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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-151-22 国王尚灝の、進貢のため都通事紅泰煕等に付した符文(道光十《一八三〇》、八、七)
琉球国中山王尚(灝)、進貢の事の為にす。
照得するに、本爵は世々天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年に一貢す。欽遵して案に在り。茲に道光十年の貢期に当り、特に耳目官向国璧・正議大夫王丕烈・都通事紅泰煕等を遣わし、表章を齎捧せしむ。梢役を率領し、共に二百員名を過ぎず。海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を将て均分して両船に装載す。一船、礼字第二百五十号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を装運し、一船、礼字第二百五十一号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を載運し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き聖禧を叩祝せんとす。
所有の差去する員役は、文憑無ければ、以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。合行に符文を給発すべし。今、王府、礼字第二百四十九号の半印勘合の符文一道を給して都通事紅泰煕等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海巡哨の官軍の験実に遇わば、即便に放行し、留難し遅悞するを得る毋からしめよ。須らく符文に至るべき者なり。
計開
正使耳目官一員 向国璧 人伴一十二名
副使正議大夫一員 王丕烈 人伴一十二名
朝京都通事一員 紅泰煕 人伴七名
在船都通事二員 王景福/林常裕 人伴八名
在船使者四員 殷文龍 向文亀/向国藩 何秉中 人伴一十六名
存留通事一員 魏恭倹 人伴六名
在船通事一員 金明道 人伴四名
管船火長・直庫四名 阮廷佑 仲得功/蔡能述 玉汝楫
水梢共に一百二十名
右の符文は都通事紅泰煕等に付し、此れを准けしむ
道光十年(一八三〇)八月初七日
注(1)表章 表〔一五一-〇一〕〔一五一-〇二〕〔一五一-〇三〕、章(奏)〔一五一-〇四〕〔一五一-〇五〕。
(2)林常裕 一七八八~一八四一年。久米系林氏(名嘉山家)十四世。名嘉山親雲上。道光十八年(一八三八)正議大夫、同十九年申口座に陞る。道光三年に接貢の存留通事、同十年に進貢二号船の都通事、同十四年に進貢の朝京都通事、同二十年に進貢の正議大夫として中国に渡る。翌二十一年、北京から福州に戻った後、病没。閩県上渡地方に葬られた(『家譜(二)』九二七頁)。
(3)向文亀 道光十年(一八三〇)、十八年にも進貢の在船使者を勤める。
(4)魏恭倹 久米系魏氏。神山親雲上。『歴代宝案』では道光十年(一八三〇)進貢の存留通事、道光十八年在船都通事、同二十二年副使正議大夫として渡航している。帰途福州で二十四年五月に病没した。〔一八〇-〇四〕(第十三冊)等に魏恭倹の病死、それへの賜恤についての報告がある。
(5)金明道 一七六六~一八三〇年。久米系金氏(安波連家)十四世。もとの名は明成道。安波連里之子親雲上。道光十年(一八三〇)進貢二号船の在船通事として福州に到着後、病没し、福州府鰲頭山上渡地方に埋葬された。明道の死後、読書習礼のために同行してきた長男世宝が、父の代理を勤めた(『家譜(二)』九〇・九四頁)。
(6)蔡能述 久米系蔡氏。神山里之子親雲上。道光元年(一八二一)、勤学として福州に滞在していたが、琉球の漂着船の帰国に際し通事として乗船して帰国した(『世譜』二一八頁)。『歴代宝案』では道光十年進貢の官船火長、同二十年在船通事、同二十七年接貢の都通事。
琉球国中山王尚(灝)、進貢の事の為にす。
照得するに、本爵は世々天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年に一貢す。欽遵して案に在り。茲に道光十年の貢期に当り、特に耳目官向国璧・正議大夫王丕烈・都通事紅泰煕等を遣わし、表章を齎捧せしむ。梢役を率領し、共に二百員名を過ぎず。海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を将て均分して両船に装載す。一船、礼字第二百五十号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を装運し、一船、礼字第二百五十一号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を載運し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き聖禧を叩祝せんとす。
所有の差去する員役は、文憑無ければ、以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。合行に符文を給発すべし。今、王府、礼字第二百四十九号の半印勘合の符文一道を給して都通事紅泰煕等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海巡哨の官軍の験実に遇わば、即便に放行し、留難し遅悞するを得る毋からしめよ。須らく符文に至るべき者なり。
計開
正使耳目官一員 向国璧 人伴一十二名
副使正議大夫一員 王丕烈 人伴一十二名
朝京都通事一員 紅泰煕 人伴七名
在船都通事二員 王景福/林常裕 人伴八名
在船使者四員 殷文龍 向文亀/向国藩 何秉中 人伴一十六名
存留通事一員 魏恭倹 人伴六名
在船通事一員 金明道 人伴四名
管船火長・直庫四名 阮廷佑 仲得功/蔡能述 玉汝楫
水梢共に一百二十名
右の符文は都通事紅泰煕等に付し、此れを准けしむ
道光十年(一八三〇)八月初七日
注(1)表章 表〔一五一-〇一〕〔一五一-〇二〕〔一五一-〇三〕、章(奏)〔一五一-〇四〕〔一五一-〇五〕。
(2)林常裕 一七八八~一八四一年。久米系林氏(名嘉山家)十四世。名嘉山親雲上。道光十八年(一八三八)正議大夫、同十九年申口座に陞る。道光三年に接貢の存留通事、同十年に進貢二号船の都通事、同十四年に進貢の朝京都通事、同二十年に進貢の正議大夫として中国に渡る。翌二十一年、北京から福州に戻った後、病没。閩県上渡地方に葬られた(『家譜(二)』九二七頁)。
(3)向文亀 道光十年(一八三〇)、十八年にも進貢の在船使者を勤める。
(4)魏恭倹 久米系魏氏。神山親雲上。『歴代宝案』では道光十年(一八三〇)進貢の存留通事、道光十八年在船都通事、同二十二年副使正議大夫として渡航している。帰途福州で二十四年五月に病没した。〔一八〇-〇四〕(第十三冊)等に魏恭倹の病死、それへの賜恤についての報告がある。
(5)金明道 一七六六~一八三〇年。久米系金氏(安波連家)十四世。もとの名は明成道。安波連里之子親雲上。道光十年(一八三〇)進貢二号船の在船通事として福州に到着後、病没し、福州府鰲頭山上渡地方に埋葬された。明道の死後、読書習礼のために同行してきた長男世宝が、父の代理を勤めた(『家譜(二)』九〇・九四頁)。
(6)蔡能述 久米系蔡氏。神山里之子親雲上。道光元年(一八二一)、勤学として福州に滞在していたが、琉球の漂着船の帰国に際し通事として乗船して帰国した(『世譜』二一八頁)。『歴代宝案』では道光十年進貢の官船火長、同二十年在船通事、同二十七年接貢の都通事。