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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-190-16 琉球国中山王世子尚泰より、咸豊元年の接貢船の派遣に当たり、関係当局へ便宜供与要請のため、存留通事鄭宏謨等に付した執照(咸豊元《一八五一》、八、三)
琉球国中山王世子尚(泰)、恭しく勅書を迎え、併びに使臣を接回する事の為にす。
案照したるに、敞国は貢典に欽遵し、業に道光三十年秋に於て特に王舅の夏超群・正議大夫の毛有増等を遣わし、表章・方物を齎捧して天朝に入貢せしめ、兼ねて皇上の登極を賀せしむ。業経に福建等処承宣布政使司に移咨し、起送して京に入り、叩きて聖禧を祝らしめて案に在り。
茲に国に還るの期に当たれば、例として応に船を撥して接回すべし。此れが為に特に都通事の毛嘉梧等を遣わし、梢役共に八十九員名を帯領し、海船一隻に坐駕し、前みて福建に至りて恭しく皇上の勅書・欽賜の物件を迎え、併びに京より回るの使臣の夏超群・毛有増・向其漢・毛克進・梁大章を接り、閩に在るの存留通事の鄭学楷等と与に国に還らしめんとす。
但だ、差する所の員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に、王府の礼字第二百九十九号半印勘合の執照一道を給発して存留通事の鄭宏謨等に付し、収執して前去せしむ。凡そ遇う所の関津及び沿海の巡哨官軍は験実して即便に放行し、留難して阻滞するを得る毋からしめよ。
須らく執照に至るべき者なり。
計開す。
在船都通事一員 毛嘉梧 人伴四名
在船使者二員 東順法/殷文亀 人伴八名
存留通事一員 鄭宏謨 人伴六名
管船夥長・直庫二名 蔡長隆 柳伝順
水梢共に六十五名
右の執照は存留通事鄭宏謨等に付す。此れに准ぜられよ
咸豊元年(一八五一)八月初三日
注(1)梢役 水夫。船乗り。
(2)帯領 引率すること。
(3)差する 差去と同じ。派遣する、つかわす。
(4)文憑 証拠となる文書。証明書。官吏の赴任命令証書、旅行証明書などをいう。ここでは執照を指す。
(5)阻留 さえぎりはばんで留める。通行を阻止して拘留すること。
(6)礼字 交易船の確認のため船舶に付した字号で、勘合の用紙の束の名称が「礼」であることを意味する。
(7)半印勘合の執照 琉球よりの使節であることを証明するための割り印を付した執照。
(8)鄭宏謨 乾隆五十九~咸豊九年(一七九四~一八五九)。登川里之子親雲上。久米村系鄭氏(登川家)十七世。道光二年、勤学として中国に赴く。咸豊元年に存留通事、四年に異国御用係、八年に在船都通事を務めた(『家譜(二)』六一一頁)。
(9)収執 受け取る。
(10)前去 行く、出向く。
(11)関津 水陸の要所に設置された関所。税関。
(12)巡哨 見回る。巡回する。巡邏する。
(13)験実 調べて事実かどうか確かめる。
(14)放行 解放して通行させる。
(15)留難 引き留めて難題をふっかける。
(16)阻滞 阻まれて滞留する。
(17)在船都通事 進貢船乗員の役職の一つ。赴京せず、その船で帰国する都通事を、進貢正副使とともに使節団の一員として北京へ赴く都通事と区別するための呼称。接回などの赴京要員のない渡航では、船と共に帰る在船都通事も単に都通事と呼ぶ。久米村系の人を任ずる。康煕十九年頃から、一回の進貢に在船都通事二人、在船通事一人が任ぜられ、頭号船には在船都通事一人が存留通事一人と共に、二号船には在船都通事・在船通事各一人が乗船するという形にほぼ定着した。
(18)人伴 従者、随行員。単なる従者ではなく、それぞれしかるべき役割や目的をもった人々を便宜上一括して称したと思われる。
(19)在船使者 進貢船で福建に渡り、進京せず、その船で帰国する使者を、同行の上京する使者と区別するための呼称。接回や探問など上京要員のない渡航では、船と共に帰る使者も単に使者と呼ぶ。首里・那覇系の人が任じられた。
(20)東順法 乾隆五十七年(一七九二)~?。与世山親方(安谷屋政輔)。首里系東氏(津波古家)十二世。東国興(津波古政正)の父。道光十一年護送船脇筆者、同二十四年進貢二号船の在船使者、咸豊元年の接貢船の在船使者として中国に赴く。道光年間にイギリス船が来航した際、英語通訳として真栄平房昭(柯世栄)と共に活躍した。咸豊三年に具志頭間切与座地頭職に任ぜられて与世山と改名した(『家譜(三)』四八六頁)。
(21)殷文亀 咸豊元年の接貢船の在船使者。
(22)夥長 火長とも書く。近世の琉球における管船夥長は「総管(官)」とも呼ばれ、航海安全の神(媽祖)を祀る役をいう(富島壯英「唐船(進貢船)に関する覚書」『歴代宝案研究』第六・七合併号、一九九六年)。久米村系の士族を任じた。
(23)直庫 管船直庫のこと。直庫の中国における職掌については、万暦四十五年頃刊の張燮『東西洋考』巻九、舟師考に「其の(船の)戦具を司る者を直庫と為す」とある。近世の琉球における直庫は「船頭」に相当する。
(24)蔡長隆 咸豊元年の接貢船の管船夥長。
(25)柳伝順 道光二十七年、咸豊元年の接貢船の管船直庫。
(26)此れに准ぜられよ 「准此」は各種の下行文や、官庁の発行する身分証明書の類のあて先の終わりに慣用的に記す語。ここでは、「此れ(証明書等)にもとづいて処理されたし」という意味と受けとめて、「此れに准ぜられよ」と読む。訳注本第二冊所収の「用語解説」および『福恵全書語彙解』『歴史文書用語辞典』等を参照。
琉球国中山王世子尚(泰)、恭しく勅書を迎え、併びに使臣を接回する事の為にす。
案照したるに、敞国は貢典に欽遵し、業に道光三十年秋に於て特に王舅の夏超群・正議大夫の毛有増等を遣わし、表章・方物を齎捧して天朝に入貢せしめ、兼ねて皇上の登極を賀せしむ。業経に福建等処承宣布政使司に移咨し、起送して京に入り、叩きて聖禧を祝らしめて案に在り。
茲に国に還るの期に当たれば、例として応に船を撥して接回すべし。此れが為に特に都通事の毛嘉梧等を遣わし、梢役共に八十九員名を帯領し、海船一隻に坐駕し、前みて福建に至りて恭しく皇上の勅書・欽賜の物件を迎え、併びに京より回るの使臣の夏超群・毛有増・向其漢・毛克進・梁大章を接り、閩に在るの存留通事の鄭学楷等と与に国に還らしめんとす。
但だ、差する所の員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に、王府の礼字第二百九十九号半印勘合の執照一道を給発して存留通事の鄭宏謨等に付し、収執して前去せしむ。凡そ遇う所の関津及び沿海の巡哨官軍は験実して即便に放行し、留難して阻滞するを得る毋からしめよ。
須らく執照に至るべき者なり。
計開す。
在船都通事一員 毛嘉梧 人伴四名
在船使者二員 東順法/殷文亀 人伴八名
存留通事一員 鄭宏謨 人伴六名
管船夥長・直庫二名 蔡長隆 柳伝順
水梢共に六十五名
右の執照は存留通事鄭宏謨等に付す。此れに准ぜられよ
咸豊元年(一八五一)八月初三日
注(1)梢役 水夫。船乗り。
(2)帯領 引率すること。
(3)差する 差去と同じ。派遣する、つかわす。
(4)文憑 証拠となる文書。証明書。官吏の赴任命令証書、旅行証明書などをいう。ここでは執照を指す。
(5)阻留 さえぎりはばんで留める。通行を阻止して拘留すること。
(6)礼字 交易船の確認のため船舶に付した字号で、勘合の用紙の束の名称が「礼」であることを意味する。
(7)半印勘合の執照 琉球よりの使節であることを証明するための割り印を付した執照。
(8)鄭宏謨 乾隆五十九~咸豊九年(一七九四~一八五九)。登川里之子親雲上。久米村系鄭氏(登川家)十七世。道光二年、勤学として中国に赴く。咸豊元年に存留通事、四年に異国御用係、八年に在船都通事を務めた(『家譜(二)』六一一頁)。
(9)収執 受け取る。
(10)前去 行く、出向く。
(11)関津 水陸の要所に設置された関所。税関。
(12)巡哨 見回る。巡回する。巡邏する。
(13)験実 調べて事実かどうか確かめる。
(14)放行 解放して通行させる。
(15)留難 引き留めて難題をふっかける。
(16)阻滞 阻まれて滞留する。
(17)在船都通事 進貢船乗員の役職の一つ。赴京せず、その船で帰国する都通事を、進貢正副使とともに使節団の一員として北京へ赴く都通事と区別するための呼称。接回などの赴京要員のない渡航では、船と共に帰る在船都通事も単に都通事と呼ぶ。久米村系の人を任ずる。康煕十九年頃から、一回の進貢に在船都通事二人、在船通事一人が任ぜられ、頭号船には在船都通事一人が存留通事一人と共に、二号船には在船都通事・在船通事各一人が乗船するという形にほぼ定着した。
(18)人伴 従者、随行員。単なる従者ではなく、それぞれしかるべき役割や目的をもった人々を便宜上一括して称したと思われる。
(19)在船使者 進貢船で福建に渡り、進京せず、その船で帰国する使者を、同行の上京する使者と区別するための呼称。接回や探問など上京要員のない渡航では、船と共に帰る使者も単に使者と呼ぶ。首里・那覇系の人が任じられた。
(20)東順法 乾隆五十七年(一七九二)~?。与世山親方(安谷屋政輔)。首里系東氏(津波古家)十二世。東国興(津波古政正)の父。道光十一年護送船脇筆者、同二十四年進貢二号船の在船使者、咸豊元年の接貢船の在船使者として中国に赴く。道光年間にイギリス船が来航した際、英語通訳として真栄平房昭(柯世栄)と共に活躍した。咸豊三年に具志頭間切与座地頭職に任ぜられて与世山と改名した(『家譜(三)』四八六頁)。
(21)殷文亀 咸豊元年の接貢船の在船使者。
(22)夥長 火長とも書く。近世の琉球における管船夥長は「総管(官)」とも呼ばれ、航海安全の神(媽祖)を祀る役をいう(富島壯英「唐船(進貢船)に関する覚書」『歴代宝案研究』第六・七合併号、一九九六年)。久米村系の士族を任じた。
(23)直庫 管船直庫のこと。直庫の中国における職掌については、万暦四十五年頃刊の張燮『東西洋考』巻九、舟師考に「其の(船の)戦具を司る者を直庫と為す」とある。近世の琉球における直庫は「船頭」に相当する。
(24)蔡長隆 咸豊元年の接貢船の管船夥長。
(25)柳伝順 道光二十七年、咸豊元年の接貢船の管船直庫。
(26)此れに准ぜられよ 「准此」は各種の下行文や、官庁の発行する身分証明書の類のあて先の終わりに慣用的に記す語。ここでは、「此れ(証明書等)にもとづいて処理されたし」という意味と受けとめて、「此れに准ぜられよ」と読む。訳注本第二冊所収の「用語解説」および『福恵全書語彙解』『歴史文書用語辞典』等を参照。