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資料詳細
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
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- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-128-08 国王尚灝の、進貢のため都通事梁文翼等に付した符文(嘉慶二十五《一八二〇》、八、十二)
琉球国中山王尚(灝)、進貢せんが事の為にす。
照得したるに、本爵は世々天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年一貢す。欽遵して案に在り。
茲に嘉慶二十五年の貢期に当たり、特に耳目官向邦正・正議大夫蔡肇基・都通事梁文翼等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百員名を過ぎざるを率領し、海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を将て、均分し両船に装載す。一船は礼字第二百二十二号にして、硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を装運し、一船は礼字第二百二十三号にして、硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を載運し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴かしめ、聖禧を叩祝せしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ、以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。合行に符文を給発すべし。今、王府の礼字第二百二十一号の半印勘合の符文一道を給し、都通事梁文翼等に付し、収執して前去せしむべし。如し経過の関津及び沿海巡哨の官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。須らく符文に至るべき者なり。
計開
正使耳目官一員 向邦正 人伴一十二名
副使正議大夫一員 蔡肇基 人伴一十二名
朝京都通事一員 梁文翼 人伴七名
在船都通事二員 蔡濂/林興基 人伴八名
在船使者四員 習定謹 陳文禧/向大図 東士亮 人伴一十六名
存留通事一員 陳善継 人伴六名
在船通事一員 林家樟 人伴四名
管船火長・直庫四名 毛永寧 善得福/林家檉 平崇礼
水梢共に一百二十名
右、符文は都通事梁文翼等に付し、此れを准けしむ
嘉慶二十五年(一八二〇)八月十二日
注(1)蔡濂 嘉慶二十五年進貢の在船都通事。『宝案』では乾隆五十九年の管船火長としても名がみえる。また『世譜』では嘉慶六年、福建に遊学中の蔡濂が琉球難民の通事としてともに帰国した記事がみえるが、同一人物か。
(2)林興基 乾隆二十~道光六年(一七五五~一八二六)。久米村系林氏(平安座家)六世。乾隆四十六年通事、五十一年黄冠、五十九年都通事、嘉慶九年中議大夫、道光元年正議大夫、二年耳目官に陞る。嘉慶九年進貢の存留脇通事、十七年進貢の朝京都通事、二十五年進貢二号船の都通事を務める。道光二年美里間切大村渠地頭職を授かる(『家譜(二)』八六三頁)。
(3)習定謹 嘉慶二十五年進貢の在船使者。
(4)向大図 嘉慶二十五年進貢の在船使者。
(5)陳文禧 嘉慶二十五年進貢の在船使者。
(6)東士亮 嘉慶二十五年進貢の在船使者。『宝案』では嘉慶十九年に東士亮らが大島から帰国する時に福建省興化府に漂到した記事がある(巻一一七)が、同一人物か。
(7)林家樟 乾隆十六年(一七五一)~?。久米村系林氏(平安座家)五世。新垣通事親雲上。乾隆四十五年通事、道光七年中議大夫、九年正議大夫、十六年申口座に陞る。乾隆四十三年読書習礼のため閩に赴き、四十七年帰国。嘉慶十一年進貢二号船の管船夥長、二十五年進貢二号船の在船通事となる(『家譜(二)』八七九頁)。
(8)毛永寧 乾隆四十四~道光十三年(一七七九~一八三三)。久米村系毛氏(吉川家)七世。嘉慶九年通事、二十五年黄冠、道光二年当座敷に陞る。嘉慶二十五年進貢頭号船の総官を務めた(『久米毛氏家譜原文・読み下し』一一六頁)。
(9)林家檉 乾隆二十三年(一七五八)~?。久米村系林氏(平安座家)五世。乾隆四十五年通事、道光二年都通事に陞る。乾隆五十五年読書習礼のため閩に赴き、五十八年帰国。嘉慶二十五年進貢の管船火長となる(『家譜(二)』八七三頁)。
(10)平崇礼 乾隆三十一~道光五年(一七六六~一八二五)。大城筑登之親雲上安富。嘉慶二十五年小唐船の船頭叙座敷(二号船の直庫)、道光二年進貢小唐船の船頭、四年進貢小唐船の船頭(『家譜(四)』四六〇頁)。
琉球国中山王尚(灝)、進貢せんが事の為にす。
照得したるに、本爵は世々天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年一貢す。欽遵して案に在り。
茲に嘉慶二十五年の貢期に当たり、特に耳目官向邦正・正議大夫蔡肇基・都通事梁文翼等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百員名を過ぎざるを率領し、海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を将て、均分し両船に装載す。一船は礼字第二百二十二号にして、硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を装運し、一船は礼字第二百二十三号にして、硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を載運し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴かしめ、聖禧を叩祝せしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ、以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。合行に符文を給発すべし。今、王府の礼字第二百二十一号の半印勘合の符文一道を給し、都通事梁文翼等に付し、収執して前去せしむべし。如し経過の関津及び沿海巡哨の官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。須らく符文に至るべき者なり。
計開
正使耳目官一員 向邦正 人伴一十二名
副使正議大夫一員 蔡肇基 人伴一十二名
朝京都通事一員 梁文翼 人伴七名
在船都通事二員 蔡濂/林興基 人伴八名
在船使者四員 習定謹 陳文禧/向大図 東士亮 人伴一十六名
存留通事一員 陳善継 人伴六名
在船通事一員 林家樟 人伴四名
管船火長・直庫四名 毛永寧 善得福/林家檉 平崇礼
水梢共に一百二十名
右、符文は都通事梁文翼等に付し、此れを准けしむ
嘉慶二十五年(一八二〇)八月十二日
注(1)蔡濂 嘉慶二十五年進貢の在船都通事。『宝案』では乾隆五十九年の管船火長としても名がみえる。また『世譜』では嘉慶六年、福建に遊学中の蔡濂が琉球難民の通事としてともに帰国した記事がみえるが、同一人物か。
(2)林興基 乾隆二十~道光六年(一七五五~一八二六)。久米村系林氏(平安座家)六世。乾隆四十六年通事、五十一年黄冠、五十九年都通事、嘉慶九年中議大夫、道光元年正議大夫、二年耳目官に陞る。嘉慶九年進貢の存留脇通事、十七年進貢の朝京都通事、二十五年進貢二号船の都通事を務める。道光二年美里間切大村渠地頭職を授かる(『家譜(二)』八六三頁)。
(3)習定謹 嘉慶二十五年進貢の在船使者。
(4)向大図 嘉慶二十五年進貢の在船使者。
(5)陳文禧 嘉慶二十五年進貢の在船使者。
(6)東士亮 嘉慶二十五年進貢の在船使者。『宝案』では嘉慶十九年に東士亮らが大島から帰国する時に福建省興化府に漂到した記事がある(巻一一七)が、同一人物か。
(7)林家樟 乾隆十六年(一七五一)~?。久米村系林氏(平安座家)五世。新垣通事親雲上。乾隆四十五年通事、道光七年中議大夫、九年正議大夫、十六年申口座に陞る。乾隆四十三年読書習礼のため閩に赴き、四十七年帰国。嘉慶十一年進貢二号船の管船夥長、二十五年進貢二号船の在船通事となる(『家譜(二)』八七九頁)。
(8)毛永寧 乾隆四十四~道光十三年(一七七九~一八三三)。久米村系毛氏(吉川家)七世。嘉慶九年通事、二十五年黄冠、道光二年当座敷に陞る。嘉慶二十五年進貢頭号船の総官を務めた(『久米毛氏家譜原文・読み下し』一一六頁)。
(9)林家檉 乾隆二十三年(一七五八)~?。久米村系林氏(平安座家)五世。乾隆四十五年通事、道光二年都通事に陞る。乾隆五十五年読書習礼のため閩に赴き、五十八年帰国。嘉慶二十五年進貢の管船火長となる(『家譜(二)』八七三頁)。
(10)平崇礼 乾隆三十一~道光五年(一七六六~一八二五)。大城筑登之親雲上安富。嘉慶二十五年小唐船の船頭叙座敷(二号船の直庫)、道光二年進貢小唐船の船頭、四年進貢小唐船の船頭(『家譜(四)』四六〇頁)。