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資料詳細
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
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- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-107-09 国王尚灝の、中国の難民兪富南等の護送のため都通事魏崇仁等に付した執照(嘉慶十四《一八〇九》)
琉球国中山王尚(灝)、護照を給発して関津に憑し以て難人を送らんが事の為にす。
照得したるに、嘉慶十四年三月初一日、江南蘇州府鎮洋県の商民兪富南等、共に十七名、船一隻に駕して関東貔子窩に到り、以て貿易を為して回郷せんとするの時、洋中陡かに大風に遇い、本国属地徳之島に飄入し、礁に衝りて破船す。随いで該地方官、救養し護送して国に到る。業経に館に発りて安挿し、例に照らして廩餼等の項を給与し、部文内の奉旨の事理に欽遵し、収養して解送せしむ。
茲に特に都通事魏崇仁等を遣わし、海船一隻に坐駕し、梢役共に六十七員名を率領し、前みて閩省に至らしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ、以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に王府、礼字第一百九拾五号の半印勘合の執照一道を給発し、都通事魏崇仁等に附し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海巡哨の官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅滞するを得る毋からしめよ。須らく執照に至るべき者なり。
計開、難商の名数
兪富南 趙元祥 衛燦如
黄錦文 沈彩鳳 朱恵方
兪叙元 朱彦邦 李永興
儲阿狗 沈発林 薛三受
袁天宝 石紹麒 顧三挂
兪位南 顧二
護送都通事一員 魏崇仁 人伴四名
司養贍大使一員 馬世倬 人伴四名
管船夥長・直庫二名 孫光裕 維順利
水梢共に五十五名
右、執照は都通事魏崇仁等に附し、此れを准けしむ
嘉慶十四年(一八〇九)
注(1)司養贍大使 養贍は養育する、扶養するの意。漂着した中国人を護送する職務である。
(2)馬世倬 嘉慶十四年の司養贍大使。『宝案』では嘉慶三年の在船使者(巻八八)として名がみえる。
(3)孫光裕 乾隆四十六~咸豊三年(一七八一~一八五三)。久米系孫氏(大嶺家)六世。大嶺親雲上。嘉慶二十二年(一八一七)都通事、道光十五年(一八三五)正議大夫、同十六年申口座に陞る。同十八年には冊封の式典を無事終えたことから紫金大夫の位を頂戴し、里之子籍に陞っている。嘉慶八年に読書習礼のため、嘉慶十四年・道光五年に難民護送、道光十二年に都通事、同十八年に進貢および請封の使者として五度中国に渡っているほか、異国大夫、長史などを務め、道光二十二年には総理唐栄司を務めた(『家譜(二)』四四〇頁)。
(4)維順利 嘉慶十四年の難民護送の管船直庫。『宝案』では嘉慶二十年にも管船直庫(巻一一八)として名がみえる。
琉球国中山王尚(灝)、護照を給発して関津に憑し以て難人を送らんが事の為にす。
照得したるに、嘉慶十四年三月初一日、江南蘇州府鎮洋県の商民兪富南等、共に十七名、船一隻に駕して関東貔子窩に到り、以て貿易を為して回郷せんとするの時、洋中陡かに大風に遇い、本国属地徳之島に飄入し、礁に衝りて破船す。随いで該地方官、救養し護送して国に到る。業経に館に発りて安挿し、例に照らして廩餼等の項を給与し、部文内の奉旨の事理に欽遵し、収養して解送せしむ。
茲に特に都通事魏崇仁等を遣わし、海船一隻に坐駕し、梢役共に六十七員名を率領し、前みて閩省に至らしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ、以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に王府、礼字第一百九拾五号の半印勘合の執照一道を給発し、都通事魏崇仁等に附し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海巡哨の官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅滞するを得る毋からしめよ。須らく執照に至るべき者なり。
計開、難商の名数
兪富南 趙元祥 衛燦如
黄錦文 沈彩鳳 朱恵方
兪叙元 朱彦邦 李永興
儲阿狗 沈発林 薛三受
袁天宝 石紹麒 顧三挂
兪位南 顧二
護送都通事一員 魏崇仁 人伴四名
司養贍大使一員 馬世倬 人伴四名
管船夥長・直庫二名 孫光裕 維順利
水梢共に五十五名
右、執照は都通事魏崇仁等に附し、此れを准けしむ
嘉慶十四年(一八〇九)
注(1)司養贍大使 養贍は養育する、扶養するの意。漂着した中国人を護送する職務である。
(2)馬世倬 嘉慶十四年の司養贍大使。『宝案』では嘉慶三年の在船使者(巻八八)として名がみえる。
(3)孫光裕 乾隆四十六~咸豊三年(一七八一~一八五三)。久米系孫氏(大嶺家)六世。大嶺親雲上。嘉慶二十二年(一八一七)都通事、道光十五年(一八三五)正議大夫、同十六年申口座に陞る。同十八年には冊封の式典を無事終えたことから紫金大夫の位を頂戴し、里之子籍に陞っている。嘉慶八年に読書習礼のため、嘉慶十四年・道光五年に難民護送、道光十二年に都通事、同十八年に進貢および請封の使者として五度中国に渡っているほか、異国大夫、長史などを務め、道光二十二年には総理唐栄司を務めた(『家譜(二)』四四〇頁)。
(4)維順利 嘉慶十四年の難民護送の管船直庫。『宝案』では嘉慶二十年にも管船直庫(巻一一八)として名がみえる。