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資料詳細
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
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- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
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- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-60-07 琉球国中山王尚穆の、乾隆三十九年の進貢のため、都通事毛景昌等に付した符文(乾隆三十九《一七七四》、十一、十一)
琉球国中山王尚(穆)、進貢の事の為にす。
照らし得たるに、本爵、世天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年一貢し、欽遵して案に在り。
茲に乾隆三十九年の進貢の期に当たれば、特に耳目官向崇猷・正議大夫蔡懿・都通事毛景昌等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百を過ぎざるの員名を率領し、海船二隻に坐駕せしめ、煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運して両船に分載す。一船の礼字第一百七号には煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、一船の礼字第一百八号には煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き叩きて聖禧を祝らしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に、王府の礼字第一百六号半印勘合の符文一道を給発し、都通事毛景昌等に附し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。
須らく符文に至るべき者なり。
計開す
正使耳目官一員 向崇猷 人伴一十二名
副使正議大夫一員 蔡懿 人伴一十二名
朝京都通事一員 毛景昌 人伴七名
在船都通事二員 鄭亮采/蔡徳蘊 人伴八名
在船使者四員 伊宜璋 毛思聡/麻永健 楊維雄 人伴一十六名
存留通事一員 陳宏沢 人伴六名
在船通事一員 鄭国枢 人伴四名
管船火長・直庫四名 梁元章 馬厚守/魏憲度 厚成業
水梢共に一百二十名
右の符文は都通事毛景昌等に付し、此れを准けしむ
乾隆三十九年(一七七四)十一月十一日
注(1)鄭亮采 康煕四十七~乾隆四十八年(一七〇八~八三)。久米村系鄭氏(與座家)六世。乾隆十一年勢頭座敷、十四年都通事、三十九年中議大夫に陞る。乾隆元年の総官、三年に勤学として福州に赴き六年に帰国。乾隆三十九年の頭号船在船都通事として中国へ赴いた(『家譜(二)』六七七頁)。
(2)蔡徳蘊 雍正七~乾隆五十六年(一七二九~九一)。久米村系蔡氏(具志家)十四世。具志親雲上。乾隆二十三年遏達理位、三十年都通事、三十九年中議大夫、五十二年正議大夫、五十五年申口座に陞る。乾隆十八年に勤学として福州に赴き、二十年帰国。乾隆二十九年に小禄間切具志地頭職を授かる。乾隆三十九年の二号船都通事、五十年の接貢船都通事として中国へ赴いた(『家譜(二)』三一五頁)。
(3)伊宜璋 康煕五十~乾隆四十二年(一七一四~七七)。首里系伊氏(安富祖家)八世。添石親雲上忠邦。乾隆十五年当座敷、同年座敷に陞る。乾隆三十五年中城間切添石地頭職を授かる。御評定所筆者、御右筆主取などを経て乾隆三十九年の大唐船才府として中国へ赴き、四十一年に返上物宰領として上国した(『伊姓安富祖家譜訳注』三五頁)。
(4)毛思聡 乾隆三十九年の在船使者。
(5)楊維雄 乾隆三十九年の在船使者。
(6)陳宏沢 陳弘沢のこと。雍正八~乾隆五十年(一七三〇~八五)。久米村系陳氏(仲本家)十二世。仲本通事親雲上。乾隆帝の名前(弘暦)の一字を避諱し「陳宏沢」に改めた。乾隆二十九年勢頭座敷、二十四年都通事に陞る。乾隆三十九年の存留通事として中国へ赴いた(『陳姓家譜 大宗 仲本家』)。
(7)鄭国枢 雍正八~嘉慶十二年(一七三〇~一八〇七)。久米村系鄭氏(池宮城家)十五世。池宮城親方。乾隆二十二年当座敷、三十年都通事、四十七年中議大夫、五十八年正議大夫、嘉慶三年紫金大夫に陞る。乾隆十二年に与那城間切池宮城地頭職を授かる。乾隆十八年、二十年に勤学として福州へ赴く。乾隆三十九年の副通事、五十年の二号船大通事、五十六年の接貢大通事、五十九年の尚穆王の崩御を報じる正議大夫として中国に赴いた(『家譜(二)』五八〇頁)。
(8)梁元章 富山通事親雲上か(『家譜(二)』五六一頁、程容光の譜)。乾隆三十九年の管船火長。
(9)馬厚守 乾隆三十九年の管船直庫。『宝案』では乾隆四十一年、四十三年の管船直庫(巻六二・巻六四)としても名がみえる。
(10)魏憲度 雍正七~乾隆五十一年(一七二九~八六)。久米村系魏氏(多嘉嶺家)七世。高嶺里之子親雲上。乾隆四十一年遏達理官、四十二年都通事に陞る。乾隆三十四年に勤学として福州へ赴き、三十七年帰国。乾隆三十九年の二号船総管として中国へ赴いた(『魏姓家譜 支流 多嘉嶺家』)。
琉球国中山王尚(穆)、進貢の事の為にす。
照らし得たるに、本爵、世天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年一貢し、欽遵して案に在り。
茲に乾隆三十九年の進貢の期に当たれば、特に耳目官向崇猷・正議大夫蔡懿・都通事毛景昌等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百を過ぎざるの員名を率領し、海船二隻に坐駕せしめ、煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運して両船に分載す。一船の礼字第一百七号には煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、一船の礼字第一百八号には煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き叩きて聖禧を祝らしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に、王府の礼字第一百六号半印勘合の符文一道を給発し、都通事毛景昌等に附し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。
須らく符文に至るべき者なり。
計開す
正使耳目官一員 向崇猷 人伴一十二名
副使正議大夫一員 蔡懿 人伴一十二名
朝京都通事一員 毛景昌 人伴七名
在船都通事二員 鄭亮采/蔡徳蘊 人伴八名
在船使者四員 伊宜璋 毛思聡/麻永健 楊維雄 人伴一十六名
存留通事一員 陳宏沢 人伴六名
在船通事一員 鄭国枢 人伴四名
管船火長・直庫四名 梁元章 馬厚守/魏憲度 厚成業
水梢共に一百二十名
右の符文は都通事毛景昌等に付し、此れを准けしむ
乾隆三十九年(一七七四)十一月十一日
注(1)鄭亮采 康煕四十七~乾隆四十八年(一七〇八~八三)。久米村系鄭氏(與座家)六世。乾隆十一年勢頭座敷、十四年都通事、三十九年中議大夫に陞る。乾隆元年の総官、三年に勤学として福州に赴き六年に帰国。乾隆三十九年の頭号船在船都通事として中国へ赴いた(『家譜(二)』六七七頁)。
(2)蔡徳蘊 雍正七~乾隆五十六年(一七二九~九一)。久米村系蔡氏(具志家)十四世。具志親雲上。乾隆二十三年遏達理位、三十年都通事、三十九年中議大夫、五十二年正議大夫、五十五年申口座に陞る。乾隆十八年に勤学として福州に赴き、二十年帰国。乾隆二十九年に小禄間切具志地頭職を授かる。乾隆三十九年の二号船都通事、五十年の接貢船都通事として中国へ赴いた(『家譜(二)』三一五頁)。
(3)伊宜璋 康煕五十~乾隆四十二年(一七一四~七七)。首里系伊氏(安富祖家)八世。添石親雲上忠邦。乾隆十五年当座敷、同年座敷に陞る。乾隆三十五年中城間切添石地頭職を授かる。御評定所筆者、御右筆主取などを経て乾隆三十九年の大唐船才府として中国へ赴き、四十一年に返上物宰領として上国した(『伊姓安富祖家譜訳注』三五頁)。
(4)毛思聡 乾隆三十九年の在船使者。
(5)楊維雄 乾隆三十九年の在船使者。
(6)陳宏沢 陳弘沢のこと。雍正八~乾隆五十年(一七三〇~八五)。久米村系陳氏(仲本家)十二世。仲本通事親雲上。乾隆帝の名前(弘暦)の一字を避諱し「陳宏沢」に改めた。乾隆二十九年勢頭座敷、二十四年都通事に陞る。乾隆三十九年の存留通事として中国へ赴いた(『陳姓家譜 大宗 仲本家』)。
(7)鄭国枢 雍正八~嘉慶十二年(一七三〇~一八〇七)。久米村系鄭氏(池宮城家)十五世。池宮城親方。乾隆二十二年当座敷、三十年都通事、四十七年中議大夫、五十八年正議大夫、嘉慶三年紫金大夫に陞る。乾隆十二年に与那城間切池宮城地頭職を授かる。乾隆十八年、二十年に勤学として福州へ赴く。乾隆三十九年の副通事、五十年の二号船大通事、五十六年の接貢大通事、五十九年の尚穆王の崩御を報じる正議大夫として中国に赴いた(『家譜(二)』五八〇頁)。
(8)梁元章 富山通事親雲上か(『家譜(二)』五六一頁、程容光の譜)。乾隆三十九年の管船火長。
(9)馬厚守 乾隆三十九年の管船直庫。『宝案』では乾隆四十一年、四十三年の管船直庫(巻六二・巻六四)としても名がみえる。
(10)魏憲度 雍正七~乾隆五十一年(一七二九~八六)。久米村系魏氏(多嘉嶺家)七世。高嶺里之子親雲上。乾隆四十一年遏達理官、四十二年都通事に陞る。乾隆三十四年に勤学として福州へ赴き、三十七年帰国。乾隆三十九年の二号船総管として中国へ赴いた(『魏姓家譜 支流 多嘉嶺家』)。