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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-187-14 琉球国中山王世子尚泰より関係当局あて、道光二十八年の進貢使及び特命の報喪使派遣に当たり便宜を図られたき旨要請する符文(道光二十八《一八四八》、八、七)
琉球国中山王世子尚(泰)、進貢の事の為にす。
照らし得たるに、敝国、世々天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年一貢し、欽遵して案に在り。
茲に道光二十八年の貢期に当たれば、特に耳目官の向統績・正議大夫の鄭元覲・都通事の毛有増等を遣わし、表章を齎捧し、海船二隻に坐駕し、官伴・水梢共に一百九十八員名の外、附搭せる報喪使にして正議大夫の周大光一員・跟伴一十二名、共計するに二百一十一員名を率領せしめ、煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運せしめんとして両船に分載し、一船の礼字第二百九十三号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を装載し、一船の礼字第二百九十四号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至って投納せしめ、起送して京に赴き叩きて聖禧を祝らしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に王府、礼字第二百九十二号半印勘合の符文一道を給発して都通事の毛有増等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。
須らく符文に至るべき者なり。
計開す。
正使耳目官一員 向統績 人伴一十二名
副使正議大夫一員 鄭元覲 人伴一十二名
報喪使正議大夫一員 周大光 人伴一十二名
朝京都通事一員 毛有増 人伴七名
在船都通事二員 鄭思恭/毛克進 人伴八名
在船使者四員 向功 傅友徳/麻邦礎 蔡柱 人伴一十六名
存留通事一員 鄭元広 人伴六名
在船通事一員 梁文煥 人伴四名
管船火長・直庫四名 蔡順謨 永利渡/王丕烋 常得順
水梢共に一百十八名
右の符文は都通事毛有増等に付す。此れに准ぜられよ
道光二十八年(一八四八)八月初七日
注(1)報喪使 国王が死去したことを知らせる使者。ここでは尚育の死を伝える周大光を指す。
(2)鄭思恭 道光二十八年の進貢使節の在船都通事。咸豊二年(一八五二)の朝京都通事鄭思恭と同一人物か。
(3)毛克進 与儀親雲上。道光二十八年の進貢使節の在船都通事。道光三十年の進貢使節の都通事、咸豊四年の進貢使節の正議大夫毛克進と同一人物か。
(4)向功 道光二十八年の進貢の使者。首里向氏。
(5)傅友徳 道光二十八年の進貢の使者。首里傅氏か。
(6)麻邦礎 一七八三~一八五〇年。田名親雲上真彬。首里麻氏(田名家)十四世。道光二十八年進貢二号船の才府となる。道光三十年申口座に陞る(『家譜(三)』五九八頁)。
(7)蔡柱 一八一八年生まれ。那覇蔡氏(渡久地家)十二世政登(『家譜(四)』二八五頁)。
(8)鄭元広 生没年未詳。大嶺里之子親雲上。鄭嘉訓の子、鄭元偉の弟。道光二十八年存留通事、咸豊三年接貢船の大通事となる(『家譜(二)』九五頁、金世宝の譜参照)。
(9)梁文煥 道光二十八年進貢の在船通事。久米村梁氏。
(10)蔡順模 一八〇〇~六六年。久米村蔡氏(上原家)十五世。道光五年若里之子となり通事に陞る(『家譜(二)』三六一頁)。
(11)王丕烋 久米村王氏九世。国場里之子親雲上か(『王氏家譜』)。
琉球国中山王世子尚(泰)、進貢の事の為にす。
照らし得たるに、敝国、世々天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年一貢し、欽遵して案に在り。
茲に道光二十八年の貢期に当たれば、特に耳目官の向統績・正議大夫の鄭元覲・都通事の毛有増等を遣わし、表章を齎捧し、海船二隻に坐駕し、官伴・水梢共に一百九十八員名の外、附搭せる報喪使にして正議大夫の周大光一員・跟伴一十二名、共計するに二百一十一員名を率領せしめ、煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運せしめんとして両船に分載し、一船の礼字第二百九十三号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を装載し、一船の礼字第二百九十四号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至って投納せしめ、起送して京に赴き叩きて聖禧を祝らしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に王府、礼字第二百九十二号半印勘合の符文一道を給発して都通事の毛有増等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。
須らく符文に至るべき者なり。
計開す。
正使耳目官一員 向統績 人伴一十二名
副使正議大夫一員 鄭元覲 人伴一十二名
報喪使正議大夫一員 周大光 人伴一十二名
朝京都通事一員 毛有増 人伴七名
在船都通事二員 鄭思恭/毛克進 人伴八名
在船使者四員 向功 傅友徳/麻邦礎 蔡柱 人伴一十六名
存留通事一員 鄭元広 人伴六名
在船通事一員 梁文煥 人伴四名
管船火長・直庫四名 蔡順謨 永利渡/王丕烋 常得順
水梢共に一百十八名
右の符文は都通事毛有増等に付す。此れに准ぜられよ
道光二十八年(一八四八)八月初七日
注(1)報喪使 国王が死去したことを知らせる使者。ここでは尚育の死を伝える周大光を指す。
(2)鄭思恭 道光二十八年の進貢使節の在船都通事。咸豊二年(一八五二)の朝京都通事鄭思恭と同一人物か。
(3)毛克進 与儀親雲上。道光二十八年の進貢使節の在船都通事。道光三十年の進貢使節の都通事、咸豊四年の進貢使節の正議大夫毛克進と同一人物か。
(4)向功 道光二十八年の進貢の使者。首里向氏。
(5)傅友徳 道光二十八年の進貢の使者。首里傅氏か。
(6)麻邦礎 一七八三~一八五〇年。田名親雲上真彬。首里麻氏(田名家)十四世。道光二十八年進貢二号船の才府となる。道光三十年申口座に陞る(『家譜(三)』五九八頁)。
(7)蔡柱 一八一八年生まれ。那覇蔡氏(渡久地家)十二世政登(『家譜(四)』二八五頁)。
(8)鄭元広 生没年未詳。大嶺里之子親雲上。鄭嘉訓の子、鄭元偉の弟。道光二十八年存留通事、咸豊三年接貢船の大通事となる(『家譜(二)』九五頁、金世宝の譜参照)。
(9)梁文煥 道光二十八年進貢の在船通事。久米村梁氏。
(10)蔡順模 一八〇〇~六六年。久米村蔡氏(上原家)十五世。道光五年若里之子となり通事に陞る(『家譜(二)』三六一頁)。
(11)王丕烋 久米村王氏九世。国場里之子親雲上か(『王氏家譜』)。