琉球王国交流史・近代沖縄史料デジタルアーカイブ

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資料詳細

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2-125-09 国王尚灝の、接貢のため存留通事楊徳崇等に付した執照(嘉慶二十四《一八一九》、八、三)
琉球国中山王尚(灝)、勅書を恭迎し、併びに使臣を接回せんが事の為にす。
照得したるに、本爵、業に嘉慶二十三年秋に貢使耳目官毛惟新・正議大夫鄭克新等を遣わし、表章・方物を齎捧し、天朝に入貢す。経に本爵、福建等処承宣布政使司に移咨し、起送して京に赴かしめ、聖禧を叩祝せしめて案に在り。
茲に還国の期に当たり、例として応に船を撥りて接回すべし。此れが為に特に都通事王崇達等を遣わし、梢役共に八十四員名を帯領し、海船一隻に坐駕し、前みて福建に至らしむ。皇上の勅書・欽賞の幣帛を恭迎し、併びに京回の使臣毛惟新・鄭克新・梁光地と在閩の存留通事王秉謙等を接えて還国せしめんとす。
但だ差わす所の員役は文憑無ければ、以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に王府の礼字第二百二十号の半印勘合の執照一道を給発し、存留通事楊徳崇等に付し、収執して前去せしむ。凡そ遇う所の関津及び沿海巡哨の官軍は、験実して即便に放行し、留難して阻滞するを得る毋からしめよ。須らく執照に至るべき者なり。
計開
在船都通事一員 王崇達 人伴四名
在船使者二員 向文彬/蔡基 人伴八名
存留通事一員 楊徳崇 人伴六名
管船夥長・直庫二名 王宏遠 柳増福
水梢共に六十名
右、執照は存留通事楊徳崇等に付し、此れを准けしむ
嘉慶二十四年(一八一九)八月初三日 給す

注(1)幣帛 幣も帛も絹で、贈り物の絹。転じて一般に贈り物。
(2)向文彬 嘉慶二十四年接貢の在船使者。
(3)蔡基 乾隆二十六~道光元年(一七六一~一八二一)。首里系蔡氏(古堅家)十世政旭。乾隆四十九年若里之子、五十五年黄冠に陞る。御側仕や御近習などを歴任し、嘉慶二十四年接貢船の官舎を務めた。乾隆六十年父の跡を継ぎ読谷山間切古堅地頭職を授かる(『蔡姓家譜 支流 古堅家』)。
(4)楊徳崇 名嘉地通事親雲上(『家譜(二)』七七四頁、梁允濬(浚)の譜)。嘉慶二十四年接貢の存留通事。『宝案』では道光六年進貢の在船都通事(巻一二八)、十五年接貢の在船都通事(巻一六一)としても名がみえる。
(5)王宏遠 嘉慶二十四年接貢の管船夥長。『宝案』ではほかに道光十二(巻一五五)、十八年(巻一六七)進貢の都通事としても名がみえる。
(6)柳増福 嘉慶二十四年接貢の管船直庫。『宝案』では嘉慶二十二年接貢の管船直庫としても名がみえる(巻一二二)。
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