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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
1-42-05 琉球国中山王の、鄭玖等を安南国へ遣わす執照(一五〇九、一〇、九)
琉球国中山王、礼儀を奉謝する事の為にす。
今、特に正使正議大夫鄭玖・副使馬沙皆・通事鄭昊等を遣わし、咨文一道を齎捧し、及び信字号海船一隻に坐駕し、硫黄一万斤、鍍金銅結束青皮兼線穿鉄甲一付・金結束金竜靶黒漆鞘腰刀二把・金結束兼鍍金事件腰刀六把・鍍金結束螺鈿靶紅漆鞘衮刀二把・鍍金銅結束螺鈿靶黒漆鞘鎗二把・桑木弓四張・貼金竿鷹毛翎箭一百二十茎・各色嫩夏布一百匹・生鉄二千斤を装載し、安南国に赴き万寿大王殿下に進謝せしむ。
所拠りて今差去する人員は、別に文憑無くば誠に所在の官司の盤阻して便ならざるを恐る。王府、除外に今、玄字一百七十六号半印勘合執照を給して正使正議大夫鄭玖等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津把隘の去処及び沿海巡哨の官軍の験実に遇わば、即便に放行し、留難して因って遅悞して便ならざるを得しむる毋れ。所有の執照は須らく出給に至るべき者なり。
今開す
正使正議大夫一員 鄭玖
副使二員 馬沙皆 梁夔
都通事一員 鄭昊
副通事 梁俊
管船直庫・火長二名 高義・烏是
梢水共に一百三十名
正徳四年(一五〇九)十月九日
右の執照は正使正議大夫鄭玖・通事鄭昊等に付し、此れに准ぜしむ
執照
注*暹羅あての〔四二-〇四〕と、本文書とは年月日、使者等の名前が同じで船も信字号であり、半印勘合執照はそれぞれ玄字一百七十五号と玄字一百七十六号である。一隻の船に対して暹羅と安南むけの二通の執照が発行された珍しい例であろう。
(1)安南国 ベトナムの(後)黎朝(一四二八-一七八九年)。明の支配を脱して独立したベトナムでは、第五代聖宗(一四六〇-九七年)のとき最盛期を迎え、諸制度を整えたほか、一四七一年には親征により南接するチャンパの領土の大部分を奪取した。しかし十六世紀に入って帝位の承継の複雑な事情や各地に頻発する内乱があり、やがて一五二七年-三二年にいたる莫登庸の纂奪の時期となる。本文書発出の一五〇九年は八代めの威穆帝が自殺した年である。『歴代宝案』に残る安南あての文書は本文書一通のみである。文書の内容からみて、これ以前に何か事件があって(たとえば海難事故の救助など)琉球からの謝恩の派船のおりの執照ではないかと想像される。
トメ・ピレス『東方諸国記』には、当時のベトナムで珍重される商品の筆頭は硫黄である(二二九頁)とあり、本文書にある硫黄一万斤の進物は当を得ているのであるが、文中の万寿大王とは、はたしてハノイにいる威穆帝をさすのであろうか、また一五〇九年の琉球船が入った港とはどこであろうか。
ベトナムは李朝(一〇〇九-一二二四年)の昔より鎖国的政策をとり、中国人を含め諸外国人の自由な入国を許さず、特定の場所以外での貿易を禁止していた。李朝時代より黎朝前期にかけて長らくベトナムの指定貿易港であったのはハイフォンの東方の雲海島にある雲屯である(山本達郎「安南の貿易港雲屯」『東方学報』東京第八冊、一九三九年、二八七-九頁。藤原利一郎「ベトナムと明との私貿易及び華僑の問題」山本達郎編『ベトナム中国関係史」所収、一九七五年、第五章第五節)。鎖国政策は海上の非合法活動と沿海の政情不安を促した。一方、黎朝の衰退後、南部地方の発展とともに海上交通は隆盛の時期をむかえる。十六世紀後半より国際的なハブ港となったベトナム中部のホイアン(フェフォ、広南港)は有名であるが、ここは広南に阮氏が勢力を確立してのち、阮潢(一五五八-一六一二年)の積極的な貿易政策の結果、新興した港である。年代的にみて本文書の琉球船が入ったのはトンキン湾のいずれかの港と想定するのが妥当のようであるが、今後の研究が待たれる。
琉球国中山王、礼儀を奉謝する事の為にす。
今、特に正使正議大夫鄭玖・副使馬沙皆・通事鄭昊等を遣わし、咨文一道を齎捧し、及び信字号海船一隻に坐駕し、硫黄一万斤、鍍金銅結束青皮兼線穿鉄甲一付・金結束金竜靶黒漆鞘腰刀二把・金結束兼鍍金事件腰刀六把・鍍金結束螺鈿靶紅漆鞘衮刀二把・鍍金銅結束螺鈿靶黒漆鞘鎗二把・桑木弓四張・貼金竿鷹毛翎箭一百二十茎・各色嫩夏布一百匹・生鉄二千斤を装載し、安南国に赴き万寿大王殿下に進謝せしむ。
所拠りて今差去する人員は、別に文憑無くば誠に所在の官司の盤阻して便ならざるを恐る。王府、除外に今、玄字一百七十六号半印勘合執照を給して正使正議大夫鄭玖等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津把隘の去処及び沿海巡哨の官軍の験実に遇わば、即便に放行し、留難して因って遅悞して便ならざるを得しむる毋れ。所有の執照は須らく出給に至るべき者なり。
今開す
正使正議大夫一員 鄭玖
副使二員 馬沙皆 梁夔
都通事一員 鄭昊
副通事 梁俊
管船直庫・火長二名 高義・烏是
梢水共に一百三十名
正徳四年(一五〇九)十月九日
右の執照は正使正議大夫鄭玖・通事鄭昊等に付し、此れに准ぜしむ
執照
注*暹羅あての〔四二-〇四〕と、本文書とは年月日、使者等の名前が同じで船も信字号であり、半印勘合執照はそれぞれ玄字一百七十五号と玄字一百七十六号である。一隻の船に対して暹羅と安南むけの二通の執照が発行された珍しい例であろう。
(1)安南国 ベトナムの(後)黎朝(一四二八-一七八九年)。明の支配を脱して独立したベトナムでは、第五代聖宗(一四六〇-九七年)のとき最盛期を迎え、諸制度を整えたほか、一四七一年には親征により南接するチャンパの領土の大部分を奪取した。しかし十六世紀に入って帝位の承継の複雑な事情や各地に頻発する内乱があり、やがて一五二七年-三二年にいたる莫登庸の纂奪の時期となる。本文書発出の一五〇九年は八代めの威穆帝が自殺した年である。『歴代宝案』に残る安南あての文書は本文書一通のみである。文書の内容からみて、これ以前に何か事件があって(たとえば海難事故の救助など)琉球からの謝恩の派船のおりの執照ではないかと想像される。
トメ・ピレス『東方諸国記』には、当時のベトナムで珍重される商品の筆頭は硫黄である(二二九頁)とあり、本文書にある硫黄一万斤の進物は当を得ているのであるが、文中の万寿大王とは、はたしてハノイにいる威穆帝をさすのであろうか、また一五〇九年の琉球船が入った港とはどこであろうか。
ベトナムは李朝(一〇〇九-一二二四年)の昔より鎖国的政策をとり、中国人を含め諸外国人の自由な入国を許さず、特定の場所以外での貿易を禁止していた。李朝時代より黎朝前期にかけて長らくベトナムの指定貿易港であったのはハイフォンの東方の雲海島にある雲屯である(山本達郎「安南の貿易港雲屯」『東方学報』東京第八冊、一九三九年、二八七-九頁。藤原利一郎「ベトナムと明との私貿易及び華僑の問題」山本達郎編『ベトナム中国関係史」所収、一九七五年、第五章第五節)。鎖国政策は海上の非合法活動と沿海の政情不安を促した。一方、黎朝の衰退後、南部地方の発展とともに海上交通は隆盛の時期をむかえる。十六世紀後半より国際的なハブ港となったベトナム中部のホイアン(フェフォ、広南港)は有名であるが、ここは広南に阮氏が勢力を確立してのち、阮潢(一五五八-一六一二年)の積極的な貿易政策の結果、新興した港である。年代的にみて本文書の琉球船が入ったのはトンキン湾のいずれかの港と想定するのが妥当のようであるが、今後の研究が待たれる。