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資料詳細
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-113-05 国王尚灝の、進貢のため都通事林興基等に付した符文(嘉慶十七《一八一二》、八、十)
琉球国中山王尚(灝)、進貢せんが事の為にす。
照得したるに、本爵は世々天朝の洪恩に沐し、会典に遵依し二年一貢す。欽遵して案に在り。
茲に嘉慶十七年の進貢の期に当たり、特に耳目官向謹・正議大夫毛廷器・都通事林興基等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百員名を過ぎざるを率領し、海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運し、両船に分載す。一船の礼字第二百二号は煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、一船の礼字第二百三号は煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴かしめ、聖禧を叩祝せしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ、各処の官軍の阻留して便ならざるを恐る。此れが為に理として合に王府、礼字第二百一号の半印勘合の符文一道を給発し、都通事林興基等に付し、収執して前去せしむべし。如し経過の関津及び沿海巡哨の官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。須らく符文に至るべき者なり。
計開
正使耳目官一員 向謹 人伴一十二名
副使正議大夫一員 毛廷器 人伴一十二名
朝京都通事 林興基 人伴七名
在船都通事二員 王士惇/ 梁躬 人伴八名
在船使者四員 東三錫 向啓祥/向廷村 馬超群 人伴一十六名
存留通事一員 梁文献 人伴六名
在船通事一員 梁允文 人伴四名
管船火長・直庫四名 金明勲 善得福/蔡嘉義 保開基
水梢共に一百二十名
右、符文は都通事林興基等に付し、此れを准けしむ
嘉慶十七年(一八一二)八月初十日
注(1)王士惇 瀬名波親雲上。嘉慶十七年の在船通事。『宝案』では嘉慶十一年の結状に中議大夫(巻一〇一)、二十一年に進貢の都通事(巻一二〇)、道光二年に正議大夫(巻一三三)として名がみえる。
(2)向啓祥 嘉慶十七年の在船使者。
(3)向廷材 ?~嘉慶十八年(一八一三)。嘉慶十七年の在船使者。『世譜』に嘉慶十八年、東三錫とともに春運送馬艦船に乗って大島から戻る時、八重山に漂到し、そこで病故したとある。
(4)馬超群 嘉慶十七年の在船使者。『宝案』では他に嘉慶二十一年の司養贍大使(巻一一八)、『世譜』では嘉慶二十年の才府(在船使者)として名がみえる。
(5)梁文献 国吉里之子親雲上。嘉慶十七年進貢の存留通事。『宝案』では他に嘉慶二十三年の進貢の在船都通事(巻一二四)として名がみえる。
(6)梁允文 嘉慶十七年の在船通事。外間通事親雲上(『家譜(二)』金邦俊の譜、九二頁)。『宝案』では他に乾隆四十六年の管船火長(総官)として名がみえる(巻六七)。
(7)金明勲 金成勲、のちに明勲と改名。乾隆三十八~道光二十年(一七七三~一八四〇)。久米系金氏(豊里家)十三世。国吉里之子親雲上。嘉慶十七年に管船火長を務める。道光十七年、冊封使の来島に備えて「碑文石塔司」となり十九年に退職。道光十八年中議大夫に陞る(『家譜(二)』一四八頁)。
(8)蔡嘉義 嘉慶十七年の管船火長。
琉球国中山王尚(灝)、進貢せんが事の為にす。
照得したるに、本爵は世々天朝の洪恩に沐し、会典に遵依し二年一貢す。欽遵して案に在り。
茲に嘉慶十七年の進貢の期に当たり、特に耳目官向謹・正議大夫毛廷器・都通事林興基等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百員名を過ぎざるを率領し、海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運し、両船に分載す。一船の礼字第二百二号は煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、一船の礼字第二百三号は煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴かしめ、聖禧を叩祝せしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ、各処の官軍の阻留して便ならざるを恐る。此れが為に理として合に王府、礼字第二百一号の半印勘合の符文一道を給発し、都通事林興基等に付し、収執して前去せしむべし。如し経過の関津及び沿海巡哨の官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。須らく符文に至るべき者なり。
計開
正使耳目官一員 向謹 人伴一十二名
副使正議大夫一員 毛廷器 人伴一十二名
朝京都通事 林興基 人伴七名
在船都通事二員 王士惇/ 梁躬 人伴八名
在船使者四員 東三錫 向啓祥/向廷村 馬超群 人伴一十六名
存留通事一員 梁文献 人伴六名
在船通事一員 梁允文 人伴四名
管船火長・直庫四名 金明勲 善得福/蔡嘉義 保開基
水梢共に一百二十名
右、符文は都通事林興基等に付し、此れを准けしむ
嘉慶十七年(一八一二)八月初十日
注(1)王士惇 瀬名波親雲上。嘉慶十七年の在船通事。『宝案』では嘉慶十一年の結状に中議大夫(巻一〇一)、二十一年に進貢の都通事(巻一二〇)、道光二年に正議大夫(巻一三三)として名がみえる。
(2)向啓祥 嘉慶十七年の在船使者。
(3)向廷材 ?~嘉慶十八年(一八一三)。嘉慶十七年の在船使者。『世譜』に嘉慶十八年、東三錫とともに春運送馬艦船に乗って大島から戻る時、八重山に漂到し、そこで病故したとある。
(4)馬超群 嘉慶十七年の在船使者。『宝案』では他に嘉慶二十一年の司養贍大使(巻一一八)、『世譜』では嘉慶二十年の才府(在船使者)として名がみえる。
(5)梁文献 国吉里之子親雲上。嘉慶十七年進貢の存留通事。『宝案』では他に嘉慶二十三年の進貢の在船都通事(巻一二四)として名がみえる。
(6)梁允文 嘉慶十七年の在船通事。外間通事親雲上(『家譜(二)』金邦俊の譜、九二頁)。『宝案』では他に乾隆四十六年の管船火長(総官)として名がみえる(巻六七)。
(7)金明勲 金成勲、のちに明勲と改名。乾隆三十八~道光二十年(一七七三~一八四〇)。久米系金氏(豊里家)十三世。国吉里之子親雲上。嘉慶十七年に管船火長を務める。道光十七年、冊封使の来島に備えて「碑文石塔司」となり十九年に退職。道光十八年中議大夫に陞る(『家譜(二)』一四八頁)。
(8)蔡嘉義 嘉慶十七年の管船火長。