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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
二集 歴代宝案 目録 上 康煕三十六年より起こし/嘉慶十八年に至る
宝案を督抄する記
雍正四年丙午二月二十四日、再び紫金大夫程順則・長史蔡用弼・程允升の令を承けて、康煕三十六年より雍正五年に至るまでを抄し、宝案の二集を成す。共に十六本と作し、内の一本は目録なり
宝案を督抄するもの
正議大夫 曾暦 砂辺親雲上
鄭秉彝 大嶺親雲上
中議大夫 蔡文河 喜瀬親雲上
金震 安次嶺親雲上
都通事 金声 手登根里之子親雲上
蔡墉 喜友名里之子親雲上
筆帖式
遏達理位 蔡文海 高良里之子親雲上
阮為標 天久里之子親雲上
副通事 毛日盛 奥間里之子親雲上
梁経 国吉里之子親雲上
蔡宏謨 久高里之子親雲上
鄭師谷 登川里主
鄭秉和 与那嶺里之子
蔡元鳳 大田里主
梁煌 当間里主
陳弘訓 松堂通事
周大猷 富村通事
生員 金安 安次嶺秀才
陳昌言 仲本秀才
阮則北 儀保秀才
陳以桂 幸喜秀才
鄭謨 宇地原秀才
金節 手登根秀才
阮超叙 真玉橋秀才
毛廷憲 奥間秀才
雍正七年己酉(一七二九)十二月吉日
長史 蔡其棟 具志親雲上
長史 陳以栢 幸喜親雲上
注*以下の注にある人名で『家譜』にみられるものは、その頁を記した。
久米村の位階については主に『大百科』によったが、他に池宮正治・小渡清孝・田名真之編『久米村―歴史と人物』(ひるぎ社、一九九三年。以下『久米村』と略称する)を参照のこと。
(1)督抄 抄は筆写すること。督抄は文書の筆写等の作業を監督・統括して「宝案」の二集を編集すること。
(2)紫金大夫 久米村の最高の位階名で、称号は親方。紫の帕をかぶるところに由来する。品秩は従二品、三司官座敷に陞ると正二品になる(『久米村』二三-四頁)。
(3)程順則 一六六三-一七三四年。久米村程氏(名護家)七世。
名護親方。紫金大夫加銜法司正卿(三司官座敷)。五度清に渡り、初期の二回には通算七年福建に滞在して勉学し、帰国後、王世子・世孫の教師を勤め、のちには上級教育機関である明倫堂の設置を建議したほか、『十七史』や『六諭衍義』を将来した。一方、江戸への慶賀使にも随行し、新井白石と会見を重ねて『南島志』の資料を提供した。著作に、航海の指導書『指南広義』のほか、詩文集に『雪堂燕遊草』その他がある(『家譜(二)』五四五頁)。
(4)長史 十七世紀前半まで進貢の役職名であるが、のち久米村の行政に専任するようになった(『久米村』二五頁)。久米村総役を補佐して進貢・冊封に関する事務、久米村に関する一切の公務を監督する。
(5)蔡用弼 生没年不詳。久米村蔡氏。湖城親方。のち紫金大夫に陞る(『家譜(二)』三八三頁、周之佐の譜ほか)。
(6)程允升 一六九四-一七二九年。もとの名は摶霄。久米村程氏(名護家)八世。順則の子。名護里之子親雲上。都通事。雍正七年、北京に赴く途次に山東臨清州で死去(『家譜(二)』五六〇頁)。
(7)正議大夫 久米村の官位で、進貢のさい進貢副使になる役職(『大百科』正議大夫、久米村の位階・役職、『久米村』二三-五頁など参照)。
(8)曾暦 暦の字禁止により信と改む。一六七七-一七四六年。久米村曾氏(仲宗根家)七世。砂辺親方。紫金大夫。進貢のために二度、慶賀と進香のために一度渡清のほか、江戸上りにも随行した(『家譜(二)』三九五頁)。
(9)親雲上 敬称や職名、役職などに由来する王府における称号の一つで、親方、親雲上、里之子、筑登之、という序列。親雲上の品位は正三品-従七品で、親雲上、里之子親雲上、筑登之親雲上、の三つのランクがある。
(10)鄭秉彝 生没年不詳。久米村鄭氏。のち紫金大夫に陞る(『家譜(二)』八一頁、金振の譜ほか)。
(11)中議大夫 久米村の位階で正議大夫と都通事の間に位する。一六八〇年に始まる(『大百科』)。
(12)蔡文河 一六八三-一七五〇年。久米村蔡氏(仲井真家)十一世。仲井真親方。紫金大夫。勉学および進貢のため渡清四回(『家譜(二)』三二五頁)。
(13)金震 生没年不詳。久米村金氏(安次嶺家)十世。安次嶺親方(『氏集』)。
(14)都通事 久米村の官位。中議大夫の下に位し、進貢のさいは進貢都通事の役をつとめる(『大百科』)。
(15)金声 一六八四-一七四六年。久米村金氏(阿波連家)十一世(『家譜(二)』七九頁)。
(16)蔡墉 一六八七-一七四八年。校訂本では蔡庸とするも目録乾坤本及び家譜により正す。久米村蔡氏(上原家)十二世。総官、都通事、正議大夫などとして五度渡清。申口座に陞り崎原親雲上を称する(『家譜(二)』三四〇頁)。
(17)筆帖式 書記。もと満州語で字を写す人の意味。清制では満漢章奏の文籍を翻訳することを掌り各官庁に属していたが、この職名を琉球で用いたもの。久米村の官職としての筆帖式については『久米村』二五-六頁を参照。
(18)遏達理位 当官か。ここでは担当者ほどの意か。
(19)蔡文海 生没年不詳。久米村蔡氏十一世、蔡応瑞の五子。同じく蔡応瑞の四子蔡文河の弟(『氏集』)。
(20)阮為標 生没年不詳。久米村阮氏六世、与古田親方(『氏集』)。
(21)毛日盛 生没年不詳。久米村毛氏(吉川家)四世(『氏集』)。三世都通事毛文英の三男として名があり、既に家譜を分かつ、とする(『家譜(二)』七三三頁)。
(22)梁経 一六九六-一七二八年。久米村梁氏(国吉家)十一世。国吉里之子親雲上。通事(『家譜(二)』八〇三頁)。
(23)蔡宏謨 生没年不詳。久米村蔡氏(武嶌家)十二世。我謝親方(『家譜(二)』九四四頁)。
(24)鄭師谷 一六九九-一七四八年。久米村鄭氏(登川家)十四世。登川通事(『家譜(二)』六〇六頁)。
(25)里之子 王府における称号の一つ。品位は正八品・従八品。
(26)梁煌 一七〇二-七一年。久米村梁氏(上江洲家)十一世。正議大夫、久米村総役となる(『家譜(二)』七九二頁)。
(27)陳弘訓 一七〇四-五七年。久米村陳氏(真栄平家)四世。正議大夫(『家譜(二)』四七二頁)。
(28)通事 久米村の官位・役職。久米村では二十歳になるとはじめて通事の位を得て、その後は進貢・接貢の通事(通詞)役などを経て都通事へ昇進する(『大百科』)。
(29)周大猷 一七〇三-三二年。久米村周氏(阿賀嶺家)四世。正議大夫(『家譜(二)』三八二頁)。
(30)生員 ここでは秀才のこと。秀才は久米村の位階の一つで品外。男子は十歳前後で若秀才となり、十四-十六歳で「かたかしら」を結うと秀才になる(『大百科』)。
(31)陳昌言 一七〇五-四三年。久米村陳氏(仲本家)十一世(『家譜(二)』四九三頁)。
(32)陳以桂 一七〇五-五三年。久米村陳氏(幸喜家)四世。幸喜通事親雲上(『家譜(二)』四六一頁)。
(33)金節 一七〇七-七五年。久米村金氏(阿波連家)十二世。正議大夫(『家譜(二)』八三頁)。
(34)阮超叙 一七〇八-一七七一年。久米村阮氏(小渡家)六世。小渡親雲上。『中山世譜』の筆者も勤めた(『氏集』、阮氏家譜)。
(35)蔡其棟 一六九三-一七四一年。久米村蔡氏(具志家)十二世。具志親雲上。接貢存留通事、進貢都通事などとして四度渡清。乾隆五年進貢正議大夫のとき福州で没した(『家譜(二)』三〇九頁)。
宝案を督抄する記
雍正四年丙午二月二十四日、再び紫金大夫程順則・長史蔡用弼・程允升の令を承けて、康煕三十六年より雍正五年に至るまでを抄し、宝案の二集を成す。共に十六本と作し、内の一本は目録なり
宝案を督抄するもの
正議大夫 曾暦 砂辺親雲上
鄭秉彝 大嶺親雲上
中議大夫 蔡文河 喜瀬親雲上
金震 安次嶺親雲上
都通事 金声 手登根里之子親雲上
蔡墉 喜友名里之子親雲上
筆帖式
遏達理位 蔡文海 高良里之子親雲上
阮為標 天久里之子親雲上
副通事 毛日盛 奥間里之子親雲上
梁経 国吉里之子親雲上
蔡宏謨 久高里之子親雲上
鄭師谷 登川里主
鄭秉和 与那嶺里之子
蔡元鳳 大田里主
梁煌 当間里主
陳弘訓 松堂通事
周大猷 富村通事
生員 金安 安次嶺秀才
陳昌言 仲本秀才
阮則北 儀保秀才
陳以桂 幸喜秀才
鄭謨 宇地原秀才
金節 手登根秀才
阮超叙 真玉橋秀才
毛廷憲 奥間秀才
雍正七年己酉(一七二九)十二月吉日
長史 蔡其棟 具志親雲上
長史 陳以栢 幸喜親雲上
注*以下の注にある人名で『家譜』にみられるものは、その頁を記した。
久米村の位階については主に『大百科』によったが、他に池宮正治・小渡清孝・田名真之編『久米村―歴史と人物』(ひるぎ社、一九九三年。以下『久米村』と略称する)を参照のこと。
(1)督抄 抄は筆写すること。督抄は文書の筆写等の作業を監督・統括して「宝案」の二集を編集すること。
(2)紫金大夫 久米村の最高の位階名で、称号は親方。紫の帕をかぶるところに由来する。品秩は従二品、三司官座敷に陞ると正二品になる(『久米村』二三-四頁)。
(3)程順則 一六六三-一七三四年。久米村程氏(名護家)七世。
名護親方。紫金大夫加銜法司正卿(三司官座敷)。五度清に渡り、初期の二回には通算七年福建に滞在して勉学し、帰国後、王世子・世孫の教師を勤め、のちには上級教育機関である明倫堂の設置を建議したほか、『十七史』や『六諭衍義』を将来した。一方、江戸への慶賀使にも随行し、新井白石と会見を重ねて『南島志』の資料を提供した。著作に、航海の指導書『指南広義』のほか、詩文集に『雪堂燕遊草』その他がある(『家譜(二)』五四五頁)。
(4)長史 十七世紀前半まで進貢の役職名であるが、のち久米村の行政に専任するようになった(『久米村』二五頁)。久米村総役を補佐して進貢・冊封に関する事務、久米村に関する一切の公務を監督する。
(5)蔡用弼 生没年不詳。久米村蔡氏。湖城親方。のち紫金大夫に陞る(『家譜(二)』三八三頁、周之佐の譜ほか)。
(6)程允升 一六九四-一七二九年。もとの名は摶霄。久米村程氏(名護家)八世。順則の子。名護里之子親雲上。都通事。雍正七年、北京に赴く途次に山東臨清州で死去(『家譜(二)』五六〇頁)。
(7)正議大夫 久米村の官位で、進貢のさい進貢副使になる役職(『大百科』正議大夫、久米村の位階・役職、『久米村』二三-五頁など参照)。
(8)曾暦 暦の字禁止により信と改む。一六七七-一七四六年。久米村曾氏(仲宗根家)七世。砂辺親方。紫金大夫。進貢のために二度、慶賀と進香のために一度渡清のほか、江戸上りにも随行した(『家譜(二)』三九五頁)。
(9)親雲上 敬称や職名、役職などに由来する王府における称号の一つで、親方、親雲上、里之子、筑登之、という序列。親雲上の品位は正三品-従七品で、親雲上、里之子親雲上、筑登之親雲上、の三つのランクがある。
(10)鄭秉彝 生没年不詳。久米村鄭氏。のち紫金大夫に陞る(『家譜(二)』八一頁、金振の譜ほか)。
(11)中議大夫 久米村の位階で正議大夫と都通事の間に位する。一六八〇年に始まる(『大百科』)。
(12)蔡文河 一六八三-一七五〇年。久米村蔡氏(仲井真家)十一世。仲井真親方。紫金大夫。勉学および進貢のため渡清四回(『家譜(二)』三二五頁)。
(13)金震 生没年不詳。久米村金氏(安次嶺家)十世。安次嶺親方(『氏集』)。
(14)都通事 久米村の官位。中議大夫の下に位し、進貢のさいは進貢都通事の役をつとめる(『大百科』)。
(15)金声 一六八四-一七四六年。久米村金氏(阿波連家)十一世(『家譜(二)』七九頁)。
(16)蔡墉 一六八七-一七四八年。校訂本では蔡庸とするも目録乾坤本及び家譜により正す。久米村蔡氏(上原家)十二世。総官、都通事、正議大夫などとして五度渡清。申口座に陞り崎原親雲上を称する(『家譜(二)』三四〇頁)。
(17)筆帖式 書記。もと満州語で字を写す人の意味。清制では満漢章奏の文籍を翻訳することを掌り各官庁に属していたが、この職名を琉球で用いたもの。久米村の官職としての筆帖式については『久米村』二五-六頁を参照。
(18)遏達理位 当官か。ここでは担当者ほどの意か。
(19)蔡文海 生没年不詳。久米村蔡氏十一世、蔡応瑞の五子。同じく蔡応瑞の四子蔡文河の弟(『氏集』)。
(20)阮為標 生没年不詳。久米村阮氏六世、与古田親方(『氏集』)。
(21)毛日盛 生没年不詳。久米村毛氏(吉川家)四世(『氏集』)。三世都通事毛文英の三男として名があり、既に家譜を分かつ、とする(『家譜(二)』七三三頁)。
(22)梁経 一六九六-一七二八年。久米村梁氏(国吉家)十一世。国吉里之子親雲上。通事(『家譜(二)』八〇三頁)。
(23)蔡宏謨 生没年不詳。久米村蔡氏(武嶌家)十二世。我謝親方(『家譜(二)』九四四頁)。
(24)鄭師谷 一六九九-一七四八年。久米村鄭氏(登川家)十四世。登川通事(『家譜(二)』六〇六頁)。
(25)里之子 王府における称号の一つ。品位は正八品・従八品。
(26)梁煌 一七〇二-七一年。久米村梁氏(上江洲家)十一世。正議大夫、久米村総役となる(『家譜(二)』七九二頁)。
(27)陳弘訓 一七〇四-五七年。久米村陳氏(真栄平家)四世。正議大夫(『家譜(二)』四七二頁)。
(28)通事 久米村の官位・役職。久米村では二十歳になるとはじめて通事の位を得て、その後は進貢・接貢の通事(通詞)役などを経て都通事へ昇進する(『大百科』)。
(29)周大猷 一七〇三-三二年。久米村周氏(阿賀嶺家)四世。正議大夫(『家譜(二)』三八二頁)。
(30)生員 ここでは秀才のこと。秀才は久米村の位階の一つで品外。男子は十歳前後で若秀才となり、十四-十六歳で「かたかしら」を結うと秀才になる(『大百科』)。
(31)陳昌言 一七〇五-四三年。久米村陳氏(仲本家)十一世(『家譜(二)』四九三頁)。
(32)陳以桂 一七〇五-五三年。久米村陳氏(幸喜家)四世。幸喜通事親雲上(『家譜(二)』四六一頁)。
(33)金節 一七〇七-七五年。久米村金氏(阿波連家)十二世。正議大夫(『家譜(二)』八三頁)。
(34)阮超叙 一七〇八-一七七一年。久米村阮氏(小渡家)六世。小渡親雲上。『中山世譜』の筆者も勤めた(『氏集』、阮氏家譜)。
(35)蔡其棟 一六九三-一七四一年。久米村蔡氏(具志家)十二世。具志親雲上。接貢存留通事、進貢都通事などとして四度渡清。乾隆五年進貢正議大夫のとき福州で没した(『家譜(二)』三〇九頁)。