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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
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- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-142-22 国王尚灝の、進貢のため都通事王丕烈等に付した符文(道光六《一八二六》、八、十三)
琉球国中山王尚(灝)、進貢し兼ねて天恩に謝せんが事の為にす。
照得したるに、本爵は世々天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年一貢す。欽遵して案に在り。
査するに、道光二年秋、耳目官毛樹徳・正議大夫王士惇等を遣わし、表章・方物を齎捧し、天朝に入貢せしむ。道光四年十一月十一日、貢使毛樹徳等、勅書・御書匾額併びに欽賜の物件を齎捧して帰国す。謹んで良辰を択び、闕を望みて嵩呼し、一一拝領す。
茲に道光六年の進貢の期に当たり、特に紫巾官馬開基・正議大夫梁文翼・都通事王丕烈等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百員名を過ぎざるを率領し、海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔、並びに謝恩の礼物の金鶴形一対―鶴踏銀岩座各全・黒漆嵌螺五爪龍蓋椀三十個・黒漆嵌螺五爪龍円盤三十個・細嫩沈香色織花蕉布十疋・細嫩織花蕉布四十疋・精熟土黄色織花蕉布十疋・精熟織花蕉布四十疋・細嫩濃茶色素光蕉布十疋・細嫩素光蕉布四十疋・精彩画囲屏一対・囲屏紙五千張・護寿紙五千張・精製雅扇二百把を装運し、両船に分載す。
一船は礼字第二百四十一号にして、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔・金鶴形一対―鶴踏銀岩座各全・黒漆嵌螺五爪龍蓋椀三十個・黒漆嵌螺五爪龍円盤三十個・細嫩沈香色織花蕉布十疋・細嫩織花蕉布四十疋・精熟土黄色織花蕉布十疋・精熟織花蕉布四十疋・細嫩濃茶色素光蕉布十疋・細嫩素光蕉布四十疋・精彩画囲屏一対・囲屏紙五千張・護寿紙五千張・精製雅扇二百把を装載す。
一船は礼字第二百四十二号にして、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴かしめ、聖禧を叩祝し、兼ねて天恩に謝せしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ、以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に王府の礼字第二百四十号の半印勘合の符文一道を給発し、都通事王丕烈等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海巡哨の官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。須らく符文に至るべき者なり。
計開
正使紫巾官一員 馬開基 人伴一十七名
副使正議大夫一員 梁文翼 人伴一十二名
朝京都通事一員 王丕烈 人伴六名
在船都通事二員 梁宏基/楊徳崇 人伴八名
在船使者四員 蘇定模 章鳳儀/向国枢 翁邦楨 人伴一十六名
存留通事一員 梁必達 人伴六名
在船通事一員 梁允濬 人伴四名
管船火長・直庫四名 陳世烈 松長茂/阮朝棟 王汝楫
水梢共に一百一十六名
右、符文は都通事王丕烈等に付し、此れを准けしむ
道光六年(一八二六)八月十三日
注(1)王丕烈 久米村系王氏(国場家)九世。国場親方。紫巾官に陞る。総理唐栄司となる(『家譜(二)』九四五頁)。道光六年進貢兼謝恩の朝京都通事。『宝案』では道光十年進貢の副使正議大夫としても名がみえる(巻一五一)。
(2)梁宏基 乾隆三十二~道光二十三年(一七六七~一八四三)。久米村系梁氏(阿嘉家)七世。阿嘉親雲上。嘉慶十六年都通事、道光六年中議大夫、十七年正議大夫、十八年申口座に陞る。道光六年進貢兼謝恩の在船都通事、十四年進貢の在船都通事となる。乾隆六十年座間味間切阿嘉地頭職を授かる。なお家譜には梁弘基とある(『家譜(二)』八三七頁)。
(3)蘇定模 道光六年進貢の在船使者。
(4)章鳳儀 道光六年、十四年の進貢の在船使者。
(5)翁邦楨 道光六年進貢の在船使者。〔一四二-二四〕には翁拝楨とある。
(6)梁必達 浜川親雲上(『家譜(二)』九三頁、金邦俊の譜)。道光六年進貢兼謝恩の存留通事。『宝案』では道光十六年進貢の朝京都通事(巻一六三)、二十二年進貢の朝京都通事(巻一七五)、二十六年進貢の副使正議大夫、咸豊二年ベッテルハイム退去要請のための請諭副使正議大夫としても名がみえる(巻一九二)。
(7)梁允濬 乾隆二十四~道光二十七年(一七五九~一八四七)。久米村系梁氏(亀嶋家)十四世。後に濬の字、禁字により浚に改める。乾隆四十九年通事、道光元年都通事、九年中議大夫に陞る。乾隆五十九年読書習礼のため閩に赴き、嘉慶元年帰国。道光六年進貢兼謝恩二号船の在船通事となる。嘉慶二十三年勝連間切亀島地頭職を授かる(『家譜(二)』七七三頁)。
(8)陳世烈 乾隆四十二~道光十年(一七七七~一八三〇)。久米村系陳氏(幸喜家)六世。嘉慶十三年通事に陞り、道光六年黄冠を頂戴。同年進貢兼謝恩の管船火長となる(『家譜(二)』四六四頁)。
(9)松長茂 道光六年進貢の管船直庫。
(10)阮朝棟 道光六年進貢の管船火長。
琉球国中山王尚(灝)、進貢し兼ねて天恩に謝せんが事の為にす。
照得したるに、本爵は世々天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年一貢す。欽遵して案に在り。
査するに、道光二年秋、耳目官毛樹徳・正議大夫王士惇等を遣わし、表章・方物を齎捧し、天朝に入貢せしむ。道光四年十一月十一日、貢使毛樹徳等、勅書・御書匾額併びに欽賜の物件を齎捧して帰国す。謹んで良辰を択び、闕を望みて嵩呼し、一一拝領す。
茲に道光六年の進貢の期に当たり、特に紫巾官馬開基・正議大夫梁文翼・都通事王丕烈等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百員名を過ぎざるを率領し、海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔、並びに謝恩の礼物の金鶴形一対―鶴踏銀岩座各全・黒漆嵌螺五爪龍蓋椀三十個・黒漆嵌螺五爪龍円盤三十個・細嫩沈香色織花蕉布十疋・細嫩織花蕉布四十疋・精熟土黄色織花蕉布十疋・精熟織花蕉布四十疋・細嫩濃茶色素光蕉布十疋・細嫩素光蕉布四十疋・精彩画囲屏一対・囲屏紙五千張・護寿紙五千張・精製雅扇二百把を装運し、両船に分載す。
一船は礼字第二百四十一号にして、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔・金鶴形一対―鶴踏銀岩座各全・黒漆嵌螺五爪龍蓋椀三十個・黒漆嵌螺五爪龍円盤三十個・細嫩沈香色織花蕉布十疋・細嫩織花蕉布四十疋・精熟土黄色織花蕉布十疋・精熟織花蕉布四十疋・細嫩濃茶色素光蕉布十疋・細嫩素光蕉布四十疋・精彩画囲屏一対・囲屏紙五千張・護寿紙五千張・精製雅扇二百把を装載す。
一船は礼字第二百四十二号にして、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴かしめ、聖禧を叩祝し、兼ねて天恩に謝せしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ、以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に王府の礼字第二百四十号の半印勘合の符文一道を給発し、都通事王丕烈等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海巡哨の官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。須らく符文に至るべき者なり。
計開
正使紫巾官一員 馬開基 人伴一十七名
副使正議大夫一員 梁文翼 人伴一十二名
朝京都通事一員 王丕烈 人伴六名
在船都通事二員 梁宏基/楊徳崇 人伴八名
在船使者四員 蘇定模 章鳳儀/向国枢 翁邦楨 人伴一十六名
存留通事一員 梁必達 人伴六名
在船通事一員 梁允濬 人伴四名
管船火長・直庫四名 陳世烈 松長茂/阮朝棟 王汝楫
水梢共に一百一十六名
右、符文は都通事王丕烈等に付し、此れを准けしむ
道光六年(一八二六)八月十三日
注(1)王丕烈 久米村系王氏(国場家)九世。国場親方。紫巾官に陞る。総理唐栄司となる(『家譜(二)』九四五頁)。道光六年進貢兼謝恩の朝京都通事。『宝案』では道光十年進貢の副使正議大夫としても名がみえる(巻一五一)。
(2)梁宏基 乾隆三十二~道光二十三年(一七六七~一八四三)。久米村系梁氏(阿嘉家)七世。阿嘉親雲上。嘉慶十六年都通事、道光六年中議大夫、十七年正議大夫、十八年申口座に陞る。道光六年進貢兼謝恩の在船都通事、十四年進貢の在船都通事となる。乾隆六十年座間味間切阿嘉地頭職を授かる。なお家譜には梁弘基とある(『家譜(二)』八三七頁)。
(3)蘇定模 道光六年進貢の在船使者。
(4)章鳳儀 道光六年、十四年の進貢の在船使者。
(5)翁邦楨 道光六年進貢の在船使者。〔一四二-二四〕には翁拝楨とある。
(6)梁必達 浜川親雲上(『家譜(二)』九三頁、金邦俊の譜)。道光六年進貢兼謝恩の存留通事。『宝案』では道光十六年進貢の朝京都通事(巻一六三)、二十二年進貢の朝京都通事(巻一七五)、二十六年進貢の副使正議大夫、咸豊二年ベッテルハイム退去要請のための請諭副使正議大夫としても名がみえる(巻一九二)。
(7)梁允濬 乾隆二十四~道光二十七年(一七五九~一八四七)。久米村系梁氏(亀嶋家)十四世。後に濬の字、禁字により浚に改める。乾隆四十九年通事、道光元年都通事、九年中議大夫に陞る。乾隆五十九年読書習礼のため閩に赴き、嘉慶元年帰国。道光六年進貢兼謝恩二号船の在船通事となる。嘉慶二十三年勝連間切亀島地頭職を授かる(『家譜(二)』七七三頁)。
(8)陳世烈 乾隆四十二~道光十年(一七七七~一八三〇)。久米村系陳氏(幸喜家)六世。嘉慶十三年通事に陞り、道光六年黄冠を頂戴。同年進貢兼謝恩の管船火長となる(『家譜(二)』四六四頁)。
(9)松長茂 道光六年進貢の管船直庫。
(10)阮朝棟 道光六年進貢の管船火長。