{{ryu_data.f5}}
資料詳細
- 資料ID.
- {{ryu_data.f32}}
- 資料種別
- {{ryu_data.f5}}
- 資料名
- {{ryu_data.f7}}
- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
- {{ryu_data.f30}}
- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
- {{ryu_data.f13}}年 {{ryu_data.f14}}月 {{ryu_data.f15}}日
- 曜日
- {{ryu_data.f16}}
- 差出
- {{ryu_data.f21}}
- 宛先
- {{ryu_data.f22}}
- 文書形式
- {{ryu_data.f26}}
- 書誌情報
- {{ryu_data.f27}}
- 関連サイト情報
- {{item.site}}
- 訂正履歴
- {{ryu_data.f24}}
- 備考
- {{ryu_data.f33}}
テキスト
梅公氏等漂流一件注記
糸数兼治
一 史料
福建等処承宣布政使司は、敬しんで硃批を録せる抄摺もて行知せんが事の為めなり。
乾隆二十一年三月十四日、奉けとりたる総督部堂喀(爾吉善)の憲牌に『照得するに、本部堂、繕摺具奏す、「琉球太平山番人梅公氏等の夷船風に遭い、厦(門)に飄す。飭行じて、憮䘏し、船を修し、口糧を資給し、護送して(福建)省に至りて安頓し、琉球貢船の国に回へるを俟ち、其をして開駕同行せしめん等因」と。乾隆二十一年正月二十四日に于いて奏し、二月二十三日硃批を奉到けとりたるに、「知道了。此を欽み、欽み遵え」とありたれば、合就ちに抄摺もて行知せんとして牌を備えて司(布政使司)に行り、奏摺内の硃批を奉じたる事理に照依して即便に転行し、欽遵して査照弁理せしめ、該司仍お即ちに詳を叙して先ず呈請を行い、部に咨して違うこと毋かれ等因』とあり。
計発したる抄摺一紙の内に開く、【奏聞の事の為めなり。窃かに照うに、本年正月十六日、福建海防興泉永道白瀛水沛堤標中軍参将王陳栄の報称に拠れば、『乾隆二十年十二月十四日、琉球番人梅公氏・上官氏等三十六名、雙篷船一隻に駕し、風に逢い、厦(門)に飄す。該地汛弁して船に到り査験したるに、該船の大桅篷舵倶に已に失去す。厦門には並えて琉球の番語に諳暁する通事無きに因り、随いて字を写して問う。番目梅公氏等、字を写して回称するに拠れば、「大琉球内太平山の船に係る。米粟を年貢せんが為め、五月二十四日に于いて解りて王府地方に至り交納し、十一月二十七日王府に在いて開行し、太平に回らんと欲す。一路風に遭い此の地に飄至す。一人の駕を幇くるものを求め(得て)福建に至らば、琉球館中就ち好く商量して回去せしめん。船内並しも貨物無く、亦た炮械無し。銭米は已経に用い完れり等語」と。当即ちに酒肉を賞給し、名を按じて口糧を給与し、初お舡隻を将って内港に導入し、兵役を派撥して防護せしめたり等情』前み来たる。臣、即ちに報に拠りて藩司(布政司)に飛行し、井びに(巡)憮・提(標)二臣に咨明し、即ちに該船より選撥せる熟識水手と共役の差員とを将いて護送し、至りて福防庁衙門に有交して収管(小)心に防護せしめ、琉球貢船の回国するを俟ち、其をして開駕同行せしむ。其の損壊の桅柁・風篷・槓椇等の項は、匠を召し、動項を勘佑して興修せしめ、日を按じ、口を按じて口糧を資給し、務めて意を加えて撫恤安頓し、例に照らして安弁して失を致す所毋からしめ、以って仰いで、我が皇上、遠人を懐柔し、難番を矜䘏するの至意に副わんとす。所有の動用して船に備うるの口糧等の項は、事竣わり実を核べて部に報じ、咨もて井びに陳明せしめん。此が為に恭しく摺もて奏聞す。伏して祈るらくは聖鑑あらんことを。謹んで奏す】とあり。此を奉け、又、前の事の為めなり。本年三月二十七日、奉けとりたる巡撫部院鐘(音)の批には、【本司詳す、『査得したるに、琉球国太平山夷人梅公氏等、乾隆二十年十二月十四日に于いて風を被け、厦(門)港に飄入し、経に営庁、稟報す。督憲の奏報して欽しんで硃批を奉け、司に行りたるを奉けとりたるに、欽遵せよとあり。本司、査するに、乾隆十九年、琉球国難夷豊宇望等一十九名、風を被け台(湾)に到るに、護送して(福建)省に来たらしめ、安挿するの日を以って始めと為し、毎人に日に米一升・塩菜銀六厘を給し、回国の日、行糧一箇月を給して以って長途の食用に資す。又、毎人に別に扣藍布四疋・棉花四疋・茶葉・烟麪各一觔を賞給し、別に猪一口・羊一牽・酒一埕を共給せり。茲に梅公氏三十六名は署福防同知奇寵格の申報に拠れば、「乾隆二十一年二月初九日、厦(門)自り船に駕し、護送せられて省に到るのとき、即ちに是の日に于いて験明安挿して館に入る。塩菜・口糧・賞賚の布棉・烟麪・茶葉等の項は、例に照らして給発するを除くの外、所有の猪・羊・酒の三項は、此の次人数較々多く、応に加倍して賞給すべきに似たり」と。接貢船隻返棹の日には、各々に行糧一箇月を給し、遣発連䑸して回国せしめ、需むる所の銀両は統べて乾隆二十一年に存する公項の下に在いて動撥し、事竣われば造冊、詳請、咨銷せしめん。是れ理として合に例を査して詳報すべきや否や、伏して憲台の察を候ち、該に部に咨すべし等由』と。批を奉けたるに、「仰いで督部堂(の批示)を候ち、部に咨せ。繳せ】とあり。此を奉け、
又、稟報の事の為なり。本年三月二十七日、奉けとりたる巡撫部院鐘(音)の批には、【福防庁の稟称に拠れば、『切に照うに、琉球国太平山夷人梅公氏等三十六名、風に遭い、厦門に飄収す。経に福防庁通報す、「該夷、原と駕りたる船隻を将って修葺し、舵工水手を雇募し、代わりて駕駛を為さしめん」と。乾隆二十一年二月初九日に于いて、差役護送せしめ、省に到りたり。当経ちに卑職館駅に安挿し、井びに該番船に赴き査験したるに、僅かに木箱一十箇有り。内に線香を蔵貯す。小木箱三十余箇は、内に盛装の一二件の衣服有り。大小の礶六十箇、内、食塩を装貯するに係るもの毎礶約十余觔有り。当経ちに具文して藩司に詳報し、核転すること案に在り。卑職誠に恐る、水梢人等従中、或いは別に違禁の貨物の隠匿暗蔵する有りて、遺漏せらるるを致さんことを。当経ちに五虎司に転飭し、該難夷の行李・雑物を搬運して館に進むの時に于いて、心を留めて是れ原と報じたる数目と相符するや否やを稽察せしめ、抑々或いは尚し隠匿して多く帯ぶるの処有らば、飭して細査稟報せしめ去後れり。続いで、本月初三日に于いて、該巡検魯如洵の稟称に拠れば、「遵査するに、難夷は、二月二十六、二十七等の日に于いて、雑物・行李を将って、陸続として搬運して館に進む」と。卑職、遵即に逐一其の中を細査したるに、並しも、夷、違禁の貨物を帯ぶる無し。惟だ捜出せる草包三百余箇は倶て塩觔に係る。随即ちに琉球国存留通事毛景成と会同に親から館内四橺楼下、頓塩の処所に詣り、包を逐いて査点するもの共計三百五十包、毎包秤の重さ五十觔なり。内に六十包の塩有り。之を原との包に較ぶるに欠少あり。称に拠れば、「舡底に放在して水を被むり、浸消す。寔に共に食塩一万六千余觔は、理として合に稟報すべし等情」と。此を拠けたれば、卑職、随即ちに親から琉球館駅の、塩觔を安頓するの処所に詣たり、査点したるに、異なる無し。当即ちに夷官の通事に伝到して訳せしむ。難夷梅公氏等の供称に拠れば、「這の塩は是れ本国中山地方に在りて買回し、太平山に帯びて日食と作さんと要る的なり」と。小番人・們従、曾って中国に到過せざるに因り、中国の法度を知らず、帯ぶる所、太だ多く、禁令を犯すこと有らんことを恐怕す。此の故に蔵して船底下に在り。前日厦門に在るの時節、未だ曾って報出せず。所以に省に到るも亦た敢えて回明して験を請わず、前後互いに異なること有るを致す。如今、已に数を尽くして館内に搬在し了れり。這是の小番人、察を求めんが起見の情を知る無し。又、問う、你們の説うところに拠れば、這の塩は是れ琉球中山に在りて買回し、日に食すと。今般已に風に遭う。你們、是れ難を被くるの番人は、中国優く憮恤を加え、凡て船上の東西は原とより許す。你、全数具報するも並しも是ならざる無し。何の害怕か有らん。中国の塩觔は、都て官商に由りて給買す。若し禁に違いて私かに販ること有らば、即ちに私塩の例に照らして罪を治せん。你們、何為ぞ塩觔を隠瞞するや。舡底に装在して匿して報験せざるは、這れ明らかに是れ人の勾引するもの有りて、你と私買私売して弊を作さんとするなりと。実に拠りて供せしめ、訳供せしめたるに、委く小番人何に係るなれば、中国の法度を知らず、心上、帯ぶる所太だ多く、些か便ならざる有るを害怕し、敢えて具報せざりしなり。従中も、並しも敢えて人家と勾引し、私買私売の情弊あらず。這れ、総べて是れ、外番愚民の無知の致す所にして、未だ詳らかに察せざるなり等、供す。此れを拠けたれば、該に卑職、遵いて査すべし。琉球難番梅公氏等、本国中山地方に在りて食塩を買回す。違禁の貨物に非ずと雖ども、但だ応に船底に暗蔵して隠匿するは、報ぜざるべからず。業経に、卑職、五虎司に飭行して逐一捜査し、原と報じたる六十礶を除くの外、別に草包三百五十包、計重さ一万六千余觔有り。訳訊するに、該難夷の供称に、「中国の法度を知らず、数、過多にして禁令を犯す有るを恐為れ、是の以に厦(門)に在りて未だ経に報明せず、省に到りても亦た、敢えて回明して験を請わざるなり」とあり。再四窮詰するに、委く別の情無し。随いて厳に夷官通事に諭し、塩觔を将って加謹収蔵せしめ、夷人の日食に資するを除くの外、余は本船回国の時を俟ちて、仍に即ちに数を尽くして運回せしめ、民人を勾引して私買私売し、弊竇を滋くするを致すを許すこと毋からしむ。理として合に摺を具して憲台の察核示遵するを稟請す等由』と。批を奉けたるに、「稟に拠れ。已に布政司に委せ仰じて、転飭知照せしめたり。仍に督部堂の批示するを候て。繳せ。】とあり。此を奉け、
又、報明の事の為めなり。本年四月十四日、奉けとりたる巡撫部院鐘(音)の批には、【本司詳す、『査得したるに、琉球国王を冊封するの欽差正副使全(魁)・周(煌) は、二月初九日に于いて、京自り起程し、部の発せる前行牌もて沿途伝逓し、先に二月二十九日閩に到る。案拠とりたる閩県の詳報には、「憲台の批を奉けたるに、司、査明し、飭に遵い具報せよ」とあり。当経ちに、本司は、礼部の題明せる応に行うべきの事宜を将って、備に咨文に叙べ、飭して福防庁に発り、転じて夷官に給して収領せしめ、期に先だって舡に駕して回国し、世子(尚穆)に齎し交し、預じめ備うるを知らしめ、井びに報明せしむること案に在り。茲に署福防同知奇丞の申報に拠れば、「琉球国飄風難夷梅公氏の船隻は、現に修理将に竣わらんとするに在り」と。夷官の議に拠れば、「接貢船上の総管一名梁廷輔・跟伴一名比嘉・水梢二名与納嶺、伍世頭を撥し、部の発せる前行牌、同び本司の咨文とを齎帯して飄風の夷船に座駕し、各難夷と仝に先行回国せしめん。花名の清冊を造具し、呈送す」とあり。前み来る。理として合に転詳すべし。伏して憲察の批示するを候ち、以って飭もて離駅・登舟及び長行回国の日期を取りて具報するに便ならしめよ等由』と。批を奉けたるに、「詳の如く行え。飭もて離駅・登舟及び長行回国の日期を取りて詳報し、例お督部堂の批示するを候て。繳せ。冊は存す」とあり。此を奉け、
又、詳明の事の為なり。乾隆二十一年五月初三日、奉けとりたる巡撫部院鐘(音)の批には、【本司詳す、『査得したるに、琉球国属島太平山夷人梅公氏等三十六人、風に遭いて飄し、閩にて安挿入館す。続いで署福防同知奇丞の申報に拠れば、「難夷の船隻は、修理将に竣わらんとす。議するに、接貢船上の総管梁廷輔・跟伴比加・水梢与納嶺、伍世頭等共に四名を撥し、部の発せる前行牌、同び本司の咨文とを齎帯し、飄風の夷船に座駕し、各難夷と同に先行回国せしめん。花名の清冊を造具して請示す」とあり。当経ちに由に拠りて詳す。憲台の批を奉けたるに、「繳行遵照するを准す」とあり。嗣いで申報に拠れば、「船隻は已経に修し竣われり。四月二十四日を択び離駅登舟す」とあり。随いで賞賚の物件を給するを請う案の内に于いて、一井に詳報すること案に在り。茲に該庁の詳報に拠れば、「飄風難夷の内、嘉善氏・本原氏二名は先に経に出痘し、身、故す。尚に痘症に染患するの難夷一十一名の、遣回に便ならざるもの有り。再び接貢舡上に于いて跟伴向唯祐等五名を撥出し、船に随い駕駛して先に回えらしめ、其の遣回の接貢総管・梢伴人等の自己ら買う所の貨物は、其の随帯して回国するを聴し、接貢船の内より撥回せる梢伴人等は、向のごとく行糧を給与せざるを除くの外、所有の現に駕回するの難夷に在りては、例として応に各々に行糧を給し、其の余の館に留まりて患病を医治するの各難番には、夷人の情愿によりて糧食を頒たずと雖えども、応に旧に照らして口糧を供給し、接貢船隻回国の日を俟ちて、別に行糧を給して遣わし掃すべきに似たり等由と。并た、現に国に回えるの夷人に在りては、花名及び帯回の貨物・食塩の数目を将って、清冊を造具して、詳もて送らん」と。前み来たる。本司、覆査するに、「飄風の難夷の在館の口粮・回国の行粮は、報銷に関わる有り。接貢の官伴には、例として口糧・行糧を給与せざるの比すべきに非ざるなり。今、難夷仲地氏等一十一名は、現に痘症に伝染し、館に留まりて医治するに因り、所有の将来の按日の口粮及び附搭して回国するの行糧は、自から応に例に照らして給発し、その現に遣わし帰るの難夷石地氏等二十三名に在りては、先行して各々に行糧一箇月を給して以って長途の食用に資すべきなり。議に拠り、接貢舡内より再撥せる水梢向唯祐等五人に至りては、前に撥せる総管・梢伴梁廷輔等四人に随同して、代わりて駕駛を為し、前行牌を齎送して帰国せしめ、各人の置買せる貨物曁び難夷の原と帯びたる食塩一万六千觔は、先行して舡内に装載し運び回えらしめ、接貢回国の時を俟ちて査明扣除し、重複を許さず。多く帯びるの処は、事は行すべきに属す。応に請う所の如く飭して該庁をして親から舡内に赴き、逐一験明して以って夾帯の諸弊を杜ぐべし。是れ理として合に詳明すべきや否や、伏して憲察の批示するを候ちて遵行せん等由』と。批を奉けたるに、「詳の如く行え。仍お督部堂の批示するを候て。繳せ。冊は存す】とあり。此を奉けたれば、合に就ちに咨を給して遣発すべし。此が為めに咨を備えて貴世子に咨す。請煩わくは、欽遵査照して施行せられたし。須からく咨に至るべきものなり。
計、移送するもの、回国の花名・貨物冊一本
右、琉球国中山王世子 尚(穆) に咨す。
乾隆二十一年五月初十日
右の史料は、福建等処承宣布政使司が琉球国中山王世子尚(穆) に宛てた、厦門漂着の太平山番目梅公氏等三十六名のうち二十三名を琉球に送還する旨の乾隆二十一年(一七五六)五月十日付け咨文である。原文は台湾大学印行『歴代宝案』(二八一二頁)に収録されている。これについては『梅公姓家譜』『八重山島年来記』『参遣状』などに関連する記事があるので若干の注記を試みたい。
二 漂流
厦門漂流について『梅公姓家譜』(小宗)三世孫格の条には次のごとく記されている。
乾隆二十年乙亥(一七五五)公務宰領の事の為に王府に到る。公務全く完はり、回嶋の洋中、颶風に逢ひ、唐土に漂至す。歳次子(一七五六)六月、疱瘡出発して死す。
さらに同「勤書」には、
亥年(一七五五) 、御物穀為宰領上国。
附。帰帆之砌逢逆風、唐江漂着。次子六月、於唐疱瘡、役中病死。
とあり、『八重山島年来記』乾隆二十年(一七五五)の条には
一、仲立石垣船帰帆之砌、波照間南方壱里程沖ニ懸留、船中祝ひ候内、夜中碇を引、次日島茂不見得、無是非風侭唐漂流、疱瘡出、西表首里大屋子人数拾人余相果候。
一、右、次子年(一七五六)冠船おきなはかなし江御渡海之段、飛舟名蔵目差江被仰付、無恙那覇参着、御届申上、折角其手組被遊、無間違御迎為有之由、右目差ハ新城与人被仰出候。
附。右飛舟之儀、御大礼相懸、肝要成御用筋ニ而、御褒美被仰付度段奉訟候処、御取持可有之候得共、左様ニ而以後其頼之時、漂着可致儀ニ付、御取持無之由候。
とある。これらの琉球側史料はいずれも簡略に過ぎるが、それでも例えば船の種類、王府渡航の目的、波照間島沖投錨中流されたこと、西表首里大屋子(梅公氏孫格)以下十人余が疱瘡を煩い、福州において死亡したこと等、咨文では必ずしも明らかでない事実が少なからず判明する。しかし八重山島出船の日時や積載貨物等不明な部分も多い。しかるにこうした点はさきに掲げた咨文によっていくつか補うことができ、双方の記述を突き合わせることで、梅公氏等漂流一件の全貌がかなりの程度まで把握できる。梅公氏乗船は福州で修理を終えたあと、尚穆の冊封使(正使全魁・副使周煌)の渡琉を急報する前行牌飛舟の役目を負わされて那覇に急行する。『八重山島年来記』は名蔵目差某の新城与人への昇進とからめてこのことにも触れている。
さて梅公氏乗船の種類であるが、それは前掲『八重山島年来記』の記載によって馬艦仕立の「仲立船」であったことが明瞭である。仲立船については同じく『八重山島年来記』雍正八年(一七三〇)の条に、
一、地船之儀、十五反帆二艘ニ而候処、馬らん作り召成、十三反帆三艘御召成、先立より頭壱人・与人壱人・蔵筆者壱人、仲立より首里大屋子壱人・目差壱人、跡立より与人壱人・目差壱人〆七人仲乗被仰定候也。
とある。仲立船が新設されて先立(春立)・仲立、跡立三艘七人体制とし、乗員の再編成などが行われた。『参遣状』に雍正九年(一七三一)在番玻名城里之子親雲上が御物奉行所に宛てた文書に「地船古次第馬艦ニ相改三艘ニ相成候節、上国役人仲乗御賦被仰下奉得其意候」とある。先立船・仲立船は当年の貢租の運漕に当たり、跡立船は前年の諸帳簿の取締め等を行う。先立船・仲立船・跡立船の宰領人はそれぞれ頭・首里大屋子・与人である。梅公氏孫格は乾隆十八年(一七五三)西表首里大屋子に任じられ、同二十年仲立船宰領(「番目」の訳語が充てられている)を命じられたのであろう。仲立船の出船時期については『与世山親方八重山島規模帳』(乾隆三十三年、一七六八)に
一、地船之儀、春立・仲立ハ四月中、跡立ハ五月中致上着候様、諸事仕舞方差急キ出帆可申渡事。
とあって、四月中の上着を指令しているが、例えば『錦芳氏家譜』(小宗)について実際の出帆上着事例をみると、「仲立馬艦、五月二十二日石垣泊開船、十月十二日回嶋」(道光五年) 、「仲立馬艦、七月初二日開船、十月十二日回嶋」(道光六年)等とあって、四月中の上着事例はなかなか見当らない。公用地船はおおむね四月から七月までの間に石垣港を出帆し、九月から十二月までの間に帰嶋する。前掲咨文中の供述内咨によれば、梅公氏宰領仲立馬艦船は、乾隆二十年( 一七五五)五月二十五日上着し、同年十一月二十七日那覇開洋とある。これは上記のことからして事実を報告したものと認めてよかろう。厦門漂着は同年十二月十四日のことで、ついで翌乾隆二十一年二月九日厦門を出て福州に回航され、同年四月二十四日福州を離れている。
三 食塩
次に積載貨物のことであるが、前掲咨文によれば、梅公氏乗船には線香・衣服の外、大量の食塩が積み込まれていた。すなわち次のとおりである。
(一) 大小の罐六十箇(内、食塩を装貯するに係るもの毎罐約十余觔)
(二) 草包三百五十包(毎包、重さ五十觔、共計一万六千余觔。内、六十包は斤目欠少す)
草包三百五十包の食塩については当初においてこれを申告せず、のちに捜出せられ、はじめて明るみに出たもので、漂流にかこつけて私塩を持ち込み、船底に隠匿して密かに販売し、またはしようとしたのではないかとの疑いがもたれた。ことに六十包については斤目が不足していたため、一層の疑惑を招いた。中国では塩は政府の専売で、塩税は国庫の主要財源の一つであり、私塩の売買を禁止していたから、もし私販の事実があれば「私塩の例に照らして罪を治せん」といい、厳しく追求したが、結局「この塩は本国(琉球)中山地方に在りて買回し、太平山(八重山嶋) に帯びて日食となさんとす」という梅公氏等の釈明を了解し、私買私売の情弊なしという結論に達したのであるが、この梅公氏等の供述の信憑性については、これとは別に当時の八重山嶋における製塩状況及び塩の需給関係等を調べ、これをもとに改めて検討してみなければならないであろう。以下にまず関連史料を年次を追って掲出する。
①口上之覚(参遣状)
恐多千万奉存候得共申上候。下拙事、自躰不如意之者ニ而、堪忍方不相続、必至与及無為方躰、相考申候得ハ、八重山嶋之儀ハ題目不自由之所ニ而、御当地より買渡相続事ニ御座候。然ハ石垣村近所ニ名護浦与申所能潟有之候由承知仕候。於彼嶋塩焼候而、向後嶋中之為ニ罷成、其上自身堪忍方も少し相続可申哉与存寄申ニ付、内々所之頭衆江相談仕候得ハ、勝手能可有御座由被申候。身上御助ニ被思召上、五六ケ年之方御赦免被成下候ハハ、親子三人罷渡、塩焼出申願奉存候。尤所之厄害罷成儀、曾而仕間敷候。此等之旨可然様御披露奉頼上候以上。
亥(康熙三十四年、一六九五)六月二十八日 儀保筑登之親雲上
此表遂披露候之処、嶋中之重宝ニ可罷成由ニ而、御赦免被成下、此節大濱親雲上乗船より相渡候条、年季過候ハハ可被差上候。尤処中之厄害ニ罷成儀絶而仕間敷由、堅申渡置候。彌於其地も無違背様ニ能々可被申渡候以上。
亥(康煕三十四年、一六九五)八月二十二日 城間親雲上
富盛親方
在番
②口上之覚(参遣状)
恐多御座候得共申上候。儀保筑登之親雲上、去五月之比より熱病仕、色々手養生共仕候得共、漸々疲入、十一月十一日被致死去候。且又我々儀も此中節々相煩、塩不焼得、殊ニ当年も七八月比ニ両三度大風ニ塩屋塩濱悉ク破損仕候。然者儀保儀も長病ニ而為被致死去儀ニ御座候故、我々両人之才覚ニ而塩屋塩濱取扱不罷成、必至与迷惑至極之躰にて、当夏儀保訟之節御達被下候上者、難有仕合ニ御座候故、何与楚相働可相働与奉存候得共、当嶋之儀、日用支、少も不被相雇候得ハ、以後塩焼得申儀不罷成候。尤右仕合ニ而、借米・はん米等続申儀候問、月ニ五斗完定納仕様無御座候間、御憐愍ニ被思召上、
願之筋御赦免被下候様ニ宜御取成御披露奉頼上候以上。
丑(康煕三十六年、一六九七)十二月九日 嶋袋にや
嶋袋にや
③口上之覚(参遣状)
恐多御座候得共申上候。我等事、去亥年(一六九五)、儀保筑登之親雲上ニ相付、為塩焼当地罷下候処、飯米差迫ニ付、焼出塩見当ニ而借米等仕、飯米相続、塩濱等拵候処、数度之大風ニ塩屋塩濱悉ク破、其上長々相煩申ニ付、塩焼出申儀不相達、彌借米過分仕候処、儀保筑登之親雲上不慮ニ死去仕候。然者我々弐人ニ而以後塩焼出申儀、彌難成ニ付、月五斗ツツ定納御赦免被下度旨訟申上候上ハ、本国被仰付候儀、御尤奉存候得共、右借米返弁不仕上国仕儀、迷惑千万必至与差迫儀ニ御座候間、御助ニ被思召上、四五年逗留御赦免被下候ハハ、借米返弁働仕度奉願候条、此等之趣宜様御披露奉頼上候以上。
寅(康煕三十七年、一六九八)五月二日 〈塩焼〉
嶋袋にや
④口上之覚(参遣状)
恐多千万奉存候得共申上候。下拙事、塩焼可申旨訴訟申上、罷渡候之処、殊之外塩不出来仕、過分ニ借物仕出シ、迷惑至極行迫申候。然者此節上国可仕由、被仰付候間、おかミ届申候。尤上国可仕本儀ニ御座候得共、借物返弁之見当少も無御座、其上子共生候処、母相果申ニ付、彼之子共養育仕儀ニ候間御憐愍ニ被思召上、四五年当嶋ヘ滞留御赦免被下度願望ニ奉存候。此等之趣万反可然様御取成奉頼候以上。
寅(康煕三十七年、一六九八)四月二十三日 〈泊むら〉
嶋袋にや
⑤(参遣状)
右去年六月より塩焼出、塩月ニ五斗完上納被仰付被下度由、訟申上相達候間、入念塩焼出、上納無滞可相納旨、堅固ニ申渡置候処、去年も大風有之、塩屋塩濱相損、殊ニ儀保筑登之親雲上儀、長病之儀ニ而相果、残ル弐人之者ニ而、向後塩焼得申間敷候。然ハ去年以来上納塩之儀、早々可相納旨、堅差引申渡候得共、塩不焼得、飯米さヘ他借を以漸罷過候得ハ、少も上納之術無御座、差迫候由申出候。依之此節帰帆申付候得共、於爰元度々塩屋之取拵并飯米用与シテ過分ニ借物有之、返弁之見当無之、必至与差迫申躰ニ而候間、四五年滞留御赦免被成下度由訟申出候。然者塩焼得不申儀候得者、此節差上可申杜、本意ニ御座候処、段々訟申出差迫候為躰聞見仕、相違無御座候条、御憐愍被思召上、願之通四五年滞留被仰付度奉存候。此等之趣、宜様御取成御披露頼上候以上。
寅(康煕三十七年、一六九八)五月二日 石垣親雲上
宮良親雲上
当銘筑登之親雲上
右之通被申出候間、宜様ニ御披露奉頼候以上。
月 日 大宜味親雲上
富盛親方様
豊見城親雲上様
此表書之通逐披露候処、上納塩之儀、願之通御赦免被下候。其地江四五年滞留之儀ハ、不相達候条、両人共来夏早便より可被差渡候以上。(上納御免被下候段ハ、さん用座へも引合書遣候也)
寅(康熙三十七年、一六九八)九月十八日 棚原親雲上
宮平親方
〈八重山嶋〉
在番
⑥覚(参遣状)
一、其嶋塩焼不申ニ付、大和人より買取、代米相払候砌、不憲法ニ有之。所之痛ニ罷成候間、塩焼候ハハ勝手能可有之由、簡略人数申出候。往古より不手馴業ニ而如何敷与存、被致差引候処、御当地国頭方塩竈之様ニシテ小ク仕立、焼候ハハ、出来可申由申出候ニ付、試ニ焼させ度由被申越、逐披露候処、彌可然由被仰出候条、焼させ、首尾可被申越候。
右八ケ条(七ケ条省略)、簡略人数より申出候ニ付、諸役人江僉議被申渡、両様書付ニ而、各逐僉議被申越由候得共、諸役人書付ハ取落、不被持渡候間、右書付、来夏取寄候ハハ、何連之筋ニも相極候様ニ与、大宜味親雲上被申出候。然共各僉議書ニ而相見得候ニ付、逐披露、此節返詞申越候条、被得其意、堅固ニ可被申渡候以上。
卯(康煕三十八年、一七〇六)十月十三日 棚原親雲上
田場親方
〈八重山嶋〉
在番
⑦外題万御問合書(参遣状)
一、当嶋塩焼不申ニ付、大和人より買取、代米相払候砌、不憲法有之、所之疲罷成候間、塩焼候ハハ勝手能可有之由、簡略人数申出候。往古より不手馴業ニ而、如何敷被存、差引候処、御当地国頭方塩埪之様ニシテ小ク仕立、焼候ハハ、出来可申由申出候ニ付、試ニ焼させ度由被申越、逐披露候処、彌可然由被仰出候条、焼させ、首尾可申上由被仰下候処、当時上納之時分、百姓隙入、其上山留ニ而候間不罷成、稲刈仕廻、百姓隙明時分試ニ焼させ、兎角首尾来夏可申上候。
右条々(二ケ条省略)、為御問合、如斯御座候以上。
辰(康熙三十九年、一七〇〇)四月二日 〈在番〉
渡久地親雲上
田場親方様
棚原親雲上様
⑧覚(参遣状)
其嶋之儀、塩無之、不自由有之候間、焼させ度由、去夏簡略人数より申出ニ付、先試ニ可為焼由申渡候。然処其嶋ニ而塩焼候得ハ、万反作物之為ニ不罷成之由、嶋中歳寄共申候。去亥年(一六九五)ニ茂、御当地より儀保筑登之親雲上罷渡、焼候処、四五年之内ニ大風数度吹候而、旁以不出来仕事ニ候間、御召留被下候様、大地六ケ村百姓願書ニ、先在番・頭次書ニ而被差越、得其意候。得与落落仕候条、追而何分与可申越候以上。
巳(康煕四十年、一七〇一)十一月五五日 瀬底親雲上
富盛親方
〈在番〉
奥原親雲上
⑨覚(参遣状)
一、当嶋、塩不自由ニ付、焼出せ度由、去々年(一七〇一)簡略人数より申出候得共、大地六ケ村百姓願書ニ、前々当所ニ而塩焼候得ハ、大風有之、作物之為不罷成由申出候。尤塩焼出シ申儀も所中潤ニ可罷成与存申候処、作物之為不罷成由申出候間、御召留可被下候。
右之通詮議仕候間、宜様御取成御披露奉頼候以上。
未(康熙四十二年、一七〇三)四月三日 目差弐拾六人
与人拾六人
首里大屋子三人
右申出之通可然与奉存候間、致披露候以上。
未(康熙四十二年、一七〇三)四月十九日 所之頭三人
掛保久筑登之親雲上
〈在番〉
奥原親雲上
⑩覚(参遣状)
一、其元、塩不自由ニ付、焼出度由、去々年(一七〇一) 簡略人数より申出候得共、大地六ケ村百姓願書ニ、塩焼候得ハ大風有之、作物之為ニ不罷成由、申出候付、召留可被下由候間、逐披露候。彌召留候様可被申渡候以上。
未(康熙四十二年、一七〇三)十月十一日 保栄茂親雲上
奥平親方
〈八重山嶋〉
在番
⑪ 康煕五十六年(一七一七)(八重山島年来記)
一、こたう潟ニ而、所遣夫を以、塩焼初より十四年迄相保焼出候処、召留候也。
⑫覚(参遣状)
一、塩焼之儀、夫丸太分入候付而、右(壺焼)同前ニ試被仰付置候。此程試申候得者、太分之入目ニ而、筈合不申儀ニ御座候。且又去々年(一七二八)上国仕候新城与人并古見にや、薪木無ニ塩干之稽古仕候ニ付而ハ、所中重宝ニ候間、随分致下知、已後其干塩ニ而所之用事達候様ニ与被仰付趣、奉得其意候。然者干塩之儀も試申候処、丈夫ニ出来不申、其上雨続之時分ハ、人夫費不勝手ニ御座候。塩屋方之儀、方々より寄夫ニ而相働せ候故、百姓中農作之障ニ相成、尤大地中迄ニ而不相達、離村三四里之所よりも寄遣候故、海路之往還天気悪敷折節ハ手隙費、持飯米仕、旁百姓之不勝手ニ罷成申候。御国の塩代ニ差引候得者、太分之損亡ニ而御座候。且又諸村之儀、用事之分ハ自分ニ而焼出候様見及申候間、寄夫ニ而塩焼候儀ハ、以後御召留被仰付可然哉与奉存候。
右之通相談仕、奉得御差図候間、此旨宜御取成奉頼候以上。
戌(雍正八年、一七三〇)五月三日 〈八重山嶋〉
田嶋里之子親雲上
〈同〉
玻名城里之子親雲上
大城親方様
安里親雲上様
⑬覚(参遣状)
一、塩焼之儀、試申渡置候上、去々年(一七二八)塩干様致稽古罷下候付、以後随分仕出候而、所之用事相達候様ニ与申渡置候処、干塩之儀丈夫ニ出来不申、其上雨続之時ハ、人夫之費多、不勝手ニ有之。夫丸之儀も、大地中ニ而不相達、離嶋四五里之所よりも寄夫ニ而召遣候故、海路之往還又ハ天気悪敷有之節ハ、手隙を費、徒ニ持飯米いたし、其上農作之障ニ茂相成、且又御当地より差渡候塩代ニ差引候得者、是又太分損亡ニ有之、旁以不勝手而已有之候。尤諸村用事之分ハ自分ニ而焼出候様見及候間、寄夫ニ而しほ焼之儀ハ、以後召留度由、問合之趣致承達候。然者塩之儀、土産仕出シ不申ハ不叶物ニ而、渡合之頭江も細々相尋承候へ者、八重山嶋中ニ六ケ村ハ自分ニ鍋焼ニ而用事相達、余之村ハいまだ焼出不申候得共、堅下知仕候ハハ、右同前ニ焼出シ可申与存候由、申出候。夫ニ付而ハ、干塩之儀、御当地ニ茂今年之稽古ニ而、いまだ丈夫ニ仕出シ不申候得共、薪木無ニ仕調候ニ付而者、木絶之筋ニも不罷成候故、漸々仕馴、丈夫ニ出来候ハハ、成程重宝成儀与存、当分ハ乍不勝手進立仕調させ申事候間、其元ニ茂万事致其心得、請人相立候歟、又者人数差分ケ壱所ニ而仕調させ候歟、心之及致吟味、仕出方申渡、其内者、諸村鍋焼ニ而用事相達候様ニ、堅下知可被致候。勿論寄夫之儀ハ、甚不成合儀候間、向後召留、右旁猶以相試、兎角之段、来夏委曲可被申越候。
右為返答如此候以上。
戌(雍正八年、一七三〇)十月十五日 安里親雲上
兼城親方
〈八重山嶋〉
在番
⑭覚(参遣状)
一、塩焼之儀、此程諸事入目、段々相掛候処、御国元塩代ニ差引仕候へ者、太分損亡、旁以不勝手而已有之候付、寄せ夫ニ而塩焼候儀ハ、甚不成合儀候間、向後可召留由、且又干塩之儀、御国元ニ茂近年之稽古ニ而、いまだ丈夫ニ仕出不申候得共、漸々仕馴、丈夫ニ出来候ハハ、成程重宝成儀与被思召上、当分ハ乍御不勝手進立仕調させ申事候間、当地ニ茂万事致其心得、心之及致吟味、仕出方可申渡旨、段々委細之御書付を以被仰下旨趣、奉得其意候。右ニ付而請人相立相働せ度存候得共、当分不仕馴物ニ而、請込人無之ニ付、人数差分、壱所ニ干調様試申渡置候。
右之通一々付届申渡置候。御返答為可申上、如此御座候以上。
亥(雍正九年、一七三一)四月五日 〈八重山嶋在番〉
玻名城里之子親雲上
御物奉行所
⑮覚(参遣状)
一、当嶋、塩焼不申ニ付、大和より買申候。代米不相応ニ申掛、塩壱舛米壱舛五合、或弐舛分仕候。左候得者、買喰申さでハ不叶候ニ付而買申候。代物持参之時分も不憲法仕、百姓疲ニ見及候条、当嶋ニ而塩焼出シ、其塩之内より焼調夫手間相払、余者諸百姓江割符仕候ハハ、塩代米二三拾石茂所中補ニ可罷成与奉存候。
右、御簡略ニ付而、御為方、所之為ニ罷成儀、無遠慮可申上由被仰付候ニ付而、当分思寄之程申上候已上。
卯(乾隆二十四年、一七五九)四月十日 慶田城与人
黒嶋首里大屋子
古見首里大屋子
⑯覚(参遣状)
一、当嶋、塩焼不申ニ付、大和人より買取、代米相払候砌、不憲法ニ有之候。所中疲ニ罷成候間、塩焼出候ハハ勝手能有之筈之由候へ共、我々了見ニ者、当嶋往昔より右業手馴不申候へ者、如何無心元存、致掛引候得者、国頭方塩竈之様ニシテ小ク仕立、焼候得者、出来申筈之由申出候間、試ニ焼出させ度奉存候。(下欠略、年次不明)
⑰乾隆三十三年(一七六八)(与世山親方八重山島規模帳)
一、塩之儀、嶋用無之候而不叶、先年塩かま仕立、焼出候処、焼様稽古不参故ニ而候半、位悪敷、其上費手間多、及不勝手、召留置候由。然処到頃年ハ、村々百姓等、自分用、間々焼出候処、位宜重宝相成候由、不断焼通手馴候ハハ、猶以勝手ニ可相成積候。毎年嶋中買入候塩代、大概八百石余相及候由。然者野底・古見・西表三ケ所之儀、海山近ク、場所宜候間、塩焼様稽古させ、各噯人構ニして手広ク焼出、嶋中入用相達候様、随分下知方可申渡事。
附。自分々々ニ而も、勝手次第家業之為焼取、致商売候様申渡へく候なり。
⑱咸豊七年(一八五七)(翁長親方八重山島規模帳)
一、塩之儀、日用難差欠品ニ而、此以前、野底・古見・西表三ケ村并右外所々ニ而焼出候処、位悪敷、諸雑費茂多有之由ニ而、当時専諸船之頭・水主共持下候を高直ニ而買取、用弁相達、年々代穀及過分、嶋中之不益不少、如何ニ候焼様習受、漸々取覚候ハハ、諸雑費少、位茂宜、嶋中之重宝可相成候条、以来右村々ニ不限、海山近可致相応場所ニ者、焼様稽古申付、各噯役人下知方を以、手広焼出させ、嶋用相達候様可取計事。
附。奉公人共ニ茂、勝手次第焼出、致商売候様可申付候也。
⑲ 咸豊七年(一八五七)(万書付集)
本文逐披露候処、塩之儀、いつれ難差欠品候得共、所中ニ而出産無之故、至而不自由相成、勿論代料茂高直ニ有之由候処、名嘉地、気を附け伝受いたし候段申出、殊勝之者与被思召候。就而者、於嶋元、潟原持之村々人体見合相教させ、先様嶋用無不足焼出候様、可被取計候。左候而広焼出嶋中重宝相成候ハハ、名嘉地ハ勿論、焼出候者共ニ茂、相応之御取持被仰付筈候間、其節勲功之程合等吟味を以可被申越候以上。
巳(咸豊七年、一八五七)十月 嘉手納親雲上
与那原親方
〈八重山嶋〉
在番
頭
⑳口上覚(万書付集)
乍恐申上候。私事、真塩焼様稽古為仕度旨、上国之頭足より先達而奉訟、蒙御免候付、早速より泊村渡久地筑登之江相附、細密伝受仕申事候間、帰帆之上、潟原取持之村々江相教候様、御免被仰付、左候而、其詮相立候ハハ、相当之御取持被仰付被下度奉願候。此旨宜様御取成可被下儀奉頼候以上。
巳(咸豊七年、一八五七)十月 八重山嶋故伊原間〈与人七男〉
那嘉地にや
右通伝受仕置候相違無御座候以上。
巳(咸豊七年、一八五七)十月 〈泊村〉
渡久地筑登之
右願出之通被仰付被下度奉存候以上。
巳(咸豊七年、一八五七)十月 〈八重山嶋頭足〉
古見首里大屋子
本文逐披露、現勤日数七拾三日完之勤星被成下候間、其首尾方可被申渡候以上。
巳(咸豊七年、一八五七)十月 嘉手納親雲上
与那原親方
八重山嶋
在番
頭
㉑同治十三年(一八七四)(富川親方八重山島規模帳)
一、塩之儀、日用難差欠品ニ而、野底・古見・西表三ケ村并右外所々ニ而焼出有之候処、位悪敷、諸雑費も多有之由ニ而、専諸船船頭・水主共持下候を高直ニ而買取、用弁相達、年々代穀及過分、嶋中之不益不少事候。焼様漸々取覚候ハハ、諸雑費少、位茂宜、嶋中之重宝可相成候条、以来右村々ニ不限、可致相応場所者、各噯役人下知方を以、手広焼出させ、嶋用相達候様可取計事。
附。奉公人共ニ茂、勝手次第焼出、致商売候様可申付候也。
塩は日常必需品で、その自給度を高めることは民生の安定化に不可欠であった。王府は鍋焼(煎熟法)から干塩(日晒法)への技術革新を図りつつ、八重山嶋における塩の自給体制を確立しようと考えたが、塩田に適した干潟が少なく、こたう潟(名蔵湾南東部クードー浜) ・野底村・古見村・西表村等数箇所に限られたこと、人夫費がかさむこと、台風などで製塩施設がしばしば破壊されたこと、塩を焼くと大風が吹くと信ぜられていたことなどの理由で、その試みはいずれも失敗に帰した。結局大和人や船頭・水主が商売用に持ち下る高値の塩に依存せざるをえず、塩一升は米一升五合或いは二升の引き合いで取引され(一七五九年)、その代米は、年間八〇〇石余に達したのである(一七六八年)。こうした状況は明治期まで改善されることはなかった。
㉒明治二十六年(一八九三)(庶務書類綴)
塩田着手及将来起スベキ濱地箇所反別
本群島ニハ未ダ完全ナル製塩業ヲ起シタル者ナシ。尤モ二三ノ起業者アリシト雖モ総テ鹹水ヲ直ニ煎尽蒸発シテ結晶セシムルモノニシテ彼ノ塩田即チ打潮ヨリ製スルモノアラザリシナリ斯ク製塩ノ業開ケザルモ一万五千余ノ人口ヲ以テ須臾モ欠クベカラザル勿論ナルガ故ニ総テ之ガ供給ヲ那覇ニ仰ゲリ然レドモ交通不便ノ土地柄ナレバ時トシテ払底若クハ欠乏スルノ恐アリ去迚完全ナル塩田業ヲ起スハ多クノ資本ヲ要スルヲ以テ彼是其必要ト利益ノ如何ト燃料ノ饒カナルトニ依リ偖杜鹹水煎熟ノ策ニ出タルモノノ如シ是等ハ固ヨリ広大ナル土地ヲ要セザル勿論ナルガ故ニ概シテ二三千坪ノ地面ヲ拝借スルニ過ザリシ
将来起コスベキ塩田業ニ適当ナル濱地ノ箇所ハ屈指スルニモ足ラザルナリ然レドモ聞見上ヨリシテ適当ナリト想像スル箇所ニ至テハ其数少ナカラズ元来本群島ハ珊瑚礁ヨリ組成セラレタルヲ以テ濱地多分ハ白砂ニシテ概シテ珊瑚石ノ粉末ナルガ故ニ如何ニ潮水ヲ散布スルモ日光ノ為ニ塩分ノ凝着スル極メテ僅少ニシテ収支相償ハザルガ故ニ是等ノ土地ヲ塩田トナサンカ多クノ資本ト労カトヲ要スベシ其最モ適当ナル濱地ハ宮良間切高那村(西表島内)ノ内野原ノ海濱ニシテ其面積ハ
大凡壱百五拾町歩余
ナルベシ然シテ該濱ハ新地層ナル珊瑚石等ノ破砕シタル細砂ニアラザルヲ以テ塩分ノ歩留十分ナルベシ然レドモ目下満潮ノ時ニ此濱地一面ノ潮水ヲ以テ浸スガ故ニ長大ナル堤防ノ築造ヲ要スルナリ此他ニ於テ恐ラク如斯製塩場ニ適当ニシテ且平坦広大ナル濱地ナカルベシト信ズルナリ
「明治(自二十三年至二十五年)三ケ年間輸出入重要物産調査表」によれば、塩は焼酎・素麺・石油・茶・白糖・昆布等とともに重要輸入物産物の一つに挙げられており、その年間の輸入巌額は次の通りである。
(二十三年) (二十四年) (二十五年)
塩 一一〇〇円 一〇三八円 八八二円
二七五石 二九一石 三九四石
これを輪出物産の米と比較するに、例えば明治二十三年における米の輸出量は一七三九石で総額一〇四三四円、米塩一石あたりの値段はそれぞれ米五・八九八円、塩四円である。
以上のことから考えると、梅公氏乗船積載の塩は島内商販用として乗員が那覇で大量に買い付けたもので、その供述内咨には一応の信憑性が認められよう。なお一七〇〇年代中期ごろ成立したとみられる『御当国御高並諸上納里積記』には「那覇泊潟原塩上納之事」として次の記事ががある。
潟原塩之儀、泉崎村塩浜親雲上、大和塩之焼様致伝授、康煕三十三年甲戌年(一六九四年)潟原ニ塩焼所見立、及訴訟、御免を以、初て焼出、翌乙亥(一六九五)より塩上納をも仕来候(下略)。
四 馬艦
馬艦船の建造技術は中国伝来のものであるが、その時期についてははっきりしない。ただ前述のように雍正八年(一七三〇)には宮古・八重山の地船を馬艦の法式に改めるよう指令し、翌九年から順次建造に着手したもようである。在来船は和船タイプの大型船で走行性安定性に欠け、海難事故があいついだ。このため人命尊重、公物損耗防止のために外洋航行に適し、且つ建造費の安くつく馬艦へのきり換えが急がれたのである。
覚(参遣状)
一、両先嶋船之儀、此中之作様ニ而ハ、別而不達者ニ有之。時々漂流或ハ致破損、人命相廃リ事候間、向後馬艦作ニ相改候而者、何様可有之哉与、両嶋渡合之役人共江段々御尋之上、唐船太工江茂考被仰付候処、八重山嶋之儀、松無之、楮木ニ而作事之筈候得者、総体ハ馬艦作ニ而、棚之付様さし物ハ、当嶋の仕様ニ而可相済由申出候。左候得者、馬艦作ニ召成、海上乗能罷成儀ニ候ハハ、題目人命之助ニ相成、且又御用物無滞届上候儀、頂上之儀ニ御座候間、向後馬艦作ニ申可渡由、段々被仰下候趣、奉得其意候。
一、先嶋之儀、檣木無之、御国元より御達被下候処、其御地茂唐船并楷船檣用之木有少ク、乍漸相済事候。地船小ク相成候得ハ、檣木も永々相続御考ニ候問、今一艘ツツ作重、毎年三艘ツツ差登せ候様ニ与、委細之御書付具奉得其意候。
右御返答為申上、如此御御座候以上。
亥(雍正九年、一七三一) 四月五日 〈八重山嶋在番〉
玻名城里之子親雲上
御物奉行所
覚(参遣状)
〈此節宮古馬艦作事料〉
一、米弐百拾石四斗八舛弐合五勺壱才起
〈右同〉
一、千割鉄弐千六拾八斤百拾弐匁七分七厘
〈右同〉
一、古釘八百八拾五斤八拾目
〈宮古地船作事料〉
一、米三百四拾三石壱斗八舛弐合八勺弐才起
〈右同〉
一、千割鉄三千五百斤
〈右同〉
一、下鉄弐千四百拾六斤百匁壱分壱厘四毛
右宮古・八重山両嶋船之儀、馬艦作被召改、此節宮古船作事仕候。手初之事候間、私茂立合致下知候様被仰下趣、奉得其意候。然者入目之儀取立候得者、於其御地総太工考ニも致相違、地船入目よりハ抜群可引入与相考候処、左程之替無之ニ付、爰元罷渡候太工阿波連筑登之親雲上江相尋候得者、当嶋細工人いまだ手馴不申、尤楷木ハ過半楮木故、手ぬるく有之候上、釘目一々穿候ニ付而、手隙を込申由、尤之儀ニ存候。私茂毎日出合、入目等旁諸事之費無之様、随分致下知候得共、右通遣込申候。雖然馬艦作之儀、此節不残嶋太工江稽古成就為仕候。乍此上若不覚も可有之哉与、当嶋楷立、来年作事廻ニ而候得共、嶋太工共稽古之為ニ請込作事為致、阿波連筑登之親雲上・金城筑登之親雲上江見分候処、少も不足無之由申出候。以後船作事之砌者、御国元太工不構可相調与、頂上之儀御座候。彌以工相続候ハハ、猶以作事料も相減可申哉与相談仕候。右之趣御問合為可申上如此御座候以上。
亥(雍正九年、一七三一) 四月五日 〈八重山嶋在番〉
玻名城里之子親雲上
御物奉行所
馬艦船はその後一七七五年に前任接貢船船頭与那嶺・工師石川等によって改良が加えられ(『球陽』)、その性能耐久性をさらに向上させ、近世漕運船の主流を占めることとなった。
五 呈文
薩摩上国使者乗船及び両先嶋の公用船等には、唐漂着のことをあらかじめ想定して、呈文の文案集を携行せしめた。これは漂流の際、当該地の地方長官(大老爺)に提出する公式の文書で、『唐国江漂着之時漢文認様呈書集』または単に『漢文』の表題を付してある。両先嶋の場合は新在番人が下庫理においてこれを受領し持ち下ったようである。『漢文』の奥書に、
右ケ条之趣、具ニ得其意、自然之時、無越度相計候様、上国之面々并先島在番人江於下庫理ニ為致拝見写取持渡候様可被申渡者也。
乾隆十八年(一七五三)癸酉四月 評定所
御双紙庫理
右之通被仰渡候問、上国人并先島在番人被仰付候ハハ、早速召寄為致拝見写取持渡候様可申達候。左候而拝見致候段、即々首尾可申出候。聊疎意有之間敷候以上。
四月 高宮城里之子親雲上
田里親雲上
勢頭
とある。梅公氏一行が此の種の文案を持参していたことは想像にかたくない。『漢文』には十種類の文案を収めてある。例えば梅公氏漂流は「御国元より帰帆之砌、逢逆風、洋中及難儀、船具相損、唐国漂着、外山抔ニ致破船、荷物濡掛リ候ハハ売払、其所之船相雇、福建江送届被下度訟書差出可然候」とある場合に相当する。その文例は次の通りである。
具稟琉球国属八重山島難夷厶等為格外施恩以恤遠人事切難民某等厶月厶日前抵琉球那覇地方投納賦税事竣回島之時洋中徒遇狂風猛起□大作壊損槓椇漂入
貴轄外山詎想船身衝礁壊損通船厶十余名将陥溺死之地幸沐
上帝指導上岸活命無致逆死更得捜取漂流貨物都是潮沾湿時蒙
貴国大老爺賜食充餓造屋棲身父母之恩昊天罔極銘記難忘茲不揣愚昧冒瀆者深懐恐懼惟是小可湿貨不忍堆置一所而致爛朽無用万望
大老爺格外開恩垂察苦情恩准就地公平買売更祈遣船楫解送福州以便附搭貢船回于本籍則此恩此徳千秋頂祝不諼矣切稟
同治厶年厶月厶日 琉球国難人厶等謹具
このほか疱瘡に感染したときの医師派遣要請、病死の際の埋葬許可願等の案文がある。今回の漂流では梅公氏西表首里大屋子等「拾人余」が疱瘡のため客死しているが、「呈文集」を持参していたとすれば、これにもとづいて文書を作成提出したかも知れない。それはともかく、現存する梅公氏の墓碑には次のごとく誌されている。(高良倉吉「中国所在の琉球人墓碑の紹介」『浦添市立図書館紀要』一九八九年)
琉球国 八重山西表親雲上梅公氏墓 乾隆二十一年丙子 六月初六日立
なお王府借上の民間商船の場合、船の修甫料その他の諸経費については存留役より貸し付け、帰帆の後返済せしめた。『参遣状』に、
一、御当国中之船、唐漂着候ハハ、存留并役者中江申出、御物濡廃無之様致格護、自物共現品可持戻候。尤長々格護難成品者、存留江申出、勢頭・大夫差図次第何分支配可致候。就中商売仕候儀、跡々より御禁止被仰渡置候通、堅固可相守候。右ニ付本船修甫不仕候而不叶候ハハ、存留并役者中江申出、差図を請、修甫可相渡候。右船修甫料并漂着之儀ニ付而遣銀飯米等諸入料銀、帰帆次第船主船頭共江返上方被仰付候間、可成限ハ御銀入無之様申出、存留役者より相渡候銀高ニ而、修甫相調、帳相総、存留江可差出候。尤諸入料委細取〆置、早速上納可致候。
但上納方相滞候ハハ、家財妻子欠所ニ而上納可申付候。尤及破船、荷物等無之、身すからニ相成候ハハ、御法様之通、在所在嶋相届候迄之飯米、御物より被下候。
右者船々諸方往還之節、船具等無不足致用意、船乗方之儀、専日和見合、時分不取後様段々被仰渡置候趣在之候処、其守達無之、到比年ニ者、唐并諸所漂着、段々御厄害ニ相成、甚以不然事候間、向後能々日和之致吟味、船具等不足無之様可被申渡候。自然依風並不意ニ漂着候ハハ、右ケ条之通聊無緩疎相守候様、堅可申渡候。此旨御差図ニ而候以上。
申(乾隆二十九年、一七六四)十一月 嘉陽田親雲上
伊舎堂親方
〈八重山嶋〉
在番
とある。返済できない場合は家財妻子没収とあるから、漂流も容易なことではない。公用船の場合は、船の修甫料その他中国側が負担した。
「参考文献」
宮田俊彦著『琉球・清国交易史』(第一書房)
糸数兼治
一 史料
福建等処承宣布政使司は、敬しんで硃批を録せる抄摺もて行知せんが事の為めなり。
乾隆二十一年三月十四日、奉けとりたる総督部堂喀(爾吉善)の憲牌に『照得するに、本部堂、繕摺具奏す、「琉球太平山番人梅公氏等の夷船風に遭い、厦(門)に飄す。飭行じて、憮䘏し、船を修し、口糧を資給し、護送して(福建)省に至りて安頓し、琉球貢船の国に回へるを俟ち、其をして開駕同行せしめん等因」と。乾隆二十一年正月二十四日に于いて奏し、二月二十三日硃批を奉到けとりたるに、「知道了。此を欽み、欽み遵え」とありたれば、合就ちに抄摺もて行知せんとして牌を備えて司(布政使司)に行り、奏摺内の硃批を奉じたる事理に照依して即便に転行し、欽遵して査照弁理せしめ、該司仍お即ちに詳を叙して先ず呈請を行い、部に咨して違うこと毋かれ等因』とあり。
計発したる抄摺一紙の内に開く、【奏聞の事の為めなり。窃かに照うに、本年正月十六日、福建海防興泉永道白瀛水沛堤標中軍参将王陳栄の報称に拠れば、『乾隆二十年十二月十四日、琉球番人梅公氏・上官氏等三十六名、雙篷船一隻に駕し、風に逢い、厦(門)に飄す。該地汛弁して船に到り査験したるに、該船の大桅篷舵倶に已に失去す。厦門には並えて琉球の番語に諳暁する通事無きに因り、随いて字を写して問う。番目梅公氏等、字を写して回称するに拠れば、「大琉球内太平山の船に係る。米粟を年貢せんが為め、五月二十四日に于いて解りて王府地方に至り交納し、十一月二十七日王府に在いて開行し、太平に回らんと欲す。一路風に遭い此の地に飄至す。一人の駕を幇くるものを求め(得て)福建に至らば、琉球館中就ち好く商量して回去せしめん。船内並しも貨物無く、亦た炮械無し。銭米は已経に用い完れり等語」と。当即ちに酒肉を賞給し、名を按じて口糧を給与し、初お舡隻を将って内港に導入し、兵役を派撥して防護せしめたり等情』前み来たる。臣、即ちに報に拠りて藩司(布政司)に飛行し、井びに(巡)憮・提(標)二臣に咨明し、即ちに該船より選撥せる熟識水手と共役の差員とを将いて護送し、至りて福防庁衙門に有交して収管(小)心に防護せしめ、琉球貢船の回国するを俟ち、其をして開駕同行せしむ。其の損壊の桅柁・風篷・槓椇等の項は、匠を召し、動項を勘佑して興修せしめ、日を按じ、口を按じて口糧を資給し、務めて意を加えて撫恤安頓し、例に照らして安弁して失を致す所毋からしめ、以って仰いで、我が皇上、遠人を懐柔し、難番を矜䘏するの至意に副わんとす。所有の動用して船に備うるの口糧等の項は、事竣わり実を核べて部に報じ、咨もて井びに陳明せしめん。此が為に恭しく摺もて奏聞す。伏して祈るらくは聖鑑あらんことを。謹んで奏す】とあり。此を奉け、又、前の事の為めなり。本年三月二十七日、奉けとりたる巡撫部院鐘(音)の批には、【本司詳す、『査得したるに、琉球国太平山夷人梅公氏等、乾隆二十年十二月十四日に于いて風を被け、厦(門)港に飄入し、経に営庁、稟報す。督憲の奏報して欽しんで硃批を奉け、司に行りたるを奉けとりたるに、欽遵せよとあり。本司、査するに、乾隆十九年、琉球国難夷豊宇望等一十九名、風を被け台(湾)に到るに、護送して(福建)省に来たらしめ、安挿するの日を以って始めと為し、毎人に日に米一升・塩菜銀六厘を給し、回国の日、行糧一箇月を給して以って長途の食用に資す。又、毎人に別に扣藍布四疋・棉花四疋・茶葉・烟麪各一觔を賞給し、別に猪一口・羊一牽・酒一埕を共給せり。茲に梅公氏三十六名は署福防同知奇寵格の申報に拠れば、「乾隆二十一年二月初九日、厦(門)自り船に駕し、護送せられて省に到るのとき、即ちに是の日に于いて験明安挿して館に入る。塩菜・口糧・賞賚の布棉・烟麪・茶葉等の項は、例に照らして給発するを除くの外、所有の猪・羊・酒の三項は、此の次人数較々多く、応に加倍して賞給すべきに似たり」と。接貢船隻返棹の日には、各々に行糧一箇月を給し、遣発連䑸して回国せしめ、需むる所の銀両は統べて乾隆二十一年に存する公項の下に在いて動撥し、事竣われば造冊、詳請、咨銷せしめん。是れ理として合に例を査して詳報すべきや否や、伏して憲台の察を候ち、該に部に咨すべし等由』と。批を奉けたるに、「仰いで督部堂(の批示)を候ち、部に咨せ。繳せ】とあり。此を奉け、
又、稟報の事の為なり。本年三月二十七日、奉けとりたる巡撫部院鐘(音)の批には、【福防庁の稟称に拠れば、『切に照うに、琉球国太平山夷人梅公氏等三十六名、風に遭い、厦門に飄収す。経に福防庁通報す、「該夷、原と駕りたる船隻を将って修葺し、舵工水手を雇募し、代わりて駕駛を為さしめん」と。乾隆二十一年二月初九日に于いて、差役護送せしめ、省に到りたり。当経ちに卑職館駅に安挿し、井びに該番船に赴き査験したるに、僅かに木箱一十箇有り。内に線香を蔵貯す。小木箱三十余箇は、内に盛装の一二件の衣服有り。大小の礶六十箇、内、食塩を装貯するに係るもの毎礶約十余觔有り。当経ちに具文して藩司に詳報し、核転すること案に在り。卑職誠に恐る、水梢人等従中、或いは別に違禁の貨物の隠匿暗蔵する有りて、遺漏せらるるを致さんことを。当経ちに五虎司に転飭し、該難夷の行李・雑物を搬運して館に進むの時に于いて、心を留めて是れ原と報じたる数目と相符するや否やを稽察せしめ、抑々或いは尚し隠匿して多く帯ぶるの処有らば、飭して細査稟報せしめ去後れり。続いで、本月初三日に于いて、該巡検魯如洵の稟称に拠れば、「遵査するに、難夷は、二月二十六、二十七等の日に于いて、雑物・行李を将って、陸続として搬運して館に進む」と。卑職、遵即に逐一其の中を細査したるに、並しも、夷、違禁の貨物を帯ぶる無し。惟だ捜出せる草包三百余箇は倶て塩觔に係る。随即ちに琉球国存留通事毛景成と会同に親から館内四橺楼下、頓塩の処所に詣り、包を逐いて査点するもの共計三百五十包、毎包秤の重さ五十觔なり。内に六十包の塩有り。之を原との包に較ぶるに欠少あり。称に拠れば、「舡底に放在して水を被むり、浸消す。寔に共に食塩一万六千余觔は、理として合に稟報すべし等情」と。此を拠けたれば、卑職、随即ちに親から琉球館駅の、塩觔を安頓するの処所に詣たり、査点したるに、異なる無し。当即ちに夷官の通事に伝到して訳せしむ。難夷梅公氏等の供称に拠れば、「這の塩は是れ本国中山地方に在りて買回し、太平山に帯びて日食と作さんと要る的なり」と。小番人・們従、曾って中国に到過せざるに因り、中国の法度を知らず、帯ぶる所、太だ多く、禁令を犯すこと有らんことを恐怕す。此の故に蔵して船底下に在り。前日厦門に在るの時節、未だ曾って報出せず。所以に省に到るも亦た敢えて回明して験を請わず、前後互いに異なること有るを致す。如今、已に数を尽くして館内に搬在し了れり。這是の小番人、察を求めんが起見の情を知る無し。又、問う、你們の説うところに拠れば、這の塩は是れ琉球中山に在りて買回し、日に食すと。今般已に風に遭う。你們、是れ難を被くるの番人は、中国優く憮恤を加え、凡て船上の東西は原とより許す。你、全数具報するも並しも是ならざる無し。何の害怕か有らん。中国の塩觔は、都て官商に由りて給買す。若し禁に違いて私かに販ること有らば、即ちに私塩の例に照らして罪を治せん。你們、何為ぞ塩觔を隠瞞するや。舡底に装在して匿して報験せざるは、這れ明らかに是れ人の勾引するもの有りて、你と私買私売して弊を作さんとするなりと。実に拠りて供せしめ、訳供せしめたるに、委く小番人何に係るなれば、中国の法度を知らず、心上、帯ぶる所太だ多く、些か便ならざる有るを害怕し、敢えて具報せざりしなり。従中も、並しも敢えて人家と勾引し、私買私売の情弊あらず。這れ、総べて是れ、外番愚民の無知の致す所にして、未だ詳らかに察せざるなり等、供す。此れを拠けたれば、該に卑職、遵いて査すべし。琉球難番梅公氏等、本国中山地方に在りて食塩を買回す。違禁の貨物に非ずと雖ども、但だ応に船底に暗蔵して隠匿するは、報ぜざるべからず。業経に、卑職、五虎司に飭行して逐一捜査し、原と報じたる六十礶を除くの外、別に草包三百五十包、計重さ一万六千余觔有り。訳訊するに、該難夷の供称に、「中国の法度を知らず、数、過多にして禁令を犯す有るを恐為れ、是の以に厦(門)に在りて未だ経に報明せず、省に到りても亦た、敢えて回明して験を請わざるなり」とあり。再四窮詰するに、委く別の情無し。随いて厳に夷官通事に諭し、塩觔を将って加謹収蔵せしめ、夷人の日食に資するを除くの外、余は本船回国の時を俟ちて、仍に即ちに数を尽くして運回せしめ、民人を勾引して私買私売し、弊竇を滋くするを致すを許すこと毋からしむ。理として合に摺を具して憲台の察核示遵するを稟請す等由』と。批を奉けたるに、「稟に拠れ。已に布政司に委せ仰じて、転飭知照せしめたり。仍に督部堂の批示するを候て。繳せ。】とあり。此を奉け、
又、報明の事の為めなり。本年四月十四日、奉けとりたる巡撫部院鐘(音)の批には、【本司詳す、『査得したるに、琉球国王を冊封するの欽差正副使全(魁)・周(煌) は、二月初九日に于いて、京自り起程し、部の発せる前行牌もて沿途伝逓し、先に二月二十九日閩に到る。案拠とりたる閩県の詳報には、「憲台の批を奉けたるに、司、査明し、飭に遵い具報せよ」とあり。当経ちに、本司は、礼部の題明せる応に行うべきの事宜を将って、備に咨文に叙べ、飭して福防庁に発り、転じて夷官に給して収領せしめ、期に先だって舡に駕して回国し、世子(尚穆)に齎し交し、預じめ備うるを知らしめ、井びに報明せしむること案に在り。茲に署福防同知奇丞の申報に拠れば、「琉球国飄風難夷梅公氏の船隻は、現に修理将に竣わらんとするに在り」と。夷官の議に拠れば、「接貢船上の総管一名梁廷輔・跟伴一名比嘉・水梢二名与納嶺、伍世頭を撥し、部の発せる前行牌、同び本司の咨文とを齎帯して飄風の夷船に座駕し、各難夷と仝に先行回国せしめん。花名の清冊を造具し、呈送す」とあり。前み来る。理として合に転詳すべし。伏して憲察の批示するを候ち、以って飭もて離駅・登舟及び長行回国の日期を取りて具報するに便ならしめよ等由』と。批を奉けたるに、「詳の如く行え。飭もて離駅・登舟及び長行回国の日期を取りて詳報し、例お督部堂の批示するを候て。繳せ。冊は存す」とあり。此を奉け、
又、詳明の事の為なり。乾隆二十一年五月初三日、奉けとりたる巡撫部院鐘(音)の批には、【本司詳す、『査得したるに、琉球国属島太平山夷人梅公氏等三十六人、風に遭いて飄し、閩にて安挿入館す。続いで署福防同知奇丞の申報に拠れば、「難夷の船隻は、修理将に竣わらんとす。議するに、接貢船上の総管梁廷輔・跟伴比加・水梢与納嶺、伍世頭等共に四名を撥し、部の発せる前行牌、同び本司の咨文とを齎帯し、飄風の夷船に座駕し、各難夷と同に先行回国せしめん。花名の清冊を造具して請示す」とあり。当経ちに由に拠りて詳す。憲台の批を奉けたるに、「繳行遵照するを准す」とあり。嗣いで申報に拠れば、「船隻は已経に修し竣われり。四月二十四日を択び離駅登舟す」とあり。随いで賞賚の物件を給するを請う案の内に于いて、一井に詳報すること案に在り。茲に該庁の詳報に拠れば、「飄風難夷の内、嘉善氏・本原氏二名は先に経に出痘し、身、故す。尚に痘症に染患するの難夷一十一名の、遣回に便ならざるもの有り。再び接貢舡上に于いて跟伴向唯祐等五名を撥出し、船に随い駕駛して先に回えらしめ、其の遣回の接貢総管・梢伴人等の自己ら買う所の貨物は、其の随帯して回国するを聴し、接貢船の内より撥回せる梢伴人等は、向のごとく行糧を給与せざるを除くの外、所有の現に駕回するの難夷に在りては、例として応に各々に行糧を給し、其の余の館に留まりて患病を医治するの各難番には、夷人の情愿によりて糧食を頒たずと雖えども、応に旧に照らして口糧を供給し、接貢船隻回国の日を俟ちて、別に行糧を給して遣わし掃すべきに似たり等由と。并た、現に国に回えるの夷人に在りては、花名及び帯回の貨物・食塩の数目を将って、清冊を造具して、詳もて送らん」と。前み来たる。本司、覆査するに、「飄風の難夷の在館の口粮・回国の行粮は、報銷に関わる有り。接貢の官伴には、例として口糧・行糧を給与せざるの比すべきに非ざるなり。今、難夷仲地氏等一十一名は、現に痘症に伝染し、館に留まりて医治するに因り、所有の将来の按日の口粮及び附搭して回国するの行糧は、自から応に例に照らして給発し、その現に遣わし帰るの難夷石地氏等二十三名に在りては、先行して各々に行糧一箇月を給して以って長途の食用に資すべきなり。議に拠り、接貢舡内より再撥せる水梢向唯祐等五人に至りては、前に撥せる総管・梢伴梁廷輔等四人に随同して、代わりて駕駛を為し、前行牌を齎送して帰国せしめ、各人の置買せる貨物曁び難夷の原と帯びたる食塩一万六千觔は、先行して舡内に装載し運び回えらしめ、接貢回国の時を俟ちて査明扣除し、重複を許さず。多く帯びるの処は、事は行すべきに属す。応に請う所の如く飭して該庁をして親から舡内に赴き、逐一験明して以って夾帯の諸弊を杜ぐべし。是れ理として合に詳明すべきや否や、伏して憲察の批示するを候ちて遵行せん等由』と。批を奉けたるに、「詳の如く行え。仍お督部堂の批示するを候て。繳せ。冊は存す】とあり。此を奉けたれば、合に就ちに咨を給して遣発すべし。此が為めに咨を備えて貴世子に咨す。請煩わくは、欽遵査照して施行せられたし。須からく咨に至るべきものなり。
計、移送するもの、回国の花名・貨物冊一本
右、琉球国中山王世子 尚(穆) に咨す。
乾隆二十一年五月初十日
右の史料は、福建等処承宣布政使司が琉球国中山王世子尚(穆) に宛てた、厦門漂着の太平山番目梅公氏等三十六名のうち二十三名を琉球に送還する旨の乾隆二十一年(一七五六)五月十日付け咨文である。原文は台湾大学印行『歴代宝案』(二八一二頁)に収録されている。これについては『梅公姓家譜』『八重山島年来記』『参遣状』などに関連する記事があるので若干の注記を試みたい。
二 漂流
厦門漂流について『梅公姓家譜』(小宗)三世孫格の条には次のごとく記されている。
乾隆二十年乙亥(一七五五)公務宰領の事の為に王府に到る。公務全く完はり、回嶋の洋中、颶風に逢ひ、唐土に漂至す。歳次子(一七五六)六月、疱瘡出発して死す。
さらに同「勤書」には、
亥年(一七五五) 、御物穀為宰領上国。
附。帰帆之砌逢逆風、唐江漂着。次子六月、於唐疱瘡、役中病死。
とあり、『八重山島年来記』乾隆二十年(一七五五)の条には
一、仲立石垣船帰帆之砌、波照間南方壱里程沖ニ懸留、船中祝ひ候内、夜中碇を引、次日島茂不見得、無是非風侭唐漂流、疱瘡出、西表首里大屋子人数拾人余相果候。
一、右、次子年(一七五六)冠船おきなはかなし江御渡海之段、飛舟名蔵目差江被仰付、無恙那覇参着、御届申上、折角其手組被遊、無間違御迎為有之由、右目差ハ新城与人被仰出候。
附。右飛舟之儀、御大礼相懸、肝要成御用筋ニ而、御褒美被仰付度段奉訟候処、御取持可有之候得共、左様ニ而以後其頼之時、漂着可致儀ニ付、御取持無之由候。
とある。これらの琉球側史料はいずれも簡略に過ぎるが、それでも例えば船の種類、王府渡航の目的、波照間島沖投錨中流されたこと、西表首里大屋子(梅公氏孫格)以下十人余が疱瘡を煩い、福州において死亡したこと等、咨文では必ずしも明らかでない事実が少なからず判明する。しかし八重山島出船の日時や積載貨物等不明な部分も多い。しかるにこうした点はさきに掲げた咨文によっていくつか補うことができ、双方の記述を突き合わせることで、梅公氏等漂流一件の全貌がかなりの程度まで把握できる。梅公氏乗船は福州で修理を終えたあと、尚穆の冊封使(正使全魁・副使周煌)の渡琉を急報する前行牌飛舟の役目を負わされて那覇に急行する。『八重山島年来記』は名蔵目差某の新城与人への昇進とからめてこのことにも触れている。
さて梅公氏乗船の種類であるが、それは前掲『八重山島年来記』の記載によって馬艦仕立の「仲立船」であったことが明瞭である。仲立船については同じく『八重山島年来記』雍正八年(一七三〇)の条に、
一、地船之儀、十五反帆二艘ニ而候処、馬らん作り召成、十三反帆三艘御召成、先立より頭壱人・与人壱人・蔵筆者壱人、仲立より首里大屋子壱人・目差壱人、跡立より与人壱人・目差壱人〆七人仲乗被仰定候也。
とある。仲立船が新設されて先立(春立)・仲立、跡立三艘七人体制とし、乗員の再編成などが行われた。『参遣状』に雍正九年(一七三一)在番玻名城里之子親雲上が御物奉行所に宛てた文書に「地船古次第馬艦ニ相改三艘ニ相成候節、上国役人仲乗御賦被仰下奉得其意候」とある。先立船・仲立船は当年の貢租の運漕に当たり、跡立船は前年の諸帳簿の取締め等を行う。先立船・仲立船・跡立船の宰領人はそれぞれ頭・首里大屋子・与人である。梅公氏孫格は乾隆十八年(一七五三)西表首里大屋子に任じられ、同二十年仲立船宰領(「番目」の訳語が充てられている)を命じられたのであろう。仲立船の出船時期については『与世山親方八重山島規模帳』(乾隆三十三年、一七六八)に
一、地船之儀、春立・仲立ハ四月中、跡立ハ五月中致上着候様、諸事仕舞方差急キ出帆可申渡事。
とあって、四月中の上着を指令しているが、例えば『錦芳氏家譜』(小宗)について実際の出帆上着事例をみると、「仲立馬艦、五月二十二日石垣泊開船、十月十二日回嶋」(道光五年) 、「仲立馬艦、七月初二日開船、十月十二日回嶋」(道光六年)等とあって、四月中の上着事例はなかなか見当らない。公用地船はおおむね四月から七月までの間に石垣港を出帆し、九月から十二月までの間に帰嶋する。前掲咨文中の供述内咨によれば、梅公氏宰領仲立馬艦船は、乾隆二十年( 一七五五)五月二十五日上着し、同年十一月二十七日那覇開洋とある。これは上記のことからして事実を報告したものと認めてよかろう。厦門漂着は同年十二月十四日のことで、ついで翌乾隆二十一年二月九日厦門を出て福州に回航され、同年四月二十四日福州を離れている。
三 食塩
次に積載貨物のことであるが、前掲咨文によれば、梅公氏乗船には線香・衣服の外、大量の食塩が積み込まれていた。すなわち次のとおりである。
(一) 大小の罐六十箇(内、食塩を装貯するに係るもの毎罐約十余觔)
(二) 草包三百五十包(毎包、重さ五十觔、共計一万六千余觔。内、六十包は斤目欠少す)
草包三百五十包の食塩については当初においてこれを申告せず、のちに捜出せられ、はじめて明るみに出たもので、漂流にかこつけて私塩を持ち込み、船底に隠匿して密かに販売し、またはしようとしたのではないかとの疑いがもたれた。ことに六十包については斤目が不足していたため、一層の疑惑を招いた。中国では塩は政府の専売で、塩税は国庫の主要財源の一つであり、私塩の売買を禁止していたから、もし私販の事実があれば「私塩の例に照らして罪を治せん」といい、厳しく追求したが、結局「この塩は本国(琉球)中山地方に在りて買回し、太平山(八重山嶋) に帯びて日食となさんとす」という梅公氏等の釈明を了解し、私買私売の情弊なしという結論に達したのであるが、この梅公氏等の供述の信憑性については、これとは別に当時の八重山嶋における製塩状況及び塩の需給関係等を調べ、これをもとに改めて検討してみなければならないであろう。以下にまず関連史料を年次を追って掲出する。
①口上之覚(参遣状)
恐多千万奉存候得共申上候。下拙事、自躰不如意之者ニ而、堪忍方不相続、必至与及無為方躰、相考申候得ハ、八重山嶋之儀ハ題目不自由之所ニ而、御当地より買渡相続事ニ御座候。然ハ石垣村近所ニ名護浦与申所能潟有之候由承知仕候。於彼嶋塩焼候而、向後嶋中之為ニ罷成、其上自身堪忍方も少し相続可申哉与存寄申ニ付、内々所之頭衆江相談仕候得ハ、勝手能可有御座由被申候。身上御助ニ被思召上、五六ケ年之方御赦免被成下候ハハ、親子三人罷渡、塩焼出申願奉存候。尤所之厄害罷成儀、曾而仕間敷候。此等之旨可然様御披露奉頼上候以上。
亥(康熙三十四年、一六九五)六月二十八日 儀保筑登之親雲上
此表遂披露候之処、嶋中之重宝ニ可罷成由ニ而、御赦免被成下、此節大濱親雲上乗船より相渡候条、年季過候ハハ可被差上候。尤処中之厄害ニ罷成儀絶而仕間敷由、堅申渡置候。彌於其地も無違背様ニ能々可被申渡候以上。
亥(康煕三十四年、一六九五)八月二十二日 城間親雲上
富盛親方
在番
②口上之覚(参遣状)
恐多御座候得共申上候。儀保筑登之親雲上、去五月之比より熱病仕、色々手養生共仕候得共、漸々疲入、十一月十一日被致死去候。且又我々儀も此中節々相煩、塩不焼得、殊ニ当年も七八月比ニ両三度大風ニ塩屋塩濱悉ク破損仕候。然者儀保儀も長病ニ而為被致死去儀ニ御座候故、我々両人之才覚ニ而塩屋塩濱取扱不罷成、必至与迷惑至極之躰にて、当夏儀保訟之節御達被下候上者、難有仕合ニ御座候故、何与楚相働可相働与奉存候得共、当嶋之儀、日用支、少も不被相雇候得ハ、以後塩焼得申儀不罷成候。尤右仕合ニ而、借米・はん米等続申儀候問、月ニ五斗完定納仕様無御座候間、御憐愍ニ被思召上、
願之筋御赦免被下候様ニ宜御取成御披露奉頼上候以上。
丑(康煕三十六年、一六九七)十二月九日 嶋袋にや
嶋袋にや
③口上之覚(参遣状)
恐多御座候得共申上候。我等事、去亥年(一六九五)、儀保筑登之親雲上ニ相付、為塩焼当地罷下候処、飯米差迫ニ付、焼出塩見当ニ而借米等仕、飯米相続、塩濱等拵候処、数度之大風ニ塩屋塩濱悉ク破、其上長々相煩申ニ付、塩焼出申儀不相達、彌借米過分仕候処、儀保筑登之親雲上不慮ニ死去仕候。然者我々弐人ニ而以後塩焼出申儀、彌難成ニ付、月五斗ツツ定納御赦免被下度旨訟申上候上ハ、本国被仰付候儀、御尤奉存候得共、右借米返弁不仕上国仕儀、迷惑千万必至与差迫儀ニ御座候間、御助ニ被思召上、四五年逗留御赦免被下候ハハ、借米返弁働仕度奉願候条、此等之趣宜様御披露奉頼上候以上。
寅(康煕三十七年、一六九八)五月二日 〈塩焼〉
嶋袋にや
④口上之覚(参遣状)
恐多千万奉存候得共申上候。下拙事、塩焼可申旨訴訟申上、罷渡候之処、殊之外塩不出来仕、過分ニ借物仕出シ、迷惑至極行迫申候。然者此節上国可仕由、被仰付候間、おかミ届申候。尤上国可仕本儀ニ御座候得共、借物返弁之見当少も無御座、其上子共生候処、母相果申ニ付、彼之子共養育仕儀ニ候間御憐愍ニ被思召上、四五年当嶋ヘ滞留御赦免被下度願望ニ奉存候。此等之趣万反可然様御取成奉頼候以上。
寅(康煕三十七年、一六九八)四月二十三日 〈泊むら〉
嶋袋にや
⑤(参遣状)
右去年六月より塩焼出、塩月ニ五斗完上納被仰付被下度由、訟申上相達候間、入念塩焼出、上納無滞可相納旨、堅固ニ申渡置候処、去年も大風有之、塩屋塩濱相損、殊ニ儀保筑登之親雲上儀、長病之儀ニ而相果、残ル弐人之者ニ而、向後塩焼得申間敷候。然ハ去年以来上納塩之儀、早々可相納旨、堅差引申渡候得共、塩不焼得、飯米さヘ他借を以漸罷過候得ハ、少も上納之術無御座、差迫候由申出候。依之此節帰帆申付候得共、於爰元度々塩屋之取拵并飯米用与シテ過分ニ借物有之、返弁之見当無之、必至与差迫申躰ニ而候間、四五年滞留御赦免被成下度由訟申出候。然者塩焼得不申儀候得者、此節差上可申杜、本意ニ御座候処、段々訟申出差迫候為躰聞見仕、相違無御座候条、御憐愍被思召上、願之通四五年滞留被仰付度奉存候。此等之趣、宜様御取成御披露頼上候以上。
寅(康煕三十七年、一六九八)五月二日 石垣親雲上
宮良親雲上
当銘筑登之親雲上
右之通被申出候間、宜様ニ御披露奉頼候以上。
月 日 大宜味親雲上
富盛親方様
豊見城親雲上様
此表書之通逐披露候処、上納塩之儀、願之通御赦免被下候。其地江四五年滞留之儀ハ、不相達候条、両人共来夏早便より可被差渡候以上。(上納御免被下候段ハ、さん用座へも引合書遣候也)
寅(康熙三十七年、一六九八)九月十八日 棚原親雲上
宮平親方
〈八重山嶋〉
在番
⑥覚(参遣状)
一、其嶋塩焼不申ニ付、大和人より買取、代米相払候砌、不憲法ニ有之。所之痛ニ罷成候間、塩焼候ハハ勝手能可有之由、簡略人数申出候。往古より不手馴業ニ而如何敷与存、被致差引候処、御当地国頭方塩竈之様ニシテ小ク仕立、焼候ハハ、出来可申由申出候ニ付、試ニ焼させ度由被申越、逐披露候処、彌可然由被仰出候条、焼させ、首尾可被申越候。
右八ケ条(七ケ条省略)、簡略人数より申出候ニ付、諸役人江僉議被申渡、両様書付ニ而、各逐僉議被申越由候得共、諸役人書付ハ取落、不被持渡候間、右書付、来夏取寄候ハハ、何連之筋ニも相極候様ニ与、大宜味親雲上被申出候。然共各僉議書ニ而相見得候ニ付、逐披露、此節返詞申越候条、被得其意、堅固ニ可被申渡候以上。
卯(康煕三十八年、一七〇六)十月十三日 棚原親雲上
田場親方
〈八重山嶋〉
在番
⑦外題万御問合書(参遣状)
一、当嶋塩焼不申ニ付、大和人より買取、代米相払候砌、不憲法有之、所之疲罷成候間、塩焼候ハハ勝手能可有之由、簡略人数申出候。往古より不手馴業ニ而、如何敷被存、差引候処、御当地国頭方塩埪之様ニシテ小ク仕立、焼候ハハ、出来可申由申出候ニ付、試ニ焼させ度由被申越、逐披露候処、彌可然由被仰出候条、焼させ、首尾可申上由被仰下候処、当時上納之時分、百姓隙入、其上山留ニ而候間不罷成、稲刈仕廻、百姓隙明時分試ニ焼させ、兎角首尾来夏可申上候。
右条々(二ケ条省略)、為御問合、如斯御座候以上。
辰(康熙三十九年、一七〇〇)四月二日 〈在番〉
渡久地親雲上
田場親方様
棚原親雲上様
⑧覚(参遣状)
其嶋之儀、塩無之、不自由有之候間、焼させ度由、去夏簡略人数より申出ニ付、先試ニ可為焼由申渡候。然処其嶋ニ而塩焼候得ハ、万反作物之為ニ不罷成之由、嶋中歳寄共申候。去亥年(一六九五)ニ茂、御当地より儀保筑登之親雲上罷渡、焼候処、四五年之内ニ大風数度吹候而、旁以不出来仕事ニ候間、御召留被下候様、大地六ケ村百姓願書ニ、先在番・頭次書ニ而被差越、得其意候。得与落落仕候条、追而何分与可申越候以上。
巳(康煕四十年、一七〇一)十一月五五日 瀬底親雲上
富盛親方
〈在番〉
奥原親雲上
⑨覚(参遣状)
一、当嶋、塩不自由ニ付、焼出せ度由、去々年(一七〇一)簡略人数より申出候得共、大地六ケ村百姓願書ニ、前々当所ニ而塩焼候得ハ、大風有之、作物之為不罷成由申出候。尤塩焼出シ申儀も所中潤ニ可罷成与存申候処、作物之為不罷成由申出候間、御召留可被下候。
右之通詮議仕候間、宜様御取成御披露奉頼候以上。
未(康熙四十二年、一七〇三)四月三日 目差弐拾六人
与人拾六人
首里大屋子三人
右申出之通可然与奉存候間、致披露候以上。
未(康熙四十二年、一七〇三)四月十九日 所之頭三人
掛保久筑登之親雲上
〈在番〉
奥原親雲上
⑩覚(参遣状)
一、其元、塩不自由ニ付、焼出度由、去々年(一七〇一) 簡略人数より申出候得共、大地六ケ村百姓願書ニ、塩焼候得ハ大風有之、作物之為ニ不罷成由、申出候付、召留可被下由候間、逐披露候。彌召留候様可被申渡候以上。
未(康熙四十二年、一七〇三)十月十一日 保栄茂親雲上
奥平親方
〈八重山嶋〉
在番
⑪ 康煕五十六年(一七一七)(八重山島年来記)
一、こたう潟ニ而、所遣夫を以、塩焼初より十四年迄相保焼出候処、召留候也。
⑫覚(参遣状)
一、塩焼之儀、夫丸太分入候付而、右(壺焼)同前ニ試被仰付置候。此程試申候得者、太分之入目ニ而、筈合不申儀ニ御座候。且又去々年(一七二八)上国仕候新城与人并古見にや、薪木無ニ塩干之稽古仕候ニ付而ハ、所中重宝ニ候間、随分致下知、已後其干塩ニ而所之用事達候様ニ与被仰付趣、奉得其意候。然者干塩之儀も試申候処、丈夫ニ出来不申、其上雨続之時分ハ、人夫費不勝手ニ御座候。塩屋方之儀、方々より寄夫ニ而相働せ候故、百姓中農作之障ニ相成、尤大地中迄ニ而不相達、離村三四里之所よりも寄遣候故、海路之往還天気悪敷折節ハ手隙費、持飯米仕、旁百姓之不勝手ニ罷成申候。御国の塩代ニ差引候得者、太分之損亡ニ而御座候。且又諸村之儀、用事之分ハ自分ニ而焼出候様見及申候間、寄夫ニ而塩焼候儀ハ、以後御召留被仰付可然哉与奉存候。
右之通相談仕、奉得御差図候間、此旨宜御取成奉頼候以上。
戌(雍正八年、一七三〇)五月三日 〈八重山嶋〉
田嶋里之子親雲上
〈同〉
玻名城里之子親雲上
大城親方様
安里親雲上様
⑬覚(参遣状)
一、塩焼之儀、試申渡置候上、去々年(一七二八)塩干様致稽古罷下候付、以後随分仕出候而、所之用事相達候様ニ与申渡置候処、干塩之儀丈夫ニ出来不申、其上雨続之時ハ、人夫之費多、不勝手ニ有之。夫丸之儀も、大地中ニ而不相達、離嶋四五里之所よりも寄夫ニ而召遣候故、海路之往還又ハ天気悪敷有之節ハ、手隙を費、徒ニ持飯米いたし、其上農作之障ニ茂相成、且又御当地より差渡候塩代ニ差引候得者、是又太分損亡ニ有之、旁以不勝手而已有之候。尤諸村用事之分ハ自分ニ而焼出候様見及候間、寄夫ニ而しほ焼之儀ハ、以後召留度由、問合之趣致承達候。然者塩之儀、土産仕出シ不申ハ不叶物ニ而、渡合之頭江も細々相尋承候へ者、八重山嶋中ニ六ケ村ハ自分ニ鍋焼ニ而用事相達、余之村ハいまだ焼出不申候得共、堅下知仕候ハハ、右同前ニ焼出シ可申与存候由、申出候。夫ニ付而ハ、干塩之儀、御当地ニ茂今年之稽古ニ而、いまだ丈夫ニ仕出シ不申候得共、薪木無ニ仕調候ニ付而者、木絶之筋ニも不罷成候故、漸々仕馴、丈夫ニ出来候ハハ、成程重宝成儀与存、当分ハ乍不勝手進立仕調させ申事候間、其元ニ茂万事致其心得、請人相立候歟、又者人数差分ケ壱所ニ而仕調させ候歟、心之及致吟味、仕出方申渡、其内者、諸村鍋焼ニ而用事相達候様ニ、堅下知可被致候。勿論寄夫之儀ハ、甚不成合儀候間、向後召留、右旁猶以相試、兎角之段、来夏委曲可被申越候。
右為返答如此候以上。
戌(雍正八年、一七三〇)十月十五日 安里親雲上
兼城親方
〈八重山嶋〉
在番
⑭覚(参遣状)
一、塩焼之儀、此程諸事入目、段々相掛候処、御国元塩代ニ差引仕候へ者、太分損亡、旁以不勝手而已有之候付、寄せ夫ニ而塩焼候儀ハ、甚不成合儀候間、向後可召留由、且又干塩之儀、御国元ニ茂近年之稽古ニ而、いまだ丈夫ニ仕出不申候得共、漸々仕馴、丈夫ニ出来候ハハ、成程重宝成儀与被思召上、当分ハ乍御不勝手進立仕調させ申事候間、当地ニ茂万事致其心得、心之及致吟味、仕出方可申渡旨、段々委細之御書付を以被仰下旨趣、奉得其意候。右ニ付而請人相立相働せ度存候得共、当分不仕馴物ニ而、請込人無之ニ付、人数差分、壱所ニ干調様試申渡置候。
右之通一々付届申渡置候。御返答為可申上、如此御座候以上。
亥(雍正九年、一七三一)四月五日 〈八重山嶋在番〉
玻名城里之子親雲上
御物奉行所
⑮覚(参遣状)
一、当嶋、塩焼不申ニ付、大和より買申候。代米不相応ニ申掛、塩壱舛米壱舛五合、或弐舛分仕候。左候得者、買喰申さでハ不叶候ニ付而買申候。代物持参之時分も不憲法仕、百姓疲ニ見及候条、当嶋ニ而塩焼出シ、其塩之内より焼調夫手間相払、余者諸百姓江割符仕候ハハ、塩代米二三拾石茂所中補ニ可罷成与奉存候。
右、御簡略ニ付而、御為方、所之為ニ罷成儀、無遠慮可申上由被仰付候ニ付而、当分思寄之程申上候已上。
卯(乾隆二十四年、一七五九)四月十日 慶田城与人
黒嶋首里大屋子
古見首里大屋子
⑯覚(参遣状)
一、当嶋、塩焼不申ニ付、大和人より買取、代米相払候砌、不憲法ニ有之候。所中疲ニ罷成候間、塩焼出候ハハ勝手能有之筈之由候へ共、我々了見ニ者、当嶋往昔より右業手馴不申候へ者、如何無心元存、致掛引候得者、国頭方塩竈之様ニシテ小ク仕立、焼候得者、出来申筈之由申出候間、試ニ焼出させ度奉存候。(下欠略、年次不明)
⑰乾隆三十三年(一七六八)(与世山親方八重山島規模帳)
一、塩之儀、嶋用無之候而不叶、先年塩かま仕立、焼出候処、焼様稽古不参故ニ而候半、位悪敷、其上費手間多、及不勝手、召留置候由。然処到頃年ハ、村々百姓等、自分用、間々焼出候処、位宜重宝相成候由、不断焼通手馴候ハハ、猶以勝手ニ可相成積候。毎年嶋中買入候塩代、大概八百石余相及候由。然者野底・古見・西表三ケ所之儀、海山近ク、場所宜候間、塩焼様稽古させ、各噯人構ニして手広ク焼出、嶋中入用相達候様、随分下知方可申渡事。
附。自分々々ニ而も、勝手次第家業之為焼取、致商売候様申渡へく候なり。
⑱咸豊七年(一八五七)(翁長親方八重山島規模帳)
一、塩之儀、日用難差欠品ニ而、此以前、野底・古見・西表三ケ村并右外所々ニ而焼出候処、位悪敷、諸雑費茂多有之由ニ而、当時専諸船之頭・水主共持下候を高直ニ而買取、用弁相達、年々代穀及過分、嶋中之不益不少、如何ニ候焼様習受、漸々取覚候ハハ、諸雑費少、位茂宜、嶋中之重宝可相成候条、以来右村々ニ不限、海山近可致相応場所ニ者、焼様稽古申付、各噯役人下知方を以、手広焼出させ、嶋用相達候様可取計事。
附。奉公人共ニ茂、勝手次第焼出、致商売候様可申付候也。
⑲ 咸豊七年(一八五七)(万書付集)
本文逐披露候処、塩之儀、いつれ難差欠品候得共、所中ニ而出産無之故、至而不自由相成、勿論代料茂高直ニ有之由候処、名嘉地、気を附け伝受いたし候段申出、殊勝之者与被思召候。就而者、於嶋元、潟原持之村々人体見合相教させ、先様嶋用無不足焼出候様、可被取計候。左候而広焼出嶋中重宝相成候ハハ、名嘉地ハ勿論、焼出候者共ニ茂、相応之御取持被仰付筈候間、其節勲功之程合等吟味を以可被申越候以上。
巳(咸豊七年、一八五七)十月 嘉手納親雲上
与那原親方
〈八重山嶋〉
在番
頭
⑳口上覚(万書付集)
乍恐申上候。私事、真塩焼様稽古為仕度旨、上国之頭足より先達而奉訟、蒙御免候付、早速より泊村渡久地筑登之江相附、細密伝受仕申事候間、帰帆之上、潟原取持之村々江相教候様、御免被仰付、左候而、其詮相立候ハハ、相当之御取持被仰付被下度奉願候。此旨宜様御取成可被下儀奉頼候以上。
巳(咸豊七年、一八五七)十月 八重山嶋故伊原間〈与人七男〉
那嘉地にや
右通伝受仕置候相違無御座候以上。
巳(咸豊七年、一八五七)十月 〈泊村〉
渡久地筑登之
右願出之通被仰付被下度奉存候以上。
巳(咸豊七年、一八五七)十月 〈八重山嶋頭足〉
古見首里大屋子
本文逐披露、現勤日数七拾三日完之勤星被成下候間、其首尾方可被申渡候以上。
巳(咸豊七年、一八五七)十月 嘉手納親雲上
与那原親方
八重山嶋
在番
頭
㉑同治十三年(一八七四)(富川親方八重山島規模帳)
一、塩之儀、日用難差欠品ニ而、野底・古見・西表三ケ村并右外所々ニ而焼出有之候処、位悪敷、諸雑費も多有之由ニ而、専諸船船頭・水主共持下候を高直ニ而買取、用弁相達、年々代穀及過分、嶋中之不益不少事候。焼様漸々取覚候ハハ、諸雑費少、位茂宜、嶋中之重宝可相成候条、以来右村々ニ不限、可致相応場所者、各噯役人下知方を以、手広焼出させ、嶋用相達候様可取計事。
附。奉公人共ニ茂、勝手次第焼出、致商売候様可申付候也。
塩は日常必需品で、その自給度を高めることは民生の安定化に不可欠であった。王府は鍋焼(煎熟法)から干塩(日晒法)への技術革新を図りつつ、八重山嶋における塩の自給体制を確立しようと考えたが、塩田に適した干潟が少なく、こたう潟(名蔵湾南東部クードー浜) ・野底村・古見村・西表村等数箇所に限られたこと、人夫費がかさむこと、台風などで製塩施設がしばしば破壊されたこと、塩を焼くと大風が吹くと信ぜられていたことなどの理由で、その試みはいずれも失敗に帰した。結局大和人や船頭・水主が商売用に持ち下る高値の塩に依存せざるをえず、塩一升は米一升五合或いは二升の引き合いで取引され(一七五九年)、その代米は、年間八〇〇石余に達したのである(一七六八年)。こうした状況は明治期まで改善されることはなかった。
㉒明治二十六年(一八九三)(庶務書類綴)
塩田着手及将来起スベキ濱地箇所反別
本群島ニハ未ダ完全ナル製塩業ヲ起シタル者ナシ。尤モ二三ノ起業者アリシト雖モ総テ鹹水ヲ直ニ煎尽蒸発シテ結晶セシムルモノニシテ彼ノ塩田即チ打潮ヨリ製スルモノアラザリシナリ斯ク製塩ノ業開ケザルモ一万五千余ノ人口ヲ以テ須臾モ欠クベカラザル勿論ナルガ故ニ総テ之ガ供給ヲ那覇ニ仰ゲリ然レドモ交通不便ノ土地柄ナレバ時トシテ払底若クハ欠乏スルノ恐アリ去迚完全ナル塩田業ヲ起スハ多クノ資本ヲ要スルヲ以テ彼是其必要ト利益ノ如何ト燃料ノ饒カナルトニ依リ偖杜鹹水煎熟ノ策ニ出タルモノノ如シ是等ハ固ヨリ広大ナル土地ヲ要セザル勿論ナルガ故ニ概シテ二三千坪ノ地面ヲ拝借スルニ過ザリシ
将来起コスベキ塩田業ニ適当ナル濱地ノ箇所ハ屈指スルニモ足ラザルナリ然レドモ聞見上ヨリシテ適当ナリト想像スル箇所ニ至テハ其数少ナカラズ元来本群島ハ珊瑚礁ヨリ組成セラレタルヲ以テ濱地多分ハ白砂ニシテ概シテ珊瑚石ノ粉末ナルガ故ニ如何ニ潮水ヲ散布スルモ日光ノ為ニ塩分ノ凝着スル極メテ僅少ニシテ収支相償ハザルガ故ニ是等ノ土地ヲ塩田トナサンカ多クノ資本ト労カトヲ要スベシ其最モ適当ナル濱地ハ宮良間切高那村(西表島内)ノ内野原ノ海濱ニシテ其面積ハ
大凡壱百五拾町歩余
ナルベシ然シテ該濱ハ新地層ナル珊瑚石等ノ破砕シタル細砂ニアラザルヲ以テ塩分ノ歩留十分ナルベシ然レドモ目下満潮ノ時ニ此濱地一面ノ潮水ヲ以テ浸スガ故ニ長大ナル堤防ノ築造ヲ要スルナリ此他ニ於テ恐ラク如斯製塩場ニ適当ニシテ且平坦広大ナル濱地ナカルベシト信ズルナリ
「明治(自二十三年至二十五年)三ケ年間輸出入重要物産調査表」によれば、塩は焼酎・素麺・石油・茶・白糖・昆布等とともに重要輸入物産物の一つに挙げられており、その年間の輸入巌額は次の通りである。
(二十三年) (二十四年) (二十五年)
塩 一一〇〇円 一〇三八円 八八二円
二七五石 二九一石 三九四石
これを輪出物産の米と比較するに、例えば明治二十三年における米の輸出量は一七三九石で総額一〇四三四円、米塩一石あたりの値段はそれぞれ米五・八九八円、塩四円である。
以上のことから考えると、梅公氏乗船積載の塩は島内商販用として乗員が那覇で大量に買い付けたもので、その供述内咨には一応の信憑性が認められよう。なお一七〇〇年代中期ごろ成立したとみられる『御当国御高並諸上納里積記』には「那覇泊潟原塩上納之事」として次の記事ががある。
潟原塩之儀、泉崎村塩浜親雲上、大和塩之焼様致伝授、康煕三十三年甲戌年(一六九四年)潟原ニ塩焼所見立、及訴訟、御免を以、初て焼出、翌乙亥(一六九五)より塩上納をも仕来候(下略)。
四 馬艦
馬艦船の建造技術は中国伝来のものであるが、その時期についてははっきりしない。ただ前述のように雍正八年(一七三〇)には宮古・八重山の地船を馬艦の法式に改めるよう指令し、翌九年から順次建造に着手したもようである。在来船は和船タイプの大型船で走行性安定性に欠け、海難事故があいついだ。このため人命尊重、公物損耗防止のために外洋航行に適し、且つ建造費の安くつく馬艦へのきり換えが急がれたのである。
覚(参遣状)
一、両先嶋船之儀、此中之作様ニ而ハ、別而不達者ニ有之。時々漂流或ハ致破損、人命相廃リ事候間、向後馬艦作ニ相改候而者、何様可有之哉与、両嶋渡合之役人共江段々御尋之上、唐船太工江茂考被仰付候処、八重山嶋之儀、松無之、楮木ニ而作事之筈候得者、総体ハ馬艦作ニ而、棚之付様さし物ハ、当嶋の仕様ニ而可相済由申出候。左候得者、馬艦作ニ召成、海上乗能罷成儀ニ候ハハ、題目人命之助ニ相成、且又御用物無滞届上候儀、頂上之儀ニ御座候間、向後馬艦作ニ申可渡由、段々被仰下候趣、奉得其意候。
一、先嶋之儀、檣木無之、御国元より御達被下候処、其御地茂唐船并楷船檣用之木有少ク、乍漸相済事候。地船小ク相成候得ハ、檣木も永々相続御考ニ候問、今一艘ツツ作重、毎年三艘ツツ差登せ候様ニ与、委細之御書付具奉得其意候。
右御返答為申上、如此御御座候以上。
亥(雍正九年、一七三一) 四月五日 〈八重山嶋在番〉
玻名城里之子親雲上
御物奉行所
覚(参遣状)
〈此節宮古馬艦作事料〉
一、米弐百拾石四斗八舛弐合五勺壱才起
〈右同〉
一、千割鉄弐千六拾八斤百拾弐匁七分七厘
〈右同〉
一、古釘八百八拾五斤八拾目
〈宮古地船作事料〉
一、米三百四拾三石壱斗八舛弐合八勺弐才起
〈右同〉
一、千割鉄三千五百斤
〈右同〉
一、下鉄弐千四百拾六斤百匁壱分壱厘四毛
右宮古・八重山両嶋船之儀、馬艦作被召改、此節宮古船作事仕候。手初之事候間、私茂立合致下知候様被仰下趣、奉得其意候。然者入目之儀取立候得者、於其御地総太工考ニも致相違、地船入目よりハ抜群可引入与相考候処、左程之替無之ニ付、爰元罷渡候太工阿波連筑登之親雲上江相尋候得者、当嶋細工人いまだ手馴不申、尤楷木ハ過半楮木故、手ぬるく有之候上、釘目一々穿候ニ付而、手隙を込申由、尤之儀ニ存候。私茂毎日出合、入目等旁諸事之費無之様、随分致下知候得共、右通遣込申候。雖然馬艦作之儀、此節不残嶋太工江稽古成就為仕候。乍此上若不覚も可有之哉与、当嶋楷立、来年作事廻ニ而候得共、嶋太工共稽古之為ニ請込作事為致、阿波連筑登之親雲上・金城筑登之親雲上江見分候処、少も不足無之由申出候。以後船作事之砌者、御国元太工不構可相調与、頂上之儀御座候。彌以工相続候ハハ、猶以作事料も相減可申哉与相談仕候。右之趣御問合為可申上如此御座候以上。
亥(雍正九年、一七三一) 四月五日 〈八重山嶋在番〉
玻名城里之子親雲上
御物奉行所
馬艦船はその後一七七五年に前任接貢船船頭与那嶺・工師石川等によって改良が加えられ(『球陽』)、その性能耐久性をさらに向上させ、近世漕運船の主流を占めることとなった。
五 呈文
薩摩上国使者乗船及び両先嶋の公用船等には、唐漂着のことをあらかじめ想定して、呈文の文案集を携行せしめた。これは漂流の際、当該地の地方長官(大老爺)に提出する公式の文書で、『唐国江漂着之時漢文認様呈書集』または単に『漢文』の表題を付してある。両先嶋の場合は新在番人が下庫理においてこれを受領し持ち下ったようである。『漢文』の奥書に、
右ケ条之趣、具ニ得其意、自然之時、無越度相計候様、上国之面々并先島在番人江於下庫理ニ為致拝見写取持渡候様可被申渡者也。
乾隆十八年(一七五三)癸酉四月 評定所
御双紙庫理
右之通被仰渡候問、上国人并先島在番人被仰付候ハハ、早速召寄為致拝見写取持渡候様可申達候。左候而拝見致候段、即々首尾可申出候。聊疎意有之間敷候以上。
四月 高宮城里之子親雲上
田里親雲上
勢頭
とある。梅公氏一行が此の種の文案を持参していたことは想像にかたくない。『漢文』には十種類の文案を収めてある。例えば梅公氏漂流は「御国元より帰帆之砌、逢逆風、洋中及難儀、船具相損、唐国漂着、外山抔ニ致破船、荷物濡掛リ候ハハ売払、其所之船相雇、福建江送届被下度訟書差出可然候」とある場合に相当する。その文例は次の通りである。
具稟琉球国属八重山島難夷厶等為格外施恩以恤遠人事切難民某等厶月厶日前抵琉球那覇地方投納賦税事竣回島之時洋中徒遇狂風猛起□大作壊損槓椇漂入
貴轄外山詎想船身衝礁壊損通船厶十余名将陥溺死之地幸沐
上帝指導上岸活命無致逆死更得捜取漂流貨物都是潮沾湿時蒙
貴国大老爺賜食充餓造屋棲身父母之恩昊天罔極銘記難忘茲不揣愚昧冒瀆者深懐恐懼惟是小可湿貨不忍堆置一所而致爛朽無用万望
大老爺格外開恩垂察苦情恩准就地公平買売更祈遣船楫解送福州以便附搭貢船回于本籍則此恩此徳千秋頂祝不諼矣切稟
同治厶年厶月厶日 琉球国難人厶等謹具
このほか疱瘡に感染したときの医師派遣要請、病死の際の埋葬許可願等の案文がある。今回の漂流では梅公氏西表首里大屋子等「拾人余」が疱瘡のため客死しているが、「呈文集」を持参していたとすれば、これにもとづいて文書を作成提出したかも知れない。それはともかく、現存する梅公氏の墓碑には次のごとく誌されている。(高良倉吉「中国所在の琉球人墓碑の紹介」『浦添市立図書館紀要』一九八九年)
琉球国 八重山西表親雲上梅公氏墓 乾隆二十一年丙子 六月初六日立
なお王府借上の民間商船の場合、船の修甫料その他の諸経費については存留役より貸し付け、帰帆の後返済せしめた。『参遣状』に、
一、御当国中之船、唐漂着候ハハ、存留并役者中江申出、御物濡廃無之様致格護、自物共現品可持戻候。尤長々格護難成品者、存留江申出、勢頭・大夫差図次第何分支配可致候。就中商売仕候儀、跡々より御禁止被仰渡置候通、堅固可相守候。右ニ付本船修甫不仕候而不叶候ハハ、存留并役者中江申出、差図を請、修甫可相渡候。右船修甫料并漂着之儀ニ付而遣銀飯米等諸入料銀、帰帆次第船主船頭共江返上方被仰付候間、可成限ハ御銀入無之様申出、存留役者より相渡候銀高ニ而、修甫相調、帳相総、存留江可差出候。尤諸入料委細取〆置、早速上納可致候。
但上納方相滞候ハハ、家財妻子欠所ニ而上納可申付候。尤及破船、荷物等無之、身すからニ相成候ハハ、御法様之通、在所在嶋相届候迄之飯米、御物より被下候。
右者船々諸方往還之節、船具等無不足致用意、船乗方之儀、専日和見合、時分不取後様段々被仰渡置候趣在之候処、其守達無之、到比年ニ者、唐并諸所漂着、段々御厄害ニ相成、甚以不然事候間、向後能々日和之致吟味、船具等不足無之様可被申渡候。自然依風並不意ニ漂着候ハハ、右ケ条之通聊無緩疎相守候様、堅可申渡候。此旨御差図ニ而候以上。
申(乾隆二十九年、一七六四)十一月 嘉陽田親雲上
伊舎堂親方
〈八重山嶋〉
在番
とある。返済できない場合は家財妻子没収とあるから、漂流も容易なことではない。公用船の場合は、船の修甫料その他中国側が負担した。
「参考文献」
宮田俊彦著『琉球・清国交易史』(第一書房)