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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
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- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
3-08-25 琉球国中山王世子尚泰より関係当局あて、山東省難民杜柏茂等を送還するに付き、便宜を図られたき旨、護送船の都通事鄭秉衡等に付した執照(同治二《一八六三》、七、十三)
琉球国中山王世子尚(泰)、護照を給発し以て関洋に憑らしめ、以て難人を送る事の為にす。
照らし得たるに、同治元年九月十九日、山東省登州府黄県の難人杜柏茂等十七名は、海船一隻に坐駕し、奉天府に到りて貨物を置買し、転じて上洋県に到りて貿易し、本籍に回らんと要するも、洋中にて風に遭い、飄いて本国属島の八重山与那国の洋面に入り、礁に擱りて撃砕せらるる有り。同治二年四月二十四日に至り、該地方官、送りて中山の牧港地方に到る。経に飭して例に照らして館に発りて安挿せしめ、飯食・衣服等の項を給与す。部文内の旨を奉じたるの事理に欽遵し、収養して解送せしめんとす。特に都通事の鄭秉衡等を遣わし、海船一隻に坐駕し、梢役共に六十七員名を率領し、難人の杜柏茂等十七名を護送し、前みて閩省に詣らしむ。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に、王府、礼字第三百二十八号半印勘合の執照一道を給発して都通事の鄭秉衡等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇わば、即便に放行し、留難して遅滞するを得る毋からしめよ。
須らく執照に至るべき者なり。
計開す。
風を被るの難人の名数
舵工の杜柏茂 水手の辛世昌 宋福慶
宋大位 馬永貴 王福林
王照方 遇文彩 王文翰
戦元奉 李文萃 程振東
周敬祖 宋化令 郭連
季順 搭客の李上林
以上、共計十七名
護送の都通事一員 鄭秉衡 人伴四名
司養贍大使一員 斉思忠 人伴四名
管船夥長・直庫二名 紅邦藩 高受福
水梢共に五十五名
右の執照は都通事鄭秉衡等に付す。此れに准ぜられよ
同治二年(一八六三)七月十三日
注*語注は〔三―〇二―〇四〕参照。
(1)斉思忠 同治二年護送船の司養贍大使。
(2)紅邦藩 嘉慶九~光緒二年(一八〇四~七六)。久米村系紅氏(和宇慶家)十七世。道光十三年黄冠、十七年遏闥理官、十八年都通事に陞る。道光十年読書習礼のため閩に赴き、十二年帰国。同治二年護送船の管船夥長。咸豊十年父の家統を継ぎ中城間切和宇慶地頭職を授かる(『家譜(二)』二一六頁)。
(3)高受福 同治二年護送船の管船直庫。
琉球国中山王世子尚(泰)、護照を給発し以て関洋に憑らしめ、以て難人を送る事の為にす。
照らし得たるに、同治元年九月十九日、山東省登州府黄県の難人杜柏茂等十七名は、海船一隻に坐駕し、奉天府に到りて貨物を置買し、転じて上洋県に到りて貿易し、本籍に回らんと要するも、洋中にて風に遭い、飄いて本国属島の八重山与那国の洋面に入り、礁に擱りて撃砕せらるる有り。同治二年四月二十四日に至り、該地方官、送りて中山の牧港地方に到る。経に飭して例に照らして館に発りて安挿せしめ、飯食・衣服等の項を給与す。部文内の旨を奉じたるの事理に欽遵し、収養して解送せしめんとす。特に都通事の鄭秉衡等を遣わし、海船一隻に坐駕し、梢役共に六十七員名を率領し、難人の杜柏茂等十七名を護送し、前みて閩省に詣らしむ。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に、王府、礼字第三百二十八号半印勘合の執照一道を給発して都通事の鄭秉衡等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇わば、即便に放行し、留難して遅滞するを得る毋からしめよ。
須らく執照に至るべき者なり。
計開す。
風を被るの難人の名数
舵工の杜柏茂 水手の辛世昌 宋福慶
宋大位 馬永貴 王福林
王照方 遇文彩 王文翰
戦元奉 李文萃 程振東
周敬祖 宋化令 郭連
季順 搭客の李上林
以上、共計十七名
護送の都通事一員 鄭秉衡 人伴四名
司養贍大使一員 斉思忠 人伴四名
管船夥長・直庫二名 紅邦藩 高受福
水梢共に五十五名
右の執照は都通事鄭秉衡等に付す。此れに准ぜられよ
同治二年(一八六三)七月十三日
注*語注は〔三―〇二―〇四〕参照。
(1)斉思忠 同治二年護送船の司養贍大使。
(2)紅邦藩 嘉慶九~光緒二年(一八〇四~七六)。久米村系紅氏(和宇慶家)十七世。道光十三年黄冠、十七年遏闥理官、十八年都通事に陞る。道光十年読書習礼のため閩に赴き、十二年帰国。同治二年護送船の管船夥長。咸豊十年父の家統を継ぎ中城間切和宇慶地頭職を授かる(『家譜(二)』二一六頁)。
(3)高受福 同治二年護送船の管船直庫。