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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-73-11 琉球国中山王尚穆の、乾隆四十九年の進貢のため、都通事林維新等に付した符文(乾隆五十一《一七八六》、十一、二)
琉球国中山王尚(穆)、進貢の事の為にす。
照らし得たるに、本爵、世天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年一貢し、欽遵して案に在り。
茲に乾隆五十一年の進貢の期に当たれば、特に耳目官翁秉儀・正議大夫阮廷宝・都通事林維新等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百を過ぎざるの員名を率領し、海船二隻に坐駕せしめ、煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運して両船に分載す。一船の礼字第一百三十三号には煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、一船の礼字第一百三十四号には煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き叩きて聖禧を祝らしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に、王府の礼字第一百三十二号半印勘合の符文一道を給発し、都通事林維新等に附し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。
須らく符文に至るべき者なり
計開す
正使耳目官一員 翁秉儀 人伴一十二名
副使正議大夫一員 阮廷宝 人伴一十二名
朝京都通事一員 林維新 人伴七名
在船都通事二員 阮成善/陳天龍 人伴八名
在船使者四員 翁天保 毛必揚/経邦俊 松明思 人伴一十六名
存留通事一員 鄭章観 人伴六名
在船通事一員 鄭文英 人伴四名
管船火長・直庫四名 梁邦弼 慶全保/魏用礪 紹文光
水梢共に一百二十名
右の符文は都通事林維新等に付し、此れを准けしむ
乾隆五十一年(一七八六)十一月初二日
注(1)阮成善 真玉橋里之子親雲上(『家譜(二)』三三一頁、蔡任徳の譜)。乾隆五十一年の在船都通事。『宝案』では乾隆五十八年の在船都通事(巻八〇)、嘉慶三年の結状に正議大夫(巻八八)としても名がみえる。
(2)翁天保 乾隆五十一年の在船使者。
(3)経邦俊 乾隆五十一年の在船使者。
(4)松明思 乾隆五十一年の在船使者。
(5)鄭章観 屋部親雲上(『家譜(二)』三八頁、魏善継の譜)、のちに屋富祖親方(『家譜(二)』六二七頁、鄭嘉訓の譜)と称した。『宝案』では乾隆五十五年・嘉慶三年の朝京都通事(巻七七・八八)、嘉慶十一年の結状に紫金大夫(巻一〇一)、十三年の冊封謝恩の副使紫金大夫(巻一〇四)としても名がみえる。
(6)鄭文英 ?~乾隆五十八年(一七九三)。大嶺親雲上。『宝案』では乾隆五十八年の朝京都通事(巻七九)としても名がみえる。乾隆五十八年に北京へ赴く途中、病没(『家譜(二)』六二六頁、鄭嘉謨の譜)。鄭文英の墓は江蘇省淮安市淮陰区にある。
(7)魏用礪 乾隆元~嘉慶十年(一七三六~一八〇五)。久米村系魏氏(高嶺家)七世(『魏姓家譜 小宗 高嶺家』)。乾隆五十一年の管船火長。
琉球国中山王尚(穆)、進貢の事の為にす。
照らし得たるに、本爵、世天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年一貢し、欽遵して案に在り。
茲に乾隆五十一年の進貢の期に当たれば、特に耳目官翁秉儀・正議大夫阮廷宝・都通事林維新等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百を過ぎざるの員名を率領し、海船二隻に坐駕せしめ、煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運して両船に分載す。一船の礼字第一百三十三号には煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、一船の礼字第一百三十四号には煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き叩きて聖禧を祝らしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に、王府の礼字第一百三十二号半印勘合の符文一道を給発し、都通事林維新等に附し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。
須らく符文に至るべき者なり
計開す
正使耳目官一員 翁秉儀 人伴一十二名
副使正議大夫一員 阮廷宝 人伴一十二名
朝京都通事一員 林維新 人伴七名
在船都通事二員 阮成善/陳天龍 人伴八名
在船使者四員 翁天保 毛必揚/経邦俊 松明思 人伴一十六名
存留通事一員 鄭章観 人伴六名
在船通事一員 鄭文英 人伴四名
管船火長・直庫四名 梁邦弼 慶全保/魏用礪 紹文光
水梢共に一百二十名
右の符文は都通事林維新等に付し、此れを准けしむ
乾隆五十一年(一七八六)十一月初二日
注(1)阮成善 真玉橋里之子親雲上(『家譜(二)』三三一頁、蔡任徳の譜)。乾隆五十一年の在船都通事。『宝案』では乾隆五十八年の在船都通事(巻八〇)、嘉慶三年の結状に正議大夫(巻八八)としても名がみえる。
(2)翁天保 乾隆五十一年の在船使者。
(3)経邦俊 乾隆五十一年の在船使者。
(4)松明思 乾隆五十一年の在船使者。
(5)鄭章観 屋部親雲上(『家譜(二)』三八頁、魏善継の譜)、のちに屋富祖親方(『家譜(二)』六二七頁、鄭嘉訓の譜)と称した。『宝案』では乾隆五十五年・嘉慶三年の朝京都通事(巻七七・八八)、嘉慶十一年の結状に紫金大夫(巻一〇一)、十三年の冊封謝恩の副使紫金大夫(巻一〇四)としても名がみえる。
(6)鄭文英 ?~乾隆五十八年(一七九三)。大嶺親雲上。『宝案』では乾隆五十八年の朝京都通事(巻七九)としても名がみえる。乾隆五十八年に北京へ赴く途中、病没(『家譜(二)』六二六頁、鄭嘉謨の譜)。鄭文英の墓は江蘇省淮安市淮陰区にある。
(7)魏用礪 乾隆元~嘉慶十年(一七三六~一八〇五)。久米村系魏氏(高嶺家)七世(『魏姓家譜 小宗 高嶺家』)。乾隆五十一年の管船火長。