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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
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- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
1-40-09 琉球国中山王より爪哇国あて、南者結制等を遣わして初めて交易を請う咨(一四三〇、一〇、一八)
琉球国中山王、礼儀の事の為にす。
遠聞するに、華臣は忠にして寛仁大度なり。国を撫し民安泰にして業を楽しみ、四海を懐柔し諸国来帰するは、乃の大徳なり。久しく遣使して来賀せんと欲するも、奈んせん微国は海道を諳んずるの師を欠き、以て斯くの如く大儀を失うを致す。今、頗る水道に暁るきの人有り。聊か菲儀を備え、特に正使南者結制等を遣わし船を駕して礼物を齎送し、貴国に前詣し奉献せしめて少しく芹忱の意を伸ぶ。幸希わくは収納せよ。今、遣わす人船は買売せしむるを容さんことを。早きに及びて打発し、風迅に赶趁して回国すれば便益ならん。永く往来を通じ、以て四海一家と為さん。今、奉献の礼物の数目を将て開坐し移咨す。施行せよ。須らく咨に至るべき者なり。
今開す
金段二匹 金紗三匹
素段二十匹 腰刀五把
大青盤二十個 小青盤四百個
小青碗二千個
右、爪哇国に咨す
宣徳五年(一四三〇)十月十八日 咨
注*本文書が琉球より爪哇国あての最初の咨であることは〔四〇-二三〕および〔四〇-二六〕によって知られる。
(1)乃の大徳 琉球より爪哇あての咨には「…貴国国王大徳」〔四〇-二七〕、「貴国…聖君賢臣大徳遠聞於四海」〔四〇-三〇〕という表現があり、大徳は特にジャワ国王に呈された賛辞のようである。
(2)南者結制 南者結制の渡航については、〔三九-〇一〕総注を参照。
(3)爪哇国 ジャワのマジャパヒト朝(一二九三-一五二〇年頃)。ハヤム=ウルク王(一三五〇-八九年)の頃、長く宰相をつとめたガジャ=マダの活躍とあいまって国勢の最盛期を迎えた。宮廷詩人プラパンチャが一三六五年に王に捧げた頌詩『ナーガラクルターガマ』は、その広大な国土を記し、そこにうたわれるマジャパヒト王国の栄光は、今にいたるまでインドネシア民族の誇りと統一のシンボルといわれる。マジャパヒト国やその前のシンガサリ国など、ヒンドゥー教の国々については、十九世紀の末から今世紀の六十年代にわたって、主に西欧の研究者たちによる数々のすぐれた研究が残されている。その内容や論争については、Coedes,George.1968.The Indianized States of Southeast Asia.edited by F.Vella,trans.by Susan Brown Cowing. Honolulu,pp.239-42. Hall,D.G.E.1981. A History of South-East Asia.4thed.New York,pp.90-104.などを参照されたい。
漢文史料では十四世紀半ば頃の『島夷志略』が同国の繁栄の模様を記し、また洪武三年(一三七〇)より弘治十二年(一四九九)にいたる爪哇国の朝貢を記した『明実録』には、たとえば洪武年間の爪哇国王昔里八達剌八剌蒲(Sri BhataraPrabhu ハヤム=ウルク王の称号の一部)の朝貢や、その後十五世紀初めの爪哇国西王(Vikramavardhana)と東王(Virabumi)の争いのことなどがあり、ジャワ側の史料の伝えるところとおおよそ合致する。内乱とマラッカ国の興隆によりマジャパヒトは十五世紀より急に衰えた。女王スヒタ(一四二九-四七年)のころからジャワ側のことはほとんど分からない。『歴代宝案』に残る六件の爪哇あての文書はこの女王の時期のものである(〔四〇-〇九、二三、二六、二七、二八、及び三〇〕、一四三〇-一四四二年)。マジャパヒト王国の滅亡の時期も当時のヨーロッパ人が残した記録により推定されるのみである。
一方、『瀛涯勝覧』と『西洋番国志』には十五世紀前半の時期の爪哇の詳しい記述があり、杜板(トゥバン)、新村(グレシク)、蘇魯馬益(スラバヤ)の港やそこに僑居する多数の中国の広東および漳州人のことを記す。スラバヤの港から小船に乗り換えて七、八十里ほど(ブランタス川を)さかのぼれば章姑(Canggu)の埠頭に達し、そこから陸路で西南へ一日半の行程のところにマジャパヒトの都があるという『瀛涯勝覧』の記事は、ジャワの年代記『パララトン』(現存の形は十六世紀に成立)に記されるところに一致する。琉球船が入った港は、トゥバン、グレシク、スラバヤ、いずれの場所とも考えられるが、『歴代宝案』の文中には三度にわたる爪哇国王よりの返礼のことが記されるほか、その文章から、マジャパヒトの朝廷との何らかの直接的な交渉があった可能性がうかがえる。
琉球国中山王、礼儀の事の為にす。
遠聞するに、華臣は忠にして寛仁大度なり。国を撫し民安泰にして業を楽しみ、四海を懐柔し諸国来帰するは、乃の大徳なり。久しく遣使して来賀せんと欲するも、奈んせん微国は海道を諳んずるの師を欠き、以て斯くの如く大儀を失うを致す。今、頗る水道に暁るきの人有り。聊か菲儀を備え、特に正使南者結制等を遣わし船を駕して礼物を齎送し、貴国に前詣し奉献せしめて少しく芹忱の意を伸ぶ。幸希わくは収納せよ。今、遣わす人船は買売せしむるを容さんことを。早きに及びて打発し、風迅に赶趁して回国すれば便益ならん。永く往来を通じ、以て四海一家と為さん。今、奉献の礼物の数目を将て開坐し移咨す。施行せよ。須らく咨に至るべき者なり。
今開す
金段二匹 金紗三匹
素段二十匹 腰刀五把
大青盤二十個 小青盤四百個
小青碗二千個
右、爪哇国に咨す
宣徳五年(一四三〇)十月十八日 咨
注*本文書が琉球より爪哇国あての最初の咨であることは〔四〇-二三〕および〔四〇-二六〕によって知られる。
(1)乃の大徳 琉球より爪哇あての咨には「…貴国国王大徳」〔四〇-二七〕、「貴国…聖君賢臣大徳遠聞於四海」〔四〇-三〇〕という表現があり、大徳は特にジャワ国王に呈された賛辞のようである。
(2)南者結制 南者結制の渡航については、〔三九-〇一〕総注を参照。
(3)爪哇国 ジャワのマジャパヒト朝(一二九三-一五二〇年頃)。ハヤム=ウルク王(一三五〇-八九年)の頃、長く宰相をつとめたガジャ=マダの活躍とあいまって国勢の最盛期を迎えた。宮廷詩人プラパンチャが一三六五年に王に捧げた頌詩『ナーガラクルターガマ』は、その広大な国土を記し、そこにうたわれるマジャパヒト王国の栄光は、今にいたるまでインドネシア民族の誇りと統一のシンボルといわれる。マジャパヒト国やその前のシンガサリ国など、ヒンドゥー教の国々については、十九世紀の末から今世紀の六十年代にわたって、主に西欧の研究者たちによる数々のすぐれた研究が残されている。その内容や論争については、Coedes,George.1968.The Indianized States of Southeast Asia.edited by F.Vella,trans.by Susan Brown Cowing. Honolulu,pp.239-42. Hall,D.G.E.1981. A History of South-East Asia.4thed.New York,pp.90-104.などを参照されたい。
漢文史料では十四世紀半ば頃の『島夷志略』が同国の繁栄の模様を記し、また洪武三年(一三七〇)より弘治十二年(一四九九)にいたる爪哇国の朝貢を記した『明実録』には、たとえば洪武年間の爪哇国王昔里八達剌八剌蒲(Sri BhataraPrabhu ハヤム=ウルク王の称号の一部)の朝貢や、その後十五世紀初めの爪哇国西王(Vikramavardhana)と東王(Virabumi)の争いのことなどがあり、ジャワ側の史料の伝えるところとおおよそ合致する。内乱とマラッカ国の興隆によりマジャパヒトは十五世紀より急に衰えた。女王スヒタ(一四二九-四七年)のころからジャワ側のことはほとんど分からない。『歴代宝案』に残る六件の爪哇あての文書はこの女王の時期のものである(〔四〇-〇九、二三、二六、二七、二八、及び三〇〕、一四三〇-一四四二年)。マジャパヒト王国の滅亡の時期も当時のヨーロッパ人が残した記録により推定されるのみである。
一方、『瀛涯勝覧』と『西洋番国志』には十五世紀前半の時期の爪哇の詳しい記述があり、杜板(トゥバン)、新村(グレシク)、蘇魯馬益(スラバヤ)の港やそこに僑居する多数の中国の広東および漳州人のことを記す。スラバヤの港から小船に乗り換えて七、八十里ほど(ブランタス川を)さかのぼれば章姑(Canggu)の埠頭に達し、そこから陸路で西南へ一日半の行程のところにマジャパヒトの都があるという『瀛涯勝覧』の記事は、ジャワの年代記『パララトン』(現存の形は十六世紀に成立)に記されるところに一致する。琉球船が入った港は、トゥバン、グレシク、スラバヤ、いずれの場所とも考えられるが、『歴代宝案』の文中には三度にわたる爪哇国王よりの返礼のことが記されるほか、その文章から、マジャパヒトの朝廷との何らかの直接的な交渉があった可能性がうかがえる。