琉球王国交流史・近代沖縄史料デジタルアーカイブ

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資料詳細

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2-01-14 国王尚貞の、赴京の使臣の接回のため都通事鄭士綸等を遣わすむねの執照(一六九九、一〇、九)
琉球国中山王尚(貞)、進貢の官員を接回する事の為にす。
切照するに、康煕三十七年の冬は応当に貢すべき期なり。特に耳目官毛龍図・正議大夫梁邦基等を遣わし、梢役を率領し船二隻に駕して表章・方物を齎捧せしむ。已経に闕に赴き、恭しく三十七年の貢典を進むる外、都通事林正茂・使者向保嗣等を摘回するに至りては、仍お原船二隻に坐し、本年七月内に于て国に還るを見るを得たり。但だ入覲の官伴及び存留の官伴は、例として該に船を発して接回すべし。久しく閩の地に淹りて以て天朝の廩餼を糜すに至らず。此の為に特に都通事鄭士綸・使者毛文傑等を遣わして、水梢・人伴共に八十四員名を帯領し、海船一隻に坐駕して前来し、皇上の勅書併びに欽賞の物件を迎接し、貢使毛龍図等と同に一斉に国に回らしめんとす。
茲に所拠の差去する員役は別に文憑無ければ、所在の官軍の阻留して便ならざるを恐る。此の為に理として合に執照を給発して以て通行に便ならしむべし。今、王府の義字第六十七号半印勘合の執照を給して存留通事蔡文溥等に付し収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海巡哨の官軍の験実に遇わば即便に放行し、留難し遅悞して便ならざるを得しむる毋かれ。須らく執照に至るべき者なり。
計開
都通事一員 鄭士綸 人伴六名
使者二員 毛文傑・劉□瑚 人伴八名
存留通事一員 蔡文溥 人伴六名
管船火長・直庫 二名 毛維新・丙起才
水梢共に五十八名
右の執照は存留通事蔡文溥等に付す。此れを准ず
康煕三十八年(一六九九)十月初九日給す

注(1)蔡文溥 一六七一-一七四五年。久米村蔡氏(具志家)十一世。祝嶺親方。康煕二十六年、清代最初の官生として中国に渡り、翌年国子監に入学。三十一年に帰国して教師を勤め、国王や世子、世孫にも四書や詩経を進講したが、四十一年には病気のため職を辞す。進貢役はこの三十八年の存留通事がただ一回であるが、のち紫金大夫となった。文人としても名高く、詩文集『四本堂集』、周煌『琉球国志略』所収の「中山学校序」その他がある(『家譜(二)』三〇三頁)。
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