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資料詳細
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
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- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-122-04 国王尚灝の、接貢のため存留通事蔡修等に付した執照(嘉慶二十二《一八一七》、八、四)
琉球国中山王尚(灝)、勅書を恭迎し、併びに使臣を接回せんが事の為にす。
照得したるに、本爵は業に嘉慶二十一年の秋に貢使耳目官毛維憲・正議大夫蔡次九等を遣わし、表章・方物を齎捧して天朝に入貢す。経に本爵、福建等処承宣布政使司に移咨し、起送して京に赴かしめ、聖禧を叩祝せしめて案に在り。
茲に還国の期に当たり、例として応に船を撥りて接回すべし。此れが為に特に都通事魏崇仁等を遣わし、梢役共に八十九員名を帯領し、海船一隻に坐駕し、前みて福建に至らしむ。皇上の勅書・欽賞の幣帛を恭迎し、併びに京回の使臣毛維憲・蔡次九・王士惇と在閩の存留通事鄭択中等を接えて還国せしめんとす。
但だ差わす所の員役は、文憑無ければ、以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に王府、礼字第二百十六号の半印勘合の執照一道を給発し、存留通事蔡修等に付し、収執して前去せしむ。凡そ所の関津及び沿海巡哨の官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して阻滞するを得る毋からしめよ。須らく執照に至るべき者なり。
計開
在船都通事一員 魏崇仁 人伴四名
在船使者二員 向元麟/楊充海 人伴八名
存留通事一員 蔡修 人伴六名
管船夥長・直庫二名 王朝銓 柳増福
水梢共に六十五名
右、執照は存留通事蔡修等に付し、此れを准けしむ
嘉慶二十二年(一八一七)八月初四日給す
注(1)蔡修 乾隆四十二~道光十二年(一七七七~一八三二)。儀間親雲上。久米系蔡氏(儀間家)十六世。嘉慶二年~五年、蔡次九に随行して読書習礼のため閩に赴く。嘉慶十一年に漢文組役並び総師寄役。同十五年、国学官話詩文の総師となる。嘉慶二十二年に接貢の存留通事、道光四年に進貢二号船の都通事。道光十二年に儀衛正として江戸に赴く途中、伏見で病を患い死亡。嘉慶元年、小禄間切儀間村地頭に任ぜられている(『家譜(二)』二六九頁)。
(2)王朝銓 乾隆二十三~道光四年(一七五八~一八二四)。小渡里之子親雲上。久米系王氏(小渡家)七世。乾隆五十四年読書習礼のため閩に赴く。嘉慶十年、憲書官相附を勤め、嘉慶二十三年には当座に陞っている。嘉慶二十二年接貢船の火長として福州に赴き、帰途、鹿児島の秋目地方に漂到し、秋目から坊之津、山川港、前浜に進み、鹿児島の琉球館に貨物を卸して帰国したことが家譜にみえる(『家譜(二)』一一頁)。琉球は進貢貿易で薩摩藩の資金(渡唐銀)による買入を行い、その貨物(御糸荷)を那覇到着後に薩摩に送っていたが、ここでは鹿児島に漂到したため直接荷を卸したことが知れる。
(3)柳増福 嘉慶二十二年の接貢船の管船直庫。『宝案』では嘉慶二十四年の直庫(巻一二五)として名がみえる。
琉球国中山王尚(灝)、勅書を恭迎し、併びに使臣を接回せんが事の為にす。
照得したるに、本爵は業に嘉慶二十一年の秋に貢使耳目官毛維憲・正議大夫蔡次九等を遣わし、表章・方物を齎捧して天朝に入貢す。経に本爵、福建等処承宣布政使司に移咨し、起送して京に赴かしめ、聖禧を叩祝せしめて案に在り。
茲に還国の期に当たり、例として応に船を撥りて接回すべし。此れが為に特に都通事魏崇仁等を遣わし、梢役共に八十九員名を帯領し、海船一隻に坐駕し、前みて福建に至らしむ。皇上の勅書・欽賞の幣帛を恭迎し、併びに京回の使臣毛維憲・蔡次九・王士惇と在閩の存留通事鄭択中等を接えて還国せしめんとす。
但だ差わす所の員役は、文憑無ければ、以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に王府、礼字第二百十六号の半印勘合の執照一道を給発し、存留通事蔡修等に付し、収執して前去せしむ。凡そ所の関津及び沿海巡哨の官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して阻滞するを得る毋からしめよ。須らく執照に至るべき者なり。
計開
在船都通事一員 魏崇仁 人伴四名
在船使者二員 向元麟/楊充海 人伴八名
存留通事一員 蔡修 人伴六名
管船夥長・直庫二名 王朝銓 柳増福
水梢共に六十五名
右、執照は存留通事蔡修等に付し、此れを准けしむ
嘉慶二十二年(一八一七)八月初四日給す
注(1)蔡修 乾隆四十二~道光十二年(一七七七~一八三二)。儀間親雲上。久米系蔡氏(儀間家)十六世。嘉慶二年~五年、蔡次九に随行して読書習礼のため閩に赴く。嘉慶十一年に漢文組役並び総師寄役。同十五年、国学官話詩文の総師となる。嘉慶二十二年に接貢の存留通事、道光四年に進貢二号船の都通事。道光十二年に儀衛正として江戸に赴く途中、伏見で病を患い死亡。嘉慶元年、小禄間切儀間村地頭に任ぜられている(『家譜(二)』二六九頁)。
(2)王朝銓 乾隆二十三~道光四年(一七五八~一八二四)。小渡里之子親雲上。久米系王氏(小渡家)七世。乾隆五十四年読書習礼のため閩に赴く。嘉慶十年、憲書官相附を勤め、嘉慶二十三年には当座に陞っている。嘉慶二十二年接貢船の火長として福州に赴き、帰途、鹿児島の秋目地方に漂到し、秋目から坊之津、山川港、前浜に進み、鹿児島の琉球館に貨物を卸して帰国したことが家譜にみえる(『家譜(二)』一一頁)。琉球は進貢貿易で薩摩藩の資金(渡唐銀)による買入を行い、その貨物(御糸荷)を那覇到着後に薩摩に送っていたが、ここでは鹿児島に漂到したため直接荷を卸したことが知れる。
(3)柳増福 嘉慶二十二年の接貢船の管船直庫。『宝案』では嘉慶二十四年の直庫(巻一二五)として名がみえる。