{{ryu_data.f5}}
資料詳細
- 資料ID.
- {{ryu_data.f32}}
- 資料種別
- {{ryu_data.f5}}
- 資料名
- {{ryu_data.f7}}
- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
- {{ryu_data.f30}}
- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
- {{ryu_data.f13}}年 {{ryu_data.f14}}月 {{ryu_data.f15}}日
- 曜日
- {{ryu_data.f16}}
- 差出
- {{ryu_data.f21}}
- 宛先
- {{ryu_data.f22}}
- 文書形式
- {{ryu_data.f26}}
- 書誌情報
- {{ryu_data.f27}}
- 関連サイト情報
- {{item.site}}
- 訂正履歴
- {{ryu_data.f24}}
- 備考
- {{ryu_data.f33}}
テキスト
2-64-14 琉球国中山王尚穆の、乾隆四十三年の進貢のため、都通事梁廷枢等に付した符文(乾隆四十三《一七七八》、十一、六)
琉球国中山王尚(穆)、進貢の事の為にす。
照らし得たるに、本爵、世天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年一貢し、欽遵して案に在り。
茲に乾隆四十三年の進貢の期に当たれば、特に耳目官金有華・正議大夫蔡煥・都通事梁廷枢等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百を過ぎざるの員名を率領し海船二隻に坐駕せしめ、煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運して両船に分載す。一船の礼字第一百十五号には煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、一船の礼字第一百十六号には煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き叩きて聖禧を祝らしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に、王府の礼字第一百十四号半印勘合の符文一道を給発し、都通事梁廷枢等に附し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。
須らく符文に至るべき者なり。
計開す
正使耳目官一員 金有華 人伴一十二名
副使正議大夫一員 蔡煥 人伴一十二名
朝京都通事一員 梁廷枢 人伴七名
在船都通事二員 鄭維翰/鄭維興 人伴八名
在船使者四員 楊士範 李常豊/楊光祖 向自徴 人伴一十二名
存留通事一員 王三秀 人伴六名
在船通事一員 王成績 人伴四名
管船火長・直庫四名 鄭惟功 馬厚守/陳国相 慶得安
水梢共に一百二十名
右の符文は都通事梁廷枢等に付し、此れを准けしむ
乾隆四十三年(一七七八)十一月初六日
注(1)鄭維翰 康煕五十六~乾隆四十九年(一七一七~八四)。久米村系鄭氏(与儀家)六世。与儀通事親雲上。乾隆十五年勢頭座敷、十九年都通事、四十三年中議大夫に陞る。乾隆十一年の頭号船総官、十三年に勤学として福州へ赴き、翌年帰国。乾隆四十三年の在船都通事、四十八年の在船都通事として中国へ赴く。乾隆四十九年に福州で病没(『家譜(二)』六八〇頁)。
(2)楊士範 野国親雲上(『家譜(二)』九二五頁、林維新の譜)。乾隆四十三年の在船使者。
(3)李常豊 乾隆四十三年の在船使者。
(4)向自徴 乾隆四十三年の在船使者。
(5)王三秀 雍正十三~乾隆五十七年(一七三五~九二)。久米村系王氏(小渡家)六世。小渡里之子親雲上。乾隆三十一年当座、三十四年都通事、五十四年中議大夫に陞る。乾隆四十三年の存留通事、五十四年の接貢在船都通事として中国へ赴いた(『家譜(二)』五頁)。
(6)王成績 国場親雲上(『家譜(二)』七頁、王秉乾の譜)。乾隆四十三年の在船通事。
(7)鄭惟功 乾隆四十三年の管船火長。嘉慶十一年の結状にある正議大夫鄭惟功と同一人物か(巻一〇一)。
(8)陳国相 雍正十三~嘉慶十一年(一七三五~一八〇六)。久米村系陳氏(幸喜家)五世。幸喜通事親雲上。乾隆四十五年勢頭座敷、四十六年都通事に陞る。乾隆三十六年に勤学として福州へ赴き、乾隆四十年帰国。乾隆四十三年の二号船火長を務めた(『家譜(二)』四六二頁)。
琉球国中山王尚(穆)、進貢の事の為にす。
照らし得たるに、本爵、世天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年一貢し、欽遵して案に在り。
茲に乾隆四十三年の進貢の期に当たれば、特に耳目官金有華・正議大夫蔡煥・都通事梁廷枢等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百を過ぎざるの員名を率領し海船二隻に坐駕せしめ、煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運して両船に分載す。一船の礼字第一百十五号には煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、一船の礼字第一百十六号には煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き叩きて聖禧を祝らしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に、王府の礼字第一百十四号半印勘合の符文一道を給発し、都通事梁廷枢等に附し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。
須らく符文に至るべき者なり。
計開す
正使耳目官一員 金有華 人伴一十二名
副使正議大夫一員 蔡煥 人伴一十二名
朝京都通事一員 梁廷枢 人伴七名
在船都通事二員 鄭維翰/鄭維興 人伴八名
在船使者四員 楊士範 李常豊/楊光祖 向自徴 人伴一十二名
存留通事一員 王三秀 人伴六名
在船通事一員 王成績 人伴四名
管船火長・直庫四名 鄭惟功 馬厚守/陳国相 慶得安
水梢共に一百二十名
右の符文は都通事梁廷枢等に付し、此れを准けしむ
乾隆四十三年(一七七八)十一月初六日
注(1)鄭維翰 康煕五十六~乾隆四十九年(一七一七~八四)。久米村系鄭氏(与儀家)六世。与儀通事親雲上。乾隆十五年勢頭座敷、十九年都通事、四十三年中議大夫に陞る。乾隆十一年の頭号船総官、十三年に勤学として福州へ赴き、翌年帰国。乾隆四十三年の在船都通事、四十八年の在船都通事として中国へ赴く。乾隆四十九年に福州で病没(『家譜(二)』六八〇頁)。
(2)楊士範 野国親雲上(『家譜(二)』九二五頁、林維新の譜)。乾隆四十三年の在船使者。
(3)李常豊 乾隆四十三年の在船使者。
(4)向自徴 乾隆四十三年の在船使者。
(5)王三秀 雍正十三~乾隆五十七年(一七三五~九二)。久米村系王氏(小渡家)六世。小渡里之子親雲上。乾隆三十一年当座、三十四年都通事、五十四年中議大夫に陞る。乾隆四十三年の存留通事、五十四年の接貢在船都通事として中国へ赴いた(『家譜(二)』五頁)。
(6)王成績 国場親雲上(『家譜(二)』七頁、王秉乾の譜)。乾隆四十三年の在船通事。
(7)鄭惟功 乾隆四十三年の管船火長。嘉慶十一年の結状にある正議大夫鄭惟功と同一人物か(巻一〇一)。
(8)陳国相 雍正十三~嘉慶十一年(一七三五~一八〇六)。久米村系陳氏(幸喜家)五世。幸喜通事親雲上。乾隆四十五年勢頭座敷、四十六年都通事に陞る。乾隆三十六年に勤学として福州へ赴き、乾隆四十年帰国。乾隆四十三年の二号船火長を務めた(『家譜(二)』四六二頁)。