{{ryu_data.f5}}
資料詳細
- 資料ID.
- {{ryu_data.f32}}
- 資料種別
- {{ryu_data.f5}}
- 資料名
- {{ryu_data.f7}}
- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
- {{ryu_data.f30}}
- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
- {{ryu_data.f13}}年 {{ryu_data.f14}}月 {{ryu_data.f15}}日
- 曜日
- {{ryu_data.f16}}
- 差出
- {{ryu_data.f21}}
- 宛先
- {{ryu_data.f22}}
- 文書形式
- {{ryu_data.f26}}
- 書誌情報
- {{ryu_data.f27}}
- 関連サイト情報
- {{item.site}}
- 訂正履歴
- {{ryu_data.f24}}
- 備考
- {{ryu_data.f33}}
テキスト
1-40-01 琉球国中山王より暹羅国あて、磁器の官買の中止と蘇木・胡椒などの収買の許可を請う咨(一四二五、□、□)
琉球国中山王、朝貢の事の為にす。
近ごろ使者佳期巴那、通事梁復と同に告称するに拠るに、永楽十七年(一四一九)の間、差を蒙れる使者阿乃佳等、海船三隻に坐駕し、礼物を齎捧し、暹羅国に前到して奉献す。事畢りて回国し告称するに、所在の官司の、礼物短少なりと言称して、以て磁器を官買するを致し、又、禁約して本処にて蘇木を私売するを許さざるを蒙る。俱に官売するを蒙れば、其の船銭を補うを要す。切に照らすに、事は艱緊有り、深く是れ損有り。今、人員を往来せしむるに、告して施行を乞う、とあり。当に敬んで王の令旨を奉ずるを蒙るに、何ぞ早くに説わざる、惶恐之甚だし、今後、去く船は礼物に加感して奉献し、以て遠意を表せ、とありて此れを敬む外除、永楽十八年より今に至るまで礼物に加感す。遣使佳期巴那・通事梁復等、船隻に坐駕し、海洋を経渉すること動もすれば数万余里有り、風波を歴渉すること十分に艱険にして、彼に到るに至るに及び、礼物を将て交進するを除く外、所在の官司の仍お磁器を官買するを行うを蒙ること更に甚だし。因りて盤纒の欠乏を致し、深く靠損を為す。以て命を奉じて往復し難く、告して施行を乞う、とあり。
告の再三なるに拠り、此れに因りて永楽二十二年(一四二四)、船隻を停止する除外、参照するに、洪武より永楽に至る年来、曾祖及び祖王、先父王より今に至るまで逓年累ねて使者を遣わし、菲儀を齎捧し、貴国に前詣して奉献す。蓋し今、多年なり。貴国の親愛にして四海以て一家と為すを懐念するを荷蒙し、累ねて珍貺を回恵し及び遠人を寵愛するを蒙り、常に復た貿易を従容し、並びに官買の事無し。切に思うに感戴之甚だし。今、告の事理に拠り、合に貴国に咨すべし。煩為わくは、前に照らして、遠人の航海の労を矜憐し、磁器を官買するを免行し、容れて蘇木・胡椒等の貨を収号して回国せしめんことを。永く往来を通ぜしむれば遠人悦服し、異域懐柔するに庶からん。今、奉献の礼物の数目を将て後に開坐す。須らく咨に至るべき者なり。
今開す
織金段五匹 素段二十匹
硫黄三千斤小 二千五百斤正と報ず
腰刀五柄 摺紙扇三十柄
大青盤二十個 小青盤四百個
小青碗二千個
右、暹羅国に咨す
洪煕元年(一四二五) 月 日
咨
注*本文書は、『歴代宝案』における暹羅あての最初の咨であるが、文中の「自洪武永楽至年来、曾祖及祖王先父王、至今逓年遣使者…」により、琉球はこれより先、長年にわたって継続して暹羅へ派船し、貿易を行ってきたことが知られる。『高麗史』恭譲王元年八月(一三八九)には中山王察度が蘇木や胡椒などを高麗に献じた記事があり、また翌年には中国に蘇木や胡椒、乳香などを奉献しており(『明実録』洪武二十三年〈一三九〇〉正月庚寅の条)、これより先の琉球と東南アジアとの交渉、とくに蘇木を特産とする暹羅国との貿易関係がうかがわれる。一方、永楽二年(一四〇四)十月壬寅には、琉球へ通交しようとして福建へ漂着した「暹船」の記事があり、暹羅の側からの船も琉球へ来ていた。
本文書によれば、永楽十七年(一四一九)より暹羅国においては、琉球船が運んだ磁器を官が一方的に買い取るようになり、また蘇木の自由な販売を許さなくなった。琉球側は、翌十八年より礼物を増して事態の打開をはかったが、さらにひどい官買をこうむって損をし、永楽二十二年(一四二四)暹羅向けの船を停止した。翌二十三年に官買の中止を要求する本文書、及び〔四〇-〇二〕とともに船を送ったもので、〔四〇-〇三〕によれば使者は阿勃馬結制である。なお暹羅における官買は宣徳五年(一四三〇)ごろ中止された(〔四〇-一一〕参照)。
(1)使者佳期巴那…告称するに拠るに 佳期巴那と梁復が琉球国王に対して告称した内容は、以下の「永楽十七年…」より注(13)まで。この二人の使者は、永楽二十一年(一四二三)ごろ暹羅へ行ったことが本文書の内容から推察される。
(2)梁復 久米村呉江梁氏(亀嶋家)(『家譜(二)』七五三頁)。
(3)暹羅国 タイのアユタヤ朝(一三五一-一七六七年)。港市アユタヤはチャオプラヤー川の上部デルタの南端にあり、ロッブリ川やパーサック川もここで合流する。町の中心部の四周を川に囲まれたその特異な地形は十七世紀の西欧人の手になるいくつかの古地図で昔の様子を知ることができるが、今もその姿をとどめる(岩生成一『南洋日本町の研究』岩波書店、昭和四十一年、一三四-八頁)。海岸からアユタヤまで、およそ九十キロほど川をさかのぼるが、十六世紀ごろから途中にはいくつかの「関」が置かれていた事が知られている(『海語』巻一、『東西洋考』巻二)。『歴代宝案』の時期よりやや後であるが『東西洋考』の記述によれば、海口より三つの関をへてアユタヤに入るには九日間を要した。関の警備のものは船の到着を王に飛報し、また関では付近との交易が許されていたとある。
アユタヤには豊富な森林生産物があり、琉球や中国がとくに求めたのは蘇木である(後注(5)を参照)。また胡椒をはじめとする東南アジア諸地域の物資を集荷したほか、マライ半島西側のベイ(メルギ)よりテナセリム川を経由しタイ湾のクイブリに出るというルートでベンガル湾を渡ってきたインドや西アジアの品々も到来し(石井米雄「タイの中世国家像」池端雪浦編『変わる東南アジア史像』山川出版社、一九九四年、一三二頁)、文字通り東西の交易の中心地であった。
アユタヤ朝の王統表はHall,D.G.E.1981.A History of South-East Asia.4th ed.New York,pp.976-7.などを参照されたい。また、以下を参照のこと。生田滋「イェレミアス・ファン・フリート著『アユタヤ王国史』に見える王統関係記事」(『榎一雄先生還暦記念論文集』山川出版社、一九七五年、所収)、ファン・フリート著、生田滋訳「シアム王統記」および補注(『オランダ東インド会社と東南アジア』岩波書店、一九八八年、所収)、生田滋“The early history of the kingdom of Ayuthya-based on foreign sources with specialreference to the REKIDAI HOAN”(『創大アジア研究』第十五号、一九九四年)。アユタヤの王統を記述する史料は、一六四〇年のファン・フリートの記録、一六八〇年にナライ王の命令で編纂された『アユタヤ王朝年代期』の諸本、また頻繁な朝貢の記録が残る中国の『明実録』等々、系統の異なる材料に恵まれながらも、王名(称号)や続柄、即位や退位もしくは死亡の年などが一致しないところがある。ある記録では抜け落ちたか、なにかの理由で王でなかったとみなされたか、また王と称しただけの支配者であったか等々、さまざまな原因が考えられる。一方で、最近の研究の成果を紹介している前掲の石井論文は、アユタヤ(ことに初期の)は従来考えられてきたほどには強力な集権国家ではなかったかも知れないことを示唆していて意義深い。
『歴代宝案』には、一四二五年より一五七〇年にわたる五十八の暹羅国関係の文書がある(あて先や日付を欠くものを含む。当該の文書の注を参照)。全体として一四四三-六〇年の文書が『歴代宝案』には欠落しているが、その部分を除けば、暹羅国についてはほぼ継続した記録が残っているものと理解される。ことに西欧勢力が入る前の十五世紀のアユタヤの国際交易に関して、貴重な史料である。最後の文書〔四二-三八〕の発出の前年、アユタヤは隣国ビルマに占領され、以後十五年間にわたり属国となった。前期アユタヤの終りである。独立を回復してのちの十七世紀のアユタヤは、交易地として西欧や日本を含む諸国の人々を集めて賑わった。
(4)告称するに 使者阿乃佳等の告称は、「所在の官司の…」より注(8)まで。
(5)蘇木 すおう。マメ科の落葉小高木。心材と莢は赤色染料とする。蘇木は暹羅の特産であって、『瀛涯勝覧』暹羅国の条には「其蘇木、如薪之広、顔色絶勝他国出者」とあり、ここではまるで薪のようにたくさんあり、その色が他国のものより良いことを述べている。一方、中国では十五世紀ごろより胡椒とともに蘇木の大量消費がはじまった。『万暦会典』巻三九には、官員の俸給の一部として胡椒と蘇木が支給された記事がある。『歴代宝案』にみられる琉球より中国への長年にわたる大量の蘇木の搬入の記事は貴重な史料の一つで、琉球は蘇木のほとんどを暹羅で調達していたと思われる。
(6)其の船銭を補うを要す 旅の費用にみたない、という表現で貿易が赤字になったことを言っている。
(7)艱緊 苦しく行きづまること。
(8)告して施行を乞う、とあり 注(4)の告称の終り。
(9)王の令旨 琉球国王の令旨は、以下の「何ぞ…」より「以て遠意を表せ」まで。
(10)加感 意を加える。ここでは(礼物を)ふやすこと。
(11)盤纒 旅の費用。
(12)靠損 損損をする。
(13)告して施行を乞う、とあり 注(1)の告称の終り。
(14)免行 行うのをやめる。
(15)胡椒 中国では十三世紀前半より胡椒の大輸入期が始まり、十五世紀末に中国の胡椒輸入量はヨーロッパを凌駕していたらしい。この時期の東南アジア及びインドの胡椒の栽培についての詳細な研究は山田憲太郎『南海香薬譜 スパイス・ルートの研究』(一九八二年、法政大学出版局、二八二-三〇九頁)である。同じく十五世紀における中国の胡椒の大消費について指摘し、東南アジアにおける胡椒の栽培と集散地について述べているのは Reid,Anthony.1993.Southeast Asia in the Age of Commerce 1450-1680.Volume Two:Expansion and Crisis.Yale Univ.Press.New Haven & London,pp.2-13.
また、十六世紀初めごろの各地の胡椒の特徴や、交易をよく叙述して参考になる史料はトメ・ピレス『東方諸国記』の記事である(一八二、二一九、二四一、二六九、二九九頁ほか)。琉球の東南アジアに対する派船は、すべて胡椒の集荷地または輸出中継地であり、とくに琉球船がしばしば往復したアユタヤとマラッカはマライ半島、スマトラ北部、ジャワ、及び胡椒の原産地といわれるインドのマラバル地方の荷も集めた中心地であった。
(16)収号 受取りのしるし。しかしここでは収買、収購(買い付ける)の意か。
(17)硫黄三千斤小 二千五百斤正と報ず 運送中の硫黄の目減りをみこんだ表現。
(18)大青盤二十個… 青磁の大皿。琉球船が運んだ中国産の青磁については、国吉菜津子「琉球における陶磁貿易の一考察」(『南島史学』第三十八号一九九一年)を参照。
琉球国中山王、朝貢の事の為にす。
近ごろ使者佳期巴那、通事梁復と同に告称するに拠るに、永楽十七年(一四一九)の間、差を蒙れる使者阿乃佳等、海船三隻に坐駕し、礼物を齎捧し、暹羅国に前到して奉献す。事畢りて回国し告称するに、所在の官司の、礼物短少なりと言称して、以て磁器を官買するを致し、又、禁約して本処にて蘇木を私売するを許さざるを蒙る。俱に官売するを蒙れば、其の船銭を補うを要す。切に照らすに、事は艱緊有り、深く是れ損有り。今、人員を往来せしむるに、告して施行を乞う、とあり。当に敬んで王の令旨を奉ずるを蒙るに、何ぞ早くに説わざる、惶恐之甚だし、今後、去く船は礼物に加感して奉献し、以て遠意を表せ、とありて此れを敬む外除、永楽十八年より今に至るまで礼物に加感す。遣使佳期巴那・通事梁復等、船隻に坐駕し、海洋を経渉すること動もすれば数万余里有り、風波を歴渉すること十分に艱険にして、彼に到るに至るに及び、礼物を将て交進するを除く外、所在の官司の仍お磁器を官買するを行うを蒙ること更に甚だし。因りて盤纒の欠乏を致し、深く靠損を為す。以て命を奉じて往復し難く、告して施行を乞う、とあり。
告の再三なるに拠り、此れに因りて永楽二十二年(一四二四)、船隻を停止する除外、参照するに、洪武より永楽に至る年来、曾祖及び祖王、先父王より今に至るまで逓年累ねて使者を遣わし、菲儀を齎捧し、貴国に前詣して奉献す。蓋し今、多年なり。貴国の親愛にして四海以て一家と為すを懐念するを荷蒙し、累ねて珍貺を回恵し及び遠人を寵愛するを蒙り、常に復た貿易を従容し、並びに官買の事無し。切に思うに感戴之甚だし。今、告の事理に拠り、合に貴国に咨すべし。煩為わくは、前に照らして、遠人の航海の労を矜憐し、磁器を官買するを免行し、容れて蘇木・胡椒等の貨を収号して回国せしめんことを。永く往来を通ぜしむれば遠人悦服し、異域懐柔するに庶からん。今、奉献の礼物の数目を将て後に開坐す。須らく咨に至るべき者なり。
今開す
織金段五匹 素段二十匹
硫黄三千斤小 二千五百斤正と報ず
腰刀五柄 摺紙扇三十柄
大青盤二十個 小青盤四百個
小青碗二千個
右、暹羅国に咨す
洪煕元年(一四二五) 月 日
咨
注*本文書は、『歴代宝案』における暹羅あての最初の咨であるが、文中の「自洪武永楽至年来、曾祖及祖王先父王、至今逓年遣使者…」により、琉球はこれより先、長年にわたって継続して暹羅へ派船し、貿易を行ってきたことが知られる。『高麗史』恭譲王元年八月(一三八九)には中山王察度が蘇木や胡椒などを高麗に献じた記事があり、また翌年には中国に蘇木や胡椒、乳香などを奉献しており(『明実録』洪武二十三年〈一三九〇〉正月庚寅の条)、これより先の琉球と東南アジアとの交渉、とくに蘇木を特産とする暹羅国との貿易関係がうかがわれる。一方、永楽二年(一四〇四)十月壬寅には、琉球へ通交しようとして福建へ漂着した「暹船」の記事があり、暹羅の側からの船も琉球へ来ていた。
本文書によれば、永楽十七年(一四一九)より暹羅国においては、琉球船が運んだ磁器を官が一方的に買い取るようになり、また蘇木の自由な販売を許さなくなった。琉球側は、翌十八年より礼物を増して事態の打開をはかったが、さらにひどい官買をこうむって損をし、永楽二十二年(一四二四)暹羅向けの船を停止した。翌二十三年に官買の中止を要求する本文書、及び〔四〇-〇二〕とともに船を送ったもので、〔四〇-〇三〕によれば使者は阿勃馬結制である。なお暹羅における官買は宣徳五年(一四三〇)ごろ中止された(〔四〇-一一〕参照)。
(1)使者佳期巴那…告称するに拠るに 佳期巴那と梁復が琉球国王に対して告称した内容は、以下の「永楽十七年…」より注(13)まで。この二人の使者は、永楽二十一年(一四二三)ごろ暹羅へ行ったことが本文書の内容から推察される。
(2)梁復 久米村呉江梁氏(亀嶋家)(『家譜(二)』七五三頁)。
(3)暹羅国 タイのアユタヤ朝(一三五一-一七六七年)。港市アユタヤはチャオプラヤー川の上部デルタの南端にあり、ロッブリ川やパーサック川もここで合流する。町の中心部の四周を川に囲まれたその特異な地形は十七世紀の西欧人の手になるいくつかの古地図で昔の様子を知ることができるが、今もその姿をとどめる(岩生成一『南洋日本町の研究』岩波書店、昭和四十一年、一三四-八頁)。海岸からアユタヤまで、およそ九十キロほど川をさかのぼるが、十六世紀ごろから途中にはいくつかの「関」が置かれていた事が知られている(『海語』巻一、『東西洋考』巻二)。『歴代宝案』の時期よりやや後であるが『東西洋考』の記述によれば、海口より三つの関をへてアユタヤに入るには九日間を要した。関の警備のものは船の到着を王に飛報し、また関では付近との交易が許されていたとある。
アユタヤには豊富な森林生産物があり、琉球や中国がとくに求めたのは蘇木である(後注(5)を参照)。また胡椒をはじめとする東南アジア諸地域の物資を集荷したほか、マライ半島西側のベイ(メルギ)よりテナセリム川を経由しタイ湾のクイブリに出るというルートでベンガル湾を渡ってきたインドや西アジアの品々も到来し(石井米雄「タイの中世国家像」池端雪浦編『変わる東南アジア史像』山川出版社、一九九四年、一三二頁)、文字通り東西の交易の中心地であった。
アユタヤ朝の王統表はHall,D.G.E.1981.A History of South-East Asia.4th ed.New York,pp.976-7.などを参照されたい。また、以下を参照のこと。生田滋「イェレミアス・ファン・フリート著『アユタヤ王国史』に見える王統関係記事」(『榎一雄先生還暦記念論文集』山川出版社、一九七五年、所収)、ファン・フリート著、生田滋訳「シアム王統記」および補注(『オランダ東インド会社と東南アジア』岩波書店、一九八八年、所収)、生田滋“The early history of the kingdom of Ayuthya-based on foreign sources with specialreference to the REKIDAI HOAN”(『創大アジア研究』第十五号、一九九四年)。アユタヤの王統を記述する史料は、一六四〇年のファン・フリートの記録、一六八〇年にナライ王の命令で編纂された『アユタヤ王朝年代期』の諸本、また頻繁な朝貢の記録が残る中国の『明実録』等々、系統の異なる材料に恵まれながらも、王名(称号)や続柄、即位や退位もしくは死亡の年などが一致しないところがある。ある記録では抜け落ちたか、なにかの理由で王でなかったとみなされたか、また王と称しただけの支配者であったか等々、さまざまな原因が考えられる。一方で、最近の研究の成果を紹介している前掲の石井論文は、アユタヤ(ことに初期の)は従来考えられてきたほどには強力な集権国家ではなかったかも知れないことを示唆していて意義深い。
『歴代宝案』には、一四二五年より一五七〇年にわたる五十八の暹羅国関係の文書がある(あて先や日付を欠くものを含む。当該の文書の注を参照)。全体として一四四三-六〇年の文書が『歴代宝案』には欠落しているが、その部分を除けば、暹羅国についてはほぼ継続した記録が残っているものと理解される。ことに西欧勢力が入る前の十五世紀のアユタヤの国際交易に関して、貴重な史料である。最後の文書〔四二-三八〕の発出の前年、アユタヤは隣国ビルマに占領され、以後十五年間にわたり属国となった。前期アユタヤの終りである。独立を回復してのちの十七世紀のアユタヤは、交易地として西欧や日本を含む諸国の人々を集めて賑わった。
(4)告称するに 使者阿乃佳等の告称は、「所在の官司の…」より注(8)まで。
(5)蘇木 すおう。マメ科の落葉小高木。心材と莢は赤色染料とする。蘇木は暹羅の特産であって、『瀛涯勝覧』暹羅国の条には「其蘇木、如薪之広、顔色絶勝他国出者」とあり、ここではまるで薪のようにたくさんあり、その色が他国のものより良いことを述べている。一方、中国では十五世紀ごろより胡椒とともに蘇木の大量消費がはじまった。『万暦会典』巻三九には、官員の俸給の一部として胡椒と蘇木が支給された記事がある。『歴代宝案』にみられる琉球より中国への長年にわたる大量の蘇木の搬入の記事は貴重な史料の一つで、琉球は蘇木のほとんどを暹羅で調達していたと思われる。
(6)其の船銭を補うを要す 旅の費用にみたない、という表現で貿易が赤字になったことを言っている。
(7)艱緊 苦しく行きづまること。
(8)告して施行を乞う、とあり 注(4)の告称の終り。
(9)王の令旨 琉球国王の令旨は、以下の「何ぞ…」より「以て遠意を表せ」まで。
(10)加感 意を加える。ここでは(礼物を)ふやすこと。
(11)盤纒 旅の費用。
(12)靠損 損損をする。
(13)告して施行を乞う、とあり 注(1)の告称の終り。
(14)免行 行うのをやめる。
(15)胡椒 中国では十三世紀前半より胡椒の大輸入期が始まり、十五世紀末に中国の胡椒輸入量はヨーロッパを凌駕していたらしい。この時期の東南アジア及びインドの胡椒の栽培についての詳細な研究は山田憲太郎『南海香薬譜 スパイス・ルートの研究』(一九八二年、法政大学出版局、二八二-三〇九頁)である。同じく十五世紀における中国の胡椒の大消費について指摘し、東南アジアにおける胡椒の栽培と集散地について述べているのは Reid,Anthony.1993.Southeast Asia in the Age of Commerce 1450-1680.Volume Two:Expansion and Crisis.Yale Univ.Press.New Haven & London,pp.2-13.
また、十六世紀初めごろの各地の胡椒の特徴や、交易をよく叙述して参考になる史料はトメ・ピレス『東方諸国記』の記事である(一八二、二一九、二四一、二六九、二九九頁ほか)。琉球の東南アジアに対する派船は、すべて胡椒の集荷地または輸出中継地であり、とくに琉球船がしばしば往復したアユタヤとマラッカはマライ半島、スマトラ北部、ジャワ、及び胡椒の原産地といわれるインドのマラバル地方の荷も集めた中心地であった。
(16)収号 受取りのしるし。しかしここでは収買、収購(買い付ける)の意か。
(17)硫黄三千斤小 二千五百斤正と報ず 運送中の硫黄の目減りをみこんだ表現。
(18)大青盤二十個… 青磁の大皿。琉球船が運んだ中国産の青磁については、国吉菜津子「琉球における陶磁貿易の一考察」(『南島史学』第三十八号一九九一年)を参照。