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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
1-39-01 暹羅国より琉球国中山王あて、返礼の咨(一四三〇、三、二一)
琉球国中山王、宣徳五年(一四三〇)六月内、暹羅国の咨を准く。
見に大明朝貢等の事の為にす。中つるに堪うる貨物を欠少し、深く未便と為す。特に使臣南者結制等を遣わし、海船一隻に坐駕し、磁器の方物を装載し、本国に前到して胡椒・蘇木等の貨を収買し、回国して応用せしむ。仍お礼物を備えて奉献す、とあり。
此れを准け、来便に聴従して貨物を収買し具備せしむる外、今、風信の時月に照らし、順便に打発して起程せしむるに、就ち回奉の礼物を将て開坐し移咨す。知会せよ。須らく咨に至るべき者なり。
今、礼物を将て開坐す
蘇木三千斤 祐紅布二十匹
剪絨花氈二領 西洋糸牙耳布一条
右、琉球国中山王に咨す
宣徳五年(一四三〇)三月二十一日
注*本文書は、琉球の宣徳四年の暹羅派船〔四〇-〇八〕に対する暹羅国側の回咨であり、最初の一行は後に琉球側が冒頭に付したもの。
使者の南者結制等は宣徳四年十月十日の咨をもって琉球を出発し、宣徳五年三月二十一日の暹羅国の回咨をもって帰途につき、同年六月内に琉球へ帰国したわけであるが、これは暹羅への渡航の標準的な日程である。なお南者結制等は宣徳五年十月十八日の爪哇国あての咨〔四〇-〇九〕をもって、その年のうちにまた渡航している。
(1)見に大明朝貢等の事の為にす ここから「…仍お礼物を備えて奉献す、とあり」までは琉球国王の咨の引用である。〔四〇-〇八〕と冒頭の部分が異なる。
(2)聴従 まかす、したがう。
(3)祐紅布 未詳。『万暦会典』巻一〇五には暹羅国および爪哇国からの貢物として「油紅布」、占城からの貢物に「油紅綿布」があり、あるいは同じものか。
(4)剪絨花氈 『瀛涯勝覧』忽魯謨厮(ホルムズ)の条に、その地の産物として「十様錦剪絨花単」があり「其絨起一、二分。長二丈。闊一丈。」と記され、いうどりが美しい毛足の長い織物のようであるが、あるいはこれに類する毛織物の一種か。
(5)西洋糸牙耳布 西洋布の一種か。『瀛涯勝覧』古里国(カリカット)の条に「西洋布。本国名撦黎布。出於鄰国坎巴夷等処。毎疋闊四尺五寸、長二丈五尺…」とある(坎巴夷はカリカット背後にあるコインバトールを指すか。カンバヤとする説もある)。『大明一統志』も「西洋古里国」および「忽魯謨斯国」(ホルムズ)の産物として、西洋布をあげる。カリカットはインドのマラバル海岸に位置し、インドにおける東西貿易の中心地であり、グジャラートを含む他地方の品々をも集荷して輸出したため「西洋布」は広義にインド方面産の織物と考えてよいかと思われる。『万暦会典』は暹羅国、満剌加国の貢物として西洋布を記す。西洋布の材質に関しては諸説あって特定しにくい。
琉球国中山王、宣徳五年(一四三〇)六月内、暹羅国の咨を准く。
見に大明朝貢等の事の為にす。中つるに堪うる貨物を欠少し、深く未便と為す。特に使臣南者結制等を遣わし、海船一隻に坐駕し、磁器の方物を装載し、本国に前到して胡椒・蘇木等の貨を収買し、回国して応用せしむ。仍お礼物を備えて奉献す、とあり。
此れを准け、来便に聴従して貨物を収買し具備せしむる外、今、風信の時月に照らし、順便に打発して起程せしむるに、就ち回奉の礼物を将て開坐し移咨す。知会せよ。須らく咨に至るべき者なり。
今、礼物を将て開坐す
蘇木三千斤 祐紅布二十匹
剪絨花氈二領 西洋糸牙耳布一条
右、琉球国中山王に咨す
宣徳五年(一四三〇)三月二十一日
注*本文書は、琉球の宣徳四年の暹羅派船〔四〇-〇八〕に対する暹羅国側の回咨であり、最初の一行は後に琉球側が冒頭に付したもの。
使者の南者結制等は宣徳四年十月十日の咨をもって琉球を出発し、宣徳五年三月二十一日の暹羅国の回咨をもって帰途につき、同年六月内に琉球へ帰国したわけであるが、これは暹羅への渡航の標準的な日程である。なお南者結制等は宣徳五年十月十八日の爪哇国あての咨〔四〇-〇九〕をもって、その年のうちにまた渡航している。
(1)見に大明朝貢等の事の為にす ここから「…仍お礼物を備えて奉献す、とあり」までは琉球国王の咨の引用である。〔四〇-〇八〕と冒頭の部分が異なる。
(2)聴従 まかす、したがう。
(3)祐紅布 未詳。『万暦会典』巻一〇五には暹羅国および爪哇国からの貢物として「油紅布」、占城からの貢物に「油紅綿布」があり、あるいは同じものか。
(4)剪絨花氈 『瀛涯勝覧』忽魯謨厮(ホルムズ)の条に、その地の産物として「十様錦剪絨花単」があり「其絨起一、二分。長二丈。闊一丈。」と記され、いうどりが美しい毛足の長い織物のようであるが、あるいはこれに類する毛織物の一種か。
(5)西洋糸牙耳布 西洋布の一種か。『瀛涯勝覧』古里国(カリカット)の条に「西洋布。本国名撦黎布。出於鄰国坎巴夷等処。毎疋闊四尺五寸、長二丈五尺…」とある(坎巴夷はカリカット背後にあるコインバトールを指すか。カンバヤとする説もある)。『大明一統志』も「西洋古里国」および「忽魯謨斯国」(ホルムズ)の産物として、西洋布をあげる。カリカットはインドのマラバル海岸に位置し、インドにおける東西貿易の中心地であり、グジャラートを含む他地方の品々をも集荷して輸出したため「西洋布」は広義にインド方面産の織物と考えてよいかと思われる。『万暦会典』は暹羅国、満剌加国の貢物として西洋布を記す。西洋布の材質に関しては諸説あって特定しにくい。