、此旨宜様御披露奉頼候、以上、
六月廿三日 真栄里親方
一銀子百七拾三匁 半天
但、私并才府参官之時掛号銀手本代
右通致遣銀候處、戌年之例無之由を以所添「拂」帳ニ不足被相抜候、辰年者其例有之、此節之大宿役者茂私江渡方之御印紙相済、帳面勘定等相遂、尤
両勅使様江御用御取次之巡捕・書辨・總官・門遣拾人江差遣候掛号銀者、先例弐百九拾目ニ而候處、私帳者百九拾目ニ而、百め者立不足候間夫ニ而相補帳面差通候様、自然其儀不罷成「候ハヽ」戌年之例ニ而差通度、構之申口方筆者相談仕候得共、御座・奉行所御案内等相済居候付、重而申上候儀不相成段「有之」、無是非不足被相抜候事、
〔参考史料〕
鄭姓家譜
十世秉衡
童名松金字平如行二嘉慶十九年甲戌正月初九日午時生因兄秉鈞病故道光十六年丙申十一月十六日請命為嫡子
父良弼
母毛氏
室楊氏眞蒲戸嘉慶二十年乙亥六月二十三日生道光二十九年己酉十二月十七日死享年三十五葬于波上兼宮墓
長女眞鶴道光十四年甲午三月二十三日辰時生
長男蘭芬
次男蘭芳
三男蘭馥
四男蘭言
継室蔡氏眞嘉戸道光六年丙戌正月二十九日生
二女眞牛咸豐二年壬子六月十七日生同治二年癸亥十二月二十五日死享年十二葬于波上兼宮墓
五男蘭皐
三女武樽金咸豐六年丙辰十二月初二日生
六男蘭蓀
官爵
道光五年乙酉二月十九日為若秀才
道光八年戊子二月二十三日結欹髻為秀才
道光十七年丁酉十二月初一日擢通事陞若里之子
道光十八年戊戌十二月初一日頂戴黄冠
道光二十一年辛丑十二月初一日陞當座敷
道光二十六年丙午十二月初一日擢(都)通事陞座敷
同治二年癸亥五月初五日陞中議大夫
同治四年乙丑二月十三日陞正議大夫
同治四年乙丑四月十五日陞申口座
同治五年丙寅八月二十八日恭値 冊封大慶陞紫金大夫
勛庸
道光十七年丁酉七月為冊使臨國事奉 命為御前御宮仕兼書簡所〈俗云墨當方〉
道光十八年戊戌三月為讀書習禮事奉 憲令為勤學隨謝封北京大通事魏學源牧志里之子親雲上坐駕頭號貢船十二日在那覇港與封舟一齊開洋二十日到閩就師習業十二月十三日隨紫金大夫楊徳昌村山親方上 京翌年三月初五日届 京四月初四日由 京起程到通州張家湾登舟七月二十三日回到福州庚子三月因接回謝恩國使大通事王得才新崎里之子親雲上病死奉 謝恩使憲令為署大通事五月十六日坐駕其船五虎開洋十九日歸國復 命
道光二十四年甲辰六月因夷人等逗遛天久寺為重通事二十七年丁未五月事
竣退職
咸豐元年辛亥三月因夷人留在護國寺為其通事十一月二十七日方以退職
咸豐三年癸丑十月為教授官話薩州人事恭奉 憲令充為其師〈以其四年勤功準訓詁師一任〉從時厥後毎日厚教園田仁右衛門與大窪八太郎至八年戊午六月職竣退任〈園田仁右衛門于本年二月習完回國大窪八太郎于其七月習完回國〉
咸豐八年戊午六月有倭人岩下新之丞者為習官話事來到本國因此再奉 憲令充為其師〈勲功同前〉翌年八月職務全竣
同治二年乙丑五月初五日為護送山東登州府黄縣難人杜柏茂等事奉 命為大通事九月八日那覇開船十三日收泊海壇竹嶼口地方二十六日惨遭艇匪将本船牽至野馬山擱礁損漏搶劫貨物幸衡等在于該山遇救得生由陸送省荷蒙沿途地方官賞給棉布衣服竝供應飯食夫價十月初六日送至閩省隨将該難人等照例送官翌年五月初四日離驛登舟二十八日五虎門開船六月初三日回國復 命
同治四年乙丑二月十三日為迎接 天使事奉 命為正議大夫坐駕接貢船十月初七日那覇開船初八日到馬齒山候風十日該山放洋十七日到定海灣泊十八日到恰山院二十一日安挿舘驛次年丙寅三月二十六日為迎接 冊使事奉 布政司牌令起身二十八日到水口驛伺候四月二十日 冊封正使趙大人〈尊諱新〉副使于大人〈尊諱光甲〉由陸駕到水口驛秉衡同伴送官土通事等恭接 兩位大人即将 王世子咨文併布政司公文海防紅批事上于 正使趙大人此時伴送官請命 勅使率同夷官先到城中公舘候待 尊顔自此諸凡公務勵精赶辨五月十三日先登頭號封舟 兩位大人亦登封舟此時秉衡同土通事下坐杉板恭迎 節詔勅一同登舟十四日戸部起椗引程誤失至尾墩地方擱淺損漏赶緊卸貨十五日請命于 勅使回到舘驛 勅使及官員等亦歸留兩江會舘五月二十三日改換船隻六月初七日恰山院起椗初九日與二號封舟一齊五虎門開洋二十一日同到那覇港次日衡等跟隨 冊使下船上岸而到仮里主公驛奉候 王上聖顔後日進城復 命從時厥後毎逢 兩位大人出外必有跟隨焉秉衡在閩之時凡選擇封舟酌減弁兵減少貨物禁索舊欠併請辭改換火輪船等事皆已有禀蒙所具之禀及各衙門所示批文倶載在公案
同治六年丁卯七月二十日因賜褒章曁物件其所賜褒章記左
覚写(原文草書)
一掛物一幅 一丁子風呂一通 一嶋紬二端
真榮里親方
右者接封大夫ニ而渡唐之砌、評價物多不持渡人参并肉桂・麝香其外高直之品々持渡無之、且唐人共於琉球借銀催促不致様可相働旨申渡候處、御構之向々江段々御内意申上候付、評價物減少ニ而持渡方且於琉球借銀催促法外之事不仕出様、夫々告示を以厳重御締方被仰渡置且
勅使様御乗船并二號船之儀、新作事小振之等より御見合有之候様、是又可相働旨申渡候付、渡唐早速頭二號船可致相應船佐事共江見分させ候處、居合船々之内両艘者新作事程合茂大抵渡唐船同様相見得候段申出候付、阿口通事并布政司衙門之掌案共申談右両艘江御賦付被仰付度趣を以海防官御方江願立段々御内意等申上候付願之通御賦被仰付、且頭號船之儀致川下候砌、引港共溝違ニ而淺目江走揚致関湯(揚)候付、
勅使様より總督御取持之戦船火輪船江御繰替之方ニ御申立有之、其通ニ而茂可相済哉、琉人共江相尋御返答可申上旨福州府税官より阿口通事筆者王秉謙江御達有之、猶又
勅使様より茂屹与火輪船江乗船可願立旨御直御達有之候處、其通ニ而者異人茂乗合申由ニ而於琉球段々故障筋差見得候付、唐船より御渡海被遊候方是又段々相働、願通唐船江御乗船被仰付候由、且長毛賊共海路相妨候茂難計事候付、
勅使御召列之武官遊撃之場者副将、都司之場者參将被仰付、且千總把總両人宛重御渡海被仰付度布政司衙門之師爺共内々取企候由承、副将參将千總把總御渡海被成候ハヽ附隨之者共大分相重及御物入事ニ而、戌年之例通遊撃都司御渡海之方ニ右師爺共江段々内意申込其通相済、畢竟御用之程厚汲受一涯骨折相働候故、夫々都合能相成一稜之働御座候間為御褒美右通被
成下度奉存候事、
以上
〈卯〉七月廿日
右之通言上相済候間、明廿二日登
城頂戴可被成候、以上
〈御評定所筆者〉
屋嘉比里之子親雲上
〈卯〉七月廿一日
小那覇里之子親雲上
真榮里親方
同治五年丙寅九月十日奉 命為署總理司
寵榮
同治四年乙丑二月十三日為接封大夫其秋臨行之時恭蒙 王上遣官贐賜白麻五束烟管十五對烟草六十把練蕉布三端又蒙 國高祖母及 王妃遣官贐賜白麻各二束烟草各二十把
同治五年丙寅八月二十八日陞紫金大夫恭蒙 王上及 國高祖母 王妃各遣官賀賜御玉貫一雙
同治五年丙寅十一月二十六日恭蒙 聖主遣下庫理當官賜諭書曰冊封之時凡事盡心善完一世一次之大典誠為歡怍由是於 皇上賞賜緞疋之内頒賜一緞是誠家門榮光也
采地
咸豐元年辛亥七月十九日因承父家統續授高嶺間切仲城地頭職〈改稱眞榮里〉
俸禄
咸豐元年辛亥七月十九日因継父家統減賜知行高四十石
同治五年丙寅九月十日拝為署總理司〈加賜役知四十斛共計八十斛〉
婚嫁
長女眞鶴適王瑞蘭知名秀才
長男蘭芬娶魏學賢牧志里之子親雲上長女眞鶴
次男蘭芳娶鄭紹業古波藏里之子親雲上長女武樽金
四男蘭言娶梁超群安慶名親雲上長女眞鶴
(『那覇市史 資料篇第1巻6 家譜資料二』七〇〇~七〇二頁、一九八〇年)