琉球王国交流史・近代沖縄史料デジタルアーカイブ

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資料詳細

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2-79-17 国王尚穆の、進貢のため紫巾官毛国棟等を派遣するむねの符文(乾隆五十七《一七九二》、十一、十九)
琉球国中山王尚(穆)、進貢し兼ねて天恩に謝する事の為にす。
照得するに、本爵、世々天朝の洪恩に沐す。会典に遵依して二年一貢なること、欽遵して案に在り。茲に乾隆五十七年の進貢の期に当たり、特に紫巾官毛国棟・正議大夫毛廷柱・都通事鄭文英等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百を過ぎざるの員名を率領し、海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔、并びに謝恩の礼物の金亀形一対-銀座各全・銀攢盒二具-漆彩画盆各全・銅火盆十個-漆彩画座各全・銅水鑵十個・染花土紬五十疋・染花苧布五十疋・細嫩素光蕉布五十疋・精彩画囲屏大小二対・護寿紙五千張・精製雅扇二百把を装運し、両船に分載す。一船は礼字第一百四十五号、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔・金亀形一対-銀座各全・銀攢盒二具-漆彩画盆各全・銅火盆十個-漆彩画座各全・銅水鑵十個・染花土紬五十疋・染花苧布五十疋・細嫩素光蕉布五十疋・精彩画囲屏大小二対・護寿紙五千張・精製雅扇二百把を装載し、一船は礼字第一百四十六号、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴きて聖禧を叩祝し兼ねて天恩に謝せんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ、以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に王府、礼字第一百四十四号の半印勘合符文一道を給発し、都通事鄭文英等に附し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難し遅悞するを得ること毋からしめよ。須らく符文に至るべき者なり。
計開
正使紫巾官一員  毛国棟 人伴一十七名
副使正議大夫一員 毛廷柱 人伴一十二名
朝京都通事一員  鄭文英 人伴六名
在船都通事二員  梁允功/陳宏毅 人伴八名
在船使者四員   武祥端 毛維正/向廸仁 向承功 人伴十六名
存留通事一員   梁煥  人伴六名
在船通事一員   阮翼  人伴四名
管船火長・直庫四名 林家柏 馮永昌/揚式儀 慶永全
水梢共に一百一十六名
右の符文は都通事鄭文英等に付し、此れを准けしむ
乾隆五十七年(一七九二)十一月十九日

注(1)半印勘合符文 琉球よりの使節であることを証明する割り印をおした証明書。符文は琉球側が京師に赴く朝貢使節に対して発給した証明書。
(2)梁允功 久米系梁氏。安慶名親雲上。『宝案』では嘉慶三年の具結状で長史として、嘉慶四年在船通事、五年都通事、嘉慶八年正議大夫として名がみえる。
(3)陳宏毅 陳弘毅。のちに「弘」の字の使用が禁止されたため「宏毅」に改める。一七三七~九四年(乾隆二~五十九)。久米系陳氏(仲本家)十二世。仲本通事親雲上。乾隆三十九年に漢字御右筆となり座敷位に陞る。四十四年接貢船の存留通事、五十七年進貢謝恩の二号船の都通事として中国に渡る(『家譜(二)』四九六頁)。
(4)毛維正 一七四〇~九四年(乾隆五~五十九)。首里系毛氏。座喜味里之子親雲上盛方。乾隆五十三年御用意方中取職、五十七年進貢船の在船使者(家譜では官舎)に任ぜられ、中国に渡っている。帰途、五虎門を出て船が難破、損傷し、中国船を借り受けて帰ったこと、乗員八四員名に撫恤品(折銀)が下賜されたことが家譜に記されている(『家譜(三)』七三一頁)。
(5)梁煥 久米系梁氏。安仁屋親雲上。乾隆五十七年に存留通事、嘉慶元年に都通事、四年に接封の正議大夫、同七年には進貢の正議大夫として中国に赴く(『世譜』『家譜(二)』三三四頁、蔡任貴の譜、参照)。なお「煥」の字、校訂本は「渙」だが〔七九-一八〕の執照及び家譜では「煥」。
(6)阮翼 一七四二~一八一九年(乾隆七~嘉慶二十四)。久米系阮氏(𤘩宮城家)七世。𤘩宮城里之子親雲上。乾隆三十一年読書習礼のため閩に赴き三年間滞在。乾隆五十七年進貢の二号船の脇通事、嘉慶二年接貢の都通事、五年正議大夫として中国に渡る。嘉慶五年本部間切浦崎の地頭職を授けられ、十一年久米村総横目になる。嘉慶二年接貢の帰途、六月に五虎門を出発するが、薩摩の山川に漂着、帰国は十月であった。またこのとき、公務のほか、嘉慶五年に予定されている冊封の大典に備えて、前存留通事の王崇達とともに歓待の礼や諸帖手本の式など学んだことが家譜に記されている(『家譜(二)』一六二頁)。
(7)林家柏 一七四六~九七年。久米系林氏(平安座家)五世。新垣通事親雲上。乾隆五十七年の頭号船総管(『家譜(二)』八七九頁)。
(8)揚 楊か。〔七九-一九〕の執照では「楊」。
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