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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
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- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-194-11 琉球国中山王世子尚泰より、咸豊三年の接貢船の派遣に当たり、関係当局へ便宜供与要請のため、存留通事毛発栄等に付した執照(咸豊三《一八五三》、八、十五)
琉球国中山王世子尚(泰)、恭しく勅書を迎え、併びに使臣を接回する事の為にす。
照らし得たるに、敝国は業に咸豊二年秋に於て耳目官の毛種美・正議大夫の蔡士俊等を遣わし、表章・方物を齎捧して天朝に入貢せしめ、業経に福建等処承宣布政使司に移咨し、起送して京に赴き叩きて聖禧を祝らしめて案に在り。
茲に国に還るの期に当たれば、例として応に船を撥して接回すべし。此れが為に特に都通事の鄭元広等を遣わし、梢役共に八十九員名を帯領せしめ、海船一隻に坐駕し、前みて福建に至り、恭しく皇上の勅書・欽賜の物件を迎え、併びに京より回るの使臣の毛種美・蔡士俊・鄭思恭を接り、閩に在るの存留通事の陳元輔等と与に国に還らしめんとす。
但だ、差する所の員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に、王府の礼字第三百三号半印勘合の執照一道を給発して存留通事の毛発栄等に付し、収執して前去せしむ。凡そ遇う所の関津及び沿海の巡哨官軍は験実して即便に放行し、留難して沮帯するを得る毋からしめよ。
須らく執照に至るべき者なり。
計開す。
在船都通事一員 鄭元広 人伴四名
在船使者二員 武世英/李作信 人伴八名
存留通事一員 毛発栄 人伴六名
管船夥長・直庫二名 金世宝 金永保
水梢共に六十五名
右の執照は存留通事毛発栄等に付す。此れに准ぜられよ
咸豊三年(一八五三)八月十五日
注(1)毛発栄 屋嘉比親雲上(『家譜(二)』蔡呈書の譜、三四九頁)。『宝案』では咸豊三年の存留通事のほか、咸豊十年の朝京都通事(第三集巻三)、同治三年の結状では正議大夫(第三集巻一〇)として名がみえる。
(2)武世英 『宝案』では咸豊三年の在船使者のほか、同治三年の結状に紫巾官奥原親方(第三集巻一〇)として名がみえる。
(3)李作信 咸豊三年の在船使者。
(4)金世宝 嘉慶七~同治六年(一八〇二~六七)。豊里里之子親雲上。久米村系金氏(安波連家)十五世。道光十年、読書習礼のため福建に赴き、翌年帰国。十八年の冊封のときには評価司として公務をこなし、二十六年には読書副師を勤めた。咸豊三年に接貢の総管(管船夥長)となる。咸豊五年に都通事、八年に中議大夫に陞る(『家譜(二)』九四頁)。
(5)金永保 咸豊三年(巻一九四)、五年(巻一九七)、七年(巻一九九)の管船直庫。
琉球国中山王世子尚(泰)、恭しく勅書を迎え、併びに使臣を接回する事の為にす。
照らし得たるに、敝国は業に咸豊二年秋に於て耳目官の毛種美・正議大夫の蔡士俊等を遣わし、表章・方物を齎捧して天朝に入貢せしめ、業経に福建等処承宣布政使司に移咨し、起送して京に赴き叩きて聖禧を祝らしめて案に在り。
茲に国に還るの期に当たれば、例として応に船を撥して接回すべし。此れが為に特に都通事の鄭元広等を遣わし、梢役共に八十九員名を帯領せしめ、海船一隻に坐駕し、前みて福建に至り、恭しく皇上の勅書・欽賜の物件を迎え、併びに京より回るの使臣の毛種美・蔡士俊・鄭思恭を接り、閩に在るの存留通事の陳元輔等と与に国に還らしめんとす。
但だ、差する所の員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に、王府の礼字第三百三号半印勘合の執照一道を給発して存留通事の毛発栄等に付し、収執して前去せしむ。凡そ遇う所の関津及び沿海の巡哨官軍は験実して即便に放行し、留難して沮帯するを得る毋からしめよ。
須らく執照に至るべき者なり。
計開す。
在船都通事一員 鄭元広 人伴四名
在船使者二員 武世英/李作信 人伴八名
存留通事一員 毛発栄 人伴六名
管船夥長・直庫二名 金世宝 金永保
水梢共に六十五名
右の執照は存留通事毛発栄等に付す。此れに准ぜられよ
咸豊三年(一八五三)八月十五日
注(1)毛発栄 屋嘉比親雲上(『家譜(二)』蔡呈書の譜、三四九頁)。『宝案』では咸豊三年の存留通事のほか、咸豊十年の朝京都通事(第三集巻三)、同治三年の結状では正議大夫(第三集巻一〇)として名がみえる。
(2)武世英 『宝案』では咸豊三年の在船使者のほか、同治三年の結状に紫巾官奥原親方(第三集巻一〇)として名がみえる。
(3)李作信 咸豊三年の在船使者。
(4)金世宝 嘉慶七~同治六年(一八〇二~六七)。豊里里之子親雲上。久米村系金氏(安波連家)十五世。道光十年、読書習礼のため福建に赴き、翌年帰国。十八年の冊封のときには評価司として公務をこなし、二十六年には読書副師を勤めた。咸豊三年に接貢の総管(管船夥長)となる。咸豊五年に都通事、八年に中議大夫に陞る(『家譜(二)』九四頁)。
(5)金永保 咸豊三年(巻一九四)、五年(巻一九七)、七年(巻一九九)の管船直庫。