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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-101-15 世孫尚灝の、進貢のため耳目官楊克敦等を派遣するむねの符文(嘉慶十一《一八〇六》、八、七)
琉球国中山王世孫尚(灝)、進貢の事の為にす。
照得するに、敝国は世々天朝の洪恩に沐す。会典に遵依して二年一貢なること、欽遵して案に在り。
茲に嘉慶十一年の進貢の期に当たれば、特に耳目官楊克敦・正議大夫梁邦弼・都通事蔡肇業等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百を過ぎざるの員名を率領し、海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運し、両船に分載す。一船は礼字第一百八十四号、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載す。一船は礼字第一百八十五号、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載す。前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴きて聖禧を叩祝せんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ、各処の官軍の阻留して便ならざるを恐る。此れが為に理として合に、王府の礼字第一百八十三号の半印勘合符文一道を給発し、都通事蔡肇業等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海巡哨の官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得ること毋からしめよ。須らく符文に至るべき者なり。
計開
正使耳目官一員 楊克敦 人伴一十二名
副使正議大夫一員 梁邦弼 人伴一十二名
朝京都通事一員 蔡肇業 人伴七名
在船都通事二員 梁淵/梁躬 人伴八名
在船使者四員 向元麟 毛承順/向邦楫 武廷棟 人伴一十六名
存留通事一員 鄭克新 人伴六名
在船通事一員 金思明 人伴四名
管船火長・直庫四名 蔡世豪 慶賜福/林家樟 昂永泰
水梢共に一百二十名
右の符文は都通事蔡肇業等に付し、此れを准けしむ
嘉慶十一年(一八〇六)八月初七日
注(1)梁淵 乾隆十~嘉慶二十四年(一七四五~一八一九)。久米村系梁氏(古謝家)十三世。古謝親雲上。乾隆四十七年当座、嘉慶十一年中議大夫、二十年正議大夫、二十二年申口座に陞る。乾隆三十三年に読書習礼のため中国へ赴き、三十五年帰国。乾隆四十五年総官、五十年に再び読書習礼のため中国へ赴き、中華歌楽・雑戯などを学び五十三年に帰国。嘉慶十一年進貢頭号船の大通事、嘉慶十八年接貢の大通事として中国へ渡る。嘉慶二十年に美里間切古謝地頭職を授かる(『家譜(二)』八一六頁)。
(2)梁躬 乾隆九~嘉慶二十四年(一七四四~一八一九)。久米村系梁氏(国吉家)十三世。国吉里之子親雲上。乾隆三十七年通事、嘉慶二年中議大夫、十八年正議大夫、二十二年申口座に陞る。乾隆六十年接貢の存留通事、嘉慶十一年進貢二号船の通事、十七年進貢二号船の都通事を務めた。嘉慶十九年知念間切外間地頭職を授かる(『家譜(二)』八〇五頁)。
(3)毛承順 嘉慶十一年進貢の在船使者。『宝案』ではほかに嘉慶二十年接貢の在船使者として名がみえる(巻一一八)。
(4)向邦楫 嘉慶十一年進貢の在船使者。
(5)武廷棟 嘉慶十一年進貢の在船使者。『宝案』ではほかに嘉慶十九年進貢の在船使者として名がみえる(巻一一六)。
(6)鄭克新 乾隆二十二~道光二年(一七五七~一八二二)。久米村系鄭氏(宮城家)十六世。乾隆四十七年通事、嘉慶十二年中議大夫、二十一年正議大夫、二十三年申口座、道光元年紫金大夫に陞る。乾隆四十八年読書習礼のため中国に赴き、五十三年帰国。嘉慶十一年進貢の存留通事、十五年進貢の朝京都通事、二十年接貢の大通事、二十三年進貢の正議大夫を務めた。嘉慶七年父の跡を継ぎ南風原間切宮城地頭職、知行高四十石を授かる(『家譜(二)』六四三頁)。
(7)金思明 乾隆二十五~嘉慶二十五年(一七六〇~一八二〇)。久米村系金氏(目取真家)十三世。乾隆五十年通事、五十八年都通事、嘉慶十三年中議大夫に陞る。乾隆四十七年読書習礼のため中国に赴き、五十年帰国。嘉慶十一年進貢二号船の小通事(在船通事)、二十一年護送船の大通事(都通事)を務めた。乾隆五十八年父の家統を継ぎ大里間切目取真地頭職、知行高四十石を授かる(『家譜(二)』一二九頁)。
(8)蔡世豪 嘉慶十一年進貢の管船火長。『宝案』ではほかに嘉慶十三年冊封謝恩の王舅随帯通事として名が見える(巻一〇六)。
(9)林家樟 乾隆十六年(一七五一)~?。久米村系林氏(平安座家)五世。乾隆四十五年通事、嘉慶十三年都通事、道光七年中議大夫、九年正議大夫、十六年申口銜に陞る。乾隆四十三年読書習礼のため中国に赴き、四十七年帰国。嘉慶十一年進貢二号船の総官(管船火長)、二十五年進貢二号船の小通事(在船通事)を務めた(『家譜(二)』八七九頁)。『宝案』ではほかに道光十六年の結状に正議大夫として名がみえる(巻一六三)。
琉球国中山王世孫尚(灝)、進貢の事の為にす。
照得するに、敝国は世々天朝の洪恩に沐す。会典に遵依して二年一貢なること、欽遵して案に在り。
茲に嘉慶十一年の進貢の期に当たれば、特に耳目官楊克敦・正議大夫梁邦弼・都通事蔡肇業等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百を過ぎざるの員名を率領し、海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運し、両船に分載す。一船は礼字第一百八十四号、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載す。一船は礼字第一百八十五号、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載す。前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴きて聖禧を叩祝せんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ、各処の官軍の阻留して便ならざるを恐る。此れが為に理として合に、王府の礼字第一百八十三号の半印勘合符文一道を給発し、都通事蔡肇業等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海巡哨の官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得ること毋からしめよ。須らく符文に至るべき者なり。
計開
正使耳目官一員 楊克敦 人伴一十二名
副使正議大夫一員 梁邦弼 人伴一十二名
朝京都通事一員 蔡肇業 人伴七名
在船都通事二員 梁淵/梁躬 人伴八名
在船使者四員 向元麟 毛承順/向邦楫 武廷棟 人伴一十六名
存留通事一員 鄭克新 人伴六名
在船通事一員 金思明 人伴四名
管船火長・直庫四名 蔡世豪 慶賜福/林家樟 昂永泰
水梢共に一百二十名
右の符文は都通事蔡肇業等に付し、此れを准けしむ
嘉慶十一年(一八〇六)八月初七日
注(1)梁淵 乾隆十~嘉慶二十四年(一七四五~一八一九)。久米村系梁氏(古謝家)十三世。古謝親雲上。乾隆四十七年当座、嘉慶十一年中議大夫、二十年正議大夫、二十二年申口座に陞る。乾隆三十三年に読書習礼のため中国へ赴き、三十五年帰国。乾隆四十五年総官、五十年に再び読書習礼のため中国へ赴き、中華歌楽・雑戯などを学び五十三年に帰国。嘉慶十一年進貢頭号船の大通事、嘉慶十八年接貢の大通事として中国へ渡る。嘉慶二十年に美里間切古謝地頭職を授かる(『家譜(二)』八一六頁)。
(2)梁躬 乾隆九~嘉慶二十四年(一七四四~一八一九)。久米村系梁氏(国吉家)十三世。国吉里之子親雲上。乾隆三十七年通事、嘉慶二年中議大夫、十八年正議大夫、二十二年申口座に陞る。乾隆六十年接貢の存留通事、嘉慶十一年進貢二号船の通事、十七年進貢二号船の都通事を務めた。嘉慶十九年知念間切外間地頭職を授かる(『家譜(二)』八〇五頁)。
(3)毛承順 嘉慶十一年進貢の在船使者。『宝案』ではほかに嘉慶二十年接貢の在船使者として名がみえる(巻一一八)。
(4)向邦楫 嘉慶十一年進貢の在船使者。
(5)武廷棟 嘉慶十一年進貢の在船使者。『宝案』ではほかに嘉慶十九年進貢の在船使者として名がみえる(巻一一六)。
(6)鄭克新 乾隆二十二~道光二年(一七五七~一八二二)。久米村系鄭氏(宮城家)十六世。乾隆四十七年通事、嘉慶十二年中議大夫、二十一年正議大夫、二十三年申口座、道光元年紫金大夫に陞る。乾隆四十八年読書習礼のため中国に赴き、五十三年帰国。嘉慶十一年進貢の存留通事、十五年進貢の朝京都通事、二十年接貢の大通事、二十三年進貢の正議大夫を務めた。嘉慶七年父の跡を継ぎ南風原間切宮城地頭職、知行高四十石を授かる(『家譜(二)』六四三頁)。
(7)金思明 乾隆二十五~嘉慶二十五年(一七六〇~一八二〇)。久米村系金氏(目取真家)十三世。乾隆五十年通事、五十八年都通事、嘉慶十三年中議大夫に陞る。乾隆四十七年読書習礼のため中国に赴き、五十年帰国。嘉慶十一年進貢二号船の小通事(在船通事)、二十一年護送船の大通事(都通事)を務めた。乾隆五十八年父の家統を継ぎ大里間切目取真地頭職、知行高四十石を授かる(『家譜(二)』一二九頁)。
(8)蔡世豪 嘉慶十一年進貢の管船火長。『宝案』ではほかに嘉慶十三年冊封謝恩の王舅随帯通事として名が見える(巻一〇六)。
(9)林家樟 乾隆十六年(一七五一)~?。久米村系林氏(平安座家)五世。乾隆四十五年通事、嘉慶十三年都通事、道光七年中議大夫、九年正議大夫、十六年申口銜に陞る。乾隆四十三年読書習礼のため中国に赴き、四十七年帰国。嘉慶十一年進貢二号船の総官(管船火長)、二十五年進貢二号船の小通事(在船通事)を務めた(『家譜(二)』八七九頁)。『宝案』ではほかに道光十六年の結状に正議大夫として名がみえる(巻一六三)。