琉球王国交流史・近代沖縄史料デジタルアーカイブ

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資料詳細

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2-83-19 世孫尚温の、接貢のため都通事鄭天眷等を派遣するむねの執照(乾隆六十《一七九五》、十一、七)
琉球国中山王世孫尚(温)勅書を恭迎し、併びに使臣を接回する事の為にす。
照得するに、敝国、業に乾隆五十九年冬に於て貢使の耳目官向文鳳・正議大夫鄭作霖等を遣わし、表章・方物を齎捧して天朝に入貢す。経に敝国、福建等処承宣布政使司に移咨し、起送して京に赴き、聖禧を叩祝せんとして案に在り。
茲に還国の期に当たり、例として応に船を撥して接回すべし。此れが為に特に都通事鄭天眷等を遣わし、梢役共に八十九員名を帯領し、海船一隻に坐駕し、福建に前み至り、皇上の勅書・欽賞の幣帛を恭迎し、併びに京回の使臣向文鳳・鄭作霖・曾謨を接り、在閩の存留通事鄭永泰等と与に還国せしむ。
但だ差する所の員役は、文慿無ければ、以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に王府、礼字第一百五十三号の半印勘合執照一道を給発し、存留通事梁躬等に付し収執して前去せしむ。凡所の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して阻滞するを得ること毋からしめよ。須らく執照に至るべき者なり。
計開
在船都通事一員 鄭天眷 跟伴四名
在船使者二員 向為旭/阿思明 跟伴八名
存留通事一員 梁躬 跟伴六名
管船夥長・直庫二名 鄭国鼐 昂永基
水梢共に六十五名
右の執照は存留通事梁躬等に付し、此れを准けしむ
乾隆六十年(一七九五)十一月初七日

注(1)梁躬 一七四四~一八一九年。久米系梁氏(国吉家)十三世。国吉里之子親雲上。乾隆六十年の存留通事。嘉慶元年四月に那覇を出た船は海賊に襲われて一度那覇に引き返し、再出発したときもまた海賊に襲われるが無事任務を果たして帰国した。この功により嘉慶二年中議大夫、十八年正議大夫に陞る(『家譜(二)』八〇五頁)。
(2)向為旭 桑江親雲上。乾隆五十三年、六十年に在船使者として中国に渡る。乾隆六十年の渡航のときの海賊撃退の功により、申口座に陞る(『家譜(四)』二一五頁、昂永基の譜、参照)。
(3)阿思明 山元筑登之親雲上。『宝案』では乾隆六十・嘉慶五年の在船使者として名がみえる。
(4)鄭国鼐 宇地原里之子親雲上。乾隆六十年の進貢船の火長。このときの海賊撃退の功により当座敷に陞る(『家譜(四)』二一五頁、昂永基の譜、参照)。
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