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資料詳細
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
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- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-159-25 世子尚育の、進貢のため都通事林常裕等に付した符文(道光十四《一八三四》、八、二)
琉球国中山王世子尚(育)、進貢の事の為にす。
照得するに、敝国は世々天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年に一貢す。欽遵して案に在り。茲に道光十四年の貢期に当り、特に耳目官向如山・正議大夫紅泰熙・都通事林常裕等を遣わし、表章を齎捧せしむ。海船二隻に坐駕し、官伴・水梢共に一百九十八員名を率領せしむる外、報喪使の正議大夫毛超叙一員、跟伴一十二名を附搭し、共計に二百一十一員名なり。煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運し、両船に分載す。一船、礼字第二百五十九号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を装載し、一船、礼字第二百六十号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き、聖禧を叩祝せんとす。
所有の差去する員役は、文憑無ければ、以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に王府、礼字第二百五十八号の半印勘合の符文一道を給発し、都通事林常裕等に付して収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨の官軍の験実に遇わば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。須らく符文に至るべき者なり。
計開
正使耳目官一員 向如山 人伴一十二名
副使正議大夫一員 紅泰熙 人伴一十二名
報喪使正議大夫一員 毛超叙 人伴一十二名
朝京都通事一員 林常裕 人伴七名
在船都通事二員 鄭国宝/梁宏基 人伴八名
在船使者四員 東丈顕 毛廷玉/章鳳儀 毛能〓(言+刃) 人伴一十六名
存留通事一員 梁学孔 人伴六名
在船通事一員 金思聡 人伴四名
管船火長・直庫四名 金国宝 呉有吉/王永炫 慶永保
水梢共に一百十八名
右の符文は都通事林常裕等に付し、此れを准けしむ
道光十四年(一八三四)八月初二日
注(1)鄭国宝 一七八〇~一八五七年。久米系鄭氏(宮城家)十七世。宮城親雲上。道光二十二年(一八四二)正議大夫、同二十三年申口座に陞る。嘉慶十一年(一八〇六)、読書習礼のため福州に渡り、十三年帰国。十七年勤学として福州に渡る。道光十四年には進貢の大通事となる(『家譜(二)』六四九頁)。
(2)梁宏基 家譜では梁弘基。一七六七~一八四三年。久米系梁氏(阿嘉家)七世。阿嘉親雲上。道光十七年(一八三七)正議大夫、同十八年冊封の大典にさいして申口座に抜擢されている。道光六年、十四年に進貢の在船都通事として福州に渡っている。乾隆六十年(一七九五)に座間味間切阿嘉地頭に任ぜられる(『家譜(二)』八三六頁)。
(3)東丈顕 道光十四年(一八三四)進貢の在船使者。なお『選編』には「東文顕」とある(七三六頁)。
(4)毛廷玉 道光十四年進貢の在船使者。
(5)章鳳儀 道光十四年進貢の在船使者。道光六年にも在船使者として名がみえる。
(6)毛能〓(言+刃) 道光十四年進貢の在船使者。
(7)梁学孔 道光十四年進貢の存留通事、同二十年都通事。同二十六年、異国人退去について対英仏交渉を要請するため請諭副使として福州へ赴くが、翌年病死した(第十三冊〔一八五-一七〕参照)。
(8)金思聡 一七六七~一八三六年。久米系金氏(目取真家)十三世。目取真里之子親雲上。道光元年(一八二一)都通事、同十五年中議大夫となる。道光十四年進貢二号船の在船通事として中国に渡る(『家譜(二)』一三〇頁)。
(9)金国宝 道光十四年(一八三四)進貢の管船火長。久米系金氏(具志堅家)十四世の金国宝(一七八五年生)のことか(『家譜(二)』六九頁)。
(10)王永炫 道光十四年(一八三四)進貢の管船火長。
(11)慶永保 道光十四年(一八三四)進貢の管船直庫。『歴代宝案』では道光十二・十六、咸豊二(一八五二)・四年にも管船直庫として名がみえる。
琉球国中山王世子尚(育)、進貢の事の為にす。
照得するに、敝国は世々天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年に一貢す。欽遵して案に在り。茲に道光十四年の貢期に当り、特に耳目官向如山・正議大夫紅泰熙・都通事林常裕等を遣わし、表章を齎捧せしむ。海船二隻に坐駕し、官伴・水梢共に一百九十八員名を率領せしむる外、報喪使の正議大夫毛超叙一員、跟伴一十二名を附搭し、共計に二百一十一員名なり。煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運し、両船に分載す。一船、礼字第二百五十九号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を装載し、一船、礼字第二百六十号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き、聖禧を叩祝せんとす。
所有の差去する員役は、文憑無ければ、以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に王府、礼字第二百五十八号の半印勘合の符文一道を給発し、都通事林常裕等に付して収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨の官軍の験実に遇わば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。須らく符文に至るべき者なり。
計開
正使耳目官一員 向如山 人伴一十二名
副使正議大夫一員 紅泰熙 人伴一十二名
報喪使正議大夫一員 毛超叙 人伴一十二名
朝京都通事一員 林常裕 人伴七名
在船都通事二員 鄭国宝/梁宏基 人伴八名
在船使者四員 東丈顕 毛廷玉/章鳳儀 毛能〓(言+刃) 人伴一十六名
存留通事一員 梁学孔 人伴六名
在船通事一員 金思聡 人伴四名
管船火長・直庫四名 金国宝 呉有吉/王永炫 慶永保
水梢共に一百十八名
右の符文は都通事林常裕等に付し、此れを准けしむ
道光十四年(一八三四)八月初二日
注(1)鄭国宝 一七八〇~一八五七年。久米系鄭氏(宮城家)十七世。宮城親雲上。道光二十二年(一八四二)正議大夫、同二十三年申口座に陞る。嘉慶十一年(一八〇六)、読書習礼のため福州に渡り、十三年帰国。十七年勤学として福州に渡る。道光十四年には進貢の大通事となる(『家譜(二)』六四九頁)。
(2)梁宏基 家譜では梁弘基。一七六七~一八四三年。久米系梁氏(阿嘉家)七世。阿嘉親雲上。道光十七年(一八三七)正議大夫、同十八年冊封の大典にさいして申口座に抜擢されている。道光六年、十四年に進貢の在船都通事として福州に渡っている。乾隆六十年(一七九五)に座間味間切阿嘉地頭に任ぜられる(『家譜(二)』八三六頁)。
(3)東丈顕 道光十四年(一八三四)進貢の在船使者。なお『選編』には「東文顕」とある(七三六頁)。
(4)毛廷玉 道光十四年進貢の在船使者。
(5)章鳳儀 道光十四年進貢の在船使者。道光六年にも在船使者として名がみえる。
(6)毛能〓(言+刃) 道光十四年進貢の在船使者。
(7)梁学孔 道光十四年進貢の存留通事、同二十年都通事。同二十六年、異国人退去について対英仏交渉を要請するため請諭副使として福州へ赴くが、翌年病死した(第十三冊〔一八五-一七〕参照)。
(8)金思聡 一七六七~一八三六年。久米系金氏(目取真家)十三世。目取真里之子親雲上。道光元年(一八二一)都通事、同十五年中議大夫となる。道光十四年進貢二号船の在船通事として中国に渡る(『家譜(二)』一三〇頁)。
(9)金国宝 道光十四年(一八三四)進貢の管船火長。久米系金氏(具志堅家)十四世の金国宝(一七八五年生)のことか(『家譜(二)』六九頁)。
(10)王永炫 道光十四年(一八三四)進貢の管船火長。
(11)慶永保 道光十四年(一八三四)進貢の管船直庫。『歴代宝案』では道光十二・十六、咸豊二(一八五二)・四年にも管船直庫として名がみえる。