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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
1-39-11 暹羅国王より琉球国王あて、火事で船を失った琉球人を帰国させる暹羅船が琉球近海で難破し、その乗員の送還をうけたことに謝し、使者を送って返礼するむねの咨(一四八〇、三、二三)
暹羅国王、謹んで琉球国王殿下に咨回す。
恭しく惟うに天を体して道を行い、善を以て民を牧すれば盛徳は孤ならず、仁親もて宝と為す。曩古より今に至るまで両国財を通ずるの美あり。邇きに至り遐きを歴て有を貿い無を易うるの交あり。常に遣使して来り、絡繹として絶えず。況に前歳、使臣澹馬巴等を差わして来到するも、不幸にして船財の殃を被るは皆是れ命なり。新たに舟航一隻を措して、専ら正使奈悶英謝替・副使奈曾謝替・通事奈栄等を差わし、方物を装載し、正副使等を伴送して貴国に回還せしむるに、舟行して将に近からんとするに、又風水に遭いて船は洋中に溺し人亡びて財散ず。近ごろ咨の来るを蒙りて方めて其の事を知る。此れ乃ち天の降せる禍なり。番衆の逃命して存する者有る或り。咸く発揮に頼りて回来するは実に憐恤と為す。使臣泰剌・通事紅錦等を差わし咨を持して厚礼するを蒙れば、数に依り収めて訖る。之を回さんとするも及ぼず、之を受くるも愧有り。今、護送の奈妠を差わし番梢三名を帯領し、咨を擎して礼を齎し、来使に随同して前来し貴国に回らしむ。伏して乞う、海涵して允納せよ。以て献芹の意を表す。伴送の来使は、望むらくは早やかに本国に回るを賜わんことを。須らく咨に至るべき者なり。
今、礼物を開す 蘇木三千斤 紅布一十匹
回奉の礼物 蘇木二万斤
右、琉球国王に咨す
成化十六年(一四八〇)三月二十三日
注*〔三九-一一〕〔三九-一二〕〔三九-一三〕〔三九-一四〕〔三九-一六〕〔三九-一七〕の各文書に記された琉球・暹羅間の往復を文書の内容から年代順に略述すれば以下のようである(なお年月日の記載のない〔三九-一四〕は〔三九-一一〕の前にあるべき文書で、成化十五年春の発信と思われる)。
成化十三年(一四七七)の冬に暹羅へ向かった正使澹馬巴等の琉球船は火災により失われた(〔三九-一四〕〔三九-一一〕〔三九-一二〕)。このため暹羅側は船一隻を工面し、正使奈悶英謝替等を遣わして澹馬巴等を琉球へ送ろうとした。しかし風の便が悪く暹羅へいったん戻り、次の冬(成化十四年)の間とどまって船を修理した。成化十五年春にこの船が出発しようとするとき、琉球から正使倪実・通事鄭珞等の船が到着したので、以上のことを知らせ、また暹羅国の正使奈悶英謝替の派遣を告げて、書簡〔三九-一四〕を倪実・鄭珞等に託した。成化十五年春に出発したこの暹羅船は琉球付近に至って遭難する。助かった者は琉球側の保護を受け、十五年冬の琉球船で使臣泰剌・通事紅錦等と共に暹羅へ戻った。成化十六年春、暹羅側は護送の奈姻および番梢三名をつけて〔三九-一一〕〔三九-一二〕〔三九-一三〕の文書とともに泰剌・紅錦等を帰国させる。奈姻等は先の暹羅船遭難の事情調査の目的も持っていたが、成化十六年冬の琉球船で使者武志馬・倪始等と共に暹羅へ戻った(〔三九-一六〕〔三九-一七〕)。成化十七年春、武志馬・倪始等が暹羅を辞して帰国するときに与えられた咨が〔三九-一六〕〔三九-一七〕である。
(1)仁親もて宝と為す 仁親はいつくしみ親しむ。『大学』に「仁親以為宝」とある。
(2)船財の殃 〔三九-一四〕によれば火災。殃はわざわい。
(3)措して 工面して。
(4)奈 暹羅側の使者や通事の名の上に付く「奈」はタイ語のナイ。アユタヤ朝の官位にともなう称号については、郡司喜一『十七世紀に於ける日暹関係』(昭和九年、外務省調査部)の大著を参照しつつ、東恩納寛惇氏が『歴代宝案』に関係する部分を考察している。それによれば、位階は上からパヤ(Pa-Ya)、オックヤー(Oc-Ya)、オックプラ(Oc-Pra)、オックルアン(Oc-Luang)、オツククーン(Oc-Coune)、オックミューン(Oc-Meuing)、オックパン(Oc-Pan)であり、この位階を持つものはオック某などと称するが、「以上の位階を有たぬ人は一様にナイ某と書く習慣で…君又は氏に相当する程度の称号である」と述べている(『東恩納寛惇全集 第三巻』昭和五十四年、第一書房、一八三-四頁。なおカタカナとローマ字表記は原文のまま)。
漢文史料にあらわれるナイの使用例は、アユタヤ朝のごく初期にさかのぼる。洪武四年(一三七一)の暹羅斛国の明への使者名に奈思俚儕剌識悉替とあるのを初めとし、『明実録』に頻出する。また『李朝実録』の太祖二年(一三九三)六月庚寅の条には「暹羅斛国、遣其臣乃張思道等二十人、来献蘇木一千斤」とあり、乃に「乃、其国官名也」と割注がある。
(5)謝替 港務官を意味するタイ語のチャオ・ターにあたるという説がある。前注の『東恩納』一八四頁、及び石井米雄「タイの中世国家像」(池端雪浦編『変わる東南アジア史像』一九九四年、山川出版社、一四五頁)を参照。十七世紀以後、アユタヤの港がヨーロッパを含む各国の船で賑わったとき、各国人別に港湾事務を担当するものがいて、チャオ・ター(chao-thaa)と呼ばれた。しかしそれより前の時代である本文書では、謝替は別の意味である可能性がある。『明実録』にある一三七一年の暹羅斛国王使者の「奈思俚儕剌識悉替」(洪武四年十二月壬午条)、またこれと同人かもしれない一三八七年の使者の「坤思利済剌試職替」(洪武二十年七月乙巳条)などの例が初めである。『歴代宝案』のこの時代に近い例としては、一四七七年の暹羅国王使者の「坤帖謝堤」(成化十三年四月辛亥条)、一四八二年の使者の「坤望群謝堤」(成化十八年七月己卯条)などがあり、本文書の例とおなじく、謝替にあたる部分は称号や名前の下につく。
(6)正副使等 正使澹馬巴、副使社(杜か)納奇、通事鄭興(〔三九-一四〕)。
(7)将に近からんとす ここでは間もなく琉球につこうという時、の意。
(8)近ごろ咨の来る 以下にある使臣泰剌・通事紅錦等がもたらした咨で、成化十五年冬の到着であろう。総注参照。
(9)逃命 逃れて命びろいをする。
(10)紅錦 生没年不詳。久米村紅氏(和宇慶家)二世(『家譜(二)』二〇一頁)。
(11)擎 ささげ持つ。
暹羅国王、謹んで琉球国王殿下に咨回す。
恭しく惟うに天を体して道を行い、善を以て民を牧すれば盛徳は孤ならず、仁親もて宝と為す。曩古より今に至るまで両国財を通ずるの美あり。邇きに至り遐きを歴て有を貿い無を易うるの交あり。常に遣使して来り、絡繹として絶えず。況に前歳、使臣澹馬巴等を差わして来到するも、不幸にして船財の殃を被るは皆是れ命なり。新たに舟航一隻を措して、専ら正使奈悶英謝替・副使奈曾謝替・通事奈栄等を差わし、方物を装載し、正副使等を伴送して貴国に回還せしむるに、舟行して将に近からんとするに、又風水に遭いて船は洋中に溺し人亡びて財散ず。近ごろ咨の来るを蒙りて方めて其の事を知る。此れ乃ち天の降せる禍なり。番衆の逃命して存する者有る或り。咸く発揮に頼りて回来するは実に憐恤と為す。使臣泰剌・通事紅錦等を差わし咨を持して厚礼するを蒙れば、数に依り収めて訖る。之を回さんとするも及ぼず、之を受くるも愧有り。今、護送の奈妠を差わし番梢三名を帯領し、咨を擎して礼を齎し、来使に随同して前来し貴国に回らしむ。伏して乞う、海涵して允納せよ。以て献芹の意を表す。伴送の来使は、望むらくは早やかに本国に回るを賜わんことを。須らく咨に至るべき者なり。
今、礼物を開す 蘇木三千斤 紅布一十匹
回奉の礼物 蘇木二万斤
右、琉球国王に咨す
成化十六年(一四八〇)三月二十三日
注*〔三九-一一〕〔三九-一二〕〔三九-一三〕〔三九-一四〕〔三九-一六〕〔三九-一七〕の各文書に記された琉球・暹羅間の往復を文書の内容から年代順に略述すれば以下のようである(なお年月日の記載のない〔三九-一四〕は〔三九-一一〕の前にあるべき文書で、成化十五年春の発信と思われる)。
成化十三年(一四七七)の冬に暹羅へ向かった正使澹馬巴等の琉球船は火災により失われた(〔三九-一四〕〔三九-一一〕〔三九-一二〕)。このため暹羅側は船一隻を工面し、正使奈悶英謝替等を遣わして澹馬巴等を琉球へ送ろうとした。しかし風の便が悪く暹羅へいったん戻り、次の冬(成化十四年)の間とどまって船を修理した。成化十五年春にこの船が出発しようとするとき、琉球から正使倪実・通事鄭珞等の船が到着したので、以上のことを知らせ、また暹羅国の正使奈悶英謝替の派遣を告げて、書簡〔三九-一四〕を倪実・鄭珞等に託した。成化十五年春に出発したこの暹羅船は琉球付近に至って遭難する。助かった者は琉球側の保護を受け、十五年冬の琉球船で使臣泰剌・通事紅錦等と共に暹羅へ戻った。成化十六年春、暹羅側は護送の奈姻および番梢三名をつけて〔三九-一一〕〔三九-一二〕〔三九-一三〕の文書とともに泰剌・紅錦等を帰国させる。奈姻等は先の暹羅船遭難の事情調査の目的も持っていたが、成化十六年冬の琉球船で使者武志馬・倪始等と共に暹羅へ戻った(〔三九-一六〕〔三九-一七〕)。成化十七年春、武志馬・倪始等が暹羅を辞して帰国するときに与えられた咨が〔三九-一六〕〔三九-一七〕である。
(1)仁親もて宝と為す 仁親はいつくしみ親しむ。『大学』に「仁親以為宝」とある。
(2)船財の殃 〔三九-一四〕によれば火災。殃はわざわい。
(3)措して 工面して。
(4)奈 暹羅側の使者や通事の名の上に付く「奈」はタイ語のナイ。アユタヤ朝の官位にともなう称号については、郡司喜一『十七世紀に於ける日暹関係』(昭和九年、外務省調査部)の大著を参照しつつ、東恩納寛惇氏が『歴代宝案』に関係する部分を考察している。それによれば、位階は上からパヤ(Pa-Ya)、オックヤー(Oc-Ya)、オックプラ(Oc-Pra)、オックルアン(Oc-Luang)、オツククーン(Oc-Coune)、オックミューン(Oc-Meuing)、オックパン(Oc-Pan)であり、この位階を持つものはオック某などと称するが、「以上の位階を有たぬ人は一様にナイ某と書く習慣で…君又は氏に相当する程度の称号である」と述べている(『東恩納寛惇全集 第三巻』昭和五十四年、第一書房、一八三-四頁。なおカタカナとローマ字表記は原文のまま)。
漢文史料にあらわれるナイの使用例は、アユタヤ朝のごく初期にさかのぼる。洪武四年(一三七一)の暹羅斛国の明への使者名に奈思俚儕剌識悉替とあるのを初めとし、『明実録』に頻出する。また『李朝実録』の太祖二年(一三九三)六月庚寅の条には「暹羅斛国、遣其臣乃張思道等二十人、来献蘇木一千斤」とあり、乃に「乃、其国官名也」と割注がある。
(5)謝替 港務官を意味するタイ語のチャオ・ターにあたるという説がある。前注の『東恩納』一八四頁、及び石井米雄「タイの中世国家像」(池端雪浦編『変わる東南アジア史像』一九九四年、山川出版社、一四五頁)を参照。十七世紀以後、アユタヤの港がヨーロッパを含む各国の船で賑わったとき、各国人別に港湾事務を担当するものがいて、チャオ・ター(chao-thaa)と呼ばれた。しかしそれより前の時代である本文書では、謝替は別の意味である可能性がある。『明実録』にある一三七一年の暹羅斛国王使者の「奈思俚儕剌識悉替」(洪武四年十二月壬午条)、またこれと同人かもしれない一三八七年の使者の「坤思利済剌試職替」(洪武二十年七月乙巳条)などの例が初めである。『歴代宝案』のこの時代に近い例としては、一四七七年の暹羅国王使者の「坤帖謝堤」(成化十三年四月辛亥条)、一四八二年の使者の「坤望群謝堤」(成化十八年七月己卯条)などがあり、本文書の例とおなじく、謝替にあたる部分は称号や名前の下につく。
(6)正副使等 正使澹馬巴、副使社(杜か)納奇、通事鄭興(〔三九-一四〕)。
(7)将に近からんとす ここでは間もなく琉球につこうという時、の意。
(8)近ごろ咨の来る 以下にある使臣泰剌・通事紅錦等がもたらした咨で、成化十五年冬の到着であろう。総注参照。
(9)逃命 逃れて命びろいをする。
(10)紅錦 生没年不詳。久米村紅氏(和宇慶家)二世(『家譜(二)』二〇一頁)。
(11)擎 ささげ持つ。