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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-16-18 国王尚敬の、進貢のため都通事程允升等に付した符文(雍正六《一七二八》、十一、十)
琉球国中山王尚(敬)、進貢の事の為にす。
照得するに、敝国、世々天朝の洪恩に沐し、貢典に遵依して二年一次すること、欽遵して案に在り。査するに、雍正六年は乃ち進貢の期に当たれば、特に耳目官毛鴻基・正議大夫鄭秉彝・都通事程允升等を遣わし、表咨を齎捧し、海船二隻に坐駕し、官伴・水梢共に二百員名を過ぎざるを率領し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運し、両船に分載す。一船は礼字第十四号、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載す。一船は礼字第十五号、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載す。前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き、聖禧を叩祝せんとす。
所拠の差去せる員役は、文憑無ければ、各処の官軍の阻留して便ならざるを恐る。此れが為に理として合に符文を給発し、以て通行に便ならしむべし。今、王府、礼字第十三号の半印勘合符文を給し、都通事程允升等に付して収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋かれ。須らく符文に至るべき者なり。
計開す、京に赴く
正使耳目官一員 毛鴻基 人伴一十二名
副使正議大夫一員 鄭秉彝 人伴一十二名
都通事一員 程允升 人伴七名
在船都通事二員 魏鵬/蔡用弼 人伴八名
在船使者四員 翁啓聖 向克徳/向世泰 翁元鵬 人伴一十六名
存留通事一員 蔡文海 人伴六名
在船通事一員 金振 人伴四名
管船火長・直庫四名 毛承慶 陳志広/鄭秉和 司得功
右の符文は都通事程允升等に付し、此れを准ず
雍正六年(一七二八)十一月初十日
注(1)魏鵬 生没年不詳。久米村系魏氏五世(慶佐次家)。魏士哲(高嶺徳明)の三男。雍正六年の在船都通事(『家譜(二)』二五頁)。
(2)蔡用弼 生没年不詳。久米村系蔡氏。湖城親雲上。『宝案』では乾隆五十八年の存留通事(巻一〇)、雍正六年の在船通事(巻一六)、乾隆七年の正議大夫(巻二五)、乾隆十九年の結状では紫金大夫(巻三六)、雍正七年十一月に記された第二集冒頭の「督抄宝案記」では長史として名がみえる。
(3)翁啓聖 雍正六年の在船使者。
(4)向克徳 雍正六年、十四年(巻二一)の在船使者。
(5)向世泰 康煕六十年(巻一一)、雍正六年の在船使者。
(6)翁元鵬 雍正六年の在船使者。
(7)蔡文海 生没年不詳。久米村系蔡氏十一世(具志家)。高良里之子親雲上。蔡応瑞の五子(『家譜(二)』三〇一頁)。「督抄宝案記」に筆帖式として名がみえ、『宝案』第二集の編集に参加したことがわかる。
(8)金振 康煕二十九~乾隆三年(一六九〇~一七三八)。久米村系金氏十一世(安波連家)。手登根里之子親雲上。雍正九年に都通事に陞る。康煕四十七年、進貢の管船火長(総官)となる。五十四年に読書習礼のため福建に赴く。雍正六年の進貢の在船通事。乾隆二年の慶賀の都通事として福建に赴き、翌年福建において病没し、福州下渡地方の墓に埋葬された(『家譜(二)』八〇頁)。
(9)毛承慶 康煕四十~乾隆三十二年(一七〇一~一七六七)。久米村系毛氏五世(奥間家)。奥間里之子親雲上。乾隆三十年に中議大夫に陞る。雍正六年に進貢の管船火長として福建に赴いた後、十年に読書習礼のため再び福建に赴く。乾隆十二年に漏刻御番役となる(『家譜(二)』七三五頁)。
(10)鄭秉和 ?~乾隆三十一年(一七六六)。志堅原親雲上。乾隆二十年の接貢船の都通事だが、冊封使を迎える接封大使の到着が遅れたため、存留していた鄭秉和が署理接封大夫として実務にあたった(『家譜(二)』三一五頁、蔡功煕の譜)。『宝案』では雍正六年の管船火長、乾隆十九年の結状に長史(巻三六)、二十年の在船都通事(巻三七)、二十九年の進貢副使正議大夫(巻四八)として名がみえる。乾隆三十一年に福建で病没し、閩県の南関外張坑山に葬られた(巻五〇、『家譜(二)』一〇六頁、金文雄の譜)。
(11)司得功 雍正六年の管船直庫。雍正二年・六年・十年・十一年、乾隆七年にも管船直庫を務めている。
琉球国中山王尚(敬)、進貢の事の為にす。
照得するに、敝国、世々天朝の洪恩に沐し、貢典に遵依して二年一次すること、欽遵して案に在り。査するに、雍正六年は乃ち進貢の期に当たれば、特に耳目官毛鴻基・正議大夫鄭秉彝・都通事程允升等を遣わし、表咨を齎捧し、海船二隻に坐駕し、官伴・水梢共に二百員名を過ぎざるを率領し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運し、両船に分載す。一船は礼字第十四号、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載す。一船は礼字第十五号、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載す。前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き、聖禧を叩祝せんとす。
所拠の差去せる員役は、文憑無ければ、各処の官軍の阻留して便ならざるを恐る。此れが為に理として合に符文を給発し、以て通行に便ならしむべし。今、王府、礼字第十三号の半印勘合符文を給し、都通事程允升等に付して収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋かれ。須らく符文に至るべき者なり。
計開す、京に赴く
正使耳目官一員 毛鴻基 人伴一十二名
副使正議大夫一員 鄭秉彝 人伴一十二名
都通事一員 程允升 人伴七名
在船都通事二員 魏鵬/蔡用弼 人伴八名
在船使者四員 翁啓聖 向克徳/向世泰 翁元鵬 人伴一十六名
存留通事一員 蔡文海 人伴六名
在船通事一員 金振 人伴四名
管船火長・直庫四名 毛承慶 陳志広/鄭秉和 司得功
右の符文は都通事程允升等に付し、此れを准ず
雍正六年(一七二八)十一月初十日
注(1)魏鵬 生没年不詳。久米村系魏氏五世(慶佐次家)。魏士哲(高嶺徳明)の三男。雍正六年の在船都通事(『家譜(二)』二五頁)。
(2)蔡用弼 生没年不詳。久米村系蔡氏。湖城親雲上。『宝案』では乾隆五十八年の存留通事(巻一〇)、雍正六年の在船通事(巻一六)、乾隆七年の正議大夫(巻二五)、乾隆十九年の結状では紫金大夫(巻三六)、雍正七年十一月に記された第二集冒頭の「督抄宝案記」では長史として名がみえる。
(3)翁啓聖 雍正六年の在船使者。
(4)向克徳 雍正六年、十四年(巻二一)の在船使者。
(5)向世泰 康煕六十年(巻一一)、雍正六年の在船使者。
(6)翁元鵬 雍正六年の在船使者。
(7)蔡文海 生没年不詳。久米村系蔡氏十一世(具志家)。高良里之子親雲上。蔡応瑞の五子(『家譜(二)』三〇一頁)。「督抄宝案記」に筆帖式として名がみえ、『宝案』第二集の編集に参加したことがわかる。
(8)金振 康煕二十九~乾隆三年(一六九〇~一七三八)。久米村系金氏十一世(安波連家)。手登根里之子親雲上。雍正九年に都通事に陞る。康煕四十七年、進貢の管船火長(総官)となる。五十四年に読書習礼のため福建に赴く。雍正六年の進貢の在船通事。乾隆二年の慶賀の都通事として福建に赴き、翌年福建において病没し、福州下渡地方の墓に埋葬された(『家譜(二)』八〇頁)。
(9)毛承慶 康煕四十~乾隆三十二年(一七〇一~一七六七)。久米村系毛氏五世(奥間家)。奥間里之子親雲上。乾隆三十年に中議大夫に陞る。雍正六年に進貢の管船火長として福建に赴いた後、十年に読書習礼のため再び福建に赴く。乾隆十二年に漏刻御番役となる(『家譜(二)』七三五頁)。
(10)鄭秉和 ?~乾隆三十一年(一七六六)。志堅原親雲上。乾隆二十年の接貢船の都通事だが、冊封使を迎える接封大使の到着が遅れたため、存留していた鄭秉和が署理接封大夫として実務にあたった(『家譜(二)』三一五頁、蔡功煕の譜)。『宝案』では雍正六年の管船火長、乾隆十九年の結状に長史(巻三六)、二十年の在船都通事(巻三七)、二十九年の進貢副使正議大夫(巻四八)として名がみえる。乾隆三十一年に福建で病没し、閩県の南関外張坑山に葬られた(巻五〇、『家譜(二)』一〇六頁、金文雄の譜)。
(11)司得功 雍正六年の管船直庫。雍正二年・六年・十年・十一年、乾隆七年にも管船直庫を務めている。