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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
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- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
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- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-71-12 琉球国中山王尚穆の、乾隆四十九年の進貢のため、都通事鄭作霖(楊文元)等に付した符文(乾隆四十九《一七八四》)
琉球国中山王尚(穆)、進貢の事の為にす。
照らし得たるに、本爵、世天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年一貢し、欽遵して案に在り。
茲に乾隆四十九年の進貢の期に当たれば、特に耳目官向猷・正議大夫毛景裕・都通事鄭作霖等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百を過ぎざるの員名を率領し海船二隻に坐駕せしめ、煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運して両船に分載す。一船の礼字第一百二十八号には煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、一船の礼字第一百二十九号には煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き叩きて聖禧を祝らしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に、王府の礼字第一百二十七号半印勘合の符文一道を給発し、都通事鄭作霖等に附し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。
須らく符文に至るべき者なり。
計開す
正使耳目官一員 向猷 人伴一十二名
副使正議大夫一員 毛景裕 人伴一十二名
朝京都通事一員 鄭作霖 人伴七名
在船都通事二員 陳長策/梁廷輔 人伴八名
在船使者四員 向廸仁 毛必揚/麻景長 斉光祖人伴一十六名
存留通事一員 梁選 人伴六名
在船通事一員 紅之謙 人伴四名
管船火長・直庫四名 梁元恕 我得福/孫惟仁 慶自長
水梢共に
右の符文は都通事鄭作霖等に付し、此れを准けしむ
乾隆四十九年(一七八四)
注*乾隆四十九年の進貢使節は、鎌倉本(校訂本の底本)と県図本・台湾本では正副使以外の人名に異同がみられる。その理由は不明だが、家譜やその他の資料により、実際に渡唐したのは県図本・台湾本に示された人物たちであったことが分かる。本冊では、校訂本(底本は鎌倉本)通りとするが、県図本・台湾本の人名は以下の通り。
正使耳目官一員 向猷 人伴一十二名
副使正議大夫一員 毛景裕 人伴一十二名
朝京都通事一員 楊文元 人伴七名
在船都通事二員 阮駿/鄭国枢 人伴八名
在船使者四員 殷宗綱 毛虞輔/柯維茂 翁彦俊 人伴一十六名
存留通事一員 蔡世彦 人伴六名
在船通事一員 毛宣猷 人伴四名
管船火長・直庫四名 鄭汝休 慶全保/蔡任邦 紹文光
水梢共に
右の符文は都通事楊文元等に付し、此れを准けしむ
乾隆四十九年(一七八四)十一月初二日 給す
(1)毛必揚 楚南親雲上盛義(『久米毛氏家譜』一四四頁、毛致志の譜)。乾隆四十九年の在船使者。『宝案』では乾隆五十一年、五十五年の在船使者(巻七三・七五)としても名がみえる。
(2)麻景長 渡慶次里之子親雲上真義(『家譜(二)』二三〇頁、紅日昂の譜)。乾隆四十九年の在船使者。『宝案』では乾隆五十二年の在船使者(巻七三)としても名がみえる。
(3)斉光祖 康煕五十九年(一七二〇)~?。首里系斉氏(普天間家)七世。名嘉山親雲上完専。乾隆三十八年勢頭座敷、三十九年座敷、五十六年申口座に陞る。御用意中取、琉仮屋倉廋使などを経て乾隆四十九年の小唐船官舎として中国へ赴く。乾隆五十二年に越来間切名嘉山の名島、五十五年に知念間切外間地頭職を授かる(『斉姓家譜 大宗 普天間家』)。
(4)梁選 国吉里之子親雲上(『家譜(二)』六二六頁、鄭嘉謨の譜)。乾隆四十九年の存留通事。『宝案』では乾隆五十二年の存留通事(巻七三)としても名がみえる。
(5)梁元恕 富山通事親雲上か(『家譜(二)』六一一頁、鄭宏謨の譜)。乾隆四十九年の管船火長。『宝案』では乾隆五十三年の管船火長(巻七五)としても名がみえる。
(6)我得福 乾隆四十九年の管船直庫。
(7)慶自長 乾隆四十九年の管船直庫。
(8)阮駿 雍正二~嘉慶十六年(一七二四~一八一一)。久米村系阮氏(𤘩宮城家)六世。乾隆二十年当座、二十八年座敷、五十一年中議大夫、嘉慶四年正議大夫、五年申口座に陞る。乾隆五年に小禄間切𤘩宮城地頭職を授かる。乾隆十二年に勤学として福州へ赴き、十五年帰国。乾隆四十九年の頭号船大通事を務める(『家譜(二)』一六一頁)。
(9)殷宗綱 乾隆四十九年の在船使者。
(10)毛虞輔 乾隆四十九年の在船使者。『宝案』では乾隆五十三年の在船使者(巻七五)としても名がみえる。
(11)柯維茂 乾隆四十九年の在船使者。
(12)翁彦俊 乾隆四十九年の在船使者。
(13)蔡世彦 ?~乾隆五十九年(一七九四)。高良里之子親雲上(『家譜(四)』二二〇頁、昻文炳の譜)。乾隆四十九年の存留通事。五十八年四月、沈没した進貢船の代替として借りた中国商船を返すため、都通事として福州に向かうが(巻八二)、暴風および賊船に襲われ、貨物はもとより衣服までことごとく奪われている。中国の哨船数十隻に救護され世彦らは難を逃れて福州に到着し、皇帝の諭旨により賠償銀を与えられた(巻八六)。その後、福州で病没(『世譜』一七三頁)。
(14)毛宣猷 乾隆十~嘉慶六年(一七四五~一八〇一)。久米村系毛氏(与世山家)六世。与世山親方。後に島津斉宣の名の一字(「宣」)を避諱し「毛廷柱」に改めた。乾隆三十七年当座敷、四十三年都通事、嘉慶三年紫金大夫に陞る。乾隆三十八年に勤学として福州へ赴き、四十四年帰国。四十九年在船通事、五十七年正議大夫、嘉慶元年慶賀の正議大夫として中国へ渡る。乾隆五十一年に南風原間切喜屋武地頭職、嘉慶二年に東風平間切友寄地頭職を授かる(『家譜(二)』七二一頁)。
(15)鄭汝休 乾隆四十九年の管船火長。
(16)慶全保 乾隆五十一年の管船直庫。『宝案』では乾隆五十三年、五十五年の管船直庫(巻七五・七七)としても名がみえる。
(17)蔡任邦 乾隆十二~五十九年(一七四七~九四)。久米村系蔡氏(仲井真家)十三世。仲井真里之子親雲上。乾隆五十一年遏達理座に陞る。四十一年に勤学として福州に赴き、四十三年帰国。乾隆四十九年の進貢二号船総管、五十二年の接貢総管を務める(『家譜(二)』三三二頁)。
(18)紹文光 乾隆四十九年の管船直庫。『宝案』では乾隆五十一年、五十三年、五十五年の管船直庫(巻七三・七五・七七)としても名がみえる。
琉球国中山王尚(穆)、進貢の事の為にす。
照らし得たるに、本爵、世天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年一貢し、欽遵して案に在り。
茲に乾隆四十九年の進貢の期に当たれば、特に耳目官向猷・正議大夫毛景裕・都通事鄭作霖等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百を過ぎざるの員名を率領し海船二隻に坐駕せしめ、煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運して両船に分載す。一船の礼字第一百二十八号には煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、一船の礼字第一百二十九号には煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き叩きて聖禧を祝らしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に、王府の礼字第一百二十七号半印勘合の符文一道を給発し、都通事鄭作霖等に附し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。
須らく符文に至るべき者なり。
計開す
正使耳目官一員 向猷 人伴一十二名
副使正議大夫一員 毛景裕 人伴一十二名
朝京都通事一員 鄭作霖 人伴七名
在船都通事二員 陳長策/梁廷輔 人伴八名
在船使者四員 向廸仁 毛必揚/麻景長 斉光祖人伴一十六名
存留通事一員 梁選 人伴六名
在船通事一員 紅之謙 人伴四名
管船火長・直庫四名 梁元恕 我得福/孫惟仁 慶自長
水梢共に
右の符文は都通事鄭作霖等に付し、此れを准けしむ
乾隆四十九年(一七八四)
注*乾隆四十九年の進貢使節は、鎌倉本(校訂本の底本)と県図本・台湾本では正副使以外の人名に異同がみられる。その理由は不明だが、家譜やその他の資料により、実際に渡唐したのは県図本・台湾本に示された人物たちであったことが分かる。本冊では、校訂本(底本は鎌倉本)通りとするが、県図本・台湾本の人名は以下の通り。
正使耳目官一員 向猷 人伴一十二名
副使正議大夫一員 毛景裕 人伴一十二名
朝京都通事一員 楊文元 人伴七名
在船都通事二員 阮駿/鄭国枢 人伴八名
在船使者四員 殷宗綱 毛虞輔/柯維茂 翁彦俊 人伴一十六名
存留通事一員 蔡世彦 人伴六名
在船通事一員 毛宣猷 人伴四名
管船火長・直庫四名 鄭汝休 慶全保/蔡任邦 紹文光
水梢共に
右の符文は都通事楊文元等に付し、此れを准けしむ
乾隆四十九年(一七八四)十一月初二日 給す
(1)毛必揚 楚南親雲上盛義(『久米毛氏家譜』一四四頁、毛致志の譜)。乾隆四十九年の在船使者。『宝案』では乾隆五十一年、五十五年の在船使者(巻七三・七五)としても名がみえる。
(2)麻景長 渡慶次里之子親雲上真義(『家譜(二)』二三〇頁、紅日昂の譜)。乾隆四十九年の在船使者。『宝案』では乾隆五十二年の在船使者(巻七三)としても名がみえる。
(3)斉光祖 康煕五十九年(一七二〇)~?。首里系斉氏(普天間家)七世。名嘉山親雲上完専。乾隆三十八年勢頭座敷、三十九年座敷、五十六年申口座に陞る。御用意中取、琉仮屋倉廋使などを経て乾隆四十九年の小唐船官舎として中国へ赴く。乾隆五十二年に越来間切名嘉山の名島、五十五年に知念間切外間地頭職を授かる(『斉姓家譜 大宗 普天間家』)。
(4)梁選 国吉里之子親雲上(『家譜(二)』六二六頁、鄭嘉謨の譜)。乾隆四十九年の存留通事。『宝案』では乾隆五十二年の存留通事(巻七三)としても名がみえる。
(5)梁元恕 富山通事親雲上か(『家譜(二)』六一一頁、鄭宏謨の譜)。乾隆四十九年の管船火長。『宝案』では乾隆五十三年の管船火長(巻七五)としても名がみえる。
(6)我得福 乾隆四十九年の管船直庫。
(7)慶自長 乾隆四十九年の管船直庫。
(8)阮駿 雍正二~嘉慶十六年(一七二四~一八一一)。久米村系阮氏(𤘩宮城家)六世。乾隆二十年当座、二十八年座敷、五十一年中議大夫、嘉慶四年正議大夫、五年申口座に陞る。乾隆五年に小禄間切𤘩宮城地頭職を授かる。乾隆十二年に勤学として福州へ赴き、十五年帰国。乾隆四十九年の頭号船大通事を務める(『家譜(二)』一六一頁)。
(9)殷宗綱 乾隆四十九年の在船使者。
(10)毛虞輔 乾隆四十九年の在船使者。『宝案』では乾隆五十三年の在船使者(巻七五)としても名がみえる。
(11)柯維茂 乾隆四十九年の在船使者。
(12)翁彦俊 乾隆四十九年の在船使者。
(13)蔡世彦 ?~乾隆五十九年(一七九四)。高良里之子親雲上(『家譜(四)』二二〇頁、昻文炳の譜)。乾隆四十九年の存留通事。五十八年四月、沈没した進貢船の代替として借りた中国商船を返すため、都通事として福州に向かうが(巻八二)、暴風および賊船に襲われ、貨物はもとより衣服までことごとく奪われている。中国の哨船数十隻に救護され世彦らは難を逃れて福州に到着し、皇帝の諭旨により賠償銀を与えられた(巻八六)。その後、福州で病没(『世譜』一七三頁)。
(14)毛宣猷 乾隆十~嘉慶六年(一七四五~一八〇一)。久米村系毛氏(与世山家)六世。与世山親方。後に島津斉宣の名の一字(「宣」)を避諱し「毛廷柱」に改めた。乾隆三十七年当座敷、四十三年都通事、嘉慶三年紫金大夫に陞る。乾隆三十八年に勤学として福州へ赴き、四十四年帰国。四十九年在船通事、五十七年正議大夫、嘉慶元年慶賀の正議大夫として中国へ渡る。乾隆五十一年に南風原間切喜屋武地頭職、嘉慶二年に東風平間切友寄地頭職を授かる(『家譜(二)』七二一頁)。
(15)鄭汝休 乾隆四十九年の管船火長。
(16)慶全保 乾隆五十一年の管船直庫。『宝案』では乾隆五十三年、五十五年の管船直庫(巻七五・七七)としても名がみえる。
(17)蔡任邦 乾隆十二~五十九年(一七四七~九四)。久米村系蔡氏(仲井真家)十三世。仲井真里之子親雲上。乾隆五十一年遏達理座に陞る。四十一年に勤学として福州に赴き、四十三年帰国。乾隆四十九年の進貢二号船総管、五十二年の接貢総管を務める(『家譜(二)』三三二頁)。
(18)紹文光 乾隆四十九年の管船直庫。『宝案』では乾隆五十一年、五十三年、五十五年の管船直庫(巻七三・七五・七七)としても名がみえる。