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資料詳細
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
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- 中国暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
『歴代宝案』の県立図書館移管時の新聞記事(昭和八年)
(一) 『沖縄日報」昭和八年一一月七日(喜舎場永珣新聞切抜帳)
(二) 『沖縄日報」昭和八年一一月一四日(東恩納寛惇新聞切抜帳)
(三) 『沖縄日報』昭和八年一一月一五日(同右)
(四) 『沖縄日報』昭和八年一一月一六日(喜舎場永珣新聞切抜帳)
(五) 『沖縄日報」昭和八年一二月?日(日付未詳)(東恩納寛惇新聞切抜帳)
一.『沖縄日報』昭和八年十一月七日
古琉球の外交記録
讀破に學者の争覇白熱す
埃にまみれて久米の舊家に
七十余册の黄金篇發見
いま、郷土學会は『おもろ』、『球陽』にも勝るべき責重な文献『琉球寳案』の発見によって一大飛躍期に入った。永らく所在不明のまゝに、埋もれてゐた古琉球の外交記録『寳案』全七十餘册が世に現はれ出るとゝもに勇躍飛びついた郷土學者達が寝食を忘れてその讀破にかゝってゐる。而してこの貴重な文献をめぐって今まで暗にかくれた古琉球の外交史の全貌をあからめ、さらに數知れぬ史實を拾ひあげやうとする學者間の静寂な書斎裡の争覇戦は美しくも尊いものがある。
古琉球の外交文書を集めた資料は、永い間熱心な郷土研究家達によって執拗なまでに探し続けられてゐた。王朝時代の諸外国との交易は『オモロ』や系圖や口碑等による外、全く調査の方法なく、交易文書を綴った琉球寳案といふものがあると語り傳へられてゐるのを唯一の頼りにして、その出現を待つこと年久しく、遂に偶然な機會から發見されるに至ったのだ。殊勲の発見者は市内西本町にさゝやかな茶商を営んでゐる商業學校支那語教師仲本英昭氏で、同氏は一昨年の末頃当時の那覇地方裁判所判事奥野彦六郎氏と交友篤く、同判事が本縣の王朝時代の法制に興味をもって研究してゐたので古い判決例を欲いからと仲本氏にその入手方を依頼した。仲本氏は快く引受けて方々探したところが、どこにも見当たらず、フト首里と密接な関係にあった久米方面を探して見よう、と思ひ立って、同方面をしらみ潰しに古文書を保存してゐそうな家を探してゐるうち、古老の一人に「久米の諸記録は殆ど惣役だった神村家に集められてゐる筈だ」と教へられたので早速神村家を訪れて記録類の拝見方を申し入れた。幸ひ承諾を得たので同家に保存されてゐる古文書を片っばしから調べたところ求める「判決例集」は遂に無かったが、以外や棚の上に積み重ねられたまゝ埃を浴びてゐる一揃ひの古書が、永年郷土學徒が渇望してゐた「琉球寳案」らしいのに気附いたのだ、このことを神村家に話したら同家でも驚いて、貴重な古書をこのまゝ放っておくことも出来ないと早速天尊廟に移管したのである。
漸く発見されたものゝその後約一年の間この報は郷土學者の耳に入らず、再び天尊廟の奥深く隠されてあたら文献も空しい日を送ってゐた。ところが昨年十一月仲本氏からこのことを聴いたのは南蠻行準備のため帰県してゐた文學士東恩納寛淳氏である。□も時□はシャム方面と日本との交易調査の前提として琉球との交易関係を調べてゐたので大喜び、早速久米の有志と天尊廟の管理人名嘉山大昌氏へ交渉し七十餘册のうちから差し當って必要な十六册を撰び出して目を通したのである。
こゝに郷土史學へのセンセーションが捲き起こった。続いて今夏東京で鋭意研究を続けてゐる前一高女教諭鎌倉芳太郎氏が久米に乗り込んできて、七十册に餘るぼう大な古書を一頁も残さず寫眞にとって引上げた、と殆んどこれと前後して二高女校長島袋全發氏が同校教諭渡口政興氏の助力を得て研究にとりかゝった。島袋氏は語る。
まだ一册しか目を通していないがね、三山分立時代から尚巴志王朝以後尚泰王時代までの支那、ジャバ、スマトラ、シャム、朝鮮との貿易の記録は餘さず網羅されてゐる。國王間を往復した公文書が多数で、全七十餘册はまさしく郷土史學界への拍車となろう。
二.『沖縄日報』昭和八年十一月十四日
問題の全『琉球寳案』
圖書館移管に決す
唐榮卅六姓の誇りを見せて
けふ長老らの大評定
ふたゝび郷土學界へ送る快報!文献中の黄金篇『琉球寳案」が久米の舊家で發見されるや眞先に東恩納寛淳、鎌倉芳太郎、島袋全發の諸氏が此の厖大な数百册の記録に秘められた古琉球外交史の全貌をつかむべく全精神力を傾けて讀破にとりかゝったがこれが本紙によって報道されるとともに、物静かだった郷土學界に昂奮は渦巻いたのである。忽ち怒涛の如く探究慾に燃へる學徒の眼は『寳案』目がけて押し寄せてきた。在京の漢那憲和氏より久米の長老桑江章矩翁(八三)へ閲覧懇望の飛電あり、また一部は既に目を通した東恩納寛淳氏よりも同じく全巻讀破の便宜を懇望され、一方では天尊廟管理長名嘉山大昌翁の天尊廟向ひの宅へも連日『寳案』拜見を申し込んでくる學徒群が殺到する、桑江翁の許にも東恩納、漢那兩氏に續いて朝から晩まで訪問攻めといふ有様。兩翁ともにこの處置についていろいろ講じてゐる時、大記録の發見者仲本英昭氏と學界に深い理解を持つ二中校教諭國場公憲の二氏は、
『おもろ』にも比すべき貴重な文献を徒らに天尊廟内奥深く閉じ込めて情熱の學徒と隔離しておくべきものではない、よろしく郷土研究の本山である圖書館に移して斯界に資すべきだ、
と久米崇聖會の人達を説いて廻ったため會員の心は次第に動かされ舊久米の長老有志は一昨晩天尊廟に會合を開き、殺到する閲覧申込みに対してどう処置するか會員一同の意見を求めたところ、名嘉山翁は立ち上がって別項の如き書を配って「圖書館へ移管し後世学徒の研究に資すべきものである」とアッピールする。遂に衆議は唐栄三十六姓の誇りを示して圖書館へ保管に一決し、いよ/\本日午後三時より再び會員一同天尊廟に会合して、圖書館司書宮里榮輝氏を招きこの旨を傳へ、その保管方を依頼することになつた。
名嘉山翁の訴望
一昨晩天尊廟における崇聖會、天尊廟管理者らの、舊久米村長老並に有志の協議會で名嘉山大昌翁が出席者に與へた訴望(アッピール)は次の如きものである。
一日鳩集會議保管寳案之事一人登言曰
夫寳案者是非藏櫃待價之寳従來先儒留與後學而後學須當珍藏以參考之以師資之至寳者也愚謂其為寳案也既歴録歴代國王與中華及日本之大國交通而小事大之大禮復歴舉歴代國王與東西各國交際而爲貿易融通之大事績壘而成數百編者也能令古今人隔數百年覩面共話能令天下人隔千百里相對相議有欲聞於人之事即査其案而知之有欲問於人之疑即憑其案而審之世傳先儒所執之職務留與後裔難辯之事變国家條例歴々可騐是以出仕之官吏總無事而不參考師資乎此案也豈非歴代出仕者之至寳耶但知歴代出仕者之至寳不知時加曝拂之愛事却乃與埋藏箱中蛛蜘張網白蟻爲蟄以歸癈物寧不如保管全□于圖書館内以貽後學以資來□矣愚見如此不知當否請諸君奪奪議示
天尊管理 名嘉山大昌
まさしく近来の快舉
歓喜の島袋全發氏
素晴らしきこの快報に第二高女の校長島袋全發氏は歎喜を満面に浮かべて語る。
まさしく近來の快事だ、縣下の學徒のためにまた圖書館のためにも喜ばしい話だ。久米崇聖會の人達には大いに感謝すべきだね、圖書館の藏書もこれで殆ど完璧に近いものとなった、この際移轉問題を早く片づけて、最も安全な不燃性のコンクリートにする必要がある。そうなれば圖書館も兼ねた郷土博物館も實現出来る。
三.『沖縄日報』 昭和八年十一月一五日
歴代寳案全二百五十三册
圖書館移管の歴史的會見
けふ愈よ波上天尊廟から
問題の琉球歴代寳案は久米村より縣立圖書館に移管することになり、きのふ午後二時から波の上天尊廟で、久米の長老、桑江章矩、名嘉山大昌の兩翁に伊差川開榮、桑江克英兩氏、圖書館から司書宮里榮輝、第二高女島袋全發、豊田、眞榮田、照屋ら二中教諭、それに圖書館移管を力説した國場二中教諭、尋高の國吉有慶氏、おくれて發見者、商業學校の仲本英昭氏らも加はつて歴史的會見が行はれた。
先づ名嘉山大昌翁が寳案をあげて圖書館に移管したい、寳は東恩納教授へ貸して呉れと東京からわざ/\桑江翁へ漢那少将の頼みもあるが、この至寳の保管は是非圖書館に御依頼する外はない、就ては二ケ條の條件付で移管して貰ひ度い、との申出でに宮里司書から喜んで左の委托覺書を提出。
・委托者の請求に依り何時でも返還すること
・原本は厳に保管し別に冩本を作製して一般研究者に閲覧させること
こゝに至寳全寳案は圖書館に移されることになったが、圖書館では新しく書棚を作り慎重に書庫に收めることに決定、けふ愈々歴代寳案全二百五十册は久米村から縣立圖書館へ移ることになつた。
大政治家の蔡温も
少年時代に書き足す
東洋貿易資料の大集成
問題の寳案、正しくは『歴代寳案』で天尊廟に保管されてあるものは實に全二百五十三册(内目録五册)に上ってをり三山時代―明時代から廢藩當時まで歴代書き足して來た琉球外交史とも云うべきもので、琉球から日本、支那から遠くはシャムの南洋に至るまでの外交と貿易を記録してある云はゞ東洋貿易史の一大資料で日本と云はず東洋の學界に寄與するところ多く至寳である。名嘉山翁の話によると寳案は歴代書き足してあるが、その中には大政治家蔡温が一五・六歳の頃、友人らと共に書き足してある個所も多い、寳案には三山を統一した尚巴志から支那・シャムヘ送つた手紙や、三山時代の懐機文集など今日迄の學説を覆へすところが少なくない。なほ尚家の寳案は沖縄縣令木梨精一郎氏が東京に携へ多分内閣文庫に收められたのを震災で燒き盡されたから今度圖書館へ移されるのが唯一の至寳となったわけである。
久米村のために辯ず
二高女島袋全發氏談
寳案の移管は何といっても喜ばしい事です。所でそのいきさつに就き少し訂正して貰い度いのがあります。
文書の名は正しくは『歴代寳案』です。しかし世間には琉球寳案の名で傳はってゐたらしく伊波さんなどもこの未見の文書を左様呼で居られました。某家から仲本氏が發見したと云ふ事は初耳ですが天尊廟に移管後眞境名圖書館長がその所在を傳聞し、私に移管の交渉方を頼まれた事がありますので天尊廟維持會幹部の御集會の席上に罷り出て交渉を試みましたら、若い連中は即座に賛成されましたが名嘉山、伊差川さんなども主旨は賛成であるが久米村では傳統として秘密文にしてあって程順則なども之を戒められた言葉があるけれども、時勢が違ひこれを紙魚に委するのは却って古人の考へにも反するけれども、久米村には桑江翁始め先輩が居られるからその歴々の御了解を得なければいけない、正式の順序を履んで移管する事にしやうとのわかったお話でした。
その後東恩納教授が歸省された時この話をしたら是非讀んで見度いとの事で御一緒に天尊に参り名嘉山さんの御了解を得て一部を抄録されました。まだ先輩の了解濟でないのでこれを携出させる事は、名嘉山様御一存では出来ないと云ふので東恩納氏も數日通はれた次第で、その後部類分けした十數部の筆寫に付き御依頼があつたので私共がその準備中、鎌倉芳太郎君が來て紹介してくれとの事で、矢張り了解の上、君も天尊に通ふて寫眞を數日間撮りました。理研の發明に係る特別の寫眞で、原本同様同型に而も簡箪に撮られる(日光利用)ので、文化的利器には敵はないと思はせられた。鎌倉君は數十册を一枚々々丹念に撮って大喜びで東京に歸った。そんな次第で久米村の方々は決して秘密にされた譯ではなく、移管するなら移管するで正式に責任ある方法をとり度いとの御考であったのを、誤解した向もあって憤慨を買ったのは無理もない。
今度桑江翁初め一同協議の上快く移管に決したと聞いて私としても責任を果たしたやうな氣がしてゐます。併し可也虫が喰ってゐるので圖書館でも無責任に直ぐ讀ませたりはしないだらうと思ふ。急ぎ筆寫させて、筆寫本を研究資料にし、原本は適當な手當を加へて保存すべきだと思ふ。一枚々々めくるのでも東恩納さんなど極めて慎重に紙片を崩さぬやうに先づ日光に曝してからやって居られた。これは御互公徳を重んじて然るべきだと思ふ。久米村の方々のために好機會であるから私から釋明させて頂きます。
四.『沖縄日報』昭和八年十一月十六日
自動車に一杯積んで
至寳圖書館へ移る
本社へ在京の伊波普猷氏から
歓喜溢れる謝電
至寳『琉球歴代寳案」全二百五十三册はきのふ午後五時頃、縣立圖書館司書宮里栄輝氏が正式に保管証を携へ波上天尊廟で、久米村の長老桑江、名嘉山の兩翁及び伊佐川開榮氏から引きつがれたが、全二百五十三册といふぼう大な同書のことゝて自動車一杯に積み込んで圖書館へ移し一先づ郷土室に收めて愈々整理と保管にかゝることゝなった。圖書館ではこの快事に大喜びで名嘉山大昌翁宛に左の禮状を出したが史學雑誌にもこのことを書いて寳案をあまねく全國の學界に紹介することになってゐる。
今般貴重書歴代寳案御移托被下御好意□深謝候思ふに同書は獨り郷土沖縄の一□資料なるのみならず本邦貿易史上誠に重要なる文献にして今や學界注目の的と相成候今回かたじけなくも御厚配に預りこの奇□書を弊館に御移托相成候段弊館の光栄は固より斯道研究者のため□た欣快に堪えず候古來數百年間唐榮先人の心血を注ぎて集成□□せられたる至寳を保管するに就ては御趣旨に從ひ周到注意を拂ひ苟も御厚志に背かざる覚悟に御座候(以下略)
なほ在京の伊波普猷氏より昨日本社へ左の如く喜びの電報があった。
學問のために喜ぶ、篤學の士の研究を期待す
五.『沖縄日報』昭和八年十二月(日付不詳)
さよなら一九三三年
劇聖祭の大衆化と
歴代寳案の再發見
學界の印象と展望
我々は昨年十二月、本紙上で一九三二年の學界を顧み、進んで一九三三年の展望を試みて、
東恩納氏は近くシャム・安南・マラッカ方面へ出掛け、古琉球と同地方との交通貿易の史實をはっきりさせ系統的に調査を遂げることゝなってゐる。五百年前琉球と南洋の交通が學界から今迄その儘黙過されてゐたことは決して日本學界の誇りではなかった。然し同教授の調査が學界に大きな寄與を齎すのは一九三三年以後のことゝならう。
と書いた――この豫想は當ったが、然し「一九三三年以後」に「教授が學界に齎らした寄與」は「大きい」どころか誠に計り知れぬものがある。我々は今更、ポピュラーになった教授の功績を讃えることを控へ、繰返して「教授が日本の學界へ大きな寄與を齎すのは……一九三四年以後のことゝならう」と記して再び「明日」を約束しやうではないか。けだし教授の業績が眞実に科學的に整理され日本の學界へ寄與する日は希望に輝く一九三四年以後となることは自明だからである。
本年の學界で特筆されていゝことは郷土研究會主催の劇聖玉城朝薫祭であった。従來とても史上の人物が何らかの方法で記念されたことはないでもなかったが、この沖縄の「國民詩人」ともいふべき天才の記念事業は、その藝術が二百年の間民族の魂を育んで來てゐるだけに、記念祭典は最も大衆的に行はれ、あらゆる階層から熱烈な指示を受けたものである。今後この記念事業から生まれるべきものは朝薫の藝術をそのまゝ如何に保存するかを今日において確立することにある。
けれども三三年の學界で特に記憶さるべきことは所謂歴代寳案が久米村の一舊家から発見され再びそれがセンセーショナルな事件となって大衆を「把握」したことであらう。『寳案』は天尊廟から圖書館へ移管され、今日では文字通り「學界のもの」となった。『寳案』の價値が如何に貴いものであるかといふことはこのニュースに対して東京から伊波普猷氏がわざ/\本社へ謝電を寄せられた事實に徴しても明らかである。
『寳案」の發見とともに思ひ出されるのは中頭郡の一小學校教員多和田眞淳氏が讀谷山長濱で貝塚を發見、學徒卅名が大舉してその發掘に赴いたことである。この貝塚から昭和會館主事島袋源一郎氏は彫刻入りの猪の牙を發見してゐる。これは最近來縣した京大醫學部講師三宅宗悦氏の注目を惹いた、何れにしても多和田訓導の學問に對する献身的努力は各方面から感謝で迎へられた今年中の快い卜ピックであった。
(下略)
(一) 『沖縄日報」昭和八年一一月七日(喜舎場永珣新聞切抜帳)
(二) 『沖縄日報」昭和八年一一月一四日(東恩納寛惇新聞切抜帳)
(三) 『沖縄日報』昭和八年一一月一五日(同右)
(四) 『沖縄日報』昭和八年一一月一六日(喜舎場永珣新聞切抜帳)
(五) 『沖縄日報」昭和八年一二月?日(日付未詳)(東恩納寛惇新聞切抜帳)
一.『沖縄日報』昭和八年十一月七日
古琉球の外交記録
讀破に學者の争覇白熱す
埃にまみれて久米の舊家に
七十余册の黄金篇發見
いま、郷土學会は『おもろ』、『球陽』にも勝るべき責重な文献『琉球寳案』の発見によって一大飛躍期に入った。永らく所在不明のまゝに、埋もれてゐた古琉球の外交記録『寳案』全七十餘册が世に現はれ出るとゝもに勇躍飛びついた郷土學者達が寝食を忘れてその讀破にかゝってゐる。而してこの貴重な文献をめぐって今まで暗にかくれた古琉球の外交史の全貌をあからめ、さらに數知れぬ史實を拾ひあげやうとする學者間の静寂な書斎裡の争覇戦は美しくも尊いものがある。
古琉球の外交文書を集めた資料は、永い間熱心な郷土研究家達によって執拗なまでに探し続けられてゐた。王朝時代の諸外国との交易は『オモロ』や系圖や口碑等による外、全く調査の方法なく、交易文書を綴った琉球寳案といふものがあると語り傳へられてゐるのを唯一の頼りにして、その出現を待つこと年久しく、遂に偶然な機會から發見されるに至ったのだ。殊勲の発見者は市内西本町にさゝやかな茶商を営んでゐる商業學校支那語教師仲本英昭氏で、同氏は一昨年の末頃当時の那覇地方裁判所判事奥野彦六郎氏と交友篤く、同判事が本縣の王朝時代の法制に興味をもって研究してゐたので古い判決例を欲いからと仲本氏にその入手方を依頼した。仲本氏は快く引受けて方々探したところが、どこにも見当たらず、フト首里と密接な関係にあった久米方面を探して見よう、と思ひ立って、同方面をしらみ潰しに古文書を保存してゐそうな家を探してゐるうち、古老の一人に「久米の諸記録は殆ど惣役だった神村家に集められてゐる筈だ」と教へられたので早速神村家を訪れて記録類の拝見方を申し入れた。幸ひ承諾を得たので同家に保存されてゐる古文書を片っばしから調べたところ求める「判決例集」は遂に無かったが、以外や棚の上に積み重ねられたまゝ埃を浴びてゐる一揃ひの古書が、永年郷土學徒が渇望してゐた「琉球寳案」らしいのに気附いたのだ、このことを神村家に話したら同家でも驚いて、貴重な古書をこのまゝ放っておくことも出来ないと早速天尊廟に移管したのである。
漸く発見されたものゝその後約一年の間この報は郷土學者の耳に入らず、再び天尊廟の奥深く隠されてあたら文献も空しい日を送ってゐた。ところが昨年十一月仲本氏からこのことを聴いたのは南蠻行準備のため帰県してゐた文學士東恩納寛淳氏である。□も時□はシャム方面と日本との交易調査の前提として琉球との交易関係を調べてゐたので大喜び、早速久米の有志と天尊廟の管理人名嘉山大昌氏へ交渉し七十餘册のうちから差し當って必要な十六册を撰び出して目を通したのである。
こゝに郷土史學へのセンセーションが捲き起こった。続いて今夏東京で鋭意研究を続けてゐる前一高女教諭鎌倉芳太郎氏が久米に乗り込んできて、七十册に餘るぼう大な古書を一頁も残さず寫眞にとって引上げた、と殆んどこれと前後して二高女校長島袋全發氏が同校教諭渡口政興氏の助力を得て研究にとりかゝった。島袋氏は語る。
まだ一册しか目を通していないがね、三山分立時代から尚巴志王朝以後尚泰王時代までの支那、ジャバ、スマトラ、シャム、朝鮮との貿易の記録は餘さず網羅されてゐる。國王間を往復した公文書が多数で、全七十餘册はまさしく郷土史學界への拍車となろう。
二.『沖縄日報』昭和八年十一月十四日
問題の全『琉球寳案』
圖書館移管に決す
唐榮卅六姓の誇りを見せて
けふ長老らの大評定
ふたゝび郷土學界へ送る快報!文献中の黄金篇『琉球寳案」が久米の舊家で發見されるや眞先に東恩納寛淳、鎌倉芳太郎、島袋全發の諸氏が此の厖大な数百册の記録に秘められた古琉球外交史の全貌をつかむべく全精神力を傾けて讀破にとりかゝったがこれが本紙によって報道されるとともに、物静かだった郷土學界に昂奮は渦巻いたのである。忽ち怒涛の如く探究慾に燃へる學徒の眼は『寳案』目がけて押し寄せてきた。在京の漢那憲和氏より久米の長老桑江章矩翁(八三)へ閲覧懇望の飛電あり、また一部は既に目を通した東恩納寛淳氏よりも同じく全巻讀破の便宜を懇望され、一方では天尊廟管理長名嘉山大昌翁の天尊廟向ひの宅へも連日『寳案』拜見を申し込んでくる學徒群が殺到する、桑江翁の許にも東恩納、漢那兩氏に續いて朝から晩まで訪問攻めといふ有様。兩翁ともにこの處置についていろいろ講じてゐる時、大記録の發見者仲本英昭氏と學界に深い理解を持つ二中校教諭國場公憲の二氏は、
『おもろ』にも比すべき貴重な文献を徒らに天尊廟内奥深く閉じ込めて情熱の學徒と隔離しておくべきものではない、よろしく郷土研究の本山である圖書館に移して斯界に資すべきだ、
と久米崇聖會の人達を説いて廻ったため會員の心は次第に動かされ舊久米の長老有志は一昨晩天尊廟に會合を開き、殺到する閲覧申込みに対してどう処置するか會員一同の意見を求めたところ、名嘉山翁は立ち上がって別項の如き書を配って「圖書館へ移管し後世学徒の研究に資すべきものである」とアッピールする。遂に衆議は唐栄三十六姓の誇りを示して圖書館へ保管に一決し、いよ/\本日午後三時より再び會員一同天尊廟に会合して、圖書館司書宮里榮輝氏を招きこの旨を傳へ、その保管方を依頼することになつた。
名嘉山翁の訴望
一昨晩天尊廟における崇聖會、天尊廟管理者らの、舊久米村長老並に有志の協議會で名嘉山大昌翁が出席者に與へた訴望(アッピール)は次の如きものである。
一日鳩集會議保管寳案之事一人登言曰
夫寳案者是非藏櫃待價之寳従來先儒留與後學而後學須當珍藏以參考之以師資之至寳者也愚謂其為寳案也既歴録歴代國王與中華及日本之大國交通而小事大之大禮復歴舉歴代國王與東西各國交際而爲貿易融通之大事績壘而成數百編者也能令古今人隔數百年覩面共話能令天下人隔千百里相對相議有欲聞於人之事即査其案而知之有欲問於人之疑即憑其案而審之世傳先儒所執之職務留與後裔難辯之事變国家條例歴々可騐是以出仕之官吏總無事而不參考師資乎此案也豈非歴代出仕者之至寳耶但知歴代出仕者之至寳不知時加曝拂之愛事却乃與埋藏箱中蛛蜘張網白蟻爲蟄以歸癈物寧不如保管全□于圖書館内以貽後學以資來□矣愚見如此不知當否請諸君奪奪議示
天尊管理 名嘉山大昌
まさしく近来の快舉
歓喜の島袋全發氏
素晴らしきこの快報に第二高女の校長島袋全發氏は歎喜を満面に浮かべて語る。
まさしく近來の快事だ、縣下の學徒のためにまた圖書館のためにも喜ばしい話だ。久米崇聖會の人達には大いに感謝すべきだね、圖書館の藏書もこれで殆ど完璧に近いものとなった、この際移轉問題を早く片づけて、最も安全な不燃性のコンクリートにする必要がある。そうなれば圖書館も兼ねた郷土博物館も實現出来る。
三.『沖縄日報』 昭和八年十一月一五日
歴代寳案全二百五十三册
圖書館移管の歴史的會見
けふ愈よ波上天尊廟から
問題の琉球歴代寳案は久米村より縣立圖書館に移管することになり、きのふ午後二時から波の上天尊廟で、久米の長老、桑江章矩、名嘉山大昌の兩翁に伊差川開榮、桑江克英兩氏、圖書館から司書宮里榮輝、第二高女島袋全發、豊田、眞榮田、照屋ら二中教諭、それに圖書館移管を力説した國場二中教諭、尋高の國吉有慶氏、おくれて發見者、商業學校の仲本英昭氏らも加はつて歴史的會見が行はれた。
先づ名嘉山大昌翁が寳案をあげて圖書館に移管したい、寳は東恩納教授へ貸して呉れと東京からわざ/\桑江翁へ漢那少将の頼みもあるが、この至寳の保管は是非圖書館に御依頼する外はない、就ては二ケ條の條件付で移管して貰ひ度い、との申出でに宮里司書から喜んで左の委托覺書を提出。
・委托者の請求に依り何時でも返還すること
・原本は厳に保管し別に冩本を作製して一般研究者に閲覧させること
こゝに至寳全寳案は圖書館に移されることになったが、圖書館では新しく書棚を作り慎重に書庫に收めることに決定、けふ愈々歴代寳案全二百五十册は久米村から縣立圖書館へ移ることになつた。
大政治家の蔡温も
少年時代に書き足す
東洋貿易資料の大集成
問題の寳案、正しくは『歴代寳案』で天尊廟に保管されてあるものは實に全二百五十三册(内目録五册)に上ってをり三山時代―明時代から廢藩當時まで歴代書き足して來た琉球外交史とも云うべきもので、琉球から日本、支那から遠くはシャムの南洋に至るまでの外交と貿易を記録してある云はゞ東洋貿易史の一大資料で日本と云はず東洋の學界に寄與するところ多く至寳である。名嘉山翁の話によると寳案は歴代書き足してあるが、その中には大政治家蔡温が一五・六歳の頃、友人らと共に書き足してある個所も多い、寳案には三山を統一した尚巴志から支那・シャムヘ送つた手紙や、三山時代の懐機文集など今日迄の學説を覆へすところが少なくない。なほ尚家の寳案は沖縄縣令木梨精一郎氏が東京に携へ多分内閣文庫に收められたのを震災で燒き盡されたから今度圖書館へ移されるのが唯一の至寳となったわけである。
久米村のために辯ず
二高女島袋全發氏談
寳案の移管は何といっても喜ばしい事です。所でそのいきさつに就き少し訂正して貰い度いのがあります。
文書の名は正しくは『歴代寳案』です。しかし世間には琉球寳案の名で傳はってゐたらしく伊波さんなどもこの未見の文書を左様呼で居られました。某家から仲本氏が發見したと云ふ事は初耳ですが天尊廟に移管後眞境名圖書館長がその所在を傳聞し、私に移管の交渉方を頼まれた事がありますので天尊廟維持會幹部の御集會の席上に罷り出て交渉を試みましたら、若い連中は即座に賛成されましたが名嘉山、伊差川さんなども主旨は賛成であるが久米村では傳統として秘密文にしてあって程順則なども之を戒められた言葉があるけれども、時勢が違ひこれを紙魚に委するのは却って古人の考へにも反するけれども、久米村には桑江翁始め先輩が居られるからその歴々の御了解を得なければいけない、正式の順序を履んで移管する事にしやうとのわかったお話でした。
その後東恩納教授が歸省された時この話をしたら是非讀んで見度いとの事で御一緒に天尊に参り名嘉山さんの御了解を得て一部を抄録されました。まだ先輩の了解濟でないのでこれを携出させる事は、名嘉山様御一存では出来ないと云ふので東恩納氏も數日通はれた次第で、その後部類分けした十數部の筆寫に付き御依頼があつたので私共がその準備中、鎌倉芳太郎君が來て紹介してくれとの事で、矢張り了解の上、君も天尊に通ふて寫眞を數日間撮りました。理研の發明に係る特別の寫眞で、原本同様同型に而も簡箪に撮られる(日光利用)ので、文化的利器には敵はないと思はせられた。鎌倉君は數十册を一枚々々丹念に撮って大喜びで東京に歸った。そんな次第で久米村の方々は決して秘密にされた譯ではなく、移管するなら移管するで正式に責任ある方法をとり度いとの御考であったのを、誤解した向もあって憤慨を買ったのは無理もない。
今度桑江翁初め一同協議の上快く移管に決したと聞いて私としても責任を果たしたやうな氣がしてゐます。併し可也虫が喰ってゐるので圖書館でも無責任に直ぐ讀ませたりはしないだらうと思ふ。急ぎ筆寫させて、筆寫本を研究資料にし、原本は適當な手當を加へて保存すべきだと思ふ。一枚々々めくるのでも東恩納さんなど極めて慎重に紙片を崩さぬやうに先づ日光に曝してからやって居られた。これは御互公徳を重んじて然るべきだと思ふ。久米村の方々のために好機會であるから私から釋明させて頂きます。
四.『沖縄日報』昭和八年十一月十六日
自動車に一杯積んで
至寳圖書館へ移る
本社へ在京の伊波普猷氏から
歓喜溢れる謝電
至寳『琉球歴代寳案」全二百五十三册はきのふ午後五時頃、縣立圖書館司書宮里栄輝氏が正式に保管証を携へ波上天尊廟で、久米村の長老桑江、名嘉山の兩翁及び伊佐川開榮氏から引きつがれたが、全二百五十三册といふぼう大な同書のことゝて自動車一杯に積み込んで圖書館へ移し一先づ郷土室に收めて愈々整理と保管にかゝることゝなった。圖書館ではこの快事に大喜びで名嘉山大昌翁宛に左の禮状を出したが史學雑誌にもこのことを書いて寳案をあまねく全國の學界に紹介することになってゐる。
今般貴重書歴代寳案御移托被下御好意□深謝候思ふに同書は獨り郷土沖縄の一□資料なるのみならず本邦貿易史上誠に重要なる文献にして今や學界注目の的と相成候今回かたじけなくも御厚配に預りこの奇□書を弊館に御移托相成候段弊館の光栄は固より斯道研究者のため□た欣快に堪えず候古來數百年間唐榮先人の心血を注ぎて集成□□せられたる至寳を保管するに就ては御趣旨に從ひ周到注意を拂ひ苟も御厚志に背かざる覚悟に御座候(以下略)
なほ在京の伊波普猷氏より昨日本社へ左の如く喜びの電報があった。
學問のために喜ぶ、篤學の士の研究を期待す
五.『沖縄日報』昭和八年十二月(日付不詳)
さよなら一九三三年
劇聖祭の大衆化と
歴代寳案の再發見
學界の印象と展望
我々は昨年十二月、本紙上で一九三二年の學界を顧み、進んで一九三三年の展望を試みて、
東恩納氏は近くシャム・安南・マラッカ方面へ出掛け、古琉球と同地方との交通貿易の史實をはっきりさせ系統的に調査を遂げることゝなってゐる。五百年前琉球と南洋の交通が學界から今迄その儘黙過されてゐたことは決して日本學界の誇りではなかった。然し同教授の調査が學界に大きな寄與を齎すのは一九三三年以後のことゝならう。
と書いた――この豫想は當ったが、然し「一九三三年以後」に「教授が學界に齎らした寄與」は「大きい」どころか誠に計り知れぬものがある。我々は今更、ポピュラーになった教授の功績を讃えることを控へ、繰返して「教授が日本の學界へ大きな寄與を齎すのは……一九三四年以後のことゝならう」と記して再び「明日」を約束しやうではないか。けだし教授の業績が眞実に科學的に整理され日本の學界へ寄與する日は希望に輝く一九三四年以後となることは自明だからである。
本年の學界で特筆されていゝことは郷土研究會主催の劇聖玉城朝薫祭であった。従來とても史上の人物が何らかの方法で記念されたことはないでもなかったが、この沖縄の「國民詩人」ともいふべき天才の記念事業は、その藝術が二百年の間民族の魂を育んで來てゐるだけに、記念祭典は最も大衆的に行はれ、あらゆる階層から熱烈な指示を受けたものである。今後この記念事業から生まれるべきものは朝薫の藝術をそのまゝ如何に保存するかを今日において確立することにある。
けれども三三年の學界で特に記憶さるべきことは所謂歴代寳案が久米村の一舊家から発見され再びそれがセンセーショナルな事件となって大衆を「把握」したことであらう。『寳案』は天尊廟から圖書館へ移管され、今日では文字通り「學界のもの」となった。『寳案』の價値が如何に貴いものであるかといふことはこのニュースに対して東京から伊波普猷氏がわざ/\本社へ謝電を寄せられた事實に徴しても明らかである。
『寳案」の發見とともに思ひ出されるのは中頭郡の一小學校教員多和田眞淳氏が讀谷山長濱で貝塚を發見、學徒卅名が大舉してその發掘に赴いたことである。この貝塚から昭和會館主事島袋源一郎氏は彫刻入りの猪の牙を發見してゐる。これは最近來縣した京大醫學部講師三宅宗悦氏の注目を惹いた、何れにしても多和田訓導の學問に對する献身的努力は各方面から感謝で迎へられた今年中の快い卜ピックであった。
(下略)