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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-200-37 琉球国中山王世子尚泰より、咸豊八年の進貢使節の派遣に当たり、関係当局へ便宜供与要請のため、都通事林長隆等に付した符文(咸豊八《一八五八》、八、三)
琉球国中山王世子尚(泰)、進貢する事の為にす。
照らし得たるに、敝国は叨くも天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年一貢し、欽遵して案に在り。
茲に咸豊八年の貢期に当たれば、特に耳目官の翁俊・正議大夫の阮孝銓・都通事の林長隆等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百を過ぎざるの員名を率領し、海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を将て均分して両船に装載せしめ、一船の礼字第三百一十七号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を装運し、一船の礼字第三百一十八号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を載運し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き叩きて聖禧を祝らしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。合行しく符文を給発すべし。今、王府の礼字第三百一十六号半印勘合の符文一道を給し、都通事の林長隆等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。
須らく符文に至るべき者なり。
計開す。
正使耳目官一員 翁俊 人伴一十二名
副使正議大夫一員 阮孝銓 人伴一十二名
朝京都通事一員 林長隆 人伴七名
在船都通事二員 王家錦/鄭宏謨 人伴八名
在船使者四員 駱啓禎 毛家琅/向光地 雍恒茂 人伴一十六名
存留通事一員 蔡呈禎 人伴六名
在船通事一員 金緒栄 人伴四名
管船火長・直庫四名 王述勃 牧徳昌/阮善述 楊振芳
水梢共に一百二十名
右の符文は都通事林長隆等に付す。此れに准ぜられよ
咸豊八年(一八五八)八月初三日 給す
注(1)駱啓禎 咸豊八年の在船使者。
(2)毛家琅 咸豊八年の在船使者。
(3)雍恒茂 咸豊八年の在船使者。
(4)蔡呈禎 咸豊八年の存留通事。同治三年の結状では中議大夫翁長里之子親雲上として名がみえる(第三集巻一〇)。なお『球陽』尚泰二十一年(一八六八・同治七)の条に、係役として地理師鄭良佐らとともに福建で世子宮を改遷する法を学んだことが記されている(『球陽』二二〇六条)が同一人物か。
(5)金緒栄 手登根里之子親雲上(『家譜(二)』林世禄の譜、八七〇頁)。『宝案』では道光二十一年の管船夥長、咸豊八年の在船通事として名がみえる。
(6)牧徳昌 咸豊八年の管船直庫。『宝案』では咸豊十年にも管船直庫として名がみえる(第三集巻一〇)。
(7)阮善述 咸豊八年の管船火長。
琉球国中山王世子尚(泰)、進貢する事の為にす。
照らし得たるに、敝国は叨くも天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年一貢し、欽遵して案に在り。
茲に咸豊八年の貢期に当たれば、特に耳目官の翁俊・正議大夫の阮孝銓・都通事の林長隆等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百を過ぎざるの員名を率領し、海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を将て均分して両船に装載せしめ、一船の礼字第三百一十七号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を装運し、一船の礼字第三百一十八号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を載運し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き叩きて聖禧を祝らしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。合行しく符文を給発すべし。今、王府の礼字第三百一十六号半印勘合の符文一道を給し、都通事の林長隆等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。
須らく符文に至るべき者なり。
計開す。
正使耳目官一員 翁俊 人伴一十二名
副使正議大夫一員 阮孝銓 人伴一十二名
朝京都通事一員 林長隆 人伴七名
在船都通事二員 王家錦/鄭宏謨 人伴八名
在船使者四員 駱啓禎 毛家琅/向光地 雍恒茂 人伴一十六名
存留通事一員 蔡呈禎 人伴六名
在船通事一員 金緒栄 人伴四名
管船火長・直庫四名 王述勃 牧徳昌/阮善述 楊振芳
水梢共に一百二十名
右の符文は都通事林長隆等に付す。此れに准ぜられよ
咸豊八年(一八五八)八月初三日 給す
注(1)駱啓禎 咸豊八年の在船使者。
(2)毛家琅 咸豊八年の在船使者。
(3)雍恒茂 咸豊八年の在船使者。
(4)蔡呈禎 咸豊八年の存留通事。同治三年の結状では中議大夫翁長里之子親雲上として名がみえる(第三集巻一〇)。なお『球陽』尚泰二十一年(一八六八・同治七)の条に、係役として地理師鄭良佐らとともに福建で世子宮を改遷する法を学んだことが記されている(『球陽』二二〇六条)が同一人物か。
(5)金緒栄 手登根里之子親雲上(『家譜(二)』林世禄の譜、八七〇頁)。『宝案』では道光二十一年の管船夥長、咸豊八年の在船通事として名がみえる。
(6)牧徳昌 咸豊八年の管船直庫。『宝案』では咸豊十年にも管船直庫として名がみえる(第三集巻一〇)。
(7)阮善述 咸豊八年の管船火長。