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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
3-03-19 琉球国中山王世子尚泰より関係当局あて、咸豊十年の進貢使向志道らを派遣するに当たり、便宜を図られたき旨、毛発栄等に付した符文(咸豊十《一八六○》、八、四)
琉球国中山王世子尚(泰)、進貢する事の為にす。
照らし得たるに、敝国は叨くも天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年一貢し、欽遵して案に在り。
茲に咸豊十年の貢期に当たれば、特に耳目官の向志道・正議大夫の鄭徳潤・都通事の毛発栄等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百を過ぎざるの員名を率領し、海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を将て、均分して両船に装載せしめ、一船の礼字第三百二十一号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を装運し、一船の礼字第三百二十二号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を載運し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き叩きて聖禧を祝らしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。合行しく符文を給発すべし。今、王府の礼字第三百二十号半印勘合の符文一道を給して都通事の毛発栄等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇わば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。
須らく符文に至るべき者なり。
計開す。
正使耳目官一員 向志道 人伴一十二名
副使正議大夫一員 鄭徳潤 人伴一十二名
朝京都通事一員 毛発栄 人伴七名
在船都通事二員 林世爵陳元輔 人伴八名
在船使者四員 向承儀向徳裕 東自栄顧嘉行 人伴一十六名
存留通事一員 蔡大鼎 人伴六名
在船通事一員 蔡徳昌 人伴四名
管船火長・直庫四名 王允修林長熹 牧徳昌楊振芳
水梢共に一百二十名
右の符文は都通事毛発栄等に付す。此れに准ぜられよ
咸豊十年(一八六〇)八月初四日
注(1)洪恩 大いなる恩恵。
(2)差去 派遣する、つかわす。
(3)半印勘合の符文 琉球よりの使節であることを証明するための割り印を付した符文(琉球国王が進貢使節に対して発給した証明書)。
(4)遅悞 遅れて予定の期日に間に合わないこと。
(5)林世爵 嘉慶十三年(一八〇八)~?。久米村系林氏(平安座家)八世。松本親雲上。道光十五年黄冠、咸豊十年中議大夫、同治五年正議大夫に陞る。道光十二年読書習礼のため閩へ赴き、翌年帰国。二十一年護送船の総官を務め、咸豊二年ロバート・バウン号事件の際には使者として石垣島に赴く。その後、十年進貢頭号船の都通事、同治三年進貢兼請封の北京都通事、七年進貢の副使正議大夫などを歴任した。道光七年祖父の家統を継いで美里郡大村渠地頭職を授かり、同治九年与那城郡平安座地頭職へと転任(『家譜(二)』八六五頁)。
(6)陳元輔 道光三年(一八二三)~?。久米村系陳氏(仲本家)十五世。仲本通事親雲上。道光二十三年黄冠、二十四年都通事、咸豊五年中議大夫に陞る。咸豊二年存留通事、六年王舅通事、十年進貢二号船の都通事、同治二年慶賀兼謝恩の朝京都通事を務めた(『家譜(二)』五二〇頁)。
(7)向承儀 首里系向氏。咸豊十年進貢の在船使者。『宝案』ではほかに道光十六年の結状に遏闥理官(第二集巻一六三)、同治五年の使者(第三集巻一二)としても名がみえる。
(8)東自栄 首里系東氏。咸豊十年進貢の在船使者。
(9)向徳裕 首里系向氏。咸豊十年進貢の在船使者。
(10)顧嘉行 首里系顧氏。咸豊十年進貢の在船使者。
(11)蔡大鼎 久米村系蔡氏(具志家)十世(『家譜(二)』九三二頁)。伊計親雲上。字は汝霖。咸豊十年進貢の存留通事。『宝案』ではほかに同治六年接貢船の在船都通事として名がみえる(第三集巻一三)。漢文学者として『北燕游草』や『伊計村遊草』などの詩集を編纂した。なお、現在確認されている作品の数は琉球の漢文学者としては最多である(紺野達也「蔡大鼎の基礎的研究のための覚書―家族と生涯を中心に―」『蔡大鼎『伊計村遊草』等調査研究事業研究成果報告書』うるま市教育委員会、二〇一五年)。
(12)蔡徳昌 久米村系蔡氏。咸豊十年進貢の在船通事。
(13)王允修 咸豊十年進貢の管船火長。
(14)牧徳昌 咸豊十年進貢の管船直庫。『宝案』ではほかに咸豊八年の管船直庫として名がみえる(第二集巻二〇〇)。
(15)林長熹 咸豊十年進貢の管船火長。
(16)楊振芳 咸豊十年進貢の管船直庫。『宝案』ではほかに咸豊三年(第二集巻一九四)、八年(第二集巻二〇〇)の管船直庫として名がみえる。
琉球国中山王世子尚(泰)、進貢する事の為にす。
照らし得たるに、敝国は叨くも天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年一貢し、欽遵して案に在り。
茲に咸豊十年の貢期に当たれば、特に耳目官の向志道・正議大夫の鄭徳潤・都通事の毛発栄等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百を過ぎざるの員名を率領し、海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を将て、均分して両船に装載せしめ、一船の礼字第三百二十一号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を装運し、一船の礼字第三百二十二号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を載運し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き叩きて聖禧を祝らしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。合行しく符文を給発すべし。今、王府の礼字第三百二十号半印勘合の符文一道を給して都通事の毛発栄等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇わば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。
須らく符文に至るべき者なり。
計開す。
正使耳目官一員 向志道 人伴一十二名
副使正議大夫一員 鄭徳潤 人伴一十二名
朝京都通事一員 毛発栄 人伴七名
在船都通事二員 林世爵陳元輔 人伴八名
在船使者四員 向承儀向徳裕 東自栄顧嘉行 人伴一十六名
存留通事一員 蔡大鼎 人伴六名
在船通事一員 蔡徳昌 人伴四名
管船火長・直庫四名 王允修林長熹 牧徳昌楊振芳
水梢共に一百二十名
右の符文は都通事毛発栄等に付す。此れに准ぜられよ
咸豊十年(一八六〇)八月初四日
注(1)洪恩 大いなる恩恵。
(2)差去 派遣する、つかわす。
(3)半印勘合の符文 琉球よりの使節であることを証明するための割り印を付した符文(琉球国王が進貢使節に対して発給した証明書)。
(4)遅悞 遅れて予定の期日に間に合わないこと。
(5)林世爵 嘉慶十三年(一八〇八)~?。久米村系林氏(平安座家)八世。松本親雲上。道光十五年黄冠、咸豊十年中議大夫、同治五年正議大夫に陞る。道光十二年読書習礼のため閩へ赴き、翌年帰国。二十一年護送船の総官を務め、咸豊二年ロバート・バウン号事件の際には使者として石垣島に赴く。その後、十年進貢頭号船の都通事、同治三年進貢兼請封の北京都通事、七年進貢の副使正議大夫などを歴任した。道光七年祖父の家統を継いで美里郡大村渠地頭職を授かり、同治九年与那城郡平安座地頭職へと転任(『家譜(二)』八六五頁)。
(6)陳元輔 道光三年(一八二三)~?。久米村系陳氏(仲本家)十五世。仲本通事親雲上。道光二十三年黄冠、二十四年都通事、咸豊五年中議大夫に陞る。咸豊二年存留通事、六年王舅通事、十年進貢二号船の都通事、同治二年慶賀兼謝恩の朝京都通事を務めた(『家譜(二)』五二〇頁)。
(7)向承儀 首里系向氏。咸豊十年進貢の在船使者。『宝案』ではほかに道光十六年の結状に遏闥理官(第二集巻一六三)、同治五年の使者(第三集巻一二)としても名がみえる。
(8)東自栄 首里系東氏。咸豊十年進貢の在船使者。
(9)向徳裕 首里系向氏。咸豊十年進貢の在船使者。
(10)顧嘉行 首里系顧氏。咸豊十年進貢の在船使者。
(11)蔡大鼎 久米村系蔡氏(具志家)十世(『家譜(二)』九三二頁)。伊計親雲上。字は汝霖。咸豊十年進貢の存留通事。『宝案』ではほかに同治六年接貢船の在船都通事として名がみえる(第三集巻一三)。漢文学者として『北燕游草』や『伊計村遊草』などの詩集を編纂した。なお、現在確認されている作品の数は琉球の漢文学者としては最多である(紺野達也「蔡大鼎の基礎的研究のための覚書―家族と生涯を中心に―」『蔡大鼎『伊計村遊草』等調査研究事業研究成果報告書』うるま市教育委員会、二〇一五年)。
(12)蔡徳昌 久米村系蔡氏。咸豊十年進貢の在船通事。
(13)王允修 咸豊十年進貢の管船火長。
(14)牧徳昌 咸豊十年進貢の管船直庫。『宝案』ではほかに咸豊八年の管船直庫として名がみえる(第二集巻二〇〇)。
(15)林長熹 咸豊十年進貢の管船火長。
(16)楊振芳 咸豊十年進貢の管船直庫。『宝案』ではほかに咸豊三年(第二集巻一九四)、八年(第二集巻二〇〇)の管船直庫として名がみえる。