歴代宝案訳注本
2-25-18 国王尚敬の、進貢のため都通事鄭国観等に付した符文(乾隆七《一七四二》、十一、十三)

資料詳細

資料ID.
y1531
資料種別
歴代宝案訳注本
資料名
歴代宝案訳注本第4冊
歴代宝案巻号
2集 025巻 18号
著者等
田名真之(訳注)
タイトル
2-25-18 国王尚敬の、進貢のため都通事鄭国観等に付した符文(乾隆七《一七四二》、十一、十三)
中国暦
乾隆71113
西暦
17421209
曜日
差出
【琉球】中山王(尚敬)
宛先
文書形式
符文
書誌情報
田名真之(訳注)、沖縄県教育庁文化財課史料編集班(編)『歴代宝案 訳注本第4冊』沖縄県教育委員会、2017年
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2-25-18 国王尚敬の、進貢のため都通事鄭国観等に付した符文(乾隆七《一七四二》、十一、十三)
琉球国中山王尚(敬)、進貢の事の為にす。
照得するに、敝国、世々天朝の洪恩に沐し、貢典に遵依して二年一次すること、欽遵して案に在り。査するに、乾隆七年は乃ち進貢の期に当たれば、特に耳目官毛文和・正議大夫蔡用弼・都通事鄭国観等を遣わし、表咨を齎捧し、海船二隻に坐駕し、官伴・水梢共に二百員名を過ぎざるを率領し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運し、両船に分載す。一船は礼字第四十二号、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載す。一船は礼字第四十三号、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載す。前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き、聖禧を叩祝せんとす。
所拠の差去せる員役は、文憑無ければ、各処の官軍の阻留して便ならざるを恐る。此れが為に理として合に符文を給発し、以て通行に便ならしむべし。今、王府、礼字第四十一号の半印勘合符文を給し、都通事鄭国観等に付して収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋かれ。須らく符文に至るべき者なり。
計開す、京に赴く
正使耳目官一員   毛文和    人伴一十二名
副使正議大夫一員  蔡用弼    人伴一十二名
都通事一員     鄭国観    人伴七名
在船都通事二員   陳以棠/陳以箴      人伴八名
在船使者四員    向汝霖 吉兆鳳/毛廷器 向含章 人伴一十二名
存留通事一員    鄭余慶    人伴六名
在船通事一員    鄭秉和    人伴四名
管船火長・直庫四名 魏開業 馬利航/梁国琬 垣克順
右の符文は都通事鄭国観等に付し、此れを准ず
乾隆七年(一七四二)十一月十三日 給す

注(1)陳以棠 康煕三十五~乾隆八年(一六九六~一七四三)。久米村系陳氏四世(幸喜家)。幸喜通事親雲上。康熙六十一年に読書習礼のため福建に赴く。雍正元年に管船夥長。乾隆七年の在船都通事として福建に赴き、翌年柔遠駅で病故した(『久米陳氏家譜集』一七七頁)。
(2)陳以箴 陳弘訓から改名。〔二一―一四〕「陳弘訓」を参照。
(3)向汝霖 乾隆七年の在船使者。
(4)吉兆鳳 校訂本は「言兆鳳」とあるが、〔二五―一九〕〔三六―〇九〕では「吉兆鳳」とあり、訂正した。『宝案』では他に乾隆十九年の結状に紫巾官(巻三六)として名がみえる。
(5)向含章 乾隆七年の在船使者。『宝案』では、他に十三年の在船使者(巻二九)として名がみえる。
(6) 一十二 〔二五―一九〕〔二五―二〇〕の執照では「人伴八名」とあることから、ここは「一十六」の誤りか。
(7)鄭余慶 康煕四十三~乾隆二十二年(一七〇四~五七)。久米村系鄭氏七世(与座家)。与儀親雲上。雍正三年に読書習礼のため福建に赴く。乾隆七年の進貢の存留通事として福建に渡るが、翌年の接貢の都通事林永隆が顚狂を発したため都通事を兼任した。また十五年の進貢の在船都通事、二十一年の進貢の都通事となるが、翌年福州到着後に病没した(『家譜(二)』六七二頁)。
(8)魏開業 高嶺里之子親雲上(『家譜(二)』一八〇頁、阮廷宝の譜)。乾隆七年の管船火長。『宝案』では、他に十八年の存留通事(巻三四)、二十三年の在船都通事(巻四二)として名がみえる。
(9)馬利航  乾隆七年の管船直庫。 『宝案』 では十一年(巻二八)・ 十三年(巻二九)・十七年(巻三三)の管船直庫として名がみえる。
(10)梁国琬 康熙五十五~乾隆五十九年(一七一六~九四)。久米村系梁氏五世(阿嘉家)。我喜屋親雲上。乾隆七年の進貢の管船火長(総官)。乾隆十一年に読書習礼のため福建に赴き、唐楽を学ぶ。乾隆三十八年、乾隆四十六年の接貢船の在船都通事を務める(『家譜(二)』八三四頁)。
(11)垣克順 乾隆七年の管船直庫。『宝案』では他に十一年の管船直庫(巻二八)として名がみえる。
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