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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
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- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
1-42-10 琉球国中山王の、栢古等を巡達等の国へ遣わす執照(一五一三、八、七)
琉球国中山王、見に進貢等の事の為にす。
切に照らすに、本国は産物稀少にして貢物を欠乏し、深く未便と為す。此の為に今、正使栢古・通事蔡樟等を遣わし、寿字号海船一隻に坐駕し、磁器等の貨を装載し、巡達等の国の出産の地面に前往して両平に蘇木・胡椒等の物を収買せしむ。回国して預め下年に大明天朝に進貢するに備う。
所拠りて今差去する人員は、別に文憑無くば誠に所在の官司の盤阻して便ならざるを恐る。王府、除外に今、玄字一百九十六号半印勘合執照を給して正使栢古等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津把隘の去処及び沿海巡哨の官軍の験実に遇わば、即便に放行し、留難して因って遅悞して便ならざるを得しむる毋れ。所有の執照は須らく出給に至るべき者なり。
今開す
正使一員 栢古
副使二員 吾剌毎 高彼比
通事二員 蔡樟 鄭昊
火長 梁瑞
管船直庫 他魯毎
梢水共に二百二十六名
正徳八年(一五一三)八月初七日
右の執照は正使栢古・通事蔡樟等に付し、此れに准ぜしむ
進貢等の/事の為にす 執照
注(1)巡達 スンダ=カラパ。現在のジャカルタの場所。ジャワ島西部のヒンドゥー教の最後の王国パジャジャラン(一三三三頃-一五七九年頃)の外港で、一五一三年頃ジャワを訪れたトメ・ピレスは、スンダ王国(パジャジャラン)の六港の名をあげ、そのうちカラパ港を「最も重要で、最良の港で、取り引きがもっとも大きい所」と記している(トメ・ピレス『東方諸国記』三〇一頁)。『歴代宝案』にある巡達あての文書は本文書および〔四二-一八〕(一五一八年)の二つであるが、まさにこの時期に相当する。
スンダ地方は、ジャワ島の中部や東部と言語、文化などを異にする。パジャジャラン王国はその建国者に関する一三三三年の碑文が残るが(Coedes,G.1968.The Indianized States of Southeast Asia.edited by F.Vella,trans.by S.B.Cowing.Honolulu.p.239.)、建国の王は隣国のマジャパヒトの宰相ガジャ=マダの好計により家臣もろとも惨殺されたといわれる。パジャジャラン国はその後百年ほど隣国マジャパヒトの圧力に耐えてようやく独立を保ちつづけ、十五世紀半ばにマジャパヒトが衰退し、ジャワ島北岸に小さい港市が林立するようになって、カラパ港も胡椒の輸出で賑わった。パジャジャランの首都は内陸部のパクアン(現在のボゴール)であった。
本文書のあとまもなくの一五二二年、スンダ=カラパを訪れたポルトガル人は、パジャジャラン国と条約を結び、チルウィン河口に商館を建てることになった。その実行のためポルトガル船が五年後にまた現れたとき、スンダ=カラパはすでにジャワ島最西端のイスラム教徒の国バンタムの占領下にあり、パジャジャラン国は(一五七〇年代の末まで内陸部に命脈を保ったものの)外港を失っていた(Hall,D.G.E.1981.A History of South-East Asia.4th ed.New York,pp.232,301-302.)。
(2)梁瑞 久米村呉江梁氏(亀嶋家)(『家譜(二)』七五七頁)。
琉球国中山王、見に進貢等の事の為にす。
切に照らすに、本国は産物稀少にして貢物を欠乏し、深く未便と為す。此の為に今、正使栢古・通事蔡樟等を遣わし、寿字号海船一隻に坐駕し、磁器等の貨を装載し、巡達等の国の出産の地面に前往して両平に蘇木・胡椒等の物を収買せしむ。回国して預め下年に大明天朝に進貢するに備う。
所拠りて今差去する人員は、別に文憑無くば誠に所在の官司の盤阻して便ならざるを恐る。王府、除外に今、玄字一百九十六号半印勘合執照を給して正使栢古等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津把隘の去処及び沿海巡哨の官軍の験実に遇わば、即便に放行し、留難して因って遅悞して便ならざるを得しむる毋れ。所有の執照は須らく出給に至るべき者なり。
今開す
正使一員 栢古
副使二員 吾剌毎 高彼比
通事二員 蔡樟 鄭昊
火長 梁瑞
管船直庫 他魯毎
梢水共に二百二十六名
正徳八年(一五一三)八月初七日
右の執照は正使栢古・通事蔡樟等に付し、此れに准ぜしむ
進貢等の/事の為にす 執照
注(1)巡達 スンダ=カラパ。現在のジャカルタの場所。ジャワ島西部のヒンドゥー教の最後の王国パジャジャラン(一三三三頃-一五七九年頃)の外港で、一五一三年頃ジャワを訪れたトメ・ピレスは、スンダ王国(パジャジャラン)の六港の名をあげ、そのうちカラパ港を「最も重要で、最良の港で、取り引きがもっとも大きい所」と記している(トメ・ピレス『東方諸国記』三〇一頁)。『歴代宝案』にある巡達あての文書は本文書および〔四二-一八〕(一五一八年)の二つであるが、まさにこの時期に相当する。
スンダ地方は、ジャワ島の中部や東部と言語、文化などを異にする。パジャジャラン王国はその建国者に関する一三三三年の碑文が残るが(Coedes,G.1968.The Indianized States of Southeast Asia.edited by F.Vella,trans.by S.B.Cowing.Honolulu.p.239.)、建国の王は隣国のマジャパヒトの宰相ガジャ=マダの好計により家臣もろとも惨殺されたといわれる。パジャジャラン国はその後百年ほど隣国マジャパヒトの圧力に耐えてようやく独立を保ちつづけ、十五世紀半ばにマジャパヒトが衰退し、ジャワ島北岸に小さい港市が林立するようになって、カラパ港も胡椒の輸出で賑わった。パジャジャランの首都は内陸部のパクアン(現在のボゴール)であった。
本文書のあとまもなくの一五二二年、スンダ=カラパを訪れたポルトガル人は、パジャジャラン国と条約を結び、チルウィン河口に商館を建てることになった。その実行のためポルトガル船が五年後にまた現れたとき、スンダ=カラパはすでにジャワ島最西端のイスラム教徒の国バンタムの占領下にあり、パジャジャラン国は(一五七〇年代の末まで内陸部に命脈を保ったものの)外港を失っていた(Hall,D.G.E.1981.A History of South-East Asia.4th ed.New York,pp.232,301-302.)。
(2)梁瑞 久米村呉江梁氏(亀嶋家)(『家譜(二)』七五七頁)。