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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
1-42-38 琉球国中山王尚元の、毛如徳等に発給した執照の断簡(暹羅国あてカ)
琉球国中山王尚元、見に進□□□の為にす。
□□□国は産物稀少にして貢物を欠乏し、深く□□□。□□今、特に正使毛如徳・都□□□□□を遣わし、海船一隻に□□し、□□□□を装載し、□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□処及び沿海巡哨の官□□□□□放行し、留難して因って遅□□□得しむる毋れ。□□執照は須らく出給に至るべき者なり。
今開す
□使一員 毛如徳
□□一員
馬散路 原寧久
□□□□ 鄭礼 林世昌
(以下、欠)
注*この文書は七〇字余りのみが残された断片である。〔四二-三〇〕のように「大明天朝」の四字を抬写した一行十四字の文書の形で、この時期の執照はほとんど同文であるため、字数により欠字は□で処理した。小葉田淳氏と安里延氏は当時見ることができた「鄭氏家譜」により、本文書を隆慶四年(一五七〇)、暹羅へ遣わした船の執照であるとしている(安里『日本南方発展史-沖縄海洋発展史-』三省堂、昭和一六年、一八四頁ほか。小葉田『増補中世南島通交貿易史の研究』臨川書店、平成五年、四四四頁)。また「林氏家譜」にも五世通事世昌の項に「隆慶四年庚午十月二十日、為収買進貢方物事、奉使為副通事、随正使毛如徳・通事鄭礼、前往暹羅国」とある(『家譜(二)』九二一頁)。
アユタヤは一五六九年にビルマのバインナウン王の率いる遠征軍の攻撃をうけて首都を奪取され、以後一五年間にわたってビルマの属国となった。隆慶四年(一五七〇)は琉球の暹羅に対する最後の派船であろう。
琉球国中山王尚元、見に進□□□の為にす。
□□□国は産物稀少にして貢物を欠乏し、深く□□□。□□今、特に正使毛如徳・都□□□□□を遣わし、海船一隻に□□し、□□□□を装載し、□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□処及び沿海巡哨の官□□□□□放行し、留難して因って遅□□□得しむる毋れ。□□執照は須らく出給に至るべき者なり。
今開す
□使一員 毛如徳
□□一員
馬散路 原寧久
□□□□ 鄭礼 林世昌
(以下、欠)
注*この文書は七〇字余りのみが残された断片である。〔四二-三〇〕のように「大明天朝」の四字を抬写した一行十四字の文書の形で、この時期の執照はほとんど同文であるため、字数により欠字は□で処理した。小葉田淳氏と安里延氏は当時見ることができた「鄭氏家譜」により、本文書を隆慶四年(一五七〇)、暹羅へ遣わした船の執照であるとしている(安里『日本南方発展史-沖縄海洋発展史-』三省堂、昭和一六年、一八四頁ほか。小葉田『増補中世南島通交貿易史の研究』臨川書店、平成五年、四四四頁)。また「林氏家譜」にも五世通事世昌の項に「隆慶四年庚午十月二十日、為収買進貢方物事、奉使為副通事、随正使毛如徳・通事鄭礼、前往暹羅国」とある(『家譜(二)』九二一頁)。
アユタヤは一五六九年にビルマのバインナウン王の率いる遠征軍の攻撃をうけて首都を奪取され、以後一五年間にわたってビルマの属国となった。隆慶四年(一五七〇)は琉球の暹羅に対する最後の派船であろう。