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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-88-25 世孫尚温の、進貢のため耳目官向国垣等を派遣するむねの符文(嘉慶三《一七九八》)
琉球国中山王世孫尚(温)、進貢の事の為にす。
照得するに、敝国は世々天朝の洪恩に沐す。会典に遵依して二年一貢なること、欽遵して案に在り。茲に嘉慶三年進貢の期に当たり、謹んで耳目官向国垣・正議大夫曾謨・都通事鄭章観等を遣わし、表章を齎捧し、官伴・水梢共に二百を過ぎざるの員名を率領し、海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運し、並びに太上皇帝の御前に進める請安の礼物、銀攢盒二具-黒漆画盆各全・細嫩素光蕉布五十疋・染花棉布五十疋・囲屏紙二千張・護寿紙二千張・精製雅扇一百把を両船に分載し、一船は礼字第一百六十号、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔・銀攢盒二具-黒漆画盆各全・細嫩素光蕉布五十疋・染花棉布五十疋・囲屏紙二千張・護寿紙二千張・精製雅扇一百把を装載し、一船は礼字第一百六十一号、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載して、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴きて聖禧曁び聖安を叩祝せんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に王府、礼字第一百五十九号の半印勘合符文一道を給発し、都通事鄭章観等に付し収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得ること毋からしめよ。須らく符文に至るべき者なり。
計開
正使耳目官一員 向国垣 人伴一十二名
副使正議大夫一員 曾謨 人伴一十二名
朝京都通事一員 鄭章観 人伴七名
在船都通事二員 王成教/金堅 人伴八名
在船使者四員 豊承祐 馬世倬/孟宸栄 雍思明 人伴一十六名
存留通事一員 毛廷器 人伴六名
在船通事一員 鄭長禧 人伴四名
管船火長・直庫四名 鄭文洙 馮景福/阮世昌 慶安全
水稍共
右の符文は都通事鄭章観等に付し、此れを准けしむ
嘉慶三年(一七九八)
注(1)王成教 久米系王氏。国場里之子親雲上。『宝案』では嘉慶七年の在船都通事、嘉慶八年の進貢二号船都通事として名がみえる。
(2)豊承祐 原文は「禮子祐」だが校訂本頭注で「豊承ノ誤カ」とあり、次の執照にも豊承祐とある。豊氏は首里系。曾謨の譜に「才府豊承祐翁長里之子親雲上」とあるが、それか(『家譜(二)』四〇一頁)。才府は在船使者にあたる。
(3)馬世倬 嘉慶三年の在船使者。『宝案』では嘉慶十四年の司養贍大使として名がみえる。
(4)毛廷器 一七五四~一八一六年(乾隆十九~嘉慶二十一)。久米系毛氏(普久嶺家)六世。兼本里之子親雲上、のちに普久嶺親方。乾隆四十一年に読書習礼のため福建に赴く。嘉慶三年に存留通事、九年進貢の朝京都通事、十三年接貢の都通事、十七年進貢の正議大夫として中国に渡る。嘉慶五年冊封のとき承応所などの職を勤め、十三年の冊封の際にも仮長史として使節と対応した。嘉慶十二年に正議大夫、十五年申口座に陞り、十六年羽地間切伊佐川地頭、二十年真和志間切与儀地頭となる(毛氏家譜)。
(5)鄭長禧 嘉慶三年の在船通事。宇地原里之子親雲上(『家譜(二)』三三四頁、蔡任貴の譜)。
琉球国中山王世孫尚(温)、進貢の事の為にす。
照得するに、敝国は世々天朝の洪恩に沐す。会典に遵依して二年一貢なること、欽遵して案に在り。茲に嘉慶三年進貢の期に当たり、謹んで耳目官向国垣・正議大夫曾謨・都通事鄭章観等を遣わし、表章を齎捧し、官伴・水梢共に二百を過ぎざるの員名を率領し、海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運し、並びに太上皇帝の御前に進める請安の礼物、銀攢盒二具-黒漆画盆各全・細嫩素光蕉布五十疋・染花棉布五十疋・囲屏紙二千張・護寿紙二千張・精製雅扇一百把を両船に分載し、一船は礼字第一百六十号、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔・銀攢盒二具-黒漆画盆各全・細嫩素光蕉布五十疋・染花棉布五十疋・囲屏紙二千張・護寿紙二千張・精製雅扇一百把を装載し、一船は礼字第一百六十一号、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載して、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴きて聖禧曁び聖安を叩祝せんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に王府、礼字第一百五十九号の半印勘合符文一道を給発し、都通事鄭章観等に付し収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得ること毋からしめよ。須らく符文に至るべき者なり。
計開
正使耳目官一員 向国垣 人伴一十二名
副使正議大夫一員 曾謨 人伴一十二名
朝京都通事一員 鄭章観 人伴七名
在船都通事二員 王成教/金堅 人伴八名
在船使者四員 豊承祐 馬世倬/孟宸栄 雍思明 人伴一十六名
存留通事一員 毛廷器 人伴六名
在船通事一員 鄭長禧 人伴四名
管船火長・直庫四名 鄭文洙 馮景福/阮世昌 慶安全
水稍共
右の符文は都通事鄭章観等に付し、此れを准けしむ
嘉慶三年(一七九八)
注(1)王成教 久米系王氏。国場里之子親雲上。『宝案』では嘉慶七年の在船都通事、嘉慶八年の進貢二号船都通事として名がみえる。
(2)豊承祐 原文は「禮子祐」だが校訂本頭注で「豊承ノ誤カ」とあり、次の執照にも豊承祐とある。豊氏は首里系。曾謨の譜に「才府豊承祐翁長里之子親雲上」とあるが、それか(『家譜(二)』四〇一頁)。才府は在船使者にあたる。
(3)馬世倬 嘉慶三年の在船使者。『宝案』では嘉慶十四年の司養贍大使として名がみえる。
(4)毛廷器 一七五四~一八一六年(乾隆十九~嘉慶二十一)。久米系毛氏(普久嶺家)六世。兼本里之子親雲上、のちに普久嶺親方。乾隆四十一年に読書習礼のため福建に赴く。嘉慶三年に存留通事、九年進貢の朝京都通事、十三年接貢の都通事、十七年進貢の正議大夫として中国に渡る。嘉慶五年冊封のとき承応所などの職を勤め、十三年の冊封の際にも仮長史として使節と対応した。嘉慶十二年に正議大夫、十五年申口座に陞り、十六年羽地間切伊佐川地頭、二十年真和志間切与儀地頭となる(毛氏家譜)。
(5)鄭長禧 嘉慶三年の在船通事。宇地原里之子親雲上(『家譜(二)』三三四頁、蔡任貴の譜)。