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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-28-17 国王尚敬の、進貢のため都通事鄭師谷等に付した符文(乾隆十一《一七四六》、十一、十六)
琉球国中山王尚(敬)、進貢する事の為にす。
切照するに、敝国、世々天朝の洪恩に沐し、貢典に遵依して二年一貢すること、欽遵して案に在り。査するに、乾隆十一年は乃ち進貢の期に当たれば、特に耳目官毛允仁・正議大夫梁珍・都通事鄭師谷等を遣わし、表咨を齎捧し、海船二隻に坐駕し、官伴・水梢共に二百員名を過ぎざるを率領し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運し、両船に分載す。一船は礼字第四十七号、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載す。一船は礼字第四十八号、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載す。前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き、聖禧を叩祝せんとす。
所拠の差去せる員役は、文憑無ければ、各処の官軍の阻留して便ならざるを恐る。此れが為に理として合に符文を給発し、以て通行するに便ならしむべし。今、王府、礼字第四十六号の半印勘合符文を給し、都通事鄭師谷等に付して収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋かれ。須らく符文に至るべき者なり。
計開す、京に赴く
正使耳目官一員 毛允仁 人伴一十二名
副使正議大夫一員 梁珍 人伴一十二名
都通事一員 鄭師谷 人伴七名
在船都通事二員 金鑑/蔡坦 人伴八名
在船使者四員 楊禔 毛廷器/伊世奇 全世瑚 人伴一十六名
存留通事一員 金安 人伴六名
在船通事一員 毛世定 人伴四名
管船火長・直庫四名 鄭維翰 馬利航/鄭鴻功 垣克順
水梢共に一百二十名
右の符文は都通事鄭師谷等に付し、此れを准ず
乾隆十一年(一七四六)十一月十六日 給す
注(1)蔡坦 乾隆十一年の在船都通事。『宝案』では康熙五十五年の管船夥長(巻八)として名がみえる。
(2)全世瑚 乾隆十一年の在船使者。
(3)金安 安次嶺里之子親雲上。乾隆十一年の存留通事。この時の進貢船は帰国時に五虎門を出たあと颶風に遇い、いったん福州へ戻り、十四年五月に帰国した(『家譜(二)』八七二頁、林大模の譜)。『宝案』では十八年の都通事(巻三四)として名がみえる。
(4)鄭維翰 康煕五十六~乾隆四十九年(一七一七~八四)。久米村系鄭氏六世(与儀家)。与儀通事親雲上。乾隆十一年に管船夥長(総管)となり福建に渡る。十三年に読書習礼のために再度福建に渡り、翌年帰国。四十三年に在船都通事、四十八年に接貢の在船都通事となり、福建で病死した(『家譜(二)』六八〇頁)。
(5)鄭鴻功 康煕五十一~乾隆三十二年(一七一二~六七)。久米村系鄭氏六世(真栄里家)。久高親雲上。乾隆十一年に管船夥長(総管)、十三年に読書習礼のために福建に渡り、十五年に帰国。十八年に都通事となる(『家譜(二)』六八八頁)。
琉球国中山王尚(敬)、進貢する事の為にす。
切照するに、敝国、世々天朝の洪恩に沐し、貢典に遵依して二年一貢すること、欽遵して案に在り。査するに、乾隆十一年は乃ち進貢の期に当たれば、特に耳目官毛允仁・正議大夫梁珍・都通事鄭師谷等を遣わし、表咨を齎捧し、海船二隻に坐駕し、官伴・水梢共に二百員名を過ぎざるを率領し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運し、両船に分載す。一船は礼字第四十七号、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載す。一船は礼字第四十八号、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載す。前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き、聖禧を叩祝せんとす。
所拠の差去せる員役は、文憑無ければ、各処の官軍の阻留して便ならざるを恐る。此れが為に理として合に符文を給発し、以て通行するに便ならしむべし。今、王府、礼字第四十六号の半印勘合符文を給し、都通事鄭師谷等に付して収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋かれ。須らく符文に至るべき者なり。
計開す、京に赴く
正使耳目官一員 毛允仁 人伴一十二名
副使正議大夫一員 梁珍 人伴一十二名
都通事一員 鄭師谷 人伴七名
在船都通事二員 金鑑/蔡坦 人伴八名
在船使者四員 楊禔 毛廷器/伊世奇 全世瑚 人伴一十六名
存留通事一員 金安 人伴六名
在船通事一員 毛世定 人伴四名
管船火長・直庫四名 鄭維翰 馬利航/鄭鴻功 垣克順
水梢共に一百二十名
右の符文は都通事鄭師谷等に付し、此れを准ず
乾隆十一年(一七四六)十一月十六日 給す
注(1)蔡坦 乾隆十一年の在船都通事。『宝案』では康熙五十五年の管船夥長(巻八)として名がみえる。
(2)全世瑚 乾隆十一年の在船使者。
(3)金安 安次嶺里之子親雲上。乾隆十一年の存留通事。この時の進貢船は帰国時に五虎門を出たあと颶風に遇い、いったん福州へ戻り、十四年五月に帰国した(『家譜(二)』八七二頁、林大模の譜)。『宝案』では十八年の都通事(巻三四)として名がみえる。
(4)鄭維翰 康煕五十六~乾隆四十九年(一七一七~八四)。久米村系鄭氏六世(与儀家)。与儀通事親雲上。乾隆十一年に管船夥長(総管)となり福建に渡る。十三年に読書習礼のために再度福建に渡り、翌年帰国。四十三年に在船都通事、四十八年に接貢の在船都通事となり、福建で病死した(『家譜(二)』六八〇頁)。
(5)鄭鴻功 康煕五十一~乾隆三十二年(一七一二~六七)。久米村系鄭氏六世(真栄里家)。久高親雲上。乾隆十一年に管船夥長(総管)、十三年に読書習礼のために福建に渡り、十五年に帰国。十八年に都通事となる(『家譜(二)』六八八頁)。